第九章39 『最後の一線』
『――アル様、太陽に焦がれるのを、やめましょう?』
それを口にしたとき、彼女がどんな心情、どんな思惑を抱いていたのかはわからない。
自分は彼女を恐怖で従え、憎悪で縛り、復讐心を担保に利用していた立場だ。そんな彼女からすれば、追い詰められるこちらの姿はさぞかし溜飲の下がる思いだったはず。
ただ、そのわりには微妙に辻褄の合わない反応が多かったことも事実は事実。
ならば、彼女の矛盾した態度の裏に隠れた真意はいったい何なのか。
その答えを求めるのは、やめた。――確かなことは、一つだ。
「――領域展開、マトリクス再定義」
そのヤエ・テンゼンの助言は、アルデバランの中にあった一つの枷を外した。
意識的にかけていたわけではないが、無意識にかけていた枷、セーブ、ハードル――おおよそ、アルデバランの権能の圧倒性にブレーキをかける、精神的な鎖。
それが外れることで、アルデバランの選択肢は無限の幅を広げる――。
「照準、十二時から三時。――やれ、オルタ」
『オーライ、オリジン』
指示に澱みなく応じて、すぐ背後に控える『アルデバラン』が翼を広げる。
オルタ、という呼びかけに戸惑いはない。すでに『死者の書』を通じ、こちらの意図の更新と共有は済ませてある。オリジンという呼ばれ方も、わかりやすく些事だ。
それについての見解を言葉にする余地もなく、白い光――龍の息吹が放たれる。
「――――」
『神龍』の竜殻、そのスペックを最大限に発揮した息吹の威力は凄まじく、あの『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアですら、相殺がやっとだった代物だ。
それが『剣聖』不在の戦場――否、戦場未満のエリアを薙ぎ払うように放たれ、そこにあった自然が、人工物が、何より動植物だけでなく、人間を含めた命が、掻き消える。
本気の『龍』の息吹の射程は数キロにも及び、何の予兆もなく訪れる滅びの光に呑み込まれれば、誰もが痛みを感じる暇さえなく、消滅する。
――そして今、アルデバランは『アルデバラン』に命じ、それをやった。
「――――」
指示した通り、十二時から三時――いわゆるクロックポジションに当て嵌めた方角を部分的に焼き払い、その途上にあったあらゆるものを無に帰した。
おそらく、失われた命は数百数千どころか、数万を下らないだろう。
「ハッハッハァ、やるゥ!」
その暴威としか呼べない、この世のあらゆるものを力ずくでねじ伏せる蹂躙を目の当たりにして、吊るされるロイ・アルファルドが楽しげに嗤う。腕を括られて吊るされたロイは、自由になる足裏を合わせ、拍手ならぬ拍足で囃し立ててくる始末。
だが、やかましく囃すのがロイしかいないというだけで、その場に居合わせたメンバーでアルデバランの行いを非難がましくするものはいない。
あるのは愉悦、理解、従属、怯え――いずれも、不可抗力を含めた共犯者たちだ。
そして、彼らの視線を浴びながら、アルデバランは空を仰ぐ。
「――――」
龍の息吹が放たれ、大地が焼き払われただけでなく、その影響は空や大気にも出る。
雲は吹き散らされ、起こるはずだった雨風が追いやられたその地には、龍の痕跡が色濃く刻まれた、言うなれば龍の怒りの爪痕だ。
当然ながら、圧倒的存在である『龍』の怒りを恐れない生き物は存在しない。
怒り狂って暴れる『龍』に抗える存在などいないのだから、あらゆる命は『龍』の癇癪には頭を垂れ、存在をひた隠しにし、嵐が過ぎ去るのを待つのが鉄則だ。
――故に、その怒りの爪痕に早々と近寄る鳥や虫など、不自然極まりない。
「外れだな」
