第九章54 『『魔人』VS『魔女』』
「――ボクも、君と同じ不出来な娘だよ」
そう口にしたときの『魔女』の物憂げな表情を、アルデバランは決して忘れない。
思ったのだ。
こんな、この世の摂理の何もかもを知っているような顔をして、世界の隅々にまで知識の根を張り巡らせたような態度で、森羅万象に通じた風な佇まいでいる『魔女』ですら、自分の力不足を嘆きたくなる瞬間があるのかと。
「もちろんあるとも。言ってみれば、君の存在……君がこうしていること自体、ボクが足りないことの証明のようなものだからね」
そう言われると、アルデバランの心中は複雑だ。
アルデバランにとって、この『魔女』の存在は大きく、言いたくないが、偉大だ。比較対象が他にあまりないものの、何と比べても大きく感じる相手だろうとも。
そんな『魔女』が、自分を不出来だと語るのは嬉しいものではなかった。
ただ、その『魔女』の自認がなければ、今のアルデバランとの関係もない。もしも、『魔女』が己の不出来を自認しないで済む立場だったなら――、
「そのときは、ボクも君も本来いるべき場所にいられただけだ。そうならなかった未来に思いを馳せるのは自由だが、生憎と君は一番悪い運命を引き当てたよ。申し訳ないことに、ボクにとっては僥倖ではあったけどね」
その偽悪的な言い回しには、『魔女』なりのユーモアと、『魔女』なりの本音が等分に入り混じっていたように思う。実際のところはわからない。
いつも、自分には人の心がわからないと嘯く『魔女』の本心は、付き合いの長いアルデバランにも曖昧で、掴みどころのないものだったから。
だが、もし『魔女』の言い分が正しいのだとしたら、おかしな話だ。
なにせ、今の境遇はアルデバランにとって、一番悪い星の巡りらしいというのに、アルデバランは『魔女』との日々を、不幸なものだと思っていなかった。
確かに、試練と称して百万回殺される体験をさせられたり、嫌だと拒んでも好きではない名前で呼ばれたり、人並みの幸福とは縁遠い環境には違いないが。
「出来損ないの『魔女』との暮らしに価値を見出すなんて、君も哀れな子だ」
それは自嘲であり、しっかり他嘲でもある複雑な呟きだった。
しかし、そこに隠し切れない穏やかな響きがあったのをアルデバランは聞き逃さない。
ささやかでも、紛れやすくても、わかりづらい感情が『魔女』にはちゃんとある。そう信じられる根拠となる痕跡を探し出すのが、アルデバランの趣味だった。
本当はどうかわからない。ただの思い込みや勘違いかもしれない。
重要なのは、アルデバランがどう感じるかで、『魔女』の真意は『魔女』のもの。――アルデバランにとっての真相は、アルデバランのものだ。
「そう割り切れる姿勢はよく似ているよ。やはり、影響というものは馬鹿にできないな」
黒い瞳を細め、白い前髪を指で弄りながら、『魔女』がそう口にする。
それはアルデバラン越しに誰かを、そしてアルデバランの瞳に映り込んだ自分を、それぞれ見ながら呟かれた『魔女』の述懐だった。
影響、それはもちろんあるだろう。生まれにも、育ちにも。
アルデバランにも、『魔女』にも。
不出来、不十分、不完全。――それは、『魔女』にとって恥ずべき過去だろうか。
そうであってくれたから『魔女』との日々があると、そう思うのは呪いだろうか。
ただ一つ、言えることがあるとすれば――、
「――アルデバラン」
アルデバランの十年と、相手にとっての四百年越しの既知の情景の中での再会、そこで目にした『魔女』――否、『強欲の魔女』の姿が、あの日語った不出来を否定するものであったとき、アルデバランが味わったのは、耐え難い喪失感と絶望だった。
△▼△▼△▼△
――カチカチと、黒兜の金具を指で弄りながら、アルデバランは状況を俯瞰する。
眼前、いっそ神々しさすら感じる巨大な氷のアンカーと、それを目印にずらりと揃い踏みした顔ぶれが、堂々とアルデバランと対峙している。
相対するのはフィルオーレ――否、フェルトを中心とした一団で、ここに彼女らが勢揃いできていることの意味を、アルデバランはあえて問い質しはしなかった。
聞かなくともわかる。――ロイやハインケルは、敗北したのだ。
