第十章7 『マイフレンド』
「大丈夫? ちゃんとできそう?」
「おねーちゃん、ちゃんと手元見て! 危ない危ない!」
「あれって、噂の銀髪のハーフエルフでしょ? 頭からかけちゃえ!」
「横からごちゃごちゃ言わないの! それに、明確な悪意を唆さない! 教典にもこうあるわ。『不浄な思い持て龍の鱗に触れるなかれ。穢れし者は銀の雨に打たれ、心の澱を削ぎ落とすまで黄金の門を潜ること許されじ』と」
「「……どういう意味?」」
「悪さするだけじゃなく、考えただけでも反省しなきゃ怒るわよってこと! ほら、わたくしはお客様の相手があるの! 外で遊んでらっしゃい!」
悪気のない子どもたちを、よく通る声がそう言って和やかに外に追い払う。それを受けた子どもたちがキャイキャイと、騒がしく建物の外に飛び出していった。
男子二人に女子一人、一番口が悪いのが女子だった点と、全員が黒に近い藍染めの修道服を着ていたことから、おそらく教会の関係者なのだろう。
なんにせよ、元気いっぱいでいいことだと、スバルは素直に受け止めた。
「うちの子たちが騒がしくてごめんなさいね。わたくしも日々言い聞かせてはいるのだけど、イマイチ効き目が悪いというか、舐められているというか……ほっ」
その子どもたちの背を見送り、ゆるゆると肩をすくめたのは金髪赤目の修道女――フィルオーレだ。来客を歓待する用意の最中、延々子どもたちに絡まれ続けていた彼女の嘆きだが、実際、あの様子は好かれと舐められが半々といったところだった。
ともあれ、そのことへの慰めを口にするより、スバルたちの注目は銀のお盆にティーセットを載せ、こちらにやってくる彼女の危なっかしい足取りに吸い込まれる。
カタカタカタカタと、お盆の上の全てが危ういサインを出していた。
その運搬模様を、招き入れられた談話室のテーブルで待ち構えながら、スバルたちはゴクリと喉を鳴らした。
「……あの、お手伝いしましょうか?」
「待ってお願い触らないでちょうだい! 今、わたくし事ながら絶妙な均衡がお盆の上で保たれてしまっていて、一歩間違うだけでおじゃんだわ。そろり、そろり……」
「す、すごーく頑張って……!」
手伝いを申し出たレムと、真剣に応援するエミリア、その二人の間をすり抜け、フィルオーレは恐る恐る、何とかひっくり返さずにお盆をテーブルに不時着させた。
思わず「おおー」と拍手するスバルたちに、彼女は額を拭う仕草を入れ、
「おほん、お待たせしたわね。それと、いきなりハラハラドキドキさせてしまったのをお詫びしておくわ。普段なら、こうしてお客様をお迎えするのは他の人にお任せしているのだけど、今はわたくししかいないものだから」
「ううん、いいの。お迎えしてくれてありがとう。むしろ、私たちの方こそ、人手が足りないときにきちゃったみたいで」
「いえ、構いません。教会の門戸は常に開かれているべきだもの。教典にもこうあるわ。『龍の力を畏れ、敬うことこそ愛の標。畏敬なき愛は慢心、愛なき畏敬は卑屈、正しき愛は龍の御前で背筋を伸ばす気高さに宿る』と」
「ええと、それって?」
「つまり、いつ大事な人に見られてもいいようにピンシャンしておきなさいってこと」
人差し指を立てて、エミリアの疑問にフィルオーレはそう応じる。
たぶん、引用しているのは『神龍教会』の教典の一文なのだろうが、それをわかりやすく噛み砕いて伝えるセンスに長けている。それに、堅苦しい文言を呑み込みやすく解釈してくれるあたり、信仰に理解の浅いスバルにもありがたい。
「とはいえ、子どもたち相手に唾飛ばしてた姿がピンシャン?」
「うっ」
「そのあと、ベティーたちを見つけて顔が真っ赤になったのも見ものだったかしら」
「おうっ」
スバルとベアトリス、二人の指摘にフィルオーレが胸を押さえて立て続けに呻く。その反応の良さを小気味よく思っていると、ふと、スバルの傍らにレムが、ベアトリスの傍らにはエミリアが立ち、それぞれの耳が摘ままれ、
「今のは不要な一言ですよ」
「もう、意地悪したらダメじゃない」
「「痛い痛い痛い」」
と、悪戯の代償を支払わされ、スバルとベアトリスにもダメージが残った。結果、お茶を運ぶだけで、三人も犠牲者が出てしまった計算になる。
なんて、そんな与太話はそこまでとして――、
「改めて、足を運んでくださって感謝するわ。わたくしはフィルオーレ……今、王城を大いにお騒がせしてしまった、『神龍教会』の修道女よ」
「――――」
自分の胸に手を当て、そう自己紹介したフィルオーレに、スバルたちが無言。すると、フィルオーレは見る見るうちに表情を曇らせ、
「な、何か言ってちょうだい。さもないと、不安になるのだけれど」
「いや、お騒がせしてる自覚があるんだなと思って」
