第九章50 『氷上決戦』
――天地を貫いていた六色の光が、ゆっくりとほどけ、消えていく。
灰白に色褪せ、本来の色を忘れていた空に徐々に色が戻り、やがて蒼穹は自分がどうして青と称されていたのかを思い出したように、淡く澄み始めていた。
「――――」
その情景を前に、ロズワールは傍らのエッゾの目から涙が流れ落ちるのを見た。
それが喜びか、悔しさか、いずれであっても感極まって当然の光景だ。二人がかりとはいえ、ロズワールとエッゾは魔法史に初めて刻まれる偉業を成し遂げた。
四色と二色に分担された極限の魔法制御と、一分の隙も許されない完璧な術式構築、そして刹那のズレでも成立しなかった究極の調和――それが『神龍』の竜暈を超えた。
ロズワールの研鑽とエッゾの探究、どちらが欠けていても実現し得なかった超魔法。
しかし――、
「いずれ私は、私一人でも、この術式を構築してみせる……!」
とめどない涙を流しながらも、そう豪語したエッゾの姿にロズワールは笑った。
呆れでも、皮肉でもない。――そう、それこそが魔法使いだ。
魔法にはイメージが大事。イメージできることは、なんだってできるのが魔法。
「ですよね、先生」
そう、呟いたロズワールの体が傾き、地面に倒れかける。とっさにそれを支えようとエッゾが手を伸ばしたが、悲しいかな、消耗の激しい彼の方が先に転んだ。
そのまま、倒れるロズワールがエッゾを押し潰しそうになり――、
「――間に合いました。朗報」
危ういところで、その冷然とした声と力強い腕が、ロズワールの転倒と、それに潰されるエッゾをまとめて救った。
「――――」
その、自分を支えたクリンドを見やり、ロズワールは息を吐く。
戦いの中で空の彼方へ飛び、さらには星を砕いて戻ってきた万能家令。彼はその顔にいつの間にかモノクルを付け直し、頭の黒角も引っ込めた通常状態だ。ただし、常日頃の完璧な身嗜みまでは戻せなかったようで、服の乱れた珍しい姿ではあった。
「それでも、執事服以外はほとんど無傷とは、竜人ってのは反則だーぁよね」
「旦那様、ご無礼ながら訂正を。竜人だからではなく、『神龍』の竜人である私が特別なだけです。断言」
「……やっぱり自慢してるね? 君の容れ物のせいで、こちらはこの有様だよ?」
「そこで私を指差すな! 腰が……いや、全身が抜けて立てないだけだ!」
前のめりに転んだ姿勢のまま、立ち上がれないエッゾがそんな風に負け惜しむ。その様子にクリンドが遺憾の意とばかりに肩をすくめるが、まったく、いい性格だ。
「変わったね。君はもっと、超越種らしい達観したタイプだっただろうに」
「それでしたら、全く同じ言葉を返させていただきます。返還。――旦那様の方こそ、賢く姑息で、凡庸な魔法使いに徹するはずだったのでは? 確認」
モノクル越しに目を細めたクリンドに、考えをピタリと言い当てられる。
確かにそのつもりだった。なのに、ロズワールはそうできなかった。
できなかった挙句に立ち上がり、想像もしていなかった無茶をしでかした。
でもそれは――、
「ただ、気付いただけだよ。……これまでの日々、一人で歩いてきたわけじゃーぁなかったということに」
「――――」
そのロズワールの答えに、クリンドが沈黙した。何故かエッゾもだ。
「何故か、は少し白々しすぎるかーぁな」
付き合いの長いクリンドはもちろん、エッゾとは直前の超魔法の発動の際、お互いの意識が混ざり合う寸前までいったのだ。
そこにあったロズワールの心情や祈りは、彼に隠せたものではなかっただろうから。
「そう言えば、私はそうした意識が混ざるという事態に慣れているからわかるんだが、エッゾくんはどうして無事なんだい? 普通、頭がおかしくなるはずだけどねーぇ」
「恐ろしいことを気安く言うな! ……おそらく、『死者の書』の恩恵だろうな」
「プレアデス監視塔の、『死者の書』の?」
「そうだ。監視塔で待機していた際に、十冊以上の『死者の書』を読んだが、そのために必要だったのが心を無にする術を習得することでな……」
「なるほど、これが魔法使いですか。納得」
何やらクリンドに失礼な結論を出された気がするが、この場での追及はしない。特段、エッゾのしたことをおかしなこととロズワールは思わなかったので。
ともあれ、今優先すべきは――、
「旦那様、我々は確かに任された役目を果たしました。完遂。ですが……」
「ああ、わかっているとーぉも」
クリンドの言葉を途中で引き取り、ロズワールは静かに息を吐いて、彼方を見る。クリンドと、地べたのエッゾも同じ方角――地平線の、その向こうに目をやった。
