ジュラルミンと非常口8
「私は膝裏速雄を殺す」
そう彼女が言い放った瞬間、不意に強い風が吹き抜けて、はらりと宙になびいた彼女の長髪が僕の顔をちくちくと刺した。
「痛い、痛い」僕は彼女の髪を急いで振り払った。彼女の方に向き直ると、彼女の手にはジュースの空き缶ではなく、ざらりと冷たい光を帯びたバタフライナイフが握られていた。
「並行世界が統合する瞬間、あなたは膝裏のほかに御厨智子という女に会ったはず。もっとも暗くて顔は見えなかったでしょうけど」
僕が黙って頷くと、彼女は話を続けた。
「あれは私が転生した姿の一つなの。無数に犇めく並行世界の狭間、ある世界の消滅とともに空間・時間の整合性が無に帰したあと、ブラックホールのごとく誕生した異端の世界『アウターへブン』に私が転生できたのは、奇跡としかいいようがなかった・・・・・・。それは私と同じ転生能力をもつ膝裏にとっても同じことよ」
「・・・・・・ちょっと待ってくれ、つまりどういうことなんだ」
彼女は無表情のまま僕を睨みつけた。
「それを説明している最中じゃないの。黙って聞きなさい」
「ごめん・・・・・・」僕は地面に視線を落としてから、右手をのせていたベンチの手触りをそっと確かめた。
「とにかく。何の因果か私と膝裏は、同時にあの場所に送り込まれた。あの閉ざされた空間から私たち二人が脱出する方法はいくら探しても見つからず、なんとか自我の崩壊を防ぐため膝裏は探偵となり、私は彼の助手となった。終わることのないおとぎ話から抜け出す術を探し求める、たった二人の登場人物として、結局はママゴトに興じるしかなかったのよ」彼女は僕の右手にそっと掌を重ねた。
「でもそのとき、あなたが訪れた」
「因果律の混合に巻き込まれたあなたがあの世界に紛れ込んだことによって、他世界と繋がりを断絶する壁に亀裂が生じたの。私たちは探偵と助手としてもっともらしく振る舞うことで亀裂を虚偽の扉へと変化させ、あなたとともにこの統合された単一世界に抜け出すことができたわ。以前の並行世界に存在していた無数の私はすべて消滅して、私の記憶のうちに残留分子として留まっているにすぎない。もう、ここにしか私たちの世界はないのよ」彼女が指先に力を込めるのを、僕は微かに感じ取った。
「さっき言った、世界の崩壊っていうのは・・・・・・」
「私たちに残された、最期の希望が終わりを告げるということよ。それこそが、膝裏速雄の目的であり、彼の胸裏に密めく世界の顛末なの」
僕は彼女の掌を乗せた右手を動かそうとしたが、びくともしなかった。だんだん自分の手ではないように思えてくる。
「にわかには信じがたいな。どうして膝裏が世界の崩壊を望むというのさ」
「あのひとはね、自分もろとも世界がどうなろうと知ったこっちゃないの。世界の終末というものを見てみたい、それだけを望む狂人よ。・・・・・・勿論、転生を繰り返した者なら誰しも、多少なりとも厭世的になるわ。また生きるのはもうこりごり、って感じでね。・・・・・・でもね、私たちにはもう、この場所しか残されていないのよ。けっして、彼の好きにさせてはいけない」
「・・・・・・」僕は返す言葉が無かった。彼女の言葉が本当かどうかも明らかでない。しかし仮に事実だとすれば、彼女が膝裏を殺すことによって世界は崩壊を免れるのだろう。
・・・・・・。
「わかってるでしょう。あなたに私を止めることはできない。私はあいつを殺して、あなたとともに、残りの人生を生き抜くとするわ」
彼女はベンチから腰を上げると、ナイフをぱちんと折りたたみ上着のポケットに入れようと手を動かした。
その腕を、僕は掴んでいた。そのまま僕も彼女も、じっと動かずにいた。
