第九章48 『頂点生物』
「――ロズワールとクリンドさんができるって言うんだもの。できるんでしょう?」
それは、『アルデバスターズ』の作戦会議の一幕、『神龍』ボルカニカと誰が相対すべきかという話し合いの中で、決定打となったエミリアの発言だった。
細かい説明を聞かずに戦場を預けたエミリアの判断、それは考えなしの軽率ではなく、確かな信頼によるもので、ロズワールは彼女に感心と、感謝をしていた。
状況が状況だ。ロズワールの長年の計画が多少狂っても、クリンドの素性を明かさなければならない場面だと半ば覚悟していた。――『神龍』の竜人、その正体を。
「ただそれを話すなら、私たちの契約の件にも触れることになる」
当然だが、ロズワールはクリンドが誰の竜人なのかを知った上で、メイザース家の使用人として彼を迎え入れていた。無論それは、彼の家令としての並外れた能力を買ったからではなく、その存在が有用だと思ってのことだ。
ロズワールの、果たさなければならない宿願――それに、必要不可欠な人材だと。
「仮に話しても、皆様の態度は変わらないかと思いますが。進言」
事情を知るクリンドは、それを伏せるロズワールにそう提言する。
それを頑なに否定する理由はない。事実、ロズワールも彼に同意見だ。おそらく、ロズワールの事情を明かしても、陣営の、エミリアたちの態度は変わるまい。
それでもロズワールが事情を明かせないのは、もはや性質としか言えない。
ロズワールは、自分を優位に置いていないと他者と相対できないのだ。相手の思惑を把握し、弱味を握り、理想を言えば人質も取っておきたい。
失敗のできない年月の積み重ねが、ロズワールを臆病な悪人に仕立て上げていた。
だから、スバルやエミリアたちが極度のお人好し集団だとわかっていても、ロズワールは自分の本心を打ち明けることができないのだ。
「だからと言って、それが支障になるとは思わないがねーぇ」
重要なのは全てをさらけ出すことではなく、能力に見合った真価を発揮し切ること。
その点において、ロズワールは自分が仲間たちに後れを取ることはないと自負する。むしろ、本心を隠している負い目がある分、成果を示さねばとすら思っている。
「……負い目? 『魔女』の弟子たる、この私が?」
自分の内心にそんな疑問を覚えながらも、ロズワールはそれを棚上げにする。
どうあれ、クリンドの事情を明かさないまま、ロズワールは彼と同じ戦場――『神龍』の竜殻を奪った敵との戦いに臨めることになった。
あとは――、
「この機会に試すとしよう。――『龍』を殺すための、私の研鑽を」
△▼△▼△▼△
――その戦いには、小手調べなど存在しなかった。
モノクルを外し、その身に紫電を纏わせたクリンド――その頭部に黒い二本の角を生やした彼は、長く被った万能家令の仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の竜人となる。
一歩、踏み切った直後、靴裏で稲光が生まれ、弾かれる初速が音に並んだ。
「――――」
大気を爆ぜさせ、踏み込むたびに砲弾めいた足音が世界を激震させる。
炸裂する紫電を加速力に、クリンドが真っ直ぐ向かうのは中天に座した威容。――その雄々しい竜翼を広げ、太陽を背負った『神龍』ボルカニカが顎門を開く。
『――――ッ』
瞬間、放たれた息吹が白い熱線となって、クリンドを正面から捉えた。
『龍』の息吹は純粋なマナの奔流であり、魔法としての指向性を与えられていないただの力だ。それでも、一滴なら無害な水が束ねれば国を押し流す大水となるように、圧倒的な勢いを得たマナは実世界を容易く削り取る――、
「――開幕の挨拶にしては芸がありません。稚拙」
その都市崩壊級の白光を、クリンドが振り下ろした手刀で唐竹割りに断ち割った。
