第九章24 『人類の天敵』
――『死に戻り』。
命と引き換えに時を遡り、一度は過ごしたはずの時間をやり直す資格を得る権能。
あの恐ろしい『嫉妬の魔女』の干渉を受けながら、直面したあらゆる苦悩を、障害を取り除くために命を費やし、ナツキ・スバルは幾度も『死に戻り』を繰り返してきた。
そしてそれは、二度や三度などと可愛げのある数では到底ない。
自分が知れた数だけで、十回以上の『死』がナツキ・スバルを襲っていた。
一度として、楽な死に方はなかった。
一度として、喪失感を伴わない終わりはなかった。
一度として、もうこれでいいなどと命を手放した最期はなかった。
一度として、ナツキ・スバルは命を手放したいなどと、思ってはいなかった。
それでも、ナツキ・スバルは命を落とし、『死に戻り』をし続けた。
理不尽が、不条理が、絶望が、ナツキ・スバルの命を奪った。だが、いずれの理不尽も不条理も絶望も、回避しようと思えばできないものではなかった。
なのに、どうして、ナツキ・スバルは『死』を回避できなかったのか。
それは――、
「――優しいから」
誰一人、失いたくないと願ってしまったから。
誰一人、手放したくないと祈ってしまったから。
誰一人、いなくなっていいだなんて嫌いになれなかったから。
誰一人、ナツキ・スバルは死んでいいなんて思うことができなかったから。
だから、ナツキ・スバルは命を落とし、『死に戻り』をし続けた。
あらゆる障害が、悪意が、敵が、魔獣が、大罪司教が、その命に立ちはだかった。それらは幾度も幾度も、ナツキ・スバルを殺し、『死』を与え、魂を砕いた。
でも、わかっている。――わかっているのだ。
確かに多くの敵が、とんでもない障害が、避けられない災いが、ナツキ・スバルの命を無情にも奪い去ってきた。それは事実だ。間違いない。
だけど、わかっている。誰よりもちゃんと、痛感している。
敵よりも、災いよりも、不条理よりも。
運命なんて形のない悪意よりも、ナツキ・スバルを殺したモノ。
――それは他ならぬ、ナツキ・スバルの優しさに甘え続ける誰かなのだと。
△▼△▼△▼△
『なんて、そんなに思い詰めなくてもいいと思うぜ、俺は』
「……スバルがそんな風に言ってくれても、わたしはちっとも割り切れないもん」
走る竜車の御者台で手綱を握るペトラは、自分の傍らで頬杖を突いている『ナツキ・スバル』をちらと見て、そう憂いを帯びたため息をついた。
今、ペトラの隣にいる『スバル』は本物のスバルではない。
言うなれば、ペトラの脳が勝手に見せている幻想――イマジナリースバルだ。その証拠にちょっと半透明だし、ペトラの中の最新のスバルと比べると、ほんのりと顔つきに幼さを残しているように感じる。
たぶん、ペトラが追体験することになった『死者の書』が、今から一年半ほども前の時系列――ペトラがメイドになりたての、あの怒涛の数日の頃のものだったからだ。
「わたしもスバルも、色々あったから……」
あれから過ぎた時間を思えば、良くも悪くもお互い成長していて当然だ。
単純に、背丈や髪の長さという意味でもペトラは成長していたし、メイドとしても、女性としても目覚ましい進歩を遂げたと自負している。一方、スバルもベアトリスと仲良く、オットーやガーフィールとやかましく、そしてエミリアと微笑ましく二人三脚での成長曲線を描き、とても凛々しく、精悍な男性像を実現しつつある。
なので、当時の『スバル』が今と比べて多少なり幼く見えるのも仕方がない。
――ただ、それでも格好いい。
今より男性性や精悍さが抜けても、可愛さと愛嬌があるのが反則ではなかろうか。
「ダメダメ……今、それどころじゃないでしょ、わたし」
額に手をやり、ゆるゆると首を横に振って、ペトラは自分の内心を窘める。
大丈夫、ちゃんと自制できる。なにせ、ペトラがこうして頭の中にスバルを浮かべ、言ってほしいことを言わせたり、好きなポーズを取らせるのは初めてではない。
色恋の絵物語や恋愛の詩、様々なシチュエーションを思い描いては、そこに自分とスバルを登場人物として配置し、頬と胸を熱くしてきた百戦錬磨だ。
それらを予行演習だったと考えれば、今目の前にいるイマジナリースバルは、それよりもっと実在感があって、生っぽくて、リアルさに事欠かないだけだ。
『それ、もはや想像の範疇超えてて、自制心でどうにかなるレベルじゃなくない?』
「いいのっ、わたしの気の持ちようの話だから。それより、頭の中覗かないで」
『無茶言うなよ! 覗かないでって言われても、俺がいるのがペトラの頭の中だぜ!?』
「――――」
目を見張った『スバル』にそう言い返され、ペトラは思わず息を詰める。と、その反応を目にした『スバル』が、口が過ぎたかと反省するみたいに自分の頬を指で掻いた。
その、相手を慮るときになだらかになる目つき、どこまでもスバルらしい不器用な反応で、ペトラは改めて彼のことを愛おしく思う。
――ナツキ・スバルの『死者の書』は、ペトラ・レイテの『心』を侵した。
自分の身に起こった出来事を、ペトラはそう自己分析している。
元々、『死者の書』の愛読者だったエッゾ・カドナーは、本を読むのは著しく精神に負担をかける挑戦だと話していたが、それは覚悟以上の衝撃をペトラにもたらした。
もっとも、スバルの『死者の書』からペトラが味わった衝撃は、エッゾが危惧したものとは全然別物である可能性もあったが。
「……『死に戻り』とか、大瀑布の向こう側とか」
ペトラの想像をはるかに超えて、ナツキ・スバルの抱えているものは大きかった。
スバルが故郷を離れ、たった一人でどんな思いをしながらペトラたちと出会い、どんな目に遭いながらペトラたちを救い、どんな覚悟を胸にペトラたちのために戦ったのか、その全てを――否、ペトラが知ったものなど、極々一部に過ぎない。
だって、こんな悲劇的な運命を背負ったスバルが、ペトラが手に取った『死者の書』の記録以降、一度もその権能を使っていないなんて、とても信じられない。
きっとスバルはあれからも何度も、あの魂が引き剥がされ、心を掻き毟られ、命を踏み躙られる感覚を味わい、耐えて、耐え抜いて、今日まで。
