第十章25 『微笑む君に愛たい』
――溜まりに溜まったツケを払うときというものは、もっと劇的にやってくるものだと思っていた。
「――ハインケル・アストレア殿、王都への出頭命令が出ている。我々に同行してもらいたい」
そう言って、王国騎士団の白い制服を着た騎士たちに囲まれたのは、ハインケルが昼間から酒場の隅で安酒を手に、今後の展望の暗さに頭を悩ませている最中だった。
こちらの素性をわかった上で投降を呼びかける騎士たちに、ハインケルはやりたくない仕事をやらされているなと、彼らに心から同情した。
「王都、王都ね……いったい、何の罪で俺をしょっ引こうってんだ?」
「残念ながら、それをお伝えする権限は我々にはありません。ただ、抵抗されるというのであれば……」
ジリと、騎士たちの間で緊張感が高まる。
酒気を帯びた息を吐いているが、まだ酩酊感に頭はやられていない。ハインケルの肌感では、目の前の三人以外にも、酒場の外で待ち受ける騎士隊が配置されている。
早い話、実力行使も辞さないという姿勢なのだろう。そして、彼らの使命感をねじ伏せるだけの実力を、ハインケルは持ち合わせていなかった。
何より――、
「逃げても手詰まり、か……」
何も、ただの自暴自棄で安酒を呷っていたわけではない。安酒を口に含む前に、散々っぱら手立てを探ろうと頭を働かせた。その後、こうして酒場に足が向いたのは、どこまでいっても認めたくなかったからだ。――もはや、万策尽きたのだと。
「――――」
酒台の上、まだ酒杯に半分ほど残った酒を見下ろし、ハインケルは唇を噛む。
ハインケルが成し遂げなければならない二つの目的には、そのどちらも必ずや得ておかなければならない立場――王選へ介入できる立場が必要だった。
元々、プリシラとの接触は偶然で、その立場に与れたのはたまたまだったが、なってみてから失ってはならないものだったのだと遅れて気付いた。だから、父の関わるクルシュ陣営と息子の関わるフェルト陣営を除いた、あとの二つの陣営に抱えてもらうのが、ハインケルのできる最善だったのだが。
「エミリア様の陣営は無理で、カララギの……アナスタシア様の陣営も」
難しいだろうと、さしものハインケルにも理解はできる。
商人の合理性を持ったアナスタシアには期待したいところだが、ヴォラキア帝国でもわかった通り、彼女はエミリアとずいぶんと親しげだ。おそらく、ハインケルがエミリアの前で晒した醜態を、彼女の口から吹き込まれている。
そうでなくても、自分の印象が最悪のものである自覚はハインケルにもあった。
故に、どの王選候補者にも、ハインケルが召し抱えられる目はない。
そしてそれは、微かに見えかけた光明が消え、打ちひしがれるには十分な理由だった。
「ハインケル・アストレア殿。――返答は、いかに」
高まった緊張感のままに、決定的な答えを求められ、ハインケルは酒杯に残っていた酒をぐいっと飲み干し、そのまま手を下ろした。
腰に下げた愛剣に、手を伸ばそうという気概はついぞ生まれなかった。
連行の道中、両手を縛られないまま竜車に押し込まれ、ハインケルは拍子抜けした。
てっきり、もっと乱暴な、それこそ人間扱いされない旅路も覚悟していたのだが。
「……結局、どういう名目なんだ、これは」
相変わらず、聞いても答えてくれない騎士たちに挟まれながら、ハインケルは自分が何の罪を問われているのか考える。――思い当たる節は、いくらでもあった。
近衛騎士団副団長の責務や、アストレア領の領主としての立場は投げ出しっ放しだし、ヴォラキア帝国に内政干渉をした疑惑も十分ありえる。直近であるなら、アルデバランが企んだ計画に協力しようとした事実もある。
もっともこれは、話を持ちかけられたハインケルの方が、「話が違う!」と言いたくなるくらい、何一つ始まらないままに未然に潰えたようだったが。
だが、そのことでアルデバランを責める気はハインケルには起こらない。