それは『神龍』との戦いで、もはや以前とは環境の激変してしまった岩原野、そのさらに彼方にある、アルデバラン一味の最終目的地――、
「――モゴレード大噴口」
呟くロズワールの脳裏を過るのは、天地を引き裂く魔と龍との最後の攻防。
天墜する星を迎え撃ちに天へ昇った竜人を見送った『神龍』は、超魔法を練り上げる二人の魔法使いの排除と、自分の役割の遂行という二択を天秤にかけた。
確実に勝てる、という驕りは、あの瞬間の『神龍』には欠片も存在しなかった。
故に『龍』は、その竜殻に宿った人格の信念に従い、二択から一つを選び――放たれた息吹で以て、戦場から遠く離れた大地の巨大な孔を狙い撃った。
その場所を、アルデバラン一味が何故目指したのかは不明だ。
だが、『神龍』の行いが、その一味の目的に無関係のはずもなく、『神龍』は自らが討たれることも覚悟の上で、息吹による孔への一撃を優先した。
それがもたらす意味は、きっとこれから証される。
あとは――、
「――君が培ったものが、相手を上回れるかどうかだ、スバルくん」
△▼△▼△▼△
――イレギュラー。
それが自分に期待される役目であり、果たすべき役割だとそうレムは自認する。
『時間遡行』という規格外の権能を使い、ここまで立ち塞がったあらゆる障害を突破してきたアル――彼を止めるのに必要となるもの、それがイレギュラーであると。
『確かに、あの兜野郎の権能は恐るべき代物よ。おおよそ、儂の知る限りでも、あれほど理外の力はそうそう出くわしたことはない。――じゃが、どれだけ強い力だろうと、それを使いこなすのは人間に他ならん』
『数限りない想定外を押し付け、兜野郎に権能を使わせ続けるんじゃ。奴の遡れる時間には制限がある。被せて、被せて、被せ倒せ』
『余力を削り切れば、兜野郎も取り返しのつかない手落ちをする。――それが、兜野郎を相手に勝機を掴む術じゃ』
とは、一度はアルをあと一歩のところまで追い詰めたロム爺の提言だ。
そのロム爺の献策に対し、ラムやロズワール、クリンドといった戦術に明るい面々は反論しなかった。故に、レムはその提言を真っ直ぐに信じる。
アルに叩き付けるべきは、彼が音を上げるほどの想定外。そして求められるのが根競べであるというなら、レムもなかなか捨てたものではない。
なにせ――、
「――あの人を、間近で見てきましたから」
何が一番の勝算かと言えば、それがレムの一番の勝算だ。
これを幸いというべきか、レムは直近まであらゆる人々に忘れられていた。『記憶』のない間、帝国でのアルとの接点も決して多いとは言えない。それ以前、王選に関わる彼との接点の話をするならなおさらだ。
だが、故に、だからこそ、レムの行動は彼の予想の裏を掻ける可能性がある。
しかし――、
「やあああ!!」
吠え、渾身を込め、振り抜いたレムの腕に遅れて放たれる鉄球が猛然と空を奔る。
真っ直ぐ、回転する棘付きの鉄球が狙い撃つ先にいるのは、赤毛のシノビ、ヤエ・テンゼン――全高五千メートルのアグザッド渓谷を舞台に、落下しながら続いている戦いは、この驚異的なシノビを相手に、次のステージへ移行していた。
中空に生み出された氷の円盤、それを足場とした地力の比べ合いだ。
それさえ、イレギュラーを押し付けんと、レムがエミリアと協力して工夫した結果だったが、その状況に持ち込まれたこと自体に歯痒い思いもある。
イレギュラーを差し込まれたのは、アルたちだけではない。こちらもだ。
「――――」
轟と、風を殺しながら唸りを上げる一撃は重たく鋭い。
棘付きの鉄塊、その脅威は如何なる切れ味を誇る業であろうと、細い糸を束ねたとて弾かれるものではない。それがイレギュラーたるヤエに向け、一気に迸った。
「――ッ」
その迫る脅威に小さく喉を鳴らし、迎撃を放棄したヤエが側転。氷の円盤を転がっていく彼女の真横を通過し、鉄球は空しく宙を走り抜け――、
「えいや!」
呑気に聞こえる鋭い掛け声が、撃音と共に鉄球を迎え撃った。
それは、ヤエを挟んで向こう側にいたエミリアが、自分に向かってくる鉄球を氷のブーツを履いた足で蹴り飛ばした快音だ。すらりと長いエミリアの足が旋回し、鉄球が力ずくで跳ね返され――側転して逃れたヤエの細身を追いかけていく。
そのまま、鉄球は容赦なくヤエの横腹に喰らいつき――、
「ってなりません」
そう言った直後、側転するヤエが手をついた氷の円盤、その表面が彼女を覆うように鋼糸に剥がされ、その身に追い縋った鉄球を受け止める盾となった。