「そりゃあるわよ。……あります。お城で、ああまで皆様からこう、何とも形容し難いものを見る目で見られたら、誰だって『あら? わたくしやらかした?』と思うもの」
「まぁ、俺たちはその場にいなかったけど、そういう場違い感で居た堪れなくなる気持ちは、実は俺はよーくわかる」
「そうなの!? あの地獄の気分が!?」
「あ、それってもしかして、スバルが勝手に私の騎士だってみんなの前で言い張っちゃって、私が恥ずかしくて違うって言っちゃったときのこと?」
「うぐぅ、大体そう!」
飛びつくフィルオーレと、胸の前で手を合わせたエミリア、両側から悪気のない感嘆をぶつけられ、今度はスバルの方の古傷が新鮮に痛んだ。
というか、エミリア的にはあの場の否定は、恥ずかしかったからという扱いになっていたらしい。改めて当時のエミリアの心情を聞き取り調査したわけではなかったが、可愛い理由に反して、スバルの受けたダメージがえげつない。
「……今のお話、聞くだに居た堪れない状況ですが、本当なんですか?」
「生憎と、そのとき、ベティーはスバルとまだ契約してなかったから、詳しい事情は知らないのよ。でも、あの頃のスバルならやらかしても不思議じゃないかしら」
「なんかあの日のことを、今さらレムとベア子の二人から色々言われるのすげぇしんどい気持ちになるな! 言っとくけど、『記憶』なくなる前のレムは事情知ってたけど、わりと俺に同情的だったよ?」
「本当でしょうか。以前の私も呆れ果てて、コメントを差し控えただけでは?」
「やめてくれ、なんかそんな気がしてきた!」
実際、あのときのスバルの気持ちはともかく、やり方もやり口も言い方も見せ方も全部が選択ミスをし続けていたことは間違いないのだ。でも、その反省はすでに済ませてあるのだから、自分で言い出しておいてなんだが、そろそろ許してもらいたい。
だが、そうして過去の己の所業にスバルが殴られていると――、
「――わかるわ、その気持ち」
ガシッと、テーブル越しに伸ばされた両手がスバルの右手を力強く包む。見れば、フィルオーレが正面から身を乗り出し、スバルに頷きかけていた。
彼女は目を見張るスバルに、その赤い瞳を爛々と輝かせながら、
「いきなり現れた場違いな相手を見る、周りの方々の冷たい眼差し」
「――!」
「勢い込んで話し始めて、今さら後戻りできないわたくしの舌」
「そう、そうだ。そうなんだよ!」
「一通り言い終わったあと、誰かが何か言ってくれるまでの永遠みたいに長い沈黙!」
「数秒が、果てしなく長い……!」
「わたくし、ド派手に思ったわ。……やらかしたかも、って」
「フィルオーレ……!」
彼女の味わった戦慄、その全てが我が事のように感じられ――否、事実そうだ。それを思い知ったスバルもまた、フィルオーレの手を握り返していた。
テーブルの上、お互いの手を握り合い、スバルとフィルオーレは頷き合った。
そう、スバルとフィルオーレは、どちらも勢い余って城でやらかした同士――、
「ですが、その場で成果を出されたフィルオーレさんと、挽回の機会を先延ばしにしたというあなたとでは、だいぶ立場が違いませんか?」
「や、やめろよぉ……今、いい感じだったじゃんかよぉ」
「そうよそうよ、教典にもこうあるわ。『同じ翼の陰にありて、隣人を裂く爪を研ぐなかれ。同じ空の下で争う兄弟は、龍の慈悲を自ら捨てて過つものなり』と」
「ええと、それって?」
「同じ恥を掻いた同士、言い争うより仲良くしなさいってこと」
「わかるー! 俺、『神龍教会』入ろうかな!」
「それはデリケートな問題だから、迂闊に取り扱うんじゃないのよ!」
あまりに親身に寄り添われたせいで、危うく入信しかけたスバルをベアトリスの愛ある平手が引き止めた。信仰が奉じるものへの愛情が大きな原動力なら、確かにスバルはすでにベアトリス教の信徒であり、エミリア教やレム教も兼任している。
「いや、その理屈で言うと多いな、俺が入信してる宗教。今まで日本人的に無宗教ぶってたけど、実は神の目線からすると俺って浮気者……?」
「――。まぁ、そうなんじゃないですか?」
「すげぇシンプルに冷たい目!」
怖々と呟いた途端、レムの薄青の瞳に刺し殺された。その傍ら、エミリアとベアトリスも苦笑気味なので、スバルはこの話題を掘り下げるのをやめる。
そう戦術的撤退をしたところで、改めてスバルたちは視線をフィルオーレへ。正直、現時点ですでにめちゃめちゃ親しみやすい彼女だが、伝えておくことがある。
それは――、
「クルシュさんを助けてくれたって聞いた。こんなこと、俺が言うのもおかしな話だと思われるかもしれないけど……ありがとう。すげぇ、ありがとう」
「――――」
そう言って、スバルは深々と、テーブルに額をぶつけそうになるほど下げる。そのスバルの感謝の言葉に、フィルオーレは目を丸くし、エミリアたちを見た。
