第九章36 『命題』
「ごめんなさいっ、大変ご迷惑をおかけしました……っ」
「いえ、レムの方こそ、あんなに泣いて喜んでもらえるなんて、姉様にそうしてもらえたのと同じで嬉しかったです……あ」
何度も何度も頭を下げ、取り乱した自分の醜態を謝罪するペトラ。そのペトラを慰めようとしたレムが、マズいことを言ったと頬を強張らせ、ラムの方を見る。
そのレムの眼差しに、ラムは「いいのよ」と優しく微笑み、
「所詮、ラムは感動の再会の場面で平静を保つこともできない情けない姉だもの。レムに泣き虫と言い触らされても仕方がないわ」
「そ、そんなつもりでは! 姉様が泣き虫だなんて誤解です! それに、私は姉様が泣いてくださって嬉しかったですよ!」
「そうよ、ラム。だって、やっとレムのことを思い出せたんだもの。それで泣いちゃったんだとしても、誰もラムが泣き虫だなんて思わないわ。元気を出して!」
「レム、エミリア様……よよよ」
レムに続いてエミリアも慰めに参加し、ラムが目元に手を当てて顔を背ける。その様子に二人はなおも心配げにするが、ペトラ目線からは茶番も過ぎた。
もちろん、ラムが感涙するほど嬉しい事態なのは間違いのない話だけれど。
「……ラム姉様、嬉しいのはわかるけど、あんまり二人をからかっちゃダメです」
「え!?」
「からかう……?」
何とか声を落ち着け、そう注意したペトラに、エミリアとレムが目を丸くする。そんな素直な二人を騙した悪いラムは、嘘泣きをやめて肩をすくめると、
「そうね。無事に記憶が蘇ったものだから、ついレムの色んな顔を見たくて意地悪をしてしまったの。悪い姉様を許してくれる?」
「姉様……もう、仕方ありませんね。今回だけですよ?」
「ええ、ありがとう。エミリア様も、それでいいかしら?」
「もう、レムが許してるのに私がいつまでも怒ってるなんてできません。まったく」
「すごおい。全然へりくだってないのに、甘えただけでやり過ごしちゃったわあ」
全く反省の意が見えない態度にも拘らず、ラムの横暴がレムとエミリアによって簡単に許され、それを目の当たりにしたメィリィが呆れた風に呟く。そのメィリィの呆れにペトラも同感だ。ラムらしい態度だが、ちょっと浮かれすぎている。
「わたしだって、レム……レム姉様のために祝勝会を開きたい気持ちだけど、今はとっても大変なときなんだから、ラム姉様も自重してください」
「自重、ね。一見まともな意見だけど、ペトラの方こそどうなの?」
「――? どういう意味ですか? さっきのことから、わたしも反省してますけど」
「別に取り乱したことを責めるつもりはないわ。気になるのは別のことよ。――さっきから自然と、レムとエミリア様の間に収まっている状況の方ね」
片目をつむったラムの指摘に、「え?」とペトラは目を丸くした。それから自分の左右を見て、そこにいるエミリアとレムの横顔をそれぞれ見る。
三人は今、ペトラを中心に、横長のソファに並んで座っている状態だ。ペトラは二人の腕をそれぞれ抱いて、もう手放すまいとガッチリ押さえ込んでいる。
「あれっ?」
「あれじゃないわよお。レムお姉さんに抱き着いたあと、すごおく自然にそっちに引っ張っていってたわあ。エミリアお姉さんまで一緒にねえ」
「ご、ごめんなさい。二人への愛情が溢れ出しちゃったみたいで……」
呆れを続行するメィリィの言葉に、ペトラは我が身を顧みて反省する。が、その言い訳がさっきのラムの甘えと全く同じだったので、ラムに「ハッ」と笑われる始末だ。
「いいんです、大丈夫ですよ、ペトラさん。レムも、これまで空白になってしまっていた部分を一個ずつ、ちゃんと埋めていきたいと思っていましたから」
