第十章28 『今さらなんだ』
――『剣聖』。
――『青き雷光』。
――『礼賛者』。
――『狂皇子』。
それらはいずれも、この世界における最強の称号を与えられたものたちだ。
ルグニカ王国、ヴォラキア帝国、カララギ都市国家、グステコ聖王国――四大国それぞれで最も強いと称えられる存在であり、およそ人知の及ばぬ強さに到達した超越者。
ただ、周知の通り、その中にあってすら、頭一つ抜けた強さで知られるのが、当代の『剣聖』である、地上最強の存在たるラインハルト・ヴァン・アストレアだ。
過去、現在、未来を見渡して、これ以上の生命は誕生しないだろうとすら評されるラインハルトの存在は、四大国最強という枠組みにすら収まらない。
だがそれ故に、ひっそりと見過ごされる事実がある。――それは、ラインハルトという規格外の存在に隠れ、本来であれば他の三人に並び称されておかしくないだけの実力者の勇名が、ひどく過小評価されている事実だ。
史上最強の『剣聖』、その栄光の影に収まるしかなかった人物、それこそが――、
「――マーコス」
掠れ、弱々しい声で、ハインケルの唇がその男の名を呼ぶ。
長身な部類のハインケル、それより頭一つ分も上背のある大男は、子どもの頭ほどもある掌でこちらの抜剣を軽々と押さえ込んでいる。
恐ろしいのは、これがただの腕力ではないこと。抜こうとすれば押さえ、下げようとすれば押され、柄と鞘がピタリと合わさったまま、刀身は一厘も見えない。
それが、近衛騎士団の騎士団長たるマーコスと、お飾りの副団長の座に座らされていたハインケルとの、格の違いであることを示すように。
「――剣から手を放せ、ハインケル」
低く、腹の底を震わせる声が廊下に響く。
二メートルに届く体躯と、その巨体を支えるのに相応しい分厚い筋肉、鍛え上げられた肉体を銀色の全身甲冑に包んだ姿は、静謐としていても隠し切れない剣気と覇気によってより大きく感じられ、巨人よりも巨人らしいとさえ称される。
マーコス・ギルダーク――ルグニカ王国近衛騎士団の団長にして、『巌』の異名で知られた強靭な武人。
騎士団で一介の騎士だった若き頃から、あの『剣鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアをして、将来の騎士団長の座は間違いないと言わしめた男だ。
「――っ」
一瞬にして、ハインケルの全身を冷たい汗が覆い尽くした。
背中がびしょびしょになり、顔や首にも脂汗が噴き出す。冷たい汗が恐怖、脂汗が生存本能の警鐘と、自分で自分の体の器用な怯え方に感心してしまう。
「フェルト様、フィルオーレ様、この男からお離れください」
またしても、場違いな思考に支配される悪癖という愚を犯すハインケルを余所に、マーコスがちらと鋭い視線を通路の奥――階段からこちらを覗く二人に向ける。
その指示に、フィルオーレとフェルトが息を呑む気配があり、
「ま、待って、騎士団長様! ハインケル様は……」
「――黙れ!!」
「え!?」
とっさに、マーコス相手に口を開いたフィルオーレを、ハインケルの怒声が黙らせる。が、荒々しく怒り心頭を演じようとした声はひっくり返り、語尾は情けなく掠れた。
後ろを振り向く余裕はない。だが、言われたフィルオーレが赤い瞳を丸くし、凝然とこちらの背を見つめているのは目に浮かんだ。
胸は痛む。だが、必要なことだ。その口を閉ざすことは。
今ならばまだ――、
「まんまとフィルオーレ様の騎士の座に収まったかと思えば、フェルト様やエミリア様の身柄を狙い、王城に侵入か。――誰の差し金だ、『背剣者』」
感情を押し殺した声の中に、隠し切れない嫌悪と軽蔑を感じ取り、ハインケルは自嘲気味に頬を歪めた。――そう、今ならまだ、そういうことにできる。
全てはハインケルの目論見で、フィルオーレはそれに利用され、フェルトもまた、強引に連れ出されただけで、王城や『神龍教会』への叛意などないのだと。
そう言い訳が立つように、この半月、計画の用意にフィルオーレは関わらせなかった。
無論、使わないで済むならそれに越したことのない保険ではあった。しかし、その保険の適用は確約された。――マーコスと、出くわしてしまった。
