第十章2 『教会の秘蹟』
――フーリエ・ルグニカという、不思議な青年がいた。
出会ったばかりの頃はまだ少年で、そんな頃から人間的な印象がほとんど変わらない、子どもっぽい人だった。
明るく、無邪気で、天真爛漫、一秒後には何をしでかすか、何を言い出すかわからないところがあって、周囲を常にハラハラさせる。
でも、どれだけ振り回されても、それを嫌だと感じさせない魅力があった。
十年来の付き合いだ。
何が起きるかわからない一秒を積み重ねて十年、色々なことがあった。
とても笑って済ませられないようなことだって、きっと何度となくあった。
なのに振り返れば、そんな出来事さえも笑って語れてしまう。
そしてその笑顔で語られる思い出の真ん中には、お日様のような彼の笑顔があった。
何の衒いもなく告白しよう。――フーリエ・ルグニカが、好きだった。
出会った日から今日に至るまで、一度としてその想いが揺らいだことはない。
フーリエにどんな言葉をかけられ、どんな思いをぶつけられ、どんな出来事を共有し、どんな時間を過ごし、どんな未来を夢見て、どんな辛い裏切りに遭い、どんな悲劇に心を引き裂かれようと、彼への好意が揺らいだことなど一度としてない。――ないのだ。
きっと彼ならば、どんな状況であっても笑みを絶やさない。希望を失わない。
事実、彼は最期の最期まで高潔であり、純真であり、一途であり続けた。
それを心の底から尊敬する。敬愛する。愛おしく、思う。
だから――、
「――殿下、どうか、私を許してください」
この決断も諦めも、決して、あなたへの愛が薄らいだ結果ではないのです。
△▼△▼△▼△
――『神龍教会』とは、その名が示す通り、王国と盟約を交わした『神龍』ボルカニカを信仰し、その力と恩恵を奉じる教団だ。
その設立はそれこそ四百年前、ルグニカ王国が親竜王国と呼ばれる契機になった盟約の時代にまで遡るため、由緒正しき歴史ある団体と言って差し支えない。
事実、『神龍教会』はその影響力の拡大を自ら諌め、王国の中枢たる王族や王城とは一定の距離を保ち続けてきた。それはとりもなおさず、『神龍教会』が必要以上の力を求めず、ただ信仰の拠り所として自分たちを定義してきた証であった。
故に『神龍教会』は、ルグニカ王族が死病によって全滅し、次の王位を決める王選が始まった際にも、王国に対して積極的な介入をしてこなかったのだ。
「――なんて、おちおち言っていられる状況ではなくなった。水門都市での魔女教の暴挙を耳にして以来、わたくしの忍耐力は日に日に限界に向かっていったのよ」
「――――」
「もちろん、この怒りの矛先が向かうべきは民草にひどい仕打ちをした魔女教だわ。だけど彼らを炙り出して、徹底的に罰するのは至難の業……というか、彼らを罰したところで被害に遭った方たちは救われない。何事も、優先順位というものがある」
「――――」
「救いに罰が優先されることがあってはならない。教典にもこうあるわ。『救いなき罰は空虚なる雷光、龍はまず翼を広げ、小さき命こそを慈しみ抱かん』と。それこそがわたくしの信じる、人道における最適解……!」
そう声高に力説し、女性は胸元に抱いた分厚い教典を力強く閉じる。
そのあまりの力の入り具合は、綴じた本の頁が抜け落ちないか心配になるほどだ。幸い、力一杯閉じられた本がバラバラになるようなことはなく、直前の力の入った演説の説得力が地の底に落ちる大惨事は避けられた。
「おほんおほん。ごめんなさい。少し、熱が入りすぎてしまったわね。わたくしの癖だわ。いい癖か悪い癖かは、今後のわたくしの行い次第といったところです」