何かを成し遂げようとしたものが、それを果たせずに終わる。それを責め出したら、ハインケルなど責め苦で溺れ死ぬのを百回やっても足りなくなる。
また、何もかもが振り出しだった。
ラインハルトを『剣聖』の座から引きずり下ろすことも、二十年近く眠り続ける妻を目覚めさせることも。
それとも、頃合いなのだろうか。
足掻く理由さえ取り上げられ、いい加減に諦めろと、そう突き付けられるための。そうだとしたら、いっそ笑える話だった。
「……にしちゃ、妙だな」
王都まで数日、忍耐強く口を割らない騎士たちに連れられ、竜車を下ろされたハインケルは、そこが王城や騎士団の詰め所、ましてや牢でもないことに眉を顰めた。
目の前にあるのは、王都の一角に建てられた古い教会――『神龍教会』のもので、ハインケルにとっては直視し難い理由のある建物だ。
『神龍教会』と言えば、ルグニカ王国の国教であり、敬虔さに違いはあれど、国民の多くが恩恵に与る『神龍』への信仰を捧げる祈りの砦。
かつてはハインケルも、眠れる妻の目覚めを願い、幾度も祈りを捧げに足を運んだことがある。――だが、ある夜を境に、二度と足を運んでいない。運ぶ資格もない、というのが目下、教会に対するハインケルの自認でもあった。
そんな『神龍教会』の祈りの家で、押しやられるように入口を潜ったハインケルを待ち受けていたのは、長い金髪と赤い瞳を持つ尼僧服の少女で――、
「あっ! お待ちしていたわ、ハインケル様!」
ハインケルの顔を見た途端、その少女は腰掛けていた椅子をけたたましく吹っ飛ばし、こちらに向かってパタパタと駆け寄ってきた。満面の笑みを浮かべた落ち着きのない少女の勢いに、ハインケルは思わず半歩後ろに下がる。
感じたのは敵意ではない。好意だ。下がったのは脅威が理由ではない。疑念だ。その疑念の理由は、改めて彼女を上から下まで眺め、すぐに実を結んだ。
美しい金色の髪に、燃ゆる宝石のような赤い瞳。
それは、あってはならない特徴のはずで。
「――わたくしはフィルオーレ・ルグニカ。こうしてお目にかかれて嬉しいわ、ハインケル様。わたくし、あなたがいらっしゃるのを心待ちにしていたの!」
「ふぃる、おーれ……!?」
「――? ええ、そう、フィルオーレ。それがわたくし……って、そうよね! 聞く人が聞いたら驚いてしまうのだったわ。最近、身の回りがいつもバタバタしているものだから、ついついそれが抜けてしまって」
言いながら、照れ隠しのようにペロッと舌を出す少女――フィルオーレと名乗った相手に、ハインケルを襲った動揺は言葉にできたものではない。
だって、その名前を持つものは、この世界に二人といてはならないのだから。
「あなた方も、お力添えをどうもありがとう。素晴らしい働きを、きっと『龍』もお喜びでしょう。『剣を振るうは人の腕、命を扱うは龍の意志。選ばれし騎士の足跡は、血の轍すらも銀の道となる』と、そう教典にもあるもの」
動揺するハインケルを背後、教会の入口に立つ騎士たちにフィルオーレが声をかける。朗々とした響きの声に、騎士たちは顔を見合わせた様子だ。
無論、ここまでハインケルを連行した彼らからしてみれば、この場でフィルオーレとハインケルを二人にするなんて真似はしたくないだろう。だが、その騎士たちの憂慮には取り合わず、フィルオーレは「心配ご無用っ!」と握り拳を作り、
「こちらの方は『剣聖』の家系にして、『神龍』に選ばれた素晴らしき御方、このわたくしが太鼓判を押しましょう! これは王国的にもとても大きな出会いだと!」
ドン、と自分の胸を叩いて豪語したフィルオーレに、騎士たちの困惑は消えない。
一方で、ハインケルの方も彼女のその発言には激しく思うところがあった。それこそ、名乗られた初手の衝撃から現実に引き戻されるぐらいには。
「何かあればすぐに呼んでください。外で待機しております」