たとえ、挑む機会が百回、千回、一万回あろうと、絶対に勝つことなどできないだろう相手に、見つかってしまったのだから。
「オッサン……」
怒声に黙らされたフィルオーレの横で、フェルトが小さく呟いた。
その声の調子は、彼女がハインケルの保険の意味を察した証拠だろう。本当に察しのいい娘だ。たぶん、ルグニカ王族ではない。諦めと物分かりの悪い息遣いをしているフィルオーレの方が、あのお人好し一族の一員という説得力があった。
その上で――、
「副団長の職務を放棄し、酒に溺れ、自分の不始末の責任を息子に拭かせ続けたお前が、今度は王選候補者を巻き込んで何を企む。――答えろ」
「――――」
「答えろ、ハインケル。人生で一度くらい、騎士らしさを見せてみろ」
その言葉に、カッとハインケルの視界が真っ赤に染まった。
人生で一度くらい騎士らしく――それを、騎士らしく振る舞う力に恵まれ、機会に恵まれ、勇敢さに恵まれた男に言われ、心の奥底からドロリと黒い衝動が溢れる。
知っているはずだ、マーコスは。
ハインケルが何を失い、何を投げ出し、何のためにそれをしたのか。それを知った上でなおももがき足掻くハインケルを、どうして彼に詰る資格が。
「泣き言を抜かすな、ハインケル」
「――ぁ」
「お前と同じく、苦境に立たされてもめげずに顔を上げている奴は大勢いる。彼ら以上に恵まれた立場に生まれたくせに、それすら自分の行いで台無しにした。――誰が、お前に同情するんだ」
言えない。何も。
怒鳴るでも吐き捨てるでもない平坦な声が、ハインケルの臓腑を深々と抉る。そうして臓腑を抉られたままで、ハインケルは頬の内を噛み、痛みで顔を上げた。
間近にある、マーコスの冷え切った瞳、それを真っ向から睨み、口を開く。
張った保険を適用するのに相応しい、悪辣とした一言を――、
「――ひぅ」
だが、すぼまった喉からは、言うべき「そうだ」の一言すら出なかった。
「――。お前は本当に、何も成長しないな」
失望とも落胆ともつかない、ため息のような一言だった。
しかし、その一言に続いた強大な拳骨は、それまでの静謐なやり取りなど一切合切を無視し、ハインケルの側頭部を打って、そのまま石壁へと叩き付けた。
「か」
石造りの壁がその一撃に陥没し、放射状の亀裂が床と天井へ稲妻のように走る。漏れた苦鳴は壊音に呑まれ、崩れ落ちたハインケルの頭上に石片が降り注いだ。
殴られた。ただそれだけだ。
まともに構えることすらなく、邪魔なものを振り払うような仕草の一発、それだけでハインケルの体は細い枝切れのように吹っ飛ばされた。
ヴォラキア帝国で、望まぬ形で『龍』と相対する羽目になったハインケルだったが、マーコスに感じる威圧感は、まさしく『龍』に感じたものと同じ――明らかに、土台の違う生命体と向き合ったときのそれだった。
「ハインケル様!!」
悲鳴のような声、フィルオーレの叫びが遠い。
崩れた石片の中、手をついて体を起こそうとする。だが、床に触れたはずの手が滑り、ハインケルはみっともなく瓦礫に顔面を落とした。
鼻先に激痛が走り、血が垂れる。その血が喉に入って咳き込んだところに、容赦のない靴先がハインケルの顎をぶち抜いた。
「が――ッ!?」
顔面を蹴り上げられ、ハインケルの体が真上に飛び、天井に激突する。
そのまま天井に埋まりかける体が足を掴まれ、強引に床に振り下ろされた。――否、また床から引き抜かれ、振り上げる動きで天井へ、下ろす動きで床へ。天井、床、天井、床と上下に、まるで子どもの人形遊びのように振り回される。
「や、やめ……」
「おねだりか? いつもそうだ」
血と胃液まじりの懇願が、横殴りの風を浴びる衝撃に呑まれ、叶えられる。
全身余すところなく床と天井に打ち付けられたそれが、最後にひび割れた石壁に放り投げられることで終わったのだ。
蓄積した衝撃はハインケルの理解をはるかに超え、自分の体の何が無事で、何が無事でなくなったのか到底わからない。
わからないのに――、
「話の通じない野郎だ」
「ぁ、ぎっ――!」
落ちてくるマーコスの踵が、ハインケルの右手を力ずくで踏み潰す。
硬い踵に手の甲と手首を破壊され、とっさに腕を引こうとしても、巨岩に挟まれたようにびくともしない。そのまま足を捻られ、親指以外の四本が嫌な音を立てた。
