第九章37 『マインドセット』
「――スバル様とベアトリス様が、アルデバランを名乗る人物の手に落ちました。痛恨。現在、エミリア様を中心にかの人物への対応策が進められております。報告」
そう、『憂鬱』の権能を用いて飛んできたクリンドの報告を受け、ロズワールは起こった出来事の理性的な受け入れと、感情的な受け入れの難易度の落差に動揺した。
場所はバーリエル邸――亡くなったプリシラ・バーリエルが、亡夫であるライプ・バーリエルから継承し、再び主人を失った屋敷だ。現在、ロズワールはプリシラの従者であるシュルトに同行し、エミリアたちと離れ、この地を訪れていた。
クリンドが現れ、その報告を持ち込んだのは、その屋敷の一室でのことだ。
――正直なことを言えば、傷心のアルをプレアデス監視塔へ連れていくというスバルの提案を、ロズワールは全く歓迎していなかった。
ただでさえ、ヴォラキア帝国に飛ばされたスバルの回収に時間がかかったのだ。――レムも一緒に飛ばされてはいたが、ロズワールは己に欺瞞を好まない。ロズワールの目的はスバルを連れ戻すことであり、レムの安否は二の次だった。
無論、レムが戻ったことは陣営の全員にとって喜ばしいことだが、そのために費やした時間を考えれば、決して楽観的ではいられない。すぐにでも、王選のためにしなければならない施策の遅れを取り戻すために動き出さなければ。――スバルからのプレアデス監視塔行きの相談は、そう考えた矢先だった。
何を最優先すべきか。ロズワールはそうした観点からスバルを説得しようとしたが、彼の意見を変えられず、最終的にスバルの相談は可決される運びになった。
それでも、そのスバルの判断にメリットが全くないわけではない。
「どうか、どうかアル様をお願いするであります……」
そう言って癖毛気味な桃色の頭を下げたのは、プリシラ・バーリエルの従者であり、彼女に大事に守られていた忠臣のシュルトだ。
幼子だが、賢く、強くあろうと懸命なシュルトは、プリシラの死に大きなショックを受けながらも、亡き主の名を貶めまいと細い足で自分を必死に支えている。シュルトはアルとも親しくしており、彼が深く傷付いたことをずっと心配してもいた。
スバルのアルへの配慮は、そのシュルトの心に取り入るのにすこぶる役立つ。
シュルトに好印象を抱かせ、エミリア陣営から恩を売っておくことは、この先の王選の戦略――空白となる、バーリエル領の扱いにおいても大きなアドバンテージだ。
王選が始まり、競い合う立場となったエミリアとプリシラだったが、二人は競争の中で互いを認め合い、深く心を通じた友人となった。そのプリシラが亡くなり、彼女の庇護下にあったバーリエル領の人々を、遺志を継ぐエミリアが支え導く。――そのストーリーを成立させるには、プリシラの寵愛篤かったシュルトが必要不可欠。
エミリアからも、「プリシラと、王選が終わったら友達になりたかった」という言質は得ているので、多少の脚色はよくあることの範疇。
それ故に、ロズワールは渋々ながらスバルたちをプレアデス監視塔へ送り出し、自分はバーリエル領へ戻るシュルトに同行する道を選んだ。――が、失策だった。
「スバル様たちが……では、ガーフは? ガーフはどうなりましたの? スバル様たちをお守りするために、ガーフはついていったんですのよ」
「残念ながら、ガーフィールはアルデバランの策に敗れ、重傷を負いました。昏倒。『地霊の加護』の効果に期待したいところですが、負傷したのがアウグリア砂丘……瘴気満ちる土地だったのが災いし、効果は期待よりも薄い。薄弱」
「ガーフ……っ」
思案するロズワールの傍ら、バーリエル領に同行したフレデリカが、スバルたちといたガーフィールの状態をクリンドに聞かされ、悔しげに俯く。