「――――」
エッゾの恐れていた、取り返しのつかない心の瑕疵は確かに刻まれてしまった。
たぶん、おそらく、言うまでもなく、自分の心は深手を負い、精神のバランスは跡形もなく崩れ、危うい状態にあるのだろうと俯瞰的にペトラは思う。
死んだのに死んでいない想い人、その空想上の想い人と言葉を交わし、彼の言葉にこんな状況でも一喜一憂できるのだ。これはもう、完全に心を病んでいる。
「でも、いいの」
恋は盲目、愛は熱病。ペトラ・レイテは恋心に蝕まれ、今日の今日まで生きてきた。
自分が異常だと、そうわかっている間はコントロールできる――なんて、そんな都合のいい考え方はしない。どんなにちゃんとした判断力があるなんて主張しても、アルコールを入れた体で車の運転をしてはいけないのと同じことだ。
ペトラもスバルも、車の免許もないし、飲酒運転した記憶もないが、同じことだ。
「車、飲酒運転、信号機、とーりゃんせ……」
ふと、思い浮かべた単語に引っ張られ、クローゼットに押し込めてあった季節違いの服が溢れるみたいに、ドサドサと次々に知識がこぼれ落ちてくる。
その全部が、ペトラの知っている言葉で、知らない単語で、理解と無理解の境界線をゆったりと行き交う、真新しい古馴染みたちだった。
それらを丁寧に丁寧に選り分けることをしないと、気付いたらペトラは男物の服に袖を通して、ギルティウィップを持ち歩くことになるだろう。
『っていうか、俺のメインウェポンって鞭なの? 尖りすぎじゃね? ベアトリスともやたらとベタベタしてるみたいだし、ジェネレーションギャップに追いつけねぇ……』
「ちなみに、旦那様はみんなで懲らしめて、ガーフさんも中二病だったのを反省して、オットーさんは寝てなくて、エミリア姉様はとっても素敵に頑張ってるよ」
『なるほど、ロズワールが全ての黒幕……え? なんであいつ許されたの?』
「それはスバルとエミリア姉様で話し合ってよ……」
なお、ペトラは今もなお、ロズワールのことを許していないので、あのときのスバルとエミリアの沙汰に反対し切らなかったものの、賛同はしていない。もちろん、帝国での動きを筆頭に、ロズワールがいて助かったことは何度もある。でも、それとこれとは話が別で、ペトラは彼を一生許さないでいるつもりだった。
だが、しかし、今は、ロズワール以上に許せない誰かもいて――、
『――ペトラ』
「……なんて言われても、なの」
静かで優しい声色、真剣な眼差し、ペトラの呼吸と心臓の拍動を無理やり忘れさせる『スバル』の合わせ技から逃れるには、子どもみたいに目を背ける他にない。
自分の胸の奥、鳴り続ける恥知らずな心臓からの訴えを無視するように、ペトラは意識を正面、どこまでも続いて見える砂の海へと向けた。
――現在、ペトラたちの竜車はプレアデス監視塔を離れ、アウグリア砂丘を突っ切るべく真っ直ぐに爆走中だ。
この砂の海の彼方に、追いつかなくてはいけない背中がある。
相手は『神龍』の翼を使い、『風除けの加護』がある地竜以上の機動力で、一気に砂海を飛び越えてしまっているだろう。追いつくのは並大抵のことではない。
それに、ペトラたちが急がなくてはならない理由は、他にもあった。
『――『嫉妬の魔女』』
考え込むペトラと意識を共有する『スバル』が、急ぐ理由を口にする。
なりふり構わず竜車を走らせ、すでに数時間――プレアデス監視塔からかなりの距離を稼いだにも拘らず、なおもペトラたちの魂を手放してくれないプレッシャー。
それは、『死者の書』を読み、禁忌の領域に踏み込んだペトラに罰を与えんと絶えず手を伸ばし続けてくる、祠に封じられたはずの恐ろしい『魔女』。世界を侵し、壊しかねないその黒影の魔手の大津波は、今、たった一人の英雄によってせき止められていた。
――『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア。
彼の孤独な奮戦が、『嫉妬の魔女』の暴威を塔の向こうに押しとどめ、首の皮一枚で世界の崩壊を防ぎ、拮抗を保っている。しかし、今も天地がひっくり返らんばかりの轟音と激震、遠雷の如き瞬きが断続的に起こり、朝も夜もなく、黙示録のラッパが延々と吹かれ続けているような状況だ。
はたしてこの釣り合いはいつまで続くものか。ペトラにも誰にもわかりはしない。わかることがあるとすれば、それはたった一つ――、
『ラインハルトがやられたら、何もかも終わりだ』
「うん。ラインハルト……さんがいなくなったら、『魔女』はわたしに追いついてくる。それまでに、どのくらい被害が出るか予想できない」
『お行儀よく、周りに道を譲ってくれるタイプじゃなさそうだしな』
その『スバル』の冗談に、満員電車でお年寄りに席を譲ってあげる親切な『嫉妬の魔女』を思い浮かべたペトラだが、さすがに今は笑う気になれない。
実際、被害を最小限に抑えることを考えるなら、ラインハルトの勝敗に拘らず、ペトラはプレアデス監視塔に残り、『魔女』による口封じを甘んじて受けるべきだった。
しかし、ペトラが一瞬でもそんなことを考えようものなら――、
『――それは絶対にダメだ。死んでも断る』
「――――」
そう『スバル』から真正面に言われ、ペトラは反論を封じられてしまう。
以前から、自分がスバルに大事にされている自覚はあった。もちろん、エミリアやベアトリスがいる。レムだって。その彼女たちと比べて、自分が特別扱いされているなんて思い上がってはいなかったが、それでも確信していた。――自分は、ナツキ・スバルが心に作った、大事なものを大切に置いておくための棚にちゃんと置かれていると。
でも、今日まで知らなかった。この、冗談めかして胸を張ったスバルが口にする、「死んでも」という言葉に、どれだけの重みがあったのかを。
ナツキ・スバルは本当に、『死んでも』大事なものを守る人だから。
「――。うん、ちゃんとわかってる。わたしだって、死んじゃいたくないもん。……アルさんには、『魔女』を止める何かの用意がある、でしょ?」
