第九章43 『真名』
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、子どもと遊ばないと誓います。
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『例えば、クリンド兄様の持ってる魔女因子を他の人……わたしが使えたら、対価を払わなくても『転移』し放題ってこと?』
それは、クリンドから『憂鬱』の魔女因子の存在と、『圧縮』の権能との関係について聞かされたとき、ペトラが最初に思いついた悪用法だった。
クリンドは魔女因子と適合しておらず、結果、『圧縮』の権能を使用するのに対価――代償を支払う必要があるのだと、そう語った。同時に、『憂鬱』の魔女因子は特定の個人のために造られたワンオフ因子で、決してペトラとは適合しないのだとも。
そのため、『死に戻り』という権能を持った『魔人』ナツキ・スバルと、彼に協力する『魔女』ペトラ・レイテ、なんて特別感のあるタッグは結成前に解散となり、ホッとした反面、残念な気持ちも味わわされたのが本音だ。
そのまま、『憂鬱』の魔女因子の件は議題の外側に置かれ、クリンドが『圧縮』で味方の合流と、敵との決戦に突入するために用いられることで決着していたのだが――アルの『時間遡行』の権能の発覚と、アル一味を確実に止めるための作戦が練り上げられていく中で、再び『憂鬱』の権能にスポットライトが当たった。
クリンドは、魔女因子の不適合の結果、対価なしで権能を行使することは不可能と、そうペトラたちに語った。しかし、それは裏を返せば――、
「――対価を払えるんだったら、クリンド兄様じゃない人でも『圧縮』が使えるってことですよね」
そのペトラの確認に、クリンドは表情を変えなかった。
それがかえって、ペトラに自分の推測の正しさを確信させる。本気で隠したいなら、クリンドは「思いつきもしなかった」と驚いてみせるべきだったのだ。
「アルさんたちをどうにかするには、全員バラバラにばらけさせるのが絶対必須。アルさん以外だと、一番相手が大変なのは『神龍』様だけど……それはクリンド兄様が何とかしてくれる、でしょ?」
「その点に関しては私も保証できる。クリンドは『神龍』ボルカニカに対する切り札になり得るキーパーソンだーぁとね。使い方、合ってる?」
「――。合ってます」
作戦会議の過程で、『神龍』を抑え込めると豪語したのがクリンドだった。
正直、『憂鬱』の魔女因子のことといい、ロズワールと一緒になってどれだけ秘密を隠していたのかと呆れる気持ちもあるのだが、頼もしいに越したことはない。ただし、頼もしいからとクリンドに何でもかんでも甘えるわけにはいかないのだ。
「でも、クリンド兄様が『神龍』様にかかりきりになるなら、『圧縮』で人の出し入れはできなくなっちゃうよね?」
「否定はしません。肯定。無論、私の持てる力を尽くして、全員を戦地へ送り届けることは必ずや果たしますが……」
「ううん。それだと、『圧縮』の強みが死んじゃうと思う。『圧縮』はテレポートみたいに、戦力の出し入れとか入れ替えができるのが一番のポイントだもん」
クリンドが静かな表情で、しかし確かな熱を込めて誓った言葉は嘘ではないだろう。
敵陣に、こちらの最大戦力を確実に送り届けられる。それだって破格の成果だ。だが、それ以上を望めるのであれば、望めるだけ望むべき戦いでもある。
「それで、権能の譲渡という話になるわけじゃな。実際、実現可能な案なのか、検討する前に確かめておきたいところじゃが」
「――。それですが。逡巡」
「クリンド兄様、材料は全部、テーブルの上に並べてください」
「――――」
「今は、みんながどんな手札を持ってて、どれならどのくらい使えそうかを話し合う場面だと思うんです。だから、隠し事はなしで」
言い淀んだクリンドに、ペトラははっきりそう求める。
彼が語りたがらない理由も、情報を伏せるか悩む理由もわかる。わかるが、この話し合いは王国を、世界を――ナツキ・スバルたちを救うための検討会だ。
隠し事なしと、そう言ったペトラをメィリィが睨んでいたのはご愛敬。