「レム姉様……」
「それにその、レムは村で暮らしていたペトラさんたちと、あまり仲良くできていないと思っていたので、こんなに大切に思ってもらえていたのは嬉しいんです」
ペトラに腕を抱かれたまま、レムがほんのり頬を赤くしてはにかむ。
レムの自意識的には、ペトラたちとの付き合いは王選が開始する前後――スバルが屋敷に迎えられた一ヶ月がピークで、それ以前はただすれ違うだけの間柄だった。
だから、はにかむレムの認識は間違っていない。ペトラがこうまでレムに巨大な感情を抱くのは、ペトラ自身の感情というより、『スバル』の影響が大きいからだ。
ただ、それでも、思う。
「微笑んではにかんでるレム姉様、尊い……」
「ペトラちゃん、耳まですごーく赤いわ。大丈夫?」
「あっ、違うんですっ。浮気じゃなくて……エミリア姉様が一番ですっ」
「え? あ、そうよね。私が陣営の一番偉い人なんだから、ちゃんとしないとよね」
焦りと幸せの板挟みで余計なことを口走るペトラだが、エミリアはまさに天使か女神、あるいは勘違い系主人公みたいな受け止め方でスルーしてくれた。
そのことに、ペトラは自分の弾む心臓の鼓動を胸越しに抑え、「わたしの一番はスバルでしょ……っ」と言い聞かせながら、立ち上がる。
このままエミリアとレムの二人に挟まれていたら、心がバラバラになりそうだ。
『偉いぜ、ペトラ! よくぞ耐え切った!』
「スバルはあとで、わたしにたくさん嫌味言われる覚悟してて。浮気者」
『エミリアたんにもレムにも触れられない俺にご無体すぎる!』
女々しい未練を何とか断ち切ったペトラは、わだかまった怒りをイマジナリースバルへと向ける。ハンカチ片手に涙を押さえ、記憶の戻ったレムへの感情の爆発を応接室をくるくる舞うことで表現している『スバル』に、ペトラは嘆息した。
それから――、
「レムのことでお騒がせしているのはわかっていますが、一度、ここまでで落ち着けると助かります。――あの人の、話をしましょう」
「――――」
静かな声音で切り出したレムに、部屋の空気がわかりやすく引き締まった。
弛緩とまではいかなくても、差し迫った状況と対照的に場は熱を持ちかけていて、それを切っ掛けとなったレム自身が払拭した形だ。とても偉い。立派だ。
「ラムとレムは、クリンドさんから話は聞いてくれた?」
「おおよそは。それに、王都の惨状も見させていただきました。これほどの大事になるなんて……バルスはヘマをしましたね」
「ラム姉様っ、その言い方は……」
「ごめんなさい、言い直すわ。――ラムたち全員、ヘマをしましたね」
「――――」
そのラムの見解は重たく、全員の胸にずっしりと響いた。
先ほど、ラムとレムの合流前にも確かめ合ったことだが、改めてアルの行いの被害、その甚大さには目を覆いたくなるばかりだ。
「とはいえ、過剰に自責しておっても得られるものはない。あくまで、事態の責任は引き起こした張本人にある。それが儂らの結論じゃ」
「ラムたちの心掛けはそうでしょうね。でも、事はそう単純ではない。違う?」
「……侮れん娘じゃな。さっきまでの悪ふざけはなんだったのやら」
そうこぼすロム爺が自分の禿頭を撫で、ラムの追及に渋い顔をする。そのわかり合った二人のやり取りに、「姉様」とレムが首を傾げ、
「単純ではないというのは、責任の所在のお話ですか?」
「ええ、そう。詳しいことは、ロム様が話したがっているわね。譲るわ」
「面倒事をぶん投げおったな……まあよい。その娘の言う通り、儂らの心構えはともかく、現状は儂らにとってもお前さんらにとってもよろしくない」
