第九章32 『クリンドという男』
――アルデバラン一味が休みなく強敵に追われ続ける中、それに負けず劣らずの激闘を続けている場所が、王国には二つあった。
一つは、封じられた祠からその一部を顕現させ、アウグリア砂丘を呑み込まんとする『嫉妬の魔女』から、世界の滅亡を防ごうとする『剣聖』の戦い。
『嫉妬の魔女』も『剣聖』も、互いが相手でなければ一瞬で決着を付けられる実力の持ち主だが、互いが相手であることで戦況は拮抗し、決着は先送りされ続けている。
文字通り、七日七晩でも戦いは続くだろう。――世界の崩壊と引き換えに。
そしてもう一つが、アルデバラン一味とも『剣聖』とも違い、物理的な衝突こそ伴わないものの、他二つの戦いの趨勢に大きく関わる余地のある戦い。
すなわち、ペトラ・レイテを鍵とした、『後追い星』を追うモノたちの奮闘だ。
――クリンドという男について、ペトラはあまりにも多くを知らない。
自分たちの味方である。これは間違いない。
彼が主人として仕えているアンネローゼ・ミロードは、その幼さとロズワールの親類であるという瑕疵をものともしない利発な少女であり、エミリア陣営の強力な支援者の一人かつ、ペトラ目線でも疑いなしにエミリアに魅了された人物だ。
そのアンネローゼを献身的に支え、万能の家令として信頼を置かれるクリンドには、ペトラもメイドとして働き始めた当初、作法や礼節を教わる相手として世話になった。
それはペトラだけでなく、フレデリカやラムといったメイザース家の関係者のほとんど全員が、クリンドの薫陶を受け、使用人のイロハを学んでいる。
そのため、クリンドはメイザース家に連なる使用人たちの始祖とも言える立場で、本来ならペトラも先生や師父として扱うべき相手なのだろう。
しかし、そうしたペトラの認識を訂正するのは、他ならぬ彼自身で。
『教え導くなどと、そのような大げさな役目を引き受けたつもりはありません。誤解。私はあくまで、先人の方々から伝え聞いたものを受け渡しているだけ。たまたま長く、この立場に居座れているから機会が多いだけに過ぎません。固辞』
そのクリンドの考えを、謙虚さや奥ゆかしさの表れと評することもできる。
だがペトラはそれが、ほとんど感情の揺らぎを面に出さないクリンドの紛れもない本音であることを何となく感じ取っていた。
『結局のところ、あの男は自分を安く見積もっていますのよ。自己評価が低いから、その仕事ぶりも褒められたものではないなどと……人を馬鹿にしていますわ!』
とは、クリンドに対してだけ、やけに当たりの強いフレデリカの論評だが、ペトラは絶対的に正しく、この世の誰よりも素晴らしいと信じるフレデリカのその見解にだけ、一部賛同し、一部違う意見を持っていた。
確かに一見、クリンドの態度は自己評価の低い人間のそれに思える。だが一方で、クリンドは自分の言動で、年少者や後輩に何かを伝えるときに迷いや躊躇いを見せることがほとんどない。本当に自己評価の低い人間なら、もっと迷うし、躊躇うはずだ。
クリンドの在り方には、そうした凡庸な迷いがない。――ペトラと同じだ。
「わたしは、やろうと思ったら何でもできるもん」
大抵の人間が聞けば、それを驕りだと鼻で笑うかもしれないが、ペトラが大事にしたいのは大抵の人間ではなく、身近な人たちであるので関係ない。そしてその身近な人たちは、ペトラの自信や可能性を信じてくれていると信じている。
ペトラは、自分が可能性の塊であり、それを開花させる才能がある自覚がある。
見た目が可愛いだけでなく、望んだ道を歩むのに足る才能と、その才能を信じて努力を続けられる根性が宿った、天に二物も三物も与えられた存在だという自覚が。
その恵まれた才覚の持ち主として言わせてもらえば、クリンドの在り方は自己評価の低い人間のものではなく、むしろ高い側のそれだ。
クリンドには、自分が優れた能力の持ち主である自覚がある。その上で、それを誇れることと思っていない。だから一見、謙虚で奥ゆかしい人柄に見えるのだ。
「でも、それってとってもイヤ」
