第九章45 『衝突する理外者たち』
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かを家に招かないと誓います。
△▼△▼△▼△
――弁明しておくが、当初、フェルトもすぐに反故にするつもりでロイの条件を呑んだわけではなかった。
相手のかけた『保険』が『保険』だ。
その脅威はフェルトも知るところだったし、迂闊なことをすれば自分の命はもちろんのこと、周囲にも甚大な被害をもたらす可能性が大だった。
だから、フィルオーレ・ルグニカを演じ、できるだけアルデバランたちの隙を窺おうという、癪だがロイの方策に乗るつもりではあった。当然、彼らを出し抜こうとするロイをさらに出し抜く腹積もりであったが。
しかし、そんなフェルトの決意は、間もなく方針転換を余儀なくされた。
「――フェルト!!」
封じられていた空間から解放され、首に当てられた鋼の冷たさを肌に感じながら、フェルトは状況の把握に全霊を注いだ。まずあったのは、フィルオーレを演じて『保険』――ロイの目のあるなしに拘らず、発動する恐れのあるそれを防ぐこと。その上で、居合わせるアルデバランたち全員に一泡吹かせる好機の模索。
そうした諸々の構えが、聞き慣れた声が自分を呼んだ瞬間にひび割れそうになる。
「――――」
羽交い絞めにされながら、かろうじて動く顔を上げ、フェルトは見た。
戦場の奥、フェルトを大きな声で呼んだのは、ほんの二、三日ばかりですでに恋しいロム爺の姿。歓喜と同時に、自分はそのための人質なのだと理解し、フィルオーレの仮面が剥がれかけたのを無理やり繋ぎ止め――目が合った。
ロム爺と、ではない。その肩の上に乗った、少女の薄青の眼と、だ。
――瞬間、フェルトの頭の中に、凄まじい勢いで情報が流れ込んだ。
「――ぅ」
その赤い目を瞬かせるフェルトの内を、寸暇を惜しむように濁流が荒れ狂う。
どうやら戦いの真っ只中、アルデバランとヤエ、『神龍』の不在、ロイとハインケルだけが残った戦場で総力戦、分断・奇襲戦術、指揮するさすがアタシのロム爺、ラインハルトは『魔女』の相手継続、他にも、他に、ほか、ほ――、
「――ロム爺! ガストンたちを下がらせろ! アレがきやがる!!」
容赦ない情報の濁流を泳ぎ切り、フェルトはこれが最善だと声を荒らげた。
『保険』に怯え、フィルオーレの演技を続けても、戦闘で窮地に陥ったロイが状況を変えるために約束を違える可能性は高い。元より、相手は大罪司教だ。約束を必ず守るなんて、そんな信用をする方が間違っている。
そもそも、ロイは最初から嘘をついていた。――フェルトと共謀し、アルデバランたちの隙を突いて逃げるなんて大嘘だ。ロイは最初から、フェルトも含め、アルデバランもヤエもボルカニカもハインケルも、全員喰らうことしか考えていない。
だから――、
「――アタシの影から出てきやがるぞ!!」
こうしてロイを出し抜くことに、何の躊躇も逡巡もない。
唯一、あったとすればそれは『保険』に対処できない恐れだけだったが、その恐れは居合わせた顔ぶれ、とりわけ、ロム爺の存在が打ち消してくれた。
――ロム爺がいれば、できないことは何もない。
この世界の多くのものが、『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアに抱く希望を、フェルトはこの老いた巨人に抱いていた。
故に――、
「――黒蛇だ!!」