まさか、『アルデバラン』までも負けたとは思わないが、この場に『龍』が駆け付けない以上、『アルデバラン』さえもどうやってか足止めされているらしい。
正直、権能と不殺、二つの縛りがあるとはいえ、『暴食』の大罪司教を負かした上に、『神龍』まで対策してくるとは想像以上だ。
いったい、どんな策を用意してきたのか、聞いても答えてもらえないだろうが――、
× × ×
――二百四十六。
「――いくら何でも、魔女因子は覚悟決まりすぎだぜ、ペトラ嬢ちゃん」
「――っ」
真正面からのアルデバランの指摘に、フェルトたちの間に緊張が走った。
とりわけ頬を硬くしたのは、もちろん名前を呼ばれたペトラ本人だ。彼女たちからすれば、ペトラの権能は切り札であり、トップシークレットだったはず。
実際、その方針は仲間全員にしっかり共有されていた。
だが、どんな鉄の心の持ち主も、不意の一刺しにまで無反応ではいられない。
アルデバランの問いに、誰もが表情や気持ちを取り繕ったが、ほんのささやかでも視線や意識が動けば、その矛先を何度も試して辿るだけ。結果、些細な反応を辿った先には、アルデバランの欲しい答えが健気に立っていた。――それがまさか、魔女因子を取り込んだペトラだったとは相当驚かされたが。
「そもそもオレの想定じゃ、あれを読んだペトラ嬢ちゃんかメィリィ嬢ちゃんは、戦線復帰なんてありえねぇはずだったんだが」
プレアデス監視塔でナツキ・スバルとベアトリスを封じ込めたアルデバランは、ガーフィールとエッゾを退けたあと、ペトラたちに危害を加えず見逃した。
それは排除する必要がなかっただけでなく、その後のことを見越した策だ。
ラインハルトの足止めには、どうしても『嫉妬の魔女』の顕現が必要だった。
そのトリガーとなる、ナツキ・スバルの『死者の書』を読ませる要員として、アルデバランはペトラたちに白羽の矢を立てたのだ。実際、アルデバランとラインハルトとの戦いは、『嫉妬の魔女』の乱入で水入りとなり、計画最大の障害の排除は成功した。
しかし――、
「……普通に誰かの一冊を読むだけでもメンブレしかねねぇってのに、まさかナツキ・スバルの『死者の書』に耐えたってのかよ」
前例は、ある。――アルデバランも、心当たりはありすぎるぐらいあるのだが、だからといって同じことができると思えないのが、『死』という概念の絶対性だ。
場合によっては、ナツキ・スバルの『死者の書』は、格上を倒すための切り札になりかねない特級呪物。あれに心を折られないものが、そうそういるはずがない。
「……って、他人を見くびるのはオレの悪癖だわな」
アルデバランがどう思おうと、事実としてペトラはこの場に立っている。
彼女は『死者の書』を読んだ衝撃に心を砕かれなかっただけでなく、アルデバランを止めるために、その身に魔女因子を宿すような暴挙にまで手を染めた。あるいは『死者の書』を読んだ経験が、ペトラをそうまで思い余らせたのかもしれない。
『――誰も、ボクが創った君には勝てないよ』
脳裏を過る『魔女』の言葉は、アルデバランを奮い立たせるためのもので、アルデバランを驕り高ぶらせ、足をすくわせるものでは決してない。
それを履き違えれば、アルデバランは今度こそ本当に『魔女』を失う。――『強欲の魔女』と成り果て、確かにあった心を真に失った『魔女』を、今度こそ。
「――結局、運命を他人任せにはできねぇってこった」
心に差し込んだ感傷、それを深呼吸で胸の奥底に沈め、アルデバランは前を向く。
敵は強く、障害は多く、仲間はおらず、誰にも誇れず――それでも、往くと決めて。
瞬間――、
「――おおォォォッ!!」
――怒りに燃える金虎の剛拳が、アルデバランの頭に猛々しく突き刺さった。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、祝い事に交わらないと誓います。
△▼△▼△▼△
――総勢六十一人。
これが正真正銘、『暴食』のロイ・アルファルドとの決着後、アルとの最終決戦のために再編成された『アルデバスターズ』――エミリア陣営とフェルト陣営の総力だ。