無論、一撃を完全に止めるには薄い盾だ。一秒の半分でひび割れ、そのさらに半分でへし折れ、さらにさらに半分で棘が向こうへ突き出し、きっかり一秒でぶち抜かれる。
だが、俊敏なるシノビが次の手を打つには、その一秒で十分だった。
「嘘っ!?」
と、思わず悲鳴を上げたのはエミリアだ。しかし、心境はレムも同じ。
二人の視界、即席の氷盾で追撃から逃れたヤエは、軽い跳躍で伸び切ったモーニングスターの鎖に素足を乗せ、その上を一気に駆けていた。
エミリアはその曲芸とバランス感覚に、レムはそれに加えて、鎖越しに重さを一切感じさせない歩法に目を剥いたが、驚きは連続する。――ヤエの振るった腕の動きに合わせ、頭上から二人に向かって、氷と石の刀剣が次々と降り注いのだ。
「これは――」
二十秒前、エミリアとアルが戦いながら、空中にいくつも作り出してそのままになっていた氷製と石製それぞれの武器だ。ヤエはそれを天に伸ばした鋼糸で引き落とし、危険な雨として再利用した。
「私がちゃんと片さなかったから!」
「片さなかったのはアルさんもです!」
「片付け下手な主を持つと、お互い苦労しますね?」
反省とフォローと挑発が重なり、落ちてくる刀剣の対処にレムとエミリアが追われる。エミリアは両手の氷の双剣でそれらを打ち払ったが、マズいのはレムだ。
右手はモーニングスターに塞がれ、そのモーニングスターは今まさにヤエの足場に使われていて迂闊に引き戻せない。無手の、左手一本で防ぐしかないが。
「間に――」
合わない、と被弾を覚悟した瞬間だ。――レムの肩を誰かが突き飛ばし、その突き飛ばした誰かが落ちてきた石製の剣に胸を貫かれたのは。
「――――」
その挺身にレムは目を見張り、さらには誰がそれをしたのかを見て、驚きを一段と色濃くした。それは胸を貫かれ、なおもレムに気丈に親指を立ててみせる雄姿――、
「――スバルくん!」
思わず叫んだレムの眼前、胸を貫かれたのはナツキ・スバル――の姿を写し取った氷の人形だった。やたらと精巧にできた氷のナツキ・スバルがレムを守り、まるで本人さながらに勇ましい笑みを浮かべ、倒れ込んでいく。
「うええ? 今のって、まさかエミリア様ですか?」
「ええ、そう。――それも、スバルは一人じゃないんだから!」
顔をしかめたヤエに応じた直後、エミリアの背後から六つの人影が飛び出した。いずれも、今しがた倒れたナツキ・スバルと同じ見た目の氷像たちだ。
それが全員、まるで個々に意思があるかのように個性豊かに、弾かれて氷の円盤に突き立った武器を抜き放ち、鎖の上を走るヤエへと一斉に飛びかかる。その氷の指先のどれか一つでも届けば、すばしっこいヤエを追い詰める足掛かりに――、
「生憎、多人数戦が一番得意なんです」
刹那、躍る二十条の鋼糸が飛びかかった氷のナツキ・スバルたちを拘束。首や胴体、手足にかかった鋼糸が引き絞られ、六体が無惨にもバラバラに寸断される。
「スバル――!!」
「スバルくん!!」
哀れな残骸と化した氷のナツキ・スバルに、レムとエミリアの悲鳴が重なった。
そのバラバラに飛び散る氷像の破片の向こう、なおも鎖の上を走り、ヤエがレムの下へと向かってくる。瞬時の判断で、レムはモーニングスターの柄を手放し、ヤエの足場の支えを奪った。そのまま空中で足を掻くだろうシノビに、レムは大きく身をひねった後ろ蹴りを叩き込まんと――、
「さすがに、鬼の蹴りは直撃されたくないですので」
言ったヤエが膝を抜き、鎖のたわみに対応したのが目の端を過る。
腰を落としたヤエは空中でバランスを崩さず、彼女の指先から放たれた致死性の糸が、レムの首へと輪のようにかけられる。首が飛ぶか、絞め落とされる――寸前で、ヤエの足下、鎖がピンと張って、彼女の予想を覆した。
「な」
と目を剥くヤエが、とっさに足指で鎖を弾いて自ら跳んだのはさすがの一言。その彼女の目は、レムの代わりに何がモーニングスターの鎖を引いたかしかと捉えた。
それは、胸に石の剣を受けて最初に倒れた、氷のナツキ・スバルだ。――倒れても、勝負を投げ出さなかった氷のナツキ・スバルが、レムを救ってくれた。
本当にこの人は、いつも、誰かのために無茶ばかりして――。
「本物じゃないでしょうに!」
「だとしても、です!」
唇を曲げたヤエの胸の中心に、レムの渾身の後ろ蹴りが真っ直ぐ突き刺さった。
△▼△▼△▼△
――イレギュラー。
その阻止が自分に期待される役目であり、果たすべき役割だとそうヤエは自認する。