「……可能か不可能かの話であるなら、可能ではあります。是認。『憂鬱』の魔女因子は私にも適合しておらず、ただ所有しているだけですので。責任」
「だとしたら、持ち主を変えるだけということ? ハッ! ずいぶんとお手軽に扱えるものね。クリンドが置き忘れたら大惨事だわ」
「置き忘れるのもそうですが、誰かに盗まれたり、取り上げられたりするのも怖いですね。……そういう意味でも、クリンドが持たされていたのは納得です」
思いの外、『憂鬱』の魔女因子は危うい状態で管理されていたらしい。
管理を任されていたのがクリンドで納得という意見に、ペトラも同意だ。常にきびきびと、何事にも如才なく対応するクリンドは管理者にうってつけだったのだろう。
ただし――、
「そのお役目も、今回は別の誰かに譲った方がいいかも」
「別の誰か……でも、魔女因子って、すごーく危ないものだわ。私、前に『聖域』で見たことがあるの。とても、安全に扱えるものじゃなかった」
「……リスクは、絶対あります。だけど、うまく使えれば……」
「――っ、ペトラちゃん、わたしは反対だからねえ」
声を尖らせて、一番感情的に反対してくる声に、ペトラは眉尻を下げた。
メィリィが、ずっとペトラを案じてくれているのはわかるし、嬉しい。なにせ、ペトラは彼女と出会ってすぐの頃、メィリィに自分を好きにならせようとしていたのだ。愛情は殺意を鈍らせる一番の武器になると思った。それが大当たり。
「ちょっと効き目が強すぎちゃったかもだけど」
『言っとくが、俺もメィリィと同意見だぞ。聞かせちゃくれなかったが、ペトラはもうクリンドさんに何かしら払ってる。これ以上ってのは譲歩できねぇ』
他の誰にも聞こえない幻の声が、ペトラに大事にされている実感をくれる。
断言しよう。イマジナリースバルはペトラの都合のいい妄想だが、間違いなく本物のスバルであっても、同じことを言ってくれたくらい再現度は高いはずだと。
「ここにフレデリカ姉様もベアトリスちゃんもいなくてよかった」
メィリィだけでも、ペトラの心をかなりぐらつかせてくれたのだ。
ここにフレデリカとベアトリスのダブルパンチが追加されたら、ペトラでもノックアウトされてしまったかもしれない。ガーフィールとオットーがいたらどうだったか。ガーフィールは怒って怒鳴るだろうが、オットーはわかってくれそうな気がする。
どうせ、今だって陣営で一番無茶をしているのがオットーなのだから、ペトラにごちゃごちゃ何かを言う資格なんてないと思うし。
そんな、幸せな愛されガールであることの自覚を抱きながらペトラは――、
「――ちゃんと、役割分担しましょう。全員が一番、自分の仕事ができるように」
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――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、思い出の場所を訪れないと誓います。
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ぎゅっと、懐に仕舞い込んだ四角い箱の感触を確かめながら、ペトラは言葉を弄し、周りを丸め込んで、自分が預かることに成功した『憂鬱』の魔女因子を意識する。
「――集中、しないと」
そう言葉にすることで、ペトラは正気を保つよう己を強く戒める。――正直今日まで、ペトラは自分が強靭な精神力の持ち主だと思っていた。
『死者の書』を読んでも心を壊さなかったし、想い人が自分にちっともなびいてくれなくても、振り向かせるのを諦めようなどと考えたことが一度もない。この年齢にしては、潜った修羅場や鉄火場も多い方だと自覚している。
そんなペトラをして、魔女因子がもたらす破壊的な全能感には頭がクラクラする。
「ダメダメ、わたし……スバル、応援して」
『ペトラ、頑張れ! 負けるな! するなって言ったギャンブルした挙句、それに負けたらあれだぞ! 嫌いになるぞ!』
「じゃあ、絶対負けない……」
脳内で想い人に励ましてもらい、それで気持ちを立て直すのはかなり末期的な感じがするが、実際に効果があるのだから、想いの力は偉大。
魔女因子、恋心の前に何するものぞ、だ。