立場上、それができる譲歩の限界だったのだろう。
そう言い残し、ハインケルに最後まで厳しい目を向けていた騎士たちが、教会の入口を閉ざし、外で待機する。その騎士たちの姿が扉の向こうに消えると、フィルオーレは「困ったものね」とこぼしながら腕を組んだ。
「状況が状況だから、みんなが心配するのもそれはそれは当然だけれど……今は、こちらの方が優先ですものね。改めて、ハインケル・アストレア様、お会いできて……」
「――さっきのは、いったいどういうつもりだ?」
「ふぇ?」
一歩、一度は半歩下がった距離を、半歩分相手と詰めながら問いかける。それにより、間近から見下ろされることになったフィルオーレが、その赤い瞳を丸くした。
なんて居心地の悪くなる目だろうか。その整った顔立ちにも、ルグニカ王族との共通点を感じすぎる。――だが、そんなはずがない。
「フィルオーレ・ルグニカってのは、十五年前に城から消えた王女だ。で、そいつならとっくに貧民街で見つかって、今王選に……」
「――ああ、フェルトのことね。ええ、彼女にもそういう疑いがかかっているという話は聞いているわ。でも、わたくしたちは、それに関してはどちらでもいいでしょうという結論になっているの」
「あ……?」
「わたくしか彼女か、どちらかが十五年前に王城から消えたという王女なのかもしれないと。偶然にも、わたくしも彼女も大体十五歳という話だし、それに関しては奇跡的な噛み合いが起きていると思うわ。でも、そこは重要ではないのよ」
「そ、そんな馬鹿な話があるか!」
堂々と、王国でも有数の大事件を軽く扱うフィルオーレにハインケルは声を荒げる。
実際、馬鹿げた話だ。あの事件があったせいで、正しい道行きからズレてしまったものがいくつもある。そしてそれは、ハインケルとも無関係ではない。
十五年前のあの夜に、ルグニカ王城で起きたいくつもの出来事は――、
「さっきの話とも通じるところだ! 俺を『剣聖』の家系だの、『龍』に選ばれただのと、ふざけたことをべらべら並べて……」
「でも、十五年前、王城に保管されていた『龍の血』を浴びて、その血の力に押し殺されることなく、適合したのがハインケル様なのよね?」
「な――っ」
「あ、これは内緒にしなくちゃいけないことなのよね。実は、わたくしもこっそりと教会の秘録で読んだものだから、広めてはいけないとあとで気付いたのだけど」
今さら声の大きさを抑えるフィルオーレだが、ハインケルはそれどころではない。
十五年前の『龍の血』、その一件に触れられただけでも驚きなのに、極めつけはそれが『神龍教会』の秘録とやらに記されていたという話だ。
理由がわからない。確かにハインケルは教会に通っていた時期もあるが、敬虔な信徒というわけでも、自分の胸中を徒に打ち明ける真似をしたこともない。
何より――、
「――――」
投げかけられた疑惑、十五年前の夜の出来事は、絶対に明かせない。
事の責は、ハインケル一人で留まる問題ではない。それこそアストレア家と、ルグニカ王国全体に及ぶかもしれない一大事だ。
ハインケル一人が心の臓を抉り出せば済む話では、全くなくなる。
「は、何を仰られるのかとんとわからねえな、偽王女」
だから、ハインケルは卑屈に頬を歪め、悪辣にフィルオーレを嘲弄してみせた。
それを聞いたフィルオーレの目が丸く見開かれ、ハインケルの否認に息を呑む。否定されるとまるで考えていなかったのか。だとしたら、愚かな娘だ。
「真っ正直にぶつかれば、何でも綺麗に跳ね返ってくると思ってるのか? だとしたら、そいつはとんだお気楽さだ。世の中、そううまくできちゃいねえよ」
「ハインケル様……」
「お仕着せみたいに敬称なんざ付けるな! 俺に何を期待してたんだか知らねえが、残念だったな。『神龍』に選ばれた? 冗談じゃねえ。『剣聖』の家系? それが狙いか? 王城と『神龍教会』は距離を取り続けてきた! 『神龍』を一番に敬わせたいお前らからすれば、ラインハルトはそりゃ邪魔だろうよ!」