自分の影から、凄まじい『死』の奔流が溢れ出したとしても、フェルトの瞳に、胸に、一切の恐れは存在していなかった。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かの最期を看取らないと誓います。
△▼△▼△▼△
――三大魔獣の一角にして、病巣の魔獣たる『黒蛇』。
およそ、あらゆる人類に害為すのが魔獣という種族の生態だが、そうした中でも三大魔獣が別格とされるのは、その魔獣の在り方に則した上で、引き起こされる被害規模があまりにも大きすぎるという単純な理由であった。
――各国で幾度も討伐隊が組まれ、その大半を存在ごと抹消してきた霧の『白鯨』。
――天災めいた食欲で数多の営みを喰らい尽くし、悲劇さえ平らげる食害の『大兎』。
黒蛇と同じく、三大魔獣と呼ばれたそれらの恐ろしさは語るまでもない。だが、その白鯨や大兎と比べてなお、黒蛇の存在は異質かつ異様なものだ。
前述した通り、三大魔獣とは他の魔獣を圧倒した被害を出す存在。――その条件に厳密に従うなら、黒蛇は三大魔獣ではなく、ただ一体の大魔獣と呼ばれるべきだ。
かつて存在した大国を滅ぼし、五大国を四大国に減らした黒蛇の奪った命は、白鯨や大兎と比較してもはるかに多くのものであるのだから。
「ぬあ――っ!?」
その黒蛇の出現を告げられ、直後の光景にロム爺は驚愕の声を上げさせられた。
瞬間、フェルトの足下の影から噴出したのは、その実態を視認できるほど色濃く濃密な瘴気の塊――まさに、影そのものが首をもたげたように見えるそれは、あらゆる生命に本能的な『死』を思わせる凶悪無比な脅威の顕現だった。
だというのに――、
「ええい、なんじゃ、その目は……!」
すぐ間近に恐ろしい魔獣の気配をひしひしと感じているだろうに、それでも自分を見るフェルトの目に恐怖でなく、信頼しかないことがロム爺の心を沸き立たせた。
年寄りには贅沢な、命を惜しむ本能をねじ伏せ、その期待に応えたくなる。
「ペトラぁ!」
「はいっ」
刹那、返事をした少女の体が跳ね、ロム爺の肩から飛び降りる。その聡い少女の判断に顎を引きつつ、ロム爺は正面を見据え――『圧縮』が発動する。
「――――」
ぎゅんと、周りを置き去りにするような感覚がロム爺の魂を震わせる。
もし、これまでロム爺――バルガ・クロムウェルが関わってきた多くの戦いにこの力があったなら、その戦術も、戦いの勝敗も、歴史さえもガラッと変わっていただろう。
権能の力を目にし、魔女因子を近くに感じるだけで、そうした『もしも』を想起せずにはいられない。おそらくはそれこそが、魔女因子に選ばれたものが力に魅入られ、その全能感に溺れて道を踏み外し、おぞましき存在に堕ちていく原因なのだ。
それを――、
「――っ」
きゅっと奥歯を噛みしめたペトラは、健気な心で耐えている。
短い時間とはいえ、魔女因子が彼女に相当な負担をかけているのは間違いない。すぐにでも解放してやりたいと思うのに、それとは裏腹に現実は力の行使を彼女に強いる。ロム爺もまた、その憎たらしい現実の一人でしかあれないのが腹立たしい。
だからこそ、強いるからこそせめて、結果だけは最上のものを持ち帰る。
「雷の八、戦士。花の八、兵士」
思考が爆ぜた感覚と、厚い唇がそう紡いだのは同時だ。
そのロム爺の指示に従い、素早い判断を下したペトラがフラムとグラシス、それにガストンの三者を『圧縮』で引き戻し、戦場の後方に放り出した。
それと入れ替わりに、同じだけの距離を前に飛んだロム爺が、なおもハインケルに羽交い絞めにされたフェルトを力ずくで毟り取り、再びの離脱を図る。
しかし――、
「ひっどいなァ、一緒に逃げようねって言ったじゃァん」