「・・・・・・痛いんだけど」
彼女がぼそりと呟いた。
「僕がやる。僕が膝裏を殺そう」
彼女は無反応だった。対して彼女の腕を掴む僕の手は、僅かに震えていた。
恥ずかしい。
「・・・・・・馬鹿言わないでよ。わかってるの、失敗したら全部終わりなのよ。膝裏は私たちの前から姿を消して、秘密裏に計画を実行してしまう。・・・・・・あなたに全てを背負う勇気があるわけ?」
そう口早に告げて、彼女は僕のことを鼻で笑うような表情を浮かべた。しかし、その眼差しは必死だった。おそらく僕にその責務を与えまいと、訴えかけているのだろう。実際に僕を小馬鹿にしているのではない。たぶん。
「君一人で事を成せるとも限らないだろう。ましてや相手は膝裏だ。気が抜けているように見せかけて、どんな罠を張っているか知れない。僕たちの動きに感づいて、返り討ちにされる危険だってあるだろう。
・・・・・・頼む、協力させてほしい」
彼女は腕の力を緩めた。僕も手をゆっくりと離して、彼女の手からナイフを取り上げた。
「わかったわ。でも作戦は私が考えるからね」
「それじゃ、病田。明日までに報告書、完成させとけよ。何のって?・・・・・・・おまえフザケてんじゃねえぞ。二番目の案件だよ。体育の武藤が辛抱たまらず2ーBの腐痔原のケツ掘っちまったやつだよ!理事会が腐痔原んちに圧力かけて黙らせたろ。都合の良いこと報告書に書いといて、もみ消せっつってんだよ。おいわかってんのか。腑抜けたツラしやがって、お前を見てるとホント腹立つんだよ。なんなんだよお前。返事くらいしろよ。彼女が俺に頼むもんだから、お前みたいな使えないヤツをいさせてやってるんだ。少しは感謝しろよクズ。
・・・・・・このカロリーメイト、お前の?・・・・・・どっちなんだよ。はっきり言えよグズ。・・・・・・あ、そうなの。(くるっ)智子ちゃんのカロリーメイトかぁ。一つ、もらってもいいかな?えっそう、悪いなあ。小腹が空いててねぇ。じゃあもらっていくよ。何味かなー?・・・・・・ポテト味。まあ・・・・・・たまにはいいかもね、うん。君、ポテト味すきなの?そう・・・・・・。じゃあそろそろ、帰るわ・・・・・。オウ病田、わかってんだろうな、やらなきゃお前の首跳ぶからな。いや割とマジで」
バタン。部長が出て行った。
「・・・・・・あとは計画通りにやるだけだ」
僕は隣のデスクに座ってコーヒーを飲んでいる彼女に声をかけた。「ええ、そうね」彼女はそれまで眺めていた資料を閉じて引き出しに仕舞った。
「俺がロッカーのなかに隠れたら、君は予定通り、始めてくれ。膝裏のほうは君が呼んであるから、心配ないだろう。とにかく彼がやってくるまで続けてくれ。わかったね」
「私が計画した事じゃないの。あなたの方こそしっかりしてよね」
「勿論だ。・・・・・・それじゃあ、行くよ」
僕は立ち上がると彼女の肩に軽く手を触れて、それからロッカーのなかに入り、戸をきちんと閉めた。目線の高さに空気穴があるので、そこから部室の様子を見渡すことが出来る。もう夕暮れ近く、強い橙色の光が廊下側の壁までを照らしていた。そして天井には濃い影ができている。
彼女は手元のリモコンを操作して、壇上のスクリーンを下ろした。天井のプロジェクターの電源をONにしてスクリーン一面が青く染まると、彼女はリモコンの再生ボタンを押した。
画面に映ったのは二匹のパンダだった。一匹はただの可愛らしいコスプレで、タレントのローラに似ている。もう一匹は二メートルを越える巨大なパンダの着ぐるみで、下腹部に大根ほどの擬似男根を装着していた。それから着ぐるみは、ローラ(仮)のうえにのしかかった。ローラ(仮)は抵抗する素振りを見せたが、無駄だった。
