第十章39 『一緒にやろう』
懐かしいと感じるほど、久々の『扉渡り』から受ける感覚はなかった。
元々、扉を介したこの空間転移に、空間を渡ったという実感はほとんどない。普通に部屋を出入りするのと同じように、空間の繋がりを歩幅が越えるだけだ。
だからこのとき、思わずスバルの口から吐息が漏れたのは、『扉渡り』への感慨が理由ではなく、通された部屋を見渡したことへの反応だった。
「これは……いかにも魔女が好きそうな不思議部屋だな」
部屋の壁全体にぐるりと窓を巡らせた、不思議な構造の一室だ。広い部屋で、おそらく城の最上部――窓の向こうに広がる青空と、その下を流れていく白い雲の存在が部屋の位置関係をぼんやりと教えてくれる。外の景色は、まだスバルの記憶に新しい、果てしなく落ちていく異空間ではなく、表世界の空そのものだ。
それはすなわち、ティーガの話が嘘ではなかったことの証左。
「浮遊城、クーゲルシュライバーか……空飛ぶ乗り物が手に入ると、いよいよRPGもゲーム終盤って気分になるけど、そんな気しない?」
「何言ってるのかわかんないけど、どうでもよさそう。それより、ほら」
「――スバル!」
感嘆するスバルにつれなく応じ、フェリスが正面を指差すと、部屋の奥からタタッと駆け寄ってくるのは、ドレスの裾を翻すベアトリスだ。
正面から飛びついてくる彼女を、クルシュを背負ったスバルは自分の胸で受け止める。どうにか踏みとどまり、一見して無事な様子の彼女に一安心だ。
「ベア子、無事でよかった。ホッとしたぜ」
「それはベティーの台詞かしら! あんな風にはぐれて、しかもベティーの声を無視して走ってったからめちゃめちゃ心配したのよ!」
「それは俺のせいじゃなく、敵がした悪さのせいだから……とにかく、こっちは何とか全員無事だ。お前の方は変わったことは……あったよな」
「かしら。――城を動かしたのよ」
腰に両手を当てて、頷くベアトリスがドヤ顔をする。その自慢げな様子は可愛いが、さっきまでの状況と城を動かすことの因果関係がスバル的に謎だ。
なので、空飛ぶ城へのロマンと裏腹に、その決断には疑問が多いのだが――、
「『司書』と相談し、城を動かしたのは私の判断です。我々の出入りした入口は敵に押さえられ、待ち伏せされていた恐れがありましたから」
と、ベアトリスに代わり、スバルの疑問に応じたのは部屋の中央に立つラッセルだ。
広い部屋の中央、そこには大人が数人で囲める丸い台が置かれており、その上には奇妙な黒い球体が浮遊していて、ラッセルはそれに手をかざしている。
何やらファンタジーな装置だが、どうやら彼はそこから離れられないらしく、スバルたちの方から彼の方へと歩み寄った。
「これ、台に刻まれてるのは……世界地図、か?」
「ええ、概ねそのようです。もっとも、刻まれた年代が幾分古いせいで、現在の世界図とは異なる点も多い。さほど不自由はありませんが」
覗き込んだ円台、その表面に彫り込まれたのは、凹凸で表現された世界図――ラッセルの回答通り、今よりも古い時代を描いたそれのようだ。
クーゲルシュライバー城の来歴を考えれば、おそらく四百年以上前の地図だろう。現在の世界図を持ってきて、見比べたい欲が沸々と湧いてくるが、
「それは後回しとして……ラッセルさん、待ち伏せってのは?」
「私のことは『銀狐』と。――当然の推測です。私の目にも著しく価値の落ちた転移の道と、城に入り込んでいた『愛し子』……相手を少数と見込む方が不合理だ」
「大方、手柄を焦ったヤローが抜け駆けでもかまそうとしたんじゃねえか? どこにだって足並み合わせられねえヤツはいるもんだ。まして、『愛し子』って連中はどいつもこいつも仲間意識なんてねえみてえだしよ」