『ああ。あいつだって馬鹿じゃない。世界がどれだけ壊されるかわかったもんじゃないんだ。そうなる前に手打ちにする用意は、必ずしてる』
「うん、必ず」
『絶対だ』
拳を握りしめて、そう力強く言い放つ『スバル』にペトラも頷き返す。
塔を去ったアルに追いついて、さらに『魔女』を抑えるための策の口を割らせる。必要な手順を整理すると気が遠くなるが、『スバル』の言葉のなんと頼もしいことか。――だが悲しいかな、先ほどと同じことは『スバル』側だけでなく、ペトラにも言える。
ペトラと意識を共有する『スバル』には、ペトラの考えも不安も筒抜けだった。
そして、『スバル』と意識を共有するペトラにも、『スバル』のそれは筒抜けなのだ。
「アルさんが、世界を終わらせたいって思ってるんなら……」
先ほどの、ペトラと『スバル』が確認した絶対は成立しなくなる。
最悪の場合、アルは『嫉妬の魔女』を止める方法なんて用意していなくて、世界が壊れるに任せ、死んでいく自分の心を道連れにしようとしているかもしれない。
プリシラ・バーリエルという、敬愛する主人――あるいは敬愛ではなく、もっと色濃い愛情を抱いていた相手を亡くしたアルは、世界を憎んでいても何も変じゃない。
だが、一縷の望みを抱かずおれないのも、事実だ。
「わたしもメィリィちゃんも、ガーフさんたちもみんな、生きてる」
『神龍』ボルカニカさえ味方に付けたアルには、塔にいたペトラたちの生殺与奪の権利があった。そして彼は命を奪うのではなく、奪わないという権利を行使した。
これを、アルの中に残された一欠片の兆しだと信じるのは、考えすぎだろうか。
「……考えすぎじゃないかもだけど、わたしらしくないかも」
『ぎくっ』
唇に指を当てて呟くペトラの横で、『スバル』がわざとらしく肩を跳ねさせる。ちらと見ると、下手な愛想笑いをした『スバル』に手を振られ、ペトラは目を細めた。
今のペトラの考え方に、どのぐらい『スバル』の影響があるのかはわからない。
『死者の書』の影響が、イマジナリースバルが見えるだけの、ペトラにとってのボーナス特典みたいな効果しかないなんて、そんなはずがないのだから。
「気を付けないと……」
ペトラはスバルが大好きだが、スバルになりたいわけではない。それに、スバルみたいに、手当たり次第に優しさを振りまく人間にも、なるべきではない。
優しい人には憧れるし、優しくなりたいといつも思っているペトラだが、スバルとエミリアみたいな人たちは、スバルとエミリアがいてくれたらそれでいい。
ペトラは、優しい人たちの優しさを、それが当たり前だと見過ごさない人でありたい。
そのために、ナツキ・スバルの気持ちになりすぎては、いけないのだ。
「――ペトラちゃん、そろそろ代わるわよお」
と、そう思ったところで竜車の小窓が開かれ、後頭部に声をかけられた。
それをしたのは、客車で休息を取っていたメィリィだ。御者の役割を代わると提案してくれた彼女に、ペトラは「ううん」と首を横に振って、
「わたしは大丈夫だから、メィリィちゃんは休んでて。寝てるわたしを運んでくれたし、魔獣だって追い払ってもらってるのに」
「牙のお兄さんと先生さんを運んでたフラムちゃんほどじゃないわよお。それに、『剣聖』さんと『魔女』のケンカで、魔獣ちゃんたちもそれどころじゃなさそうだしねえ」
肩をすくめるメィリィ、その表情には色濃い疲労感が刻まれていて、客車にいる間も気持ちが休まらなかったことは一目でわかった。実際、遠くに『魔女』の存在を感じる状況なんて、常に蛇に睨まれた蛙状態、平然と休める方がどうかしている。
これで案外、責任感の強いメィリィだから、なおさらそれは難しかっただろう。
「フラムちゃんは? まだ寝てるの?」
「そうねえ、まだ意識がないわあ。でも、フラムちゃんの加護は頼りにしたいし、そうしてくれて正解よお」
『この子……メィリィがここにいる違和感もすげぇんだよな……』
物憂げなメィリィの答えと、その存在に慄いている『スバル』の感想が重なる。後者の反応を余所に、ペトラは話題に挙がったフラムの存在と、その加護を意識した。
フラムの持つ『念話の加護』は、日に一回、双子の姉妹に言葉を伝えられるというものだ。一往復だけだが、距離と無関係に送受信可能な意思の伝達手段は、現状では何と引き換えにしても惜しくないぐらい重要なポジション。
その加護の条件である『日に一度』の判定は、どうやら眠った時間と密接な関わりがあるらしく、緊急事態であればあるほど彼女には眠ってもらう必要があった。
もっとも、そのためにフラムが取った行動は、ペトラの想像を超えていたが。
「まさか、いきなり自分で自分の首を絞めて気絶するなんて……」
「『剣聖』さんが気になって、普通に休むなんて無理だったんでしょうねえ。でも、それで思い切れちゃうところが、あの『剣聖』さんの関係者って感じだわあ。わたしやペトラちゃんより小さいくらいなのに、普通と程遠い女の子よねえ」
「メィリィちゃんに言われたくないと思うよ」
『お前が言うなだわ』
ペトラと『スバル』の突っ込みが重なり、メィリィが唇を不満げに曲げる。
彼女に聞こえたのはペトラの言葉だけだが、この場違いに日常的なやり取りをあえてすることで、『魔女』のプレッシャーから互いに目を背けていた。
そして、その安定を図った心で、一心不乱に駆け抜け続けたおかげだろう。
「――ッッ!」
不意の甲高い嘶きは、ここまでペトラよりもメィリィよりもフラムよりも、誰よりも懸命に力を尽くし続けてくれていた存在――パトラッシュのものだった。
プレアデス監視塔での出来事を踏まえ、ペトラたちと緊急性を共有してくれていたパトラッシュ、その嘶きが示したのは目的地の到来――砂海の終わりへの到達だ。
そこに砂の海の最寄りの街、ミルーラの姿が見えてくる。
「ペトラちゃあん!」
「うん、わかってるっ!」
メィリィの呼びかけに応じ、手綱を握りしめたペトラが前のめりになる。
一瞬だけ後ろを気にしてくれたパトラッシュはすでに意識を前に戻し、ここまで不休で走り続けたラストスパートへ突入していた。
『愛してるぜ、パトラッシュ』