その横顔にあるのは、期待された役目を果たせなかったガーフィールへの失望や落胆ではなく、命があることの安堵と、その辛さを想像した憂慮の色が濃い。
ロズワールも、ガーフィールの生存には安堵があるが、しかし――、
「……解せないねーぇ。そもそも、アル殿の実力はガーフィールには遠く及ばないはずだ。無論、ガーフィールはまだまだ精神面が完成していないから、メンタルを攻撃されてその隙を突かれた、という線はありえるだろーぉけどね」
「……ガーフなら、それが一番ありえる話ですわ。あの子は、甘いですもの」
「優しさは責められることではありません。己を律するためとはいえ、あえて厳しい言葉を選ぶ必要はないでしょう。指摘」
「あなたという男は、こういうときばかり……」
クリンドの気遣いの言葉に、フレデリカが複雑そうな表情で牙を軋らせる。
この二人の付き合いも、フレデリカが『聖域』を離れ、ロズワールのところで働くようになった十年以上も前から始まったものだが、一度開いた溝がなかなか埋まらない。
当初、フレデリカはクリンドのことを兄のように慕い、何かにつけて「兄様兄様」とあとを追いかけていたが、フレデリカの背が伸び始めた頃から、その関係は一変した。
それが何を切っ掛けにしたものなのか、事情を知るロズワールはクリンドの方に理解を示すが、いきなり遠ざけられたフレデリカは納得していない。そのせいで、ああも蛇蝎の如く延々嫌い続けているのだから、何とも言えないところだ。
ともあれ――、
「クリンド、君のその態度からして、単純にガーフィールを責められない事態があったと推測するが……何があったのかーぁな?」
「――。『神龍』ボルカニカの竜殻が、アルデバランに従う事態が。それに伴い、すでに『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア様が制圧に向かわれました。急行」
「――っ、『剣聖』様が? でも、それでしたら……」
「まさか、アル殿はラインハルトくんさえ下した?」
「正確には、封じ込めたという方が適切かと。訂正。それに付随し、王都でも様々な問題が頻出しております。至急、旦那様のお力もお借りしたいと。進言」
そのクリンドの言葉に、ロズワールは目を細め、考え込む。
翠の目を呆然と見開き、怒涛の情報を呑み込めずにいるフレデリカと、ロズワールの心中はおおよそ一致している。彼女と違うのは、その呆然自失となって当然の情報の氾濫に晒されながら、その中でもロズワールには選択肢があることだ。
すなわち、これはもはやスバルとの約束を履行すべき段階ではないか、と。
「――――」
スバルが正式に騎士としての叙勲を受ける前、『聖域』を取り巻く事態が収束した際、ロズワールはスバルに自分の考えとスタンスを語った。
ナツキ・スバルが全てを拾い続けると誓ったのなら、この先、その全てを取りこぼすことがあれば、ロズワールは容赦なく彼にやり直させるための手を打つと。それは彼が失いたくないものの焼却であり、今の自分という主観的なロズワールが生きる世界の放棄。
「プリシラ様は、判断の難しいところだったが」
スバルが言うところの『全て』に、プリシラを含めるかは悩ましいところだった。
だが、最終的な政敵であるプリシラの死は、王選を勝ち抜きたいエミリアにとっての追い風になると判断し、ロズワールはその死を契約の外のものと判断した。――さらに言えば、伝え聞く限りのプリシラの死を、覆すべきではないとも思った。
プリシラ・バーリエルの死は、プリシラ・バーリエルの選択の結果だ。
それがロズワールの目的に必要不可欠な人材でない限り、その選択が尊重されることをロズワールは否とは思わない。
――だが、今のスバルの状況は聞くだに厳しい。
