リゼロEX 『ゼロカラアザムクイセカイセイカツ』
恒例のエイプリルフール企画、ギリギリの当日更新です!
今回のお話は、これまでにもあったIFストーリーの系列ですが、ちょっと毛色の違ったタイプのお話になります。もちろん、書きたいと思ったから思うがままに書きました。
それがいったいどんな物語なのか、楽しんであとがきで会えれば幸いです!
――それは、ありえたボタンの掛け違い。
歯車の狂い一つで物語は大きく捻じ曲がり、運命のレールは容易く行き方を変える。
起こるはずの流れが変われば、宿命の奔流は人を木の葉の如く翻弄する。
それでもなお、まつろわぬままに変わらぬ彼岸に辿り着くことがあるとしたら。
それはきっと、決して揺るがぬ強固な望みが、その天命を欺き切ったときだけ。
その、一世一代の嘘こそが、男の生涯の意味なのだ。
△▼△▼△▼△
「はぁ、はぁ……っ!」
息を弾ませ、懸命に懸命に、幼子の手を引いて少女は走る。
必死に、全力で、それでも遅い。少女は片足が不自由で、ここは見知らぬ土地だ。――否、それを言い出せば、少女にとってここは見知らぬ世界だった。
何一つ見覚えのない場所、何一つわからない事情、何一つ知らない己の立場。
そして――、
「うー! うー、あーう!」
少女に手を引かれ、言葉にならない声を上げ続ける幼子の、名前さえもわからない。
「――っ」
きゅっと唇を噛みしめ、脳裏に差し込んだ弱気を追い払い、少女は前を向く。
確かに、今の自分には何もかもがわからない。しかし、わかることもある。この幼子の手を放してはいけないことと、走り続けなければならないこと。
それはわからないだらけの中、少女の本能が訴えかけてくる逃走心。逃げることが、それだけが、今の自分に許された抵抗の意思を表明する手段だった。
「あの、人は……っ」
息切れする肺の痛みを味わいながら、少女は混迷を極める心中に一人を思い描く。それは黒髪の、目つきの悪い少年の形をした、負の衝動と奇妙な感慨をもたらす存在――、
「――あ、やっぱり鬼だ。珍しい」
「――ッ」
不意に、思考に割り込んだ呑気な声に戦慄し、少女がハッと振り返る。
少女の薄青の瞳に映り込んだのは、その傍らに並走――否、並飛行する眼帯をした隻眼の女性だ。褐色の肌の多くを風に晒し、犬人特有の獣耳を生やした美しい女性。長い木の枝を片手に空を飛ぶ女性の登場に、少女に手を引かれる幼子も悲鳴を上げる。
その悲鳴を聞いた瞬間、少女は反射的に空いた手で女性を振り払おうとした。
しかし――、
「――? 当たらない。残念だけど」
姿勢の崩れた腕の一振りを呆気なく受け止められ、逆に引き寄せられる。
顔と顔とが鼻先で触れ合いそうなほど近付き、女性の眼帯に覆われていない方の赤い瞳に、少女は自分の顔が映り込んでいるのを見た。
見覚えのない、顔。――世界だけでなく、自分自身もわからない、少女の顔が。
「捕まえてこいって言われてるから」
「――ぁ」
自分の顔を認識した直後、胸の中心に女性の指がトンと当てられ、指先からの細い衝撃が体内を駆け巡るのを少女は味わった。
それはいともあっさりと、少女の手足から力を奪い、その場に膝を屈させる。
「う!」
「そっちの子も」
頽れた少女の横で、勇ましい幼子が女性に飛びかかっていた。
だが、女性はそれをまさに赤子の手をひねるみたいに楽々と受け止め、幼子も少女と同じ衝撃を額に浴び、「あーうー?」と力が抜けたようにぺたりと倒れる。
結果、少女と幼子の逃走劇は呆気ない幕引きとなる。
「あなた、は……」
「心配しなくても、悪いようには……わからない。ごめん」
目を回している幼子の方に這いずりながら、声を絞り出す少女に女性が謝る。だが、それは決して気休めではなく、謝罪で救われる心地も何もなかった。
それを誠実さと取るか、不器用さと取るか、いずれも少女には選べない。
ただゆっくりと、先に意識をなくした幼子と同じように、現実が遠ざかっていく。
「いくね、鬼の子」
「わた、しは……」
ひょいと、体が女性に抱えられる感覚があったが、抵抗はできない。徐々に白んでいく意識の傍らで、少女の唇が弱々しく震えた。
鬼と、そう呼ばれてもピンとこない。かといって、他の呼ばれ方など――、
「――レム」
それは、ひどくおぞましい臭いに包まれた、黒髪の少年が口にした名前。
たぶん、何かの錯覚だろう。――それが一番、何もない空っぽな自分にとって、なんだか耳馴染みのする呼び名に思えたなんてことは。
△▼△▼△▼△
――マズいことになった。
脳裏を稲妻のように駆け巡る戦慄と警戒の共鳴に、ナツキ・スバルは急き立てられる。
何故、何故、何故と、そんな疑問に足を止めている暇など一切ない。
直前の出来事への思考の整理、待ち望んだ再会の機会の訪れと、それが望んだ最上の形で叶わなかったことの悲しみ。その悲嘆を押し隠し、離れ離れになってしまった大事な人たちを思うことで、理不尽で不条理な袋小路に抗う覚悟を決める――はずだった。
だがしかし――、
「かかかっか! 若ぇってのはおっかねえのな! さすがのワシも、こんだけの無茶無理無謀は初めて見たんじゃぜ。すげえすげえ」
豪快に笑う嗄れ声には、心の臓を貫く鋼の手刀が付き添っていた。
背中から入った貫手に体を貫通され、自分の胸から心臓が抜き出される光景を目の当たりにしながら、スバルは激痛とショックの中で即死する。
× × ×
「お前みたいなニンゲンが、どうやって竜たちの目を掻い潜ったっちゃ? わからないっちゃが、わからないのが不敬極まりないっちゃ」
可憐な見てくれをした破壊的存在の癇癪は、腕の一振りに豪風を纏っていた。
直接、その細腕に触れるまでもなく、細腕の巻き起こした暴風に体を持っていかれ、全身を城壁に叩き付けられ、スバルは全身の骨が砕ける痛みを味わい、即死する。
× × ×
「欺いた、私の目を。わからない、どうやってか。怖い」
美しい庭園の可変する石像は恐怖を訴え、大理石の柱みたいな腕を振り下ろした。
一度、二度までは飛びずさって躱せたが、それが何度も続くものでもない。三発目が足を掠めた途端に動けなくなり、四発目を直撃され、スバルは本来の十分の一くらいの大きさまで圧縮され、即死する。
× × ×
「――! 何奴か! ここをどなたの城と心得る、痴れ者め!」
勇ましく、融通の利かない正当な怒りには、鋭い棘が刃の如く閃いていた。
その棘に覆われた紫色の茨に全身を搦め捕られ、肉という肉を引き裂かれながら、スバルは失われる血と、意思を持ったようにのたくる茨の棘に傷を蝕まれ、耐え難い痛みに意識を砕かれながら、絶命する。
× × ×
「いたぞ! 逃がすな!!」
「不届き者が!」
「逃げられると思うてか!」
研ぎ澄まされた戦意を宿し、獲物を駆り立てる鋼の担い手たちに追い詰められる。
四方を囲まれて逃げ場を失い、弁明に耳を貸されることもなく、突き出される刃に全身を突き刺され、致命傷という致命傷を浴びながら、スバルは倒れ、絶命する。
× × ×
「そもそもの――」
最初の選択を誤ったかと、五度の『死』を繰り返し、スバルは歯噛みする。
『死に戻り』の新たなる開始地点、そこでスバルはすでに一人だった。――ここで一人になってしまったのが、そもそもの間違いだったかもしれない。
今この瞬間にも、彼女がスバルと同じ目に遭っている可能性を考えると、それだけで心がひび割れ、砕け散りかねないほど動揺する。
必要なものは、なんだ。
得なければならない、可能性はなんだ。
辿り着かなければならない、チェックポイントはどこだ。
あまりにもか細く頼りない綱渡りをして、何としても対岸に行き着かなくてはならないスバルは、いったい何に届くことができればいいのか。
「――――」
人目を引き付けなければならない状況で、しかし、不用意に動けばスバルの実力では到底どうにもならないような猛者に阻まれ、呆気なく命を奪われる。
敵は大勢いる。そしてただの一人も容赦がない。――相手を殺すということに、一切の躊躇いがないものたちが、スバルの道を塞いでいる。
それを打破するために、乗り越えるために、細く小さな可能性の隙間を――、
「――――」
丁寧に整えられた芝の上を走り、スバルはこれまでの閉ざされていた道のいずれとも違う方角へ向かい、そこに豪奢な離宮を見つける。