息吹が中央から割られ、彼への直撃を避けるように背後に抜ける。代わりに焼かれた大地が剥がれ、砕け散る岩片が砂となり、それすら融けて粘性を帯びた赤い流れに変わる。
それを置き去りに、前進したクリンドの体が高々と跳ね、天空の『龍』に迫った。
『ちぃ、しゃらくせぇ!』
吠える『龍』が身をくねらせ、その太く強靭な尾を振るう。風を殴り殺しながら旋回した尾撃、それが逃げ場のないクリンドを真っ向から捉え――響き渡る轟雷。
ひと際強い紫電が空を照らし、直後に弾かれたのは『龍』の尾の方だった。
原理は地を蹴るときの加速と同じ、纏った紫電の炸裂による衝撃波だ。クリンドはそれを空にある自分の足裏で発生させて衝撃を足場にし、肩と肘、拳に至るまでを順繰りに雷爆することで信じ難い威力の拳撃で『龍』の尾に対抗した。
そして、恐るべきことにその紫電は――、
「今しばらくお付き合いを。無尽」
雲の消し飛んだ晴天に、空模様を無視した稲妻の瞬光が幾重にも瞬いた。
『おおおおおおおお――ッ!!』
怒りに声を荒らげる『龍』が、翼をはためかせて旋回する。その『龍』の周囲を、紫電が弾けるたびに加速するクリンドが縦横無尽に跳び回った。
これまでと同じく、靴裏に発生した紫電の炸裂がクリンドを宙に浮かせ、翼を持たない竜人に空を自由にする権利を与えていた。無論、勤勉な竜人は空中遊歩を楽しむだけではなく、『龍』へと猛撃を加えることを忘れない。
「――――」
振るわれる竜爪を紙一重で躱し、体格差もリーチ差もありすぎる相手の顔面に雷光を纏った打撃がぶち込まれ、そこで最高潮の雷爆が発生する。打撃+雷撃の二弾構え、それが一度や二度ではなく、瞬きの間に十も二十も積み重ねられた。
『クソ――っ』
折り重なる紫電の雷爆に制空圏を奪われ、吐き捨てる『龍』がさらに高度を上げる。
見渡す限りの荒野が広がる地上だけでなく、空まで含まれば三百六十度、三次元的に戦場を選ばないのが翼を持つ『神龍』の特権だ。
しかし――、
「――アル・デュエット」
――高度を上げた『神龍』が、頭から巨大な水の塊に突っ込み、上下を見失う。
『――っ!?』
驚愕に大きな泡を作った『神龍』、その巨体を包み込んだのは、周囲の湿気と地中から引き出した水流を一点に収束させて作り出された、数十メートルを超える水球だ。
水圧が軋む音を立てて、水の檻に囚われた『神龍』が黄金の目を見開く。
「私を忘れて大盛り上がりとは、つれないねーぇ」
その『龍』の眼下、水球に『龍』を閉じ込めたロズワールが笑みを見せる。
クリンドが最初に断ち割った息吹、その熱波に舐められ、黒光りするガラス質となった地表に立つロズワールは、天空の水球を指差し、畳みかける。
デュエットとは二重奏、この魔法も水球に閉じ込めて終わりではない。――直後、『龍』を封じた水球が、生じた灼熱によって泡立ち、沸騰し始める。
そこへ、紫電がまた一つ強く瞬いて――、
「少々、派手に参ります。轟雷」
繰り出されたクリンドの拳が雷鳴を奏でながら水球へ突き立つ。――刹那、水塊全体に閃光が走り、紫電が内部を駆け巡って『龍』を、水球そのものを焼いた。
次の瞬間、熱と圧力に限界を迎え――水球が、轟音と共に爆ぜる。
行き場を失った紫電が戦場を裂き、爆炎に匹敵する水蒸気の嵐が放射状に吹き荒れ、白熱を生き延びた水塊が晴天から雨のように大地に降り注いだ。
「――――」
引き起こされた強烈な爆轟は、小さな町ぐらい丸々消滅させる威力があった。
竜人の手助けがあったとはいえ、魔法使いが単身で発揮することを許されない破壊力、それが手加減抜きに叩き込まれ、さしもの『龍』も――、
『――ああ、クソ、頭冷えたぜ』
白い蒸気を竜翼が切り裂き、爆心地となった空の中心で『神龍』がそうぼやく。――そう、ぼやきだ。大なり小なり傷を負えば、ぼやきは悪態になっただろう。
すなわち、中空にいる『龍』は健在。――否、無傷の状態だった。
「……わかっていたとはいえ、実際に見ると凹まされるじゃーぁないの」
