第九章幕間 『エール』
――『憂鬱の魔女』ペトラ・レイテにとって、目指すべきで、辿り着くべきで、行き着くべきエンディングは、最初から一つだけだった。
それは『憂鬱の魔女』となる前の、ただの村娘だったペトラ・レイテが、ナツキ・スバルの『死者の書』なんてとんでもないものを読んでしまったときから。
それはナツキ・スバルが自分の『死』と引き換えに、たくさんの人の運命を変えるために戦い続けてきたのだと知ってしまったときから。
それはナツキ・スバルが何を喜び、何を悲しみ、何に幸福と不幸を感じる人なのか、何気ない日々を共にすることで愛おしんでしまったときから。
――そんな色んな理由を、まとめて合わせて束ねてくるみ、決まっていた。
「だってどうせ、スバルはアルさんのことも何とかしたいんでしょ?」
正直、ペトラからすればとんでもない話だ。
アルがしでかしたことを指折り列挙していけば、手足の全部の指を使っても足りないから、『見えざる手』まで動員して足りない指を折らなければならなくなる。
そのぐらい、アルは取り返しのつかないことを山ほどした。――でも、それでアルが根っからの極悪人で、何もかもを嘲笑いながらそれをした、とは思わない。
「これも、スバルの本の影響に毒されてるのかなぁ……」
自分で言うのもなんだが、ペトラはリアリストだし、抱え込める範囲も狭い。狭いというより、あえて狭くしていると言った方が適切だ。
それはだって、持っている器量を余すことなく使ったら、結構な数のものを詰め込める器が自分にあると、そうペトラは自負している。それは恥ずかしがらない。
でもその器量の隅々まで使って、詰め込める全部を大事にしようとは思えない。
なのに――、
「スバルの欲張り……」
でも、そこが好き。――間違い。そこも好き。
そして、そんなナツキ・スバルを変えられないから、ペトラ・レイテはやる。
それは強烈に身を切られるように、容赦なく心を引き裂かれるように、痛い決断。
――ナツキ・スバルを『死に戻り』させて、全ての出来事をリセットする。
プレアデス監視塔を離れ、イマジナリースバルと共に往くことを決めたそのときから、ペトラ・レイテはそのエンディングに向けて邁進してきた。
『憂鬱』の魔女因子の所有者になると強硬に主張し、権能の使用に伴う代償の支払いを一部を除いて自分自身に一元化し、切れる交渉の手札は惜しみなく切って、伝えられる情報の全てを供出することで、『アルデバスターズ』の方針を決定した。
「わたしが本を読んだことが原因で『嫉妬の魔女』が暴れてるんなら――それも、使えるよね」
『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドが監獄塔を出され、その権能の効果に思い至ったときから、ペトラの中には疑問があった。――もし、『死者の書』を読んだペトラの『記憶』が奪われたなら、『嫉妬の魔女』はどういう判定をするのかと。
そしてそれがそのまま、世界を滅ぼすつもりまではないと言ったアルの、『嫉妬の魔女』を退散させるための作戦なのではないかとも。
だから、『アルデバスターズ』の総力でロイ・アルファルドを撃破したとき、虫の息だったロイを縛りながら、約束したのだ。
「わたしを食べたいなら、チャンスは作ってあげる」
もちろん、守らないでいいなら容赦なく破るつもりの約束。
ナツキ・スバルの悪影響を受けたペトラは、嫌いな相手の約束を破ることを屁とも思わないアウトロー。
それに万一、それが実現したときの備えも、心強い相手を味方にできた。
「レム姉様は、すごいな」
しんみりと、ナツキ・スバルの影響が多大に入った贔屓目抜きに、そう思う。
レムがスバルの『死に戻り』――当初は『時間遡行』だが、それに気付いたのは、ロム爺がアルの権能の正体を解き明かしたことが切っ掛けだったとはいえ、自力だ。
レムは自力で、ナツキ・スバルが命を犠牲に戦い続けてきた人だと気付いた。――それを嬉しく思う反面、悔しいとも、思ってしまう。
「でも、だから、レム姉様になら託せる。……ううん、レム姉様しか、ダメ」
たとえ道中、どれだけいいことがあろうと、どれだけ手放し難い思いを得ようと、その全てをひっくり返し、なかったことにするとペトラ・レイテは決めたのだ。
そしてそれには正しく、ついに『名前』と『記憶』を取り戻したレム、本当の意味で帰ってきた彼女を迎えたこと、それさえも消えてなくなる。
それをわかっていてやろうとするペトラには、レムを巻き込む義務があった。