クリンドの話によれば、どうやら目立った死傷者は出ていないようだが、アルの置かれた状況を考えればそれも時間の問題だ。遅かれ早かれそうなるなら、ここまでやり込められた時点で、スバルにはやり直しをさせるべきだろう。
そのための一押しが必要なら、ロズワールがそれをやる。
しかし――、
「――ベアトリス」
スバルと一緒に捕まったというベアトリスに、一縷の希望をロズワールは抱く。
それはベアトリスが陰属性を極めた大精霊であるからではなく、彼女が世界で最高の魔法使いである『強欲の魔女』エキドナの作り出した至高の存在であるからでもなく、スバルの契約精霊として強い想いと覚悟で彼を守ろうとするだろうから、でもない。
ロズワールにとって甚だ不可解かつ消化し難い感情だが、根拠などないのだ。
ロズワールがベアトリスを信じたいと、そう思ってしまうことに。
「――辺境伯様、どうかいってくださいであります」
そう声を発したのは、フレデリカでもクリンドでもなかった。
屋敷の応接室で、バーリエル領の今後についての話し合いを進めるため、その場に同席していたシュルトが、そう口を挟んだのだ。
『圧縮』による瞬間移動を行ったクリンドの出現と、その後の彼の報告にシュルトはたびたび「えっ」「あう」と驚きの声を上げていたが、今、ロズワールにそう言い放った幼子の顔からは、それまでの弱々しさの多くが削り取られ――否、覆い隠されていた。
その覆い隠した触れられない化粧のことを、人は勇気や覚悟と呼ぶ。
「アル様がしてしまったことを、僕が代わりに謝るであります。その上で、どうかアル様にこれ以上危ないことをさせないでほしいのであります」
「シュルト様……」
「僕は、大丈夫であります。プリシラ様のために、屋敷のみんなも手伝ってくれるでありますから……どうか、お願いするのであります!」
深々と頭を下げたシュルト、その震える肩を見つめ、フレデリカがロズワールを振り返る。彼女の瞳には、シュルトの願いを聞き入れてほしいという祈りと、自分は彼の力になりたいと、そう訴えるものがあったが――、
「最大限、シュルトくんの願いに沿うなら、フレデリカを置いていくことはできない。アル殿が『神龍』を連れているというならなおさら、ねーぇ」
「旦那様、それはどういう……」
「――それに関しては、私が対応するつもりです。挙手」
『神龍』と自分の関連性がわからず、眉を顰めるフレデリカだったが、その疑問に答えるよりも先に、クリンドが自らそう進言した。
その意味がわからないフレデリカは混乱を深めたが、ロズワールは違う。クリンドの言葉の意味は、その表面上の聞こえ方以上の意味を持っていた。
クリンドは、どれだけ言葉を尽くしても、その決断はもうしないと思っていた。そんなロズワールの視線に、クリンドは微かに唇を緩め、言った。
「もう傍観者でいるなと、あまりにも眩い魂の輝きに背を蹴られました。羨望」と。
△▼△▼△▼△
「――奴は、一度過ぎた時を遡れるらしい。そう長い時間ではないようじゃが、な」
「――――」
そうロム爺が口にした瞬間、室内を席巻したのは様々な思いを孕んだ沈黙だった。
エミリアは大きくて綺麗で宝石みたいな目をまん丸くして、レムは澄んだ湖の湖面みたいに煌めく目を何度もぱちくりさせる。
そして、ラムはわかりやすく怪訝、メィリィもその三つ編みを弄りながら首を傾げ、
「ちょっと何を言ってるのかよくわかんないわあ」
と、エミリアみたいな感想をこぼしていた。
この場にクリンドがいれば、もう少し今のロム爺の報告を冷静に受け止めてくれるものがいたかもしれないが、レムとラムを連れてきたばかりの彼には、ロズワールたちの迎えを頼んでしまっており、彼の反応は見られなかった。
ただ、心の準備をする前に、今の話をロズワールと一緒に聞かずに済んだのは不幸中の幸いだったかもしれない。
「時間を遡るって、それ……」
『――『死に戻り』』