――クリンドという男について、ペトラはあまりにも多くを知らない。
しかし、それほど多くを知らないクリンドを、ペトラは正直好きではなかった。
それは誰に対しても丁寧で慈母のように優しいフレデリカが、クリンドにだけ特別な態度や表情を見せることや、それがどんな感情からくるものなのかの当たりがついていることと無関係ではない。クリンドがロズワールと長い付き合いで、ずいぶんと仲がいいように見えることも、もちろんある。
が、最大の理由は、フレデリカやロズワールとの関係とも違う、クリンド本人の在り方から派生するもので。
――もう上がったかのような彼の在り方が、ペトラの主義と真っ向から相反することが何よりの理由だった。
「――戻ってきたから力を貸してっ! 聞こえてるんでしょ、クリンド兄様っ!」
砂丘の最寄り町、ミルーラの入口の門を竜車で通過し、ペトラは高い声を張り上げ、そう見知った男の存在に呼びかけた。
プレアデス監視塔から一昼夜、猛然と砂海を駆け抜けたパトラッシュのおかげで、ペトラたちの帰還は最短経路、最短時間で突っ走ったことは間違いない。それでも、『神龍』の翼を借りたアルには大きく後れを取っている。
その遠くなった背中に追いつくために、彼の力はなくてはならないものだった。
「クリンド兄様っ!」
手綱を引いて竜車を止め、町の真ん中の広場でペトラは再度声を上げる。
その懸命なペトラの訴えに、求めた男の声は返ってこない。だが、絶対に声は届いていると、そう信じてペトラは周囲に視線を巡らせる。
『なんだ? 町に誰もいない?』
ペトラと同じ景色を見渡しながら、イマジナリースバルがそう口にする。
イマジナリースバルの言う通り、まだ日の高い時間にも拘らず、広場には人っ子一人見当たらない。――否、広場に限らない。町全体から、人の気配が感じられなかった。
寂れた宿場町の印象が強いミルーラだが、それでも住民の数は百や二百を下らない人数が暮らしていたはずだ。それが一人も見当たらないというのはおかしい。
「……もしかしてえ、兜のおじさんにみんな消されちゃったとかあ?」
『すげぇ怖いこと言い出す! お前とかエルザじゃねぇんだぞ!』
「メィリィちゃん、怖いこと言わないで。――スバルも、メィリィちゃんはもうそんなことしないよ。教育の賜物」
前半はメィリィに、後半はイマジナリースバルに言い聞かせる言葉だ。
確かに一瞬、メィリィの言う最悪のシナリオが頭を過らなかったと言えば嘘になるが、その可能性は人気のない町が、しかし荒らされていないことから否定できる。
もしもアルがボルカニカと一緒に大暴れしたのだとしたら、町はもっと壊れ、取り返しのつかない惨状が広がっていたはずだ。
この町の様子は、そうした荒々しい惨状というより――、
「夜逃げしたみたい」
『夜逃げっぽい』
と、ペトラとイマジナリースバルの感想が思いがけず、重なる。
イマジナリースバルがペトラの頭の中の住人なのだから、当たり前と言えば当たり前の結果なのだが、恋する乙女としては想い人と考えが一致したのはちょっと嬉しい。
それに、前向きになれた理由は他にもあった。
「――少々語弊がありますが、おおよそはその見立てで間違いないでしょう。慧眼」
そう言って、住人の誰もいなくなった町の広場に一人の男が進み出てくる。
それは荒涼とした殺風景な町の風景の中、異彩を放つ洗練された雰囲気を保つ人物。その不思議な存在感は、真っ白な画用紙に一滴だけ深い青の絵の具の雫を落としたような、押しつけがましくない強さが感じられる。
たとえ、ここが寂れた宿場町でなく、大勢で賑わう王都の雑踏でも、夏の風物詩である花火をドカンドカンと打ち上げるすし詰め状態の花火会場でも、きっとその男の存在を見落とすことはないだろうと、そう思わせる天性のものだ。
『待ってくれ。今、大急ぎでペトラの知識をナウローディングしてる』
「――クリンド兄様」
『あー、先に言われた!』
現れた相手に、まだ見覚えのない当時のイマジナリースバルがインターセプトに悔しそうにする傍ら、ペトラは御者台からひょいと飛び降り、相手を真っ直ぐ見る。