説明役をラムに託されたロム爺が、その太い指で自分と、エミリアを指差す。その大きな指先を見つめながら、エミリアが紫紺の瞳を瞬かせ、
「私たちはもちろんそうだけど、ロム爺たち……フェルトちゃんもなの?」
「塔にはうちのエッゾもおった。エッゾには、正式な国の調査団が派遣されるまで、塔を管理する役目が与えられていたが、それを果たせなんだ。ラインハルトにしても、兜ヤローも『神龍』も止められず、王都に被害を出してしまっておる」
「でもお、エミリアお姉さんのおかげで、街に大きな石は落ちないで済んだでしょお? それなのにまだ怒られちゃうのお?」
「投げた石を砕いて人気取りができるなら、ラインハルトで延々同じことができる。こういうことはな、メィリィ、結果だけでなく過程も公平に評されねばならん」
大きな首をゆるゆると振り、難しい顔をするロム爺にメィリィが唇を尖らせる。
納得いかない、というメィリィの態度の裏には、エミリアが果たした大役が正しく評価されないことへの不満が隠れている。それがわかるから、エミリアはメィリィに「ありがとう」と微笑み、唇を尖らせた少女にさらにそっぽを向かせていた。
「最低限、儂らが確実にしなければならんことを話すぞ。まず、兜ヤロー……アルデバランを名乗る男を、儂らの手で止めねばならん。他の誰かや王国には任せられん。それができてようやく、失点を取り返したあとの話ができる」
「私たちじゃないといけないのはどうして? もちろん、私たちがうんと頑張るのは当たり前だけど、アルがひどいことをする前に止められるなら……」
「わかっておらんな、エミリア。もはや、アルデバラン単体がどうという話ではない。奴には『神龍』がついておる。それは王選の基盤が揺らぐ重大事……覆すには、『神龍』を竜の巫女が、王選候補者が引き戻す他にない。それができなければ……」
「――王選自体が、なかったことになっちゃう?」
決定的な可能性を口にしたエミリアに、ロム爺が深刻な表情で顎を引く。そこまで話を聞いたところで、ペトラも遅れてその危機感に追いついた。
そもそも、ルグニカ王国の次代の王を決める王選は、龍との盟約と、それを維持するために必要な竜歴石の予言を土台としたものだ。言うなれば、『神龍』ボルカニカの強大な力を当てにした儀式であり、『神龍』なくして王選は成り立たない。
「故に、必ずいる。『神龍』を惑わせたアルデバランを、他ならぬ王選候補者がその手で止めたという決着がな」
それが、この一大事を決着させ、王選を続けるための大前提。
フェルト陣営の知恵者であり、長く世界を見てきた老巨人の言葉には、他の誰も反論のできない説得力があった。
アルの手で、世界が壊されるのは防がなくてはならない。だが、世界が壊れさえしなければ、あとは何がどうなってもいいという話ではない。
戦いが終わったあと、そこには――、
「ちゃんと、スバルくんが帰ってこられる場所を残しておかないといけません」
「レム……」
ロム爺の話を聞いて、そう呟いたレムをエミリアが見つめる。レムはその視線に、薄青の瞳を使命感で満たしながら、「だって、そうでしょう?」と応じ、
「あの人は、私にそうしてくれました。屋敷のレムの部屋は、以前のそのままで……スバルくんが強く想ってくれていたから、レムは忘れていたことを思い出せたんです。この、スバルくんが毎日磨いてくれていたモーニングスターのおかげで……!」
そう、レムが鎖付きの鉄球――モーニングスターを手に、力強く力説した。ジャラジャラと勇ましく鳴り響く鎖の音とレムの勢いに圧倒され、エミリアが首を傾げる。
「……モーニングスターのおかげ?」