魔女因子とのせめぎ合いも、究極的にはメンタルの問題なのだから、想いの力が特効薬になるのも自然な話だ。――その薬の効き目は、それによってただの村娘ではいられなくなったペトラが、誰より一番よくわかっているものなのだし。
故に――、
「――火の八、貴族! 花の三、戦士じゃ!」
鼓膜を強く打った嗄れ声に、ペトラは目を見開き、奥歯を噛みしめる。
『圧縮』が発動し、ペトラの頭の中で八×八のマス目――シャトランジ盤と同じ区切り方をされた戦場の指定位置に、指定された人材を割り込ませる。
はたして、瞬く間に戦場に連れてこられたフェルト陣営の二人――フェルトの従者のガストンと、『豚王』と呼ばれる強面の豚人、ドルテロが剛腕を振るい、それぞれ攻撃を仕掛けようとしていた『暴食』とハインケルを殴り飛ばしていた。
「えェ? ホントにィ? そんなことあるのォ?」
軽業めいた挙動でパンチの衝撃をいなしたロイが、その腹立たしい顔を上げて、それまで注目しっ放しだったラムから視線を剥がし、ペトラの方を見る。
直接戦闘するラムとメィリィ、フラムやグラシスから距離を置いて、戦場の全体を把握する位置にいるペトラと、それを肩に乗せたロム爺を。
「――ペトラちゃん、いつから大罪司教になったの?」
さすが大罪司教というべきか、魔女因子の在処が感じ取れる――違う、それならもっと早くこのカラクリに気付いたはずだ。たぶん、『圧縮』が権能だと当たりを付けて、誰が一番適切にそれを使える位置にいるか、考えた結果。全然さすがじゃない。
「それ、すごい人聞き悪い。どうせ、人聞きの悪い呼び方するなら、こう呼んで」
そのロイの洞察力への警戒をおくびにも出さずに、ペトラは自分の胸に手をやり、クリンドから預かった黒い小箱の感触を確かめながら、「べ」と舌を出し、言った。
「――『憂鬱の魔女』、ペトラ・レイテって」
その肩書きを名乗ることは、大抵の場合は歓迎されない。
自分で名乗ることはもちろん、他人に言われるのなんて以ての外だ。それは覚悟の有無に拘らず、世界中のあらゆる相手に忌み嫌われる呪いのような称号。
しかし、ペトラはそれを堂々と、誇らしいものであるかのように名乗ってみせた。
だって、ペトラの仕える主は『氷結の魔女』で、想い人はそんな魔女に心を寄せる優しくて立派な騎士なのだから。
△▼△▼△▼△
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、美しい花を摘まないと誓います。
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、好物を口にしないと誓います。
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、故郷に帰らないと誓います。
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――『憂鬱の魔女』ペトラ・レイテ。
そう自らを称したペトラの宣言に、ロイ・アルファルドは絶頂感を覚えた。――そこまでやるのかという驚きと、そこまでやってくれたのかという歓びに。
魔女因子を取り込み、権能の所有者――『魔女』や『魔人』、あるいは大罪司教などと呼ばれる存在に自分からなるなどと、正気の沙汰とは思えない。その、常軌を逸した決断を下せたところに、ロイは彼女たちの手段を選ばぬ周到さ――すなわち、おもてなしの心意気である愛情を強く深く大きく熱く、感じてしまうのだ。
「最ッ高だ……! 出てきてよかったァ!」
両手を広げ、ロイは歓喜にむせびながら、このもてなしと出会いに感謝する。
『憂鬱の魔女』を名乗った以上、相手の権能が『傲慢』由来というロイの推理は外れた。ただ、『憂鬱』の魔女因子が特別な、誰とも適合しない欠陥品であると、ロイは自分の母を自称する怪物から聞かされたことがあった。『憂鬱』の魔女因子は、その母が欲しがるものの一つだったから、在処を聞けば母はさぞかし喜ぶことだろう。
もちろん、そんな特別なご馳走、母に一口たりともくれてやる気などないが。
「ひもじい子どもの可愛いワガママなんだから、きっと大目に見てくれるよねえ」