万能家令、そしてこの局面を変える鍵を握った人物――クリンドを。
「――。ミルーラの様子といい、あの砂海の荒れようといい、帰還を取りやめたのは正解だったようです。僥倖」
左目に付けたモノクルの位置を手で直し、クリンドは空っぽの町の様子と、ペトラたちの背後――濁った色をした空と、その原因に目を細める。
そして――、
「話をしましょう、ペトラ。私たちにはそれが必要なようだ。早急」
△▼△▼△▼△
「――なるほど。熟考」
ざっくりとした説明を聞き終え、クリンドが己の細い顎に指を当て、片目をつむる。
切れ味の鋭い美貌の持ち主の思案、それ自体が一枚の絵画のような荘厳さを持つが、生憎とペトラにはそれに見惚れる余裕もなく、感性の方向性も違う。
単に美形であれば、鏡を見るか、エミリアを見ているのが一番手っ取り早い。
「ガーフィールと、エッゾという方の容体は? 確認」
「牙のお兄さんもセンセイさんも、どっちも命の心配はいらないと思うわあ。すごおく頑丈なはずの牙のお兄さんがなかなか起きないのは心配だけどお……」
「うん、たぶん、ガーフさんはエッゾさんを庇ったんだと思う」
メィリィの答えの後半を引き取り、ペトラは竜車に寝かせた二人のことを思う。
頑丈さが売りでもあるガーフィールが、小人族かつ魔法使いポジションのエッゾと同じように大ダメージを負ったのは、おそらく、『神龍』の攻撃を浴びる際に、ガーフィールの方が前面に立ってエッゾを庇った結果だ。
その挺身がなければ、エッゾの命はなかったかもしれない。
『で、龍の一発をガーフィールがまともに喰らった、か。……こいつがそこまで体を張れる奴だってことも、十四歳で中二って事実もまだ受け止め切れてねぇが』
「一応、ガーフさんももう十五歳だから。ちなみに、わたしももうすぐ十四歳だよ」
『時の流れは早いぜ。道理でペトラが美少女から美人になったと思った』
「――――」
重ねて、これはあくまでペトラの頭の中のイマジナリースバルであって、本物のスバルの発言ではない、ということを念頭に入れておく必要がある。もっとも、本物のスバルであっても、このぐらいのことは全然言ってくれるし、聞き覚えもあった。
お世辞ではない本心とはわかっていつつも、エミリア以外にそれをさらっと言えてしまうところは、こう、色々と悩ましい部分はある。
ともあれ――、
「ガーフさんとセンセイさんのことも心配だけど、一番の心配事はアルさんのことなの。クリンド兄様も、おんなじ気持ちだから待っててくれたんでしょ?」
「同じ気持ち、というと少々趣が異なります。私がこの地に留まった理由は、ペトラたちをお見送りした際の、些細な違和感が理由でしたので。疑念」
「些細な、違和感?」
「ええ。実はスバル様とベアトリス様、お二人にはお伝えしたのですが。回顧」
ペトラやメィリィの知らなかった話に、クリンドは物憂げに目を伏せる。実際、それを伝えた二人が揃ってアルの手にかかったのだから、クリンドの自責は相当だろう。
そのバツの悪さには、クリンドを知らないイマジナリースバルも同情気味になり、
『いや、話を聞けば聞くほど俺とベアトリスが悪いよ。だって、クリンドさんはちゃんとホウレンソウしてたわけじゃん? で、俺たちはホウレンソウしてないわけじゃん? その結果がこれだから、むべなるかな……』
「スバルとベアトリスちゃんが悪いなんてことありません。スバルは黙ってて」
『俺の反省文に俺の意思が介在できない!』
まるで理不尽にぶつかったみたいに嘆くスバルだが、たとえスバル自身であろうと、不用意にスバルをけなすものをペトラは許さない。ましてや、今の言い方ではベアトリスも巻き添えだ。ベアトリスは可愛くて健気、なので罪はない。
聞けばどんな人間も震え上がるような判官贔屓を一切躊躇わない。それがペトラ・レイテの法廷のルールであり、ペトラ裁判長の裁定だ。
「それでえ? 家令さんが気になったことってなんだったのお?」