と、益体なく本を案じていたこちらに、演説をぶっていた女性が恥じらいまじりの咳払いをしてそう言った。
それは自分の行いを反省しつつも、妙な前向きさが際立って聞こえる省み方だ。
良いも悪いもこれからの自分の心掛け次第と、そう言い切る強さが感じられ、好感の持てる考え方ではあった。――それはそれは、複雑な好感だが。
「――――」
ちらと視線で窺った相手、それは尼僧服を纏った美しい女性だ。
『神龍教会』の修道女を名乗った彼女は、先んじて王城で『賢人会』との話し合いを持ったのち、王都にあるこのカルステン家の別邸を訪れた。
その来訪の目的は驚くべきもので、いまだにその衝撃は薄らいでいない。だが、彼女がもたらした衝撃は、その来訪目的だけに留まらなかった。
金色の髪を長く伸ばし、意思の強い光を赤い瞳に宿した修道女。彼女のその身体的な特徴と、何より名前――フィルオーレと、そう名乗ったことが、来訪目的に匹敵する衝撃をこの老躯へともたらしたのだ。
「……こんなことを伝えるのは自意識過剰なようで気が引けるのだけど、そうやってジーッと見られていると、わたくしも戸惑うわ。……戸惑います。かなり」
「――。申し訳ありません。いささか、礼を失しました」
「いえ、咎めたいわけではないのよ。ただ、若輩者としては、『剣鬼』と呼ばれる方の眼光に畏れ多さ……怯え……身の危険? ええいとにかく、もっと聞こえのいい表現の何かを感じざるを得ないというだけなので」
そう、こちらの視線の不躾さを見逃してくれるフィルオーレに、その二つ名で呼ばれた『剣鬼』――ヴィルヘルムは静々と謝意を込めて一礼した。
謝意に込めた意図は、彼女を委縮させた視線と、長く待たせていることの二つ。なにせ、すでにフィルオーレがこの館を訪れてから、一時間以上が過ぎている。
その間、ヴィルヘルムは間を持たせる話をすることができず、沈黙を嫌ったフィルオーレが冒頭のように話題探しをする始末。気まずさを誤魔化すようにお茶のお代わりもするものだから、すでに彼女のお茶は六杯目に突入していた。
とはいえ、この話題の広がらなさの真相は、何もヴィルヘルムの口下手さだけが理由ではない。フィルオーレの来訪がもたらした二重の衝撃、それがヴィルヘルムの内心を大いに揺らし、平静を奪ったことが最大の理由だった。
実際、フィルオーレをどう扱うべきなのか。ヴィルヘルムはその答えを求めるように、彼女の背後、壁際に立つ人物を見やる。
それはフィルオーレと共に、この館に同行した長身強躯の男――、
「――近衛騎士団長、マーコス・ギルダーク」
「は」
その名をヴィルヘルムに呼ばれ、沈黙を守っていた白銀の甲冑を纏った大男、マーコスが伸ばした背筋をさらに正して応じる。
返事はたったの一言だが、それは巨岩が動いたような激動感と、重々しい声音の中に確かな畏敬が感じられるものだった。
その声音に込められた配慮に、ヴィルヘルムはゆるゆると首を横に振り、
「そう畏まらないでいただきたい。私が近衛騎士団長だったのは十年以上も前のこと。今の王国騎士団を率いるあなたとは、比べるべくもない老いぼれですよ」
「老いぼれ? ご冗談を」
ヴィルヘルムの一言をそう評し、マーコスの巌の表情に微かな笑みが浮かぶ。
謙遜とでも思われたようだが、それは偽りのないヴィルヘルムの自認だ。かつての剣力の冴えを取り戻さんと励んでいるが、老いた体に期待した成果はなかなか宿らない。
これでは到底、老兵が剣を手放せずにいる理由を果たすのに、遠く及ぶまい。
「少なくとも、現役の近衛騎士団長に冗談だと言わしめる程度には戻っているか。その点は僥倖と言えような」