口早に悪罵を並べ立てていると、ドロドロと胸の内が黒く染まっていく。
適当に思いつきを口にしているだけだが、案外、それも間違いではない気がしてきた。ルグニカ王国における『剣聖』の名声は大きく、それは歴代最高と名高いラインハルトの今代を迎え、いよいよ信仰の域に達しつつあると言える。
あるいは『神龍教会』にとって、ラインハルトは目の上のたんこぶかもしれない。
それを排除する目的で、ハインケルを利用する思惑も十分ありえる。――これまでハインケル自身、王選候補者と交渉する手札にしてきたそれが、嫌な湿り気を帯びる。
だが、もしかしたら、ハインケルの目的の一個を思えば、それも――、
「――わたくしがハインケル様を探し出したのは、あなたに、わたくしの騎士になってもらいたいと、そう思ったからよ」
――。
――――。
――――――――。
「……なに?」
血の味がするほど歯噛みした思案のせいで、妙な幻聴を聞いた気がした。
そうでないと説明のつかない聞き間違いに顔をしかめるハインケル、しかし、そんなこちらの困惑を余所に、フィルオーレは顔を上げ、口を開く。
もう一度、今度はこちらの青い目を見据え、
「ハインケル・アストレア様、あなたにわたくしの騎士になっていただきたいの。遅れて王選に参加する、このフィルオーレ・ルグニカの一の騎士に」
「ば……っ! い、イカれてるのか……!?」
「まあ、なんてひどい言われよう! 言っておくけれど、わたくしと主従の誓いを結んでいただいたら、できるだけ態度は改めていただきますから」
聞き間違いではないと、そう念押しするように重ねられる指摘。だが、指摘をいくら積み重ねられても、土台の部分がぐらついた話し合いがまとまるはずもない。
フィルオーレは言った。ハインケルを、王選候補者である自分の一の騎士にすると。
「誰に、何を、吹き込まれた? まさか、ラインハルトか? あいつがお前に何か言ったのか? だから……」
「冗談じゃないわ! こんな大事なこと、誰かの言いなりでホイホイ決めるものですか。しっかりと、わたくしが自分で決めました!」
「だったらなおさら見る目がなさすぎる! 誰からも話を聞かなかったのか? それこそ表の騎士連中は。他にも、いくらでもいただろう、聞ける奴は!」
「ええ、聞きました。皆さん、難しい顔をして、考え直すべきだと力説されたわ」
「なら大人しくそうしろ! 考え直せ!」
「考え直したわ! でも、何度考え直しても、やっぱりハインケル様が一番だったの」
腰に手を当てて、そう胸を張ったフィルオーレの答えに絶句する。
一度決めたら突っ走る性質なのだろう。それはここまでの言動を見ていても何となくわかる。わかるが、周りの人間たちは何をしているのだ。
「プリシラ嬢も、決めたら譲らない頑固なところがあったが、プリシラ嬢の場合は、その決断力と実行力に有無を言わせないものがあった……」
周りの言葉に耳を貸さないという意味では、いい勝負かもしれない。
だが、プリシラとフィルオーレとでは、当人の持っている頼もしさというか、個としての強度のようなものに大きく差がある。
端的に言って、プリシラは大人だが、フィルオーレは子どもだ。子どもが誤ったことをしようとしていたら、それを止めるのが大人の務めだ。
たとえ、その子どもが王選候補者なんて大層な肩書きで、それを諌められる立場の大人がそんな資格のない愚かで惨めな死に損ないでも。
「夢見がちは夢見がちでも、お前の見てるそれは悪夢だよ。それも、悪い夢だって周りが言ってるのに耳を貸さない悪い夢だ。そんなもんに付き合ってたまるか」
言い放ってから、ハインケルは自分の馬鹿な決断を自嘲する。
縋る王選候補者をなくし、このままでは望みを果たせないと酒に溺れていたのに、いざこうして願ってもない手を差し出されたのに、今度はそれを握り返せない。