瞬間、粘つくような不快感のある声と、肉が無理やり貫かれる嫌な音が重なる。
遅れて走った焼けるような痛みにロム爺が呻くと、右脇に突き刺さった貫手、その主であるロイの血染めの笑顔と目が合った。
先のラムたちの連携攻撃に致命傷を浴びたはずのロイ、彼はその傷だらけの矮躯を血で真っ赤に染めながら、なおもこちらに牙を剥いてきた。
「テメ、ロム爺に……っ」
「忠告はしたよ? こいつらは、俺たちの言うことだってちゃんとは聞いちゃくれないんだからサ!」
気色ばんだフェルトに歯を噛み鳴らし、ロイが顎をしゃくって背後を示す。
大きく噴き上がった黒い汚濁の柱、それが触れるどころか、視界に入れるだけでも命を蝕みかねない脅威だと、生きとし生ける全てのものが魂で直感する。
脅しでもハッタリでもなく、そこに『黒蛇』という禍々しい伝説がいるのだと。
「――ぬうっ」
脇腹を抉られた痛みを堪えながら、ロム爺の思考が白熱する。
この場で対応しようとするのは下策も下策。何はなくとも黒蛇の邪舌の範囲外に逃れなくては。だが、ロイは当然こちらの妨害にかかるため、『圧縮』で逃れるのは難しい。ロイは黒蛇の魔禍を避ける手立てがあるのか、あるいは自爆覚悟の道連れ戦術か。それを止める最善手を、ひねり出せひねり出せひねり出せ――、
「――フォルドの娘を守れ!」
熱を持った思考の終着点が、その結論になった理由はロム爺にもわからない。ただ、その帰結に至るまでの思考の過程が極限まで圧され、叫んでいた。
その血を吐くようなロム爺の叫びに、一人の男が呼応する。
「う、ああああ――!」
怯え、震えた声の主が反射的に剣を閃かせ、ロム爺の巨体に組み付かんとしていたロイを斜めに斬り払い、吹き飛ばす。
その銀光の冴えは、振るった本人にすら驚きを与えるもので、それに救われたフェルトにしてみればまさに天が落ちてくるような衝撃だった。
「アンタ……」
「――っ!」
目を見張ったフェルトを凝然と見返し、歯を食い縛ったハインケルの手が伸びる。それは真っ直ぐに、フェルトではなく、彼女を引き寄せたロム爺の巨体を押した。思いがけず強烈な突き出しを浴び、ロム爺の体が勢いに弾かれる。
そして、突き飛ばされたロム爺とフェルトの見ている前で――、
「フィルオーレ様、俺は――」
その混乱と後悔と愛憎の入り混じった表情を、誰になんと表現できたものか。複雑怪奇を極めた唇が紡ぐ言葉、それはどんな心情を伝えようとしたものだったのか。
全てはわからない。――その答えが形になる前に、ハインケル・アストレアは降り注いでくる黒蛇という汚濁に頭から呑まれ、消えたからだ。
「――――」
瀑布の如き汚濁を浴び、禍々しい黒に染まる大地が死んでいく。
木々は枯れ、草花は腐り、水は濁って泡立つ。黒蛇の邪舌に侵されたあとには生の色は一片も残らず、あらゆるものが取り込まれ、ただ一様に殺されていった。
それはもちろん、汚濁を頭から被ったハインケルも例外ではない。
「――バカ野郎!」
「あァ、もったいないッ!」
その光景に、皮肉にも悔しがるフェルトとロイの反応が一致する。
だが、もう一人の当事者であるロム爺にそれを嘆く資格はない。今のハインケルの決死の行動が、自分の叫びを呼び水にしたものの自覚があったからだ。
さらにその自覚の有無と無関係に、ロイの食欲は即座に気持ちを切り替えてくる。
「フィルオーレ・ルグ――「風の二、狩人!」」
湧き水のように致死の汚濁が湧く中、食欲を優先するロイの声をロム爺が塗り潰す。
飛びかかってくる矮躯から、ロム爺はフェルトを遠ざけるよう身をひねり、聡い相方に自分たちの離脱ではなく、状況の打開の指示を飛ばした。