「はい。驚かれるかもしれませんが、このモーニングスターに触った瞬間だったんです。それまでの記憶がバーッと蘇って……あの人の偏執的な拘りだと思っていましたが、それは勘違いでした。……色々と、謝りたいこともいっぱいで」
自分を恥じるように目を伏せ、レムが記憶の蘇った経緯をそう語り始める。その熱の入ったレムの訴えに、エミリアは目を白黒、手をワタワタさせ、困っていた。
たぶん、タイミングの問題だ。――アルが監獄塔から連れ出した『暴食』、それがした何かというのが、おそらくレムの『記憶』と『名前』の復活に関係している。そしてそれは、レムが屋敷でモーニングスターに触れたのと同時に起こったのだ。
だからレムは、モーニングスターが自分を呼び覚ましたのだと思い込んでいて。
「あのね、レム、落ち着いて聞いてほしいんだけど……」
「安心してください、エミリア様。レムはこのモーニングスターで、必ずやスバルくんを取り戻す力になってみせます。そのあとで、帝国でのことと今後のことを、色々とお話しさせていただければ……」
拳を握り固め、力の入ったレムの態度にエミリアの困り顔は継続。その傍ら、メィリィがラムの方を見て、「止めないのお?」と尋ねると、
「仕方ないわ。こればかりはラムも予想外だったもの。――まさか、あれを毎日磨いていたバルスの与太話が、本当に役立つなんてね」
「……この中でわたしが常識人寄りなの、ホントによくないと思うわあ」
あのラムさえも、モーニングスターの力を過信しすぎている状況をメィリィが嘆く。
ともあれ、『暴食』の件については、推測の域を出ない点まで含めて、レムたちに共有する必要がある。それはエミリアに任せればいいだろうと、ペトラはエミリアとレムの夢の競演を視界の端に収めたまま、ロム爺に向き直った。
そして――、
「まだ、クリンド兄様が旦那様たちを連れ帰ってないけど……時間がありません。わたしたちとロムお爺さんたちは協力関係、ですよね?」
「――。うむ、間違いない。王選を続けることは、儂らの総意よ」
「じゃあ、教えてください。ロムお爺さんが、アルさんのことで気付いたこと」
平原で合流し、王都に飛んでくるのに同行したロム爺。クリンドの『圧縮』の都合上、トンチンカンらと別行動を選んだ彼は、エミリアたちと共闘する上で、一度衝突したときに掴んだアルの重大な情報があると、そう布石を打ってきていた。
ここまでの話し合いで、すでにエミリア陣営とフェルト陣営は一蓮托生。そろそろ、お互いの胸襟を開くべきだと、そうペトラはロム爺に求める。
そのペトラの求めに、ロム爺は自分の禿げ頭をぺしぺしと叩いて、
「この話は、かなり突拍子もない非常識な内容になる。儂が伏せたのはもったいぶったからでなく、信頼性の問題じゃ」
「大丈夫です。わたし、ロムお爺さんのこと信じてますよ。きっとロムお爺さんが知ったらビックリするくらい、本気で」
「……お前さんも、十分以上に変わった娘じゃな、ペトラ」
リップサービスだと思ったのか、眉尻を下げたロム爺が呆れながらそう呟く。
でも、ペトラの言に嘘はない。ペトラはロム爺を信用している。彼が、アルたちに人質にされたフェルトを大事に想っていて、フェルトのためなら躊躇なく命を投げ出すことができる父性の持ち主だと、そう知っているから。
だから、ロム爺が気にしていた信頼のハードルは、最初からクリアされていたのだ。
そのペトラの諸事情を知らないロム爺は、今もエミリアとレムがお互いの認識のすり合わせを行っているのを気にしながら、
「これはエミリアたちにもあとで伝えることじゃが……アルデバランの奴はおそらく、権能と呼ばれる反則技を使っておる」