息吹に焼き払われたエリア、その被害を確認しに集まってくる鳥の群れを目にして、アルデバランは口の中だけで消える呟きをこぼした。
多くの動物たちは素直で、本能に忠実だ。それがひねくれ、本能に不誠実な行動をしたとすれば、それは何らかの不自然が干渉している証拠。
すなわち、その不自然な干渉をする存在が生き延びている証拠だ。
それを確かめて、アルデバランは――、
「――次だ」
と、呟いた口内で毒の薬包を解き、猛毒を呷った。
そして――、
× × ×
「照準、三時から六時。――やれ、オルタ」
次いで、舞い戻ったリスタート地点で、次のエリアに向け、『龍』に蹂躙を指示した。
△▼△▼△▼△
「照準、六時から九時。――やれ、オルタ」
「照準、六時から八時。微修正」
「照準、六時から七時に」
「照準、七時に固定。射程を調整、息を八割」
「七割」
「六割」
「六割五分」
「六割五分五厘」
「――六割五分五厘、確定」
△▼△▼△▼△
――七百十四。
綺麗なやり方をしているとヤエに言われ、アルデバランは考えを改めた。
無自覚の傲慢を自覚し、真に自分の目的を達成するために必要なものが何なのか、それを真剣に吟味し、答えを出した。
――不殺の縛り。
それは、アルデバランがナツキ・スバルの排除を決断し、自分の造物目的に従うことを決めた瞬間から、最低限、通さなければならない筋だと定めたものだ。
すでに多くが失われ、太陽の如き彼女の存在すら消えてしまった世界から、もうこれ以上のモノを失わせることをしないと、そう決めた。
だが、その誓いに固執するあまり、アルデバランは無自覚に自分の権能に枷を嵌めた。
誰の命も奪わないという誓いを守るため、その道程にも同じ縛りを設けたのだ。
アルデバランの権能――『領域』であれば、都度繰り返す世界で起きた出来事は、そのマトリクスにピリオドを打つまで、延々となかったことになる。
ならば、最終的に『不殺』の帳尻が合うなら、過程の死は厭わなくてもいい。
その結論を意識の外側に置いていたことが、アルデバランが無意識に自分に課してしまっていた枷だ。それを外すのに、アルデバランは無為に時間を費やし続けた。――否、ヤエの言葉がなければ、あるいは今も気付けぬままだったかもしれない。
「兄さんが加護を使ってオレたちを削りにかかってたのはわかってた。問題は兄さんの周到さと無限の手札、それを防ぐ手立てがまるでないことだったんだが……」
その難題を、枷を外したアルデバランは強引な力業で突破した。
何も、難しい話じゃない。追っ手は虫や魚、小動物らの目と行動力を借りて、アルデバランたちの動向を把握し、多岐にわたる妨害工作を仕掛けてきていた。だが、推測される相手の加護の効果範囲から考えて、動物たちへの指揮はテレパシーのような即応性でも、洗脳のような絶対性があるものでもない。
いずれも状況に際し、追っ手が都度口頭で指示を出していたはずだ。
そしてそれを実行するには、指揮する追っ手本人も、アルデバランたちとつかず離れずの距離を保ちながら追跡し続ける必要がある。――その追跡してきている追っ手の位置を、龍の息吹で強引に割り出したのだ。
「クロックポジションでエリアを絞って、息吹の深さで距離を測る。こっちが突飛なことをしでかせば、何が起きたのかを確かめるために手札を切らざるを得ない。手札を切るってことは、兄さんが無事な証拠。だが、手札を切らねぇときは?」
手札――加護で味方に付けた手勢を動かす余地もなく、この世から消滅した証だ。
それを確かめ、アルデバランは『領域』を回帰し、追っ手のいる方角を絞り、距離を測って、相手の位置をギリギリまで特定した。当然、その過程で山や森、果ては街も含めて大勢が巻き添えの犠牲になったが――それは全て、なかったことになった。