派手で美しく、しかし直前までスバルが試行錯誤していた城に比べれば派手さのないそれは、多少なり警備の緩いものであると期待できるものだった。
そこでせめて、何か情報の一つでも得られればいい。――そのつもりで、スバルは人気のない位置の窓を割り、鍵を開けて離宮の中へと転がり込んだ。
次の瞬間――、
「――痴れ者が」
窓枠を乗り越え、床に爪先がつくかどうかというところだった。
その、重たく険しい声が聞こえた直後、スバルの足が横から刈られ、容赦なく頭から床に叩き付けられる。
「おごぁっ」
苦鳴を漏らし、視界が赤く明滅した瞬間、最悪の想像が脳裏を過った。
なにせここまで、ほんの十分ほどの間に、スバルは全部違った相手に、違った方法で命を奪われるという終わりを繰り返したのだ。
それが、ここでも同じ木阿弥になると、痛みの中で覚悟したのも無理はなかった。
だが――、
「貴様、どうやって警備を掻い潜り、ここまで乗り込んできた」
訪れると思った『死』の衝撃は降りかからず、代わりにあったのは問いかけだった。
痛みに顔をしかめながら、スバルは大の字に転がった床の上で、自分に問いを投げかける相手――離宮に忍び込んだスバルを迎え撃った、その相手の姿を目にする。
「――――」
そこに立っていたのは、黒髪に黒い瞳をした、恐ろしく怜悧な印象に整った容貌の美丈夫だった。仕立ての良さが一目で伝わってくる紅の装いに袖を通したその人物は、猛禽類のように鋭い眼差しで油断なくスバルを見下ろしている。
その眼光に意識を奪われ、スバルは射竦められたように身動きを止めた。――だが、スバルの身動きを封じたのは、美丈夫の眼差しだけが原因ではなかった。
「余の問いが聞こえなんだか。何一つ答えを返さぬとは、不敬であろうが」
厳かな声と言葉遣いで、美丈夫はスバルの運命を酷薄に決めようとしている。
しかし、スバルの意識はその残酷な事実より、目の前の異変――こちらを見下ろした美丈夫の傍ら、そこに置かれた姿見の中の摩訶不思議に囚われていた。
姿見の中、映り込んでいる黒髪の美丈夫の姿が、違っているのだ。――そこには、映り込む黒髪の美丈夫より背の高い、白髪に白い服、白い面の男が映っている。
その奇妙さに息を呑むスバルに、現実の美丈夫が片目をつむり、爪先を鳴らした。
そして最後通牒のように、今一度、問いを発する。
「三度目はない。心して、余の問いに答えよ」
重ねられたそれに、スバルは目を瞬かせ、意識を現実に引き戻された。
そのときには、今さっきまで見えていた姿見の中の白い男の姿はどこにもなく、あるのは恐ろしく威圧的な態度でこちらを見据える美丈夫の姿のみ。
それを前に、スバルは息を呑み、それから、言った。
「――俺の名前はナツキ・スバルだ」
それは、美丈夫が口にしたいずれの問いの答えにも不適当なものだった。
スバル自身も、どうしてここで自分の名前を、それも偽らずにそれを名乗ったのか、あとから思い返しても真っ当な理由を思いつくことができなかった。
ただ、発作的に、反射的に、短時間で理不尽かつ不条理な『死』を何度も重ね、わやくちゃになった頭が導き出した、直感的な答えだったのだろうとしか。
そんな、相手の神経を逆撫でしかねないスバルの答えを聞いて、美丈夫は――、
「――ルグニカの、『幼女使い』だと?」
そう、形のいい眉を顰め、そのあらゆるこの世の出来事を全部自分の掌の上に置いているような傲岸さの塊みたいな顔に、似合わない困惑の色を浮かべて呟いた。
――それこそが、最初のボタンの掛け違い。
神聖ヴォラキア帝国へ予期せぬ形で飛ばされてきたナツキ・スバルと、剣狼の国の頂である『ヴィンセント・ヴォラキア』――本来なら交わらぬ宿業を交えた二人の、運命を欺く者同士の出会いであった。
△▼△▼△▼△
「――連れてきた」
そう言って、離宮の執務室に堂々と足を踏み入れたのは、褐色の肌に異様な露出度、左目に眼帯をした犬耳と、属性の過積載すぎる少女だった。
その少女の登場に驚いたスバルは、しかし彼女が細い肩にレムを担ぎ、小脇に余計な一人を抱えているのを見て、「レム!」と慌てて駆け寄った。
「どこも怪我して……おぽっさむっ」
「ビックリするから、いきなりはダメ」
無事を確かめようとした途端、無防備な鳩尾に爪先をねじ込まれ、スバルは悶絶。
眼帯の少女は無造作に素足を持ち上げただけだったが、脚力ではなく、的確に急所を抉る技術――否、そんな計算もないえげつない天性の足技だった。
だが、スバルは衝撃に内臓を抉られながらも、少女の肩に担われたレムによろよろと歩み寄り、その頬の赤みと息遣いを確かめ、安堵の息をこぼす。
「……何とも、なさそうだ。ちゃんと起きてくれる、よな?」
「寝かせただけ。すぐ起きる。こっちの子も」
「そっちはどうでもいい。むしろ、そっちは永遠に寝ててもらってもいいぐらいだ」
「……関係、複雑?」
「でもない。レムは大事、そっちは大事じゃない。それだけ」
レムの反対の腕、少女の小脇に抱えられた金髪の娘にスバルは険しい目を向ける。
その断言に少女は赤い隻眼を丸くし、唇を曲げた。どうやらスバルの答えがお気に召さなかったらしいが、本音なので申し訳ない。
でも、取り繕うのは無理だ。――健気で無害で一生懸命で優しいレムと違い、そちらの娘は許し難い罪を重ねすぎた大悪人なのだから。
「――ルイ・アルネブ」
ぼそりとスバルが呟くそれが、娘――『暴食』の大罪司教である彼女の名だ。
今は眠っているようだが、プレアデス監視塔での攻防戦で散々スバルを苦しめ、地獄を味わわせてくれた敵の一人。実体のない存在だったはずの彼女が、どういうわけか現実の体を持って顕現しているのは謎だが、碌な企みであるはずもない。
いずれにせよ――、
「レムを傷付けないでくれてありがとう。君は……」
「アラキア」
「ありがとう、アラキアちゃん! 恩に着る!」
深々と頭を下げ、スバルは少女――アラキアに感謝の意を告げる。
直前の、ルイの扱いのことでスバルに好感は抱いていないだろうが、スバルの方からアラキアには強い感謝の念と恩を覚えている。
そして、アラキアにそうするよう命じてくれたのが――、
「助かりました。ええと……」
「――ヴィンセント・ヴォラキアだ」
「――――」
「神聖ヴォラキア帝国、第七十七代皇帝、ヴィンセント・ヴォラキアだ」
重ねて、スバルにそう名乗ったのは、黒檀の机の向こうに座った黒髪の美丈夫。
離宮に忍び込んだスバルを迎え撃ち、あと一歩のところで無礼討ち寸前までいった人物であり、今しがた名乗ったそれが事実なら、帝国の最高権力者。
「アラキアちゃん?」
「本当。……ちょっと嘘?」
「ちょっと嘘?」
「アラキア、余計な口を叩かぬことだ。――貴様が真に欲するものを取り返さんと望むのならば、余の機嫌は損ねぬよう立ち回れ」
「……ん」
確認の意を込めたスバルに応じたアラキアが、そう美丈夫――ヴィンセントに窘められ、ちょっと不服そうな顔で頷いた。
そのままアラキアは応接用のソファに、レムとルイの二人を下ろし、寝かせる。スバルとしては、できるだけ寝ている二人を引き離したかったが、それを主張できる空気でも立場でもなかったので、ぐっと握り拳を固めるだけで堪えた。
なにせ、ここは神聖ヴォラキア帝国。
スバルが一年かけて学んだ異世界の文化や常識、それがまた土壌から異なる、ルグニカ王国の隣国の、やんごとなき立場の人物がおわす帝都なのだから。
「それで? 『幼女使い』、今一度、説明してみよ」
「……そっちより、ナツキ・スバルの方で呼んでくれませんかね。今は見ての通り、その肩書きに相応しいラブリーチャーミーなプリティーガールが傍にいないもんで」
「この子は?」
「ラブリーでもチャーミーでもプリティーでもないガールだよ」
ルイを指差し、そう尋ねてくるアラキアにスバルは素っ気なく応じる。それから改めて視線をヴィンセントに向けると、皇帝は黒瞳の片目をつむり、
「話せ、ナツキ・スバル」
「……何回聞かれても、あまり変わらないですよ。俺たちは、ルグニカの東の端っこにある『賢者』の塔にいた。塔で色々あったけど、それは割愛して……最後は、大瀑布の近くにある祠から『嫉妬の魔女』が一部溢れて、俺たちを呑み込んだんです。それで、気付いたらこの城の敷地に飛ばされてて……」