「あのときも、具体的な指摘はできませんでした。力不足。ただ、こうして状況が動いてしまった今にして思えば……状況の設定に、疑念の余地が。懸念」
メィリィに促され、クリンドは目を伏せたまま、自分の心象を言葉に起こす。
クリンドが気掛かりに思った『状況の設定』というのは、ペトラたちをミルーラで見送ったときのことを示すのだろう。
「不自然というほどではありませんでした。話を聞けば納得のいく人員でもあった。――しかし、そうするための道理を二つ三つ、苦労して通さなければ成立しない組み合わせにも感じられた。作意」
「作意……」
クリンドのその説明に、ペトラは口の中でその単語を噛みしめる。
正直なところ、クリンドが言葉を濁して明言を避けた事実――プレアデス監視塔への同行メンバーの選択ミスは、常にペトラの頭を苛む自罰的な理屈として存在していた。
もしも、スバルたちと一緒にいったのがペトラではなく、エミリアやラム、オットーであればこんなことにはならなかったのではないか。それこそ、当初の予定通りにフレデリカがペトラの代わりにいれば、未然にアルの凶行を防げたかもしれないと。
アウグリア砂丘を突破するのにメィリィは欠かせず、護衛として陣営で一番頼りになる戦力がガーフィールであり、この二人は同行メンバーに必須の人員だ。
ペトラだけなのだ。ペトラだけが、入れ替え可能なメンバーだった。
「――――」
もっと主張するべきだったのではないか。塔行きの先送りか、全員での行動を。
もちろん、ヴォラキアからの帰還と、かの国で起こった出来事は至急報告すべきだったし、寄る辺を失ったシュルトの心のケアも欠かすべきでないのは事実。そうした真っ当な判断が必要だと思ったから、今のメンバーが成立したのは間違いない。
でもそこに、ペトラは自分の主観的な、恣意的な願いが差し込まれなかったという自信がない。
長く離れ離れになったスバルと、片時も離れたくない思いと、彼の役に立ちたいという利己的な功名心。エミリアやレムのいない場所で、ペトラは自分の力や存在がスバルを支えられることを望んだのではないのか。
だから、クリンドが引っかかった違和感に、気付く余地さえ持てなかった――。
『――ペトラ、そりゃいくら何でも考えすぎだ』
ぎゅっと、自分のスカートの裾を掴んだペトラの手に、イマジナリースバルの触れられない手が重なって、優しい声が耳元で囁かれる。
でも、そのスバルの言葉に、ペトラは素直に救われることはできなかった。
『こう、俺が言うのもなんだけど、俺と一緒にいたかった的な、そういう下心がゼロじゃなかったかもなんてのは十分ある話だ。けど、そんなの悪いことじゃない。それにそういう気持ちがちょぴっとあったとしても、ほんの一パーセントだ。残りの九十九パーセントはペトラの優しさだって、ちゃんと俺はわかってる』
「やだな……それも、わたしが頭の中のスバルに自分で言わせてるんだ……」
『それ言われたら、もう俺何にも言えなくなんない!? 禁止カードだろ!』
自分と一緒にいたがった、なんて自分で言うのも恥ずかしかっただろうに、ほんのり顔を赤くしたイマジナリースバルがそう訴える姿に、ペトラは長く息を吐く。
本当に、その思いやりで簡単に絆される自分が嫌だ。たぶん、ペトラが安い女の子なのではなく、スバルの言葉にパワーがありすぎるのだと思う。
『それに、ペトラが苦しんでること自体、本気でペトラのせいじゃないって可能性もあると俺は踏んでる』
「それって……アルさんが強すぎるってことと関係ある?」
『まぁ、俺はアルが実際に剣持って戦うところを見たことねぇから、もしかしたら見当違いなこと言うかもしれないけど……ラインハルトのことは知ってるからな』
アルの実力は未知数でも、この世界の頂点――ラインハルトの実力は知っている。
ガーフィールもエッゾも、ペトラからは手の届かないような凄腕の実力者だ。その二人を倒したのだから、アルもそれ以上に強いと考えるのが普通だろう。
だが、どれほどアルが強くても、ラインハルトには敵わない。
