第九章46 『憂鬱の魔女』
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、あらゆる好き嫌いをしないと誓います。
△▼△▼△▼△
――『憂鬱の魔女』ペトラ・レイテ。
そもそも、どうしてペトラが『憂鬱』の魔女因子を預かる立場になったのか。
元々の所有者だったクリンドではダメだったのは、彼には彼にしかできない役目――『神龍』ボルカニカの抑えを果たさなければならなかったからだ。
そして究極、彼以外であれば所有者は誰でもよかったと言える。
もちろん、『憂鬱』の権能を用いる上での向き不向きはあり、それなしでも戦力になるエミリアやメィリィ、自分だけの役目があるレムなどは早々に候補を外れた。しかし、そうした彼女たちを省いても、まだまだ候補は潤沢にいた。
だから、最後まで候補に残ったラムやロム爺を差し置いて、ペトラが魔女因子の所有者に抜擢されたのは、総合的な戦闘力などの判断より、もっと大きな理由。
――端的に言って、ペトラが一番上手く権能を使いこなせたことだ。
「――『暴食』の大罪司教……ロイってヤローだが、手当たり次第に食い散らかしてやがるって言い張るだけあって手数が尋常じゃねー。どうする?」「接近戦も中距離も、遠距離攻撃もこなすのが厄介です」「反則。若様みたい」「「ラインハルトと同じだったら誰も勝てねえだろ!」」「でかい声で騒ぐでないわ! グラシス、滅多なことを言うんじゃないわい。気が遠くなるじゃろう」「ハッ! 仲良しなことね。すでに勝った気でいるなら、ラムにもその気分を共有してくれる?」「この娘は嫌味なことを……」「けど、メイドの姉ちゃんの言い分もわかる話だ。手は?」「基本はこのまま続ける。確かに相手はどの距離でも戦える手札を持っておるが……」「「おるが?」」「どれだけ手札の枚数があろうと、手札を選ぶ頭は一個しかない。波状攻撃を続けておれば、必ず手札を出し間違える」「そうでなくても、相手の傷は深い。痺れを切らしたら強引に状況を動かしたくなるでしょうね。ロム様にしては上出来だわ」「へっ、アタシのロム爺はすげーだろ?」「そうですね、ロム様は頼りになります」「ぱちぱち、ロム様」「命懸けの戦いの最中じゃぞ!」「楽しそうなところ悪いんだけどお、餓馬王ちゃんたちにも色々言わなくちゃいけないしい、わたし、頭割れそうなんだけどお?」「「――ごめんなさい!!」」
と、顔を突き合わせてみっちりと話し合ったも同然のその作戦会議の内容を、ペトラは『憂鬱』の権能を用い、一瞬の出来事として『圧縮』する。
全員が、自分のベストの考えが出るまで悩み切った過程の『圧縮』も重ねて、だ。
『クリンドさんがやってたみたいに、移動距離と時間を圧縮できるんなら、思考時間と相談時間の圧縮だってできる……概念系能力に付き物の、発想の転換だ!』
「ずーっと同じ使い方してたクリンド兄様じゃ、頭が固すぎちゃってたもんね」
権能の作用の微調整に集中しながら、ペトラが半透明のイマジナリースバルと軽口を交換する。
戦闘中だ。普通なら気が散る、と文句も言いたくなるかもしれないが、今のペトラに限っては、この『スバル』とのやり取りに大いに助けられている。
『憂鬱』の魔女因子が保管された小箱――クリンドから引き継いだそれを懐に忍ばせるペトラは、この力がもたらす恐ろしいまでの引力を魂で体感し続けていた。
「自分で言うのもなんだけど、引力って表現、ピッタリすぎ」
抗えずに引き込まれる感覚、それを引力にたとえ、ペトラは自戒する。
一秒でも気を抜くと、魔女因子はすぐに「あれもできる」「これもできる」とペトラを誘惑し、人間としての大事な枷を外しにかかってくるのだ。
何もなければふらふらと、崖下を覗き込んだみたいに吸い込まれる感覚に身を委ねてしまいそうになるが――、
「でもダメ」
万能感は、人を酔わせる甘い蜜だ。
魔女因子は、そうした人間の心の弱さにつけ込んでくる。しかもそのやり口は、一番叶えたい欲求を叶える手段として、「これはどうだ」と差し出してくる形なのだ。
大事なモノを、譲れない願いを抱くモノほど、その誘惑には抗えない。
それはきっと、『強欲の魔女』も、『怠惰』の大罪司教だったペテルギウス・ロマネコンティすらも例外ではないのだ。
ペトラだって、自我を支える手段がなかったらどうなっていたかわからない。
だけど――、
『ペトラ! トンチンのフォローがいる!』
「カンさんがお休み中だもんねっ! 任せてっ!」
男の子らしい勇ましい声に心の鼓膜を打たれ、ペトラが権能を発動――降り注ぐ汚濁と振るわれる血の大鎌の攻撃に、どう動くべきか悩んだラチンスとガストンの二人の思考と意思疎通の過程を『圧縮』、最善手を選ばせる。