「ぎ、ぁぁぁ――ッ!」
「喚くな、聞くに堪えん」
汚い悲鳴を上げる性根を罵られながら、ハインケルは歯を剥いた。右手を踏み砕くマーコスの足首に噛みつき、それを引き剥がそうとする。無駄だった。反対の足に顔面を蹴り飛ばされ、額に深々と靴の跡を刻印される。
「いい加減に諦めろ」
圧倒的な力の差を見せつけるマーコスが、投げやりにそう言い捨てる。
諦めろ、なんて馬鹿な話だ。こっちはとっくのとうに戦意は四散している。そもそも、戦意なんて大層なもの、嫌々この話に協力した時点から一片もなかった。
そうだ、そうだとも、そうだろうとも。
ハインケルは最初から、こんな計画、上手くいくわけないとわかっていたのだ。
「どうしてお前はそうなんだ」
視界が白く弾ける。
後頭部を掴まれ、床に力一杯に顔面を打ち落とされた。
「一向に反省ってもんがない」
胸倉を掴んで持ち上げられ、足の浮いたところで腹を拳が打ち抜く。
衝撃が逃げず、内臓の全部が体内で爆ぜたような苦痛の合唱を始める。
「お前はどうしたいんだ」
二発、三発、四発五発、衝撃が続く。
大合唱はそのたびに中断し、再開するたびに不細工さを増し、腹を殴られているのに、頭の中身がこぼれ落ちていくみたいに、何も考えられない。
「どうなりたいんだ、お前は」
あった。あったはずだ。何か、あった。
言いたいこととか、やるべきこととか、望みとか、捨てられないものとか、なんかそういう、何かが、あったはず、だ。はずだ。
「なあ、ハインケル・アストレア。――お前はあと何回、あと何人、あとどれだけ、他人を失望させたら、満足するんだ」
胸倉を掴んだマーコスの手が、離れる。
そのまま、床に着いた爪先で体を支えられず、前のめりに崩れ落ち、膝と額を床に打ち付けて、うつ伏せに転がるハインケルを中心に血が広がった。
容赦なく砕かれた顔面からおびただしい鼻血と吐瀉物が、何度も何度も殴られてかき混ぜられた内臓が、血便となって流れ出す。
「――――」
立てない。立てない。立て、ない。
「お願い! もうやめてちょうだい! ハインケル様を、これ以上傷付けないで!」
上からも下からも血が流れ、自分の流した血に溺れ、溺死寸前のハインケルを、少女の甲高い悲鳴が庇おうとしている。
ひどく滑稽だ。その悲鳴に、訴えに、値するものなどここには何もない。
「フィルオーレ様、あなたはこの男に利用されています」
「違うわ! そんなんじゃない……そんなんじゃないの! ハインケル様には、わたくしが自分で――」
「バカ、やめろ! オッサンの意地を台無しにすんじゃねー!」
「――っ、フェルト、でも!」
倒れ、動けないこちらの頭越しに、必死のやり取りが交わされている。
フェルトが正しい。フィルオーレが間違っている。立ちはだかる『巌』を相手に、少女たちは決して逃れることはできないだろう。
ラインハルトばかりが取り沙汰されるが、マーコスもまた、そういう存在だ。
今やこの計画は、勝利条件を満たすことが目的ではなく、どれだけ痛手を減らして相手に許しを請うか、そういう観点へ変わっているのだ。
だから、フェルトが正しくて、フィルオーレが間違っているのだ。
「もうよせ、オッサン! いい加減、死んじまうぞ!」
「ハインケル様ぁ……っ」
すべきことがわかっているフェルトと、この状況でも夢見がちな理想を捨て切れないフィルオーレの声が、どちらもハインケルを呼んでいる。
残念だが、どちらの声にも応える余力がない。まさに息も絶え絶えの虫の息で、自分の血と胃液に溺れないだけで精一杯だ。
第一、もうやめろも、殺さないでやれも、訴える相手はハインケルではなく、そのハインケルをボロ雑巾のようにするマーコスでなくては意味がない。
そのマーコスにしたって、よほど腹に据えかねたのだろう。あるいは、いよいよ我慢の限界に達したのだ。
これまでにだって、彼から軽蔑の目を向けられることはあったが、ここまで物理的にねじ伏せられたことは久しくなかった。
今日このとき、彼の目に映る、王選候補者を自分の企みに使用しようと連れ回すハインケルの姿は、悪辣で都合がよかったのだ。ようやく日頃の――否、長年の溜まりに溜まった怒りを、こうして正当に叩き付けられる。