『盗品蔵で初めて見たときは、こっちの世界の常識がイマイチわかってなかったからあれだったが……この世界基準でも十分化け物なんだよな、あいつ』
「うん。でも、アルさんはそのラインハルトさんのこともどうにかしちゃった。フラムちゃんが加護で、ラインハルトさんを呼んだのは間違いないから……」
『少なくとも、ラインハルトに瞬殺されてない。それは『神龍』なんてお助けキャラがいても簡単にできることじゃない、ってのは共通見解だろ?』
「そのことと、わたしたちの組み合わせと関係ある?」
『かもしれない。ただ強いってだけじゃ、説明がつかないことが多い気がするんだ』
イマジナリースバルの口にした引っかかりに、ペトラも慎重に考えを巡らせる。
確かに、ラインハルトと対峙した時点で、全ての強さはもう意味を持たない。力の強弱では、ラインハルトを躱して自分の目的を果たすことはできないのだ。
つまり、アルの怖さには、強さ以外の理由がある。
『正直、ここまでアルにとって、運よく都合いい状況が続きすぎてる』
「でも、いつも運のいい人には、運以外の理由があるよね」
『そゆこと』
核心は掴めないが、そこの部分は押さえておく価値があるとペトラは考える。
そうして他の可能性を探ることで、行き場のない自責の念も多少は和らいだ。もしかするとこちらの方が、スバルの本命だったのかもしれないとも。
「ペトラちゃん? ボーッとして、大丈夫なのお?」
「――。ごめんね、メィリィちゃん、平気だよ。それと、クリンド兄様」
「なんでしょう。確認」
「クリンド兄様の感じた引っかかり、間違ってないと思う。その理由はまだわからないけど、でも、その引っかかりを知らないままじゃ、誰もアルさんを止められない」
「――――」
「わたしたちだけなの。わたしたちにしか、アルさんを止められない。――止めて、それからスバルとベアトリスちゃんを取り戻さなきゃ」
自分の胸に手を当てて、ペトラはクリンドにそう強く訴える。
溜めて溜めて、最後の一息を発するのには、ペトラもかなりの勇気を必要とした。
『――――』
腕を組んだイマジナリースバルが、複雑な表情でペトラの横顔を見つめている。そちらに視線を向けないまま、ペトラは自分の中の結論を動じずに信じる。信じ抜く。
――ペトラが『死者の書』を読んだのだ。最悪の場合、アルはスバルとベアトリスの二人を殺し、この世界から消してしまっている可能性がある。ナツキ・スバルの『死者の書』があるということは、そういうことと考えるのが普通だ。
「でも、わたしのスバルは普通じゃない」
思わず「わたしの」と言ってしまったが、事実だ。普通でない部分が、事実。
ナツキ・スバルには、『死に戻り』というとんでもなく辛くて、苦しくて、そして優しい人にしか正しく扱えない力があった。その、これまでにあったスバルの死んでしまった経験が、自分の見た一冊かもしれないと、そうペトラは推察する。
何故なら――、
「わたしが見た本のあと、スバルは本当に一回も死なないでこれたの?」
『負の信頼って感じだなぁ。けど、ペトラの知ってる感じの……大罪司教の一斉登板とか、プレアデス監視塔の冒険とか、地獄のヴォラキア帝国とか……俺がノーミスで切り抜けたってのは、我ながら信じ難いんじゃねぇかなぁ』
「……うん」
これまでのスバルの築き上げてきた輝かしい功績、ただでさえ大変な目に遭った上の結果だと思われてきたそれらが、ペトラの思う以上の地獄の詰め合わせだったとわかったとき、ペトラはスバルに失望するどころか、その献身に心を打ち砕かれた。
そして同時に、気付く。――プリシラを死なせた、スバルの心の傷の深さを。
スバルは深く深く、誰にも想像できないぐらい深く傷付いた。だからこそ、きっと自分のせいだと背負い込んで、アルのために何でもしようと決意した。
アルは、そんなスバルの想いも、「自分が死んでもみんなを助けたい」なんて他の誰も真似できない決意も、全部裏切ったのだ。これでスバルとベアトリスを殺していたら、ペトラはアルの体も心も、その魂も八つ裂きにしても、復讐を果たせない。