ラッセルの答えに続けたラチンスが、ちらと傍らのメルティと『黒狗』を見る。
元『愛し子』なのは事実でも、それは不当な評価と二人を擁護したいところだが、メルティはともかく、『黒狗』の仲間意識が弱めなのは言い訳し難い。
「それでも、この二ヶ月で培った絆のおかげで敵を撃退できた。だろ、『黒狗』?」
「絆ぁ? オイオイ、気色悪くて胸クソ悪いことを言うなよ! たまたまの偶然奇跡的に! オレたちはムカつく相手が一緒ってだけの間柄だーろー?」
「な? この通り、うまくやれてるよ。話の通じねぇ奴が多いから」
両手の親指を下に向け、サムズダウンしてくる『黒狗』にスバルは肩をすくめる。そのスバルの解釈にラチンスは異論ありげな顔をしたが、そこで議論する意味を見出せなかったのか、「まあいい」と勝手に自己完結し、
「とにかく、それで待ち伏せを回避するために動き回って、『司書』と合流した。こいつはテメエらを探したがったが……」
「事情を説明し、対案を話し合いました。結果、待ち伏せする姿勢が崩れれば、相手も対応を変えざるを得ないだろうと考え――」
「ベティーが、母様の城を動かしたかしら」
別行動中だった面々の思考の流れが整理され、ようようスバルも納得がいく。
あとは、その結論を実行に移すための、この城の動かし方だが――、
「さっきから『銀狐』が手をかざしてる、その黒い球が関係ある感じ?」
「ええ。細かな原理は不明ですが、操縦者の意思を反映し、城が動く仕組みです。もっとも、『司書』なしでは起動方法を見つけられたかどうか」
「なるほどな。偉い偉い、お前は俺たちみんなの命の恩人だ」
「当然なのよ。……でも、傍にいられなくてひやひやしたかしら」
ちょこんとスバルの服の裾を摘まみ、そう目尻を下げるベアトリスがいじらしい。ベアトリス側も、状況の打開案として呑めても、はぐれたスバルのところに駆け付けるのを後回しにするのはかなり勇気がいったことだろう。
そのベアトリスの勇気ある決断を、無駄にしないで済んでよかった。
「あの、事情はわかりました。でも、お城を飛ばすなんて大丈夫なんですか? 目立ちすぎて、ずっと追われることになるんじゃ……」
「もちろん、その点はすでに話し合っています。『司書』、この城には――」
「『認識阻害』の効果がかかっているのよ。延々と、お空を派手派手にパレードし続けるわけじゃないかしら。ただ、勘のいい奴や、一度は城に上がった相手はその効果を抜いてくる可能性があるから過信は禁物なのよ」
「ですが、噂に上ること自体は不利益ばかりでもない。我々の存在を意識させたい相手は、敵に限りませんから」
「それは……」
そのラッセルの言葉に目を見張ると、彼はスバルに静かに顎を引いた。――目立つ城で気を引きたい相手、それは今現在連絡のつかない味方のことに相違ない。
所在のわかっているエミリアたちを除き、行方をくらましたレムやオットーたち、先んじて潜伏したロズワールたちも、今は連絡のつかない状態だ。『六枚舌』と行動するスバルたちも、はぐれた仲間たちと連絡を取り合う術がなかった。
だが、浮遊城の情報が広まれば、良くも悪くもアクションは起こしやすくなる。
「ロズワールなんかは自力で飛んでこられるし、ぴょんと乗り込んでくるかもだ」
「正直、それを期待している点は否めません。かなりの高度を維持していますが、ロズワールならば凍らずに辿り着けることでしょう」
「それにロズワールなら、多少凍ってもいい薬かしら」
「うーん、ボロクソ言われてるけど残当」
ラッセルとベアトリスと、関係の深い二人から散々な言われようをするロズワールだが、自業自得な面が否めないのでスバルもノーフォローだ。