だから、もはや無抵抗で、何もできないハインケルを、こうも執拗に――、
「――今さらなんだ、馬鹿野郎が」
舌打ちと共に、マーコスが踏み込んだ。
拳がくる。そう意識が拾った瞬間、迫る拳風に横面を殴られ、頬骨を砕かれながら体が半回転、またしても廊下の壁に、今度は反対のそれに激突する。
埋まった体、その襟首を掴まれ、後ろに引き倒される背中を膝に突き上げられた。背骨と腰骨、肋骨に至るまでの骨が軋み砕ける音を立て、盛大に血を吐く。
「お、あぁ――ッ」
血をこぼしながら振り回した腕、その手首を取られ、ピンと伸びた肘に外側からの衝撃が入り、へし折られた腕から、皮と肉を突き破った白い骨が覗いた。
「う、ぁ……ごっ」
上がる苦鳴に備えて開いた口に、マーコスの手が突っ込まれる。
そのまま強引に口の中で拳を広げられ、硬い音と共にハインケルの顎が外れた。奥歯も何本も折られ、側頭部と後頭部を、拳の鉄槌が、肘が、何度も何度も打ち付ける。
「――っ」
霞んでいた視界の半分が真っ暗になる。目が潰れたのかもしれない。
鼻はひしゃげ、口の中はめちゃくちゃで、腕は折られ、内臓は爆ぜ、血に濡れていないところがない。
執拗だった。容赦がないとか無慈悲とか、そんな言葉で語れるものではない。
ただ殺すよりも、ただ嬲るよりも、もっと残酷で、もっと目を背けたくなる行為――怒りに我を忘れたのか、マーコスは。ここまで一方的に、叩きのめした相手の死体蹴りを続けるような、そんな精神性の持ち主ではなかったはずだ。
なのに、どうして、なおも、殴り、蹴り、踏み躙り続けるのか。
もうとっくに、いや最初から、抵抗する気なんて微塵もないハインケル相手に――、
「――これだけやられても、まだ剣を抜くつもりか」
――。
――――。
――――――――。なに?
「――――」
マーコスが何を言っているのか、さっぱりわからない。
剣を抜くつもりも何も、そんな気力は一片も湧いていなかった。事実、右手は肘から折られ、手首から先は砕かれて、指が全部おかしな方向を向いている。
顔面は何度も叩かれ、潰され、視界の右側は真っ暗で何も見えない。血で溢れ返った口の中、歯の隙間からかろうじて呼吸する音は死にかけの人間のそれで、かろうじて生きているだけの男に戦意など問うまでもないだろう。
そんな半欠けの視界に、ハインケルから跳ねた血を浴びたマーコスと、その向こうで戦い――一方的な暴力を見させられる二人の少女が、片方は頬を強張らせ、もう片方は大きな瞳一杯に涙を浮かべ、祈るように胸の前で手を組んでいるのが見える。
その彼女たちの姿からも、目に余る残虐な光景であるとありあり伝わってきた。
そして――、
「――ぁ?」
微かに、鼓膜を震わせる小さな音に、喉から疑問の声が漏れた。
それはハインケルの腰元、そこにしっかりと巻いた剣帯に下がった愛剣から届いた音。静かに、冴え冴えと、抜剣される刃の、鞘走る音――。
「――――」
右腕を折られ、砕かれ、顔を潰され、穿たれ、内臓を爆ぜられ、血反吐と血便を流させられながら、それでも、守り抜いた左手が、剣を抜かせていた。
「あぁ、そうか……」
何のことはない。
やはりマーコスは、為す術なく倒れ、動けない相手に追い打ちをかけ続けるような、そんな騎士道精神に反した見下げた男などではなかった。
ハインケルが、まだ立っていただけだ。
まだ、剣を抜こうとしていただけだ。
「まだ……」
――まだ、騎士ぶりたいのか、俺は。
△▼△▼△▼△
「――――」
血で汚れた鼻笛が、真剣な空気の張り詰めた廊下に間抜けに響いている。
無言だが、無音ではない。騎士ぶっているが、騎士なんて名乗れたものではない。
それでも剣を抜いた。何のために。それらしい答えは、何もない。
ただ、あちこち壊れた体と、おぼろげな意識の彼方で、何かが聞こえる。
今、この瞬間の音ではない。
それは――、
『――ハインケル様がいるわ』
血と一緒に思考が流れ出した頭の中に蘇る、無責任な声。
何もかも失うことになると脅しつけても、自分の傍には残るものがあると言い切った、馬鹿な女、見る目のない娘の声が、頭に残っている。
『――おめでとうございます』
祝辞の声が聞こえる。
嫌味でも皮肉でもなく、その立場を、在り様を、言祝ぐ声が。