当然だが、近衛騎士団の団長に任命されるのは王国でも指折りの実力者だ。
自画自賛するつもりはないが、ヴィルヘルムがそうであったように、マーコスもまたその地位に相応しい力量の持ち主――それも、歴代でも有数の猛者と見る。その所業の話題性ばかりが大きいヴィルヘルムや、歴代最強の『剣聖』であるラインハルトの存在に隠れてしまっているが、現在の騎士団の精強さは率いる彼の実力あってこそだ。
それもあって、ヴィルヘルムは歴代の騎士団長の中でも、マーコスこそが最もその適性のある人材だと評価している。もっとも、忠義よりも私怨を優先して職務を離れたヴィルヘルムの評価など、彼からすれば無価値な戯言だろう。
いずれにせよ、今ここでヴィルヘルムが話題にしたいのは、代を隔てた近衛騎士団長同士の苦労話などではない。もっと深刻で、重大な話だ。
それは――、
「――『賢人会』は、すでに事態を把握していると考えても?」
「無論です。只ならぬ状況と、そう受け止めている次第です」
「それは……必然、そうでしょうな」
主語を省いたヴィルヘルムも確認に、マーコスは何の話だなどととぼけなかった。
それが彼の人柄と立場、どちらが優先された答えかは不明だが、ヴィルヘルムとしては自分と同じ衝撃を『賢人会』も味わっただろうことが確かめられ、吐息が漏れる。
「王弟フォルド・ルグニカ様のご息女、フィルオーレ・ルグニカ様と同じ名前、とは」
吐息と共に溢れた呟き、それが安堵と嘆きのいずれでもない感情を孕んで聞こえて、ヴィルヘルムは自分で自分の心情に整理がつかない。そしてそれは前述の通り、ヴィルヘルムに限った話ではなく、『賢人会』や、王城の話し合いに参加した全員がそうだ。
十五年前に行方をくらましたフィルオーレ・ルグニカ――彼女と同じ、ルグニカ王族の身体的特徴を持ち、名前さえ一致する少女が突如として現れたのだから。
「――――」
手持ち無沙汰を誤魔化すように、七杯目のお茶に口を付けているフィルオーレを覗き見ながら、ヴィルヘルムはその横顔に記憶の中にある王族の片鱗を探す。
ある、と言えばあるし、ない、と言えばそれも通るような、曖昧な感触しかない。
元より、王女が消えたのは彼女がまだ赤ん坊の頃のことで、生き延びていた場合の成長度合いに関しては想像の域を出ない。――ただ、仮に彼女がヴィルヘルムたちの想像する通りの出自だとしたら、それは王国を激震させる重篤な問題だ。
それは王選の存続そのものを危うくし、さらには『神龍教会』の思惑次第では、王国の分裂さえ招きかねない災いの種とすら言っていい。
その種が何を芽吹き、どのような花を咲かせるのか、誰にも想像できないほどの。
とはいえ、現時点でもはっきりと断言できることがある。
フィルオーレの存在と、『神龍教会』を代表した彼女の提案、それによって大きく影響を受ける王選陣営が二つある。――その片方が、ヴィルヘルムも属するクルシュ陣営であることは言うまでもない。
「――クルシュ様」
瞑目し、ヴィルヘルムは自らに救いの手を差し伸べてくれた主のことを思う。
王選候補者の一人であり、カルステン公爵家を継ぐ王国有数の才媛は、妻の仇である白鯨を追い続けたヴィルヘルムにとって、かけがえのない大恩人であった。今も揺るぎなく彼女こそ王に相応しいと思えるのは、その恩義ばかりが理由ではない。
クルシュの姿勢、人柄、在り方――そうした磨き上げられた剣のように壮烈な価値観と態度こそが、ヴィルヘルムをして王位に就けたいと心から願える理由。
『暴食』の魔の手にかかり、その『記憶』が失われたとしても、彼女の中からひたむきな高潔さと、芯の通った誠実さを奪い去ることはできなかった。