その無傷の生還を地上から見上げ、ロズワールは青い方の目を残して片目をつむる。
あれだけの火力に対し、一切のダメージがない『神龍』。それはロズワールの魔法が軽いわけでも、『龍』がとっさに最高の防御法を編み出したわけでもない。――真相は後者に近いが、事実はもっと絶望的で、圧倒的に理不尽なものだ。
「旦那様、気落ちされませんよう。激励」
そのロズワールの傍らに、爆轟を逃れて落ちてきたクリンドが着地する。
浴びた水球の水を紫電で乾かしながら、表情も声の調子も変えずに言ってくるクリンドだが、そこには付き合いの長さが伝えてくれるわずかな気遣いがあった。――その長い付き合いの中で、『神龍』の理不尽についても彼から聞かされている。
「――やはり、『心核』を守る竜鱗と竜暈が厄介だーぁね」
クリンドの励ましの答えになっていないそれを、ロズワールは自分が戦意を失っていないことの証として口にした。――竜鱗と竜暈、それが『神龍』ボルカニカを地上最強の存在と言わしめる最大の理由であり、越えなければならない理不尽だ。
「――――」
――『雲龍』メゾレイアと『邪龍』バルグレン、これら二体の『龍』と、『神龍』ボルカニカの違いがどこにあるか、その答えが竜鱗と竜暈にある。
まだ若く、『龍』としての成長途中にあったメゾレイアと、生み出した竜人が死んだことで精神の均衡を失い、その未来を喪失したバルグレン。いずれも竜殻を十分に育てられなかった二体は、『神龍』の有する二種類の鎧を鍛造できなかった。
それが――、
「物理的な攻撃を通さない竜鱗と、魔法による攻撃を寄せ付けない竜暈」
「その二つの鎧を攻略できなければ、『龍』の心核には届きません。再確認」
絶望感さえ覚えるクリンドの言葉、それが『神龍』攻略における最大の難関だ。
圧倒的な物理防御の竜鱗と、非常識な魔法防御の竜暈、その二枚の強大な防御を剥がさなくては、その弱点である『心核』へ攻撃を届かせることができない。
どちらかではなく、両方だ。二つの鎧を剥がさなくては、マナ体である『龍』の驚異的な回復力を上回れず、戦闘不能に陥らせることはできない。
だから、『神龍』を倒すには白兵戦と魔法戦、二つのエキスパートが必要なのだ。
もっとも――、
「竜暈を剥がす前だと、あの火力でもノーダメージとは恐れ入ったねーぇ」
「伊達に、地上最強の『龍』とは呼ばれておりませんね。嘆息」
「ちょっと自慢げなため息じゃーぁなかったかい? 曲がりなりにも、元は君だった相手なんだ。君しか知らない弱点とかこっそり教えてくれてもいいよ?」
「ございます。『龍剣』です。即答」
「身も蓋もない……」
即答された『龍剣』は、斬れないものを斬ることを可能とする魔剣だ。
その『龍剣』の性能なら、正しく竜鱗も竜暈も無視して『心核』に攻撃可能だろう。何なら『龍剣』で殴るだけでも、『神龍』にダメージが入るかもしれない。
もちろん、手元にない武器の話をしても空しいだけで、事態は好転しないが。
「参考までに、竜鱗の方は首の逆鱗が狙い目です。古傷。竜暈に関しましては……旦那様の奮励次第でしょう。期待」
「今、一枚目の切り札が通じなかった私に気軽に言ってくれるじゃーぁないの」
「そうですか。――エキドナ様でしたらできましたが。独白」
「――――」
さすが、付き合いの長さはお互い様というわけか。
いけしゃあしゃあとそう付け加えたクリンドに、思惑通りだとわかっていながら、ロズワールの心にしっかりと火が灯った。
無論、今でもロズワールは自分が師に届いたなどと思い上がっていないが――、
「教え子が先生に、恥を掻かせるわけにはいかないかーぁらね」
果たさなければならない宿業と、果たしたいと願う悲願とが、ロズワールの傷だらけの魂に活を入れ、目の前の課題に取り組む双眸に力を宿させる。
魔法の歴史とはトライ&エラーの繰り返しであり、ロズワールの人生も同じだ。