「ペトラちゃん、お兄さんとベアトリスちゃんはあ……」
「生きてる。絶対に」
「……そうねえ。二人とも、特にお兄さんはしぶといものねえ」
そう細い声で呟いたメィリィが、そっとペトラの肩に頭を乗せてくる。
素直でないメィリィも、スバルとベアトリスを心から案じている。そんな風に周りに思わせるのは、スバルがこれまでに積んできた足跡の結果だ。
『ベアトリスといいメィリィといい、俺の知らない俺は何をやったんだか』
自分のことなのに未知の所業だと、そう呆れた風にイマジナリースバルが呟く。そんなイマジナリースバルの様子に唇を緩め、ペトラは改めてクリンドに向き直った。
すでに、ペトラの意思と目的は伝えた。あとは、彼の返答を待つのみだ。
そのペトラの視線を真っ向から受け、クリンドは静かに、薄い唇から吐息をこぼし、
「あなたたちにしかできない、ですか。威勢のいいことを言う。しかし、その気迫は見るべきものがあります。感心」
「――――」
「正直なところ、ああして世界の果てで『魔女』が動き出し、『剣聖』にしか止められない事態を招いた時点で、取り返しのつかぬものと半ば達観していました。反省。ですが、あなたたちがその意気を燃やすなら――」
「待って、クリンド兄様」
語り始めたクリンド、その言葉をペトラは中途で遮った。
それは話が長くなりそうだとか、脱線を恐れてのものではなかった。――クリンド的に言うのなら、はっきりとは言えない引っかかりの類だ。だが、その引っかかりを見過ごしたことを悔やんでいる彼にこそ、ペトラはその引っかかりを見過ごせない。
ペトラが引っかかったのは、クリンドの言いようだ。
「わたしは、わたしたちって言ったの。そのわたしたちには、クリンド兄様も入ってるんですよ。あなたたちなんて、他人事みたいに言わないでください」
「それは……逡巡」
「こんなときだけど、言いますね。クリンド兄様って、前からずっと、自分が輪の外にいるみたいな顔でわたしたちと一緒にいるでしょ。わたし、それが嫌でした」
一歩引いたところから、大人として、その立ち位置を必要とされる人間として、ペトラたちエミリア陣営と接している、というのならまだわかる。
でも、クリンドは違う。誰に対しても同じだ。
クリンドが主として慕うアンネローゼにも、クリンドと悪友みたいな付き合い方のロズワールにも、クリンドを自分の人生から締め出せないフレデリカにも、同じだ。
「そんな過ごし方、エミリア姉様の理想の王国じゃ許されないから」
「――――」
「他人事なんてないの。生きてて、誰かと会って話して顔を見て過ごすんなら、そこで生まれるいいことも悪いことも問答無用なんだよ。ちょっとだけとか、いいところだけ摘まもうとか、そんなズルはできないし、しちゃいけないの」
「ペトラちゃん……」
「そんな風にしてたら、いつか大事なもの全部にそっぽ向かれちゃうんですっ」
袖に触れたメィリィの存在を感じながら、ペトラは息が切れるくらい強く言い放つ。
途中から、自分でも言いたいことが言えているのかわからなくなって、ちゃんと伝えたいことが伝えられたかわからない。きっと、『死者の書』のスバルの影響だ。
『おいおい、それも今言ったズルの一環なんじゃねぇの?』
なんて、眉尻を下げたイマジナリースバルに言われるけど、今はそれを意識的に無視。それよりも、重視すべきなのはクリンドの反応で――、
「大事なもの、全てにそっぽを向かれる、ですか……。痛感」
そう呟いたクリンドに、ペトラは小さく息を呑んだ。
それは、クリンドの囁くような声音に込められた、ひどく痛切な感情が胸に痛ましく響いたこともある。だがそれ以上に、クリンドの表情がそうさせた。
「――――」
クリンドは、その感情を滅多に面に出さない。笑顔も怒りも、悲しむところはペトラは思い当たらなかったが、とにかくそれら全部、無表情で表現するのがクリンドだ。
そのクリンドの表情に、変化があった。――それは、哀切だ。
痛切な声と、哀切の表情。その二つが重なれば、人はそれを儚げと言い表す。