「……嘘みたいな話。嘘?」
「俺も言っててめちゃめちゃ怪しいと思うけど、逆にここまで嘘でしかない話を俺が口にする理由がなくないってとこで、信じてほしい……!」
事実を並べたはずなのだが、真っ当にアラキアに疑われる始末だ。
しかし、事情を説明してほしいのはむしろ当事者のスバルの方である。プレアデス監視塔での『暴食』たちとの戦いを終え、失いたくなかった相手を『試験』の名目で失って、ささくれ立った心が落ち着く兆しを見せた矢先の出来事で。
「今頃、エミリアたんもベア子たちも相当心配してるだろうな……まさか、いつの間にか帝国にきてて、しかもそれが帝都の城の敷地って」
「潜入の手際に反して、言い訳の程度が低い間者というのが目下、最有力であろうよ。見所があるとすれば、自らをナツキ・スバルであると名乗ったことか」
「……嘘じゃなくて本当なんだけど、それ、そんなに意味あることでした?」
「『幼女使い』が王選の候補者の一の騎士であることは、帝国にも知られた話だ。魔女教や三大魔獣の脅威は、ヴォラキアとて対岸のものではない」
「なるほど……」
「帝国と王国との間には、不戦の協定が結ばれている。貴様らの存在一つで、そちらが協定を破ったと、そう言い張ってやることもできるが……」
「いや、それはその、ご勘弁してもらいたい」
スバルが迂闊に名乗ったのが原因で、二国が戦争状態に突入なんてたまったものではない。そもそも、今回のことは本当に不幸な行き違い、予想外の事故なのだ。
それを説明する手立てがスバルになく、嘘みたいな事実を本当のことだと必死に訴える以外に手立てがないのが情けないのだが――、
「おーやおや、それは少しばかり脅しすぎじゃありませんか、閣下。今、王国と事を構えている余裕なんて、ぼかぁ、あるとは思えませんねえ」
「――! だ、誰だ!?」
不意の第三者の声に、肩を跳ねさせたスバルが振り向く。すると、執務室の扉が少しだけ開いて、その隙間から中を覗き込む不審者と目が合った。
目の合った不審者はひらひらとスバルに手を振り、開き直った笑顔で扉を開ける。そしてのしのしと、執務室に堂々と足を踏み入れ、
「天命に従い、まかり越してございます、閣下」
「呼んだ覚えはないがな」
「言ったじゃーないですか。天命に従い、ですよ。ぼかぁ、滅多にお鉢が回ってこないんですから、たまの機会にはちゃんと『星詠み』として振る舞わせてもらわないと」
皇帝であるヴィンセント相手に、へらへらとした笑みで応じるのは灰色の髪を伸ばした柔和な顔立ちの優男だ。
城内で見かけた兵士とも、出くわした何人かの超越者とも違った雰囲気の持ち主で、スバルの見たところ、戦える手合いではないようだが。
「ええと、この人は……」
「嫌い」
「好き嫌いじゃなく、立場的なものが知りたい」
「ああ、すみませんすみません。ぼかぁ、こういうときに気が回らなくて。一応、この水晶宮で『星詠み』をさせてもらっているウビルクってーものです。どうぞ、お見知りおきください、王国の『星詠み』さん」
「王国の、『星詠み』?」
へらへらとした笑みのまま、優男――ウビルクと名乗った彼にそう呼ばれ、スバルは心当たりのない響きに首をひねった。
しかし、その意味をスバルが確かめる前に、
「ナツキ・スバルが『星詠み』だと? 確かか?」
「確かかどうかと言われると、王国は担当外なので確かめる術はないんですが……それに関しては閣下も近い推論を立てていた、とぼかぁ睨んでます」
「貴様の如き星の操り人形が、余の思惑を推し量れると?」
「そーんなそんな、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下のお考えを推し量れるなんて、そんな高望みをぼかぁしませんよ。……ただ、口添えを」
「――。言ってみるがいい」
「星を詠みました。――彼は、閣下のお役に立ちまーすよ」
顎をしゃくり、ウビルクが軽い調子でスバルのことをそう評する。それを受け、スバルは自分を指差し、「俺?」と思わず口にしていた。
正直、詳細不明の『星詠み』扱いと合わせ、スバルの話なのに、スバルの頭を飛び越えたやり取りが交わされていたものと思ったが。
「王国との関係を思えば、後顧の憂いを断つつもりが消えない因縁を生みかねない。ならいっそ、手札に加えるというのがぼかぁ賢いかと。ちょうど手頃な人質もいるじゃーないですか。お互い、話が早いでしょう?」
「手頃な人質って……まさか、レムのこと言ってんのか? そんなの!」
「ははーは、正直者ですねえ。ここで連れのお嬢さんに人質の価値がないと言い張っていたら、また少し話が変わったかもでしょうに」
「ぐ、ぬ……っ」
「そーれとも、今から言い換えてみますか? 連れのお嬢さんは、ナツキ・スバルさんにとって無価値な存在だと……」
「は? レムは俺の命に代えても惜しくないくらい尊い存在なんですが?」
まんまとそう言い返してしまい、ウビルクの笑みが深くなるのを目の当たりにして、スバルは完全に相手の術中に嵌まったと額に手をやった。
とはいえ、ここでレムが自分にとって無価値だなんて、嘘でも言えない。
「俺はオットーじゃねぇんだ。そんな心にもないこと、とても言えねぇ」
『有事の際の駆け引きを、性根の悪さみたいに言われるの納得いかないんですけどねえ!』
ため息をつくスバルの頭の片隅で、イマジナリーオットーが声高に叫んでいる。それを手で退散させながら、スバルはヴィンセントの方を見やる。
ヴィンセントは細い顎先に指を当て、今のウビルクの提案を吟味している様子だ。もっともその顔つきから、すでに答えが出ているのは察しがついた。
そして案の定――、
「――ナツキ・スバル、貴様の置かれた状況は決して明るくない。先ほどの程度の低い事情の説明の真偽がどうあれ、余の国に足を踏み入れたのは事実だ。それも、これより帝国が戦時下となる、またとない国難の最中にな」
「戦時下って……それ、戦争になるってことか!? 誰と……どこと!?」
「ここだ」
慌てふためき、敬語の抜けたスバルを咎めず、ヴィンセントが爪先で床を叩いた。それが自分の問いへの答えと一瞬繋がらず、スバルは目を瞬かせる。
が、すぐにその意味合いが理解に達し、
「ここって……まさか、帝国の、内紛?」
「そうだ。この帝国の玉座を巡り、皇帝と謀反者とが相争うこととなる」
「――――」
戦争を、それも内戦の事実を肯定され、スバルは思わず絶句した。その、言葉もないスバルに手を差し伸べ、ヴィンセントが告げる。
猛禽類のような、絶対的強者の眼光と顔つきで、ヴォラキア皇帝が、告げる。
「どのような経緯であれ、生き延びたくば付き合ってもらうぞ、ナツキ・スバル。――他ならぬヴィンセント・ヴォラキアの手に、在るべき帝国を残すために」
――本気で、マズいことになった。
「――――」
ヴィンセント・ヴォラキアの宣言に、スバルは異世界召喚されて以来、最大級の運命の不条理への怒りを胸中で爆発させていた。
これまでにも、理不尽な事態には多くぶつかってきた。直前の、プレアデス監視塔での苦難など、最多数の理不尽にタコ殴りにされたと言ってもいい。
それでも、それらにはまだ連続性があった。不条理な状況に追い込まれるまでの、段々と状況が悪くなっていく筋道が立っていた、とも言える。
なのに、今回のこれにはそれがない。
スバルがヴォラキア帝国にやってきたのは、何の前触れもないただの不条理だった。これがヴォラキアの帝都ではなく、もっと辺境だったり、あるいはカララギ都市国家や、グステコ聖王国に飛ばされていても不思議はなかったのに、あえて。
これを不条理と呼ばずして、なんと呼ぶか――、
「あ」
「う、ん……」
ふと、何かに気付いたアラキアが声を発し、続いてソファのレムが身じろぎする。
それが覚醒の兆しであるとわかり、スバルは弾かれたようにレムに振り返った。そしてソファの彼女の傍に跪き、睫毛に縁取られた瞼がゆっくり開くのを待つ。薄青の瞳、そこにぼんやりと、自分が映り込むのがわかって、
「レム! よかった、大丈夫か? どこも痛くないか? 怪我とか、具合悪いとこは? もしもどっか異変があるならすぐに……」