『領域』による最終的な帳尻合わせにより、アルデバラン以外の犠牲者はゼロ。――否、アルデバランの『死』はカウントされないのだから、犠牲者はゼロだ。
「塔のメンバー選びのときと合わせて、千三百四十七……手こずらされたぜ」
一度は排除したと思った相手に、もう一度足下をすくわれるほど疲弊することはない。
そうした意味では追っ手――オットー・スーウェンは、『剣聖』や『剣鬼』以上にアルデバランを苦しめたと言っても過言ではなかった。実際、王都でアルデバランにエミリアを、ヤエにヴィルヘルムを差し向けたのが彼の差し金だったなら、こちらの集団が被った被害はアルデバランの千三百四十七回の『死』どころではなかった。
無論、それだけの脅威と判断したからこそ、アルデバランは惜しみなく手札を投入し、強敵を吊るし上げることに成功したのだが。
「アル様、こっちこっちですよ~」
ひらひらと手を振り、アルデバランたちを手招きするのは眼下のヤエだ。そのヤエの呼びかけに従い、『アルデバラン』が地上に降り立つと、その背から飛び降りる。
山岳の中腹、先に目標ポイントに到達していたヤエが微笑む背後、そこには木に吊るされた緑の内政官と、手足を縛られて転がされた地竜の姿があった。
地竜は鋼糸の拘束に懸命に抗ったのか、その薄青の竜皮のあちこちに血を滲ませ、今も必死に疲れた息を吐きながら身をよじっている。
「さすが、地竜の忠誠心ってのは大したもんだ。思い返すと、今の代のパトラッシュもそんな感じだったもんな」
「一応、見せしめにするのも頭を過ったんですけど、折れるより頑なになりそうなタイプだと思ったのでやめときました。ヤエちゃん判断、どです?」
「オレもそれで正解だと思うぜ。それに、見せしめなら見えなきゃ意味ねぇだろ」
首を傾げてこちらを出迎えたヤエに、アルデバランは兜の中で唇を曲げる。そのアルデバランの視界、身をよじる地竜の頭上に吊るされた内政官――オットーは、その目や口はもちろん、首から足先に至るまでをびっしり鋼糸で封じられ、何もできない有様だった。
本来、鋼糸の一本は目を凝らしてそこにあるのを確かめられるくらいのものだ。それがはっきりと拘束具のように見えるのだから、どれだけ巻いたのか想像もつかない。
「光も見えない。音漏れもさせない。囁きどころか、呼吸ですら外部とのコミュニケーションの可能性がある。なので、全身を隙間なく括って、空気の通り道は足首からの一本だけに限定しました。これなら呼吸に必死で、意思を込める余地もないです」
「……お前の腹いせじゃなく、警戒の証ってのはわかったよ。実際、喋らせる暇を与えたら何してくるかわからねぇ兄さんだからな」
「私怨でなんて動きませんよ~。ヤエちゃん、そんな悪いシノビじゃないですし?」
頬に指を立てて、可愛らしい笑みを作るヤエはかなりの上機嫌だ。
ここまで、嫌がらせに特化したオットーに散々辛酸を舐めさせられてきただけに、私怨はないと言いつつも、恨みつらみはかなりのものがあったのだろう。そもそも、本来なら敵への嫌がらせや消耗戦を仕掛けるのは、他ならぬシノビの専売特許だ。
「それをようやく押さえられたとなりゃ、上機嫌にもなるか」
「ぶ~、アル様って本当に女心のわからない御方。そりゃ、陰険で徹底的で執拗で性格最悪のねちねち攻撃してきた相手をねじ伏せるのは気持ちいいですよ?」
「オレが言うよりよっぽどじゃねぇか」
「でも、一番はアル様がちゃんと化け物してくれたことです。ちっぽけな人間性みたいなものに拘らないで、ちゃんと怪物に徹してくれたこと」
「――――」
「そのためなら、ボル様に力一杯放り投げられるくらい、なんてことないです」