一つの問題を解決すれば、またすぐに次の問題が立ちはだかり、その解法を探って挑み続ける。だが、その全ての問題を解き明かしてきたから、自分はここにいる。
師を失ってから、これまでずっとそうだったように、一人で。
「元より、私以上に可能性のある人間はいない」
あえて自称しよう。ロズワールは間違いなく、現代最強の魔法使いだ。
そのロズワール以上に、『神龍』ボルカニカの竜暈を突破できる可能性のあるものは存在しない。――否、その極小の可能性さえも、この四百年で育て上げてきたのだ。
魔法という分野で、乗り越えなくてはならない壁を、ロズワールが乗り越えられないことなどありえない。あっては、ならない。
それがロズワール・L・メイザースの誓いであり、一人で歩くと決めた茨の道だ。
だから――、
「――私は私の全存在を懸けて、この問題を超克する」
その覚悟の一言と共に、ロズワールは今一度、前人未到の竜暈突破のため、常人の脳が焼け焦げるほどの術式を空に描き始めるのだった。
△▼△▼△▼△
――『竜人』という立場は、実に厄介なものだとクリンドは考える。
そもそも、竜人とはあくまで『龍』の次世代の姿であり、厳密には元型となった『龍』と同一の存在ではない。にも拘らず、『龍』の記憶や経験、感情の多くを継承しており、別の存在であると割り切るには難しい精神の混在を抱えている。
それはクリンドも例外ではなく、ボルカニカ時代の影響は現在の自己の在り方に色濃く反映されている。――代表的なもので言えば、未熟な可能性への強い羨望がそうだ。
生まれつき、『龍』という絶対的な種族として誕生したボルカニカには、その在り様を自ら定め、目標に向かって成長を遂げていく人間の未熟が眩しく、尊かった。
その性質は竜人となった今も引き継がれ、目下、クリンドは大きな可能性を秘めた未熟な存在――幼子を尊敬し、敬愛し、尊んで慈しんで愛おしんでやまない。
そうしたクリンドの、言わば前世からの性を、フレデリカなどは多大に誤解している節がある。ただ、フレデリカにはまた別の伏せておきたい竜人事情があるため、彼女の周りも含めて、その誤解を解くことをあえてしてこなかった。
「だからと言って、アンネローゼ様やペトラ、ベアトリス様やメィリィ、エミリア様から遠ざけられるのは少々心外ですが。不服」
ともあれ、クリンドのみならず、『龍』と竜人には切っても切れない繋がりがある。
竜人の成長が『龍』を成長させ、竜人の死が『龍』の精神を殺すのだから、その繋がりは明白――事実、竜人は必要があれば、自らの精神を空の竜殻に宿し、『龍』としての本来の力を存分に振るうことさえできるのだ。
「帝国では、メゾレイアとその竜人の少女がしていたとも。関心」
クリンドも竜人になって長いが、他の竜人との接点はなきに等しく、ヴォラキアに新たに誕生したマデリンとは、いずれ言葉を交わせればとも思っている。
その彼女がしたという竜殻への魂宿は、クリンドも何度か『神龍』ボルカニカに戻り、ルグニカ王国との盟約の遵守を果たすために過去やってきた。
「もっとも、現状は何らかの手段で竜殻の支配圏を奪われていますが。反則」
本来、竜人が自分の『龍』に魂宿するには、その竜殻に触れるだけでいい。だが、クリンドにとって約四十年ぶりの魂の里帰りは失敗し、竜殻は簒奪者の手の内にある。
「懸念していなくはありませんでしたが……。痛恨」
いかに『龍』という種族が強大な存在でも、空の器を乗っ取る手段はゼロではない。
それこそ、クリンドの知る邪精霊には他者の肉体に憑依する力を持つものがおり、そうした力なら竜殻を奪うこともできると、仲間内で語らったこともある。――ジュースと、そう名付けられた邪精霊とは、もうずいぶんと長く会っていない。
「今は詮無きこと。感傷」