「――ッッ!!」
「この子、わたしも止められる自信ないわよお!」
その指示に呼ばれ、巨体の凶獣とそれにしがみつくメィリィが現れる。
咆哮と自棄の悪態が重なり、獣の爪はロイを正面から捉え、『魔獣使い』は汚濁の集合体を指差し、お腹に力を込めて大声で怒鳴る。
「おすわりいっ!!」
雷鳴のようなメィリィの号令が、魔獣に抗い難き衝動を叩き付ける。
途端、地を這い、影を伝い、枝分かれしようとしていた汚濁の動きが乱れ、凶獣と入れ替わりに飛びずさったロム爺たちが黒蛇の射程から逃れる。逃れ、呼吸を再開、首だけで振り返った先にようよう汚濁の全身を視野に入れ――絶句した。
「――――」
それは魔獣などと可愛げのある生命体ではなく、『死』という現象だ。
森の影から溢れ出した汚濁が収束し、形作るのは蛇体のような輪郭。だが、その輪郭は肉でも鱗でもなく、無数の病巣がたまたまその形を成しているに過ぎない。
蛇体を覆った鱗のような出来物は膨らんでは弾け、黒々とした滴を膿のように撒き散らしては、その一滴が触れたものを音もなく腐り落ちさせていく。かろうじて頭部と呼べそうな輪郭の先端、そこが花弁のように開くと、無数の細い糸状の突起が舌か触手、あるいは寄生虫の群れのように蠢いていた。
それはまさしく、『最悪の魔獣』の名に相応しい、命の警鐘を鳴らす存在。
白鯨が空から歴史を喰らい、大兎が地上の営みを貪る存在であるなら、黒蛇は世界そのものを病ませ、腐らせる滅びの災いそのものだった。
「その認識で大ッ正ッ解ッ――!」
戦慄するロム爺の視界、黒蛇の汚濁に侵された大地でロイが声高に喝采する。
同時、高く尾を引く巨体の魔獣の全身が血を噴き、真下から掌打を浴びて高々と空へと打ち上げられた。
「影獅子ちゃん――っ!」
悲鳴を上げるメィリィが手を伸ばすが、どうにもできない。
吹き飛ばされた魔獣、ギルティラウはくるくると回転し、為す術なく黒蛇が汚濁を広げた大地に墜落、その巨体が邪舌に舐られ、凄まじい勢いで侵されていく。その痛ましい断末魔の咆哮を背後に、ロイもまた汚濁の中心に立つ。――ただし、ロイは深手から流した血を操り、甲殻類のような足を形成し、地に足を着けない姿勢を作っていた。
「あァ、泣かないでいいよ、メィリィ。あの子は生まれ変わるんだ、この通り」
そう言ったロイがパチンと指を鳴らすと、汚濁に呑まれ、黒い塊と化していたギルティラウだったものが膨れ、魔獣の巨体が無数の虹色の蝶へと変じた。
大小様々な虹色の蝶が舞い踊り、立ち込める黒蛇の瘴気の内でロイが邪悪に嗤う。
「フェルト、奴さんは黒蛇を……」
「自分じゃうまく操れねーとは言ってたが、アタシの影に条件付きで忍ばせるなんて真似してんだ。素直に信じる気にはなんねーな」
「悲しいなァ! 僕たちが信用できないから裏切るとかしちゃったわけ? 大罪司教を騙すだなんてあくどい真似、王室生まれの血が泣くんじゃないのォ?」
「わりーが、アタシの血は貧民街の水とパンでできてんだよ。親がどうだろーと、テメーを裏切って泣くしおらしさなんていらねーな」
おちょくってくるロイに勇ましく言い返したフェルト、その視線がちらと向いたのは、とぐろを巻く黒蛇の汚濁――黒い濁流に呑まれた、ハインケルがいた位置だ。直前のギルティラウの末路を見れば、ハインケルの辿った最期は想像に難くない。
ロム爺にとっても、陣営の誰にとってもいい印象を抱きようのない男だった。だが、ラインハルトの父親だ。人質だったフェルトとは、おそらく会話もあっただろう。