「ちゃんと作戦にも不満ありそうじゃねぇか……」
アルデバランの考え違いだと訂正するヤエが、最後にそう付け加える。
『領域』の利用法の変更と、それによる追っ手の位置の特定。それを済ませたあと、相手にこちらの意図が見抜かれる前に、最速で駆け付けるための手段――それが、飛行した『アルデバラン』に、標的の位置までヤエを投げさせる、というものだった。
荒っぽい上に、ヤエの命を盛大に危険に晒した方策だったが、相手が緩衝材の多い山中にいたことを理由に、鋼糸術でクッションを作れるヤエが一番の適任だとされた。
「このお役目、いくら投げ飛ばされても死なないだろうからって、今のハインケル様にお任せするわけにはいきませんもんね」
「山に親父さん型の穴が開いたところで親父さんはぴんしゃんしてるだろうが、確かに今の状態で親父さんに重大な役目を任せるのは、な」
ハインケルとフェルトとの間に生じた、かなり致命的な亀裂。その問題に対し、ひとまずのところの対応策を講じたことで小康状態に陥っているが、それは『アルデバラン』の不興を買うものだったし、絶対とは言えない対処療法に過ぎない。
何を理由に再燃するかわからない問題だけに、今は触れずにおくのがアルデバランとヤエとの合議の結論だった。
ともあれ――、
「――ようやく、チェックメイトだ」
身動きと抵抗を封じられたオットー、もはや銀色の蛹というべき状態の相手を見上げ、アルデバランは長く長く続いた対局の一席で勝利を得る。
ただし、アルデバランが対局している相手はオットーだけではなく、王国規模、世界規模での対戦者たちとの多面打ちだ。一個落とさずに済んだからといって、それを会心の出来事として持ち歩き続けることはできない。
何より、二度と対局者として復帰することがないよう、排除を徹底しなければ。
「目と耳と舌と手足を削いでも、アル様のお言いつけは守れますけどね~」
「――ヤエ」
「は~い、アル様ったらこわ~い」
再起不能の傷を負わせ、命だけは残して戦線離脱させる、というのは欺瞞だ。
アルデバランにとっての不殺の縛りとは、ただ死んでいなければ守ったと言えるほど融通の利くものではありえないし、あっては困る。そんなのは、世界中の全ての人間から手と足を奪えば、世界平和が実現できると宣言するのと同じだ。
だからアルデバランは、オットー・スーウェンから目も、舌も、手も足も奪わない。代わりに彼から奪うのは――戦う理由だ。
「――ロイ、呪印の適用範囲を緩める。お前の出番だ」
△▼△▼△▼△
「――ロイ、呪印の適用範囲を緩める。お前の出番だ」
そう、自分を見上げる相手が声を発したのを、全身をくまなく拘束されたオットー・スーウェンは確かに聞いていた。――一点だけ、アルデバランたちはオットーの『言霊の加護』の効力を勘違いしている。
言霊、すなわち声というものは音の振動だ。そして振動というものは、たとえオットーの耳が塞がれていようと、届く範囲内にいればオットーの体に触れている。『言霊の加護』は耳から入った音を翻訳しているのではない。オットーという存在に触れた意思という振動を感知し、それを拾っているのだ。
故に――、
「なんだかんだ奇縁だねえ、お兄さん。プリステラじゃ、ライもルイもお兄さんを食べ損ねたっていうのに、結局俺たちの前にこうして配膳されちゃうわけだッ」
そう舌なめずりする『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドの声も、オットーには確かなものとして感じ取れていた。
「――――」
しかし、心の底から悔しいことに、オットーにできることはもう何もない。