あの激戦の直後、息つく暇もなく再編されたチームに、よくぞこれだけ残ってくれたとペトラは感謝と敬服を抱かずにはいられない。だがそれは、再編されたチームについてこられなかったものたちを貶めるものでは決してない。
『オットーもメィリィも、あれ以上無茶はさせられねぇからな』
イマジナリースバルの言う通り、オットーとメィリィ――どちらも『暴食』との戦いで決め手になってくれた二人だが、『記憶』を喰われたオットーはもちろんのこと、黒蛇を止めるのに加護を使いすぎたメィリィの消耗は激しく、戦線離脱は必至だった。
彼女たちだけではない。土壇場で繰り出されたロイの切り札、『暴食』の権能に過去の痛みを反芻され、それに精神を限界まですり減らされたものもそうだ。体の傷と違い、心の摩耗はペトラの『圧縮』があっても簡単に復活とはいかない。もっとも、それでもメィリィは回復時間を『圧縮』して戦線復帰すると言い張り続けていたが――、
「命の前借りなんてしても、スバルは喜んでくれないよ?」
と、そうペトラに説得され、渋々ながら、本当に渋々ながら戦線離脱を受け入れた。
正直、スバルを引き合いに出されて説得に応じるメィリィの姿勢に、ペトラの乙女回路は微妙な引っかかりを覚えはしたものの、自分でやったことなので多くを語らない。
それに彼女には、『暴食』が招き寄せ、戦闘後に行方をくらました黒蛇を警戒する役目もある。完全休養とまではさせてあげられないのが申し訳なかった。
『できるとこをできる奴に埋めてもらうしかねぇ。って言っても、記憶なくても鉄火場に参戦してくるヤバい奴とかもいるけど』
「すごいよね。記憶がなくてもオットーさんってああなんだ、って思っちゃう」
『生まれつきの性分なのかな。リスクジャンキーなのかもしれない』
なんて、記憶のあるなしに拘らず、当人が聞いたら「人聞きの悪いこと言わないでくれませんかねえ!?」と突っ込んできそうな感慨だが、そう思われても仕方あるまい。
いずれにせよ、『暴食』はしっかりとこちらの貴重な戦力を削ぎ落とし、クライマックスバトルの手札を窮屈にしてくれた。ガーフィールの復帰は喜ばしいが、エミリアとレムのために全力を注げないのは、ペトラ的にも『スバル』的にも痛恨である。
だが、それでも――、
「――わたしたちが勝つよ、スバル」
『ああ、勝ちにいこう。ここまでの積み立て全部、無駄にしねぇために』
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かと夢を語らないと誓います。
△▼△▼△▼△
「――結局、運命を他人任せにはできねぇってこった」
内容は投げやりに、口調には覚悟を秘めて、そうアルが言ったのが合図となった。
「――おおォォォッ!!」
吠え猛るガーフィールを先鋒に、『アルデバスターズ』が一気に動き出す。
その動向を眼に収めながら、ペトラは自分の胸元でぎゅっと両手を握りしめた。
――エミリアの撃ち込んだ氷のアンカーを目印に、ペトラは『アルデバスターズ』を連れて現地までの距離を『圧縮』、改めてアルへと立ち塞がった。
正直、その場にエミリアとレムの姿がなく、予定外に連れ出されたアルのお付きのクノイチも見当たらないことが、どうしても不安要素ではあるが、
『――アル側に、不殺縛りを解く理由がねぇ』
それを安心材料にするのは、少しばかり相手の能力と信条に期待しすぎている。
が、『時間遡行』の権能を持つアルのここまでの戦いぶりを思えば、それが根拠だ。権能が強すぎるが故に、ある意味、アルはここまで舐めプが許されてきた。
そしてその前提は、彼から仲間を引き剥がせた今も、究極的には変わっていない。
「がぐッ」
正面、予備動作なしに突っ込んだガーフィールが苦鳴を上げる。
理由は彼の飛び込みの軌道、そこに降って湧いた石板との衝突だ。先制攻撃を読み切った待ち伏せの石板に顔面を打たれ、ガーフィールの身が空中で反転する。そのガーフィールの真下をすり抜けながら、アルは金虎に続いた戦力の迎撃に動いた。
続くのはラムと、フラム&グラシスの三人だ。
『奇しくも、ピンク髪シスターズだぜ! さあ、どうなる!?』
△▼△▼△▼△
――三十七。
出鼻のガーフィールを石板で迎え撃ち、後ろ向きに宙返りする彼の下を抜ける。