その最期が黒蛇の餌食というのは、報いというにはあまりにも惨すぎる。
「――ウル・ゴーア!!」
その感傷を、荒々しい一声が焼き払った。
ロム爺たちの頭上を飛び越え、森を煌々と照らしながら業炎が黒蛇へ迫った。衝突、爆炎に汚濁が激しく震え、熱を持った腐臭が一気に現実感を突き付けてきた。
そうして黒蛇に容赦ない攻撃をぶち込んだのは、新たに参戦した人物――、
「おい、フェルト! 無事に戻ったんなら号令かけろや! テメエの仕事だぞ!」
挨拶代わりの派手な一発を放り込んだラチンスが、そう発破をかけてくる。
どうやらかなり無理したらしく、参戦してすぐだというのに息を切らしたラチンス。しかし、その発破は効果覿面だった。フェルトは軽く目を見張ったあと、すぐに勇ましく頬を引き締め――、
「ロム爺、勝たせてくれ」
「……無茶を言うわい」
「無理なら言わねーよ」
「無理とは言っとらんじゃろう。無茶と、そう言ったんじゃ」
脇腹の傷もあり、機敏に動くのはできそうもない。元々やれる仕事に専念しろと、頭に上った血が抜けて、そう冷静に考えられるようになった。
もし、フェルトが『暴食』の手に触れられれば、フィルオーレ・ルグニカの名前で何が起こるか。――その答えを知るロム爺は感傷を黙殺し、思考を巡らせ始める。
そのロム爺の様子に頼もしさを覚えたように、フェルトは自分の頬を両手で叩き、
「じゃあ、お望み通りの号令だ。――やるぞ、ヤロー共!!」
「「おお――!!」」
フェルトの勇ましい号令に、ラチンスやガストンを筆頭に、声が上がる。
大罪司教と黒蛇、世界の脅威らしい脅威を相手に、怯むどころか士気を高める仲間たちを誇らしく思いながら、ロム爺もまた、自分の頬を両手で叩いた。
「あァ――」
その、自分に向けられる敵意の眼差しを浴びながら、ロイが自分の体を抱き、
「たまんないなァ。――みんなみんな、最ッ高にッ、愛してるッ!」
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――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰の手も握らないと誓います。
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歓喜を以て、食したい。
感謝を以て、食したい。
愛情を以て、食したい。
怒りでも、悲しみでも、恐れでも、敵意でも、不安でも、嫌悪でも、憎しみでも、恨みでも、嘆きでも、嘲りでも、軽蔑でも、呪いでも、悪意でもなく、食したい。
――心の底から、『悪食』のロイ・アルファルドはこの場の全員を食したい。
「けど、そのための障害が多いなァ」
ズタズタになった服を脱ぎ捨て、傷だらけの肌を風に晒し、ロイは舌なめずりする。
『蝕』の不発、それに乗じたラムたちのもてなしの被害は甚大で、余裕ぶってみせているほどの余裕は実はロイにもない。大量の出血を『血涙鬼』の魔法で、黒蛇の汚濁で死んだ魔獣や森の生き物を『虹幻公』の力で虹色の蝶に再利用しているが、アルデバランの呪印の影響下にあるロイには、戦場から逃げる自由すらなかった。
もっとも、そうでなくても、これだけのご馳走たちを前に、『悪食』のロイに逃げるなんて選択肢は頭を過りすらしなかったが。
「俺たちは『美食家』のライとは違うからねえ」
好き嫌いが多く、喰らう相手を選り好みしたライはシチュエーションにも拘った。
それだけに、必要なら逃走やお預けもスパイス代わりにしていたが、ロイは違う。選り好みしないということは、満遍なくあらゆる相手に食指が動くということ。