剣とは何のために抜かれるものなのか、わかった上でなお、その在り方を貫き通すことのできない不自由を強いられる声が、心に残っている。
『――めっこいーですね! ハインケルさん!』
愛しい声が聞こえる。
ただ遠く、ただ彼方に、ただただ愛おしく思える声が、魂に残っている。
頭と、心と、魂と、あと、何が揃えばいい。
「お、ぉぉ……っ!」
声にならない雄叫びと共に、とうに死に体となった理想の残骸、それに染み付いた修練の蓄積が、ハインケルの左腕を動かした。
構えも、踏み込みもあったものではない。崩れ落ちる体の重みに振り回された、剣撃などとは口が裂けても呼べないような一閃だ。
その剣閃が、マーコスの太い首に、確かに届いた。
「――――」
まさに、『巌』と称されるのに相応しい厳めしいマーコスの顔、その目が細められる。
剣閃は届いた。マーコスは剣を抜こうとも、籠手で弾こうともしなかった。ただ剣閃は、マーコスの太い首――その皮膚を覆った、灰色の岩盤に防がれていた。
丸太のように太い、鍛え上げられた首。それを覆ったのはせり上がる幾重もの岩殻であり、分厚く展開された岩の鎧が、鋼の剣撃を易々と受け止める。
火花が散る。
刃が跳ね上がり、衝撃がハインケルの左腕を抜けた。――マーコスの首を覆った岩殻には、白い線が一筋、刻まれただけだった。
「終わりだ」
剣撃を放って、無防備となったハインケルの胴体に拳が突き刺さった。
「――――」
痛みすら感じなかった。
拳が触れた瞬間、視界が一変し、世界が暗転と明転を繰り返す。それが、自分が縦回転しながら飛んでいった結果だと気付いたのは、衝撃に全身を打たれ、激突した壁にもたれ、今度こそ足を投げ出して轟沈してからだ。
ひび割れた壁に半ば埋まり、ぐったりと落ちたハインケルの手元で甲高い音、だらりと下がった左手が握る剣が、力なく床を叩いていた。
今度こそ、指も、瞼も、舌も、何も動かない。
「――――」
一歩、二歩、三歩と、近付いてくる足音が聞こえる。
ゆっくりと廊下を踏みしめ、やってくるマーコスの接近を肌に感じながら、ハインケルは刻一刻と、迫る終わりの時を正面に迎えようとしていた。
終わる。終わるのか。終わらせられるのか。
まさか、マーコスになるのか。この、恐ろしく愚かな生涯を閉じさせるのが。
それで、楽になるとは到底思えない自分の心地が、心底馬鹿馬鹿しくて――、
「……やぇろ」
駆け足でマーコスを追い抜いて、自分の前に立った細い背中にそう言った。
「いいえ、やめないわ。やめるはずがない」
両腕を広げ、その娘がハインケルを庇うように、マーコスの前に立ちはだかる。
血の気の引いた青白い顔、その頬を堪え切れなかった涙で濡らし、圧倒的な獣性すら感じるマーコスの覇気に歯の根を鳴らしながら、それでも立つ。
フィルオーレが、ボロボロのハインケルを庇い、立っていた。
「おどきください、フィルオーレ様」
「い、やよ。嫌です。そうはいきません。わたくしは、ここをどけないわ」
「その男はあなたを利用しています」
「違う! 違うのよ! これは全部、わたくしが頼んだことなの!」
静かににじり寄るマーコスの言葉に、自分の心を奮い立たせるように、フィルオーレが声を張り、そう言い返した。
待てと、やめろと、その先を言わせるなと心が急く。だが、ダメだった。
「わたくしが、エミリアとフェルトを助けるために力を貸してと、お城から連れ出す方法を考えてほしいって、そうハインケル様にお願いしたのよ」
「――――」
「ハインケル様は何度も止めたわ! 諦めるようにわたくしを説得した。王選候補者の立場も『聖女』の肩書きも、全部なくすことになるって。それでも!」
「――――」
「それでも、わたくしがお願いしたの。ハインケル様に。――わたくしの騎士に」
言い募るほどに、フィルオーレの声から震えが消えていく。
なんと単純な娘だろうか。怯える心を奮い立たせるように声を高くして、それで本当に怯えを振り払えることなどあるものか。
だが、事実として、フィルオーレは背筋を正し、涙を拭って、相手を見据えていた。
「その男は騎士じゃない。騎士の資格を自分から捨てた、『背剣者』だ」
マーコスの言う通りだ。
「いいえ、違います。この方はわたくしの騎士。誓いを立てた、本物の騎士だわ」