いずれにせよ、『龍』が竜殻を奪われる事例はありえることであり、竜殻を取り戻すためには『心核』を打つ必要があるとクリンドは知っている。――問題は、竜殻を奪われたのが『神龍』で、竜鱗と竜暈が『心核』への障害となって立ちはだかっていることだ。
「竜鱗はこちらで逆鱗を穿つとして、竜暈の突破は旦那様でなくては。専念」
『神龍』の有する絶対防御、竜鱗と竜暈の奥で守られた『心核』――それを打つことが、クリンドとロズワールに預けられた戦場の勝利条件。
幸い、竜鱗を突破する目処は立っている。――『剣聖』レイド・アストレアとの殺し合いの末に首に刻まれた、白い古傷こそが絶対防御の唯一の穴だ。
「巡り巡って、あの無礼者の一撃が活路になるのが腹立たしい。立腹」
あの龍肉喰らいの異常者は、やれ尻尾を寄越せだの、やれ腸を食わせろだの、挙句に心の臓を抉ってこようとしたこともある。旅の道連れをなんだと思っているのか。
挙句の果てに殺し合い――傷の経緯はともかく、竜鱗の突破口はすでにある。
故に、勝利へ至るための道筋は、ロズワールが竜暈の壁を乗り越えられるかどうか。
「そのための時間を捻出するのが私の務め。専心」
四百年、ロズワールは研鑽してきた。それが今、試される。――その極限の試練に立ち会った中で、改めてクリンドは『竜人』とは厄介だと自戒する。
ロズワールという、未熟なところから始まった命の燃え方が、その眩さが、クリンドには尊く、愛おしく、慈しむべき対象に思えてならないのだから。
『――――ッッ!!』
天を怯えさせ、大地を竦まさせ、世界を脅かす『神龍』の咆哮が轟き渡る。
力ある声は振動を天地に伝播させ、空を裂く轟音が奔流となってクリンドを呑み込む。引き裂かれていく音、それに巻き込まれ、クリンドの体も裂け、爆ぜる――寸前、生じた大量の霧の中に紫電を纏って飛び込み、天鳴が文字通り霧散する。
細かな水の粒子が音に通り道を作り、破滅的な衝撃波を大きく減衰させたのだ。
「――アル・トリオ」
霧の中を雷走するクリンドを飛び越え、『龍』に迫るのは三色の輝きだ。
赤と青と緑、三種類の光が鮮やかに共鳴し、刹那、膨れ上がる光が空を焼いた。――百メートル規模の爆風と爆炎が生じ、暴風に荒れ狂う氷炎が『龍』を包み、世界の終焉めいた色が、情景が、戦場の晴天を地獄に塗り替える。
「し――っ!」
その地獄へ、空中を稲光と共に疾駆するクリンドが自ら身を投じる。
世界の終焉、地獄と化した戦場の空――そんな絶死の空間であろうと生き残り、自身の存在証明とばかりに力を振るうのが『魔女』の時代を生きた強者の証だ。
『――ウェルカム!!』
支離滅裂な混色模様を描く空を束ね、健在を証した『神龍』が高らかに吠える。
竜翼を広げた『龍』の背後、そこには岩塊で作られた巨腕が浮かび、合計十二本のそれが歓迎の快哉とばかりに猛然と唸り、剛拳がクリンドを出迎えた。
「――封枷、第二解禁」
その岩の巨腕とぶつかる寸前、クリンドの頭部の黒角が放つ光が一段階強まる。
迸る紫電、それを纏ったクリンドは一時的に『龍』と同等の防護を得る。クリンドはその堅固さを攻防に利用し、全身を不壊の武具として『神龍』の攻撃に抗った。
轟雷一閃、天に叫声を上げさせる紫電の爆発が、『龍』の作り出した岩腕を打ち砕き、体格差のありすぎる二者の乱打戦を実現させる。
「なりふり構わぬ戦い方をされる。とても『龍』とは思えません。創意工夫」
『綺麗な勝ち方を選ぶ段階はお互い過ぎてんだろ。オレ的最近の敵役トレンドは、ちゃんと強ぇ奴がズルい手も躊躇なく打ってくる、だ!』
一本、二本、三本と、巨腕を叩き壊しながら、クリンドはその答えに然り、と頷く。
自賛は趣味ではないが、『神龍』ボルカニカの竜殻を最もうまく、最も強く扱えるのはやはりクリンドだ。容れ物がどれほど強力でも、中身が違えば本領は発揮し切れない。
その足りない分を、簒奪者は竜殻の真価を引き出すのではなく、『龍』であればしないだろう小技の多用に踏み切ることで埋めてきた。