それはすなわち、生まれ持った魂そのものの輝きであると、そう信じられる。
故に、そんな主の身をさらなる災禍が襲ったことはヴィルヘルムの痛恨であり、この体を引き裂くような無力感を突き付けてくる、苦い経験だった。
だが、己の過ちを悔い、判断の間違いや力不足を嘆けるだけ、まだマシと言える。
「――フェリス」
次いで口にしたのは、おそらくはヴィルヘルムの知る限り、王選が始まってからの日々を最も強い後悔と無力感に苛まれて過ごす、健気な一の騎士の名前だった。
「――――」
今、ヴィルヘルムが訪問客であるフィルオーレやマーコスを待たせているのは、他ならぬフェリスのため。応接室で停滞した時間を過ごすヴィルヘルムたちを余所に、フェリスはクルシュの寝室で、二人きりの時間を過ごしている。
それがどれほど悲痛で、辛苦を伴う時間であることか、ヴィルヘルムは歯噛みする。
それは、代わってやれるものなら代わってやりたいと、そう祈りたくなる苦難だ。
だが、ヴィルヘルムが代理を務めることはできない。――否、ヴィルヘルムだけではなく、他の誰にも、今のフェリスの役目を代わってやることなどできない。
フェリスにしかできない決断、フェリスにしか許されない選択が、そこに横たわる。
ヴィルヘルムも、フィルオーレもマーコスも、その決断と選択が為されるのを、ただじっと待ち続ける他にない。
焦れる必要は、ない。そう長くかからないことは、誰もが予感していた。
そして事実、そうなった。
「――待たせて、ごめんなさい」
痛々しい声で言って、フェリスが応接室に足を踏み入れる。
努力はしたのだろう。しかし、そのフェリスの白い頬には涙の跡があり、揺れる黄色い瞳には今なお、その片鱗を拭い去れない葛藤が色濃く残っている。
その細い肩を落とし、亜人の先祖返りを示す猫耳と尻尾をくったりと憔悴させた彼に、ヴィルヘルムはかける言葉を躊躇った。
「どうなった」なんて白々しい問いかけはできない。ならば「お前は悪くない」か? いったい、どの面を下げてそんなことが言えるのか。まして、「仕方のないことだ」だなんて言おうものなら、自分で自分の首を落としたくなる。
言える言葉はない。ありとあらゆる言葉が、今のフェリスにとっては刃になる。その中で選べる沈黙こそが、最も刃渡りの短いマシな刃だった。
「時間の多寡をわたくしは問題にしないわ。あなたが負わなくてはならない責任の重さは承知しているつもりよ。……気休めでしか、ないでしょうけれど」
「……ですネ。でも、気休め、助かります。今、いっぱいいっぱいだから」
無言のヴィルヘルムに代わり、声をかけたフィルオーレにフェリスが応じる。
普段の悪戯な稚気を交えた軽口は鳴りを潜め、力ない微笑は触れれば崩れてしまいそうな、砂糖菓子の細工のような脆さがある。
それをひしひしと感じているだろうに、フィルオーレは言葉を重ねた。
今にも壊れてしまいそうなフェリスの、その瞬間が訪れるのを先延ばしにするように、
「答えを、聞かせてちょうだい。――あなたの、答えを」
そっと手を差し伸べ、フィルオーレがその赤い瞳でフェリスを見つめ、問うた。その眼差しを真っ向から受け止め、フェリスの薄い唇が震える。
生じる躊躇い、しかし、それは『青』の忠愛を引き止める力はなく――、
「――お願い。私じゃ、ダメなの。クルシュ様を、助けて」
それが『神龍教会』の、フィルオーレの差し伸べた手に対する、クルシュ・カルステンの一の騎士である『青』のフェリックス・アーガイル――フェリスの、答えだった。
△▼△▼△▼△
「――それ、ホントなの?」