承認欲求の化身であり、自分を尊重されることを何より愛する母のことだ。
ロイが母より自分を優先したと知れば、どんな癇癪を起こすかは目に見えていた。
かつてそんな母の身勝手さがロイは煩わしくて仕方なかったが、今は以前とは少しだけ違った心持ちでいる。――母の身勝手で独りよがりな病的な自己愛さえも、かけがえのない個性だと尊べそうな心持ちが。
「土の六、女王! 陽の六、狩人! 陰の五、貴族!」
巨人族の老人の指示に呼応し、ペトラの双眸にうっすらと光が宿る。
実際に光り輝くわけではない。使い慣れない権能の使用に意識を割く結果、力んだ瞬間がわかるようなものだ。普通なら気にする必要のない些細な癖だが、刹那が勝敗を分ける戦いの最中では、それすらも生き死にに直結する情報になる。
ロイの視界で、ラムと豚人、そして餓馬王に跨るメィリィの姿が消えた。――そして消えると同時に、ロイを三方から囲むように現れ、攻撃を仕掛けてくる。
そのタイミングが、ペトラの目の光で手に取るようにわかった。
「ハイハイ、ちょっとお邪魔様ッ」
攻撃が届く寸前、ロイが自分の胸の前で手と手を合わせる。――瞬間、ぎゅっと左右から押された砂山が盛り上がるように大地が隆起し、ラムと豚人の視線をロイから切る。それに二者を任せ、ロイは一番うるさい赤ん坊の泣き声に意識を集中。
振り向かずとも飛び込んでくる頭の後ろの視界、そこに、メィリィを乗せた餓馬王の骨槍――と、セットで飛ばされてきたギルティラウの怪腕が振るわれる。
大きく身を傾け、回避、回避、回避を重ね、ロイは舌なめずり。
『圧搾屋』フィグドールは、自分の視界の両端から真ん中までをぎゅっと押し潰す異能を用いた生き埋め専門の殺し屋で、『千面聖女』イエルナは上下左右三百六十度、嘆き悲しむ弱者の涙を見逃さない広い視野と心の持ち主だった。――だが、『魔獣の女王』メィリィの能力も、それらに勝るとも劣らない。
「――――ッッ!!」
ウルガルムの群れに砂海の餓馬王、『森の漆黒の王』と名高いギルティラウと、次々に魔獣を繰り出してくるメィリィの手腕にロイは感動の息継ぎができない。角の折られていない魔獣を操るメィリィの手口は『記憶』で予習済みだったが、プレアデス監視塔ではその真価の体感はお預けになっていたので、実物が見られて大興奮だ。
「そんな加護持ちに生まれたら、さぞかし波乱万丈な人生だったんじゃァない? どんな生き方してきたのか、俺たちに教えておくれよォ、メィリィ!」
「……どんな風に生きてきたのか教えてって、それ、前にスバルお兄さんとエミリアお姉さんにも言われたわあ」
「へェ? それでそれで?」
餓馬王の骨槍とギルティラウの鋭爪、それを身軽に躱しながら涎を啜るロイを睨み、メィリィが敵愾心と嫌悪に満ちた顔であっかんべーをして、
「さっきの愛がどうとかいうお話もそうだけどお、結局大事なのッて、何を言うかよりも誰が言うかなのよねえ!」
取り付く島もない真理に、「たはァ!」とロイは返す言葉もない。
そのロイの後ろで豚人に土の壁が砕かれ、頭上からはまた消えてまた現れたラムが落ちてくる。正面背後頭上、三次元的に囲い込まれたロイの股下と両脇の空間が歪み、歴史の陰に埋もれ、ついには喰われた『魔弄師』ヤルドレイの魔技が発動――炎と氷と土の槍が魔法で生み出され、瞬時の照準を定める。
狙いはメィリィと豚人、そしてラム――が、いない。
「何度もラムを見失って。捨てたら? その両目」
――いた。ほとんど抱き着くような至近距離に、ラムの細身が現れる。
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――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、人前で泣かないと誓います。
――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かの涙を拭わないと誓います。
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「『憂鬱の魔女』ォ……ッ!」