このとき、クリンドは儚げで、そして切なげな、過去を懐かしむ顔をしていた。
「すでに、なのですよ。郷愁」
「クリンド、兄様」
「すでに一度、私はその全てにそっぽを向かれたあとなのです、ペトラ。自嘲」
そう言葉にされ、ペトラは直前の自分の発言を思い出し、羞恥を覚える。
知った風に、自分で齧ったばかりの感情のことを偉そうに語ってしまった。すでにクリンドは、その感覚を知っていて、その上で今があると振る舞っていたのに。
ただ、その恥を覚えても、なお、ペトラは言いたい。
「それでも……っ」
「――ええ、それでもです。感嘆」
「え?」
「かつて一度、何もかもを手放した。それで空っぽになったのが事実だとしても、その後の私の歩いてきた道のりにも、得たもの、積み上げたものがある。自省。――ペトラ、あなたたちとの関係も、その一つでしたね。天啓」
そう口にしてから、クリンドは目をつぶり、空を仰ぐ。
まばらに雲が引き千切られていく、世界の終わりを向こう側にギリギリで押しとどめているような空、そこに彼は何を見たのか。
「何故、命じられたわけでもなく、微かな違和感を理由にこの場に留まったのか。私もまた、このまま行き過ぎるのを耐え難いと、そう思ったからなのでしょう。氷解」
「……ええと、クリンド兄様、それって」
「それってつまり、ペトラちゃんの言う通りでしたごめんなさあいってことお?」
「メィリィちゃん!」
『うおお、メィリィパイセン、言うなぁ』
戸惑うペトラの傍らで、はっきりそう言ったメィリィに驚かされる。目を見張ったペトラの横、感心した風なスバルがメィリィを「パイセン」と呼んだことに、そのことの記憶がなくてもスバルらしい反応だと、そうも思わされるが。
と、そんなペトラの混乱を余所に、クリンドは「ふ」と小さく笑い、
「当事者意識に欠け、不安にさせたことを謝罪します。陳謝。その上でペトラ、あなたに感謝します。大恩。――私も、前向きに協力したい」
「クリンド兄様……っ」
そう告げ、かしこまった一礼をするクリンドにペトラは目を輝かせる。
しかし、そんなペトラの感激に水を差すように、メィリィが「っていうか」と続け、
「別に家令さんはわたしたちの邪魔しようとか、協力しませえんなんて言うつもりはなかったんでしょお? ペトラちゃんの気にしすぎじゃなあい?」
「そ、それはそうかもしれないけど……っ」
「いえ、それは違いますよ、メィリィ。訂正。当事者意識を持つということは、私も率先して解決のための策を出すということ。傍観者とは大きく違う。別人」
『別人はいくら何でも言いすぎだろ!』
「でも、そのくらい期待してもいいってこと、ですよね? だったら! クリンド兄様の不思議パゥワーで、わたしたちをみんなのところに……」
ぐっと前のめりになり、ペトラがクリンドの力を使い倒そうと意気込む。
実際、ペトラがこの状況で一番当てにしていたのがクリンドの『転移』の力だ。目的地までの距離を一瞬でなくす彼のテレポートは、『神龍』を引き連れてどこかへ向かったアルを追いかけるのになくてはならない力になる。
アルの目的地は不明だが、あれだけ目立つ『神龍』連れなのだ。
エミリアやラムたち、正直嫌だがロズワールらの協力があれば、向かう先を特定し、追いつくことも十分可能になるはず。
と、そう鼻息荒くペトラは意気込んだのだが――、
「残念ですが、私の移動術は無制限に使えるものではありません。むしろ、制限という意味ではかなり融通の利かない力です。残念」
「クリンド兄様の嘘つきっ! 裏切り者っ!」
『期待させてそんなのないぜ! クリンド兄様のぬか喜びゃー!』
「い、言いすぎよお、ペトラちゃん。家令さんも悪気はないと思うわあ」
見えた光明がいきなり雲隠れし、ペトラがイマジナリースバルと二人で怒る。その怒りの半分しかクリンドとメィリィに伝わらないが、ぬか喜びさせられたのは事実。
そもそも、仕組みのわからない力と言えばそうなのだが、当てにしていた『転移』が使えないとなると、ただイケメンが前向きについてくるだけの話だ。