微かに声を震わせるペトラの傍ら、腕を組んだ『スバル』がそう呟く。
その言葉に顎を引くペトラも、さすがにこれを想い人と同じ答えだと胸をときめかせる余裕はなかった。
一度衝突したロム爺が導き出した、アルの用いる常外の力である権能。
プレアデス監視塔でガーフィールやエッゾを退け、アウグリア砂丘では『神龍』の力を借りたとはいえラインハルトと善戦し、たったの三人でロム爺の指揮したフェルト陣営の五百人を突破、ついには王都から『暴食』のロイ・アルファルドを、手加減抜きに激おこしたエミリアを躱して連れ去った。
その、アルがしでかした悪行大罪の数々が、彼によってどうやって実現に導かれていたのかようやく点と点が結び付く。
可能だ。――アルがスバルと同じ、『死に戻り』の使い手ならば。
『アルの奴も、俺と同じで異世界人なんだ。だから、おんなじような力に目覚めてるって可能性は十分あった。ってか、異世界物ならそういうパターンがお約束じゃねぇか。なのにちっとも考えねぇなんて、鈍すぎる……!』
「なら、やっぱりアルさんもスバルと同じ?」
『ああ、その可能性が高い。いや、もしかしたら似たようなリープ能力でも、アルのはもっと使い勝手がいいタイプの可能性があるな。こういうので、全く同じ力にならないってのもお約束だし、その違いを楽しむのが異世界物の醍醐味の一個だ』
「自分の命が懸かってるんだから、お約束とか醍醐味とかどうでもいいのっ。大事なのはアルさんの秘密が一個わかって、それをどうするか、でしょ?」
『ええはいそうですその通り。……でも、色々紐解けたぜ。確かにそれなら、ラインハルトから逃げたり罠にかけたりも……できるか? できるかなぁ? 『死に戻り』あるくらいでラインハルトってどうにかなりそう? 百回くらい死にそうじゃない?』
アルが推定タイムリープの使い手だとわかり、『スバル』がそう頭を抱える。
正直、ペトラは周りが散々持ち上げるほど、『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアのことをすごいと思っていない。その本人を直接知らないということもあるが、ラインハルトは聞くだに強いのだから、それに見合った仕事をするのは驚くことと思わない。
むしろ、実力以上の敵に、期待された以上の成果を出すため、持てる力以上の全力を振り絞って挑むスバルの方が、よっぽどすごいとそう思うのだ。
だから、その『スバル』がラインハルトより自分を低く見積もるのがペトラ的にはあんまり嬉しくないし、もっとすごいのだと胸を張ってほしくなる。とはいえ、それでスバルの良さに気付く人間が増えすぎるのも困りものだ。
「まぁ、わたしとエミリア姉様とレム姉様、それにベアトリスちゃんとパトラッシュちゃんで、今のところ完璧な布陣だと思うけど」
遅れてスバルの魅力に気付いた誰かが割って入ってこようにも、そうそう簡単に突破できない難攻不落の囲い込みが完成していると、そうペトラは自負している。
目下、不安があるとすれば優しすぎるスバルが相手側に肩入れしすぎる可能性だが、それでも一番上にエミリアを置き続けるという信頼があった。――もっとも、それがペトラにとってもなかなか悩みどころではあるのだが。
ともあれ――、
「ロム様が正気で、ロム様の目が節穴でないのだとしたら、厄介ね」
「その娘っ子の言い分は色々気になるが、わかってくれて助かるわい。それがあるから、アルデバランは儂らの包囲網さえ突破した。王都でエミリアがやり込められたのも、奴のその権能が理由じゃろう」
「ええと、ごめんなさい。まだ私、よくピンときてなくて……」
ラムとロム爺の、特に賢い二人がどんどん話を進めそうになるが、そこにエミリアが待ったをかけた。そのエミリアの横で、レムも可愛く頷き、