そしてその小技の範囲は、可愛げのない領域に達し、クリンドを追い詰める。
『――あぐ』
十二の巨腕と竜爪、尾撃の嵐を振り撒く『神龍』、その喉奥に轟々と光が渦巻く。
それは同時に練り上げられ、『龍』の口腔で圧縮されていく炎と水の奔流。常識的な炎水の相殺ではない。膨大な熱と水分が閉じ込められ、逃げ場を失ったそれが力の出口を求めて破裂し――刹那、クリンドは自らの正面に紫電の衝撃波を生み、真後ろに弾かれることでその『神龍』の狙いから離れようとした。
「――くっ!」
それを、囲い込むように伸ばされた岩の巨腕に止められる。包み込むように握られる岩の掌、それを雷爆の乱舞で吹き飛ばそうとするも――、
『――吹っ飛べ!』
――直後、耳を破る轟音と共に、戦場全体が殴打されたような爆轟が発生する。
生じた全てを焼き尽くす熱波と、世界を引き裂く衝撃波、それが逃げ場のないクリンドの全身に襲いかかり、『龍』に挑んだ愚か者への過剰な天罰を下した。
「……っ」
ぐっと強く奥歯を噛みしめ、クリンドは全身を覆った紫電の障壁を解除する。とっさに黒角を励起し、紫電の最大出力で竜暈に匹敵する障壁を張った。それでも、もしもまともに攻撃を受けていたなら、クリンドとて致命傷は免れなかっただろう。
そう、まともに攻撃を受けていたなら――。
「――アル・カルテット」
そう声を発したのは、クリンドの背後、焼き払われ、原形を失って崩れていく岩の巨腕越しに大魔法を詠唱したロズワールだ。
飛行魔法で空に上がり、クリンドと『神龍』の空中戦に参じたロズワールが、あの凄まじい爆轟を四属性を同時に発動する離れ業で相殺していた。
『おいおい、マジかよ……』
その事実に、『神龍』が驚愕の声を漏らすのも無理はない。
今の簒奪者の一撃は、その破壊力において都市壊滅級の威力があった。それを人の身で相殺し、なおかつクリンドを守り抜いたのだから、常軌を逸した制御力だ。
何か一つ間違えば、『神龍』の攻撃をかえって増幅させ、二人揃って消し炭になっていたかもしれない。まさに、一キロ先の針の穴に糸を通すような神業だった。
ただ、完全勝利とは言えない。
「……参った、ねーぇ」
そう弱々しくこぼしたロズワールがふらつき、制御を失って真っ逆さまに落ちる。
「旦那様! 急行」
その落ちていくロズワールに宙を蹴って追いつき、クリンドは瞠目する。
ロズワールの体は相殺した爆轟の余波だけでズタズタに引き裂かれ、特に被害の大きい右腕は見るも無残に焼け爛れた赤黒い肉塊となっていた。
あらゆる魔法を使いこなすロズワールだが、唯一、治癒魔法だけが使えない。この傷で戦闘を続けられるかは、あまりにも――、
『悪く思うな、オリジンが待ってんでな!』
「く――っ!」
負傷したロズワールを抱えるクリンドに、しかし『神龍』は手を緩めない。
風を巻く竜翼が斬光となって迫るのを、クリンドは紫電を炸裂させる雷走で空を逃れ、逃れ、逃れ続ける。ロズワールに傷を負わせた不明を恥じながら、風の刃を蹴り砕き、薙ぎ放たれる竜翼を体で受け止め、そこで雷爆――衝撃で背後に吹き飛ばされる。
それで強引に距離を取り、体勢を立て直して――刹那、『龍』の尾撃が落ちた。
「――っ」
雷爆の衝撃を回転力に変え、『神龍』の尾の打ち下ろしを直撃される。
とっさに頭を庇った腕で致命打は避けるも、地上に向かってまっしぐらの威力だ。そのまま大地に落ちても、慣性が墓穴を掘ってくれそうな勢いだが――、
『――ダメ押しいくぜ』
落ちていくクリンドたちに、そう言った『神龍』が大きく息を吸い込んだ。
高速で攻守の入れ替わる戦闘の中、溜めのいる動作は命取りになる。故に、初手以外で封じ手とされていた渾身の『龍』の息吹、それが今、放たれる。
雷走を駆使しても逃げ切れない破滅に、打つ手はない。――クリンドには。
「――アル・クインテット」