本当にそれが大事なら、手段を選ばずに手を伸ばせるはずだ。――ならば、十五年も費やして、まだ取る手を選ぼうとしている自分は、本気じゃないのかもしれない。
全てはただの妄執の残滓に過ぎなくて、ハインケルの中身は空っぽの――、
『――めっこいーですね! ハインケルさん!』
瞬間、頭の片隅を澄みらかに打ったその声が、ハインケルの魂を揺るがした。
「――ルアンナ」
もう、二十年近くも、その声を一度も聞けていない。
それでも目を閉じれば、その微笑みを思えば、昨日のことどころか、今この瞬間も、彼女がそこにいるかのように声が聞こえる。当然だ。愛しているのだから。
たとえハインケルが空っぽのがらんどうだったとしても、そこに詰められたルアンナという熱量と、それがくれたものだけは全て本物なのだから。
一度だって、一秒だって、それが薄れたことなどないのだから。
「わたくしは、『神龍教会』の『聖女』の立場を拝命しています。王選候補者として掲げるのは、王城と教会との間のわだかまりの解消を始めとした、救済を阻害する理由、それをことごとく、撤廃すること」
押し黙ったハインケルの前で、静かに、力のある声でフィルオーレが告げる。
顔を上げ、ハインケルはフィルオーレを見た。相変わらず、真っ直ぐにハインケルの方を見ている彼女だが、しかし、紡ぐ言葉に先ほどまでの浮ついた雰囲気はない。
届かせなければならない言葉を届かせるために、彼女は言葉を選び、想いと力を込めているのだと、そう伝わってきた。
「ハインケル様、あなたの奥様のことは聞いているわ。目覚めさせる方法を、十年以上も諦めずに探し続けているそうね。とても立派なことだわ」
「……立派なもんかよ。成果が出てねえ。ルアンナが起きてないのに、何が」
「いいえ、立派よ! 誰もあなたを褒めないのでしょう? でも、わたくしはすごいことだと思うわ! 誰にでもできることではない。不屈の……いいえ、きっと心折れることがあった。それでも、立ち上がることがすごいのよ!」
「――――」
「そんなあなたに、わたくしの騎士になってほしい。『龍』に選ばれたというのも、もちろん『聖女』的に見逃せない理由だわ。でも、あなたは大切な人のために、力を尽くすことを諦められない方よ。きっと、わたくしと噛み合うわ!」
声を張り上げ、フィルオーレがその白くすべらかな手を伸ばした。この手を取れと、赤い瞳を爛々と輝かせ、ハインケルに訴えかけてくる。
馬鹿な娘だと、いくら話を聞いてもその感想が消えない。
王選候補者が一の騎士に選ぶ相手は、自分の命ばかりではなく、その政治的な命運をも預ける存在になる。『神龍教会』の『聖女』なんて大層な肩書きがあっても、それすら吹き飛ばしかねないのがハインケルの悪名だ。
フィルオーレが、ハインケルを騎士に選ぶ理由なんて、一欠片だってない。
断ろう。断るべきだ。誰のためでもなく、目の前の馬鹿な娘のために。
この愚かで優しい娘が、馬鹿だと嘲笑われ、誰からも後ろ指を指されることがないように、ハインケルはこの申し出を断るべきなのだ。
断るべきだったのに――、
「――一つ、聞かせろ」
鼻で笑い、背を向けて出ていくはずだったのに、そう口をついていた。
拒絶ではない。悪罵でもない。会話を続ける意思表示に、フィルオーレが首を傾げる。
「何かしら?」
「『神龍教会』には、表に出すことを禁じてる癒しの秘術があるって話だ。もしも……もしもそれが本当にあるんだっていうなら」
「――秘蹟のこと?」
「――っ! あるのか!」
思い当たる節があるらしいフィルオーレの言葉に、ハインケルが食いつく。その勢いにフィルオーレは目を見張り、それからわずかに目を伏せた。
その表情の変化は、秘蹟の存在を肯定しつつ、それがハインケルの期待――眠れる妻を目覚めさせるのに役立つ確信はないと、そう告げていた。