すなわち、ロイ・アルファルドはこの世の全ての人間を喰らいたい。
だから、逃げるだなんてとんでもない。一度出会った相手と二度と出会えないなんてことになったら、悔し涎で濡らす前掛けは何枚あっても足りないだろう。
「その僕たちとしちゃァ、この下拵えはちょーっと厄介でさァ」
ラムのことを、『ラム』でも『ラム・メイザース』でも喰らい損ねた。
真名の変更、これは間違いない。だが、彼女の身内の最新の『記憶』でも当てにならないということは、変更後の真名の候補は無限大――そしておそらく、それはラムだけでなく、前線組全員が同じ下拵えをしている可能性が高い。
「『憂鬱の魔女』ペトラ・レイテってのも、どこまで信じたもんかなァ」
聞こえよがしにそう名乗ったのも、今となっては特大の罠に思えてくる。
そうなると現状、ロイがこの戦場で手を伸ばせる余地があるのは、ほぼ確実にフィルオーレ・ルグニカであるフェルトくらいしかいないが、それすら確実ではない。
万一、フェルトのそれも空振りして「おえっ」と『蝕』の嘔吐反射を起こせば、その隙を突かれたロイは今度こそ一巻の終わりだろう。
故に、断腸の思いで、ロイは『暴食』にあるまじき決断を下す――、
「――食べるの、いったん後回し」
今この瞬間、ご馳走たちの真名を特定して、片っ端から喰らい尽くすのは不可能だ。
彼女らを根こそぎ平らげるため、この場で最優先すべきは保存食の仕込みだ。幸い、ロイに従っている黒蛇は、それを得意とする頭の一本。――それだけに、理想はもっと大勢の人間がいるところで黒蛇を顕現させたかったが、それも含めてフェルトの裏切る決断は絶妙にロイの嫌なタイミングだった。
「でもそれでこそッ! 喰らいッ! 甲斐がッ! あッ! るッ!」
失血死寸前、ダメージ甚大、空腹オブ空腹、モスト飢餓感――『悪食』全開。
胸の前で手を合わせ、視界の両端から中央まで、世界を一気に寄せ集める。
深々と根を張った木々がへし折れ、大自然に踏み固められた大地も関係なく『圧搾屋』の力で掘り返し、安全域に下がった獲物の逃げ道をまとめて塞ぎにかかる。
「ガストン! ドルテロ!」
その強固な土壁の建立を、大柄な二人が力ずくで止めにかかる。拮抗は一瞬、圧搾への抵抗が閉じた手に跳ね返り、両手を強引に開かれたロイ、その眼前に炎が渦巻く。
「ラチンス! メイドの姉ちゃん!」
三白眼の火球が、ラムの生み出す風と掛け合わさり、生まれるのは炎の竜巻だ。それをロイは舞い踊る蝶の三体を消費し、『魔弄師』の水の槍で迎え撃つ。
死体に残ったマナから羽化した蝶は、それ単体でも破壊的な威力を発揮するが、外付けのマナタンクとして魔法に流用することも可能だ。自前のマナで瀕死の体に『流法』を維持したいロイにとって、黒蛇が殺せば殺すだけ追加されるオートの援軍だ。
「フラム! グラシス!」
炎の竜巻と氷山が激突し、爆風のような勢いで水蒸気が視界を覆った。
空は白、大地は黒、二色に塗り替えられる世界を突き破り、一息入れたいロイの気持ちを無視した双子の荒っぽい猛攻が降りかかる。
『肉食獣』の剛皮でそれをあえて喰らい、右手に『拳王』、左手に『雪喰』の攻撃的な合わせ技で返礼、汚濁の広がる大地に双子をまとめて叩き落とす。
が、致死の邪舌に双子が呑み込まれる寸前、差し込まれた餓馬王の骨槍が少女たちを拾い、致命の範囲から回収。突き出されるもう一本の骨槍を『悲恋歌人』の歌声で相手の腕ごと粉砕し、戦果の少なさにロイの胃袋が飢餓感の蠕動に蠢いた。
そこに――、
「ビィィィッグウェエエエブ!!」