だらりと全身から脱力し、戦闘の攻防の全部をクリンドに投げっ放しにしていたロズワール、その溜めに溜めた最大火力が発動する。
――完成した術式の起動が、天上に五つの光を束ねた巨大な魔方陣を顕現させる。
火と水、風と土、さらに陽――相反する理を、人知を超えた合理によって重ね、収束させたそれは、秩序の外側にしか存在を許されない圧倒的な破滅の力。それが放たれる『神龍』の息吹と真正面から衝突し――瞬間、世界から音が、色が失われた。
「――――」
解き放たれた力と力は、鮮やかに天地の境目そのものを引き裂いた。
炎が吹き荒れ、空が凍結し、風が渦を巻いて、大地が激しく隆起し、その全てが光によって増幅され、矛盾する五つの力が光柱となり、戦場が連鎖的に崩壊する。
戦いが始まる前は岩だらけの荒野だった一帯は、上下を見失うほどの光と轟音の乱舞に満たされ、全てが混沌の坩堝に呑み込まれていった。
「――――」
それはもはや、世界の均衡を崩すという意味では、オド・ラグナによって存在を抹消された数々の禁術に匹敵する術法だ。これが禁術として存在を滅されなかった理由は、禁じるまでもなく、使えるものがいなかったからに他ならない。
かつてこれと同じ大魔法――否、超魔法を実現させたのは、『強欲の魔女』エキドナと、『最初の魔法使い』ミョンミョンのただ二人。
禁忌に足をかけた超魔法、それは『破壊』ではなく、『否定』の一矢であった。
「旦那様、あなたという人は……。脱帽」
その天変地異の光景が、たった一人の研鑽の証と誰が信じられようか。
かの人物が歩んだ道のりと刻んだ足跡、その詳細は多くのものが倫理にもとる所業だと嫌悪し、悪罵し、彼の在り方を否定するかもしれない。
だが、クリンドは否定しない。軽蔑もしない。軽蔑に値するのかもしれないが、度を超えた何かを目にしたとき、その心に去来する衝撃は人も『龍』も違いはない。
ただただ、圧倒された。人間には、ここまで積み重ねることができるのかと。
――クリンドは、人間の可能性を愛する。
弱く脆く、不完全に生まれついた彼らが何を目指し、何を求めるのか興味は尽きない。その観点において、ロズワールは最高得点の保持者に近かった。
クリンドの知る限り、ロズワールほどみっともなく、はるか遠い可能性に縋って足掻き続けたものは他にはいない。
――才能がなければ、もっと早く諦められた。
――『剣聖』ほどに選ばれた存在であれたなら、こうまで苦しまずに済んだ。
どちらでもなかったロズワールにあったのは、常軌を逸した執念だけだった。
だからクリンドは、その在り方を尊敬し、歩みを肯定し、力を貸してきた。
「その祈りはまだ、私の中で光を放ち続けています。――誓願」
そう誓いを口にして、クリンドはゆっくりとロズワールを地面に横たえる。
血涙を流し、強度のゲートの酷使で全身を痙攣させた稀代の魔法使い、その功績に報いるにはあまりにも殺風景な砂の寝台だが、今は我慢してもらうしかない。
――天空、魔法使いの極限を浴びた『神龍』は、なおも無傷で健在なのだから。
△▼△▼△▼△
――そうして現実は、命を風前の灯火としたロズワールへと追いついてくる。
「五秒です、旦那様。報告」
飛び散っていた意識の帰還を迎えたのは、殊の外冷静な声だった。
ただ、それでクリンドを責める気にはならない。五秒もあれば、『神龍』はロズワールのことを五十回は殺せたはずだ。――『不殺』縛りをしているという話があるから、戦闘不能にするために四肢を潰して傷を凍らせておく、くらいか。
ロズワールなら、戦闘不能に追い込むためならそのくらいするだろうから。
クリンドはその被害からロズワールを守り抜き、前衛の役目を見事に果たした。
問題があるのは――、
「私の体たらく、か」
『龍』と竜人の戦いに割り込み、呆気なく瀕死に陥った我が身の情けなさだ。舐めてかかっていたわけではないが、もっとやれると、そう思っていた。