『言霊の加護』で周囲の声を拾い続けてこそいるが、口を塞がれ、手足を封じられ、自分から意思を発することを遮断された今、オットーはどうしようもなく無力だった。
『坊ちゃんに、何をするんです……やめて、やめてくださいよ……!』
吊るされたすぐ足下で、苦しげなフルフーの訴えが聞こえるのが心苦しい。
今のところ、アルデバランたちはフルフーにこれ以上の危害を加えるつもりも、ましてや命を奪うつもりもないらしい。ならば、フルフーには大人しく、この場の嵐をやり過ごすのに徹してほしい。今はそれが一番の望みだ。
あとは――、
「――っ」
声にならない声で、この場にいない仲間たちのことを、心から案じる。
エミリアやラム、ペトラにメィリィ、レムとクリンドにロズワール、フェルト陣営のものたちとも協力していると聞く。きっと、妙案が見つかるはず。できるならオットー自身の手で、ガーフィールの分まで、相手に痛手を喰らわせてやりたかった。
そして、囚われたスバルとベアトリスの二人を――。
「悲しいねえ、お兄さん。辛いねえ、お兄さん。でもッ、そんな悲喜こもごもの阿鼻叫喚もまとめて遇して愛してあげるッ! 所詮この世は暴飲ッ! 暴食ッ!」
ゆっくりと、『暴食』の穢れた食欲が自分に迫ってくるのを感じる。それを、オットーは為す術なく受け入れ、咀嚼される以外にない。
だから引き続き、オットー・スーウェンは祈り続ける。願い続ける。思い続ける。
自分の、最後の策が嵌まることを――。
「――じゃあ、イタダキマスッ!」
△▼△▼△▼△
「ゴチソウサマでしたッ」
『暴食』の権能の効果が発動し、吊るされたオットー・スーウェンが喰われる。
その行為に、それらしいエフェクトが生じたり、魔法的な演出が光ったりと、そうした派手めなことが起こることはなかった。ただただ粛々と、皿に盛り付けられた御馳走が行儀の悪い相手の胃袋に収まる。――そんなありふれた食事が行われただけだ。
「さっき見たばっかりですけど、本当に反則技って感じですね。一瞬で、糸の感じてた抵抗力がなくなりましたもん」
と、声に込められた嫌悪感のようなものを隠さず、鋼糸を吐き出す指輪に触れながらヤエが呟く。
彼女の今の言葉は、括られていた相手――オットー・スーウェンが、その鋼糸の拘束から逃れようとしていた抵抗、それが失われたことを意味している。
それはすなわち、ロイ・アルファルドの『蝕』が効力を発揮した証だ。
「その上で、ちゃんとオレたちはその兄さんのことを覚えてる。――約束通り、『記憶』だけを喰うので我慢したらしいな」
「あっははァ、何それ、感謝と感激が足んないなァ! 言っとくけど、『名前』だけ『記憶』だけって分けて齧るの結構大変なんだよォ? 挟み焼きの中身の具材を、パンを開かないで選り分けて食べる、みたいな苦労があってさァ」
「知らねぇよ。できなきゃてめぇが死ぬだけだ。キリキリ喰い分けろ」
ぐったりと、鋼糸にくるまれた状態で動かなくなったオットー・スーウェンを前に、権能の苦労を語るロイにアルデバランは鼻を鳴らした。
実際のところ、ロイがこれをどれだけ高度なことなのだと主張したところで、アルデバランは聞く耳を持つつもりがない。――しくじれば、ロイはその体に刻まれたアルデバランとの誓約の呪印の効果により、魂を焼き尽くされて死するだけ。
無論、今ロイに死なれては困るアルデバランは、失敗するたびにそれをやり直し、ロイが上手くやれる方法を模索するつもりではいたが。
「アル様~、あの大罪司教、ちょっと調子に乗ってません? 呪印の効果で行動を縛れるんなら、なだめすかして口説き落とすなんて苦労しないでも、もっとすげなく適当に従わせるって手段もあったんじゃないです?」