ともあれ、城が飛んだ経緯と、飛ばしたことへの懸念はおよそ解消された。
あとは――、
「今、多少時間があるなら、何があったかの事情説明がしたいのと……ベア子、クルシュさんを休ませられる部屋あるか?」
「たぶん、荒らされてない客室があるはずなのよ。案内するかしら」
「リョーカイ。じゃあ、フェリスはこっちと一緒がいいだろうから、報告はメル……『白羊』ちゃんと『黒狗』に任せていいか? それが済んだら――」
「はい、報告は任せてください。――そのあとで、お話しましょう」
自分の胸に手を当てて、メルティが静かに、しかし覚悟を秘めた顔で深く頷く。
その彼女の丸い瞳に宿るのは、愛らしく可憐な顔立ちとは対照的な、それはそれは強く鋭い、ダイアモンドを思わせる強固な意志で――、
「――わたしが、何のために戦っているのかを」
△▼△▼△▼△
「――ファラダールという土地があります。そこが、わたしの出身地で……代々、魔眼族が暮らしている辺境の地でした」
そう、あえて淡々とした声で、メルティが身の上話を語り始める。
城の中、一番マシな客室を整え、クルシュをそこで休ませたあとのことだ。眠る彼女をフェリスに任せ、スバルたちは二番目にマシな客室を話し合いの場に構えると、そこでメルティから約束の話を聞いていた。
彼女と『黒狗』――そして、ティーガとプーカの間にある、大切な秘密の話を。
「魔眼族っていうと、ヴォラキアにちらほらいたみたいだな。特別な、加護みたいな力を使える亜人族、だっけ。メルティちゃんも?」
「はい、その認識で間違いありません。ファラダールも、ヴォラキア帝国の辺境にあった集落で、わたしも魔眼族の一人……わたしの魔眼の力は、スバルさんにはお話しましたね」
「ああ、触った相手に好感を抱かせる『人誑し』、だよな?」
こくんと、スバルの確認にメルティが真剣な顔で頷く。
『人誑し』――その字面だけだと深刻な力には聞こえないが、これまでの『六枚舌』との活動の中で、ラッセルがたびたび当てにするのを目にしてきた。実際、『愛し子』の一人に選ばれるぐらいだ。それだけの効力はやはりあるのだろう。
それを裏付けるように、スバルと手を繋ぐベアトリスが「『人誑し』……」と呟き、
「聞いたことがあるのよ。『魔女』の権能の再現を目指して造られた魔眼族の中で、最もその目的に適った『災厄の魔眼』……だったはずかしら」
「お前、いつも俺の横でプリティしてるくせに、たまにポロっと爆弾発言するな。『魔女』の権能の再現がなんだって?」
「『魔女戦争』の時代の話で、ベティーも実感があるわけじゃないのよ。ただ、当時は各地で『魔女』が乱立していて、それに対抗する措置の一個がそれだったかしら。知りたいなら今度話してあげるから、今は『白羊』……メルティの話に集中なのよ」
「クソ、約束だかんな……! メルティちゃん、話の腰折ってごめん。続けて」
「はい。でも、『司書』さんの言う通りで、わたしの力はそんな風に呼ばれていました。一族でも何百年も出ていなかった効果で、悲願だったって。……そのぐらい、恐ろしい力の自覚は、あります。それでは足りませんでしたけど」
スバルとベアトリスの前で、メルティが眉尻を下げながら自分の胸に手を当てる。
足りなかった、と強い自戒と悔恨を宿した彼女は小さく吐息をつき、
「小さい頃のわたしは、自分の力に無頓着で、そのせいで争い事を起こしてしまったり、散々でした。そのことをとても後悔して……でも、本当の後悔はそのすぐあとに」
「後悔……それがまさか、カペラに目を付けられたこと?」
「それも、あります。……でも、一番の後悔はそうではなくて」
「――――」
「……ティーガ、なんです」