「――――」
自ら魔女因子を引き受けたペトラの奮闘もあり、『神龍』を引き込んだ戦場にはロズワールの事前準備が満遍なく敷かれ、おおよそ生涯最高峰の魔法戦を演じたはずだ。
これほどの戦いは、クリンドと共に『憂鬱の魔人』と戦ったとき以来と言える。結果だけを見て、単純に『神龍』の方が『憂鬱の魔人』よりも強いという話ではないが。
いずれにせよ――、
「……勝利条件を、変更、しなければ」
今も、クリンドはロズワールの再起を信じて戦っているのかもしれないが、自分の限界は自分が一番よくわかっている。体力は底をつき、体の中はぐしゃぐしゃで、激しいマナの消耗は生命力さえも著しく削っていた。
用意した大魔法の数々も、『神龍』の竜暈を抜くには至らなかった。アル級の魔法の五種類同時発動でも不可能だったのだ。可能性があるとすれば、それは六属性のアル級同時発動だが、万全でも成功した例のない魔法が、今の状態で成功するはずがない。
脳が沸騰するような感覚と、全身の血が逆流しているような痛みは、ロズワールが四百年かけて選別した、一族最高のゲートが壊れる寸前までいっている証だ。
これ以上は、続ける意味がない。用意したものが通用しなかったなら、達成目標のハードルを下げて、最低限のノルマだけでもやり遂げる。
元々、この戦いの狙いはアルデバランの計画の阻止にあり、それはここで『神龍』を足止めし続けることができればそれでいいのだ。
だから、ここは賢く、臨機応変に、抗い続けるクリンドの援護に徹する。
それが――、
『ロズワール、無理しちゃダメだけど、すごーく大事な役目なの。だから、頑張って!』
『ロズワール様、これまでご迷惑をおかけしました。ようやく、御恩に報いることができます。一緒にあの人を……スバルくんの力になりましょう!』
『旦那様がやるって言ったことなんですから、曲げないでくださいねっ。……旦那様のことは嫌いですけど、誰にも負けないだろうなって思ってるのはホントなので』
『ロズワール様、武運を。――それから、どうぞご存分に』
「……おや」
賢く、臨機応変に、クリンドの援護に徹する――はずだった。
だが、気付いたときには、ロズワールはひどい有様の右腕を抱きかかえるようにして、ゆらりとその場に立ち上がっていた。
「――――」
おかしい。こそこそと、ロズワールの憧れた偉大な魔法使いのやり方ではなく、もっと姑息で勝利に飢えた凡庸な魔法使いの戦い方をするつもりでいたのに。
いったい、どうして、自分は立ち上がってしまったのか。
まさか、諦めていないとでもいうつもりなのか。用意したものが通用しなかったくせに。これまで一度も、実力以上の成果なんて出したことがなかったくせに。
「――なんだ、立ち上がったのか。役を引き取るつもりだったんだがな」
自分で自分の行為に驚いていたものだから、不意打ちだったその声に、ロズワールはかえって驚かずに済んだ。
「――――」
その声の主がゆっくりと、世界の終焉を描き出したように荒れ果てた大地を踏みしめ、頼りなくふらつくロズワールの隣に並び立った。
ただ――、
「すまないが、首を傾ける体力も惜しくてね。……背が低すぎて、君が誰なのかわからないんだが、子どもの出る幕じゃーぁないよ」
「誰が子どもだ! 貴様、本当に腹立たしい男だな……!」
冗談半分本音半分、そのロズワールの言葉に相手は本気全開で声を怒らせ、見えなかった姿が徐々に持ち上がり、視界の端に入る。相手の背が伸びたわけではない。魔法で地面を隆起させて、即席の踏み台で視線の高さを合わせてきたのだ。
実にくだらない魔法の無駄遣いで、嫌いじゃない。
そんなロズワールの内心を余所に、それをした黒衣に緑髪の小人族が腕を組み――、
「私が誰なのか、貴様が忘れられないように改めて刻み付けてやろう。――この『灰色』のエッゾ・カドナーが、貴様に先駆けて『神龍』を超克してみせて、だ!」