「お前が思ってるほど、呪印を刻むってのは気軽なもんじゃねぇんだよ。そもそも、誓約の呪印ってのは刻む方にもリスクがある。それこそ、呪印を刻める機会ってのは一生に一回限りだ。本気で聞く耳を持たない奴を従わせる切り札なんだよ」
ひそひそと耳打ちしてくるヤエ、その額を押しながらアルデバランはそう答える。
その名前を見ればわかる通り、呪術の一種である呪印を刻むという行為は、魔法と呪術とが分派する以前から存在したもので、在り方としてはむしろ魔法の源流に近い。呪印という単語のイメージに引っ張られた話をすると、アルデバランに呪印の刻み方やあり方を教えた相手に、半日はくどくど講義される羽目になるだろう。
「そんな貴重な機会を僕たちのために使ってくれるなんて……! いいさ、いいよ、いいとも、いいよね、いいじゃん、いいじゃない、いいって信じられるから、暴飲ッ! 暴食ッ! それってもう、愛だよねえ……」
「んな! こんなに可愛くて色っぽい尽くす系メイドのヤエちゃんより、歯並びの悪い大罪司教がいいって言うんですか! アル様の浮気者!」
「お前こそ、大罪司教と息の合った連携するなよ……」
口の減らないロイと、口を減らさないヤエのコンビ打ちにアルデバランは辟易とする。
ヤエの方にロイと仲良くするつもりもしているつもりもないだろうが、アルデバランの心を揺らすためなら何でも利用するところが実にシノビだ。一方で、ロイの方も大罪司教にしては話が通じる、なんて勘違いを抱かせかねない態度。
だが、勘違いしてはいけない。アルデバランにとって、ヤエもロイも等しく、目的のために利用し、場合によっては寝首を掻いてくる恐れのある対象だ。
そしてそれは――、
「ロイ、あまり調子に乗るんじゃねぇよ。さっさと、今喰った兄さんが何を企んでたのか話せ。そのために喰わせたんだからな」
ロイをしっかりと攻撃の範囲に入れたまま、アルデバランはそう冷たく忠告する。
拘束を解かれ、折られた手足を『アルデバラン』の治癒魔法で回復したロイだが、決して信用したわけでも、自由な行動を許可したわけでもない。ただ、ここから先の計画の詰めにおいて、ロイを吊るしたまま連れ歩くのは現実的ではなかった。
例えば、今のようにロイの『暴食』としての権能に頼りたくなったとき、すぐさま使えないカードとして伏せておくのはあまりにも下手な打ち手すぎる。ロイへの警戒は決して緩めず、必要なのはその上でロイを従えておく方策の用意だ。
幸いにして、呪印は満足にその役目を果たしてくれている。
「何かタメになる話が聞ければいいですけどね~」
言いながら、警戒するヤエが細い指を揺らめかせ、不可視の鋼糸の存在をちらつかせることでロイを牽制する。
ロイの権能の利用、それに最後まで難色を示していたのが他ならぬヤエであり、彼女は自分の助言で枷を外すと宣言したアルデバランを歓迎する一方で、外すのなら『不殺』の縛りそのものを解くべきだと、そう強く主張した。
実際、彼女の言う通り、アルデバランが『不殺』の縛りを解除し、あらゆる相手の生殺与奪を自由にすると決め打ちすれば、目的自体は呆気なく達成される。それこそ、四方八方に『アルデバラン』の息吹をばら撒き、敵を寄せ付けないだけでいい。
しかし、アルデバランはそれを拒み、その手前――過程の『死』の許容と、ロイ・アルファルドの権能の利用を、新たな選択肢として加えることを主張した。
事実、それは大罪司教の権能を積極的に用いるという禁じ手の解放だ。
アルデバランの、言うなれば欠番ポジションにある権能を行使するのとは訳が違う。綿々と受け継がれてきた邪悪、これまでに数多くの悲劇と犠牲を生んできた権能を、有用だからという理由で自分のために使わせるのだ。