「――っ、なんであなたがここにいるんですか!」
「ぐおわう!」
具合の心配をしたのも束の間、目覚めたレムがとっさにスバルを突き飛ばした。その手加減のない威力に吹っ飛ばされるスバル、その軌道上にウビルクがいた。
「あーれー?」と、目を丸くしたウビルクが飛んできたスバルの巻き添えになり、二人はもつれ合いながら部屋の端っこまで転がっていく。
そのスバルたちを余所に、ソファで体を起こしたレムが周囲を窺い、
「あ、あの子はどこに……って、あなたは! さっきの!」
「……閣下?」
「――。ここは皇帝の離宮であるぞ。やかましくて敵わぬ」
アラキアの姿を目の当たりにし、警戒を強めるレム。そのレムの眼差しに、アラキアが眠たげな目をヴィンセントに向けると、皇帝は静かにそう嘆息した。
皇帝の言う通り、どうにも緊張感に欠ける状況だが――、
「うー?」
遅れて目を覚ましたルイが目をこすり、不思議そうにそう首を傾げたのが、一番緊張感に欠ける光景だった。
△▼△▼△▼△
――神聖ヴォラキア帝国の帝都ルプガナ、その北端に居する『水晶宮』の、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下が住まう離宮への不法侵入。
間違いなく七回くらい処刑されそうなそれが、スバルやレムの犯した罪状だった。
帝国法に照らし合わせれば罪人確定のスバルたちだが、それが処刑されずに済んだのは、慈悲深く思いやりに溢れた皇帝の粋な計らい――ではもちろんない。
「私奴としては、あなたのような扱いに不自由する人材は最優先すべき問題が片付くまで軟禁し、議題に加える選択肢自体を排したいところです」
「ものすげぇはっきり、厄介者って言いますね」
「御自身でも御自覚がおありでは? この状況下で、ルグニカの王選に関わる騎士の名を名乗るのは、その真偽に拘らず、いらぬ災禍を招くものだと」
「……残念ながら、王国じゃ道行く人が手を振ってくれるぐらいの知名度なもんで」
そうは言いつつも、スバルもやはり迂闊に名乗ったのは軽率だったかと反省していなくもないのだ。ただ、あの場でナツキ・スバルの名前を出す以外の言動をしていた場合、問答無用でヴィンセントの手にかかっていた恐れもある。
話を聞く姿勢を見せてくれた分、ヴィンセントと対峙したのは正解だったはずだ。
「他は問答無用で命を取りにきたし……」
「むしろ、その首が胴と今もよく繋がっているものと感心いたします。……真っ直ぐ、閣下のおられる離宮に向かった点も、私奴の疑念に一役買っておりますが」
その点に関しては、他のルートが全部バッドルート一直線だった消去法なのだが、この糸目の老人をその説明で納得させられないのは目に見えていた。
帝国宰相、ベルステツ・フォンダルフォン。――それがこの糸目の老人の名前と肩書きであり、部外者であるスバルを警戒するわかりやすい理由だ。
「何を言ってもだと思いますけど、俺に企みとか目論見はないです。本音を言うなら、早くルグニカに帰りたーい、です」
「仰る通り、何を言われてもですな。すでに越境を制限した現在の状況で、工作員の疑いが晴れていない貴方をかの地へ送り返す軽挙をするのも困難です」
「滔々と正論を説かれる……」
甘さのないベルステツの言葉に、スバルはため息をついて肩を落とした。
場所は帝都ルプガナの一角、そこに構えるベルステツの屋敷だ。離宮への不法侵入の罪に対する温情ある沙汰を受けたスバルの身柄は、現在は宰相の屋敷に置かれている。
皇帝であるヴィンセントの覚えめでたいベルステツは、スバルへの警戒を全く緩めないながらも、その身柄の預かりには正しく応じていた。スバルも、疑いを隠さないベルステツの態度には刺々しさを覚えつつ、待遇に大きな不満はない。
強いて言うなら、まんまとヴィンセントの思惑に乗せられ、王国へ帰還するための積極的な行動に打って出ることができずにいるのが悔しいぐらいだ。
あるいは、水晶宮やその離宮以上に物々しい警備の敷かれたベルステツの屋敷、そこにスバルたちの身柄が預けられた最大の理由、それは――、
「――戻ったっちゃ」
ベルステツからの尋問を終え、与えられた部屋に戻ろうとしていた途中、スバルは屋敷の庭園に風を巻いて降り立つ飛竜と、その背から降りる小柄な影を目撃した。
そこにいたのは、空色の髪に黒い二本の角を生やした、可愛らしい装いの少女――その可愛らしさと裏腹に、信じ難い戦闘力を持った竜人だ。
「マデリンちゃん」
「……お前っちゃか、ニンゲン。気安く、竜をちゃん付けするんじゃないっちゃ」
帰還した竜人の少女、マデリンが名前を呼んだスバルに気付き、小さく鼻を鳴らす。
スバルたちと同じく、ベルステツの庇護下にあるらしいマデリンとは、この屋敷でたびたびすれ違い、顔を合わせる機会がある。もっとも、そのたびに彼女の態度はこんな調子で刺々しいものなので、いい関係性を築けているとは言わない。
彼女が刺々しいのはスバルだけでなく、屋敷の誰に対してもだったが――、
「マデリン一将、いかがでしたか? ゴズ一将の解放を求める方々は……」
「蹴散らしてきたっちゃ。言っておくが、竜にお前たちの些細な事情を斟酌してやる義理はないっちゃから、本当に文字通り蹴散らしてきたっちゃよ」
「構いません。皇帝閣下が貴女に鎮圧を命じられ、そのために貴女が必要であると判断したことをなさったなら、それが帝国の正解です」
「ふん、つまらん老いぼれっちゃ」
ベルステツの答えに肩をすくめるマデリン、その彼女の背中には、小柄な彼女に匹敵するぐらいの大きさの武装――ブーメランが背負われている。
ブーメランには所々血が付着していて、拭い切れなかったそれが、二人の会話するところの『鎮圧』と関わっていたのは間違いない。
「マデリン・エッシャルト一将と、ゴズ・ラルフォン一将か……」
小さくそう呟いて、スバルは屋敷を取り囲んだ壁の向こう――整然と建物の並んだ帝都の街並みを思い、そこに渦巻く様々な関係値を頭の中で整理する。
飛ばされてきた当初、ヴォラキア帝国に関する知識をほとんど持たず、右往左往するしかなかったスバルだが、ここ数日の屋敷暮らしのおかげでいくらかわかったこともある。
例えば、目の前のマデリンが帝国でも最強格の存在にしか与えられない一将の位を与えられた、最高戦力の一人である『九神将』の一員であるとか。
あとは、同じ『九神将』の一員であり、『獅子騎士』と名高いゴズ・ラルフォンという人物が皇帝に謀反し、現在は水晶宮の牢獄に繋がれていて、部下たちの信頼篤かったゴズの暴挙に、兵たちの間では混乱が広がっているだとか、そういう話だ。
今しがた、マデリンが蹴散らしてきたというのも、その囚われのゴズの恩赦や、解放を願って直訴する兵たちの一団のことであるらしい。皇帝に刃を向けたゴズに寄り添うということは、彼らもまた叛徒の一員になりかねない資格の持ち主であるのだから、そうした対処もわかると言えばわかるが。
「連日思うけど、文化が違いすぎる……」
ルグニカ王国が、現代日本と遜色のないぐらい安全で平和――なんて、王国で何度も命を落としたスバルとしては口が裂けても言わないが、ヴォラキア帝国は明らかに王国とは違ったルールが敷かれていて、常識と非常識の境目の見極めに大いに苦労する。
だが、弱音を吐いてなんていられない。
「俺がへこたれてたら、レムが困る。レムのためにも……」
「――私が、なんですか?」
「うおひょおほいっ!?」
自分の頬を叩いて気合いを入れた矢先、背後からそう声をかけられ、スバルは両手でほっぺを挟んだまま、あっちょんぶりけ状態で飛び跳ね、振り向く。と、その腰に正面から「うー!」と衝撃に抱き着かれ、危うくひっくり返りそうになる。
「ルイちゃん、あまり近付いてはいけません。また嫌なことを言われますよ」
「うーあう?」
「そうだ。レムの言う通りだ。俺はお前に嫌なことを言う。くっついてくんな」
「あー、あうあーう」
踏みとどまったスバルは、腰にしがみつく少女――ルイの体を引き剥がし、ぽいと真横へ放り出した。くるくると、ルイは猫のような身軽さでそれを躱し、捨て猫みたいな顔をしたあとで、両手を広げた彼女の下へ戻っていく。