一拍、躊躇いの時間を作り、それからメルティが本題へ切り込んだ。
ティーガ・ラウレオン――『神龍教会』の一員であり、波長の合う話せるスバルのマイフレンドで、そして敵である『愛し子』に与する『執行者』とされる男。
そのティーガとメルティとの間にある、只ならぬ関係とは――、
「わたしも彼も子どもだった頃です。ファラダールを、旅芸人の一座が訪ねてきました。ティーガはその一座の一員で……『人誑し』の力を上手く扱えなくて、人から遠ざけられていたわたしは、たまたまティーガと出会いました。そして……」
「……そして?」
「――『人誑し』の力で、彼に傍にいてほしいと、そう、望んでしまった」
ぎゅっと、自分の服の胸元を掴んで、メルティが罪の告白のように口にする。
重ねて、幼子だったとメルティは話した。生まれながらに途方もない力を与えられ、その抑制や正しい使い方にだって無知だった。それらが引き起こした過ち――と、そう自分に言い訳できるほど、メルティは身勝手にはなれなかったのだ。
「ティーガは家族だった一座と離れて、ファラダールに残りました。わたしは無邪気にそれを喜んで……ティーガを、この地獄に巻き込んでしまった」
「地獄、かしら。それが『色欲』の大罪司教の、『愛し子』というわけなのよ」
「――はい。ママに見つかって、連れ出されるわたしといるために……わたしの『おねだり』を叶えるために、ティーガがどんな条件を出したのか、わたしは知りません。でも、あのママに気に入られるために、彼が自分の人生をどう切り売りしたか……っ」
ただでさえ色白の肌を蒼白にして、メルティが声の最後を弱々しく震わせる。
その彼女の胸中を渦巻く後悔と慚愧が、スバルにも生々しくはっきり伝わってきた。スバルだって、自分の大切な誰か――エミリアやレム、ガーフィールやペトラたちを、自分の間違いが理由で、逃げ場のない地獄に道連れにすれば後悔する。
「ベティーとオットーが考慮にいなかったかしら」
「だって、お前とオットーは地獄に巻き込む了承もらってるし……」
「わかっているみたいで何よりなのよ。ただ、オットーと同列なのは、あとで合流したときにオットーに一言物申しておくかしら」
何やら、ベアトリスの中ではそういう決意が為されたらしい。合流後、ベアトリスに物申されたオットーからスバルが物申されそうだが、まあ、それはいい。
ともあれ、メルティの抱えるティーガへの罪悪感と、二人の繋がりはわかった。わかったのだが、わからないことがある。
「ティーガにとって、それだけメルティちゃんとの繋がりが深いことはわかった。けど、城の地下で出くわしたあいつの態度は、その説明と真逆だった。あれは……」
「――覚えて、いないんです。わたしのことを」
「――――」
「ティーガは、わたしのことを忘れてしまいました。……いいえ、ティーガだけではありません。ママも、『愛し子』も、世界中の人が、わたしを。――わたしが今、こうして『愛し子』を離れられたのは、それが理由です」
そのメルティの答えに、手を繋いだベアトリスが微かにその力を強める。その意図するところを察し、スバルもわかっていると顎を引いた。
正直、この話を聞く前から、そうではないかと勘繰る気持ちはあったのだ。
メルティの口から語られたティーガとの関係――その、長く深い繋がりからすれば、今の二人の接し方が成立する方法はそれ以外にないのではないか、と。
だが、だとしたら――、
「あの『暴食』のクソ共、俺と俺のレムとの関係を複雑骨折させただけじゃなく、メルティちゃんの純愛にもそんなミソ付けてやがんのか……!」
「スバルとレムに限った話じゃないのよ。ユリウスと、プリステラの住民と……影響を受けた人間を数え始めたらキリがないかしら」
