其之参
一時間目が終わり、狭間と涼子は国語科準備室へと歩を進めていた。
この学校には科目それぞれに準備室が設けられていて、教材研究や授業の準備などはそこで済ませられる。
場所自体も校舎の奥まった場所にあるため、生徒の目をあまり気にせず動く事ができる事は狭間にとってありがたかった。
涼子も案内ついでに先ほどの授業の総評をそこで済ませる心算のようで、狭間の隣を歩いている。
狭間の初授業は、最初の十数分を自己紹介に割いて、それから生徒たちの学力を測るための小テストモドキのプリントをやって終わっていた。
今日はこれと同じプリントをもう一つのクラスでやり、採点をしてこれからの指導計画を練るつもりである――と、涼子にはそう説明している。
実際のところ、現在狭間が手にしているプリントも、既に制作されている大まかな指導計画も、部隊のバックアップ要員が制作した物だ。あとはそれに沿って修正を加えればいいだけで、それには涼子にも助力してもらう手はずになっている。
もっとも、教師という仕事はただ授業の身を行えばいいというものではない。時には生徒の相談に乗り、また生活指導も行わねばならないだろう。幸いにして部活指導は任せられなかったが、その分雑務も担当する事にもなりそうだった。任務に全力を注げるほど身体が開くとは、到底思えなかった。
とはいえ、仕事の大半を占める授業計画を省略できるのは助かるし、何より、今の立場は自身の任務にこれ以上ないほど適当なものであると、狭間は判断していた。
その理由が、今隣を歩いている、金松涼子の存在であった。
金松涼子――補充人員の新任教師として赴任してきた狭間の指導教諭となった女性だ。資料では歳は二十五歳とある。
本来この年で指導教諭となるのは珍しいのだが、教員の総数も少ない為の苦肉の策のようだった。
生まれも育ちのこの町だそうで、大学時代はこの土地を離れていたそうだが、三年前に教師として戻って来たらしい。
現在の狭間の設定年齢は実年齢をそのまま使用していて、二十七だ。狭間の方が年上だが、そのしっかりとした言動は思わず年上として扱ってしまいそうになる。
さすがはバイタリティあふれる少年少女を相手取る女性だと、狭間は表情に出さないように感嘆する。
「どうです、クラスの子たちは」
狭間の視線に気付いたのか、涼子が問いかけてきた。狭間は苦笑を浮かべて答える。
「そうですね……元気いっぱいで、ちょっとしんどそうかな。まあ、それも織り込み済みで憧れたんだから、へこたれる気はありませんが」
「ふふ、そうですね」
狭間の現在の設定は、博士課程を優秀な成績で修了し、大学院の研究室に籍を用意されていながら教師になる夢を諦めきれずに教職に就いた、優秀ではあるがちょっと間の抜けた男というものになっている。
専門は研究職であり、教員免許こそ持っているものの殆ど素人である事も事前に話してあり、その指導を担当する涼子とは、自然と交流が深まる事を期待しての、立場の設定であった。
「でも、やっぱり思春期の子どもたちのパワーはすごいですね。正直、こちらが圧倒されそうですよ」
「ええ、同感です。ですが、だからと言って圧倒されてそのまま押し切られてしまうなど、教師には許されませんよ?」
「ええ。っと、あー……すいません。切り抜けるのに、金松先生をダシにするような真似をしてしまって……」
本当に申し訳なさそうに、狭間は言った。
涼子は僅かに頬を染めて、ぎろりと隣の男を睨もうとする。ただすぐに飛び込んできた、心底申し訳なさそうにしている狭間の様子に、涼子は怒りを吐き出すかのように細く息を吐くに留めた。
「……まあ、色々言いたい事は多々ありますが、それよりもまず、本当に変な性癖があるというわけではありませんね?」
「え、ええ、僕はいたってノーマルだと思います」
実際はまあ、ちょっとマゾっぽいところもあるのかもしれないと思ってしまうような心当たりも無いでもなかったが、狭間はおくびにも出さずに否定する。
実際、自衛隊内でも一、二を争う厳しい訓練で知られるレンジャー課程において発生した、脳内麻薬による快楽は、それを感じたいがために自身の体をいじめ抜く程度には、狭間の脳裏にこびり付いている。
加えて狭間はオタクである。仕事の関係上、簡単に恋人を作れないために二次元に逃げている部分もあるにはあったが、だからといって二次元に興奮する事も無いとは言えない。むしろ多い。