タイミングは存外シビアだ。石板を差し込むのが早すぎれば薙ぎ払われ、遅ければガーフィールを素通りする。顔面に当たる刹那、それを体で覚え、実践した。
「がぐッ」
苦鳴を後頭部で聞きながら、前を向くアルデバランに三方から影がくる。
左右からのフラムとその姉妹に、やや斜め上からのラムが息を合わせた連携だ。双子ならではの連携精度に、初見で合わせるラムの異常性が際立つチーミング。
そこへ――、
「レム嬢ちゃんが、後ろの崖でぺしゃんこになってるぜ」
「なってないわ。ラムとレムの姉妹愛を舐めないで」
言葉の毒は、姉妹の共感覚に解毒され、効果を発揮しない。
動揺がなかった以上、ラムの発言に嘘はない。それがレムの無事と、ヤエの安否不明を意味するところを拾い、むしろ毒はこちらに作用した。
しかし――、
「――アースブランド・アーツ」
『龍』とのパスから回ってくるマナを使い、アルデバランの周囲を石の刀剣が囲う。次々と大地から飛び出す剣先や穂先を避けるのに、双子は大きく身を捌いて回避行動、一瞬の遅れが生じ、三者の連携がラムの単独攻撃に切り替わる。
その単独になったラムに、流れで拾った石龍刀を正面から叩き付け――、
「いいわね。借りるわ」
風の魔法ですくい上げた刀剣を振り抜いたラムに、横合いから顎をぶち抜かれた。
× × ×
――九十一。
「いいわね。借りる――のやめるわ」
言い捨て、風で引き寄せた石剣をラムがスルー、その横を抜けた石剣が脆く崩れ、武器を拾い損ねた彼女へと、アルデバランの一撃が吸い込まれる。
それをラムは風を帯びた杖で受け止め、巧みに風を操り、空中にいながら圧を得ることで鍔迫り合いを押し切ろうとしてくる。そのラムの足を岩の義腕で掴み、風の刃に反撃されながら背後へ放り投げる。
「――っ」
ラムの歯噛みを背後に、アルデバランはさらに前進、先の撹乱で出遅れたフラムと、グラシスというらしい姉妹が一度に襲いかかってくる。
幼さを油断の理由にできない俊敏さが迫るのに合わせ、アルデバランは自前の右腕と作り物の左腕を左右に広げ、視界百八十度を横薙ぎにする砂の波濤を起こした。
波打つ大量の砂が少女たちを呑み込み、大地に沈める檻となり――、
「――陰の六、戦士! 風の五、魔法使い! 花の八、王!」
不意に湧いた圧に正面からぶん殴られ、背中から自分の作った刀剣の海に落ちた。
× × ×
――百十二。
「――陰の六、戦士! 風の五、魔法使い! 花の八、王!」
聞こえた瞬間、広げた両腕を強引に閉じて、砂の波濤の銃口を正面に固定――まさに瞬きの直後に現れた髭の大男が波濤を浴び、フラムとグラシスと同じ状況へ。
そのまま難を逃れ、アルデバランは斜めに飛び出して敵勢を乗り越えようと――、
「ウル・ゴーア!!」
空中に跳んだ姿勢のまま、躱せない炎の剛球を喰らい、内臓が燃え上がった。
× × ×
――百四十六。
「ウル・ゴーア!!」
双子と大男を砂で抑え込み、迫りくる火球に対し、あえて一歩出遅れる。代わりに炎を直撃されたのは、アルデバランがとっさに作った出来の悪い土人形――エミリアが、氷でナツキ・スバルを再現した魔法の劣化版だ。
飛び出したアルデバランの頭を押さえる、という狙いで放たれた火球は、刹那の判断が求められる戦闘の中で、不出来な土人形にまんまとつられた。
「んな!?」
使い手の、目つきの悪い舌ピの痩せ男がアルデバランの対処に息を呑んだ。
熟達した魔法使いでもない限り、ウル級の魔法を放っておいて連発はできない。その驚愕の表情に作り物の中指を立てて、アルデバランは今度こそさらなる前進を――、
「――ぶっちれ!!」
斜め後ろ、そこを発射地点とした光の衝撃波がアルデバランの背を直撃、世界を焼くような白光の光量に、意識さえも白く塗り潰される。
× × ×
――百四十七。
「――ぶっちれ!!」
勇ましい雄叫び、それが聞こえた方に振り向き、アルデバランは下手人が八重歯を剥いた凛々しい顔のフェルトで、光の出所が彼女の握った魔杖なのを見る。
それは生前の『魔女』が、『神龍』さえ泣かしたことがあると豪語していた『星杖』という『ミーティア』であり、つまりは師の不始末だ。
「ここで先生に邪魔されんの、バグすぎるだろ」