「結局、捕まってたロイが殺された件も犯人不明だし、謎ばっかばら撒いていきやがる。メルティちゃんが『愛し子』抜けできたことだけじゃ返済には程遠いっつの」
そもそも、メルティを苦しめたカペラも大罪司教なのだから、大罪司教同士で発生したマッチポンプのようなものだ。功績も何もあった話ではない。
が、そのことに怒りを覚えるスバルを余所に、メルティは微かに頬を赤らめ、
「あ、あの、純愛というのはちょっと……」
「え? 違うの? でも、さっきのティーガとのやり取りは完全に」
地下で遭遇したメルティとティーガ、二人の攻防を回想する。
現れたティーガを見つめ、逃亡しようとする彼の前に立ちはだかり、そして惜しくも遠ざかる背に届かなかった彼女の声は、いずれも強い情愛の為せる業だ。
そう思ったスバルの問いに、メルティはしばらく「あうあう……」と唸って、
「の、ノーコメントで、お願いします……。それに、わたしには……」
「――。あのさ、これ老婆心っていうか、言っといた方がいいと思うから言っとくんだけど、もしメルティちゃんが、自分に人を好きになる資格がないとか、ティーガを大切だなんてどの口がみたいなこと思ってるなら、考えすぎだから考えなくていいよ」
「ど、どうしてわかったんですかっ!? スバルさん、エスパー……!?」
「自分で言うのもなんだが、スバルさん、他人事だと察しがいいからね」
「本当に自分で言うのもなんなのよ……」
隣から入るベアトリスの茶々を受け流し、スバルは目を白黒させるメルティの前で「おほん」と咳払い。
男女の関係において、スバルが他者にできるアドバイスなど多くはないが、それでも、目に見えてわかる不毛な葛藤は、その根幹を絶たなくてはならない。
「俺は、自分が人から愛される資格がないと思ってる女の子に含蓄が深い。なにせ、エミリアたんもレムもベア子もそうだったからな。……ベア子はちょっと亜種か? 念のために言っておくか。ベア子、愛してるぞ」
「ベティーも愛してるかしら。今は言わんでも大丈夫なのよ」
「そんな理解あるベア子から勇気をもらって続けるけど……愛される資格があるかないかなんて悩むのは不毛だよ。愛される資格は誰にだってある。例外は大罪司教だけ」
「スバルさん……」
「さっきも言ったけど、俺はメルティちゃんには絆されないぜ。だから、俺がメルティちゃんをビジュいいなとか、声可愛いなとか思うのは『人誑し』の力と無関係だ」
「ほ、本当にですか? 誑されてませんか!?」
「誑されてない誑されてない。ビジュいいな、延々見てられるななんて、俺はフェリスにだって思ってるぜ。言ったらすげぇ嫌な顔されそうだから言わないけど。ベア子、お前もすげぇ可愛いな。永遠に見てられるわ」
「ベティーの魅力の為せる業かしら。『人誑し』の力なんてないのよ」
頷くスバルと可愛く胸を張るベアトリス、その二人を代わる代わる見て、メルティは何度も目を瞬かせたあとで、ほうと息を吐いた。
それは、直前まで彼女の胸を占めていた重たいものを吐き出すものに思えて。
「お二人は、すごいですね……」
「まぁ、なかなかの試練を乗り越えてきた運命のパートナーだからね」
「かしら。歴戦のつわものなのよ」
越えてきたハードルの高さと数が違うと、スバルとベアトリスは堂々としたものだ。
無論、それでメルティの味わってきた苦境や苦悩、そういったものが軽くなるわけでも、軽んじられるわけでもない。気休めにすら、なるかどうか。
それでも、メルティは唇に微笑を湛えて、
「ちゃんと覚えておきます。――わたしにも、愛される資格があるかもってことを」
微妙に、まだ自信の足りない少女らしい答えだった。