スクリーンに映し出される情事を真顔で見つめたまま、彼女はスカートをたくしあげ、純白の下着の上から指でなぞり始めた。空いている方の手でシャツのボタンを上から一つずつ外してゆき、袖を途中まで脱いだ格好で肩と胸元を露出させた。彼女は両足をデスクの上に投げ出し股を広げ、下腹部に添えた指を小刻みに動かし始めた。
それはただの作業だった。彼女たちは責務をこなしているに過ぎない。スクリーンの情景も、彼女の行動も、同じ行為を絶え間なく繰り返しているだけであった。なのに僕は、その光景に見とれてしまっていた。
部室の戸が開いた。・・・・・・そこには仁王立ちする膝裏速雄の姿があった。「智子ちゃん・・・・・・これはいったい・・・・・・」
彼女は慌てて胸と下腹部を隠す動作をした。しかし股はぱっくりと広げたままだった。
「速雄くんッ・・・・・・!これは違うの!」
彼女の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
それを見た膝裏の口元に、にたりとイヤラシイ笑みが浮かんだ。
「何が違うのさ・・・・・・君はここで自慰に耽っていた。どうだい。あのいつでも冷静沈着だった智子さんが。へへへ・・・・・・ようやく羽を伸ばすことができたってわけかい。ふふふ。笑っちゃうなあ。あはあはははあははははは」
膝裏はのそりのそりと彼女に近づいていった。既にズボンのベルトに手がかけられていた。
「そろそろ僕も我慢の限界ってもんだ・・・・・・。なあ、一緒に楽しもうじゃねえかァッ!」
膝裏は下半身を露出し強引に彼女を押し倒すと、彼女の顔中を貪るようにしゃぶりついた。部屋中に卑猥な音が響きわたる。
「イヤ、離して!やめてよ!」
「正直になれってんだよ。すぐに良くなるからよぉ・・・・・・!」
膝裏はけたたましいスピードで腰を振った。まさしく猛獣のそれであった。
「あはははあはあはどんなもんだい!20cm砲の威力を思い知るがいいや!」
「いやああああん」
狂ってる・・・・・。病田は放心していた。
こんな計画を実行したのが間違いだった。こんな展開は」十分予測がついたのに・・・・・。
教室中に二人の悲鳴にも似た喘ぎ声がこだましていた。
一刻も早く、俺が終わらせなければならない。このフザケた物語を、断ち切らねばならない。
俺がロッカーの戸に手をかけたその瞬間。廊下の戸が再び開いた。
そこにはさっき帰ったはずの薬麻本部長の姿が。
「膝裏テんメエエエエエ俺の智子ちゃんに何晒してくれとんのじゃああああん」
部長は膝裏の背後から飛びかかり、その背中に抱きついたかと思うと、一瞬で膝裏の首をへし折ってしまった。
「あ」
気が付くと僕は、ロッカーを飛び出していた。彼女と部長が床にへたり込んだその傍らに、膝裏がうずくまっていた。しかし首が九十度捻れているため、顔だけは天井に向いている。
かろうじて息のある膝裏の唇がわなわなと震えた。
「なんで俺がこんな目に・・・・・・病田、お前が仕組んだのか・・・・・・」
僕は膝裏のそばに膝をついた。
「あんたの目的は世界の終焉だった。それを阻止するためには、仕方なかっただろーが・・・・・・!」僕は胸が熱くなり、目から涙がにじみ出るのを感じた。
「え・・・・・・なにそれ・・・・・・僕は学生時代に戻って、ただ女の子と突き合いたかただけなんだけど・・・・・・」
束の間の沈黙があった。
彼女のほうに振り返ると、彼女は「いっけな〜い」と言わんばかりに舌をチョロッとだしウインクを投げて寄越した。
俺はもう一度膝裏のほうを見た。すでに虫の息だった。
「あ、ちょっとやりすぎちゃったかな」
くぅ〜...
三年 山田柔道