先の長い飽くなき挑戦、その乗り越えなければならない壁が、他でもないアルデバランに道を示した『魔女』のお手製であることに、憂鬱な心地が芽生えた。
そのアルデバランを、白光が容赦なく呑み込む。
さて――、
× × ×
――百四十八。
「――ぶっちれ!!」
――この迫ってくる白光、いったい、どうやって攻略したものか。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、贈り物をしないと誓います。
× × ×
「――『憂鬱』の権能って、何ができる力なんだ?」
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かに手を振らないと誓います。
× × ×
「――ただのワープじゃ説明つかねぇ。そういうもんじゃねぇはずだ、権能ってのは」
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、眠る前に祈らないと誓います。
× × ×
「――何かしら概念を表わしてるはずだ。だろ? 『憂鬱』、『憂鬱』か」
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰の傷にも寄り添わないと誓います。
× × ×
「――気持ちが沈む、ダウナー、曇り空、落ち込む、凹む。……凹む?」
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、晴れ空を喜ばないと誓います。
× × ×
「――潰してんのか、間とか距離を。いや、潰してるのはそれだけじゃねぇな?」
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、雨空を嘆かないと誓います。
× × ×
「――足りねぇ思考時間を潰して埋めてんな? けど、魔女因子ってのは……」
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰とも虹を仰がないと誓います。
△▼△▼△▼△
「――魔女因子ってのは、そんな都合のいいもんじゃねぇだろ?」
刹那、『アルデバスターズ』の包囲網を突破し、自分の正面にまで迫ったアルの言葉を聞いて、ペトラの背筋を怖気が駆け上がった。
鉄兜に覆われたアルの目は見えない。――だが、目が合った。その実感に胸の内を見透かされた気がして、ペトラの心が焦りを覚える。
どうやってかアルは、ペトラ以上に魔女因子について精通している、と。
『ペトラ!!』
「――花の八、魔女!!」
「――っ」
切羽詰まった嗄れ声の指示と、内なる想い人の叫び声が重なって、ペトラは自分の中に生まれた躊躇いを『圧縮』、伸びてくるアルの腕に捕まらないよう、その手を掻い潜り、相手と距離を作る――という過程を『圧縮』、一気に離れる。
「オイオイ、自分の間も潰せんのかよ……!」
目の前でペトラに消えられ、空振りしたアルが舌打ちまじりに振り返る。
大きく肩を上下させるアルと、ペトラとの距離はまた仕切り直しだ。睨み合う二人の間には、アルが必死になって突破した『アルデバスターズ』の仲間たちが立つ。今一度、ペトラに辿り着くためには、同じハードルを越えなくてはならない。
だが、ペトラの方にはしてやったりという感覚は全くなかった。
『ペトラ、さっきのアルの言葉は……』
「わかってる。……本当に、やり直せてるんだ」
傍らに浮かんだイマジナリースバルの言葉に、ペトラは瞳を細めて頷く。
事ここに至って疑っていたわけではないが、実際にアルの『時間遡行』をお目にかかると、その規格外さに驚かずにはいられない。
ガーフィールの先制攻撃も、ラムとフラム&グラシスの連携攻撃も、『圧縮』によって三方から仕掛けたガストンとラチンス、フェルトの囲い込みも、ロム爺の指示に従って動いた五十人もの妨害を、アルは全て完璧に対処した。
その全部を、これしかないという唯一の最適解を通す形で、だ。
『こっちの思考の圧縮も、似たような結果を出せるっちゃ出せるけど……』
「それは、これが正解って答えが出るまで一生懸命考えてるだけ。スバルとかアルさんの力とは、やっぱりちょっと違うよね」