だが、きっと彼女に本当の意味での自信を付けるのはスバルの仕事ではない。その役目を果たさなければならない男は、今は敵陣にいるのだ。
しかし、メルティとティーガの間に複雑な、でも付け入る隙のない強固な過去があることはわかったが――、
「そうなると、メルティちゃんと『黒狗』ってどういう関係? 『黒狗』はプーカって精霊とも関係あったはずだし、もののついでにここ深掘りしてもいい?」
『人誑し』にまつわるメルティの述懐が済んだのに乗じ、スバルはこれまで何となく気にしていつつも、空気を読んで聞いてこなかった部分に踏み込んだ。
――メルティと一緒に『愛し子』を抜け、『六枚舌』に合流している『黒狗』。
色々と憎まれ口を叩きつつも、彼がメルティを気にかけているのはよくわかる。そもそも、『黒狗』の口の悪さは誰に対してもなので、そうではない部分に垣間見えるメルティの特別扱いは、言うまでもなく確かなものだった。
が、そこにティーガの存在が入り込んでくると、これがなかなかややこしい。
「マイフレンドのティーガと、現状仲間の『黒狗』と、どっちの味方をすればいいのかわからねぇ。メルティちゃんって、罪な女?」
「つ、罪っ! やっぱり、わたしに愛される資格なんか……!」
「軽口かしら、真に受けるんじゃないのよ。スバルも、メルティを困らせるんじゃないかしら。悪い子なのよ」
余計なことを言ったせいで、ベアトリスからきつく叱られてしまった。しかし、大きく深呼吸したメルティは、「その」と目を伏せながら切り出し、
「……実は、『黒狗』とわたしの関係は、本当にわからないんです」
「それは……『黒狗』を、メルティちゃんが忘れてるって意味で?」
「それもそうなんですけど……『黒狗』自身も、自分のことがわからないみたいで。わたしとの関係も、その、最初から一緒にいたことしか」
「え……『黒狗』が、メルティちゃんとの関係を伏せてるんじゃなく?」
「じゃ、ないと思います。そこまで器用な人じゃ、ないと思うので……」
それは確信ではなく、信じたいという要素が多分に含まれた答えだった。だが、そのメルティの考えにはスバルも同感だ。『黒狗』は腹芸に向かない性格をしている。
しかし、それらを前提にすると、不自然な状況が浮かび上がる。
「周りに忘れられて、自分でも自分のこと忘れてて……それって」
「『名前』と『記憶』、どちらも『暴食』の権能に喰らわれた結果と一致するかしら。だけど、もしもどちらも食べられてたんだとしたら、ありえないのよ」
「ああ。……『眠り姫』状態だったレムと、同じになってないとおかしい」
メルティの証言を信じるなら、『黒狗』の立場は『暴食』に襲われ、長らく眠りについていたレムと同じ――今も、プリステラで目覚めぬままでいる人々と同様のはずだ。それなのに、『黒狗』は昏睡状態にならず、自分の意思で歩き回っている。
まさか今さら、『暴食』の権能の被害者に新たな形が見つかるというのだろうか。
「でもそうなると、『黒狗』とプーカの関係も筋が通る。つまり、あの二人は元々契約関係だが、お互いにそれを覚えてない。だからすれ違ってる……ユリウスと、イアたちの契約がほどけてなかったのと同じ事情だな?」
「それが一番納得いくかしら。……でも、だとすると不憫なのよ」
「不憫……」
「契約者に忘れられるほど、誰かを選んだ精霊にとってしんどいことはないかしら」
「ぐおおお! 鋭い痛みがゆっくりやってきやがった……! ベア子、ごめん!!」
ゆるゆると首を横に振ったベアトリスを抱き上げ、スバルは必死に頬擦りする。
ベアトリスの体感的には短かったかもしれないが、それでもひと時、スバルが『記憶』を喰われたせいで、彼女との契約を忘れたことは事実なのだ。