そういった事実を鑑みれば、明らかにノーマルな性癖とは言えないが、とはいえ正直に話して警戒されては元の黙阿弥と、狭間は割りきっていた。
「では、構いません。ですが、ああいった事は今後無いようにしてください。都会ではどうか知りませんが、基本的にここの生徒たちはみんな素直でいい子たちばかりです。ちょっと元気が有り余っている娘もいますが……」
頭痛をこらえるように額に手を当てながらぼやく涼子に、まあ、間違いなく響の事だろうと狭間も苦笑を浮かべた。
「ともかく、生徒たちもそういったものに多感な年頃です。際どい質問や会話はできるだけ避けるようにお願いします」
「はい」
狭間は素直にうなずいた。そして、ふと思った事を口にする。
「……参考までに、金松先生はどういうふうに避けられているのですか?」
「最初から私に対し、そういう話題を振れられないような雰囲気作りを常に心がけています。お恥ずかしながら、教育的指導もその一環で」
狭間は、ああ、と相槌をうった。
「そう言えば驚きました。ああいった事を普段からされているのですか? もしそうなら、とても僕には真似できそうもないですが」
「まさか、と言っても、信じては頂けないでしょうけれど。それに、真似してもらっても困ります。……これも、私が言っても説得力はありませんが」
実際にやっていますしね、と涼子は一つ息を吐いて続けた。
「今まで拳骨を落としたのは、響――不知火だけにです。公私を分けられていないのは私の未熟な限りなのですが、あの娘と水城瑠花もですが、彼女たちとは事情がありまして、幼少のころから殆ど姉妹同然に育ちまして……。私がここに赴任してきた当初は、絶対に学校では公私を分けるようにとお互い堅く約束をしていたのですが……その、何というか、彼女たちは少し人の話を聞かないところがありまして。それにつられて、私もついつい、子どもの頃からのやりとりの延長線上として甘えてしまい……その、そのまま、ずるずると」
何処か気恥ずかしげに言う涼子の姿に、狭間はようやくこの女性が年下であると認識できた。口には出せるはずもないが。
「僕は……あー、新任なのでまあ当然ですけど、親族を生徒として持った事が無いので上手くは言えませんが……やはりやりづらいところもありますか」
「いえ、そこまでは」
涼子は首を横に振った。
「むしろ助かっている場面もあります。先生には話しづらい事でも、親戚としての……姉としての私には話してくれますので。まあ、若干……というか大分空気の読めてない娘たちなので、当てにできない事も多いのですが」
「はは」
嫌味にならない程度に狭間が笑うと、つられて涼子も僅かに頬をほころばせた。
「彼女たちのおかげと言いますか、少々地を出し過ぎたと言いますか……私の立ち位置は少し厳しすぎる先生、というものです。まあ、下手な言動をすれば拳骨がとんでくるので、そうなるのも当然ですね。……実際には絶対にやりませんけど」
確かに涼子の醸し出す雰囲気は、狭間が学生時代に何度もぶつかった体育教師のそれとよく似ていた。レンジャー課程で散々にいじめてくれた教官にも通じる空気を出せるのは、一種の才能である。
とはいえ、それも場合によりけりだという事程度は、教職については素人同然である狭間にも理解はできた。
「私自身、そういった立ち位置は地からさほど離れていませんので、やりやすくもあります。ただ……学級運営というのは、やはり厳しいだけでできる物ではありません。とはいえ一度こういった立ち位置を作ってしまうと、緩めるのも中々難しく……まして、私の若さでは、下手に優しさを出してしまうと逆に舐められかねないところもあって」
「あー……少しわかります。僕の学生時代でも、やっぱり優しい先生は好かれましたが、少し舐められているところもありましたし……」
自分がその舐めていた生徒の筆頭であった事など棚の上に放り投げて、狭間はうんうんと頷いた。
「ええ……。なので、できれば狭間先生には、その……言い方は変ですが、飴と鞭でいう飴の部分を担っていただければありがたいと思っています。舐められてしまう可能性を一身に引き受けて頂く事になるので、大変申し訳ないのですが……」
「気にしなくていいですよ」