実体のないイマジナリースバルが、届かない感謝と愛の言霊をパトラッシュに贈る。
触れられない手が地竜の首筋を撫でているのを見ながら、ペトラの小さな頭の中では、ミルーラ到着後に必要になるロードマップが展開されていた。
そのロードマップの終端、最終目的として掲げられているのはもちろん、ナツキ・スバルを裏切ったアルの行動の阻止――否、その向こう側がある。
それに辿り着くためにも――、
「――っ」
猛然と竜車が町の入口の門をくぐり、ミルーラへと到着する。それを以て、自分たちがアウグリア砂丘を抜けたと判断し、ペトラは大きく口を開けた。
何をするにも、まずペトラたちが手を借りなければならない相手――彼は、自分はアウグリア砂丘に入ることはできないと、この場所でペトラたちを見送った。
だからそれは、逆説的に言えば――、
「――戻ってきたから力を貸してっ! 聞こえてるんでしょ、クリンド兄様っ!」
そう、開いた距離をゼロにできるワイルドカードを求め、ペトラは声を張り上げた。
△▼△▼△▼△
ちらっと視界の端を過った小さな影に、フェルトは盛大に顔をしかめる。
生理的嫌悪感を催させる造形、色合い、テカリ具合と、奴らとは物心ついたときから貧民街で寝床を共にしてきたが、まるで仲間意識も親しみも持てない。
寒さをしのぐために大ネズミを抱いて寝たことさえあるフェルトだが、ゾッダ虫の一匹とは友達になることさえ抵抗感がある。
まさしく、人類の天敵というべき、おぞましき存在だ。
「ホントーに、ゾッダってのはどこにでもいやがんな……」
その常軌を逸した生命力で、どこにでも生存域を確保するゾッダ虫。見かけるのは不衛生な場所であることが多いが、それも絶対の条件というわけでもない。
実際、このときにフェルトがゾッダ虫を視界の端に見たのは、それなりにちゃんと管理と手入れの行き届いた建物の中――王都ルグニカの、貴族街の館でのことだ。
豪奢で贅沢、フェルトには価値のわからない絵画や装飾品がたくさん置かれたその場所は、主を失った今も、その華美さのままに残り続けていて。
「オイ、お前のその糸、遠くまでビャーって届くんだろ。それでちょちょっとゾッダの駆除とかできねーのか?」
「はぁ~、あのですね、フェルト様。私の使ってる鋼糸術って、百年単位で使い手の出なかった超絶レア技能なんですよ? そのスキルに加え、『呪具師』グルービー・ガムレットが製作した鋼糸用の専用指輪があって、初めてヤエちゃんの凄腕シノビメイドぶりが発揮されるんです。そんな私を捕まえて、あろうことかゾッダ虫ですか?」
「長くて半分くれー話が入ってこねーよ。結局、なんだって?」
「愛用の糸をばっちいので汚したくないのでや~です」
そう言って、指輪を嵌めた両手を背中に引っ込めて顔を背けるヤエに、フェルトは「わーったわーった」と気のない風に返事をする。ちらとさっきの影を追えば、右、左、どうやら見失ってしまったらしい。それはそれで嫌な気持ちになる。
「アタシから見えなくなっても、この世から消えてなくなったわけじゃねーかんな……消えてなくなるどころか、アイツら、たまに人の顔目掛けて飛んできやがるし」
「わかります。そうなったらもう、死を覚悟しますよね~」
「しねーよって言いてーとこだけど、すんな、覚悟」
心境的には覚悟というより、諦めとか絶望の方が合ってる気がする。
ともあれ、見かけたゾッダ虫の影に、思わぬヤエとの共通見解を芽生えさせながら、フェルトは改めて館――王都の、バーリエル別邸の内装を眺める。
王都以外で暮らすルグニカ貴族の一部は、王都の貴族街に滞在用の別邸を持つ。フェルトが初めてラインハルトに拉致監禁されたアストレア邸もそうだったが、この館――プリシラ・バーリエルが建てさせた館も、同じ目的で建てられたものだ。
「あのお姫様のこった。自分が暮らしてねー間も手入れは欠かさずさせてただろーに、ゾッダ虫がうろついてるなんてなっちゃいねーな。それとも、主人が死んだら速攻でメイドがやる気なくしたかよ」
「おっと、挑発のためでも、アル様のいるところではそんなこと言わない方がいいですよ~? すごく性格悪い人みたいに聞こえちゃいますし、奥様の悪口言われるの、私もいい気とかしませんし~?」
「へえ? 兜ヤローを怒らせんなって?」
「いえいえ、アル様は怒りませんよ、きっと。でも、傷付かれると思います。それ、私としては歓迎できないんですよね」
わずかに声の調子を落とし、やり取りの最後にヤエが小首を傾げる。途端、フェルトは自分の首にわずかに緊張を覚え、見えづらい糸の存在を命で感じ取った。
ゾッダ虫への使用を躊躇った鋼糸、それがまたフェルトの首に絡みついている。
「アタシに危害加えても、兜ヤローはおかんむりなんじゃねーの?」
「かもですね。だからって、フェルト様に言いたい放題させておくのも、主の万難を排する万能お役立ちメイドとして問題あるんじゃないです?」
「主、ってのに違和感があんな。お前と兜ヤローの関係は主と従者ってんじゃねーだろ。つっても、安全圏から偉そうにうだうだ言うのがダセーってのはわかる話だ」
そう答えながら両手を上げて、フェルトはヤエに抵抗の意思がないことを示す。その様子をしばし眺めたあと、ヤエが肩をすくめて鋼糸を引っ込めた。
それでも、フェルトが何か不審な動きをすれば、彼女は容赦なく糸を飛ばし、見せしめに指の一本、必要なら手足の一本くらいは切り飛ばして意思表明をするだろう。――その速度と正確性が見て取れた分、挑発した甲斐はあった。
「わかっちゃいたが、アタシの手に負える相手じゃねーな……」
現状、このバーリエル別邸に控えているのはフェルトとヤエの二人だけ。
もしもフェルトがヤエの目を盗むか、あるいはヤエを一人で打倒できるなら、フェルト陣営の動きを牽制するための、囚われのお姫様状態から逃れられるのだが。
「負けん気が強いのはさすが王選候補者、なんて従者魂が高貴な精神性に惚れ惚れしたくなりますけど、無茶なこと考えないでくださいね~? 荒くれ者とかハインケル様とか、糸で括ったり斬り飛ばしたりしても胸の痛まない方々っていますけど、私、可愛らしい女性の方とかにそれをするの、好きじゃないんです」