ヤエの中で、気紛れで恐ろしい怪物であるというアルの評価は覆らない。――だが、そんな彼を消耗させ、負荷をかけるもの、それが重ねられるイレギュラーであると。
『そりゃよ? ワシじゃってこれまで何べんも格上とやり合って死にかけたことはあるんじゃぜ? 世の中、化け物ばっかでホント嫌になるってもんよ。――じゃが、結局生き残ってんのはワシなわけで、殺せねえ奴はいねえって話よな』
『お互い万全なら、どうにもならん差ってもんはあるわな。じゃから、その差を埋めるっためにちまちまやるのが、ワシらのコツコツ磨いた姑息な技ってわけじゃぜ』
『相手の万全を奪えば、格上の首を掻っ切る機会ってのも巡ってくるもんよ。――それが、ワシらの血生臭ぇ処世術ってもんなんじゃぜ』
とは、ヤエにシノビたる生き方や技を仕込んだ里長の『悪辣翁』の忠言だ。
その里長の考えに対し、ヤエは異論はない。が、これが案外試す機会は多くなかった。なにせ、大抵の相手はヤエより弱い。真っ向勝負でも負けすらしない。
その初めての敗戦の相手がアルであり、ヤエの在り方は捻じ曲がった。今は、接するだけで恐怖に全身が怖気立つこの人物に、一秒でも早く消えてもらいたい。そのために、アルにはその望みを、願いを、果たしてもらわなくてはならないのだ。
だから――、
「――あの方を追い詰めるモノを、近付けたくないんです」
歪んでいる、曲がっている、拗れ切っている。その自覚がヤエにはあった。
でも仕方ない。ヤエは辛いものが好きで、甘いものが苦手だ。だが、それは生まれ持った性分であり、自分で変えられない宿業だ。
こういう自分に生まれついてしまったのだから、こういう自分の生き方を貫く。
ヤエにはヤエの、理想とするアルとの関係の終わり方がある。
それを達成するために、イレギュラーを取り除くのが、ヤエの拗れ方だ。
しかし――、
「――ッ」
レムと、そう呼ばれた角の生えた娘の蹴りを直撃され、ヤエは軋む体の奥で苦鳴を押し殺し、浴びた衝撃を身体操作で手足に分散する。筋肉や内臓にさえ意思を伝わせるシノビの術技、それによる生存術だ。
だが、それを以てしてもノーダメージとはいかない。手足の末端が痺れる。
鬼族の力を軽視していたわけではない。しかし、相手の立ち姿や手足の動かし方を見れば、おおよそその力量を把握できるヤエにとって、角から周囲のマナを吸収することで、爆発的に身体能力を向上する鬼の種族特性は予想を上回るものだった。
加えて――、
「エミリア様のアドリブが厄介すぎですね~」
苦い思いを堪えながら、ヤエは表情に余裕を残したままで呟く。
実際にはかなり効いていたが、それを悟らせるわけにはいかない。シノビは相手に情報を取らせない。取らせるなら、それは誘導するための偽りの情報だ。
あれだけの足応えがあれば、レムはもちろん、それを見ていたエミリアも、ヤエに相当なダメージがあったと見る。にも拘らずヤエが平然としていたなら、追撃を躊躇うのが人情というもの。
「エミリア様!」
「ええ! 続くわ!」
ただし、それは相手が真っ当な戦闘巧者であってくれればの話。
一撃を放り込んだあと、こちらの余裕の表情など意に介さず、二つの影が吹き飛ばされたヤエに向かって追い縋ってくる。
考えなし、とは言わない。必死で、懸命なのだ。それが一番、今は手こずる。
「でしたら、こちらは手癖足癖の悪さで!」
対抗する、とヤエは左右の足指を大きく広げ、両手と合わせて二十条の鋼糸を操る。
足場である氷の円盤に突き立った幾本もの刀剣、氷と石でできたそれらを糸で搦め捕って躍らせ、追撃する構えのレムとエミリアを真っ向から迎え撃つ。
巧みな指使いに合わせ、風を切って旋回する刀剣と、不可視かつ無音の鋼糸が重と軽の二重の攻撃となり、対応に誤差を生む裂風が氷上を荒れ狂った。
刀剣を目で追えば、鋼糸に手足を取られて戦闘力を喪失する。アルからは不殺を命じられているが、手指の一、二本、あるいは四肢を全て斬り落とそうと、命さえ繋げば要求は果たしたことにできる。そう思ってヤエは斬意を迸らせた。
しかし――、
「はああああ!!」
「やっ! てい! たあ!」
吠えるレムと猛るエミリアの防撃が、そのヤエの攻撃をことごとく打ち払う。
刀剣をレムが、鋼糸をエミリアが防ぐコンビプレイ。レムは愛用する鉄球の鎖を短く腕に巻いて即席の手甲にし、エミリアは双剣を巨大な斧槍に作り変えると、言葉を交わさない確かなコンビネーションでこちらの攻撃を防ぎ切った。