狭間は笑顔で言った。舐められる事と好かれる事は同義ではないが、こと教師と生徒の関係においては、近くはある。生徒たちに好かれやすい、身近と感じやすい立場になる事は、狭間にとってみても望むところだった。
「僕は新任ですし、色々と至らない点も生徒たちに見せてしまうでしょう。金松先生が厳しければ厳しいほど、そんな僕に対しての感情は好意的になると思いませんか?」
狭間が茶目っ気たっぷりにそう言うと、涼子は少しぽかんとした後、苦笑を浮かべた。
「……意外と腹黒いんですね、狭間先生」
「はは、学会って結構タヌキの集まりなんですよ。自然と鍛えられました。あまり自慢はできないんですけどね」
「ふふ」
それから他愛も無い雑談を交わしていると、やがて校舎の最奥とも言えるような場所についた。少し古ぼけた引き戸の隣には、『国語科準備室』と書かれたプレートがかかっている。
「あくまで資料室のようなものですし、大学の研究室ほど蔵書があるわけでもないですが……」
古ぼけた外観を裏切らず、年季の入ったような音を立てながら扉が開いて、狭間と涼子は準備室に入った。
準備室はそれほど広くはなかった。教室の三分の一程度の広さだ。
壁際にはロッカーと本棚があって、書籍をはじめとした様々な物が雑多におかれている。
唯一の救いは、中央に置かれている大きめの机の上に何も積まれていないということだろうか。とりあえず書類仕事程度はできそうだった。
「とりあえず、ここの資料は自由に使っていただいてかまいません。あ、あと、風が強い日は窓を開けないようにお願いします。海が近いので、潮風がきついので……」
「わかりました」
狭間は頷くと、窓を見た。海の近くの学校なだけあって、ほんのすぐ先が海岸沿いとなっている。
「お……」
そして、その先。
まるで抉り取られたかのような形状の海岸線の先に、岩の塊のような小島が、ぽつんと水平線から顔を出していた。
ネットに投稿された映像には無かった、光の柱が立ち上った島である。
「どうしました?」
「え? あ、ああ、いえ」
ぼう、と窓を見る狭間に、涼子が訝しげに声をかけた。狭間は取り繕うかのように笑いながら、ほら、と島を指差した。
「あんなところに島があるので、ちょっと目にとまったんですよ。ほら、中腹辺りに鳥居があるじゃないですか。ああいうの、大抵何かの民間伝承に関わりがあるので……ちょっと、気になりまして」
「ッ……!」
今度は涼子が固まる番だった。
何処となく裏返った声で、狭間に問いかける。
「そっ、そういえば、大学では民俗学を専攻されておられたんですよね?」
「ええ、趣味が高じて……気がつけば」
「へ、へえ、何か面白い話でもあるんですか? 私少しそういうのに興味が――」
どうやら涼子はそちらの方に話をそらしたいようで、趣味の話を持ち出してきたが、実際は狭間は別に民間伝承を趣味としているわけではなかった。
とはいえ、趣味が高じて研究職となったという設定を用いている以上、むしろここで小島に興味を持たないのは不自然でもある。
狭間は瞬時の間に行動を決めて、涼子の反応を見る方針をとった。
「無人島……かな? 民家は無いようだけど……気になるなぁ、泳げばすぐ行けそうだし、放課後見に行ってみようかな?」
「いっ!?」
狭間がそう呟くなり、涼子が素っ頓狂な声をあげる。怪訝そうな表情を張りつけた狭間が振り返ると、見るからに不自然な挙動の涼子がそこにいた。
わたわたと両腕を動かしながら、なんとか言葉を探そうと口をパクパクとしている。
「い、一応……しっ、私有地ですし! あっ、あのあたりは潮の流れが複雑なので、船でも中々近付かないんです、辞めておいた方がいいですよ!」
そうして出てきた言葉は、若干どころか随分と上ずったものだった。狭間は眉をひそめて、小首をかしげる。
「ど……どうしたんですか? 金松先生」
「なっ、何でもありません! とっ、とにかく、そのっ、あそこは危ないので行かないでください! 絶対ですよ!?」
「ちょっ、か、金松先生? お、落ちついて、ね、落ちついて……!」
涼子は焦りを隠そうともせず、狭間に詰め寄ってくる。
そして狭間はといえば、そのあまりの迫力に思わずのけぞり気味に後ずさりつつ、どうどうと涼子を落ちつけようとするがその効果は無く、涼子はさらに身を乗り出してくる。
「私は落ちついています! とにかく、危ないんです、あの場所は! いいですか、興味本位で絶対に近付かないでください!!」