『――権能』
慎重に選ばれたロム爺の言葉に、ペトラより先に『スバル』が反応した。
空中旋回を止めた『スバル』が顔を強張らせ、ロム爺の顔をじっと見つめる。イマジナリースバルの、その反応も当然だ。折しも、クリンドの口から聞いたばかりだが、ペトラも『スバル』も、もっと悪い意味で、権能という単語に聞き覚えがある。
それは『怠惰』の大罪司教が、墓所に眠る『強欲の魔女』が、口にしてきた単語。
この世界の在り方に干渉し、概念を覆し、自儘に法則を塗り替える強大な権利、権限。
それをアルが用いていたと、そうロム爺が判断した理由は――、
「――奴は、一度過ぎた時を遡れるらしい。そう長い時間ではないようじゃが、な」
△▼△▼△▼△
――結局のところ、自分のやらなきゃいけないことは何なのか。
その、小さくて弱っちい頃から延々と付き合い続けている『命題』が、アルデバラン一味に連れ回されている今も、気安い調子でフェルトに付きまとってくる。
「ったく、鬱陶しいったらねーぜ」
そう苛立たしさに頭を掻いて、フェルトは腹の奥に溜まった鬱憤を吐き捨てる。
無力感や諦念、そうした感情が生きるのに役立たないことをフェルトは知っている。そのくせこいつらは、喉を潤すでも腹に溜まるでもないくせに、人の体を自分たちでいっぱいに満たそうと、あの手この手で湧き上がって邪魔してくるのだ。
「――ちっ」
舌打ちをこぼし、フェルトは夕食にと渡された干し肉に歯を立て、噛み千切る。塩味の強すぎる味にはっきり不満を覚えて、贅沢になったものだと自分に呆れた。
引き離されてほんの二日半、それなのにもうフラムとグラシスの食事が恋しい。
たまに食卓に並ぶエッゾやラチンスたちの、濃い味付けの男飯も携帯食よりずっとマシだ。ラインハルトに料理させるのは、フラムたちが適材適所と怒るのでやらせないが、こっそりと菓子作りだけさせると、なかなか悪くない腕をしている。
残念ながら、フェルトとロム爺の料理の腕前は壊滅的で、よくもまあ、盗品蔵に通い詰めていた十年近く、食あたりで死なずに済んだものである。もしかして、フェルトが同年代に比べて成長が乏しいのは、それが原因かもしれない。
そんな陣営の料理事情はともあれ――、
「アタシにゃ料理なんてできねー。なら、何ができんだ?」
ほんのりと、指先についた塩の欠片を舌で舐め取り、赤い目を細めながら、フェルトの思考は最初と同じ『命題』へと戻ってくる。
――現在、アルデバラン一味は拠点を転々と変えながら、アルデバランと『神龍』の王都での消耗の回復に努めている。当初フェルトは、王都を逃れたアルデバランたちが目的地であるモゴレード大噴口へ直行するものと思っていたが、どうやらただ現地に辿り着けばいいという話ではないらしく、時機を選んでいる素振りがあった。
ただし、その時機を待つための休息は、決して順調とは言えない有様――非情の追跡者である、オットー・スーウェンによる執拗な妨害工作に遭っていた。
「ただ虫と話せるどころじゃなく、とんでもなくヤベー加護だ。……ってより、ヤベーのは加護じゃなくて、ゾッダ虫の兄ちゃんがヤベー奴なんだろーな」
おっとりととぼけた顔をしたオットーだが、その本性は超要注意人物だったらしい。
究極的には、どんな加護も道具の一種に過ぎない。どんなに立派な剣を持たされても、それを振り回す腕力と、使い方を学ぶ機会と意欲、いざというときに振るえる勇気が備わっていないなら、剣はただの立派な飾り物だ。
オットーには腕力と、機会と、意欲と、勇気があった。――そして、フェルトにもそれがあるのだと、剣を持たない身で証明しなければならない。