二人が互いに迫った攻撃への対処をスイッチ、ガストンが『流法』で血の大鎌を受け、ラチンスが火球のガトリングで汚濁を打ち払い、見事にしのぎ切った。
それに『スバル』が親指を立て、ペトラもサムズアップで応じる。
『いいぞ、ペトラ! その調子だ! カッコいい!』
幻に過ぎなくても、その想い人のしてやったりの笑みに心が奮い立つ。
これだ。これがあるおかげで、ペトラはペトラのままで限界を超えられる。――歴代の、多くの魔女因子に魅入られたものたちと違い、ペトラは孤独ではない。
それがペトラを、『憂鬱の魔女』として堕落させない。
だって――、
「スバルに嫌われたくないもん」
その見栄っ張りを笑わば笑え。指を差して、ペトラを嘲笑うがいい。
必要なら、建前なんていくらでも用意できる。これは世界を救うための戦いだ。王国を生きるたくさんの人を不安から救い出す。王選という大きな舞台を守らなくては。みんなの期待を一身に背負っているのだから。
建前以外の理由だってたくさんある。いつもは何でもサボりたがるラム姉様も奮闘中。お留守番のフレデリカ姉様が祈ってくれてる。オットーさんはいつも無茶しすぎ。旦那様の思惑通りに動かされるのってホントにイヤ。エミリア姉様とレム姉様にいいところを見せたい。ガーフさんの分までがおがおしちゃう。メィリィちゃん、そんな心配した顔しないで。ベアトリスちゃん、絶対に助けてあげるから泣いちゃダメ。
その全部が大切なもので、ペトラが頑張る理由には違いないけれど、一番は違う。
一番は、あなた。
あなたに、格好悪いところを見せたくない。情けないところを見せたくない。あなたの目に映るわたしは一秒だって、気を抜いてたくなんてないから。
いつだってキラキラ輝いている人に心を奪われているあなたを振り向かせるのに、いつだってキラキラ輝いている姿を装わなくちゃいけないなら、じゃあそれをする。
わたしはとっくのとうに、引力に引かれて落ちている。
魔女因子なんてお呼びじゃない。――わたしの全部が、愛と恋でできている。
「だから、へっちゃら」
魔女因子にどれだけ誘惑されても、ペトラは決して挫かれない。
この恋心がある限り、『暴食』も黒蛇も、ちっとも恐ろしくなどないのだ。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かのために泣かないと誓います。
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アルデバスターズ――否、『憂鬱の魔女』とその使徒というべき集団の底力は、ロイの期待と想像をはるかに上回るものだった。
「いいね、いいかも、いいよね、いいじゃん、いいだろう、いいとしか、いいってこと、いいと言えるからこそ、いいって褒められるからこそッ! 暴飲ッ! 暴食ッ!」
究極的に、『憂鬱の魔女』が何をしているのかロイにはわからない。
ただ、彼女が持っている権能を最大限に活用し、フェルトたち全員に活路を与え、『暴食』の権能に対抗していることははっきりとわかった。
戦いにおいても、フェルトたちは自分たちの実力以上の成果を出していない。
彼女たちの実力の上限、それが常に最大一杯が引き出され、使われているだけだ。そしてそれを可能としているのが、『憂鬱』の権能の効果。
ただし――、
「使いたい放題ってほど、便利なものじゃァないはずサ」
前述した通り、ロイは母の口から『憂鬱』の魔女因子の持つ不具合を聞いている。
誰とも適合することのない魔女因子は、世界のルールに干渉する絶大な力を所有者に与える一方で、そうするための代償を求める欠陥品のはずだ。
すなわち、完璧に見える『憂鬱の魔女』の対応力にも、いずれ限界がくる。その限界の訪れは、どこまで代償を支払えるかによるだろうが。
「わかるわかるよォ、ペトラちゃんはナツキさんが大好きですからねえ」
『魂の胃袋』――ロイの食した宝庫に収まった最新の『記憶』を辿れば、この世界に新たに誕生した『魔女』の健気な想いは胸を衝くようにしみじみ感じられる。
幼く、未成熟な少女だが、彼女は燃える恋心のために命を惜しまない子だ。
奪われた大切なものを取り戻すための薪に、命以外のものを燃やす必要があると言われれば、躊躇いなくそれを燃料として捧げられるだろう。
そして実際、彼女はそれをしている。――だが、在庫は無制限ではない。
「あとは、どっちが先に尽き果てるか、だ」
『憂鬱の魔女』に限界があるように、ロイにも命の刻限がある。
だくだくと血の流れる傷をあえて治療していないのは、その流れる血さえ自らの目的を果たすための武装に作り変え、抗う術に用いているから。
その大量失血は、ロイ・アルファルドの命の導火線に火を灯し続けている。