「は、はい、わかりました、わかりましたから金松先生、とりあえず落ち着いて!」
そのまま窓際まで追い詰められた狭間は、なんとか首肯をして見せる。それを見て、涼子はふぅ、と息を吐き。
「わかってくれればいいのです、――へ?」
そうして、自分の今の体勢に気がついた。
日本人女性の平均を大きく超える背丈を持つ涼子の身長は、狭間と数センチ程の違いしかない。結果涼子はのけぞった狭間に覆いかぶさるような状況にあったりして、顔などはもう息のかかってしまいそうな距離である。端から見れば、涼子が狭間を押し倒しているとしか見えないような体勢だった。
「……とりあえず、離れません?」
ぼんっ、と、まるでゆでダコのように真っ赤になった涼子は一瞬の硬直の後、狭間ですら目で追うのがやっとの速度で引き戸間際まで後退した。
その進路上にあった机など、文字通り一足飛びである。
さすがは――アーチェリー界において、たった一年足らずの現役期間で全ての記録を塗り替えただけはある。
その身体能力は微塵も衰えていないようだなと、狭間は脳内で涼子の情報を書き足していく。
「すっ、すいませんっ、わ、私はっ、そのっ……!」
「あ、あはは、その……先生は僕の事を心配してくれたんですよね、ありがとうございます。すいません、こちらこそ、変な事を言ってしまって……」
「っ、とっ、とにかくっ、そうですっ、あの島にはいかないように――わっ、私は次授業があるので、これで失礼します!」
狭間がぺこりと頭を下げると、涼子はわたわたと両手を動かしながら、そのまま廊下を走って出て行った。相当混乱しているらしい。狭間は思わず本心からの苦笑を浮かべて、それを見送った。
「なんていうか……」
そして気配が完全に無くなった事を確認した狭間は、懐に手をやって、そこに収められている機械を作動する。しばしの無音――どうやら、盗聴器や隠しカメラの類はないようだった。
「……わかりやすい人だなぁ」
堅物で真面目、腹芸などはできないタイプなのだろう。自分もちょっとわざとらしい演技をしていたのだが、それに気付いたふうもなかった。
「……、あの島か」
狭間は窓から岩の塊のような島を視界に収める。
ネット上にアップされた映像では、あの島から立ち上った光の柱は映っていなかった。
おかげで彼女も油断していたのかもしれない。
もっとも、その前後の別の映像が存在し、そこから自身たちの事まで発覚しているとは想像できるはずもないだろう。
もし自分が同じ立場でも、そこまで考えがいたらないに違いない。
まあ、いずれにせよ、一度はあの島に行く必要があると狭間は判断する。とはいえ、今すぐ動くにはリスクが大きすぎた。
下手に動いてしまえば、狭間の持つ唯一のアドバンテージがついえてしまう可能性すらある。
ここは慎重になるべき場所だった。
しかしぐずぐずとしていれば、何処から横やりがとんでくるかもわからない。そのあたりも考慮しつつ、動くべき時を見計らう必要があるだろう。
「とりあえずあの島の情報と……監視、できれば人力のがいいか」
息を吐いて、パイプ椅子に腰かける。年季の入った椅子はぎしりと狭間の体重を受けてきしみをあげ、狭間の不安を煽った。
「……『S』か」
監視対象の三人のうち一人である『水城瑠花』が発した質問。まさかとは思う、思うが――
「巨大人型ロボットなんてふざけたもんがある以上、偶然では片付けられねぇよな。仮にそうだとすれば、ネットに投稿した奴の足跡をたどれない理由も、理解できる。……納得はできないがなぁ」
狭間の知る限りの『お約束』では、合体ロボットは形態が一つであることの方が稀だった。
そして多種ある形態はそれぞれが特化した能力を有するのが普通であり――ハッキング等といった電子戦に特化した形態があっても、おかしくは無い。
常識的に考えればまずあり得ない想像ではあるが、既に自身は非常識にどっぷりとつかりこんでいる事程度、狭間は冷静に理解していた。
ならばここで常識に捉われ視野を狭めるなど愚行以外の何物でもない。
「さて……どう見るべきかな」
水城瑠花の、断定口調に近かった質問――『S』の単語。それをどう取るべきか。狭間は小さく聞こえてくる波音を聞きながら、思考に埋没していった。
アドバイス、感想などいただけましたらうれしいです。