ロイの真後ろで、天に向かって高々と体を伸ばした黒蛇が、ゆっくりと倒木のように正面――獲物たちがまとまったところへ倒れ込んでいく。
触れれば終わり、殺意という表現すら生温い滅意の塊たる黒蛇の狩りは、言い方は悪いが大雑把で工夫のない、生まれながらの征服者の振る舞いだ。その質量をばら撒くだけで相手は死ぬのだから、それ以上の先鋭化など必要としない。
それが容赦なく、フェルトたちに頭から降りかかって――、
「――強く!」
「生きろよ――!!」
一丸となった怒号が力となり、大地に雪崩れ込むはずの黒蛇の汚濁が押し返される。
力仕事担当が大地を引き剥がし、魔法担当がその大地を盾になるよう補強し、技担当がそれを黒蛇を受け止めるよう打ち上げ、盾が溶解する一秒を稼いで離脱する。
全員が全員、ありえない息の合い方と最善行動――、
「――――」
果敢、勇敢、なんたる豪胆。
致死性の脅威をばら撒く黒蛇を視野に入れ、これまで戦った強敵(友)の存在を力に変えるロイを相手にしながら、躊躇なく踏み込む彼らの威勢は説明がつかない。
「普通、慌てるとか驚くとか慄くとかさァ!」
混乱と驚愕と戦慄と、すべき衝撃を全部スルーした彼女らの行動にロイは叫ぶ。
家族や恋人以上の息の合い方、極まりすぎて異常者じみた覚悟と胆力。間違いない。彼女たちは仕上がっている。――全員で一個の、豪華すぎる一皿だ。
そう考えた途端、彩り豊かでバラエティに富んだ顔ぶれに、前菜も副菜も主菜もないのだと心が跳ねる。どれも等しく、尊くて味わい深いオンリーワン。
そのトキメキに目を輝かせるロイに、噴煙を転がり出たフェルトが中指を立てる。彼女は尖った八重歯を見せつけ、
「ダラダラ涎垂らしてんじゃねーよ、イカレヤローが!」
「君たちが愛おしすぎて無理ィッ!」
中核となり、仲間に動き出しの指示を出すフェルトに愛情が募る。
最初は思惑を裏切られて怒りもあったが、今は裏切ってくれてありがとうだ。こんなに素敵にもてなしてもらえるなんて、こちらも返礼をしないと大罪司教の名が廃る。
「――――」
ちらと見れば、黒蛇の動きが鈍い。
元より、黒蛇は単調な動きでじわじわとエリアを侵食し、隙間なく大地を汚染することで被害を拡大する魔獣だ。狩る側としての性能は決して高くない。頭一個分では本調子でないのも間違いないが、それにしても動きが悪いのは――、
「おすわり、よお……っ」
細い腕で餓馬王にしがみつくメィリィが、震え声で黒蛇の動きを阻害する。
目を真っ赤に充血させた少女は、授かった加護を過剰に働かせ、その反応で血を燃やし、魂を焼かれるような感覚に苛まれているはずだ。
だが、彼女の『魔操の加護』は三大魔獣の一角、黒蛇にさえも干渉している。――正直、それを加味しても黒蛇の反応は鈍く思えるが。
「せっかくだッ! それはッ! こっちでッ! 補っちゃおうかァ!」
完封される黒蛇ではなく、完封するメィリィを称える気持ちで、ロイが手と手と合わせれば大地が隆起し、それを虹色の蝶が吹き飛ばし、汚濁の散弾がばら撒かれる。
触れればアウトの死の汚濁だ。黒蛇本体の動きが鈍いなら、撒き散らすのはこちらが担当すればいい。二度、三度と爆発を重ね、広範囲に黒の散布が行われる。
「ははァ、はははァ、はははははァッ!」
無論、爆心地にいるロイとて汚濁を浴びれば命が危うい。故にロイは血の鎧で自らをコーティングし、飛び散る汚濁を浴びない万全の姿勢だ。
雨を躱せる人間など、一部の例外を除いていない。そして、ご馳走プレートの全員が例外であるはずもなく、黒蛇の汚濁爆弾は容赦なく戦場を黒に染めたはずだ。獲物たちが庇い合うにも限度がある。理想はメィリィの行動不能だが――、