「そーかよ。なら、これも覚えとけ。アタシも、可愛いとか可憐とかよくお似合いですとかって言葉が好きじゃねーんだ。言われた数、覚えてっかんな」
「ひゃ~、怖い。ちなみに数えてどうなさるんです?」
「やり返せるときがきたら、その数だけ尻を蹴っ飛ばす」
ちなみに、すでにヤエもフェルトの中では三回尻を蹴飛ばすのが決まっている。兜ヤロー――アルデバランや『神龍』、ハインケルにもそれぞれ数えた雪辱がある。
フェルトは貸し借りはきっちり清算する。恩も恨みも、区別はない。
「龍の、ましてや『神龍』の尻を蹴り上げられることなんて滅多にねーだろーしな。そう考えてっと、人質にされてても結構笑えんだろ?」
「タフですね~、メンタル強者すぎてヤエちゃんもたじたじですよ。そうじゃなくても、口説かれるのが怖くて、フェルト様とボル様を近付けたくないんですから」
「だからって、『神龍』の面倒を見るのをラインハルトの親父にやらせんのは、アタシに言わせりゃだいぶ趣味がわりーと思うけどな」
「ハインケル様は『龍の血』欲しさで喉から手が二本も三本も出そうですもんね。早まって、うっかりボル様に斬りかかったりしてないといいですけど」
唇に指を立てて、悪戯っぽく微笑むヤエだが、その内容に可愛げがまるでない。
実際のところ、ヤエからすれば、仮に今の想像が実現していても――つまり、無謀に走ったハインケルが『神龍』に殺されても、特に問題ないということだろう。一応、仲間のはずのハインケルへの態度も含め、やはり意地の悪い振り分け方だ。
無論、『神龍』は王都に近付けるには目立ちすぎるので、その心を惑わすフェルトと一緒にしておきたくない以上、組み分けが偏るのは仕方のない話だが。
「フェルト様は傾国の美女ならぬ、傾龍の美少女であられますから」
「一回、尻蹴飛ばす数が増えたぞ。……ホントのとこ、あの親父が欲しがってる『龍の血』ってのは、あのとぼけた『神龍』から採れんのか?」
「さあ? あ~、でももしダメでも、そのときはお城のどこかに保管されてるっていう、古い方の『龍の血』を回収してでもアル様は約束をお守りになるつもりですよ。なので、眠ってるハインケル様の奥方様はお目覚めになられるはずです。フェルト様的には、そのやり方にご納得いただけてないんですよね?」
「そーだな。正直、好かねーやり方だ」
それについては、うだうだと言い訳をしていたハインケルにも直接言った。
フェルトはそのやり方を好かない。だが、当事者が考えて、行動して、決断したことを部外者が頭ごなしに否定するのも筋違いだと思う。
だからフェルトは、ラインハルトの母親を目覚めさせるにしても、ハインケルとは別の道を辿って、その山頂に辿り着くことを目指したい。
「――? なんだよ」
ふと、応接間のソファにだらしなく座るフェルトは、自分をしげしげと眺めているヤエの視線に気付いて眉を顰める。
そのフェルトの反応に、ヤエは「いえいえ~」と首を横に振り、
「意外に思っただけでして。フェルト様が、ハインケル様の奥方様……つまり、『剣聖』様のお母様を目覚めさせようと思われているなんて」
「……あのヤローはな、アタシら全員で飯食うとき、アタシの横に座んだよ」
「――?」
一見、無関係に聞こえるフェルトの話に、ヤエが不思議そうな顔をする。そのヤエの様子を余所に、フェルトは話を続ける。
フェルト陣営では、食事のときにはフラムとグラシスが呼びにきて、一応は上座が定位置のフェルト以外は、早く食堂にきた奴から席を埋めていくのがお約束だ。その上座に座るフェルトの横には、大抵の場合はラインハルトが座っている。
そして――、
「飯食ってる間、アイツの横っ面はアタシの一番よく見えるとこにあんだ。その面が、多少なりマシになった方が食う飯がうめーじゃねーか」
「……美少女は訂正します。フェルト様はイケメンですね~」
「何言われたのかわかんねーけど、尻蹴る回数は増やしとく」
「え~、なんでですか~!」
不満げに唇を尖らせたヤエに、フェルトは顔を背けてそれ以上は答えない。
人質状態には慣れている、なんて不名誉でしかない話だが、その状態で精神的に余裕を保つコツは、何もかもをペラペラと話しすぎないことだ。
そうして、魚を釣った相手をそこそこに焦らしていると――、
「はいはい、ご機嫌を損ねたならごめんなさいでした。とりあえず、どぞ」
言いながら、ヤエがそっと差し出してきた銀の盆、そこにはパンに焼いた具を挟んだ軽食の挟み焼きが置かれていて、フェルトの腹の虫がくーとなる。
その音にヤエが小さく笑い、
「こんなところにもゾッダ虫ですか?」
「アイツらはどこにでもいっかんな。アタシの腹の中にも……って、気持ちわりー想像させるんじゃねーよ。とっとと寄越せ」
からかい口調のヤエを睨み、彼女の手から銀の盆を奪い取る。ほんのりと温かな香りを漂わせる挟み焼きにかぶりつくと、味は濃すぎず薄すぎずのいい感じ。フェルトの好みには合った味で、目の合ったヤエは笑顔で親指を立てた。
「どです、挟み焼き。なんとヤエちゃんの唯一の得意料理ですよ~」
「うめーよ……けど、唯一ってなると話変わってくんな。一応、メイドだろ? それともメイドってのは嘘で、やっぱり殺し屋かなんかかよ」
「う~ん、暗殺もシノビのメインのお仕事の一つなんですけど、私がメイドなのはホントのお話ですよ。ちょこ~っと作るよりも片付ける方が得意ってだけで。あ、得意料理が挟み焼きだけっていうのは嘘でした。重ね包みも得意です」
「結局、パンに具挟むだけなのは変わんねーじゃねーか」
ちなみに、重ね包みの方は挟む具材に野菜が多め、ぐらいがフェルトの印象だ。実際のところ、挟み焼きと重ね包みの細かい違いなんてよくはわからない。
ともあれ、捕まえた立場の人質にもちゃんと食事が出されるのには安心した。この分なら、アルデバランの話をいちいち嘘っぱちと疑ってかからずに済みそうだ。
ただ、そうなると、今度はこの場にいないアルデバランの行動が問題になる。
フェルトたちと別行動中のアルデバラン、彼が向かった先は――、