だが、その痛みを理解できるからこそ、スバルもまた考えを改められる。
「今、ティーガとプーカの認識はどうなってるんだ? 元々、ティーガが『愛し子』に加わったのは、そこにいたメルティちゃんのためだったんだろ? でも今、メルティちゃんはそこにいない。理由が、宙ぶらりんになったままだ」
「……わかりません。ただ、プーカは契約者を……『黒狗』を探していたんだと。だとしたら、ティーガももしかして……そう、思っていたんですけど」
「メルティちゃん……」
力なく微苦笑し、メルティが叶わなかった儚い期待を口にする。
望まぬ形で離れ離れになったティーガとの再会、メルティはそこに、万が一の希望を抱いていたのだ。だが悲しいかな、その望みは叶わなかった。
それが、城の地下で起こったすれ違いの全貌だったのだ。
「……メルティちゃんは、どうしたいんだ?」
彼女の抱える事情を受け止め、咀嚼し、理解した上で、スバルはそう問い質す。
メルティが『愛し子』を抜け、『六枚舌』に合流して、カペラの企みを潰そうと志しているのは、もちろん、自分の身の安全の確保や、計画を知るものの使命感があるだろう。だがしかし、この事情を知った今、それだけではないとスバルは思う。――否、思うのではない。それだけであってほしくないと、そう望むのだ。
ナツキ・スバルは、すでにメルティ・プリスティスのことが好きだった。
そして、気の多いナツキ・スバルの流儀は、自分の好きな人たちにはできるだけ欲張りで、幸せになってほしいというものがある。
だから――、
「メルティちゃんがしたいことがあるなら、俺は何でも手伝うぜ」
「――。本当に、わたしに誑されてないんですか? スバルさん」
「ない! 俺の心の一番はいっぱいいるから……!」
「スバルはいつも本気なのよ。……だから大変だし、だからお前も気負いすぎるんじゃないかしら」
頬擦りのために抱き上げられたまま、ベアトリスがため息まじりにそう呟く。その言葉にメルティが息を呑み、「『司書』さん……」とこぼす。
それにベアトリスは肩をすくめ、
「『司書』じゃなく、ベアトリスでいいのよ。ベティーも、『白羊』じゃなく、メルティとお前を呼ぶことにするかしら」
「ああ……なんだか、わたしの方が、お二人に誑されそうです」
「まぁ、ベア子の可愛さは魔眼級ってことだな」
「なら、スバルの目つきの悪さも魔眼級なのよ」
「それ、褒められてないよな!? ただ悪魔みたいな目つきって言われてない!?」
「あは」
褒め言葉がすれ違ったのを受け、メルティが思わず口に手を当てて笑った。それから彼女はしばらく笑いの衝動に身を任せ、やがて大きく息を吐くと、
「――スバルさん、ベアトリスさん」
「おう」
「何かしら」
キュッと、自分のお腹の前で手を重ね、背筋を伸ばしたメルティと向かい合う。その丸い瞳に宿った決意、それをひしひしと感じながら、言葉を待った。
言葉にしなくても伝わるものはある。それでも、大事なことは言葉にすべきなのだ。
大事な相手に、愛してると伝えるように、なんとしてもやり遂げなくてはならないと決意したことは、世界に訴えかけてやらなきゃならない。
だから――、
「――わたしには、どうしても取り返したい人生があるんです。その人生には、隣にいてほしい人がいる。その人を取り戻すために、力を貸してください」
「ああ、いいぜ。一緒にやろう。運命様――」
「――上等なのよ」
ぐっと、拳を突き出したスバルとベアトリスに目を見張り、それからメルティは意気込み新たな顔で頷いて、自分の両手を二人の拳とちょんと合わせた。
――それは控えめだが、揺るぎないメルティ・プリスティスの、覚悟の表明だった。