まさしく、この戦いは今や、喰うか、喰われるかの線上に乗ったのだ。
「ははァ」
熱く、熱っぽい息を吐きながら、ロイは自分の魂を躍動させる餓えに感謝する。
これまでロイは、『悪食』としてあらゆるモノを手当たり次第に喰い散らかしてきた。喰らい、舐り、貪って咀嚼し、多くの人生を『蝕』してきたのは、ロイ・アルファルドが生まれながらに抱える餓えを埋めるモノを求めてのことだ。
そのためにロイは、望みの味が見つかるまで世界中を総当たり――そんな心持ちで食活を続け、喰らっては失望し、喰らっては落胆し、喰らってはガッカリし、『蝕』しても『蝕』しても埋まらない飢餓感に延々と支配され続けてきた。
そんなこれまでの食活に、生まれた変化。
その原因は――、
『そら、試してみろ。オレを食い荒らせるか、生きるか死ぬかだ。なぁ、オメエよ』
あの砂海に聳え立つ塔の中で、ロイ・アルファルドという器をはち切れさせんとした圧倒的な魂の持ち主に狂わされたことが大きい。
――レイド・アストレア。
初代『剣聖』と呼ばれた男の魂に触れたことは、ロイに多大な変革をもたらした。
『悪食』を名乗り、方々で食活に精を出しながら、ロイは憂えていたのだ。――自分という存在が抱えた餓えは、決して満たされることはないのではないか、と。
『別にそんなの、てめーだけが特別でも何でもねーですけど? アタクシも他のどいつもこいつも、みんなみんなみーんな、埋まらない愛を求めてやがるんです。そのてめーの欲しがる名前のねーもんを、アタクシが見つける手伝いをしてやろーじゃねーですか。その代わりに、アタクシが求めるものは……わかりやがるでしょ?』
そう言って、艶っぽく嗜虐的に嗤い、怪物はロイの母親になるとのたまった。
心を許したわけでも、その存在に依存するわけでもなく、ロイは自分では見つけられない可能性を欲して、母のことを利用した。たぶん、お互い様だ。
だが、いくら喰らっても、愛で汚れた手を取っても、欲しいモノは得られなかった。
ライは一食一食に価値を見出すことで餓えを埋める手立てを探し、ルイには餓えを埋めるために欲しいモノの具体的な展望があったらしい。
ロイだけだ。ロイにだけ、それがなかった。――それが、ようやく見つかった。
『変なこたねえよ、オメエ。喰うか喰われるか、それが生きるっつーことだろうが』
ああ、そうだとも。その通りだとも。
欲しいのは、生きる実感。生きていると、そう心から嗤って言えるだけの理由。
『欲しいモノのためにアタクシの全部を注ぐなんて、当たり前じゃねーです?』
ああ、そうだとも。その通りだとも。
愛情も尊敬も何一つなくても、母のその教えだけはどうしようもなく正しい。
だから――、
「打てる手は何でもかんでも全部全て丸っと躊躇わず、つぎ込んでやらなきゃァ愛とは言えないよねえ!」
相手が限界を超えてくれているのだから、こちらもそれに応えなくては。
せっかく用意されたご馳走を、食べ切れませんでしたじゃ『暴食』の名が泣く。
「さァさァさァさァ、喰ってらっしゃい味見てらっしゃいッ!」
血の流出で冷たくなっていく手足と引き換えに、心のボルテージは最高潮。
流れ出た血を虫の足を模した棘脚に変え、躍動するロイに呼応して、その背後で黒蛇が汚濁の柱となって天を衝き、それ一辺倒の倒れ込みの狩りを再開する。
『――――』
轟々と風を唸らせ、病毒が身も蓋もなく森に落ちていく。
生まれるのはひどく冒涜的で、防ぎようがないと思われる毒の大波だ。それが文字通り、戦場を黒く呑み込み、あらゆるものを病み殺そうと圧しにかかる。
だが――、
「強く――!」
「「――生きろよ!!」」
馬鹿の一つ覚えのような号令と相槌が、総力を束ねた反撃の嚆矢となる。
ラムの裂風が黒波を裂き、メィリィに従う餓馬王を筆頭とした獣群が突破口を開く。それに続く体格のいい男たちは、新たに呼び出されたものも含めて一丸――繰り出される鉄槌が大地を激しく打ち砕き、邪毒を防ぐ防壁と成す。
それは個々の力では見劣りするものたちの、全てが合わさったが故の剛力であり、押し寄せる死の結果を、寄せ集めの生の努力が打ち返す戦いだった。
「見るに、ペトラちゃんの権能ってば、出来事の短縮ってとこでしょォ?」
「べ。教えない」
「つれない返事がそそっちゃうなァ!」
攻め手を止めず、黒蛇の汚濁が雨のように降り注ぐ中を、血の鎧を纏ったロイが突貫、次々と異なる理外人の異能・術技・逸脱を切り替え、拳撃と魔法と呪歌が、幾層にも重なって獲物たちへと降り注ぐ。
だがその都度、彼女たちは陣形を即座に組み替え、物理攻撃と魔法攻撃を編み合わせ、織り交ぜて対抗――誰がどこを守ったかなど、もはやわからない。ただ全員で受け止め、全員で押し返したという事実だけが、戦場を書き換えていく。