「――兜ヤローは本気で、大罪司教を連れ出すつもりでいやがるのかよ?」
信じる、という文脈の話をするなら、その宣言――王都の監獄塔に囚われの大罪司教、その『暴食』を解放しにいったという話も信じることになる。
現在、ルグニカ王国では『憤怒』と『暴食』、二人の大罪司教の身柄を拘束中だ。フェルトもプリステラでは大罪司教と直接交え、その脅威と人でなしぶりに大いに感銘を受けた。世の中には、こんなに手の施しようのない奴らがいたものなのかと。
「アタシはプリステラじゃ『暴食』……捕まってる奴の兄貴だか弟だかと、その妹と面を合わせてる。それに『憤怒』の移送にもラインハルトと付き合った。そのアタシから言わせてもらえりゃ、兜ヤローがしよーとしてることは正気の沙汰じゃねーな」
「それはそうでしょうね~。何事も、大業というものは正気にては為せずです。アル様がここまでしてきたこと全部、常軌を逸した出来事じゃないです?」
「数の問題じゃねーけど、いくつ踏み越えんだって次元になってきてんだろ。しかも、『魔女』の利用はラインハルトの足止め目的って、まだわかる。けど、大罪司教は?」
「当然、それもアル様の目的に必要なんでしょ~ね」
「その具体的なことはテメーも知らねーと」
後ろ手に手を組んだまま、ヤエは微笑んでフェルトの言葉に答えない。
ただ、その答えは予想されたものだった。ヤエがアルデバランに従う真意はわからないが、彼女からはどんな衝撃的な事情があろうと、アルデバランと袂を分かつつもりはないという強烈な意思、執着心を感じる。
だから、その先は答えを待つのではなく、探るのがフェルトの役割だ。
「……『暴食』のヤローは、人の『名前』やら『記憶』やらを行儀悪く食い漁る」
『記憶』を喰らわれたクルシュのように、『名前』を喰らわれたアナスタシアの騎士という話のユリウスのように。そして、スバルが目覚めさせる方法を探し求めていたと聞く、エミリア陣営にいる少女のように。――もしかすると、最後の少女はフェルトたちの知る『眠り姫』と無関係ではないのかもしれないのだから。
いずれにせよ――、
「――何か、喰わせたいモノがある。それ以外で、『暴食』のクソヤローを引っ張り出すなんて真似、するわけがねー」
囚われの身で、不自由を強いられながら、フェルトは魂が屈するのを拒む。
それは、きっとこの世でラインハルトと同じぐらい、あのアルデバランを追い詰めた頼もしいロム爺から教わった、フェルトの人生哲学――『強く生きる』だ。
「あぐ」
豪快に、挟み焼きで腹を満たしながら、フェルトは人生哲学の実現に精を出す。
考えることをやめなければ、足を止めなければ、手を届かせる余地も生まれる。その瞬間に備え、口の端に付いた挟み焼きのタレを舌で舐め取った。
その傍ら――、
「……わ、ホントにゾッダ虫。管理人に暇を出して数日なのに、や~ですね~」
先ほどフェルトが見かけたのと同じヤツか、あるいは違うヤツなのか、人類の天敵を見つけたらしいヤエが嫌そうに顔をしかめ、そんなぼやきをこぼしていた。
△▼△▼△▼△
――そこは狭く、暗く、息苦しい場所だった。
独居房という表現さえ生易しい、閉じ込めたモノを生かしておく意図の感じられない空間。だが、その空間と、そこに隔離されるモノの存在を、残酷や冷徹といった言葉で括るほど暴力的なこともないだろう。
なにせ、そこに囚われていたのは、世界中で数多の悪徳を犯した稀代の冒涜者。
その囚われ方も一般的なそれとは一線を画した、呼吸も拍動も必要としない、存在を世界から隔絶し、封じ込める『黒い棺』だ。故に、その空間に生命を尊ぶ用意は不要。
だからこそ、その場所は命を呪い合うにはこれ以上ないほど適切だった。
「――悪ぃな。オレも、だいぶ鬱憤が溜まっちまってたらしい。加減できなかったわ」
冷たく硬い床に靴音を立てて、狭苦しい部屋の壁に背を預ける。兜の後頭部が壁に当たり、鉄が石壁を打つ音が冷え切った石室の空気を刺々しく揺らした。
その、微かに乱れた息を整えようとする男――アルデバランの足下に、ぐったりとうつ伏せに倒れ込み、息も絶え絶えになっている人影がある。
それこそが、この独房めいた石室を王国から賜った冒涜者。
今しがたアルデバランに完封され、床を舐める羽目になった無様な負け犬――魔女教大罪司教『暴食』担当、ロイ・アルファルドその人であった。
「――――」
息を深く吸って、大きく吐く。
無理やりの深呼吸で乱れた心肺機能を整えたアルデバランは、実時間の一分ほどでずいぶんと荒れ模様になった石室を見回し、肩をすくめた。
壁はひび割れ、床は砕け、手入れの行き届いていない手狭な部屋は足の踏み場もないほど破壊が荒れ狂ったと表現するのが妥当だ。ちゃんとした喫茶店のトイレぐらいの広さしかないが、よくもまあ、ここで大立ち回りなど繰り広げられたものである。
もっとも、立ち回りたくて立ち回ったわけではない大立ち回りだったが。
「……大人しくついてくれば命は取らねぇって、そう言った直後だぞ。反旗を翻すにしても、普通はもうちっとチャンスを待つだろ」
「――。ははァ、面白いこと言うねェ、兜のオジサン」
嘆息気味のアルデバランの言葉に、地べたに大の字のロイが粘っこく嗤った。
うつ伏せの姿勢のまま、ロイはぎらつく眼差しを壁際のアルデバランに向けると、その長い舌でいやらしく舌なめずりをしながら、
「それって、常に飢えて飢えて飢えて飢えて仕方ない僕たちにお預けを覚えろって意味? そんなの、虐待もいいとこじゃァないか」
「生憎と、オレにお前みたいな悪ガキの養育義務はねぇよ。昭和の時代は家族以外の隣近所も躾に参加って話もあるが、ここはルグニカだし、元号も昭和じゃねぇし。ま、これだけぶちのめしたんだ。虐待って言われたら否定できねぇけどな」
兜の金具に手をやり、カチカチと鳴らすアルデバランにロイが「ははッ」と上機嫌。
念入りに両手足をへし折るなんて躾を受けてその態度、まさしく薄気味悪いガキだ。少なくとも、体罰上等の昭和の時代でも、このレベルの躾は許されまい。