おかしな話と、そう前置きしても、彼女の驚きの理由は拭えなかったらしい。が、そんなフィルオーレに、エミリアも頭を下げ、
「私からもお礼を言わせて。クルシュさんのことは、私たちみんなが何とかしてあげたいって思ってたの。それを、あなたは何とかしてくれたんだもの」
「実際、手の打ちようを探していたところだったかしら。お手柄なのよ」
「私は話に聞いただけですが、ご立派なことと思います」
そのまま、エミリアだけでなく、ベアトリスとレムからも続けて感謝を告げられ、フィルオーレをしばらく口をパクパクさせていた。そうして彼女は、受けた衝撃をどうにか受け止め切ると、ゆるゆると首を横に振った。
そして、スバルたちの前で、悠然と、慈愛に満ちた微笑を浮かべ、
「――いいのよ。わたくしは、為さなければならないことを果たしただけ。それで救われた方がいたのなら、それこそがわたくしの本懐だもの」
その返答はまさしく、スバルの抱く慈愛の修道女に相応しいものだった。――嬉し気に小鼻がひくひくしていなければ、非の打ち所がなかったと言えるぐらいに。
もちろん、感謝と武士の情けで、スバルはそれを口にはしなかったが。
△▼△▼△▼△
「――わたくしは、赤ん坊の頃に教会の前に捨てられていたのを拾われたの。それが今から十五年とちょっと前のことよ」
最初の、挨拶から始まったやり取りがひと段落したところで、フィルオーレは自分の置かれた立場と取り巻く状況、それに関連した身の上話を始めていた。
その口火を切った捨て子発言に、スバルたちは思わず顔を見合わせる。――まさに、それは『フィルオーレ=消えた王女』疑惑において、避けられない話題だったからだ。
「捨てられて……じゃあ、親御さんのことは覚えてないの?」
「ええ、顔も名前も知らないわ。でも、教会のみんながわたくしの家族だもの。それで寂しい思いをしたことは……まぁ、たまに心無い人にからかわれたりしたときにはぐぬぬとなったこともあるけれど、基本的にはないわ。常に誰かがいてくれたから」
「なるほど。けどあれだ、自分で変だなとか思わなかったのか? だって、金髪赤目でフィルオーレって、かなり役満というか、クリティカルというか……」
「ここは『神龍教会』なのよ? 教会が王家や王城と距離を置くのは自然なことで、わたくしにはそうした情報が入ってこない。……いいえ、今思うと、あえてわたくしには伏せられていたのでしょうね。おのれぇ……」
テーブルの上に置いた拳をふるふると震わせ、フィルオーレが境遇を悔しがる。
なかなか衝撃的な初対面と、ここまでの短いやり取りからも察せられるが、フィルオーレはかなり衝動的というか、感情に振り回されるタイプらしい。
スバルと強い共感で結ばれた王城への直談判も、その感情の爆発故と見える。
「元々、このところの魔女教の乱行ぶりは目に余ると思っていたのよ。そこにきて、プリステラの出来事があった。……もう、我慢の限界だったわ」
「それで周りが止めるのも振り切って、一人で城に怒鳴り込んだ、と」
「もう少し、言い方に手心を……そうね、凛と淑やかに怒鳴り込んだというのはどう?」
「じゃあ、凛と淑やかに怒鳴り込んだんだな」
「……思っていたほど、わたくしの健気さが伝わらない気がするわね」
とはいえ、指示に従ったスバルとしては、効果の程に責任は取れそうもない。
なんにせよ、フィルオーレが使命感と強い憤りを理由に行動を起こしたのはわかった。ただ、スバルたちの関心は、その行動を起こせた原因部分にある。
それは――、
「――秘蹟って、そうフィルオーレは言ってたわよね」
エミリアが切り出した単語に、談話室の空気がわずかに張り詰める。
秘蹟、それがフィルオーレがクルシュの体を癒すのに用いたとされる『何か』であり、彼女が王城に乗り込んでまで証明した、権能をひっくり返せる可能性。
そしてどういうわけか、『神龍教会』がその存在を秘して、表沙汰にしようとしなかった、魔女教の被害者たちを救える手立てだ。
「――――」
唇を舌で湿らせ、スバルは微かな緊迫感を飼い慣らそうとする。
秘蹟というからには当然だが、『神龍教会』のかなり重要な秘奥なのだろう。場合によっては、その存在を知るだけで教会から敵視されかねない扱いの。
そこを掘り下げようとすれば、さしものフィルオーレも口は重たく――、
「秘蹟? ええ、そうよ。これは教会だけに古くから伝わっている秘術で、使える人が極々限られているの。教会ではそれを『聖女』と呼んでいて、わたくしにもその資格があるから力を使えているというわけ」
「すげぇあっさり言ったけどいいの!?」
「いいも何も、教会が隠そうとしたって、もう城で大々的に話してしまったもの。今さら隠そうとしても無意味……教典にもこうあるわ。『龍が清めた土を私欲の毒で穢すなかれ。一度涸れた泉を満たすには、千年の祈りと咎人の涙を要する』と」