「あの兄ちゃんの方針は削り一択……やらしーこと考えやがるぜ」
『言霊の加護』で虫を、鳥を、魚を味方に付けているらしいオットーにより、アルデバラン一味はひと時の安らぎも許されず、常に対処を強いられている。
虫の羽音に獣の遠吠え、汚れた水に食料の汚染と、その搦め手は多岐にわたり、睡眠時間の確保もままならないせいで、付き合わされるフェルトも頭が痛い。
だが、この程度の巻き添えは可愛い被害とフェルトも織り込み済みだ。できるなら、フェルトも敵に同行する立場を利用し、容赦なくオットーの作戦に加担したい。
「『神龍』の抑え役になってるだけで、意味があるっちゃあるんだろーが……」
それだけでは足りないと、そうわかったのが王都での『神龍』と『剣鬼』の戦いだ。
フェルトの存在が『神龍』の力を一割削れても、残りの九割で十分に災害級の力を発揮するのが『神龍』ボルカニカの真骨頂――この先、一度は敗れたロム爺がアルデバランたちに再戦を挑む可能性を考えれば、今のままでは足りない。
目下、それが囚われのフェルトが抗うべき『命題』であった。
「いや、あともう一個あるか」
そう呟いて、フェルトは自分の立場から臨む、もう一つの『命題』へと目をやった。
「――――」
正面、パチパチと音を立てる焚火を挟んで、フェルトと相対する男がいる。――否、正しくは相対とは言えない。なにせ相手は顔を伏せ、こちらを一瞥もしていない。
鞘に入った剣を胸に抱いて、死んでいるみたいに静かに蹲っているのは、その全身から辛気臭さを全方位にばら撒いている赤毛の男――ハインケルだ。
岩場に自然にできた洞穴の入口で、フェルトとハインケルは二人きり、周囲の安全確認と妨害の排除に向かった面々を待ち、陰鬱な時間を共にしている。
一応、ハインケルはフェルトの監視役を任されているはずだが、相手を見ている率で言えば、どちらが監視役だかわかったものではない。夕食の干し肉どころか、水にも口を付けない徹底した外界の拒絶ぶりは、全力でフェルトの神経を逆撫でし続けていた。
「――――」
フェルトはハインケルの行いについて、良い悪いの物差しを持たないと断言した。それに嘘はないし、意見も変えないが――好き嫌いの物差しはある。
少なくとも、生きているのにホロゥみたいな態度は、大嫌いの判定だった。
「オイ、食わねーんなら、その干し肉くれよ」
「――――」
「聞こえてんだろ? 無視してんじゃねー……って、とと」
最初からケンカ腰もなんだと、話の切っ掛けに使った干し肉を黙れと言わんばかりに投げつけられた。慌ててそれを受け取ったが、ハインケルはこちらを見もしていない。
途端に、拳を開いたのが馬鹿らしく思えて、フェルトは「オイ」と再び呼びかけ、
「なんで、あそこで横槍入れやがったんだ?」
単刀直入に、フェルトはハインケルが蹲っている原因に堂々と切り込んだ。
「――――」
押し黙ったままのハインケル、しかし、干し肉を投げてきたのだから、外界を完全には拒み切れていない。それを踏まえ、フェルトは小さく鼻を鳴らし、
「テメーの親父……言いづれーな。ラインハルトの祖父さんと『神龍』のケンカだ。アタシは別に戦士ってわけじゃねーから、あのケンカのどっちが優勢だったか細かいとこまではわからねー。けど、テメーは『神龍』の味方のはずだろ?」
「――――」
「そのテメーが割って入ったってことは、『神龍』がヤバかったってことだ。それもとんでもねー話だが、おかしいとこがある。――テメーの目的が『龍の血』だってんなら、祖父さんが勝ちそうだったのは絶好の機会だったはずだぜ」
「――――」