これはおそらく、魔女因子がこの世界に生まれて以来、アルデバラン以外にはたった一人しかやっていない悪行である。
つまるところ、それだけ一線を越えた行動なのだ。
あとは、それに見合った成果がなくては、太陽に背いた意味がない――。
「だから、聞かせろ。わざわざ相手の人生台無しにしてんだ。何もねぇとは……」
「あァ、待った待った。そう急かさないでほしいなァ。勘違いしてるみたいだけど、俺たちだって喰った相手の全部が丸っといきなり理解できるわけじゃァないんだ。最初から知ってたことってのはサ、必要な場面にならなきゃポッとは思い出せないもんでしょ? それとおんなじで……」
「――オレは、同じことは言わねぇぞ」
「……はいはい、わかったってば。なるほどなるほどねえ。このお兄さん、思った以上に人生経験豊富で、僕たちもちょっと驚いちゃって――」
長々と言い訳を垂れ流そうとしたロイが、喰らったばかりのオットーの『記憶』の思い出しに集中する。ロイの言い分は、『言霊の加護』の加護者であるオットーの波乱万丈の日々と、人並み外れた物量の声を聞いてきただろうことの合わせ技と言えた。
しかし、そのロイの厭味ったらしい言葉が唐突に途切れ、アルデバランは訝しむ。
それは紛れもなく、何かしら引っかかる『記憶』を掘り当てた証で――、
「なんだ、どうした」
「ははッ、思った以上に俺たちって周到だったみたい。――自分がやられた場合の、フールプルーフがある」
「――――」
フールプルーフ――愚かなミスを防ぐための、安全装置。
それをロイが口にした途端、アルデバランの全身を凄まじい悪寒が駆け上がった。
自分に攻撃が迫った場合の対策ではなく、自分がやられたあとの対策。
それをオットー・スーウェンが用意していたというなら、今がまさにそのときだ。
「ヤエ! すぐに――」
この場の離脱と、自死による状況の回帰。
二つの選択肢を頭に思い浮かべながら、アルデバランは対処策を絞らず動いた。それがある意味で功を奏し、ある意味で失敗に繋がった。
それは――、
「――お初にお目にかかります、アルデバラン様」
可憐な少女の声が、不意打ちのようにアルデバランの耳朶を打つ。
それは文字通り、瞬きの間に現出した異分子であり、その前置きのない現れ方に、本能がダメだと警鐘を鳴らすのさえ間に合わない。
その、ヴォラキア帝国での姿と装いを変えた青髪の少女を、見てはならなかった。――それに気付いたのは、メイド服のスカートを翻した彼女を目視した直後のこと。
瞬間、そのメイドの少女の名前と、存在と、在り方が、急速に脳髄を脅かす。
「――――」
『暴食』の権能に一度は『名前』と『記憶』を喰われ、あらゆる命の名前を刻んだオド・ラグナの名簿から削除された少女、それが『悪食』の悪意を理由に吐き出され、実害を発揮せぬまま放置されていたものが、アルデバランの頭の中で爆発する。
強引に、力ずくで、存在を思い出させられる衝撃に打たれ、思考を止めてはならない宿命を負ったはずのアルデバランが、思考に置き去りにされ――、
「――アル様!!」
とっさに、声を上げたヤエの細い腕が、アルデバランへと伸びてくる。その白い指を視界の端に捉えながら、アルデバランは動けない。
動けないまま、思考を奪われた一秒の間に、状況が動く。
――刹那、アルデバランの体は直前までの空間から切り離され、猛然と風を浴びる空へ放り出されていた。
「――――」
焦がれることをやめた太陽の眩さが、中空を舞うアルデバランの黒瞳を焼く。――それは思いがけず始まった、アルデバラン一行の正念場。
――世界の趨勢を決める、モゴレード大噴口の争奪戦が幕を開けた。