「ええと、それって?」
「つまり、自分だけ得しようとすると、何かあったとき取り返すのが大変ってこと。――そしてわたくしは、今こそが何かあったときだと思ったのよ」
だから、秘蹟の存在を秘したい『神龍教会』の思惑に背いて、フィルオーレは自分の信じる教義に従い、その力を公に振るうことを選んだ。
もちろん、勝手にそんなことをされた『神龍教会』は大いに慌てふためき、でかい借りを作った王城もさぞかし混乱したのだろう。
だが、大混乱の結果はともかく、その切っ掛けが善意なのは確かなことで。
「今頃、王城ではわたくしの扱いをどうするかが話し合われている……そこに、教会の偉い方たちや、わたくしの古くからの家族も参加しているのだけれど」
「フィルオーレのことなのに、フィルオーレはその話し合いにまざらないの?」
「まざりたくても追い出されてしまったの! わたくしのことなのに、わたくしがその場にいたら話がややこしくなるって……そうならない可能性だってちょっとはあるでしょうに、ひどいと思わないかしら!?」
「そうならない可能性の方を少なく見積もっているのが悲しいかしら」
「言ってやるなよ、ベア子」
顔を赤くして、自分の扱いが不当だと訴えるフィルオーレだが、直情径行のある彼女を見るに、関係者の判断は妥当と言わざるを得ない。
十五歳を自称するフィルオーレだが、見た目の大人っぽさに反して、その内面はしっかり十五歳――あるいは、もっと子どもっぽいかもしれない。そこには、彼女が世俗から切り離され、箱入りっぽく育ったことの影響もあるのだろう。
正直、そう育てた『神龍教会』の思惑はスバルにはわからないところだが。
「では、関係者の方たちは城に? それで、フィルオーレさんが一人で教会に残っていらっしゃったんですね」
「そういうことね。まぁ、さっきの子たちもいてくれるから寂しいということはないのだけど、勝手に出歩かないよう言いつけられているわ。わたくしは一刻も早く、一秒でも早く、秘蹟の力をばら撒きたいのに……!」
「聞いたことねぇモチベーションの聖女だ」
それだけ人を救いたいということなのだろうが、聖女感のない聖女もあったものだ。
とはいえ、王侯館でガーフィールが話していたこともあるが、プリステラでそのときを待っている被害者たちを思えば、フィルオーレの気持ちには同意しかない。
いっそ、スバル的にはフィルオーレの背中を押してやりたくなる。
「気持ちはすげぇわかるからな。俺からラインハルトに頼んで、フィルオーレをプリステラまでひとっ飛びで運んでもらうとか……」
「ぐ……っ、心惹かれる提案……! でも、大人しく待つように言われていて」
「約束したわけじゃないんだろ? それに、約束だったとしても、結果的に誰かが救われるならちょっとぐらい……」
「スバル? もしかして、自分が破るだけじゃなくて、人にも約束を破らせようとしてる? それって、すごーくよくないことよ……?」
「約束破りの常習犯も、行き着くところまで行き着いたのよ」
「ぐう……!」
気持ちはわかるけど、というニュアンスで叱責され、スバルはぐうの音しか出ない。似たような音を出すフィルオーレ共々、約束の前に膝を屈する形だ。
今はその城の話し合いとやらが、一刻も早く、前向きにまとまるのを祈るばかり。
「――それにしても、フィルオーレさんは『神龍教会』の修道女ということでしたが」
「レム?」
「そうした立場なのに、エミリアさんのことをすんなり入れてくださるんですね」
ふと、そう違う話題を切り出したレムに、城の方向に向かって祈りを捧げていたスバルは訝しげに眉を寄せる。
しかし、その話題が全く的外れなものでないことは、眉尻を下げたエミリアと、スバルと同じ祈りをしていた手を下げたフィルオーレの反応からもわかる。
レムが指摘した、『神龍教会』とエミリアの関係、その真意は――、
「『神龍教会』は『神龍』ボルカニカの力と恩寵、その盟約を重んじる。そして、ルグニカ王国での『神龍』の一番の功績は、『嫉妬の魔女』を封じたこと、でしょう」
「おい、それってまさか……」
「敬虔な『神龍教会』の信徒ほど、エミリアさんには思うところがあるかもしれない……そういうお話です」
思わず立ち上がったスバルに顔を向けず、レムは目も合わせようとしない。きゅっと唇を引き結んだレムは、自分の発言が酷薄なもので、ここまでのある種和やかな会談の空気をぶち壊しかねないものである自覚があるのだ。
それでもレムは口にした。不自然な状況を、不自然なままでなあなあにせずに。
実際、レムに指摘されるまで、スバルもそのおかしさに気付かなかった。
『神龍教会』の存在が全く身近でなかったこともそうだが、スバルにとって、エミリアがウルトラ美少女であることは毎日の新鮮な驚きではあるが、初めての出会いから今日に至るまで、一度も恐怖や畏れの対象でなかったことが大きい。