「どうやって……」
目に見える刀剣を防ぐのは能力で足りるが、不可視の鋼糸を防ぐには理由がいる。
その理由を疑問視したヤエは、呟きが微かに白く曇るのを視界に捉え、気付く。――超高高度からの落下と、巨大な氷上であること以上に肌を刺す冷たさに。
「――っ、氷霧」
ちらちらと極小の氷片が視界を舞い、それが鋼糸の通り道を煌めきで伝える。
エミリアが不可視の鋼糸を見切った方法と、それを成立させたセンスにヤエは静かな驚嘆を得た。そして、さらにマズいことになる可能性にも。
「――アイシクルライン」
瞬間、紡がれる詠唱に合わせ、大気が甲高い悲鳴を上げ始める。
氷霧を構成していた氷の粒が隣り合った粒同士で連結し、世界を白く染める冷気がより凶暴に牙を剥いた。その最初の餌食になるのは、質量で劣る鋼糸だ。
その軽さと薄さが最大の特色である鋼糸の利点が、凍て付く世界に潰される。鋼糸に風は切り裂けても、吹雪は切り裂けない。――故に、判断は直後だった。
手指の指輪にヤエが口付けし、刹那、鋼糸を伝って炎が氷上に爆炎を生む。
凍て付く裂風さえも押し返す熱波、それは『見えない』という鋼糸の強みを放棄させる代わりに、氷霧の中でも冷気に負けない力を纏わせた。
「炎舞にお付き合いいただきます!」
炎を纏わせた鋼糸を振り乱し、灼熱の糸撃を放ちながら『紅桜』の舞が振る舞われる。その煌々と渓谷を照らす炎舞に対し、冴え冴えとした氷雪を引き連れた二人――否、七体の氷像を合わせ、九つの影が飛び込んでくる。
「お誘いに乗ります!」
「足踏んじゃったらごめんなさいね!」
氷上、業炎の渦を生むヤエの射程に、氷の双剣を手にしたエミリアが滑り込む。彼女はブレード付きの氷のブーツで氷盤を滑走、円軌道を描きながらこちらの炎舞に合わせ、緩く曲線的な、しかし鋭く油断ならない攻撃を仕掛けてくる。
そのエミリアの緩急極まった攻め手に並び、氷像たちとスクラムを組んで突っ込んでくるレムの選択は真っ直ぐかつ圧巻――、
「ああああぁぁァァ――!!」
獣のように雄叫び、両手を空にしたレムがその白い拳骨を乱打する。
弾幕と、そう称するのが相応しい手数が嵐のように降り注ぐのを、ヤエは身をひねり、屈み、反らせ、跨いでは潜りを繰り返し、舞の連携で掠めるように躱す。
「ただの徒手空拳なら、永遠に追いつかせないですって」
たとえ鬼の身体能力だろうと、胴体から四肢が伸びているなら、筋肉を伝っていく力の流れは明らかで、ヤエの目はそれを見落とさない。レムの鬼族の力は驚異的ではあるが、それは『剣鬼』のようにヤエの反応速度を凌駕はしなかった。
その理屈で言うなら、エミリアとレムの攻撃の合間に、人体構造的に不可解な動きで牽制を入れてくる七体の氷像の方がヤエの想像を裏切るイレギュラーだ。
この調子なら、宣言通り、ヤエは永遠でも二人を相手し続けられる――、
「――いえ」
易い選択に流れかけたヤエは、自分で自分に待ったをかける。
この戦場は相手が選んだ。相手のやりたいようにさせていては、その思うつぼだ。イレギュラーを阻止するためには、自分もまた、相手のイレギュラーにならねば。
差し当たっては――、
「この足場を――」
エミリアとレムが協力して作り上げ、ヤエとアルとを分断した氷の円盤。風を浴びるにつれて透明度を損ない、白く曇った氷盤の向こうにアルの姿はおぼろげだ。
この足場がよくないと、ヤエはレムの連打を捌き、エミリアの後ろからの攻撃を掻い潜って、タックルを仕掛けてくる氷像の一体を踏み台に宙に跳ねた。そして、両手足の鋼糸を円盤の全方位に飛ばすと、渾身の力を込めて、全身にひねりを加える。
結果――、
「シチュエーションを変えます。これも、計算の内ですか?」
ヤエの渾身に合わせ、氷の円盤上という戦場に変化――その円盤が独楽のように回転して、強大な遠心力が氷上の全員にかかる。
戦況は、次なるステージへ移行した。
△▼△▼△▼△
――『いれぎゅらー』。
それは思ってもみないことという意味で、それを積み重ねることが今の自分たちの武器なのだと、そうエミリアは奮起する。
いきなり驚かされると、エミリアもすぐには次の行動や考えを始められない。同じことはアルにも言える。アルはとても色々考えて今回のことを計画したはずだが、エミリアたちの頭の中までは読み切れない。そのための『いれぎゅらー』だ。
『リアはピンチになると、すぐに何でもググッと力で何とかしようとするでしょ? それが通用しなかったとき、初めてどうしたらいいのかなって悩んじゃうけど……でも、そこで足を止めるのはリアらしくないし、向いてないとボクは思うな』