同じ、消えることをわかっている同志として、それでも一番大好きな人に、何一つ取りこぼしてほしくないと心の底から思う女同士として。
これしかないと信じ込んで、愛のために、全部をなげうてる人にしか託せない。
もっと他に、これよりいい答えがあると、それをギリギリのギリギリまで、一生懸命探してしまう人には、こんなひどいこと任せられない。
だからここは、ペトラとレムで、やってのけるのだ。
「スバルもエミリア姉様も、疲れちゃったよね。ごめんね。なのにわたしまで、重荷になっちゃう。ごめんね。ずっとずっと、足りないお礼を言い続けてあげたかった……」
ありがとうと、本当の意味でのありがとうを、伝えたかった。
『死者の書』を読んで、全部を知っているペトラ・レイテとして、茨の道を往くエミリアと、それを身を粉にして支えることを選んだナツキ・スバルの、その道筋を応援したかった。
それは叶わない。ペトラ・レイテは全力で頑張るけれど、何も知らない村娘に戻る。
それが悔しくて、悲しくて、ありがとうとごめんなさいを、言い足りない。
それでも――、
「……できること、全部やったかな」
限られた状況の中で、自分にできる目一杯をやったのではないだろうか。
アルだって、自分が負けないためのオールスターを用意していただろうに、それを押し返すための試行錯誤、こちらは一回しかできないのだから不公平にも限度がある。
でもやった。やってのけた。途中、記憶がないはずのオットーが参戦してきたのは、さすがにちょっと引いてしまったが、それもこれも全部、全員参加の賜物だ。
「ふふっ、これはちょっとすごいでしょ? 惚れちゃう?」
『――。だな。惚れそう』
小首を傾けて、自分で演出できる最高の可愛い顔でお出迎え。
そのペトラの愛らしい仕草と問いかけに、イマジナリースバルはそうはにかんだ。これは言わせたいペトラのまやかし? それとも、本物でも言ってくれそうな迫真?
「なんて、消えちゃう前なんだから、都合のいい方に取らないとね」
そっと手を伸ばして、触れられない手に手を重ね、指を絡める。このぐらいのファントムな役得、許されてもいいだろう。とても頑張ったし。
『そう言えば、一個聞いてもいいか? いや、俺の立場で聞くの変なんだけど』
「ん~? なに?」
『クリンドさんから魔女因子を譲ってもらう前に、一回、移動のための対価をペトラが払ってたけど……教えてくんなかったじゃん? あれ、なんだったのかなって』
「聞かせなかったんだから、聞かないままで終わったら?」
『そんな殺生な』
情けない顔も可愛く見えて、ペトラは小さく噴き出す。
でも、さすが、イマジナリーだろうとスバルはスバル。ペトラが見てほしくない、知ってほしくないと隠したことは、たとえ頭の中の住人だろうと勝手はしない。
そのことに安堵しながら、ペトラはペロッと舌を出して、
「なーいーしょっ」
イマジナリースバルに渋い顔をさせてしまったが、ペトラ的には隠したい。
一個くらい、イマジナリースバルにだって見せない乙女の秘密があってもいい。それにこの乙女の秘密は、ちょっとだけ乙女心のズルがある。
あのとき、ペトラはクリンドに、自分のとある可能性を対価に捧げた。
それは――、
「――わたしが、スバルのお嫁さんになる可能性」
ペトラの想いを知るクリンドの、あのときの驚きぶりは相当なものだった。
竜人なんてすごく重たい歴史を背負った立場だったらしいクリンドの、献身的に自分の可能性を捧げるペトラを見る目、その感極まった反応は忘れ難い。
だからこそ、申し訳なかった。――だってペトラは、あの対価で確信した。
「それを対価にできるんなら、わたしには、その未来の可能性がちゃんとある」
『憂鬱』の魔女因子の性能を考えれば、正確には『ペトラがスバルと結婚する未来を手に入れるために行う様々な努力』という世界への影響力を捧げたことになるのだろう。
が、そういった細かいことは、その瞬間のペトラには何ほどでもない。
大事なのは、ペトラ・レイテがナツキ・スバルのお嫁さんになる未来を信じること。
そしてそれは、他ならぬ、世界の核心に触れる魔女因子が証明してくれた。
その確証があったから、やり遂げようと決めて、最後の最後まで走り切れたのだ。
だから――、
「頑張ってね、わたし。――チャンスを掴めるかは、わたしの頑張り次第だよっ」
それが『憂鬱の魔女』となり、魔女因子を自分の幸せのために利用した村娘から、『憂鬱の魔女』にならない未来の自分に向けたエール。
――タフでしたたかな、異世界の女の子の、ちょっと重たい愛のエールなのだった。