だが、忘れてはならない。――エミリアはその出自と外見の特徴から、この世界で最も恐れられた『魔女』との類似性を、常に突き付けられているのだと。
「――――」
そして、その『嫉妬の魔女』との類似性は、四百年前に件の『魔女』の暴虐を食い止めた『三英傑』、その一角を担う『神龍』を奉じる『神龍教会』からして、決して無視できる存在でも、手放しに容認できる存在でもないはずだ。
ましてや、フィルオーレは教会の秘密である秘蹟の担い手であり、『聖女』的な立場に身を置く存在。『神龍教会』の教えの下に育った彼女が、エミリアにどんな印象を抱いたとしても、不思議でも何でもないのだ。
「馬鹿か、俺は。いや、馬鹿だ俺は」
こんなこと、レムに気付かされず、スバルが気付くべきことだ。
エミリアの一の騎士の立場にありながら、彼女が不当に傷付けられるかもしれない場所への警戒も、知識も足りていなすぎる。そのせいでエミリアの顔が曇ったとしても、自分が悪いのだと己を罵って帳尻を合わせようというのか。
自分の知識不足を悔やんで、だから王都へ急いだ一面もあったはずなのに――、
「レム、いつの間にか勉強してくれたのね。すごーく驚いちゃった」
しかし、そうスバルが悔やむ傍ら、当のエミリアが口にしたのは、不甲斐ない一の騎士への叱咤でも、レムの発言に気付かされたという驚きでもなかった。
彼女はただ微笑み、レムがその話題を選んだことに感謝する。
「……勉強だなんて、そんな大したことではありません。ただ、私も自分の居場所を作ってもらった立場ですから、姉様からお話を聞いていただけで」
「でも、それが嬉しいの。心配されてるのに……変よね」
「――。いえ、わからないではありません。心配されるのは、自分が情けないと思うこともありますけど、大事にされている気にもなりますから」
「ふふっ、そう? じゃあ、レムも私を大事にしてくれたのね」
「……先にしてくれたのは、エミリアさんだと思います」
自分を真っ直ぐ見るエミリアに、そう返したレムは目を伏せている。ただ、スバルの目にはそのレムの態度が、彼女なりの照れ隠しであるのがわかった。
エミリアの素直で純粋な眼差しは、色々と考え込んだこちらの思惑をめくってくる。レムの気持ちはよくわかるし、スバルもたびたび思い知らされることだった。
「――ベア子、ほっぺ!」
「やれやれかし、ら!」
その二人のやり取りの直後、スバルはベアトリスにそう呼びかける。途端、待ってましたとばかりに、ベアトリスがその小さな掌でスバルの頬を平手打ち――パチンと、愛らしい掌から痺れが走り、スバルが肩を震わせる。
「きゃ!? いきなりどうしたの?」
その突然の行動に、驚いたエミリアがそっとスバルの頬に触れる。その白い指先の冷たさにジンジンする頬を癒されながら、スバルは「いや」と肩をすくめ、
「ちょっと気合い入れてもらったとこ。ベア子で立て直すメンタリズム……ベアンタリズムとでも呼ぼうか。もしくはベアセラピー。どっちがいい?」
「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」
益体のないことを口にするスバルに、エミリアがいつもの調子で返してくれる。
その反応だけで、エミリアがスバルが懸念した事情を恐れていたり、スバルの不甲斐なさを心細く思ってはいないようだと、そう見て取れる。
「もちろん、それに甘えっ放しじゃいられねぇぜ。陣営の憂慮すべき事情に関して、記憶喪失のレムより察しが悪いのもどうかと思うし」
「それは本当に反省してください」
「俺ならできると思って言ってくれてるんだな、よし、任せとけ」
「――。まぁ、それでいいです」
レムからのエールもあり、へこたれかけたスバルのやる気は持ち直した。そうしてから改めて、スバルはビシッとフィルオーレに向き直る。
彼女は『神龍教会』の修道女であり、『聖女』だ。しかし、だからこそ――、
「そういう相手が偏見から解き放たれることに意味があると、俺は思う。だから、どうだろう、フィルオーレ。ここは一つ、エミリアたんと友好関係を結ぶってのは」
「友好関係? ねえ、スバル、それって……」
「そう、つまり――二人が友達になるってこと!」
ぐっと拳を握りしめ、スバルがそう力強く宣言する。するとそれを受け、エミリアが紫紺の瞳を輝かせ、胸の前で手を合わせた。
言わずもがなわかっていたことだが、エミリアは友達に飢えている。あのフェルトにも、真っ向から提案を叩き付け、友達になったという実績の持ち主だ。
そして、その友達モンスターであるエミリアだけでなく――、
「――わたくしと、友達に? 本気で!?」
ガタンと、派手な音を立ててテーブルに手をつくフィルオーレが食いついた。