「私も、エミリア様と同じです。時を遡る、ですか? 姉様、それっていったい……」
「そうね、目覚めたばかりで本調子じゃないレムにロム様は説明不足だったわ。――これを見てちょうだい」
「それは、聖金貨?」
すっと進み出たラムが、エミリアとレムに手に乗せた聖金貨を見せる。
聖金貨には件の『神龍』ボルカニカが刻印されているが、その聖金貨をしっかりとエミリアたちに見せつけたあと、ラムはその手を回転させ、聖金貨をその場に落とした。
それが床に落ちる軌跡を描くのを見て、ペトラはラムの意図を理解する。床に落ちる聖金貨、それを使ってタイムリープの利点を――、
「危ない! もう、ラムったらおっちょこちょいね」
「姉様は時々、思いがけないうっかりさんなところがあります。そこも姉様の魅力です」
が、聖金貨が床に落ちる前に、素早く動いたエミリアがそれを拾ってしまった。その聖金貨をエミリアがラムに返し、レムが慰めと励ましの中間みたいなことを言う。
聖金貨を受け取るラムの表情が、何とも味わい深いものになっていた。
『あれ、ラムは落ちるとこ見せて、知らなかったから落ちたけど、落ちると知ってれば落とさずに済む的なこと言いたかったやつだよな?』
「たぶんね。でも、ちょうどいいからエミリア姉様とレム姉様への説明は、ラム姉様に任せちゃおう。二人と話して、わたしが満たされてる場合じゃないし」
ラムには悪いが、エミリアとレムの二人が追いついてくるまでの講義は任せ、ペトラはその先の問題――具体的な、アルの対処に頭を悩ませる。
もう少し、アルの権能の詳細が知りたい。それでもしも、『スバル』の先ほどの見立てを否定できたとしたら――、
「――ペトラちゃん、大丈夫なのお?」
「メィリィちゃん……」
エミリアとレムへの説明に、ラムとロム爺が言葉を費やす傍ら、ふとペトラに声をかけてきたのはメィリィだった。
メィリィも、タイムリープについては理解が乏しい側だったはずだが、ここで彼女が優先したのはアルの権能の理解より、ペトラの顔色の方だったらしい。
彼女はそっと伸ばした手でペトラの額に触れ、「あったかあい」とこぼし、
「塔からここまでずうっとバタバタしてるからあんまり言ってこなかったけどお、ペトラちゃんが塔の中でお本を読んだこと、わたしは知ってるんだからねえ?」
「ん、そうだね。――エミリア姉様たちに黙っててくれてありがとう」
「……お姉さんたちに心配かけたくないだけって、信じていいのよねえ?」
「うん、もちろんっ」
額に当たったメィリィの手を取り、ペトラはその手を両手できゅっと握りしめる。
メィリィが口にした通り、たぶん、ちょっと熱がある。でもこれは体調不良というより、知恵熱に近いものだとペトラは考える。
ただでさえ考えることが多いのに、今はペトラだけでなく、『スバル』の感情や思考の処理まで、ペトラの小さな頭の中の脳が担当している形だ。
思い入れの深さもあるとは思うけれど、スバル一人の『死者の書』を読んだだけでペトラがこれなのだ。十冊以上も読んだというエッゾは常軌を逸しているし、そんな常軌を逸した人間でないとうまく扱えない仕組みの大図書館なんてものを作り上げた、あの塔の設計者と見られるフリューゲルももっとどうかしている。
きっと、自分にできることは誰でもできると思っているタイプで、良くも悪くもペトラの神経を逆撫でするような考え方に違いはなかった。
ただ、同時にペトラはこうも思う。
その大図書館がなかったら、知らずに終えたかもしれないことがたくさんあったと。
そして、知ることのできたものの中に、ペトラが欲したものも確かにあった。それがペトラの心に火を灯し続けてくれる限り、立ち止まりたくない。
たとえ全部が終わったあと、この脳が沸騰したとしても、だ。
「それにね、わたし、思うの」
「……思うって、何をお?」