――その戦いの最中も、ぐりぐりとロイの眼球は動き、獲物を検品する。
おおよそ、『憂鬱の魔女』の権能は『短縮』で間違いない。それにより、移動する時間と距離を縮め、おそらくは思考と判断の時間をもやりくりしているのだ。
その証拠に、戦場に次々と出ては消えてを重ねている『憂鬱』の使徒たちは、初参戦のものもいきなりの状況に戸惑うことなく対応――否、戸惑った部分を『短縮』し、すぐに目の前の状況に参加できるようにしているのだ。
「でもそれもあとどのぐらい持つかなァ!」
その対応力と士気の高さには感服するが、限界が近いのはお互い様。だが、ロイの方に一歩アドバンテージがあるとすれば、それは後方に控えた黒蛇の脅威――『憂鬱の魔女』たちはロイを打破できても、この凶悪な魔獣に対処しなければならない。
すなわち、彼女たちはロイ相手に力尽きるわけにいかないのだ。その、全力を出し尽くしてはならないという、彼女たちの境遇を皿に一つまみ――、
「――ここが、勝負所ならぬ『蝕』所ってねえッ!!」
黒蛇の巨体が再び天を衝き、汚濁が豪雨のように降り注ぐスタンバイ。それに備え、『憂鬱の魔女』たちが一斉に身構えたところへ、『記憶』を放つ。
それは――、
「――『蝕連星』」
『日蝕』でも『月蝕』でもない、ロイ・アルファルドの新たなオリジナルのテーブルマナーを浴びせた。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰とも星を望まないと誓います。
△▼△▼△▼△
瞬間、戦場に迸ったのは、ロイ・アルファルドがこれまでに喰らい、しかし、覚えておく価値を見出さなかった数多の粗食というべき『記憶』たちの一部。
プレアデス監視塔での経験を経て、『悪食』は自らの食活の意識を改めた。
全ての食材に感謝し、全ての巡り合わせに敬意を。――この世界にマズい食材はない。自分がそのウマさのわからない、馬鹿舌の持ち主だったというだけだ。
例えば、毒を持つ魚がいる。だが、その魚の毒を孕んだ内臓を適切に処理できれば、毒を喰らう以上の美味を堪能することができるのだ。
それは『暴食』にとっての獲物も同じこと。頭から尻まで、一切使い物にならない、味わう価値のない食材なんてこの世にはない。
どんな食材にだって使える部位はある。――だから、それを使った。
「――『痛みの記憶』」
まともに生きてきたら、耐えられないぐらい痛い思いをした記憶の一つや二つ、誰でも持っているものだろう。
そんな、数多の『痛みの記憶』を、ロイが溜め込んだ『魂の胃袋』から抽出し、ブレンドし、目の前の戦場に向かってぶちまける。――それは目に見えるものではない。だから躱す方法もない。概念を、相手に押し付ける冒涜的行為だ。
もっとも、『痛みの記憶』を叩き付けたところで、それが相手に直接作用するわけではない。それは文字通り、身に覚えのない『記憶』なのだから、ぶつけられたところで獲物たちがその痛みを味わう余地はない。
ならば、何が起きるのか。――近似の『記憶』を、連鎖的に思い出させるだけ。
「――ぁ」
最初、微かな声が集団の中から漏れた。
それまで、勇ましい声を上げ、表情に勇気と覚悟を宿し、あらゆる障害に真っ向からぶつかる気概を秘めた、まさに勇士というのが相応しいものたち。
そのものたちの唇から、雄叫びでも、互いの名前でもなく、高い音が漏れる。
「あ、ぁ、あ、ぁぁあぁあ――っ!!」
そして、一度漏れ始めてしまえば、それはとどまることを知らない。
目を見開き、大きく口を開け、したくなくても叫びの発信源となった部位に手を当て、血を吐くような絶叫を上げてしまう。
しかもそれは誰か一人ではない。その場の全員が、叫び始めた。
「「――――っ!!」」
ロイがまとめてぶちまけた『痛みの記憶』は、概念の範囲内にいるものの、味わったことのある近似の痛みを、今この瞬間のもののように体に思い出させる。
一度、過去に味わった痛みならば耐えられる。――その答えは、否だ。過去に耐え難かった痛みは、現在だろうと未来だろうと、耐えられない。
「が――」
声にならない声を、フェルトが、ラムが、ロム爺が、メィリィが、フラムが、グラシスが、ガストンが、ラチンスが、ドルテロが、『憂鬱』の権能の力で戦場に呼び出されていた使徒たちが、次々と上げていく。
誰も、それを堪えられない。とりわけ、最も高く悲鳴を上げたのは――、
『――ペトラ!!』
痙攣するように顎を跳ね上げ、ナツキ・スバルを『死』に至らしめたいくつもの痛みをも味わわされてしまった、ペトラ・レイテに他ならなかった。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かと待ち合わせをしないと誓います。
△▼△▼△▼△
『――ペトラ!!』