『ボクの可愛い娘には、どんな問題もバーンと押しのけちゃうパワーがあるんだよ。だから一度じゃなくて、たくさんの積み重ねで頑張ってごらん?』
『大丈夫、リアがそのとき必要なことは、リアの体が自然と教えてくれるよ。リアはボクの自慢の娘で、最強の遺伝子を引き継いでるんだから』
そう、いつかパックに言われたことがエミリアの頭の中で優しく蘇る。
この頃、頼もしく思い出すのはいつもスバルの言葉だったが、そのスバルが危ないとわかっている今、エミリアを最初に励ましてくれるのはやはりパックの教えだった。
レムと一緒に挑んだアルへの攻撃は、割って入ったヤエによって苦戦中――すでに崖に刻んだ印を追加で二本通過し、地底に辿り着くまで三十秒くらいしかない。
とても焦る気持ちがある。しかし、これに押し負けてはいけない。あまり得意なことではないが、この気持ちをアルたちに押し付けるのが必要なのだ。
アルを止める――否、アルとちゃんと、今度こそ話をするために。
だって――、
「――こんなこと、プリシラが望んでるわけないもの」
これを口にすることが、アルにとって残酷なことだとエミリアもわかっている。
今も、プリシラのことを思い、彼女の名前を口にすれば胸が痛み、目尻が潤みそうになる感覚はエミリアにもある。その気持ちを、アルに吐き出させたい。
以前、エミリアはアルに助けられたことがある。それを抜きにしても、エミリアはアルの力になりたい。同じ痛みを共有しているからというだけでなく、そうではない、本能的な感覚として、エミリアは彼を救いたいと思うのだ。
だから――、
「――っ、スバル!」
猛然と、熱を孕んだ風が渦を巻き、ヤエを中心に置いた氷の円盤が回転する。
皿回しのように勢いよく回転し始めた氷盤の上、加えられる遠心力に耐えかねて、スバルを模した氷の兵隊たちが踏みとどまれずに吹っ飛んでいく。
彼らは為す術なく円盤から放り出されるか、悪いものは渓谷の岩壁に激突して砕かれる末路を迎えた。だがそうなる前に、回転に足を取られかけたエミリアの手を掴んで転倒を阻止し、救ってくれた成果は忘れない。
「レムは――」
氷のスケート靴で回転する氷盤を滑りながら、エミリアは同じ状況に追い込まれたはずのレムの姿を視界に探す。まさか、氷の兵隊たちのように放り出されては――と、不安がるエミリアの前で、轟音と、ひと際大きな炎が立ち上った。
衝突が生じたのは円盤の中心、そこでレムとヤエとが激突し、炎が膨れ上がる。
レムは空に投じていた鉄球を再度手にして振り下ろし、ヤエはその打ち下ろされる一撃を束ねた糸の張力を利用して器用に受け流す。結果、大振りのレムの動きが止まり、そこにヤエの爪先が真っ直ぐに突き刺さった。
「かぅ」
苦鳴をこぼし、弾かれたレムが氷盤の上を転がり、外周へ迫っていく。
円盤の回転とヤエの脚力に、滑っていくレムの体を止める手立てがない。いけない、と思ったエミリアは彼女に飛びつく手を考えるが――、
「――余所見厳禁です」
氷を蹴る瞬間、そこに突き刺すようにヤエの牽制が飛んでくる。
燃える鋼糸で搦め捕った石龍刀の一撃と、それに遅れてくる糸撃の二段構え、広範囲にわたって二段階の回避を求められる攻撃に、エミリアは思案――しようとして、スバルとパック、頼もしい二人の言葉を思い出すことでそれを放棄。
考えるより感覚に任せ、エミリアは弾き飛ばされたレムの下へ飛んだ。――文字通り、レムへと翼をはためかせて飛んだのだ。
「な」
凝然と目を見張り、その驚きの光景にヤエが呆気に取られる。
彼女が初めて見せた隙だらけな姿だったが、残念なことに、このときのエミリアにはそちらに意識を向ける余裕がなかった。ただ真っ直ぐに、レムの下へと飛びつき、円盤の外に弾かれそうになる彼女を拾い上げ、上昇する。
――その背に、氷で作り出した翼を背負ったエミリアが。
「あ、ありがとうございます、エミリア様……この翼は?」
「前にスバルが描いてくれたの。背中に羽が生えた、天使って言うんですって。たまにスバルが言ってたけど、やってみたらできたの!」
拾い上げたレムの疑問に答え、エミリアは頬を緩める。
もっとも、あくまでこれは形だけ似せた偽物の羽だ。本物の鳥のようには羽ばたけないから、風を受けて滑空するのが精一杯。