そのルイの帰還を抱擁で受け止め、レムは非難の眼差しをスバルに向けながら、
「こんな小さな子に、よくそんなに冷たく当たれますね。理解できません」
「レム、何度も言ってるけど、そいつは子どもに見せかけた爆弾なんだよ。今は大人しくしてるけど、いつ爆発するかわかったもんじゃない。ここは俺を信じて……」
「……こんなに臭いあなたをですか? ありえないです」
「――――」
「なんですか、その感じ入ったような顔は」
「いや、お前に臭い臭いって言われるのも懐かしくて、ついじんとした感動が」
「は?」
ルイを抱きしめたレムからの反応は余所余所しく、おおよそにおいて、スバルの気持ちはあまり前向きに受け止めてもらえていない。
『記憶』がなく、スバルの纏った瘴気だけは感じ取れてしまう鼻のあるレムに、スバルを頭から信じてくれと言っても難しいのは承知しているので、苦しくてもぐっと我慢。
「こんなやり取りもできなかった頃に比べたら、マジで雲泥の差だから……」
「……本当に、あなたがわかりません」
すげなくされても、辛さより嬉しさの方が勝るスバルの反応に、レムは何とも言えない複雑な心境でいるようだ。
それでも、瘴気を理由に彼女がスバルを完全に遠ざけようとしないのは、水晶宮での最初の出来事――ヤバいところに飛ばされてきたと気付いたスバルが囮を買って出て、レムとルイを、厳密にはレムだけだったが、それを逃がそうとしたときの献身を、彼女がちゃんと受け止め、理解しようと努力してくれているからだ。
実際、スバルは幾度も『死に戻り』する羽目になったのだから、あの脅威がレムに降りかからなくて本当に本当に胸を撫で下ろしている。
とはいえ、もう少し歩み寄れると嬉しいのだが。例えば――、
「鬼の娘、竜が戻ったっちゃ。湯浴みを手伝えっちゃ」
「はい、マデリンさん、わかりました」
そんな調子で、わりと横柄な要求にも平然と応えてあげられている、レムとマデリンの関係性ぐらいに。
「マデリン一将とレム殿は、ずいぶんと距離が縮まられた」
今まさに、スバルが思っていた通りのことをベルステツが口にする。ちらとその老人の横顔を見ても、瞳を見せないほど細い糸目からは何も読み取れない。
その二人の関係を歓迎しているのか厭うているのか、それすらも。
「ベルステツさんって、亜人コレクターだったりしませんよね?」
「それが貴重な血統の蒐集家という意味なら、広義の意味で否定はできません。強力な種は個の強さに反し、血を守る力が弱い。帝国の未来を思えば、途絶えることのないよう丁重に扱うべきです」
「帝国の未来っていうと……」
「詳しく御興味が? 王国の『幼女使い』殿」
「ニードナットゥノウ(知る必要のないこと)……」
両手を上げて、スバルは不用意な好奇心を引っ込めたとアピール。
好奇心は猫を殺すというが、それが本気でまかり通るのが帝国のルール。可愛い猫にすら容赦のしない帝国は、可愛くないスバルにも躊躇はないだろう。
ただし――、
「竜人のマデリンちゃんはともかく、鬼族が貴重だろうとなんだろうと、レムは俺のレムだから」
「は? 勝手なことを言わないでください。聞こえてます」
「聞こえないように言ってないからな」
「う!」
耳聡く、こちらの話を聞きつけたレムが、スバルの答えに難しい顔になる。その腰に抱き着くルイは何が楽しいのか、破顔しながらご機嫌な様子だ。スバルにまとわりつかれるのも面倒だが、ああしてレムに懐いた風にされるのもメンタル的にしんどい。
と、スバルが力ずくでルイをレムから引き剥がそうかと思ったときだ。
「ナツキ・スバル殿、いらっしゃるか!」
そう声高に名前を呼ばれ、スバルは何事かと目を丸くする。
振り返れば、屋敷の入口に立つ長身の人影が見え、それが短めの緑髪をした精悍な顔つきの青年であることを見て取り、スバルは唇を曲げた。
あまりはっきりとではないが、青年の顔に見覚えがあった。――一度、殺された仲だ。
「ナツキ・スバルは俺ですが」
「自分はカフマ・イルルクス、栄光あるヴォラキア帝国の二将の位をいただいております。ナツキ・スバル殿、貴公を皇帝閣下がお呼びです」
挙手したスバルの前にやってきて、青年――カフマが丁寧な一礼と共にそう告げる。
皇帝からの呼び出しと聞かされ、スバルは息を呑んだ。数日ぶりの皇帝、忙しく時を過ごしているだろう彼が、無意味にスバルを呼ぶはずもない。
すなわち――、
「カフマ、さんは、皇帝閣下がなんで俺を呼んだのか知って?」
「皇帝閣下のお言葉を、先んじて伝える権限を自分は持ちません。貴公にとって必要なことは、閣下が過たず明かしてくださるかと」
これまで話したものの中でも、最も軍人らしい軍人感のあるカフマの答え。全幅の信頼と忠誠心を皇帝に向けるその在り方は、『獅子騎士』と呼ばれた男が謀反者として囚われる今、騎士のいない帝国唯一の騎士のようですらあった。
いずれにせよ――、
「――レム、ちょっといってくる。遅くなるかもだから、先に晩御飯食べてていいよ」
「くだらないことを言わないでください。……お気を付けて」
渋々と躊躇いがちに、最後に付け加えられたその一言だけで、信じられないぐらいの活力がもらえて、どこまでも頑張れそうだとスバルははにかんだ。
△▼△▼△▼△
「……どこまでも頑張れそうって、軽率に思ったのは事実ですけれど」
「なんだ。不服でもあるのか?」
「それはもう、あるに決まっているではありませんの」
高級に設えられた竜車の座席に尻を置きながら、自分の膝に頬杖をついたスバルが、わかり切ったことを尋ねてきた冷酷無比なる皇帝にそう言い返す。
そのスバルの反論に、黒髪の皇帝は小さく肩をすくめ、
「貴様は自分の、複雑どころか忌まわしくすらある境遇を自覚しているはずだが?」
「忌まわしいは言いすぎですわよ。複雑な立場の自覚はありますし、目こぼししていただいている分、何かで応えなければと思ってはいます。ですけれど……」
「――――」
「レムと引き離されて、こんなに遠くに連れてこられるのは話が違いますわ!」
そう不満を爆発させるスバルは現在、ヴィンセントの遠征に同行させられている。
ベルステツの屋敷にやってきたカフマに連れられ、城を訪れたスバルに多くを語らないまま、ヴィンセントは「遠征に同行せよ」と居丈高に命じてきた。
そのままあれよあれよと、流されるままに竜車に乗せられ、今ここだ。
「カフマさんは、必要なことは包み隠さず皇帝閣下が教えてくださると、そう仰っていましてよ?」
「カフマ・イルルクスの言は正しい。貴様に必要な情報の開示を余は躊躇わぬ」
「そのわりには、行き先がカオスフレームという街であること以外、わたくしの耳に何も入っていませんわよ?」
「必要か? それ以上の情報が」
「いりますわよ!」
行き先以外何も知らされない遠征なんて、もはや一昔前のバラエティ番組だ。コンプライアンス違反で今の時代は不可能だろうし、そのまま海外で過酷な労働をさせられかねない恐れも踏まえると、現代の闇のアルバイトの方が近いかもしれない。
どちらにせよ、倫理に照らし合わせてアウトな所業である。
しかし、当の仕掛け人である皇帝は小さく鼻を鳴らし、
「貴様の今の姿を見れば、先行きの不安を抱えた姿とは到底思えぬがな」
と、そう悪びれることもなく淡々と言ってのける始末だった。
そのヴィンセントが何を言いたいのかはスバルもわかる。彼が言っているのは、その黒瞳に映り込んだ現在のスバル――否、ナツミ・シュバルツについてだろう。
長く美しい黒髪のウィッグに、体形を隠すように揃えた赤を基調とした軍装。メイクアップもばっちりと、どこからどう見ても完成された淑女形態である。
「ただ、そのわたくしを指して、意味深なことを言われるのは好きではありませんわ」
「……正体の知れた余の前で、装い続ける意味があるのか?」
「どこからボロが出るかわかったものではありませんもの。よいですこと? 神は細部に宿ると申しまして、それが誠意を尽くすということですわ」
「――――」
「そもそも、わたくしがこうしてナツミ・シュバルツとして同行しているのは、皇帝閣下のご希望に沿うためですのよ。事情が事情とはいえ、わたくしが帝国の内紛に関わるだなんて、そんな記録をおちおち残せませんもの」