――『圧搾屋』×『千面聖女』×『魔弄師』。
かけ合わせた新たな理外人たちの力さえ上をいかれ、多角的に迫る三者、それが誰の手によるものなのかを知るロイの喉が高く鳴った。
声を震わせたのは怒りではない。歓喜だ。躍動に、心のバタバタが止まらない。
そのバタバタ任せに、ロイは一度照準した三属性の槍を再照準、お互いをぶつけ合わせ、生じた爆風と水蒸気により、たまらずラムたちも場の仕切り直しを――、
「――な」
「傷を負わないために『転移』すると思った?」
視界を覆い、『憂鬱』の権能による『転移』を強制するはずだった熱い蒸気が力任せに引き裂かれ、その向こうから薄紅の瞳の主が飛び出してくる。
火傷必須の熱波に頭から突っ込んでくる姿勢に、あえて傷を負うという選択肢を頭から消していたロイは虚を突かれた。すぐさま、『跳躍者』の『転移』を用い、ロイ主導で強引な仕切り直しを行う選択肢が生まれる。――だが、
「――最ッ高ッ!」
その敵の天晴れさを認めた瞬間、ロイ・アルファルドの『悪食』が覚醒する。
快哉の叫びが頭の中で弾け、ロイの脳内に無数の選択肢が枝分かれして光り輝いた。
蓄えた『記憶』の宝庫を開放し、雑多に放り込まれた無数の宝の中から輝くものを、今この瞬間の出番を待ちわびている眠れる財貨の産声を求める。
――目下、最大の焦点は『蝕』を失敗させたもてなしの正体だ。
「――――」
『記憶』を喰らわんと魂に手を伸ばした相手、ラムへの『蝕』にロイは失敗した。
だが、彼女は間違いなくラムだ。それは喰らいたてほやほやの『記憶』からも明らかで、『記憶』の出所は彼女をラムと呼び、それ以外の周囲も彼女をラムと呼び、何なら彼女本人も一人称はラムであったくらい、徹底的に彼女はラムだった。
にも拘らず、ラムという名前で『蝕』の発動条件はクリアできなかった。このケースで、最も『蝕』を失敗させる可能性が高いのは――、
「――真名の、変更ッ」
『蝕』に必要なのは、オド・ラグナの管理する魂の名簿から対象を掠め取る用意だ。故に対象の名前は、オド・ラグナがこれだと記銘したものでなくてはならない。
多くの場合、それは出生時の名付けの際に行われる誓願――その祈りが届いたとき、大いなる虚頭とでもいうべきオド・ラグナに真名は記銘されるのだ。
基本的に、一度定まった真名は、本人の自認がどうであろうと変更されない。その変更をオド・ラグナが認める、数少ない例外は――、
「――ラム・メイザース」
「――っ」
蒸気を突き破り、こちらに一撃を届かせようとするラムに、ロイは先に触れた。
真名変更の最多の理由は『婚姻』によるもの。――そしてラムは、メィリィに自分を奥様と呼ばせた。『記憶』からも、ラムが誰を想っているかは疑う余地もない。
これだと確信し、ロイは薄紅の瞳を見開くラム――否、ラム・メイザースの魂に『蝕』を発動、その『記憶』を喰らい、彼女を余すところなく理解しようと、
「イタダキマ――ぶえ」
瞬間、開いた口に汚物を詰め込まれたような感覚に、ロイが目を剥く。
それは『蝕』の失敗の証、全身が激しい拒絶感に震え、ご馳走を迎えるはずだった心構えを内から引き裂かれたロイの思考が理不尽な疑問に支配された。
何故、どうして、理解が、結婚、ラム、真名、妹想い、趣味が悪い、辺境伯、一途、意地が悪い、優秀、頼りになる、趣味だけ悪い、意地も悪い、結婚、情熱――。
「――オットーの『記憶』を覗いたの? 馬鹿ね」
「ぁ――?」
「こんな緊急事態にかこつけて、ラムがロズワール様の伴侶に収まるとでも? ――本当にラムを知っているなら、しなかった勘違いでしょうね」
唇を薄く綻ばせたラムの嘲笑に、ロイは理解する。
あえて奥様と呼ばせたのも、身内の『記憶』を頼りに誤った結論に導くためのミスリード――事実、ロイはローリスクの『跳躍者』の選択肢を省いて、喰らえると確信したハイリターンなラムの魂に舌を伸ばしてしまった。
『記憶』を、オットー・スーウェンを喰らっていなければ、しなかった判断で。
「オットーの分よ、一応」
そう告げたラムの風を纏った拳と、豚人の岩のような拳骨、さらには爆熱を纏った燃える骨槍と凶獣の剛腕が同時に、ロイ・アルファルドに突き刺さった。