王都にあるカルステン家の別邸、そこに運び込まれているクルシュに対し、その身を苛む邪毒への対抗手段が施されると聞いたのは、王侯館を訪ねてくれたフェルトと友達になる約束を交わし、ほんのひと時の安らぎを過ごしていた最中のことだ。
「はっきりしたことはわかりませんが、王城で『神龍教会』絡みの話し合いが持たれていたようです。どうやら教会は、『色欲』の大罪司教の被害に遭ったカルステン公爵のお体に、何らかの対応策があるようで」
「何らかの対応策って……それって、クルシュさんの体を治せるってこと? スバルの手が真っ黒になっちゃったのとは別の方法で?」
「残念ながら、詳しいことまでは……」
「なら、うだうだしてらんねーだろ。――ラインハルト、お前ちょっと城までいって、何の話してたのか聞いてこいよ」
「承知しました」
お茶を淹れて戻ったオットーからの報告にエミリアが戸惑う傍ら、素早く決断したフェルトの指示を受け、ラインハルトが即座に城へと飛んでいく。
窓から飛び出したラインハルトの姿が小さくなるのを見届け、エミリアは口の中で「『神龍教会』……」と呟くと、
「ボルカニカをすごーく信じてる人たちよね。でも、王国の政には関わらないように、お城には近付いてこないって話だったはずよ」
「だってのに、テメーらの決め事破ってまで城にツラ出した。……クルシュ姉ちゃんの体をどうにかできるってんならいい話だが、それならそうともっと早く言えよってんだ」
「『神龍教会』の思惑は知れません。現状、まだ未確認の情報ですから。ただ――」
困惑が色濃くなる会話の中で、考え込むようにオットーが口を噤む。その様子にエミリアが「オットーくん?」と首を傾げると、彼は首を横に振って、
「いえ、まだ何も確定的でない状況で言うべきことではありませんね。今は、ラインハルトさんが戻られるのを待ちましょう」
「……そう? わかったわ。言いたくなったら、ちゃんと聞かせてね」
「緑の兄ちゃんが言いたくなるかはともかく、ラインハルトのヤローが戻るのはそう待たせねーよ。ったく、じれってーな」
腕を組み、床を爪先で叩きながらフェルトが焦れながらそう呟く。
窓の外を眺めるフェルトの傍らで、その頭をそっと抱き寄せながら、エミリアはラインハルトの向かった城ではなく、同じ貴族街にあるクルシュの屋敷を探した。
プリステラで別れて以来、その安否を確かめられていないクルシュ。プレアデス監視塔から、すぐに役立つ朗報を持ち帰れなかった負い目に胸がしくしくと痛む。もし、オットーの盗み聞きの通り、『神龍教会』がクルシュを救えるのなら――、
「それは私たちじゃなくて全然いいの。だから……」
「――きた!」
祈るように呟きかけたエミリアを、威勢のいいフェルトの声が塗り潰した。
城に向かったときと同様に、ひとっ飛びで王侯館に戻ってきたラインハルト。彼は窓際に駆け寄るエミリアたちの前で、庭の芝生を荒らさないよう静かに着地する。
そして――、
「フェルト様、急を要する事態です。城にご一緒いただけますか」
「ああ? なんで城だよ。それより、さっきの話の方は……」
「――フェルト様」
フェルトの話を遮り、短く名前を呼んだラインハルト。その雰囲気の鋭さに、フェルトはその赤い瞳を細めると、「ちっ」と舌打ちして、
「わーった。アタシは城な。エミリア姉ちゃんたちは?」
「オットーの報告の裏付けが取れました。確かに、『神龍教会』がクルシュ様の屋敷に向かったそうです。そちらには――」
「私たちがいくわ。いてもたってもいられないもの!」
オットーの報せが正しかったと聞いて、エミリアが自分の胸を力強く叩く。