スバル=シュバルツも国家間の摩擦について詳しいわけではないが、いわゆる内政干渉的な、国家の垣根を飛び越えた協力は、場合によっては善行だろうと悪因を呼びかねないと知っている。
単純に、帝国の窮地に王国縁の騎士が手を貸した――なんて美談では済まないのが、童話と現実の物語の違いである。
「そこで、ナツミ・シュバルツなのですわ」
「――。貴様が己に疑問がないのであれば、余は構わぬ。働きさえ確かなら、個々人の趣味趣向に枷をかけようとは思わぬからな」
「趣味……?」
「下らぬ問答をするつもりはない。説明を求めたのは貴様であろう。ウビルクめであれば何も聞かずともだが、貴様はそうではないらしいからな」
「あの役職不明の方と一緒にされては困りますわね。というか、あの方、本当になんなんですの? 中世の王様の隣で、退屈を紛らわすプロの道化師の方?」
「道化たものであるのは確かだが、あれの役割は余の退屈しのぎではない。無論、貴様に期待される役割も同じだ。此度の遠征、貴様を推挙したのもあれなるものだが」
「……ウビルクさんが、わたくしを」
へらへらとした優男の顔を思い浮かべ、スバル=シュバルツは首を傾げる。
最初の時点から、ウビルクはスバル=シュバルツに対して謎の距離感で接してきていた。さらに不可解なのは、そのウビルクに発言力を認めるヴィンセントや、他の重鎮たちの反応だ。『星詠み』と、そんな風に呼ばれていたウビルク。――その役職が、スバル=シュバルツの何となく推測する預言者的な立ち位置であるなら、ある種、ファンタジーに付き物な設定だ。
問題は、この世界には本物の預言者がいる可能性が十分あることで、その預言者疑惑の優男の話だと、スバル=シュバルツもその一人と睨まれている恐れがあること。
「同じとは思えませんけれど、理由が説明できないのがもどかしいですわね」
スバル=シュバルツの『死に戻り』は、言い換えれば未来の先取りとすることもできる。
それをスバル=シュバルツはシンプルに未来のカンニングだと思っている節があるのだが、迫る脅威を『死に戻り』で知り、回避する手段を講じる姿は預言者めいていると思われても何ら不思議なことはない。
「実際、妖しげな美女が権力者に取り入る預言者なんて、定番中の定番ですもの。でも、勘違いされるのは困りますわ。……ただでさえ、『死に戻り』の調子がおかしいときに」
ぼやくスバル=シュバルツの懸念、それは『死に戻り』に起こりつつある異変だ。
水晶宮でヴィンセントと出会うまで、幾度も『死に戻り』を繰り返したスバル=シュバルツだが、そうなった背景は殺しに躊躇いがなさすぎる帝国の国民性もあるが、それ以上に死亡地点からリスタート地点までの時間間隔の狭さにあった。
当然だが、リスタート地点が『死』と近ければ近いほど、取れる選択肢は減り、対策を講じる猶予も少なくなる。そのせいで、スバル=シュバルツは恐ろしい『死』を何度も味わった。『死に戻り』に生じたその不可解な異変――それを、スバル=シュバルツはここがルグニカ王国ではなく、ヴォラキア帝国であることが関係しているのではと推測していた。
「エキドナの、あの性悪魔女の指摘をあまり当てにしたくありませんけれど」
スバル=シュバルツを『死に戻り』させているのが『嫉妬の魔女』であるなら、王国の東の果てに封じられた『魔女』と、帝国にいるスバルとでは物理的な距離が開いている。シンプルに考えるなら、『魔女』の権能が届きづらくなっている、とも言えるのではないか。
だとしたら、例えば西の大国であるカララギ都市国家の西端で命を落とした場合、スバル=シュバルツの『死に戻り』はどうなるのか――試す手立てなどないし、検証したくもないが。
「なんにせよ、レムから引き離されてまで連れてこられていますのよ。ならせめて、仕事は果たしたいですわ。面倒でも、説明してくださりませんと」
「余を皇帝と心得ながら指図するか。取り繕った不細工な敬意など不要だと言ったのは余ではあるが、ずいぶんと切り替えの早いことよな」
「今のところ、断頭台の露と消えることはなさそうですものね?」
「断頭台、か。――ここで『マグリッツァの断頭台』を思わせるとは、皮肉な話だ」
「――?」
「余計な一言であった。――貴様を魔都に同行させる目的は難しい話ではない。『九神将』の一人である、ヨルナ・ミシグレと言葉を交わすためだ」
「ヨルナ・ミシグレ……確か、『極彩色』という異名の方でしたわよね」
遊んでいたわけではないと、情報収集に勤しんでいた成果を口にするスバル=シュバルツ。そのスバル=シュバルツにヴィンセントは何ら感慨のない顔で、黙って静かに顎を引いた。
部下の承認欲求を満たすのがいかにも下手な皇帝の態度に、ゴズという人物が謀反を起こしたのもそのあたりに原因がありそうだとスバル=シュバルツは思う。
そんなスバルの疑念を余所に、ヴィンセントは淡々と語り始めた。
それは――、
「叛徒の制圧に向かわせたアラキアが戻らなかった。おそらく殺されたか、身柄を確保されたと見るべきであろう」
「――っ、アラキアちゃんが!?」
思いがけない情報をもたらされ、スバル=シュバルツは睫毛を整えた目を見開いて驚く。
初日以来、一度も顔を合わせる機会のなかったアラキアだが、スバル=シュバルツは彼女に一方的に恩を感じていた。――スバル=シュバルツがヴィンセントと遭遇し、自らの名を名乗って話し合いのテーブルを用意されたとき、レムの安全な確保をヴィンセントを通じて頼まれ、それを見事にやり遂げてくれたのがアラキアだったからだ。
もしも、スバル=シュバルツの命を容赦なく奪った面々のいずれかにレムが見つかっていたら、今頃は彼女を許されない不幸が襲っていたかもしれない。
だから恩人だと、スバル=シュバルツはアラキアをそう思っていたのに――、
「どうして、わたくしに話してくださいませんでしたの!?」
「話すはずがあるまい。あれは帝国一将、その進退は国家機密であるぞ。今、こうして伝えていること自体、異例のことと思え」
「――――」
「故あって、『壱』が使えぬ今、『弐』であったアラキアは帝国にとって最大戦力であった。そのアラキアが使えぬとなれば、ゴズ・ラルフォンの件も含め、『九神将』には慎重な立場の表明をしてもらう必要がある」
「そのために……」
「そうだ」
腕を組み、頷いたヴィンセントにスバル=シュバルツは俯く。
その胸中、冷たい心音を奏でる心臓は痛みを発していて、今もまだ、アラキアの身に起こった不幸を処理し切れていない。
ヴィンセントの言い分はわかる。だが、もしもヴィンセントが、アラキアの身に何かが起こってすぐ、事実を共有してくれていたのなら。
「『死に戻り』で……」
アラキアを、救えていたかもしれない。
彼女の安否不明である以上、早まった考えであるのは承知の上で、スバル=シュバルツの頭にはどうしてもその可能性がちらついてしまった。
「それに、ヨルナ・ミシグレという方は、わたくしの知る限り……」
「過去に二度、余に対し謀反を起こしている」
「ですわよね!? この状況で、そんな方を真っ向から訪ねて平気ですの?」
すでに八年に及ぶヴィンセント・ヴォラキアの統治、それ自体はこれまでの帝国の歴史の中でも異例の平穏な時代であったらしく、ヴィンセントは民草から『賢帝』と呼ばれ、支持を集めているとここ数日でスバル=シュバルツは知った。
そんなヴィンセントの治世の中で、吹けば飛ぶようなものでない、正しい意味での謀反を起こし、衝突を重ねた相手が『極彩色』ヨルナ・ミシグレ。
「考え得る限り、間違いなくこの機に乗じる方ではありませんの」
「それを確かめるため、直接赴く。それだけの話だ」
「替えの利かない立場の方が率先して……帝国スピリッツ、恐るべしですわ……」
しょんぼりと肩を落としたスバル=シュバルツに、ヴィンセントは「すぴりっつ?」と聞き慣れない単語に引っかかった反応をしていた。
せめてもの意趣返しに、聞かれない限りは現代語を翻訳するまいとそう決め、スバル=シュバルツは走る竜車の窓の外、魔都で自分に期待される働きをしっかり胸に留め置く。
推薦者のウビルクの思惑はさておき、ヴィンセントがスバル=シュバルツに期待するのは、ざっくりと言えば転ばぬ先の杖、的なものだろう。