それも、こんな特別な状況だけで成立する、とても珍しい魔法の成功例だ。スバルに見せたら喜んでくれそうだが、そのためには同じように五千メートルくらい一緒に落ちてもらわなくてはならない。
そのためにも――、
「エミリア様! やり返しましょう!」
「そうね!」
氷翼を広げるエミリアの腕の中、レムの勇ましい声に頷き返す。
やり返す、という言葉で頭に過ったもの。それがレムと同じであると直感的に信じられて、エミリアは彼女と共に真っ直ぐ、氷盤上へ高度を落とす。
そこで翼を切り離し、宙に放たれたエミリアとレムが空中で回転――同時に打ち下ろされる二人の踵が、横に回転する氷の円盤を思い切り縦に回転させた。
「――――」
氷盤を横回転させられた仕返しに、氷盤を縦回転させる。
とても単純だが、一人ではできなかった奇想天外な仕返しに、円盤の上に残っていたヤエも度肝を抜かれたはずだ。足場の上下が反転し、それがまた元通りに、かと思えばまたすぐに反転、正転、また反転とまた正転を繰り返し、振り回す。
おまけに――、
「横回転も残ってる!」
結果、縦横無尽に回転する氷の円盤は、予想通りの軌道を一切描かない無作為の戦場に成り果てた。まるで、ロズワール邸の裏にスバルとガーフィールが作った訓練場の、グラグラと揺れておぼつかない『あとらくしょん』のようだ。
そしてそう思えばこそ、エミリアは氷盤の『あとらくしょん』を駆け抜けられた。
「や! た! と……そや!」
一秒の間に猛烈な勢いで加重のかかる方角を変えながら、エミリアは靴裏の感覚だけを頼りにそれを受け入れ、弾みにして前に飛ぶ。
何とか走れてホッとする。反面、レムは大丈夫かと心配になるが。
「ご心配には及びません!」
そう答えたレムは、鉄球を氷盤に突き刺し、それを支点に鎖を辿って自分の体を一気に引き寄せて中央を目指す。その勢いはエミリアには劣るが、確実性という意味ではずっと安定感があった。
むしろエミリアの方こそ、足を滑らせないようにしなくては。
「あの子は……」
縦横の乱れた氷盤の上、あるいは下、振り落とされないように懸命になりながら、エミリアは追い縋るべきヤエの姿を探し、紫紺の瞳を瞬かせる。
いた。ヤエは変わらず、氷盤の遠心力が縦横最も弱い真ん中にいる。それでも、振り回されることには変わりないはずと、溜めた足を伸ばそうとして、気付く。
「――――」
膝を畳んで氷盤に屈んだヤエが、足場の回転に振り回されていない。
理由は明白――彼女は氷盤の中心を鋼糸でくり抜いて、そこだけ回転の影響を受けない安全地帯を作り、エミリアたちを待ち構えていたのだ。
――瞬間、炎を宿した鋼糸が束ねられ、極太の燃ゆる銀閃が視界を一閃した。
△▼△▼△▼△
――燃ゆる、紅の銀閃。
それを俯瞰して見たものがいたなら、そのものがその技術の知識を持っていたなら、ヤエ・テンゼンの放ったそれが、鋼糸の居合術だと気付いただろう。
細く、一貫した形のないそれが居合術の形を成すなどと、誰も想像しない。
ましてや、鋼糸術とは長い長いシノビの歴史の中でも、一部の天才以外には習得どころか、基礎すら踏めない幻の術技であったのだ。
その必殺を、史上最高のシノビの才を持つ『紅桜』がさらなる高みへ磨いていたなどと、アルデバランを含め、誰一人知らぬ事実だった。
故に――、
「――――」
――故に、炎の銀閃をレムが防げたのは、奇跡としか言いようがなかった。
「――プリシラさん」
その唇が紡いだのは、レムを立たせ、ここまで導いた理由の一つを担う女性の名。
そして今まさに、レムが命を拾うための兆しを残してくれた恩人だった。
――感じたのだ。ここまで一度も感じさせなかった、ヤエの確かな殺意を。
人間の感情は、マナに宿る。
そのマナを感じ取る感覚に優れたものは、他者の感情を察しやすい。精霊が相手の考えをぼんやり読み取るのは、こうした感覚が理由ではないかとも考えられている。
そして、鬼化によって角から周囲のマナを吸収しているレムは、普段は感じられない感覚を数倍する鋭敏さで感じ取っていた。
「今までは――」
感じられなかった。――否、感じていても気付けなかった感覚だ。
これが感じられるようになった背景には様々な要因がある。自分を取り戻せたことも、スバルを取り返す使命感を帯びていることも。だが、一番は別にある。
一番は、かつて城郭都市グァラルでプリシラと共に過ごした日々の影響だ。
決して長くない時間の中、プリシラはたびたび、レムに謎かけのような言葉を投げかけては、己と深く向かい合わせる切っ掛けをくれた。当時は不十分な治癒魔法と、役立てない自分への悔しさから、プリシラの言葉を表面的になぞろうとしていたが。