「もしも、ロム爺さんの言ってることが正しくて、アルさんの権能がわたしの想像してる通りだったとしたら……」
『ペトラ?』
薄い唇に指を当て、そう目を伏せたペトラを、メィリィと『スバル』が覗き込む。お互いを認識していない二人、その困惑した反応がそっくりなのがおかしくて、ペトラは場違いに笑いそうになりながら、告げる。
それは――、
「――わたし、アルさんの弱点わかったかも」
△▼△▼△▼△
「――ラインハルトの母親を眠らせたのは、ラインハルトのヤローか」
らしくもなく、そう口にするのを躊躇った自分をフェルトは苦く思う。
それがラインハルトに関わることだったからではない。いや、ある意味ではそうだ。
出会った当初から、フェルトはラインハルトに調子を狂わされっ放しであり、彼が関わってくる出来事に対し、自分らしい判断や決断をなかなか下せないことが多々ある。それは彼に力ずくで決断の結果を阻止され続けたことも影響しているし、もっと言えば、一番最初に盗品蔵周りのことで泣き顔を見られたことの影響もある。
だがたぶん一番大きいのは、ラインハルトが多くを諦めているからだ。
それがフェルトに、ラインハルトを全面的に受け入れることを躊躇わせる。同時に、ラインハルトがフェルトに心から何かを委ねてこない理由でもあるのだ。
フェルトの中にある貧民街の哲学、『強く生きろよ』は至言だ。
生まれがどこでも、自分が誰でも、その精神だけは何があろうと活きると信じている。その哲学に寄り添えば、ラインハルトは強く生きていない。
獅子としても龍としても人としても、ラインハルトは中途半端なのだ。
だが、その理由の一端が、今しがたフェルトが気付いた事実にあるなら――、
「――んや、それだと辻褄が合わねーな」
しかし、フェルトは自分で思いついた仮説を、そのまますぐ自分で否定した。
ある種の確信を持って、フェルトはラインハルトが眠り続ける彼の母親――ルアンナ・アストレアと関係していると睨んでいるが、仮にその事実をラインハルトが知っていたとしたら、さすがにここまでの彼の言動の筋が通らない。
無論、ラインハルトがそうした事実をフェルトに伏せ、母親が目覚めない原因に自分が関わっていることをしれっと隠していた可能性もないではないが。
「ねーわ。あのぶきっちょがそんな器用な真似できっかっての」
およそ、ラインハルトをこう表現したものが、天下にフェルト以外いるだろうか。
などと、『剣聖』に理想や夢を押し付けるものたちなら苦情を言いそうなものだが、これでフェルト陣営でラインハルトをポンコツ扱いするのは比較的常態化している。
付き合いの長いフラムとグラシスの姉妹は、その気安さも相まってラインハルトをよく可愛い毒舌で困らせているし、敬意と無縁の野良犬だったガストン、ラチンス、カンバリーの三人も、ラインハルトへの根拠のある罵詈雑言が尽きない。
アストレア家の領地経営周りで口出しすることの多いエッゾは、たびたび「これまでどうやって……」と頭を抱えていたし、どうやら『剣聖』にいい印象がないらしいロム爺などは当初からラインハルトへのつっけんどんな態度を崩さなかった。
そしてもちろん、この世で最もラインハルトをこき下ろし、悪口を言い、理想とされる最高の騎士なんて称号に泥を塗り付けてきたのはこのフェルトである。
その陣営のものたちからの様々な言動を、ラインハルトは受け止めてきた。
受け止めながら、彼がどうしたか。――笑うのだ。
それが実に楽しそうに、笑う。
その瞬間だけは、何も諦めてなんていないように。
「ヤローが本心を隠せても、嘘であの笑い方はできねーよ」
それがフェルトの結論、ラインハルトに過剰に期待したがる奴らと違い、ラインハルトもそんなものだと見ている人間しか出さない考えだ。
だから、フェルト以外にラインハルトをこう表現するのは、陣営の人間と、ラインハルトと親しい友人である騎士たち、そして――、