「龍が死んだら血が手に入ったかもしれねーのに、テメーは邪魔した。なんでだ?」
相手の反論がないのをいいことに、フェルトはずけずけとそう言葉を並べる。
言った通り、『神龍』と『剣鬼』の戦いへの横槍は、ハインケルの目的からすれば不自然極まりなかった。あるいは、父親への強い恨みが動機の可能性も疑ったが、ハインケルは『神龍』と飛び立つ寸前、自分が刺したヴィルヘルムの治療を龍に頼んでいる。
つまりハインケルは、あの戦いで『神龍』の死も、『剣鬼』の死も望んでいない。
「ちぐはぐすぎるぜ。テメーはいったい、何を――」
考えている、と続けようとした瞬間だった。――硬い地面に一瞬で押し倒され、抜き放たれた刃がフェルトの首に宛がわれていたのは。
「喋りすぎなんだよ、ガキ」
すぐ目の前に、血走ったハインケルの青い双眸がある。口の中を噛み切ったのか、血の臭いがする息を浴びせられ、フェルトは顔をしかめた。そうする間にも、ハインケルはなおもフェルトを恫喝するように刃を滑らせ、
「痛い思いしたくなきゃ、余計な口を――ごあっ!?」
その恫喝の隙間に、フェルトは躊躇なく拳をねじ込み、ハインケルの鼻面を殴った。
「う、ぁ?」と、痛みより殴られた驚きに目を白黒させるハインケル。起き上がる勢いでその胸を蹴り上げ、思わず尻餅をつくハインケルをフェルトが見下ろした。
「今さらテメーにビビるわけねーだろ」
そう言って、フェルトはすぐ傍に落ちたハインケルの剣を拾う。一瞬、ハインケルがビクッと身を硬くするが、フェルトはため息をついて剣を彼に投げ渡した。とっさに剣を受け取ったハインケルが目を見張るが、フェルトはそれに肩をすくめる。
何故剣を返したのか不思議なのだろうが、フェルトからすれば当然の判断だ。
ここでフェルトが暴れてもハインケルには勝てないし、万一、うっかりハインケルがフェルトを斬ろうものなら、ヤエが大喜びするのは目に見えている。そもそも、ここでフェルトとハインケルを二人きりにする時点で、ヤエの狙いは明白だ。
あわよくば、フェルトとハインケルの二人を切り捨てたいヤエ。彼女の思惑に乗らないためにも、ここで暴れるのは得策ではない。――なんて、そんな理詰めじゃなくても、ハインケルを叩きのめすのがフェルトの役目じゃないというのもあった。
「じゃあそれがラインハルトの役目かっつーと、それもどうかと思ってんだよな」
「――っ」
ラインハルトの名前を出され、ハインケルがまたしても大げさにビクつく。
自分の倍以上も年上の男が、フェルトの言動にビクビクと怯えているのはとんでもなく見苦しい。しかしフェルトは、その見苦しさの理由が知りたい。
たとえそれが、フェルトにとって、ひどく苦い味をもたらすとしても、だ。
「さっきと同じ、何も答えねーでいいぜ。アタシが勝手に話して、勝手に拾う」
押し倒されて汚れた服の裾を払い、フェルトは相手の返事を待たず、空を仰ぐ。岩場の隙間から覗かれる夜空には、場違いに明るい星がいくつも煌めいていた。
その皮肉な空の美しさを睨みながら、フェルトは「実際のとこ」と切り出し、
「アタシが『神龍』と祖父さんのケンカのことで引っかかってんのは、さっきの話が全部だ。『龍の血』が欲しいのに、テメーのやってることがちぐはぐに見える。で、ちぐはぐに見えてることがもう一個あんだ。――『暴食』だよ」
「――――」
「アイツが性格最悪で、口の減らねーヤローだってことはいったん無視だ。それをなしにしても、大罪司教なんてろくでなし、歓迎できるわけねーが……あのヤローを嫌う理由なら、アタシよりもテメーのがよっぽどあるよな?」