フィルオーレの言うことは、間違っている。
「――――」
真っ向から意見を戦わせ、フィルオーレとマーコスが睨み合う。
身長も年齢も実力も、何もかも違い、何もかもに差がある睨み合いに、しかし、先に目を伏せたのはフィルオーレではない。マーコスだった。
「そうですか」
短く、それは古い岩が雨だれに打たれ、割られるような響きだった。
そう言ったマーコスが、硬く握りしめていた拳をゆっくりと開く。それから、何かを口にしようと唇を動かしたところで――、
「――そこまでよ」
澄み切った銀鈴の声音が、荒れ果てた廊下に響いていた。
△▼△▼△▼△
「――エミリア」
そう呆然と呟いたのは、廊下の奥、声の方に振り向いたフィルオーレだった。
生憎と、瀕死のハインケルは首すら動かせない。しかし、高い靴音と、わずかに感じる冷気の波動が、現れた乱入者の正体の答え合わせをしてくれる。
やがて、ハインケルの視界の隅にも、長い銀色の髪を揺らした少女――エミリアが、閉ざされていた扉を開け、ここまでやってきたのが映り込んだ。
そしてそれは――、
「ったく、勘弁してくれよ。横抜けて扉までいくだけで、命懸けの気分だっつーの」
悪態まじりに言いながら、エミリアに並んだフェルトの功績だ。
フィルオーレがハインケルを庇いに駆け込んだのと同時に、フェルトはマーコスの意識の隙を突いて、エミリアのいる部屋の扉に飛びついたのだ。
そして彼女を連れ出し、この戦況を目の当たりにさせた。――それを、エミリアがどう思ったのかは知れないが。
「そこまでよ、マーコスさん。ハインケルさんはすごーく丈夫な体の持ち主だけど、それ以上やったら死んじゃうわ。それは絶対に見過ごせないから」
「このものが、エミリア様の御身を利用しようと目論む痴れ者でもですか?」
「もしそうでもダメ。それに、そうじゃないってこと、今、フィルオーレが一生懸命説明してくれていたわ。そうなんでしょう?」
そう言って、エミリアがフィルオーレに目配せする。それを受け、呆気に取られていたフィルオーレが我に返り、慌てて首をブンブンと縦に振った。
「ええ、ええそう! そうよ! ハインケル様は、エミリアやフェルトを利用しようとなんてしてない! そうだとしたら、黒幕はわたくしよ!」
「ややこしくなっから、そーいう言い方をすんな! とにかく、オッサンはアタシらやエミリア姉ちゃんに危害を加えようとしてたわけじゃねーってこった」
「ねーってことよ!」
エミリアとフェルト、それぞれがフィルオーレを挟むように立つと、万軍の助勢を受けたような顔になり、フィルオーレがビシッとマーコスに指を突き付ける。
実際、王選候補者が三人揃い踏みで並び立ったのだ。それも、ボロボロのハインケルを庇うように、近衛騎士団長のマーコスと相対する形で。
それは何とも――、
「――近衛騎士団長ともあろう御方が、王選候補者の三人からまとめて睨まれるだなんて、ずいぶんと将来が楽しみになる光景ね」
その声は、王選候補者三人とも、もちろんハインケルやマーコスとも違う、また新たな参入者のものだった。
立てられる靴音、それの出所はエミリアと同じ、通路の奥にあった部屋。その部屋にエミリアと一緒に閉じ込められていたのは――、
「――ラム殿」
「派手にやったようね、マーコス様。今日のために術式は書き換えたとはいえ、これだけやれば他の誰かに気取られてもおかしくないわ。正気なの?」
「抜ける手は抜いたつもりだが、この有様では言い訳のしようもない」
ゆるゆると首を横に振るマーコスに、居丈高に話しかけた桃髪のメイド――プリシラが目をかけていた娘の双子の姉、ラムが「ハッ!」と鼻を鳴らした。
そのやり取りに、「どういうこと?」と眉を顰めたのはエミリアだ。
「ええと、なんだか今の話だと、ラムとマーコスさんってすごーく仲良しみたいだけど」
「いいえ、それは誤解です、エミリア様。マーコス様とすごーく仲良しなのはラムではなく、ロズワール様でいらっしゃいます。十五年来の大親友だそうで」
「人聞きが悪いので訂正させてもらいたい。十五年来の付き合いなのは事実ですが、大親友などとされては私の名誉に関わる」
「あ、その答え、すごーくロズワールのお友達っぽいかも……」