「ヤローが隠し事できねーってアタシが思うのは、テメーのガキだからってのも理由に付け加えたくなってくんな」
そう頭を掻いたフェルトの眼前、鼻面を殴られ、その場に片膝をついていたハインケルが、投げ返された剣を握りしめ、顔面を蒼白にしていた。
剣を握りしめる手に力が入りすぎ、指や手は白く、カタカタと震えている。
それをさせた感情が怒りでも、恐怖でも、悲しみでもないのが、揺れるハインケルの青い瞳からありありとフェルトには伝わってきた。
その感情を一言で言い表すなら、絶望が最も適切だろう。
知られてはいけなかったことを知られたものの、避け難く、逃れ難い絶望。色濃く刻み込まれたそれが、ハインケルの全身を縛り付け、追い詰めていた。
あまりにも惨めなその姿は、ハインケルの命が絶望によって摘み取られるのではないかとフェルトに錯覚させるほどだった。
だが、たぶん、ハインケルはそんな楽には死ねない。自分を覆い尽くすような絶望に命を奪われるくらいなら、とっくにそうなっていたはずだ。
「――ぁ、く、う、いや、う」
パクパクと口を開け閉めし、ハインケルは言葉にならない声を発し続ける。
そのハインケルの反応に赤い目を細めて、フェルトは岩肌の隙間から自分たちを見下ろす星空の下、目の前の男とラインハルトの関係を思った。
――王選に参加すると決め、ラインハルトを騎士としたフェルト。
フェルトにすれば、ラインハルトは『剣聖』と呼ばれる世界最強の騎士であり、同時にフェルトとロム爺を離れ離れにした張本人、さらには嫌がるフェルトに教養やドレスや踵の高い靴を着せようとした憎っくき相手でもあった。
その前提がフェルトの中である上で、あえてラインハルトから根掘り葉掘りあれこれ聞き出そうとしたことはなかったが――嫌でも耳には入ってくる。
ラインハルトがアストレア家でどう扱われ、世間にはどう思われているのかを。
特に話として多いのは、先代の『剣聖』テレシア・ヴァン・アストレアの死にまつわる様々な噂と、『剣聖の加護』を継承したラインハルトが正式に『剣聖』として認められる原因――彼が八歳のときに起こった、三国の奸雄が仕組んだ王国侵犯を阻止した事変、それから騎士団に入団する前後まであった、ハインケル・アストレアの言いなりであったという拭い難き汚点、といったところだ。
そのいずれも、ラインハルトの口から多くを語られたことはなく、フェルトも突っ込んだことを彼に尋ねてこなかったが、今になれば違和感ばかりが募ってくる。
最たるものが、ラインハルトがハインケルの言いなりだった、というものだ。
もしそれが事実なら、ハインケルの悪戦苦闘は何なのだろうか。
フェルトはラインハルトのことは調べなかったが、アストレア家の当主権限に関わる事情を把握するため、ハインケルのことは調べた。
なかなか評判の悪いハインケルだったが、多くは彼を騎士としても父親としても失格と示していたものの、ハインケルがアストレア家の名を使って無理を通したことは、その全てが眠り続けるルアンナを目覚めさせる手立てを得ようとするものばかり。
当人を清貧とは言わないが、貴族らしい贅沢は縁遠く、生き方の全部を切り詰め、妻を目覚めさせることに費やしていた、というのが数字から受ける彼の印象だ。
だが――、
「本当にラインハルトを言いなりにできてりゃ、どーとでもできただろーに」
名声でも武力でも、ラインハルトに勝れるものは王国にはいない。
それを、ラインハルト本人は自分のために決して使わず、そうしないで律することを良しとしている節があるが、噂されるハインケルだったら違う。
ハインケルが噂通りの男なら、そのラインハルトの名声でも武力でも何でも利用して、わざわざ自分の足で現地に赴き、直接相手と交渉して、足りなければ剣技で道理を押し通してきたことを、丸っと省略することができていたのだ。