「はァ?」
血のフェイスガードを外したロイの喉から、間の抜けた声が漏れた。
視線の先、散布された汚濁に腐り落ちる森の中、ぽっかりと被害を免れた空間――一所に集まったご馳走たちが背を合わせ、死の散弾を防ぎ切った姿があった。
「ないな」
群れ成す虹色の蝶の防御不能の鱗粉を、乱舞する大地の散弾が迎撃する。
「ないでしょ」
視界を端から中央まで押し潰す圧搾、その出鼻を押さえられ、発動が挫かれる。
「ないってば」
鼓膜を貫く叫歌で狙った足止めが、風と炎の作り出す爆音に掻き消される。
「ないだろう、ないんだって、ないんだからこそッ」
『魂の胃袋』をひっくり返し、掴み取れるものを惜しみなく振るい、その存在を恐れられた事実さえ消えた理外人たちの力で、天変地異を次々と引き起こす。
だがしかし、フェルトを中心としたアルデバスターズは、これを全て的確に、全員が一個の生き物であるかのように連携し、最適行動で対処し続ける。
――おかしい。
「――――」
間断なく、世界と常識を削るような攻撃を繰り返しながら、ロイは疑問する。
いくら何でも、おかしい。確かに彼女たちは勇敢だ。彼女たちは信頼し合っている。彼女たちの目的は一つだ。彼女たちは優秀で有能だ。彼女たちは強い。
――だとしても、おかしい。
人間はこうまで、最適化された行動なんてできない。
にも拘らず、フェルトたちはあらゆる攻撃に対し、手札の中から最も有効なカードを、一番いいタイミングで切り続けている。
この感覚をロイは知っている。監獄塔で戦ったアルデバランだ。
囚われのロイの封印を解いたアルデバランは、力の差を見せつけるためにロイをボッコボコにした。手も足も出ずに完封されたあの不可解、あれと同じ――近いが、違う。あれはあくまでアルデバラン単体の異常性だ。しかし、これは敵全員の異常性だ。
――明らかに、どうかしている。
「――あァ、見誤ってたなァ」
常識の通用しない常外、理屈で説明できない理外、論ずるに値しない論外。
それらの異常事態を引き起こされ、空腹の腹を疑問で埋め尽くされかけたロイは、あまりにも当たり前の事実に思い至って、自分を腐した。
威勢のいい号令もあり、敵の中核はフェルトなのだと、そう思い込まされた。
ロイのその思考誘導さえも、彼女たちの作戦の内だ。本当の中心人物がフェルトではなく、その後ろに隠れる黒幕だと察し、ロイがそちらに視線を向けた。
途端、その黒幕が「あ」と目を瞬かせ――、
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、人との関係修復を望まないと誓います。
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かのために怒らないと誓います。
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、秘密を誰にも明かさないと誓います。
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、弱さを誰にも見せないと誓います。
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰とも朝日を眺めないと誓います。
△▼△▼△▼△
「――もしかして、やっと気付いた?」
そう応じ、その場にいる味方全員の思考の過程と、それを共有するための話し合いの過程を『圧縮』した『憂鬱の魔女』が、片目をつむってウィンクした。