「今になって、ようやく、ほんの少しだけわかった気がします」
今も、あのときの言葉の答えの全てがわかったとは言えない。一生ものの宿題であるのだと思う。そして、その答え合わせをすることはもうできない。
それが悲しい。寂しい。胸が痛む。
「――今、あなたとお話したいです。プリシラさん」
呟いて、目をつむる。そして目を開けたとき、レムの鬼族としての才が開眼する。
鋭敏に感じ取れたのは、マナに混ざり込んだ微かな敵意、殺意、攻撃の意思――それが色を帯びているように見える場に、レムは寸分の狂いなく鉄球を合わせた。
自分と、それからエミリアとを両断するために迫った炎の銀閃、それを一振りで払える位置にモーニングスターを叩き込み、放たされた必殺を不殺に塗り替える。
鋼と鋼が打ち合う甲高い音が響き渡り、強烈な衝撃を手の中に返しながら、ヤエの放った一閃を、レムの反撃が真っ向から打ち返した。
「――――」
その事実に微かに息を呑み、それでもなお、身を屈めるヤエが次を構える。
荒れ狂う無数の銀閃、それが放たれる寸前に殺意となって宙を奔るのがわかり、レムは先手を打って、その線をなぞるように鉄球を、鎖を、魔法を、撃ち込んだ。
数瞬、ほとんど同時に思える刹那が重なり、ヤエの攻撃がレムによって防がれる。
ああ、と胸中で息が漏れた。
ああ、これが、本物の鬼族が見えていた景色。――ラムが生まれながらに到達していた領域の一端に、レムも十年以上遅れてようやく指先を引っ掛けた瞬間だ。
「――レム!!」
鉄球を躍らせながら、燃ゆる鋼糸の嵐を打ち払い続けるレムをエミリアが呼ぶ。
その声に込められた緊迫感は、守られたことへの感謝ではなく、状況の変化、それもよくない方向へのそれを知らせる訴え。
ちらと目の端にエミリアを捉えれば、長い足を伸ばして氷盤に張り付く彼女が、回転する視界の中にその瞳を巡らせ、
「アルがいないわ! どこにも!」
「――っ」
切羽詰まったエミリアの声に、レムも視界からアルが消えた事実をようやく察知。
氷盤の下に回り、レムたちの戦いを傍観するしかない位置にいたはずのアルが、回転することで視界を遮る要因のなくなった空のどこにもいない。
どこに、と考えた直後、レムは電撃的に気付く。――彼方の空に目を凝らした。
落下中のアグザッド渓谷、その長く大きく大地を割った亀裂の向こう、落ちていくレムたちをはるか遠目に、遠ざかっていく影が見える。
それは、先ほどのエミリアと同じく、背に翼――石で作った翼に風を受け、猛烈な速度で滑空していくアルの姿だった。
瞬間、レムの脳裏を過ったのは、エミリアと繰り出した氷盤への一撃。それが足場を縦回転させ、ヤエとの戦いを次の次元へ移行したが――これを利用された。
「私とエミリア様が、足場を蹴るのに合わせて――」
あのとき、アルは氷盤の後ろに張り付いて、レムとエミリアの蹴りの威力で回転するその勢いを利用し、彼方の空へと一気に飛ぶ推進力を得たのだ。
「――――」
このまま、アルに逃げられれば作戦が崩壊する。
イレギュラーを畳みかけ、アルの余力を削り、その上でぶつけるべき切り札に辿り着けなくなる。そうなってはならないと、瞬時の判断が行われ――レムと、エミリアの視線が交錯した。
「――レム」
と、聞こえないはずのエミリアの意思が、マナを伝ってレムに届いた。
鬼の角が感じ取るのは、敵意の兆しだけではない。揺るぎない信頼と期待をも取り込むことで、限りない力をレムに与えてくれる。むしろ、マナを取り込むことよりも、そちらの想いを背負うことの方が力の源だと思ってしまうほどに。
そう、確かに力を分け与えられたから――、
「――いってきます!」
「いってらっしゃいませ!!」
振り上げ、振り下ろした渾身の一撃で氷盤を殴りつけ、円盤の縦回転を急加速、その勢いを受け、氷に張り付いていたエミリアが一気に空へと射出された。
氷の煌めきを纏い、再び背に氷翼を広げたエミリアは風と勢いを受け、彼方へ飛んでいくアルを追い、アグザッド渓谷の空を翔ける、翔ける、翔けてゆく。
そうして、飛んでいくエミリアにアルの追撃は任せ――、
「――追わせません」
「こっちの台詞ですね~」
――アグザッド渓谷の岩壁の印をさらに通過、地底まであと二十秒。
落ちる氷盤に残った二人のメイド――レムとヤエとが向かい合い、鬼とシノビの、『英雄の介添え人』と『紅桜』との、最後の激突が始まった。