押し黙ったまま、何も答えないハインケルが、その問いかけに息を詰めた。言葉で答えなくても、その反応でわかりやすすぎるハインケルに、フェルトは目を細める。
監獄塔から解放され、アルデバランが計画のために必要だと同行させるロイ・アルファルド――数多の悲劇を生んできた大罪司教が嫌われ、憎まれる理由は無限にあるが、ハインケルにはより明確な、絶対的な敵意の理由があるはずだ。
何故なら、ラインハルトの母であり、ハインケルの妻である女性――眠り続けるルアンナ・アストレアの被害は、『暴食』の被害者と著しく似通っているのだから。
「いっぺん話したが、アタシはテメーの……ラインハルトの家の事情は知ってる。オッサンの女房が十年以上眠りっ放しなのも、それを起こす方法が見つからねーのも。まぁ、そっちは『龍の血』がありゃ済むんだろーが……落とし前は?」
「――――」
「テメーの女房を十年以上も寝かせっ放しにしたヤローへの落とし前はどーする?」
クルシュ・カルステン公爵襲撃事件と、水門都市プリステラ攻防戦を経て、『暴食』の権能の被害が明らかになったことで、『眠り姫』――周囲の誰も存在を知らず、目覚めることのない眠りについた状態で発見された、あらゆる繋がりを絶たれた悲劇の存在。そのものたちが、他ならぬ魔女教の被害者だったと発覚したのだ。
当然、ハインケルの耳にもそれは入っているはず。にも拘らず、ハインケルは妻の眠りの原因かもしれない『暴食』に、これまで一度も興味を示していなかった。
――『龍の血』を手に入れ、妻を目覚めさせることが何より最優先だから?
――自分の手で父を刺し、その血を浴びたことの衝撃でそれどころではない?
あるいは――、
「本気でヤローが眼中にねーんだとしたら、なんでだ?」
「ま、待て……何を……」
「返事はいらねーよ。言っただろ。アタシは勝手に話して、勝手に拾う」
剣を握った手を震わせて、ハインケルが土気色の顔でフェルトを見る。その、アストレア家由来の青い瞳と自分の赤い瞳の視線をぶつけ、フェルトは確信を得た。
ハインケルの瞳の奥に、ひどく頼りなく、それでも消えてなくならない残り火。――それはたぶん、フェルトを見るロム爺の瞳に宿るのと、同じ類の熱だ。
「――――」
自暴自棄で、自分本位で身勝手で、身の程知らずな上に芯もブレブレで手の施しようのない見下げた男に見えるハインケル・アストレア。――その最奥に、ほんの微かに垣間見えた熱が、この男の行動の一端に常にあるのだとしたら。
「テメーが『暴食』を見もしねーのは、テメーの女房が眠っちまったのと、『暴食』が関係ねーって知ってるからだ。筋違いだってわかってるから、剣も向けねー。けど」
――ルアンナ・アストレアの『眠り姫』の被害は、他の『眠り姫』と決定的に違う。
世界中のあらゆる繋がりを絶たれる『眠り姫』と違い、ルアンナのことはラインハルトが、ハインケルが、彼女の関係者が全員覚えていて、その眠りを惜しんでいる。
つまり、違うのだ。ルアンナ・アストレアは『暴食』の被害者ではない。そして、ハインケルはその事実を知っていながら、誰にも発信していなかった。
何故か。知られてはならなかったからだ。――ルアンナを眠らせた、その原因を。
その原因とは――、
「――ラインハルト」
「――――」
凝然と、見開かれた双眸が、声をなくした表情が、生気の抜けた吐息が、言葉よりも雄弁な答えになって、フェルトの確信を後押しした。
自分がやらなければならないこと。――知ることが、今のフェルトの『命題』。
その『命題』に臨む覚悟と確信が導き出した、ひどく苦い味の真相、それは――、
「――ラインハルトの母親を眠らせたのは、ラインハルトのヤローか」