ヴォラキア帝国で、ルグニカ王国でのスバル=シュバルツの功績がどのぐらい知られているのかはわからないが、どんな尾ひれ背びれのついた噂が広まっていようと、実物のスバル=シュバルツを見ればそんな大した人間ではない、と落胆と共に理解されたはずだ。
一方で、その功績に連なっている事実が無視できないとすれば、やはり転ばぬ先の杖というのが期待される役割の中の、最上のものと言える。
故に、スバル=シュバルツは頬を叩こうとして、化粧が崩れる可能をを危惧し、やめた。代わりに長く艶やかな己の黒髪を、いい女風にバサーっとやりながら、
「わかりましてよ、皇帝閣下。ひとまずのところ、何があろうと無事に帝都へお戻りできるよう尽力いたしますわ。わたくし、杖は得意でしてよ!」
「――。いったい、何に意欲を燃やしているかは知れぬが、全霊で努めよ。ベルステツめの屋敷に、貴様の大事なものが人質となっていることを忘れるな」
「わざわざ脅そうとされなくても、エミリアたんのこともベア子のこともレムのことも、四六時中常にわたくしの頭の片隅におりましてよ!」
せっかく、そういう脅しと無関係にやる気を出したところだったというのに、いらぬところでやる気を挫いてくる皇帝閣下である。――あれだけ人望の厚いゴズ・ラルフォンを怒らせるのだから、やはりヴィンセントが悪いのではあるまいか。
そんな一抹の不安を胸に、スバル=シュバルツは、目的地である『魔都』カオスフレームへの旅路を順調に消化していったのであった。
そして――、
△▼△▼△▼△
「亡き姉上の仇――黒髪、黒目ノ、旅人!!」
黒い髪の先を青く染めた、勇ましくも猛々しい憎悪を瞳に宿した女性だった。
彼女が力強く引いた弓の弦がしなり、空気を切り裂く音が聞こえた直後、スバル=シュバルツは傍らの皇帝の肩を突き飛ばし、矢に脇腹を抉り飛ばされていた。
「――か」
込み上げる血が喉を塞いで、溺れる感覚を味わうスバル=シュバルツが倒れる。
その光景を目の当たりにし、庇われた皇帝――ヴィンセント・ヴォラキアが頬を硬くして、地べたに血を広げるスバル=シュバルツへと駆け寄った。
「ナツミ・シュバルツ! 貴様、柄にもないことを……!」
「柄にも、ないだなんて、言ってくれますわ……わたくし、一日一善をモットーに……」
「この期に及んで口の減らぬ……ちっ、深手だな」
流れ出る血を止めようと傷口に手をやり、触れた脇腹の肉がごっそり足りないのを感じ取って、スバル=シュバルツは傷の自覚を後悔した。
片腹が吹き飛んでいるのだ。どう考えても致命傷、助かるはずもない。しかし、ヴィンセントはそんなスバル=シュバルツの体を抱き上げ、移動し始めた。
「なに、してますの……逃げ、ませんと……」
「異論はない。故に、その通りにしている。貴様は空でも眺めているがいい」
「空……余計に、具合が悪くなりますわよ……」
虚ろな声で答えながら、スバル=シュバルツはカオスフレームの空を仰ぐ。
その多種多様な種族の住まう魔都は、あらゆる種族の建築様式が譲り合いの精神を忘れたように絡み合い、闇鍋のようなごった煮の街作りを実現していて、それがカオスフレームという都市の一個の特色だった。――それが今や、見る影もない。
今、都市を席巻するのは自由に自由を積み重ねた解放の光景ではなく、その街並みを壊し、捻じ曲げ、打ち砕く、超越者たちの人知を超えた戦いなのだ。
「かかかっか! こんな形でぶつかるたぁ思わなかったんじゃぜ、アラキよぉ!」
「嫌なら下がって」
「この都市で我が物顔で命令でありんすか? ここの主を、誰と心得しんしょう」
中空で無数の爆炎が広がり、建物の屋根を足場に飛び回る怪老の影。それを追うように空を飛ぶのは、膝から下を炎に置換した犬人の少女。そしてぶつかり合う両者に割り込んだのは、うねる鉄塔を足場に街を作り変える花魁風の狐人――、
――『悪辣翁』オルバルト・ダンクルケン。
――『精霊喰らい』アラキア。
――『極彩色』ヨルナ・ミシグレ。
いずれ劣らぬ武勇で知られ、ヴォラキア帝国の頂点に名を連ねる『九神将』の猛者。
それら三者が全員異なる陣営として、カオスフレームを舞台に闘争を繰り広げる。
「よもや、アラキアがあちらにつくとはな。――あれの参戦を見抜けなんだ、余の落ち度であったか」
熱波と衝撃波、大気をかき混ぜるその余波を浴びながら、スバル=シュバルツを抱いたヴィンセントが荒れた街路を蹴り、戦場から遠ざかろうとする。
ヴィンセントが魔都に同伴させた最高戦力、それはこちらに意識を向ける余裕なく、嗤いながら二人の女の命を狙い続けるオルバルトだ。
一方で、魔都の女主人であるヨルナは、専守防衛の務めを果たすべく動いている。
そして、叛徒の鎮圧に送り出され、帰らぬ人となったとされていたアラキアは――、
「――ヴィンセント・ヴォラキア!」
「――――」
名を呼ばれ、足を止めたヴィンセントが振り向く。
その視線の先、声の主は倒壊した建物の瓦礫の上に立ち尽くしていた。――それは、奇しくもヴィンセントと同じく、黒髪に赤い装いを纏った細身の男。ただし、その顔に鬼を模した面を付けて、正体を隠した叛徒の首魁だ。
ゴズ・ラルフォン一将の謀反と共謀し、ヴィンセントの玉座を狙ったとされる鬼面の男は、『漆』であるヨルナの考えを聞くためにカオスフレームを訪れたヴィンセントやスバル=シュバルツたちと時を同じくして、彼女を訪ねていた。
そして、自らが指揮を執る国盗りの戦いの仲間にと、ヨルナを誘おうとしたのだ。
無論、言うまでもなく、ヨルナと鬼面の男たちとの交渉を成功させるわけにはいかない。スバル=シュバルツたちは交渉を阻止すべく、対話の場に乗り込み――、
「賊よ、なんと名乗る」
「――アベル。今の俺は、アベルだ」
対峙したヴィンセントに、鬼面の男――アベルがそう名乗り、空気が燃える。
両者の間に横たわる張り詰めた空気、熱を帯びたそれが焦げた香りを漂わせ、消息を絶ったはずのアラキアを連れたアベルの戦意は、魔都の崩壊を招いた。
浮動する立場であるヨルナ・ミシグレが、皇帝と叛徒のどちらに味方するか態度を表明しないとあれば、彼女の存在が相手方に渡らないようするのが上策。
その可能性が過った瞬間には、あの超越者たちの戦いは始まっていた。
「アベル……」
目を細めたヴィンセントが、その名前を確かめるように口にする。
多くの血を失い、命の零れ落ちる寸前のスバル=シュバルツには、そのときのヴィンセントの心中を推し量る術はなかった。
ただ、その一瞬の停滞を、アベルの別の同伴者は見逃さなかった。
「――――」
アベルの方を向くヴィンセント、その背後の廃材の陰から飛び出したのは、音も気配もなく忍び寄る容赦のない凶手だった。
それが立ち尽くすヴィンセントの首を、真後ろから斧で狙い――、
「――閣下!!」
斧がヴィンセントの細い首を断つ寸前、それが猛然と押し寄せた紫の茨に遮られる。
声を上げ、皇帝を奇襲から救ったのは、全身からおびただしい血を流すカフマだ。ヴィンセントの同行者、最後の一人であるカフマは『虫籠族』の特性を活かし、その体内に取り込んだ虫を使い、皇帝を弑逆せんとした敵を追撃にかかる。
しかし――、
「おおおらあああ!!」
伸びる茨の鞭を飛びずさって躱した敵、その傍らに降り立った新たな影が、手にした二振りの長剣を振るい、正面から茨を切り伏せ、脅威を薙ぎ払った。
それはバンダナをして斧を持った男と、右目に眼帯をした粗野な印象の双剣使い――どちらも、アベルと同行した謀反者の一員。
「――失敗失敗」
「ちぃ! おい、唯一の特技でしくじってんじゃねえ!」
「唯一の特技ってのはひどいな。だが、援護は助かった。まだお前さんに頼っていいか?」
「しょうがねえ野郎だ。――カフマ・イルルクス二将、相手にとって不足はねえぜ」
双剣使いが首の骨を鳴らして笑い、傍らのバンダナ男が冷たい目をヴィンセントとスバル=シュバルツに向ける。その視線を遮るように、ボロボロのカフマが二人の敵とヴィンセントたちの間に立った。
「この場は自分にお任せください! 閣下はシュバルツ嬢を!」
「深追いは禁ずる。オルバルトめの手がない状況だ。シュドラクの目もある」