クルシュのことがとても心配だが、フェルトが城にいかなくてはならないなら、彼女の心配の分までエミリアが抱えて見舞ってくるつもりだ。
もちろん、慌ただしくて追い返される可能性だってかなり高いが、
「訪ねる分には、でしょう。こちらは任せてください。……僕たちも、あとで城にいく必要がありそうですかね」
「そうだね。そう思ってもらった方がいい。フェルト様」
「何回も呼ばれなくてもわかってるってんだよ」
手を差し伸べるラインハルトに鼻を鳴らし、それからフェルトはひょいと窓枠に飛び乗ると、「エミリア姉ちゃん」と彼の腕に飛び込む前に振り向き、
「プリステラが荒らされる前の晩、アタシ、クルシュ姉ちゃんともっと話そうって約束してたんだよ。だから……」
「――! ええ、任せて! フェルトちゃんがすごーく心配してたって、ちゃんとクルシュさんにも伝えておくから!」
「はん。お友達だらけにすんのもどーかと思うけどな、王選」
力強く請け負ったエミリアに肩をすくめ、フェルトがラインハルトの腕に飛び込む。その体を恭しく受け止めて、ラインハルトは彼女を抱え直しながら、一瞬だけエミリアたちに目配せし――直後、再びの跳躍で一気に城に向かっていった。
「やれやれ、規格外ですね。僕たちは人間らしく、この足で急ぎましょう」
「私も頑張ったら、オットーくんを抱えてピョーンって飛んでいけるかも……」
「それはぜひ、僕じゃなくナツキさんにしてあげてください。――急ぎましょう」
「そうね!」
オットーの促しに頷いて、エミリアも急ぎ、王都の街並みに飛び出していく。
向かう先はカルステン邸――以前にも、白鯨の討伐からの帰路で襲われ、被害を負ったクルシュたちを案じて急いだ道のりを、前以上に速く、もどかしく走って。
そして――、
△▼△▼△▼△
「――フェリス!」
息せき切ってその場に駆け付けたエミリアは、祈るように跪くフェリスの姿を目にしたとき、思わず悲鳴のような声で彼を呼んでいた。
そのエミリアの声に亜麻色の猫耳が震え、おずおずと、フェリスが振り返る。
「……エミリア、さま?」
「ええ、そう。全部じゃないけど、話は聞いたわ。くるのが遅くなってごめんなさい」
弱々しいフェリスの声に、エミリアは切実な痛ましさを覚え、胸の奥を軋ませる。
いつも可愛らしく、溌溂とした雰囲気のフェリスなのに、こうして久しぶりに再会した彼の様子はあまりにも痛々しく儚げで、消えてしまいそうだった。
それを引き止めたいばかりに、エミリアは躊躇いなくその細い体を抱きしめる。
「――涙と、鼻水ついちゃいますよ」
「そんなの何ともないわ。へっちゃらよ。そんなことでフェリスを放っておく方が、ずっとずっと痛いことだもの」
「――っ」
腕をきつくしすぎないように気を付けながら、エミリアは自分の体の熱と、目の前のフェリス、そしてクルシュを案じる想いが伝われと、そう願う。
そのエミリアとフェリスの背後、絨毯を踏みしめてやってくるのは、対応してくれたヴィルヘルムだ。慌てふためいて屋敷を訪れたエミリアたちを、ヴィルヘルムは門前払いすることなく、こうして中に上げてくれた。
ちらと、エミリアに遅れてやってきたオットーが、そのヴィルヘルムを窺い、
「訪ねてきておいてなんですが、よかったんですか? この状況で……」
「私の独断ではありますが、この状況だからこそ、ですよ。今はただ一人でも、クルシュ様のご無事を心から祈っていただける方がいるのは心強い」
「……確かに、その点に関して、エミリア様の力は大きいでしょうね」