彼女はその大きな赤い瞳をわなわなと震わせ、スバルとエミリアを交互に見やり、
「いえ、ごめんなさい、何かの間違いね。たぶん、聞き間違えでしょう。友達じゃなくて、例えば……そう、『友無し』。わたくしが友達がいないことの意」
「マズい、この聖女、ぼっちが過ぎる」
「で、でも、気持ちはわかるかも。私も、スバルが私と仲良くしてくれようとしたとき、何を考えてるのかわからなくてすごーく不安だったから」
「不安がらせてごめんね! 俺の気持ちは最初から変わってなくて、時間の経過と共に大きくなってくばかり……痛い! レム今俺の足踏んだ!?」
「違います。鉄球を落としました」
「持ってきてたんだ、モーニングスター!?」
いそいそと、レムがスバルの足の甲に落としたモーニングスターを背中に隠す。危うく足の甲を砕かれかけて戦々恐々だが、メイド服姿のレムが、スバルが屋敷にいられた間はせっせと磨いていた棘付き鉄球を持ち歩いている姿にはほっこりする。
「ねえ、フィルオーレ」
そんなスバルたちを余所に、エミリアが現実逃避しているフィルオーレに歩み寄る。
それから、エミリアがテーブルに置かれた手に触れると、フィルオーレがビクッと肩を震わせ、驚いたようにエミリアを見つめた。
「スバルから言い出してくれたことで、それに乗っかっちゃうなんてすごーく横着者だけど、どうかしら、フィルオーレ」
「どど、どう、と、言うと? わたくし、よくわからないわ……はっきり言ってくれないと、勘違いしそう。というか、現時点でしていないかしら? これは夢……?」
「ううん、夢じゃないわ。それに、勘違いされないようにはっきり言うわね。よかったら私と……いいえ、私たちお友達になりましょう!」
「――ええはいそうね喜んで!!」
瞬間、それまでの弱々しさとしおらしさが一変、パッと顔を明るくしたフィルオーレがエミリアの手を握り返し、二人がゼロ距離で新たな友情を育み合う。
そのスピーディーな展開に気圧されつつも、スバルは紛れもなく、いい方向に風が吹いたのを感じて深々と頷いた。
「何とか拗れずに話が進んでよかった。しかし、あの勢い……ベア子が俺の説得に耳を貸してくれたときを思い出すぜ」
「ベティーのときは、もっとロマンティックかつドラマティックだったのよ! あそこまでガツガツに飢えてなかったかしら!」
「痛い痛い可愛い可愛い」
憤懣やる方無しとばかりに怒ったベアトリスが、レムに砕かれかけたのと反対の足をピコピコ踏んでくるが、その重さも拗ね方も可愛らしいものである。
さらにちらと見ると、そのエミリアとフィルオーレの関係構築に、レムも安堵したように胸を撫で下ろしていた。
触れなくてはならない部分だったとはいえ、自分切っ掛けで破談もありえた関係性だったのだ。レムの心情も推して知るべし、だ。
「レムもなっとく? 友達」
「そんなに気安いものではないと思います。それに、私にはカチュアさんがいますので」
「別に、友達は何人いてもよくない? 俺なんか、剣奴孤島で知り合った人たち、みんな大体友達だと思ってるよ」
「カチュアさんがいますので」
なかなか頑なな答えだった。まぁ、友達をどんな風にカテゴライズするかは当人次第なところがあるので、そこのところにあれこれ言うのも無粋だろう。
少なくとも、エミリアとフィルオーレの間に友好的な関係が結ばれた。これはエミリア陣営的にも『神龍教会』的にも、歴史的快挙と言えるのではないか。
「フェルトちゃんともお友達になれたし、アナスタシアさんともお友達になる約束をしてるし、私、お友達作るの上手かも」
エミリアもエミリアで、短期間で複数の友達を作ったことで自信を付けている。この分だと、街で道行く人たちに次々声をかけ、友達を増やしていきかねない勢いだ。
それも悪くはない気がするが、なんだか別の意味で悪評が立ちそうな気がしなくもないので、いったん、エミリアの友達欲にはストップをかけなくてはなるまい。
「ねえ、待って、エミリア……エミリアって呼ばせていただくわね。わたくしたち、今友達になったのよね? なのに、わたくし以外の友達の名前を出すなんて、ちょっとひどいんじゃないかしら。別にね? 別にいいのだけど、もう少し、友達になったばかりのわたくしのことを見てくれても……」
フィルオーレはフィルオーレで、友達がいない期間が長すぎたのかもしれない。友達に過剰な期待を寄せているのか、ややヤンデレ感のある発言が出ている。
たぶん、友達欲が一人に傾きすぎているせいなので、友達を増やしてうまく欲求を分散させないと危ないかもしれない。レムに無理強いさせられないならスバルか、あるいはベアトリスがその受け皿になるしかなさそうだが。
「でも、実際、フィルオーレ的にはよかったのか? もちろん、俺のエミリアたんが『嫉妬の魔女』と被るところなんて見た目の特徴しかないけど」