イマジナリースバルの必死の叫びが聞こえて、どうやら自分の見ている幻である彼はこの痛みを味わわずに済んだのだと、そうペトラは安堵し――なかった。
できなかった。そんな余裕は、『死』の痛みを味わうペトラ・レイテに存在しない。
「――ぁ」
掠れた息が、漏れる。痛い。痛い。痛い痛い痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――。
「――ぃ」
斬られたお腹が痛い。潰された目が痛い。貫かれた胸が痛い。通り魔された背中が痛い。下手なナイフの扱いで切った指が痛い。水仕事のあかぎれが痛い。いきなり打ち砕かれた頭が痛い。鎖の音と共にされた拷問で体が痛い。風に抉られた喉が痛い。飛び降りて激突した尖った岩が痛い。全身ボコボコに打ちのめされて身も心も痛い。見栄を張って手加減された修練で手も足も痛い。凍って千切れた指が、足首が痛い。舐められた眼球が気持ち悪くて痛い。手枷を凍らせて砕かれて手首が痛い。冷え切った地面に膝をついて、どこもかしこも軋んで痛い。混乱したオットーに突き落とされて体が痛い。そのあと白鯨に追われて逃げ惑って無様で痛い。氷漬けにされて極寒の中で魂が痛い。介錯を決断させるために命脈を暴走させられて痛い。介錯のために胸を突かれて痛い。『死に戻り』の告白で心臓を掴まれて痛い。しつこく追ってくる『怠惰』の権能に掴まれて痛い。レムを失う恐怖で自分の喉を突いて痛い。数ヶ月ぶりの割腹でお腹が痛い。瓦礫に全身を打たれ、腕を切り刻まれ、最後には体中を貪られて痛い。猛獣に嬲られ、また全身を噛み千切られて痛い。最後にはまた自ら喉を突いて、痛い、痛い、痛い痛い痛い。
「――ぅ」
『ペトラ! ペトラ! ダメだ、いくな、ペトラ!!』
痛みに頭の中を支配される。体の中身、頭の中身、心の中身、全部を■■■でいっぱいにしていたはずなのに、痛みに何もかも塗り潰される。
頭のてっぺんから足の指の先っぽまで、体の中で痛みを感じていない場所がない。どこもかしこも、自分を形作る全部が痛みになって、自分は痛みを味わうために、痛みでできていると、痛みが痛んで、痛むのが痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛たたたた――。
「――ぇ」
視界が真っ赤に染まって、うるさすぎる自分の声が耳鳴りみたいに思えて、鼻の奥にツンと血の臭いがして、口の中を死の味がする涎がたくさん出て、肌の全部が耐えられないくらいの衝撃に粟立っている。
改めて、ただ『死者の書』を読んだだけでは決して本当の意味では理解できていなかった■■■・■■■の苦しみが、はっきりと■■■・■■■にも沁み込んでくる。その痛みによって■■■・■■■は■■■・■■■を真の意味で文字通り痛感する。
痛みが、■■■・■■■の外身も中身も、丸ごと塗り潰していく、中、痛感する。
「――ぉ」
味わった痛みの全部が、■■■・■■■の、ナ■■・■バ■の、ナ■キ・スバ■の――ナツキ・スバルの、壮絶な喪失感を伴った悔悟の記憶に繋がっているのだと。
「――――」
痛かった。エミリアを死なせた。痛かった。フェルトを死なせた。痛かった。ロム爺を死なせた。痛かった。レムを死なせた。痛かった。アーラム村のみんなを死なせた。痛かった。ラムを死なせた。痛かった。フレデリカを死なせた。痛かった。ペトラを死なせた。痛かった。ベアトリスを死なせた。痛かった。オットーを死なせた。痛かった。ロズワールを死なせた。痛かった。リューズを死なせた。痛かった。ガーフィールを死なせた。痛かった。痛かった。痛かった。――悔しかった。
「くやしい」
痛い。痛い痛い。痛い痛い痛い。痛い痛い痛い痛い。――それがどうした。
「負けたくない」
痛くても、苦しくても、悲しいのと悔しいのとの方が、ずっと辛い。
みんなが大好きで、みんなを諦められない。そんなみんなが大好きで、みんなを諦められないあなたのことが大好きで、諦められない。
だから――、
「――わたしを、誰だと思ってるの」
■■■・■■■は、■■ラ・■イ■は、ペ■ラ・■イテは――ペトラ・レイテは、覚えが早くて才能豊かで可能性の塊で将来有望、未来は明るい。
あの人が、あの人たちが、そうペトラを信じてる。――じゃあ、それをする。
「できる」
できるはずでしょ、ペトラ・レイテ。
わたしにできるって、そう言ってくれたみんなを嘘つきにしないためなら。
それともみんなは、弱くて惨めで何にもできないペトラを信じた嘘つきなの?
「そんなわけ、ないじゃない」
できる。できるはず。できるっていうなら、口先だけじゃなくやる。やるの。やりなさい。やれる。今やって。すぐやって。今! ほら、やって、やって――やるの!!