『……本当なら、俺もこれぐらい強いはずなんだよな』
頭を掻いた『スバル』が不甲斐ないと項垂れる。が、ペトラはそう思わない。
スバルはスバルで、自分の権能と正面から向かい合い、失われるはずだった多くを繋ぎ止め、ペトラたちを救ってきた。彼に不甲斐ないところなんて一個もない。
そう思う一方で――、
「……わたしに向かって手を伸ばすまで、何回やり直したの?」
ペトラの知る限り、アルの実力は戦士としてはそこそこ――それこそ、ラムやガーフィールには遠く及ばないし、ハインケルにも敵わないだろうレベルだ。にも拘らず、アルはたった一人で『アルデバスターズ』を翻弄し、王手をかけかけた。
『十回どころか、二十回は繰り返してるかもしれねぇ』
「……もっとかもしれないよ」
『スバル』の甘い見立てに、ペトラはその十倍二十倍の可能性を予想する。
実際、もしもペトラが『アルデバスターズ』を出し抜く立場なら、先の展開を知る権能があったとしても、百回の挑戦でクリアできる自信はない。まして、アルは『龍』の力を借りていたとはいえ、ラインハルトすら躱した実績があるのだ。
それだけのことを成し遂げるのに、人はどこまで心を殺して挑めるのだろうか。
もし本当に、アルの『時間遡行』がペトラたちの想像通り、ナツキ・スバルと同じく『死』と引き換えの力なら、そこにいるのは軽薄さを装った恐るべき『魔人』だ。
もはやアルは『死』の恐怖や喪失感を克服――否、あれを克服できる人間などいない。言うなれば、それは克服ではなく、麻痺だ。
『死』を恐れ、近付けたくないという生命の本能さえ麻痺させた存在――それがアルの強さの秘密であり、『魔人』としての絶対性に繋がる。
その絶対性を超えるには、こちらも相応の対価を支払わなくてはいけない。
『――ペトラ』
「大丈夫だよ、スバル。……わたしは、大丈夫だから」
頭の中に居座っている存在だ。
唯一、イマジナリースバルにだけは、『アルデバスターズ』の誰にも、エミリア陣営の誰にも伝えられていないペトラの秘密がバレている。
それは目の前の、魔女因子に精通した『魔人』にも言われたことだ。
――『憂鬱の魔女』を名乗るモノに、都合のいい運命は微笑まない。
「それでも、そんなこと、わたしが止まる理由にならないもん」
そう自分さえ欺いて、ペトラ・レイテ――『憂鬱の魔女』は権能を行使する。
世界の理に干渉することと引き換えに、自分という存在から失われていく未来、それがどれだけ大事でかけがえがなくとも、新たなる『魔女』に躊躇いはなかった。
△▼△▼△▼△
――七千十一。
「それでも、そんなこと、わたしが止まる理由にならないもん」
と、遠間に立ったペトラの唇が紡ぐのを見て、アルデバランは脱帽する。実際に兜を脱ぐまではしないが、それをしたいぐらいの心地だった。
だって、そうだろう。
「……本当に、ナツキ・スバルって奴は許せねぇ」
歯軋りするアルデバランは、ここまでの混成軍――『アルデバスターズ』と名乗っているらしい。好きなセンスだ。出所はあまり考えたくないが。
ともあれ、ここまでの『アルデバスターズ』との攻防で、ペトラが取り込んだ『憂鬱』の魔女因子と、その権能の仕様の大部分を解き明かしていた。
どんな戦いでもそうだが、戦いは相手の情報を多く、的確に取るのが重要だ。
大罪司教や『魔女』との戦いは特にその向きが強く、相手の有する権能がどのようなものなのか把握せずに対峙すれば、一方的に殺されることもよくある話。――その初見殺しを突破できるところが、アルデバランやナツキ・スバルの強みでもある。
その強みを遺憾なく発揮し、アルデバランが把握した『憂鬱』の権能だが、これがなかなかに馬鹿げた性能をしていた。間や時間を押し潰す――『圧縮』する力は、その応用力と厄介さにおいて他の追随を許すまい。
その上、この権能はどうやら、思考の『圧縮』さえも可能にするらしく、たった一秒の攻防の中でも、考え抜かれ、研ぎ澄まされた結論が次々襲いかかってくる。それはアルデバランの『領域』を以てしても、簡単に解き明かせない難問の出題だ。
実際、ほんの十一秒の攻防をすり抜けるのに、七千回ものリトライが必要だった。