「――? わたくしのエミリアに何か文句があるのかしら?」
「ヤバい、この聖女、友達できねぇわけだ!」
握ったエミリアの腕を引き、くるりとその胸に収まったフィルオーレの態度に、スバルは思ったより厄介な友達関係かもしれないと額を押さえた。
そのスバルたちのやり取りに、エミリアはフィルオーレを後ろから抱くような形になりながら苦笑し、
「もう、落ち着いて。ごめんね、私のお友達が」
「なんだ? 今俺何のマウントされてるんだ? エミリアたん、俺はエミリアたんのなに!?」
「え、スバルは私の騎士様でしょ?」
「だよね! ふう、危ねぇ。自尊心が満たされた」
銀髪のハーフエルフと『神龍教会』の間に生じるかもしれなかった溝は生じなかったが、代わりにエミリアの一の騎士と友達の間に生じかけていた亀裂。――それが、より大きなものになるかと思われた瀬戸際だ。
「――フィルオーレ、ルシアンたちを追い出したのか? ちゃんと反省した証拠に、見張られている約束だったはずだろ?」
不意に、談話室の扉が押し開かれかと思うと、そこに一人の青年が姿を現す。
鍔広の黒い帽子に、濃紫の装束を纏った細面の美形――彼は室内にフィルオーレと、彼女以外のスバルたちの姿を認めると、「おや」と黄色い瞳を丸くして、
「お客さんがきてたのか。やれやれ、あいつら、俺にも言わないだなんて、見張りも投げ出してるし、あとでちゃんと叱っておかないといけないな」
「あら、お帰りなさい、ティーガ。ねえ、見て、この子はエミリア、わたくしの友達よ。いいでしょう? わたくしの友達……ふふ、友達、ふふふ」
帽子の鍔を下げ、目元を隠した青年。その青年にフィルオーレが今なお自分を抱きしめているエミリアを紹介し、喜びがしとしとこぼれる。
美少女だからギリギリ許容範囲だが、友達中毒になりかけている顔だ。
そのフィルオーレの言葉に、ティーガと呼ばれた青年が「エミリア?」と眉を上げ、件のエミリアと、それからスバルたちを見比べ、
「なるほどな。お前に友達ができたことは俺も嬉しいよ。でも、それで俺に勝ち誇ったような顔をするのはいただけないな。例えば……なあ、友達にならないか?」
「え、俺?」
「そう、俺はティーガ・ラウレオン。そっちは……」
「ナツキ・スバルだ。よろしく頼むぜ、マイフレンド」
「――ああ、よろしく、『マイフレンド』」
悠々とやってきたティーガに手を差し出され、スバルは躊躇なくそれを握り返す。投げ渡した横文字にも難なく対応し、ウィンクなど投げかけてくるのもそつがない。そうしながら、口の中で何度か「マイフレンドマイフレンド」と繰り返し、すぐに馴染ませようとするところも。
一方、そのスバルとティーガの電光石火の友情構築に、衝撃を隠せないのは友達欠乏症が長かったフィルオーレだ。
彼女は愕然と目を見開き、スバルとティーガを交互に指差しながら、
「こ、怖くないの? 断られたらどうしよう、とか」
「おい、お前のとこの教育はどうなってんだよ。あんな物怖じしない性格のくせに、友達作りにだけ臆病ってバランスおかしいだろ」
「それについちゃ言い訳しようがない。なにせ、厳重に箱入りにされれたもんだから、外との接点に飢えてるところがある。これから長い付き合いになるかもしれないし、徐々に慣らしていってやってくれ。噛んだりはしないから」
「いらない注釈だわ! 噛むわけないでしょう! わたくしをなんだと思ってるの!? エミリアの友達よ!? あと聖女手前!」
「聖女の扱いの方が軽いのはいいんでしょうか……」
レムの呟きはさもありなん、フィルオーレの印象は短期間で七転八倒だった。
とはいえ、教会の関係者であるらしいティーガが戻ったということは、先ほどフィルオーレが話していた、城での話し合いに何らかの決着がついたということか。
「そういうことだ。って言っても、まだ身内で話し合わなきゃならないことがたくさんあってね。悪いんだが、今日のところはお引き取りを」
「マジかよ、マイフレンド。俺たちの間で隠し事なんて水臭いじゃねぇか」
「何でもさらけ出せるのが友達の条件って? 俺はむしろ、要所でちゃんと気遣えて、お互いに関係性を維持しようって努力し合えるのが友達だと思うが、どうだ?」
「ダメだ、スマートに論破された。ベア子、負け惜しみ言って」
「お前と違って、ベティーとスバルの間につまらない隠し事なんてないのよ」
「本当にただの負け惜しみでしたね」
友達の定義を真剣に検討したわけではないが、ティーガの表現には一定以上の説得力があったので、食い下がるのも分が悪かった。
そんなわけで、スバルの意を汲んでくれたベアトリスの負け惜しみに乗っかり、どうやら大人しく退散する方向にまとめるしかなさそうだ。