そう何やらオットーたちが背後でやり取りしているが、その言葉はエミリアの耳には入ってこない。今は全霊を、腕の中のフェリスに傾けたい。弱々しく、痛々しく震えるその体を抱きながら、エミリアは優しく彼の背中を撫でて、
「フェリス、クルシュさんは……」
「――中、です。あの部屋の中で、今、治療を……」
「――――」
抱きすくめられるフェリスが視線で示したのは、彼が跪いて祈りを捧げていた扉――エミリアの記憶では、そこは寝室であった場所。
まず間違いなく、クルシュが寝かされている部屋、そこで治療が行われている。
それなのに、フェリスがこうして部屋の外にいるのは――、
「――『神龍教会』の、門外不出の秘蹟とのことです」
廊下で置物のように静かに佇む巨躯、それが答えを返してくれたことにエミリアは驚く。見れば彼は、王城で幾度も見かけた近衛騎士団の団長だ。
近衛騎士団長も、クルシュが心配で駆け付けてくれたのだろうか。もしかしたら、フェリスと仲良しで、その縁でいてくれているのかもしれない。
いずれにせよ――、
「秘蹟……それで、クルシュさんを助けられる?」
「わ、わかりません……でも、でも、他に方法がなくて……わ、私が、わたし、が、役立たずだから……っ」
「そんなこと……っ!」
ない、と声を大にして言いたかった。事実、少し前までのエミリアだったら、何も考えないでそれを言い切ってしまっていたに違いない。
でも、何も考えないで、ただ勢い任せにそれを口にすることが、本当の意味でフェリスを励ますことにも、慰めることにもならないと今はわかる。
フェリスはすごい。本当に、すごく、特別な、とても優しい力の持ち主なのだ。
でも、エミリアが心から尊敬するその力を、フェリスは一番大事に想っているクルシュのために役立てられない。そんな本当に辛くて苦しくてどうしようもない現実に、こんなにも涙を流して震えているのに、何も考えないで、言っていいはずがない。
「大丈夫、大丈夫よ」
だから、エミリアは言いかけた言葉を呑み込んで、フェリスを優しく抱きしめる。抱きしめ続ける。抱きしめ続けて、寄り添い続ける。
それが、何もできない無力感で凍えそうになるとき、エミリアがやってもらって一番嬉しかったことだから、同じように、それをする。
「――頑張って、クルシュさん」
嗚咽をこぼし、体を震わせるフェリスを支えながら、エミリアは祈る。
寄り添い、クルシュの無事を祈るエミリアとフェリスの後ろで、オットーやヴィルヘルム、近衛騎士団長も祈ってくれているのがわかる。
顔も何も知らない、『神龍教会』の誰かが、扉の向こうで奮闘している。
人々のために戦い、ひどい傷を負うことになったクルシュを救うために。
その頑張りが届いてほしいと、祈り、祈り、祈り、そしてやがて――、
「――入って、いいわ」
不意に、扉の向こうから聞こえた声に、弾かれたようにエミリアは顔を上げる。
疲労困憊した女性の声、その内容にビクッと腕の中のフェリスが震え、信じられないようにエミリアの顔を見つめてくる。
一心不乱の祈りを唐突に打ち切られ、フェリスの頭が現実に追いつけていない。
「立てる?」
「は、はい、たて、立てます……」
そのフェリスに先んじて立ち、エミリアは彼に腕を貸して立ち上がらせる。細い膝が頼りなく震えるが、丸い瞳を扉に向けたフェリスは息を吐き、一歩、一歩を踏みしめた。
そうするフェリスの肩を支え、エミリアもまた、扉に向かう。そして、全身の震えが止まらないフェリスの代わりに、扉の取っ手をひねった。
音を立てて開かれる扉、その向こうに寝室がある。部屋の中央に置かれた寝台、そこには一人の女性が寝かされていて、その姿は――、
「――ぁ」