「圧縮……ううん」
『憂鬱』の権能の力で以て、『圧縮』する。
距離を、移動時間を、思考時間を、相談時間を『圧縮』したのと同じように、今、ペトラたちに降りかかっている恐るべき瞬間を、『圧縮』する。
痛みは、なんと恐ろしいモノだろうか。
ほんの些細な痛みでも涙目になるし、ちょっと鋭い痛みとなったら夜も眠れなくて、どんと鈍い痛みときたらその後の人生まで左右するかもしれない。
些細だろうと、鋭くだろうと、鈍くだろうと、痛みを味わう時間は、長く感じる。
その、一秒を十秒に、一時間を半日に、一日を永遠に感じる時間を、『圧縮』する。
「みんな、歯を食い縛ってね」
『っ、一秒で済むけど、百倍痛ぇのがくるぞ――!!』
一万倍かも、とは言わなかった。
言っても言わなくても、心の準備があってもなくても、やるのは変わらないから。
「――『コンプレス・アゴニー』」
『憂鬱の魔女』の、新たなステージに上がった力が、開放される。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、人との別れを惜しまないと誓います。
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「――――」
お披露目した新技は間違いなく炸裂し、獲物たちの完璧な連携をひび割れさせた。
邪毒に満ちた汚濁、それでできた黒蛇の体が倒れ込んでいく風の唸りを耳元に聞きながら、その向こうから色とりどりの悲鳴・絶叫・叫声の阿鼻叫喚が届けられる。
その全部が痛そうで、苦しそうで、時間がもらえたらロイは彼女らを思って一晩泣き明かしたあと、その気持ちを詩にしたためて川に流しただろう。
だが、その時間がない。詩をしたためる学もないから、碌な出来にはなるまい。
でも、彼女たちを不憫に思ったのは本当だ。彼女たちに恨みなんてない。憎しみなんてものもない。愛憎入り混じってすらいない、シンプルな愛しかなかった。
愛しいモノたちが苦しみ泣き叫ぶ姿なんて、誰が見たいものだろうか。そんなのは、彼女たちの人生を堪能する上でのスパイスにしかならない。スパイスは主食じゃない。それをメインディッシュにするなんて、異常者のすることだ。
「俺たちは、そんなひどい真似をしないからサ」
『痛みの記憶』を連鎖反応させる『蝕連星』により、獲物たちの行動は断絶した。
あとは降り注ぐ黒蛇の汚濁――この首は『老苦』の担当だから、彼女たちの命までは奪わない。その思考を、行動を封じて、致死の水際に延々と引き止める。そうなればあとは酒蔵と一緒。真名を解き明かす飲み頃が訪れるまで、熟成の時を待つ。
引き止められた水際は逃げ場がなく、苦しみと暗闇が際限なしに続くと聞くが、最終的に彼女たちが味わった苦痛は余さずロイの内に収まり、失われるのだからいいだろう。そんな苦味を味わい、舐り尽くし、堪能するのもまだ食活だ。
「あァ、今すぐ食べられないってのに、熟れた果実を見るのは――」
辛い、と言おうとして、ロイの言葉が中断された。
反撃があったわけではない。むしろ逆だ。ひと際強く、大きく、獲物たちが悲痛さで胸を突くような絶叫を上げた。断末魔の声と、そう捉えてもおかしくない声量。
一瞬、ロイは目を見張ったが、それがますますの策の成功を――、
「――っづううう! づよぐぅぅぅ!!」
「「いぎろよぉぉぉぉ――!!」」
直後、ありえない反応と団結が、獲物たちを呑み込むはずの終焉を否定した。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、夕焼けを人と歩かないと誓います。
△▼△▼△▼△
刹那、フェルトは全身の皮をひん剥いて、金属製の刷毛にたっぷりと塩水を付けて、ラインハルトに磨かせるような地獄めいた痛みを味わった。
「ぃう」
痛みのあまり、内臓がひっくり返ったような感覚を味わったのは初めてだ。頭の片隅が痺れ、体の中で血が逆流しているような錯覚さえある。
何があったのか、わからない。――いや、わかる。ペトラが何かしたのだ。
「大したチビだぜ……」
と、自分とそう背丈も変わらない少女の奮闘を、フェルトは静かに称える。
ここまでの、とんでもなく勢いをぎゅっとされた話し合いで、ペトラがロム爺と抜群の連携で混成軍をまとめていたのはわかっている。これはすごい話だ。なにせ、ロム爺は世界で一番賢くて頼りになるので、ペトラは間違いなく天才だろう。
その天才が、想像を絶する何かをして、相手の何かをぶっ潰した。
「にしても、お前、ヤベーくらい運がねーな」
そう頬を歪めたフェルトが見たのは、視界の端の小柄な影――カンバリーだ。