「ま、待て待て待て! いきなり何を和んでやがんだ、オイ!」
ラムとマーコスの答えを受け、唇に指を立てたエミリアの横から、その状況のおかしさにフェルトがまともな口を突っ込んだ。
彼女はそのまま、ぐしゃぐしゃに潰れたハインケルを指差して、
「この岩ヅラ、さっきまで殺す勢いで暴れてやがったんだぞ。おかげで、オッサンはこの有様だろーが。何がどーなってやがる」
「そうね。確かめておきたいのだけど……フィルオーレ様、先ほどのお話は本当ですか? エミリア様やフェルト様を助けるため、城に忍び込んだと」
「え? ええ、そう! 二人を助けにきたの。そのための計画もしっかり練って、フェルトはうまく連れ出せて、この勢いでエミリアもってここまできて……」
「なるほど。――それはご自分でお考えに?」
「計画はハインケル様と一緒に。発案は、わたくしが自分でよ」
自分の胸に手を当て、もはや隠すことはないとばかりにフィルオーレが告白する。
恥じ入るところがないどころか、いっそ話せてスッキリしたと言わんばかりのフィルオーレの答えに、ラムが、そしてマーコスがそれぞれ眉を顰めた。
その意味深な二人の反応を前に、フィルオーレが「あの」と声を発し、
「まだ状況は呑み込めていないのだけれど……ハインケル様を、治療してあげても構わない? 誰も止めないわよね? 止められてもするのだけど」
「ええ、もちろんそうしてあげましょう。早く治して……あ、でも、ここだと治癒魔法の効きも悪いかもしれないわ。魔法が使えないようになってるから……」
「ふふ、大丈夫よ、安心して。わたくしの秘蹟は、魔法ではないのです」
言いながら、フィルオーレがハインケルのすぐ目の前にしゃがみ込む。彼女の視線を間近に感じながら、しかし、身動きできないハインケルは何も言えない。
「何も言わなくていいのよ。ハインケル様の行動が、何よりの証だったもの」
――わからない。何を、ハインケルは証明したというのか。
「――――」
わからないままでいるハインケル、その顔に、そっとフィルオーレの手が触れる。そこから柔らかく、温かな感触がじわじわと広がっていく。
確かにそれは、治癒魔法のそれとは異なる感覚。――これが『神龍教会』の秘蹟なのだとすれば、魔法と異なる成果をもたらすこれが、届かぬものに届くかもしれない。
自らの体を癒される最中にも、ハインケルはそう考えてしまう。
そんなハインケルたちを余所に――、
「で、エミリア姉ちゃんとこの辺境伯と岩ヅラが友達で、メイドと何企んでたって?」
「それが、信じられないかもしれませんが……今日、私もエミリア様とフェルト様を王城からお連れするつもりで、ここを訪れました」
「……え!? マーコスさんが、私たちを?」
「はい」と重めかしくマーコスが頷き、それを己の肘を抱いたラムが補足する。
「元々、ロズワール様から言いつけられていました。王都で何かあったなら、そのときはマーコス様を頼るようにと。必ず、力になってくださるからと……だからラムは、エミリア様と一緒に拘禁されるのを受け入れました」
「必ずとは明言していない。その時々の事情による。立場上、私が一人の王選候補者に肩入れするのも望ましくないことだ。だが、今回の場合は事情が違う」
「ってことは、アタシらに肩入れしなきゃなんねー状況だって、アンタも思ったわけだ」
「その通りです。そのために、この棟の警備を最小限の人員に減らし、可能な限り、事態の発覚を遅らせるため……」
「ラムが協力して、この階層に仕掛けられた魔法を制限する術式を書き換えました。効力の一部を、ここでの騒ぎや話し声が外に漏れないようにする術式に」
「あー、なるほどな。それで岩ヅラがあんだけオッサンをしばき回したってのに、誰も応援に駆け付けねーってわけだ」
語られる事情と、不可解な事実とが符合し、納得したようにフェルトが頷く。すると、秘蹟に集中しつつも、聞き耳を立てていたフィルオーレが「ちょ、ちょっといい?」と、手を止めないまま、
「あの、それだと、ハインケル様が団長様にあんなに叩きのめされたのって……」
「味方同士で潰し合っていた不毛な争い、ということね」
「私はそうは思いません。不毛な争いだとも、その男が味方だとも」
「――っ」