それをしないで、極力ラインハルトを関わらせないで、眠り続ける妻を自力で目覚めさせることに拘り続けるのは何故だ。
何よりも妻が大事なら、天秤の反対に何を載せても傾くことはないはずだ。――そこに同じだけ、重たいものが載せられてでもいない限りは。
だとしたら――、
「テメーの……アンタの大事に仕方、捻じ曲がりすぎてんな」
「――ッ」
瞬間、縮み上がっていたハインケルが奥歯を噛みしめ、光が奔った。
一拍遅れて膨れ上がる剣気に風を覚え、フェルトはチカッと光って見えたそれがハインケルの剣撃であり、瞬く間に剣が抜き放たれていたことを、自分の首の先に当てられたその剣先の冷たさでようよう理解する。
「余計な、ことを、うだうだと言ってんじゃ、ねえ」
「オイ、言っとくが……」
「動くんじゃねえよ!」
目を血走らせ、口角に泡を浮かせたハインケルの怒声、それにフェルトは頬肉を内側から噛んで、過剰に追い詰めすぎたと自分の失態を悔やむ。
さっき殴り返せたときの、わかりやすい脅しのそれと違い、今のハインケルが発する気迫には確かな『殺意』が乗せられていた。
その殺意の源泉が憎悪や憤怒ではなく、ある種の防衛本能なのはわかっているが、だからこそ厄介な感情を引き出しすぎた、とも思う。
そう体を緊張させるフェルトの前で、ハインケルは青い双眸を激しく揺らしながら、
「これは、うちの問題だ。部外者にずけずけ踏み込ませてたまるか。ましてやお前みたいなガキに、これ以上知られて――」
「――これ以上? まだ、何かあるってのかよ」
「――ッ、うるせえ!」
ハインケルの言葉の端に引っかかるものを覚え、思わずフェルトが口を挟む。それが再びハインケルの表情に激震を刻んだかと思った直後、彼は激発した。
そのまま、一瞬引かれた剣先が、今度は速度を上げ、一歩分奥に突き込まれる――と、そう思われた刹那だった。
「頼むから、親父さんを刺激しねぇでくれよ」
「がっ!?」
ぴょんと飛び込んできた人影、それが手にした石剣――石龍刀で、膝立ちのハインケルの側頭部を容赦なくぶん殴り、地べたに倒れ伏させた。
横倒しに倒れ、そのまま白目を剥いたハインケル。その傍らに立ち、やれやれと肩をすくめたのは、危ういところに割って入ったアルデバランだ。
そのアルデバランの登場に、フェルトは小さく鼻を鳴らし、
「テメー、アタシが本気でヤバくなるまで見てやがったな」
「そういうフェルトちゃんも、うっかり自分が殺されねぇようにオレが目ぇ光らせてる予感がしてて親父さんと話してたろ。可愛くねぇやり方」
「アタシは可愛いとか言われるのが大っ嫌いなんでな」
べ、と舌を出し、フェルトは助けられたことの礼などアルデバランに言わない。
ただ、倒れたハインケルが死んでいないことだけ確かめ、ため息をつく。――最後のハインケルの言葉、どうやらラインハルトにはまだ何かあるらしい。
『剣聖』であり、どうやら母親を眠らせた原因であり、その上でまだハインケルが隠している何か――。
「いい加減、言い出すまで何にも聞かねーよってのも無責任になってきたな」
「そりゃまた、立派な意思表明だ。状況わかってる?」
「テメーの話じゃ、アタシに危害を加えるつもりはねーし、目的が全部片付いたら、王選を再開させてーってんだろ? アタシはテメーが負けりゃいいと思ってるが、今のとこ、勝っても負けてもこの先でアタシがやることは同じだ」
「返す言葉もねぇや」
ひらひらと右手を振るアルデバランに再び鼻を鳴らし、フェルトはハインケルが握りしめて放さない剣に、鞘の方を合わせ、納める。
鞘に収まる寸前、その『アストレア』の銘を刻まれた剣の刀身の輝きが、フェルトの目にはやたらと無慈悲に冷たく思えて、ムカッ腹が立った。