「――。あるわ。でも、あなたの奥様に効果があるかはわからないわ」
案の定、一拍の沈黙ののち、フィルオーレは首を横に振った。
だが、過剰に気落ちはしない。抱いた希望を裏切られ、崖下に突き落とされることにハインケルは慣れている。それで死なないのも、何度も実践済みだ。
「そうか。そうかよ。……ああ、そうだろうよ」
もう十分、生き恥は晒した。
真っ当な考え方からしたら、今の問いかけだってするべきではなかったのだ。なのにそれをした。それをした上で、期待は打ち捨てられたのだから。
これで――、
「――だから、試してみないといけないわね。あんまり使っちゃいけないって口を酸っぱくして言われてるんだけど、人助けのためだし、いいでしょう」
「――ぁ?」
「あ、でも、今言った通り、できるか確信はないの。秘蹟も万能ではなくて、その方の魂の在り方に左右されるというか……だけれど、『神龍教会』にも色々表に出せていないものは他にもあるし、諦めなければ道は開けるはずだわ。ええ、きっと」
ぐっと、差し出したままの手と反対の手を握り拳に固めて、フィルオーレが最初と同じようにまたしても力説する。
その力説の内容に、ハインケルは目を瞬かせ、掠れた息をこぼした。
「――――」
フィルオーレは、できるとは言わなかった。
任せなさいとも、必ず救うとも約束しなかった。――ただ、諦めないと誓っただけ。
もう二十年、ハインケルが誰にも理解されず、何度も愚かだと嘲られながら、それでも捨てられなかったものを、目の前の少女は当然のように肯定した。
わかるのだ。――もう誰も、それこそ、鏡の中に映るハインケルすらも、無理なのではないかと、そう心のどこかで思い続けていることが。
「ハインケル様、案内してちょうだい。いえ、さすがにアストレア家は有名なのでわたくしも場所は見当がつくのだけど、家人がいらっしゃらないところへ乗り込んでいくのは気が引けるわ。しかもわたくし、フェルトとちょっと複雑だし……」
こうしてはいられないとばかりに、颯爽と歩き出したフィルオーレが立ち止まる。彼女は通り過ぎたハインケルを振り向き、ついてくるようこちらに呼びかけた。
その、振り向いたフィルオーレの双眸が、驚きに見開かれる。――そのフィルオーレの目の前で、ハインケルがその場に跪き、頭を垂れていたからだ。
「ハインケル、様……?」
「ここまで、重ねて失礼を働いたことをお詫びする。フィルオーレ嬢」
驚いているフィルオーレに、ハインケルは意識的に声を整え、告げる。
王選候補者の騎士になれば、今一度王選に関われる。
『神龍教会』の隠していた秘蹟すら操れる『聖女』ならば、ルアンナを目覚めさせることができるかもしれない。
王家の血を引く王女の可能性があるのなら、その権限で王城に眠る古い知識や、あるいは『龍の血』そのものへ手が届くかもしれない。
そうした打算を並べれば、いくらでも跪く理由は作れた。
だが、ここでハインケルが跪いた理由は、いずれの打算も一番ではなくて。
――まだ、騎士ぶりたいのか、俺は。
「あなたの申し出を受けたい。――俺を、フィルオーレ嬢の騎士にしてくれ」
「――――」
「俺を選んだことを、後悔するかもしれないが……」
「いいえ、しないわ! 絶対に!」
花が咲いたように笑うフィルオーレに、ハインケルは鼻白み、頬の内側を噛んだ。
跪いたまま腰の剣を外し、それを地面に置いて、最敬礼を示す。――背筋の伸ばし方、主君を仰ぐ顔の角度、剣を捧げる騎士の礼も、二十年の醜態では消えなかった。
かつて王家に忠誠を誓った騎士の残骸が、今さらのようにまたそれを気取る。
滑稽だ。本当に、どこまでも滑稽だ。
その、笑えない滑稽さを塗りたくったまま、ハインケル・アストレアは、新たな王選候補者であるフィルオーレ・ルグニカの一の騎士となった。
――それが『聖女』と『背剣者』の、主従関係が成立した日のことだった。