しかも、それだけやって肝心のペトラを取り逃がす始末。――同じだけの距離を開けられた以上、次また追いつくには同じかそれ以上の挑戦がいるだろう。
「それにしたって、『憂鬱』の権能と、バルガの相性が最悪……」
『アルデバスターズ』の一員に、散々苦しめられたバルガ・クロムウェルの姿もある。
その恵まれた巨体を全く活かさない知略の怪物は、無制限の自由な思考時間を与えられ、これしかない最適解を出すことでアルデバランを圧しようとする。
それはまさしく、鬼に金棒めいた悪夢の組み合わせだった。
バルガの手中で踊れば、またしてもアルデバランを封殺してくる恐れがある。故に、思考の時間は否応なく奪われても、試行錯誤のチャンスは多く与えない。
ましてや、『憂鬱』の権能を使わせ続けることは、アルデバランの本意でもない。
何故なら――、
『――『憂鬱』の魔女因子は欠陥品だ。勇者のために用意された一点もので、それ以外の誰とも適合しない。裏を返せば、対価を支払うことで誰とでも適合するとも言えるが、人とは覚悟と引き換えに、あまりに多くを切り売りできる生き物だからね』
以前、『魔女』から聞かされた、『憂鬱』の魔女因子の情報。
よほど思うところがあるのか、『魔女』は番外というべき魔女因子の二つについて多くを語りたがらなかったが、根負けしたわりに説明は饒舌だった。
その要領を得ない長話を要約すれば、要点は以下だ。
――『憂鬱』の魔女因子は、所持者の意志と引き換えに権能を発動する。
――『憂鬱』の魔女因子を使用する対価は、所持者でなければ支払えない。
「――ナツキ・スバル」
そこまで思考したところで、アルデバランは改めてナツキ・スバルに怒りを覚える。
無論、ペトラが『憂鬱』の魔女因子を取り込むことになった過程に、『死者の書』を読ませた自分の計画が無関係とアルデバランは思わない。だが、切っ掛けを作ったのがアルデバランであるなら、責任の大きな一端はナツキ・スバルにある。
アルデバランとナツキ・スバルの関係を思えば、それぐらい言って当然だろう。
ペトラの人生にかかった大きな影は、ナツキ・スバルを発端としたものだ。彼に悪意があったとは言わないし、思わないが、その影響力は言うまでもなく大きい。それはペトラだけにとどまらず、『アルデバスターズ』――否、この戦い以前の、多くの場面でも発揮されてきた、一種の運命力のようなものとも言える。「――コ」それにしたって、運命力とは皮肉な話だ。他でもない、ナツキ・スバルやアルデバランこそが最も運命を憎んでいると言える立場だというのに、「――ン」その行動が運命を決定付けると言っても過言ではないのだから。「――プ」そう考えたとき、アルデバランの脳裏を過ったのは、赤々と鮮烈な彼女の言葉だ。あの、「――レ」最後のひと時で彼女が口にした称賛が、アルデバランの心を焼こうとしてくる。あえて目を背け、そこに耳を塞ぐ。「――ス」今さら、自分の行いを顧みる時間などとうに過ぎた。今のアルデバランを支えているのは失われた彼女ではなく、先生との誓約だ。「――ア」アルデバランが何のために生まれ、何をするためにアルデバランとされたのか、その集大成が試されようとしている。そのためにも足を止めて考える暇など――待て、待て待て待て。長くないか? ほんの一息、深呼吸する間を作って戦いが再開する。「――ゴ」そのはずだ。相手はこちらに息継ぎさせたくない。こちらも相手に多くの時間を与えたくない。「――ニ」そこのコンセンサスが取れていたはずなのに、どうしてアルデバランはこうも悠長に思考することが――「――ー」。
マズい。おかしい。なんだ? 何を言われた? 遠くで、ペトラの唇が動いたのがわかった。一音ずつ、その唇が紡いだ音を拾っていく。思考の合間に放り込まれたそれを拾い、集める。遅い。もどかしい。あまりにもゆっくりだ。意味を拾え、意義を拾え、意図を拾え。――。――――。――――。無理だ。思考を黙らせられない。考えながらでいい。『コンプレス』? 押し潰す、か? 押し潰して、何を? 『アゴニー』? 痛み? 苦痛? 苦悩……苦悩? 悩み、考え、紐解く。クソ、やられた。『圧縮』された。
――思考を、『圧縮』された!!