「まぁ、収穫はあったよ。会ってみるまでわからなかったけど、ひとまずフィルオーレには王選を混乱させようって思惑がないってのはわかったから」
「そうね、フィルオーレはいい子だもの」
「聞いた、ティーガ? あれ、わたくしの友達」
「わかったわかった。うちのフィルオーレと仲良くしてくれてありがとう」
離れ難い、といつまでもくっつかれていたらどうしようかと思ったが、そこは大人しく、フィルオーレはエミリアを解放、無事に彼女の奪還に成功する。
そうして、スバルたちの方に戻ってくるエミリアと入れ替わりに、フィルオーレの隣に立ったティーガが帽子を脱ぎ、瀟洒に一礼、
「ありがとうついでに、フィルオーレの友達と俺のマイフレンドを追い払うだけになるのもなんだ。一個、そっちにも朗報を伝えておく」
「俺たちに、朗報? なんだ?」
「――眠ってたカルステン公爵が、目を覚まされたって話さ」
「――っ、クルシュさんが?」
自然、身を乗り出すように聞き返したスバルに、ティーガが洒落っ気たっぷりに頷いてみせる。まさしく、相手の思惑通りに反応してしまい、やられた気分。
でも、やられても構わない。クルシュが目覚めたのは、間違いなく朗報だった。
「エミリアたん、このあと……」
「ええ、もちろん。お見舞いにいきましょう。私も、クルシュさんと話したいもの」
「じゃあ、わたくしもエミリアたちと一緒に――」
「フィルオーレはこっち。俺と、サクラたちが戻るのを待つんだよ」
調子よくこちらに並ぼうとしたフィルオーレが、ティーガに肩を掴まれる。彼女は自分の肩に乗ったティーガの手を恨めし気に睨み、
「……おかしくないかしら? だって、カルステン公爵のことでしょう? わたくしには秘蹟の結果を見届ける義務がある。そう、義務よ。どう?」
「だとしたら、秘蹟の担い手としての責務も果たさないと筋が通らないな。もちろん、カルステン公爵のお加減は確かめにいこう。あとで、教会の一員として」
「え、エミリア……」
「ん、大丈夫よ、フィルオーレ。ちゃんとあなたの分までお見舞いしてくるから」
「通じてない!? 友達なのに!?」
友達を高く見積もりすぎだった。
いずれにせよ、フィルオーレには悪いが、クルシュの無事を確かめたい気持ちはスバルの中でもかなり大きい。それこそ、すぐにでも出発したいくらいに。
「また別のタイミングで話そう。今日は話せてよかった。じゃあそういうことで」
「おざなりだわ! わたくし、よくないと……もがもがっ」
「ここは俺に任せて、お前たちは先にいけ!」
まだ未練たっぷりのフィルオーレを押さえ込み、悪役を買って出てくれたティーガがあまりにも頼もしいことを言って見送ってくれる。
なので、後ろ髪引かれる気持ちはありつつも、スバルたちは教会を脱出。
「あー、もう帰るの?」
「おねーちゃんはどうだった? どうだった?」
「どうせ空回りでしょ? やれやれ、あたしたちがいないとダメなんだから」
と、教会を出たところで、フィルオーレと戯れていた子どもたちにも見送られる。なかなか辛辣な評価でありつつも、的確な評価でもあった。
ともあれ――、
「――待っててくれ、クルシュさん。話したいことが、山ほどあるんだ」
そう、逸る気持ちを堪え切れず、スバルの足取りは早まる一方だった。
△▼△▼△▼△
――そうして、やってきていたエミリア陣営が退散するのを見送って、ティーガが押さえ込んでいたフィルオーレを解放する。
解放されたフィルオーレは、よろよろとテーブルに手をつくと、未練がましくいなくなったエミリアたちの残滓を目で追い、それからティーガを睨んだ。
「なんて目をするんだ。俺に言いたいことでも?」
「憎しみ……」
「やな単語だけ口にするなよ! 仕方ないだろ。話し合わなきゃいけないことがあるのも、カルステン公爵が目覚めたのも事実なんだから」
「ふんだ。社交性抜群のティーガ・ラウレオンさんにはわかりませんよーだ」
そう拗ねたように顔を背け、次いで、フィルオーレはテーブルの上で手付かずだった自分の紅茶のカップを持ち上げ、それに口を付ける。
怒涛の展開と話の流れに、まさにお茶を飲む暇もなかったというところだ。
そのフィルオーレの横顔を、ティーガは黄色い瞳を細めて見ていたが――、
「それにしても、よりにもよってエミリア様とはね」
「……何かしら? まさか、あなたまで銀髪のハーフエルフがどうとか」
「それもある。けど、それだけじゃない。――フィルオーレ、徽章は?」
ティーガに問われ、フィルオーレは少し鼻白んだあと、懐から徽章を取り出す。それを握った掌を開くと、紅の竜珠が眩い光を放った。
それを――否、その光と、それを光らせるフィルオーレを見ながら、彼は呟く。
それは――、
「――これから忙しくなるぞ。なにせ、一年半も出遅れてるんだから、な」