最初から戦いに加わっていたガストンと、途中から戦いに加わったラチンスと違い、カンバリーはここぞという局面で満を持して参戦した。――その瞬間に、さっきのとんでもなく痛いヤツがぶっ放されたのだから、不運どころの話じゃない。
しかし――、
「――運はねーが、最高だ」
その、目の端から涙のちょちょ切れているカンバリーが手にしたそれを、フェルトは奪うようにして掴み取る。――陣営の切り札になりえる、『星杖』を。
ぶっ放す。フェルトの渾身、体中の力を搔き集めて、全部込めてありったけを。
あとは――、
「どこにかますかだ!」
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、隣を歩く人の影を踏まないと誓います。
△▼△▼△▼△
「――っづううう! づよぐぅぅぅ!!」
「「いぎろよぉぉぉぉ――!!」」
もはやどちらが魔獣の雄叫びかわからぬような絶叫、咆哮が轟き渡り、千の災厄を束ねたような黒蛇の蛇体が、真下からの爆風によって押し返される。
戦場を光と闇の奔流に荒れ狂い、天を裂くような衝撃がロイの全身を驚きで炙った。
何が起きたか。どうやったか。――その全部を、不問とする。
「ペトラちゃァんッ!」
誰がやったのか、それだけは確かでロイ・アルファルドは絶頂した。
すごいことだ。拍手喝采だ。ロイの中にある数多の『記憶』たちと一緒になって、万雷の拍手を彼女に送らなければならない。
いったい、どれほど自分を犠牲にすれば、『憂鬱』の魔女因子にあれをさせられる。
想像するに推測するに、人並みの幸せなど何もかも手放さなければ、この戦場を、ここまでの接戦を、あそこまでの傍若無人を、実現などできないのではないか。
――幸せになりたい。
それが、人間としての絶対不滅、不動にして不可分の願いのはずだ。
それはロイですら――否、ライですらルイですら、大罪司教たちですら、悪党ですら犯罪者ですら変わらない、絶対的な祈りのはずだ。
そのために、生きている。でも、それを手放さなくては、この状況は。
「――――」
歓喜に潤んだ瞳を瞬き一発で乾かし、ロイは仲間から白い杖を奪うフェルトを見る。
この土壇場で、ほとんど戦力にならなそうな小人族が、わざわざ持ち込んだからにはとっておきの秘密兵器に違いない。
つまり――、
「それがダメなら泣いちゃうかなァ!?」
虹色の蝶が舞い、炎と氷の槍が降り注ぎ、血の大鎌が四方から放たれ、左右ではなく前後をひき潰す圧搾が始まり、少年らしいソプラノが呪わしく歌われる。
「フェルトを守るんじゃ!!」
風が蝶をことごとく切り落とし、炎と氷の槍を氷と炎の魔弾が打ち砕いて、血の大鎌を分厚い筋肉が斬られながら受け止め、前後から押し寄せる大地を刹那の双撃が穿ち、血肉を崩壊させる呪歌を老人と豚人の巨躯が防ぎ切る。
「お見事ォ! でもォ――」
波状攻撃を鉄壁の連携によって防がれ、しかしロイはへこたれない。
ここまで、使用を控えていた『転移』が発動され、瞬く間にロイの姿がフェルトたちの集団の真ん中に登場、狙いはフェルト――ではなく、
「こっちの二人も要でしょ?」
迎撃に立った面子の中、立ち上がる余力もない二人の少女の背を狙う。
『憂鬱の魔女』と『魔獣使い』、どちらも『暴食』と『黒蛇』との戦いを拮抗させるために欠かせぬ相手方の戦力、誰も、二人の背後に立ったロイに手が間に合わない。
舌なめずりしたロイが、右手に『拳王』、左手に『雪喰』を宿し、優しく――、
――瞬間、メィリィの髪が蠢き、白光がロイの左目を撃ち抜いた。
「ぎゃうッ!?」
熱に焼かれる感覚に貫かれ、ロイの左の視界が失われた。何事か、残った方の目を剥くロイの視界に、左目を潰した妙手――メィリィの髪に潜んだ、小さな蠍が映り込む。
知らない存在だ。『記憶』にいなかった切り札、伏せ札、ビバ総力戦。
「こんな小さい味方まで――」
健気に力を尽くしているだなんて、と続けようとして続かなかった。
それよりも早く、踏みしめた大地がロイを裏切って、前兆なく空に打ち上げたのだ。
「――――」
魔法、ではない。マナの波長を感じなかった。
ならばまたしても『憂鬱の魔女』か。――否、さしもの彼女も背中に目はない。
起きたのは大地の隆起だ。予兆なく、示し合わせなく、弾んだそれは。
「――ったく、頼りになりッすぎんだよォ、俺様の仲間ァ」
不意に聞こえたそれは、『記憶』に思い当たる節のありすぎる、尖った声だった。
その足裏で大地に呼応し、地に足を着けている間は誰にも負けない鉄壁となる、頼もしすぎるからこそ、聞こえてはならなかった声音。
くるくると、宙に舞い上がったロイが逆さに視界に大地を映し、そこで蠢く病巣の魔獣に暴れるよう働きかける。