とはいえ、ロイ・アルファルドは薄気味悪いガキ以前に大罪司教なので、このぐらいのリスクヘッジは許容範囲としておいてもらいたい。
「まぁ、すんなり話が運ぶとは思っちゃいなかったがよ」
そうこぼすアルデバランは、静かに頭の中で六千二十二でカウントを結ぶ。
もはや説明不要の数字のカウントは、アルデバランが反抗的なロイ・アルファルドを躾け切るのに要した挑戦回数だ。折れた骨や歯の本数まで数え出したら、数字は軽くその数倍になるだろう。悪ガキの躾には、そのぐらいの手がかかった。
「まさか、ラインハルトと似たような試行錯誤させられる羽目になるとはな……」
『悪食』の名をほしいままにするロイ・アルファルド、その『暴食』の権能は喰らった他者の技術や性能を再現する『蝕』の力――故に、ロイは己の内に無数の戦士をストックしているも同然で、通じない戦法を即座に放棄、すぐに新たな手段を持ち出す戦い方は、状況に応じた加護を生やして即応するラインハルトを彷彿とさせるものがあった。
幸い、アルデバランにはラインハルトと戦った十三万以上の経験値がすでにあったので、同じような規格外には四桁台での対処という快挙に成功した。
「とはいえ、お前が捕まったのが塔で戦った直後って話だ。そのあと、碌な治療もされてねぇってなると、まあまあよく健闘してくれたもんだろ」
「えェ? あんな、やることなすこと片っ端から完封されるのなんて、俺たちも初めての経験だったのに、まさかオジサン、僕たちを慰めてくれてるわけ? だったらさァ、俺たちを慰める一番の方法は……」
「暴飲暴食は翌日に響くぜ。耳にするだけで、油物の消化が厳しくなりつつあるオッサン世代には胃袋が竦んじまわぁ」
「つれないねェ」
牙だらけの口で嗤い、ロイがぎょろぎょろとした目でアルデバランを見やる。
その視線の色は、興味と食欲と好奇心と食欲と嗜虐心と食欲と、とにかくアルデバランの背筋に怖気を走らせるフルコース。手足を折られた痛み、それをなお上回る飢餓感がそうさせているのだろうが、どこまでも歪な在り方だ。
それに同情など、抱きたくはない。『魔女』たちと同様、魔女因子に選ばれた大罪司教もまた、生まれついて正常のレールを外れた忌むべきはぐれ者なのだから。
「やれやれ……状況の説明、してほしいか?」
「へェ、してくれるの? なになに、手足へし折ってから子どもに同情しちゃった? でもそうだよね。まともな大人だったら、こんな幼気な子どもの手足をパキポキ折り砕いて平然としてられるはずがないッ。まァ、そんな見た目で頭に兜なんか被っちゃってるオジサンが、まともな大人かは議論の余地ってものがあるけどさァ」
「よく喋りやがる。……ここは、お前が捕まったプレアデス監視塔からずっと離れて、ルグニカの王都だ。お前の片割れは――」
「――あァ、死んだんでしょ?」
「――――」
「それぐらい、僕たちだってちゃんとわかってるって。オジサンが思ってるより、家族の繋がりってのは太くて強い……ごめんごめん、ウソだよ。ただ、ライの魔女因子を感じないからそう思っただけ。それに」
「それに?」
「外からは全然わかんないかもだけど、固められてる側にもちょっとは外を感じられる。あんなカチコチに封じられてるのに、みんなビビっちゃって情けないよねェ」
いやらしく舌なめずりする音を立て、ロイが片割れの死をあっけらかんと語る。その態度に思わずアルデバランは鼻白んだ。
片割れであるライ・バテンカイトス、兄弟の死を平然と受け入れたこともだが、あの『黒い棺』――オル・シャマクと同系統の封印をされながら、外の世界を感じ取る余地があったという証言が、アルデバランを驚かせた。
と、そのアルデバランの驚きを余所に、ロイは「よっと」と体をひっくり返し、仰向けになることで、こちらの姿を逆さに視界に映した。
「あァ、息苦しかった。こっちの方がまだマシ……で? オジサン、俺たちの『記憶』だと確か王選の関係者の一人だったよねェ。それがこうして大罪司教の僕たちを解放しようだなんて、大事なお姫様に悪評が――」
「お前、戦い方だけじゃなく、考え方も色とりどりに取り込んでるはずだろ? 道具だけ揃えて何もできない無能だと思われたくなけりゃ、聞く前に考えてみろ」
「わァ、逆鱗だ。藪蛇かな? いいよ、いいさ、いいとも、いいだろうさ、いいだろうから、いいだろうともさ! これ以上、深く聞きゃしないよ。大事な大事なお姫様が死んじゃって、もうやけっぱちになってるのかなァなんて……ぎッ」
「そうかよ。そうしてもらえると助かるぜ。お気遣いサンキュー」
邪悪な笑みを浮かべたロイの表情が、骨の折れた肩を勢いよく踏まれて盛大に歪む。アルデバランはぐりぐりと踵で折れた骨を丹念に踏み躙り、足を下ろした。
相手は大罪司教だ。わかり切っていた話だが、思惑通りに事を進めるという観点で言えば最悪の相手と言える。封印を解いてやった途端に噛みついてきたのも、予想していたとはいえ、的中して嬉しい類の予想ではもちろんなかった。
大罪司教なんて、計画に必要なファクターでなければ、喜んで棺に閉じ込めたまま、大瀑布にでも投げ落としてやりたい手合いである。
しかし――、
「……ッ、そうまでして俺たちが必要と。難儀だねェ、オジサン」
「口の減らねぇ奴だ。減らし方を親御さんに教わりたいとこだな」
「生みの親? 育ての親? 前者なら、僕たちを産んだときに妹を道連れにして死んだし、後者ならきっとオジサンとは相性悪いんじゃないかなァ」
「どっちにしろ、碌でもなさそうなのはわかった。――仕方ねぇ」
奇跡的に会話こそ成立しているが、受け答えに得られるものは何もない。空虚な口数の多さは大罪司教の特徴で、その点は『暴食』も肩書きに偽りなしだ。
募るのは不快感と嫌悪感ばかりで、居心地どころか生き心地を悪くしてくれる。
「――――」
仰向けで寝転がり、まな板の上の鯉状態のロイの傍に歩み寄り、しゃがみ込む。
見下ろしたアルデバランと兜越しに視線を交わし、逆さまのロイは折れた骨を踏まれた痛みもそこそこに、その目を好奇心にぎょろつかせ、