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、大事な秘密を明かさないと誓います。
△▼△▼△▼△
「――『コンプレス・アゴニー』」
『憂鬱』の権能による思考の『圧縮』――味方の思考を速め、相談を割愛し、全員で考え抜かれた最善手を打つ強力なバフ効果、それをアルに付与することが、ペトラの用意した彼への対策の一個だった。
「考えることがたくさんあると、頭がパンクしちゃうでしょ」
おこがましくも、今のペトラは『死に戻り』という『時間遡行』について、スバルとアルの次、世界で三番目に詳しい立場にあると自負している。
そのペトラの学識と、スバルの味わった『死』の苦しみを追体験した経験から、ほとんど無敵に思えるアルの権能を無効化――否、オーバーヒートさせる手を見出した。
それが、思考の加速による精神への過負荷である。
かつて、王選が始まったばかりの頃、王都でエミリアとケンカ別れをする羽目になったスバルが、大きなストレスと精神負荷が原因で心を摩耗し切ったことがあった。
それは図らずも、レムの献身や大罪司教への怒りで立ち直る切っ掛けを得たが、一時的にでも戦意を喪失し、抜け殻になったのは事実。――それを再現する。
もはや、『死』を恐れる感情の麻痺したアルは、何回『死』を積み重ねてもその心を挫かれることはないかもしれない。
だがしかし、自分から世界を敵に回したとしても、アルは人間だ。
その精神に綻びが生まれ、限界を迎えるのは避けられない。それを、誘発する。
そのために、自分の何を引き換えにしても――、
「――領域展開、マトリクス再定義」
思考の加速に苛まれながら、アルが静かにそう口にしたのがわかる。
精神に高負荷はかかっているが、この状態は諸刃の剣だ。ここまで激しい消耗のあったアルの心が限界を迎えるのと、『アルデバスターズ』同様、その思考の『圧縮』を最大限に活かし、ペトラたちを迎撃してくる可能性はイーブン。
故に、ここからの戦いが、真の意味で『アルデバスターズ』の正念場――、
「――みんな! ここからだよっ! 気を抜かないでっ!」
「「――おお!!」」
そのペトラの激励に、やり取りを『圧縮』された仲間たちからの返事がある。
それを頼もしく思いながら、アルとの決戦の仕切り直しに臨もうとし――気付く。
今しがた、力強く返事をしたものたちの中、声の聞こえなかったものがいる。
ただ単にタイミングを逃しただけの可能性もある。が、そこに奇妙な違和感を覚え、ペトラはちらとそちらに目をやり、返事をしなかった相手の姿を探した。
そして、見つける。
「――ロムお爺さん?」
返事のなかった大参謀、戦場を俯瞰し、適時正確な指示を飛ばす役割を負った巨体の老人が、ゆっくりと白目を剥いて大地に崩れ落ちる姿を。
△▼△▼△▼△
――時は、ほんの刹那だけ遡る。
「――領域展開、マトリクス再定義」
そう、アルデバランが言い放つのを聞いて、ロム爺はその大きな肩を震わせた。
凝然と目を見張り、ロム爺は混成軍と対峙し、立ち尽くしたアルデバランの姿に、本来あるべきではない動揺を宿して硬直してしまう。
『憂鬱』の権能を用いた、ペトラの策はロム爺も聞いている。
アルデバランの思考を加速し、その精神に負荷をかけて一気に消耗させる作戦だ。それ自体は、ロム爺も『時間遡行』とやらをするアルデバランを倒すため、必要な手順であると考え、協力することを約束した。
アルデバランの思考を速めることへの懸念はあったが、最善手までの思考を『圧縮』するのはこちらも同じで、総合力で詰める場面だと呑み込んだ。その方針であれば、ロム爺自身も力を貸せると考えたことが大きい。
そして実際、アルデバランとの戦いにおいて、ロム爺の思惑は当たった。
仲間たちを素早く動かし、アルデバランを追い詰めることに成功したのだ。――だが、ロム爺を驚愕させ、その動揺を生んだのはそこからだった。
「――領域展開、マトリクス再定義」
そう、アルデバランが言い放ち、ロム爺の立ち位置が一瞬にして変わる。――否、変わったのはロム爺だけでなく、アルデバランやフェルト、この戦いに参加する全員の立ち位置が、ほんの十数秒前まで戻り、やり直しになっていた。
そしてそれをすでに、ロム爺は五回も繰り返していて――、
「――なんじゃ、この状況は」
ぐるりと首を巡らせ、ロム爺は五回見た同じ光景の中で、重々しく絞り出す。
この状況に異変を感じているのは、ロム爺以外にいない。
「――みんな! ここからだよっ! 気を抜かないでっ!」
「「――おお!!」」
その証拠に、勇ましく舵取りしたペトラの声に、ロム爺以外の全員が応じる。
そうしてアルデバランに向かい、一斉に飛びかかっていくのだ。
「ロム爺! 指示くれ!」
こちらの動揺に気付かず、『星杖』を手にしたフェルトが攻撃位置を探る。フェルト以外にも決め手となる技を持った仲間たちが、ロム爺の指示を欲して走っている。
その背に、ロム爺は苦い唾を呑み込みながら、先ほどとは違う指示を飛ばし――、
「――領域展開、マトリクス再定義」
――六回目の、アルデバランとの最終決戦が始まった。