「あれは正確には『転移』ではなく、空間と時間の『圧縮』です。説明。本来、移動するはずの距離と、必要な時間を『圧縮』する。ただし、世界の在り方に大きく影響を与えかねないため、オド・ラグナの目こぼしが必要となる。便宜」
『オド・ラグナ? なんじゃらほい』
「マナとかの根源、スバルの知識だと、意識のない神様みたいなもの……たぶん」
クリンドの口にした不意打ち気味の単語、それに首を傾げるイマジナリースバルに説明しながら、ペトラもその理解にイマイチ確証はない。
ロズワールに師事し、魔法を教わる立場になっているペトラは、オド・ラグナについても通り一遍の講釈は受けたのだが、ちゃんとわかっているかは微妙なところだ。ロズワールも、オド・ラグナを完璧に理解しているとは言い難い、とか言っていた。
ただ、オド・ラグナは途轍もなく大きな力の塊であり、それはある意味、『剣聖』や『神龍』、『嫉妬の魔女』といった力あるモノの頂とも、別格の位置にある何かだと。
「その、オド・ラグナを誤魔化せないと、どうなるわけえ?」
「不明です。不明であるという、その事実が恐ろしい。震撼」
メィリィの質問にそう応じ、ゆるゆるとクリンドが首を横に振る。
彼の答えには誤魔化す意図や、はぐらかそうとする意思は感じられない。つまり、何でも知っているように見えるクリンドも、ロズワールと同じ見解。
でも、だとしたら――、
「クリンド兄様は、今まで何回かそれをやってくれたでしょ? それは、今の話だと、オド・ラグナを誤魔化せたってこと……どうすればいいの?」
「ペトラ……」
「その方法があるから、クリンド兄様は力が使えてた。何があればいいの? 例えば……魔法を使うにはマナがいる。精霊を従えるのには契約がいる。だったら、オド・ラグナに何かしてもらうのにも、対価がいる?」
「――。あなたという子には、本当に驚かされる。脱帽」
そのクリンドの反応が、ペトラの推測が正しいことを裏付けていた。
すなわち、オド・ラグナに対価を捧げることで、クリンドの規格外の力を使う許可をもらえる。クリンドの言い方に従うなら、目こぼししてもらえるのだ。
『賄賂とか袖の下ってわけか。……超俗物だな、神様のくせに』
渋い顔でこぼすイマジナリースバルに、ペトラも全く同意見。でも一方で、何もなしで施しを与えてくれる神様より、対価を求める神様の方が信用できる気もした。
何より、身を切らないで欲しいものが手に入るほど、世界は難易度イージーにはできていないのだと、そうペトラは『死ぬほど』知っている。
だから――、
「何がいるのか教えてください、クリンド兄様。わたしは、それが何であっても必ず用意します。スバルとベアトリスちゃんと、みんなのためだから」
「あらあ、ペトラちゃんったらおかしいのお。さっき自分で言ってたのに、わたしじゃなくて、わたしたちだってえ」
「――。ごめんごめん。でも、ありがと」
決意を固めたペトラの腕を抱いて、そう言ったメィリィに微笑みを向ける。
思えば、メィリィともこんな関係になれるなんてちっとも思っていなかった。彼女が屋敷の座敷牢に囚われていたとき、ペトラがたびたびメィリィの下を訪れたのは、彼女が情に絆され、危ない存在でなくなればいいという打算が目的だった。
こんな風に、一人決意したペトラに寄り添ってくれるなど、想像もしなかった。
そしてこの全部を、ペトラは彼にもらったのだから。
「――可能性です。回答」
そのペトラとメィリィを前に、クリンドが一拍おいて、そう言った。
そこにあったのは躊躇いや逡巡、あるいは幼い少女たちにこれを告げることへの迷いや懊悩、そんな後ろ向きなものではなかった。
クリンドは事態を我が事と受け止め、同じ問題に向かい合うペトラたちのことも、確かな仲間だと認めた。その上で、続ける。
「世界に、オド・ラグナにもたらすであろう影響、可能性、それを対価にする。それが私が有する、『憂鬱』の魔女因子の権能、その使用の条件です。――白状」