「なになに? オジサン、次は何してくれるわけ? 聞き分けのない子どもを躾けるのに拷問とか? でもさァ、その手の痛みは俺たち慣れっこなんだよねェ」
「安心しろ。オレもお前と同じで、痛みで相手を言いなりにさせるのに不信感がある。気持ちが痛みを上回ったら、それじゃ相手は屈服させられねぇ。だから」
「だからァ?」
「オレがお前を縛るのは、痛みでも情でもねぇよ。――約束だ」
そう言って、アルデバランは兜の顎の部分から親指を差し込み、その指先を噛み切る。鋭い痛みと共に浮かび上がった血の雫、それで濡れた指をロイへと向けた。
そして、倒れ伏した冒涜者の素肌に、その血の浮いた指を押し付けながら、
「余計な抵抗するんじゃねぇぞ。目をつぶってても描けるように練習させられちゃいるが……実際に効果を試すのは、これが初めてなんでな」
「血で子どもの素肌に落書きだなんて、僕たち大罪司教も真っ青な悪趣味ぶりだ。そんな倒錯的な真似までして、俺たちに何をさせたいの? 国でも壊すとか?」
「そんなつもりはねぇし、そっちはやろうと思えば自力でできる。オレがわざわざ、小憎たらしいガキを解放してまでやろうってんだ。お前にしかできないことだよ」
「僕たちにしか、ねェ?」
血の付いた指に体をなぞられながら、こそばゆさを堪能するロイが牙を見せて嗤う。
そのいやらしい目つきが、口調が、発する気配が、アルデバランが言葉にしていない部分を言葉にするよう促してくる。
その促しに従うのは、相手の思惑に乗せられるようで癪だと思いながら、答える。
アルデバランが、ロイ・アルファルドを解放した理由、それは――、
「――お前の権能で喰ってもらいたい相手がいるんだよ。嫌とは言わさねぇぜ」
「ふうん? ま、そうだよね。俺たちを解き放つんだ。それぐらいしかないだろうサ」
寝転んだまま首を傾けて、ロイがアルデバランの要求に頬を歪めた。
それが肯定と否定のどちらの意を込めた笑みだったのか、アルデバランにはわからない。たとえどちらであろうと、ロイの意思は関係ない。
それを呑ませるための手段を、ロイ・アルファルドの肉体に記し、魂に刻んだ。
「――誓約の呪印だ。それも、偏執的ってぐらい徹底したヤツだねェ。これ、オジサンが自力で辿り着いたの? それとも頭のおかしい呪術師の受け売り?」
「受け売りだよ。頭がおかしいのは間違いねぇが、その人は呪術師じゃなかった。魔法使いだよ。この世界で、間違いなく歴代最高の魔法使いだ。性格はともかく」
「誓約の条件はァ?」
「オレの許可なく誰かを喰うなら、魂ごと燃えて死ね」
簡潔に告げて、アルデバランはロイの顔を見ないでその体を肩に担ぎ上げた。
『悪食』なんて好き放題に食い散らかしてきた冒涜者、しかしその体は軽い。一応、ロイの封じられた監獄塔には忍び込んできた立場なので、軽い方が大助かり。
一通りの見張りは気絶させてきたが、帰り道も慎重になるに越したことはない。
「このあとは、ヤエとフェルト嬢ちゃんに合流して――」
王都での対応のため、ヤエにはフェルトの監視を命じ、バーリエル別邸に待機させている。あの館も、元々はライプ・バーリエルが作らせたものだったのが、プリシラの口出しによって予定を大いに変更し、今の形に仕上がった代物。
そこかしこに、プリシラの好んだ意匠の痕跡が残る館であり、拠点が必要だったとはいえ、アルデバランも長居したい場所ではなかった。
だから、早々にヤエたちを拾い、王都の外の『アルデバラン』たちと合流したい。
「そう言えば、さっきも言ったんだけどさァ」
そう内心で考えるアルデバランに、担がれているロイがふとそう切り出した。ちらとアルデバランが横目で窺えば、手足をだらりとさせたロイは床を眺めている。
その視線を辿り、アルデバランは何事かと眉を顰めた。
そこに――、
「オジサンに出される前、あの黒いので固められてる最中も、ぼんやりだけど僕たちは外のことが感じられてた。でも、ここって完全に外と隔離されてるんだよねェ。あの状態じゃ面会なんて以ての外、ネズミどころか虫一匹入ってこないわけ。なのにサ」
「――ぁ?」
「ゾッダ虫、いつの間にかいるなんて珍しいことがあったもんだよねェ」
粘っこいロイの言葉、それはアルデバランの視界に映り込んだ小さな虫と一致する。
冷たい床を這う、不気味で嫌悪感のあるフォルムのそれは、この世界で誰もが忌み嫌う虫であるところのゾッダ虫だ。どこにでもいるゴキブリ相当の虫なのだから、それが監獄塔にいたって何の不思議もない。――と、アルデバランには思えなかった。
「――っ、マズった!」
内心に湧き上がった焦燥、それを持て余したまま、アルデバランは手足の折れたロイを担いでいることの配慮など忘れ、急いで独房を、監獄塔を飛び出す。
一刻も早く、逃げ出さなければ、すでにアルデバランの潜入は筒抜けに――、
「――そこまでよ」
監獄塔の外に踏み出した瞬間、アルデバランの鼓膜をその声が打った。
同時に、痺れるほどの気温の低下を肌で味わい、兜の外側が塔内との温度差で軋む音を立てたのがわかる。ちらほらと周囲には白い粉雪が舞い、季節外れの寒波の到来は、農作物への被害を想像する農家以上に、アルデバランの精神を揺すぶった。
聞き覚えのある、銀鈴の声音。
監獄塔の周辺のだだっ広い庭園、そこに薄く降り積もった雪を踏みしめながら、彼女は颯爽と、その長い銀色の髪を雪景色に煌めかせ、やってくる。
その美しい紫紺の瞳は、常は穏やかで柔らかな光を宿している。――だが、今はそうではなかった。紫紺の瞳は見間違いようがないほど、メラメラと燃えていた。
それは紛れもない、彼女の怒りそのもので――、
「――スバルと、ベアトリスを返して」
静かで、堂々たる意思の表明、それはある種の王者にだけ許された風格。
一瞬でも、そう錯覚させるほどに、そこに佇む彼女は美しく、麗しく、気高かった。
「――――」
白い息を吐き、立ち尽くしてしまうアルデバラン。そのアルデバランを正面に、雪の上に立つ『氷結の魔女』――エミリアが、形のいい眉をきりりと立て、告げる。
「私、今すごーく怒ってるから、相手がアルでも手加減してあげられないの」