掠れた吐息が漏れ、夢を見ているような足取りで、フェリスが前に進み出た。そのあまりに頼りない足は、すぐにでももつれ、彼を引き倒しそうに思える。
でも、そうはならなかった。エミリアの支える手を無意識に振りほどいて、倒れ込むような勢いでフェリスが寝台に、そこに寝かされたクルシュに向かう。
「クルシュ様……クルシュ、さま……クルシュ様ぁ……っ」
ひきつった涙声が、愛おしい相手の声を幾度も呼ぶのを聞きながら、エミリアもまた部屋の真ん中に足を進め、フェリスの見つめるクルシュを見る。
長く、寝たきりの時間を過ごしながら、それでも日々の手入れを欠かされなかったクルシュの美貌はやつれ、肌は病人のように青白くなっている。――だけど、その顔や首、体に根を張るように伸びていた邪毒は、見える肌のどこにも見当たらなかった。
「祈りは、届くのよ」
「――あなたは」
寝台に縋りつくフェリスの傍らに立ったエミリアが振り向くと、寝台の向こう側、床に足を投げ出して座っている金髪の女性の姿があった。
彼女が、クルシュを救うための方法を試してくれた『神龍教会』の関係者。疲労が色濃い呼吸と、額に大量の汗を掻きながら、しかし女性は唇を綻ばせ、
「教典にも、こうあるわ。『一人の救済は、万人の祈りによって成る。分かち合うことこそが、龍の恩寵を最たるものとする』と」
「――っ、ありがとう」
「このぐらい、ちょろいわ。……当然のことです」
勇ましい笑みを浮かべた女性が、表情を引き締めて、すぐにそう言い直す。そんな彼女の尽力に心から感謝しながら、エミリアはしゃがみ、フェリスの肩を抱いた。
震え、涙するフェリスを支えながら、その祈りが届いたことを、心から喜んだ。
「クルシュさん、起きたら、話したいことがすごーくたくさんあるの。フェルトちゃんからの伝言もあるし、私も、たくさん」
その顔からおぞましい邪毒の痕跡を消して、目を閉じたクルシュは眠っている。その寝顔に向かって、エミリアは目覚めのときを待ち望みながら、声をかける。
目を覚ましてくれたら、話したいことがたくさん。その中に、アナスタシアとフェルトのことで、味を占めたエミリアのワガママもある。
だから――、
「すごーくすごーく、頑張ってくれて、ありがとう」
そう、エミリアはこの場にいる全ての人に感謝しながら、目尻を下げた。
△▼△▼△▼△
「――――」
『神龍教会』の秘蹟、それが効果を発揮したのを目の当たりにしながら、オットーは寝台に横たわる主に縋り付くフェリスと、それを支えるエミリアを見ていた。
「クルシュ様、よくぞ……よくぞ……」
同じく、その光景を目にしたヴィルヘルムが感極まり、声を震わせている。
『剣鬼』と称され、その伝説的な剣力で知られた彼も、苦悶のときを過ごす主の力になれないことに胸を痛め、心をすり減らし続けていた証だ。
一の騎士であり、長年の忠義を捧げてきたフェリスと比べるものではないが、それでもヴィルヘルムの胸を安堵と感謝が染み入っているのがわかる。
そしてそれは少なからず、オットーも同じだ。
折しもこの直前に、たまたまラインハルトと振り返った通り、プリシラの死がもたらした衝撃はオットーにもあった。ならば、あの水門都市での戦いで深い傷を負ったクルシュが救われたことにも、確かな安堵を覚える。
よかった。本当に、よかった。
それと同時に、エミリアには聞かせられなかった可能性も、確信する。
それは――、
「――クルシュ・カルステン公爵の王選は、ここで終わりです」
それは少なくとも、今この場で、クルシュの無事と回復が涙を流して喜ばれるこの場で、誰にも聞かせる必要はないと、口の中だけで囁かれる確信だった。