先ほどと違い、ロイと距離が開いている。血の鎧は剥がれかけだが、汚濁が雨のようにばら撒かれればそちらへの対処に獲物たちの手は割かれる。
「おすわりい!!」
泣くような叫びが、黒蛇の動きを一瞬乱した。
だが、それで止まったのは瞬きにも満たない時間だ。その時間が取り上げられても、ロイの思惑が外れることは――刹那、天に伸びようとした魔獣の蛇体が、爆ぜる。
爆ぜ、ぶちまけられる汚濁、その汚れた大地に一つの影が転び出た。
「ぶはぁっ、げほ、がほがっ……」
「うそォ」
咳き込み、この世で最もおぞましい汚濁溜まりに倒れ込んだ赤毛の男に、しぶといとか生き汚いとかでは説明のつかない衝撃に打たれ、ロイは絶句する。
何故、生きているのか。疑問と、込み上げる食欲に思わずロイの腹が鳴った。
「よォ、こっち見ろや」
軽い跳躍で、中空のロイに追いついた金髪の少年が、その尖った牙を噛み鳴らし、銀色の手甲を嵌めた拳を大げさに振り上げている。
それが叩き込まれれば、半死半生の状態のロイなどひとたまりもない。
ほんのひと時の時間稼ぎに過ぎないとわかっていても、ロイは退避の選択肢に、再び『跳躍者』の異能にあやかろうと『月蝕』を発動し、
「ぶ」
――左の死角から飛び込んできたゾッダ虫の衝突に、集中を乱された。
「――――」
煩わしい羽音と嫌な感触に視線をつられれば、遠く、数十メートル先の木々に寄りかかる水色の地竜と、それに体を預けた空っぽのはずの男の姿があった。
男はこちらに指を差し向け、視線が交錯したのに気付くと、笑う。してやったりと。
直後、風が唸り、風圧を纏った拳がロイへと真っ直ぐに放たれる。
それがやけにゆっくりと、届くまで時間があるように思われて――気付く。
「これ、ペトラちゃんがやってるわけ?」
「そう。ちゃんと最後に言おうと思って。ざまあみろって」
地上に立つ『憂鬱の魔女』が、引き伸ばした時間の中でロイに勝利宣言をする。
それに対し、もはやロイにできることは何もなさそうだ。あと、硬貨五枚分の距離まで怒れる猛虎の拳撃が迫っている。
その直撃までの間に、できることは何があるか。考え、閃いた。
「すごいすごい大したもんだよ、ペトラちゃん。でもさァ、勝つために犠牲にしたものが大きすぎたんじゃない?」
「負け惜しみ? こっちは誰もやられてないもん。大罪司教なのに情けないの」
「『憂鬱の魔女』が相手じゃ形無しだ。だけど、犠牲ってのは命だけの話じゃァない。未来とか希望とか可能性とか、そういうのだよ。これから先、ペトラちゃんの長い長い人生が寂しいモノになるのが、僕たちは心から心配でさァ」
硬貨、残り四枚分。
せめて、隠したいだろう代償を掘り起こし、その痛みで自分を彼女に刻み込む。
そんな悪辣なロイの食活に、ペトラが目を瞬かせ、きょとんとした顔をした。まさか、代償を知らずに払っていたはずもあるまいに、その反応は――、
「――もしかして、勘違いしてる?」
「勘違い?」
「おかしいな。オットーさんなら、言ってそうだなって思ってたんだけど。――今度の敵は世界全部です、みたいに」
「――――」
硬貨、残り三枚分。
直接は、言われていない。だが、そういう意気込みは『記憶』にあった。
アルデバランの行いと、しでかした被害を考えればそれは正当な認識だったと言える。しかし、それはそれ以上でも以下でもないはずの。
「まさか……」
「そのまさか」
硬貨、残り二枚分。
引き延ばされた感覚の中では、息を呑むなんて贅沢な真似はできないが、ロイは心の喉で心の息を呑み、柔らかく、『魔女』らしく微笑む彼女を見た。
魔女因子に適合していないはずの少女は、しかし、間違いなく『憂鬱の魔女』だ。
だって――、
「『憂鬱』の魔女因子は、対価を払えば誰でも使えるし、対価はちゃんと釣り合ってれば誰でも代行できるの。――だから、王都のみんなで払ってるんだよ」
「――――」
「じゃあ、もう一回言うね。――ざまあみろっ」
硬貨、残り一枚。
だって、『憂鬱』の魔女因子をここまで悪用した存在を、ロイは知らない。
これが『憂鬱の魔女』でなくて、なんだというのだ。
「――あァ、ゴチソウサマでしたッ」
残り、ゼロ枚。――『ゴージャス・タイガー』の一撃が、炸裂する。
「――――」
それが容赦なく、ロイの顔面をぶち抜き、黒蛇ののたうつ地上へ打ち落とした。その矮躯が真っ直ぐに汚濁の中へと飛び込む――寸前だ。
「――ぶっちれ!!」
そう吠えたフェルトの手の中で光り輝く杖が、世界を塗り潰す白光を放つ。
それは過たず、逃れえない断罪の一撃となって、悪逆の徒たるものたちを呑み込んだ。
――それが『悪食』の食活の、〆の一幕だった。