バッサリと、あくまでハインケルを同じ考えとは認めないマーコスに、フィルオーレの横顔を痛みが走った。
しかし、フィルオーレには悪いが、マーコスがそう考えるのは当然だ。
ハインケルのこれまでの行いは、多少の行動の変化で覆せるほど軽いものではない。
「マーコスさん、私たちを連れ出す用意をしてくれてたってことは、あなたも私たちと一緒にきてくれるの?」
「そのつもりです」
「騎士団長がいいのかよ? ただでさえ、王都はあれこれガタついてんだろ? この上、騎士団長までいなくなったなんてなったら……」
「血を流さなければ膿を出せないなら、流血を厭うべきではありません。それに、私一人が欠けたくらいで瓦解する騎士団ではない。各々、どう剣を掲げるべきか、それを心に留めたものたちと信じています」
すでに決めたこと、それを動かすつもりはないとマーコスが断言する。
その答えに顎を引いて、エミリアがフィルオーレを見ると、
「フィルオーレ、私たちはマーコスさんといくわ。あなたたちは……」
「もちろん、わたくしもエミリアたちといくわ! 最初からそのつもりだったし、おちおち今の王都にはいられないもの。それに……」
「それに?」
「騎士団長様にわかっていただきたいもの。ハインケル様が、ちゃんとした騎士だって」
「――――」
そう意気込んだフィルオーレに、マーコスは無言で目を細めた。どれだけ言葉を連ねようと、信じるに値しないだけの行動の積み重ねがある。
そんなマーコスの反応を余所に、フェルトが頭を掻き、エミリアが微笑んだ。
「ええ、それなら一緒にいきましょう! ありがとう、フィルオーレ。こんなことをしたらすごーく大変なことになるのに、私たちのために頑張ってくれて」
「そんな! こんなの当然よ。だって、わたくしはエミリアの大親友で、フェルトとはこう、なに? 複雑な関係だけど、姉妹みたいなものじゃない! ……姉妹みたいな! ものじゃない!」
「気に入ったのか? なんで二回言ったんだよ……」
呆れた風なフェルトの嘆息、それと同時にフィルオーレがかざしていた手を下ろし、長く長く、深く大きな息を吐く。
額に汗を浮かべ、わずかに息を弾ませた彼女は「よし」と頷くと、
「急場はこれでしのげたわ。ハインケル様、立てそう?」
「……いや、悪いが」
鏡がないので見てくれの程はわからないが、少なくとも、確かに打たれた頭や、砕けた奥歯、折られた右腕などの痛みはだいぶ引いた感覚がある。
もっとも、ハインケルの肉体の頑健さは、とある理由で折り紙付きだ。これがどこまで秘蹟の効果で、どこまで体の異常性の結果かはわからない。
いずれにせよ、立ち上がるにはもうしばらくの時間が――、
「――問答の時間が惜しいので、失礼します」
そう言って、無遠慮に歩み寄ったマーコスが、その腕でハインケルの体を軽々持ち上げ、荷物のように乱暴に肩に担ぐ。
その際、握りしめていた剣をむしり取られ、それを鞘に戻された。
「騎士団長様……ハインケル様を信じてくれたの!?」
「いいえ、斬り捨てるのならここでなくともできるというだけです」
「そ、そんなことをしても無駄よ! もしも胴体を真っ二つにされたとしても、わたくしが秘蹟でくっつけ直してみせるわ!」
「もう! 言い合いっこは後回し! 見つからないうちに、いきましょう!」
ハインケルを担いだマーコス、それに噛みつくフィルオーレを窘め、エミリアがその場にいる面々の顔を見渡すと、そう音頭を取った。
それぞれが、この決断をすることで、後戻りできない状況へ進み出ることを覚悟している。その上で全員の表情を見て、エミリアが深く頷き返した。
そして――、
「――スバルと、他のみんなと合流しなくちゃ。きっと今頃、みんなすごーく無茶をしてるだろうから、心配だもの!」
「たぶん兄ちゃんも、脱走するアタシらには言われたくねーだろーよ」
そんな言葉を掛け合いながら、一同は、互いの計画より人数を増やし、城を出る。
そうして、城を抜け出していく最中に、
「ハインケル様はさすがよ。わたくしは、鼻が高いわ!」
「……俺の鼻は折れてるけどな」
ボロ雑巾になるのを見ていたくせに、何故か誇らしげなフィルオーレに、ハインケルは動けない体で、そう答えるのが精一杯だった。