「承知してございます! ……ヴィンセント閣下はもちろんのこと、シュバルツ嬢にお救いいただいた命、決して無為に散らしはいたしません!」
満身創痍のカフマが力強く請け負い、その場を任せ、ヴィンセントが走り出す。
今度はアベルに何を言われようと止まらぬ覚悟、それを悟ったからか、瓦礫の上のアベルもそれ以上の言葉を発さず、玉座を争い合う敵同士はその場を離れた。
そして――、
「――ナツキ・スバル、王国の『星詠み』よ。貴様に死なれれば、何を以てその穴を埋められるか、余にも読み解けぬ。故に」
「――ぅ」
戦場は遠く、うるさいぐらいの耳鳴りと、対照的に弱々しすぎる心音を聞きながら、スバル=シュバルツはヴィンセントが己の顔に手を当てるのを見る。
そのまま目をつむるヴィンセントに、意識の白みつつあるスバル=シュバルツは、ふと気付いた。――今まで一度も、ヴィンセントが両目をつむるところを見たことがなかったと。
もっとも、そんな感想は続けざまの異変に即座に霧散した。
「――『青』の面」
そう呟いたヴィンセントの顔が、スバル=シュバルツの目の前で剥がれる。
肉を骨から引き剥がすような、皮を肉から引き剥がすような、聞くだに顔をしかめたくなるような音を立てながら、ヴィンセントの顔が剥がれていく。
そうして『面』を剥ぐように剥がされたヴィンセントの顔が、彼の手の中でゆっくりとほつれ、塵と化した。
「――――」
まるで、寝苦しい夜の悪夢か、『死』を目前にした脳のバグかのような光景。だが、顔を剥がれた皇帝が、反対の手をその顔に宛がい、次の『面』を被った。
次の瞬間、ヴィンセントの肉体が音を立て、骨格が細く、背が縮み始める。それだけでなく髪色が、髪型が、その造形がそっくりと作り替わり――、
「……フェリス?」
一拍ののち、そこに立っていたのは愛らしい容貌と猫耳が特徴的な見知った顔、ルグニカ王国で主の傍に付きっ切りでいるはずの、フェリスの姿がそこにあった。
「――――」
――ヴィンセントが、フェリスに化けた。
そうとしか言いようのない光景に、スバル=シュバルツは絶句する。だが、当の相手はスバル=シュバルツの方の混乱を無視し、その白い手を傷にかざした。
直後、溢れ出す淡い光がスバル=シュバルツの吹き飛んだ腹を癒し始める。――その、時を巻き戻すかの如き超越的な癒しの力は、紛れもなくフェリスのものだ。
なくなった傷口の肉が盛り上がり、内臓と筋繊維の修復が始まる。流れ出した血は戻らないが、活性化を後押しされた体は造血の態勢に入り、血の巡りが著しく変化した。
遠のくはずだった意識が徐々に色を取り戻し始め、スバル=シュバルツ――否、ナツキ・スバルは女性を装った姿のまま、目の前の肩に手を伸ばす。
その細い肩を掴んで引き寄せ、自分を癒してくれている相手を間近に睨み、
「お前……カペラ、なのか?」
「何ゆえに、そのような疑念が湧いたか知れぬが……いや」
その顔も声もフェリスのものなのに、発された言葉遣いはヴィンセントそのもの。その違和感にスバルが息を呑み、、偽フェリスはゆるゆると首を横に振った。
刹那、目を伏せたフェリスの顔に、突如としてひび割れが生じる。
「――っ」
頬から始まったひび割れ、それは少しずつ亀裂の範囲を広げ、フェリスの可憐な顔をゆっくりと破損が拡大していった。
「貴様の内で行き場なく滞ったマナを使わせてもらうぞ。このままなら、どのみち栓の不具合ではち切れるところだ。文句は言わせん」
しかし、それ自体に痛みはないのか、その光景に驚愕するスバルの反応を意に介さず、偽フェリスは顔のひび割れを放置し、スバルの脇腹の治療を続ける。
淡い治癒の光が傷を癒し、癒し、癒し、やがて――、
「終えた」
そう述べたのと、ひび割れが偽フェリスの顔の全体に達したのは同時だった。
先ほどの、ヴィンセントの剥がされた顔が塵になったのと同じように、偽フェリスの顔もまた端から崩れ、さらさらと塵になっていく。
傷を癒され、命を繋いだにも拘らず、命を危うくしていたときと大差のない悪夢を目の当たりにし、横たえられていたスバルは身動きできずにいた。
その、剥がれ落ちた偽フェリスの顔の下から、新たな顔――ヴィンセントでも偽フェリスでもない、見知らぬ顔が現れる。――否、見知らぬわけではなかった。
スバルは以前に一度だけ、その顔を一瞬、目にしたことがあった。
緊急事態故の目の錯覚と、深くは追及しなかった、離宮の姿見の中に見た顔。
色の抜け落ちたような、長く白い髪と白い肌、全身を白一色で構成される中、その瞳だけが黄金色に輝く長身、その人物は――、
「――チシャ・ゴールド」
「え?」
「当方を、別のどなたかと混同しておいでだったようなので、お答えした次第」
現れた白ずくめの男――チシャ・ゴールドを名乗った人物の言葉に、スバルはそれが先ほどの、カペラの名前を出したことへのアンサーなのだと遅れて気付く。
スバルの目の前で、自分の姿を異なるものに変え、挙句にフェリスの姿で致命傷さえ癒してみせたあの力は、猿真似や変装なんて次元ではなくて。
「待て、チシャ・ゴールドって、確か『九神将』の……」
「肯定させていただきますなぁ。当方、『九神将』では『肆』の位に与る身、及ばずながら帝国の一将を務めさせていただいている次第」
「……皇帝の、影武者?」
「有事の折には。ですが、現状ではそれは正しくはないでしょう。今の当方を表わすのに最も適切なもの、それは――」
凝然と目を見開くスバルの前で、装いだけは皇帝の服のまま、感情の読み取りづらい表情のチシャが黄金の瞳を細め、告げる。
「――ヴォラキア帝国の玉座を簒奪せし、剣狼を嘲笑う謀反者と」
それがナツキ・スバルと、『白蜘蛛』チシャ・ゴールドとの本当の出会い。――本来なら交わらぬ宿業を交えた二人の、運命を欺く者同士の真の出会いであった。
△▼△▼△▼△
姿かたちを変える己の力を、チシャは『能』と呼んでいると説明した。
詳しい原理は説明が難しいそうだが、なりたい対象の色を盗み取り、そうして作られる『面』を被ることで、そのものの存在にそっくり成り代わることができるのだと。
それを用い、チシャはヴィンセント・ヴォラキアに扮して皇帝を騙り、以前に縁のあったフェリスの『面』を使い、スバルの傷さえ完治させたと。
その説明を受け、ひとまずチシャが『色欲』の大罪司教であるカペラでないことが確認されたことに安堵したスバルは、こうも思った。
「もしかして、謀反者として捕まってるゴズ・ラルフォンって人、あんたが皇帝に成り代わってるって気付いたから邪魔になったんじゃないか?」
「肯定いたしますなぁ。ゴズ一将は帝国随一の忠勇の持ち主でして、当方が何を言ったところで皇帝閣下に仇なすと知れば聞く耳を持っていただけぬ次第。それ故に、今のような形で盤面より一時取り除く他になかったと」
「だよな、やっぱりか! 道理で、どれだけ情報収集しても、ゴズって人が皇帝を裏切るとは思えないって結論にしかならねぇわけだよ。実際、裏切ってなかったんだ!」
指を鳴らし、スバルは自分の考えが正しかったと会心の笑み。――が、その笑みも、一瞬の喜びのあとには保ってもいられなくなる。
なにせ、チシャははっきりとスバルに言ったのだ。――自分は玉座の簒奪者であり、ヴォラキア帝国を徒に混乱に陥らせる、謀反者の首魁なのだと。
「……弱肉強食がまかり通るのが帝国の流儀だってんなら、あんたが皇帝に、ヴィンセント・ヴォラキアに挑むのは、帝国の男って野心が理由、か?」
「ふむ、そちらはどう思われますかなぁ。当方の思惑は、野心に?」
「――。たぶん、違うと思う」
そもそも、ヴォラキアの帝国流を下敷きにするなら、チシャがその手でヴィンセントを討つことができれば、剣狼の国の頂は入れ替わる欠陥システムだ。にも拘わらず、チシャはヴィンセントの姿に成り代わり、皇帝の不在を隠して状況を続けた。
そこには、玉座を簒奪するという端的な狙いへの真摯さがない。
「つまり、あんたの狙いは玉座じゃない。……他はわからねぇけど」
「それは、天上の観覧者――『星』の言葉に耳を傾けた結果かと、伺う次第」
「星? ……いや、星は好きだけど、星と話せたことはねぇよ。今のは経験則と、願望込みの理想論って感じ」
「願望、ですかなぁ」
「そうだ、願望だ。脇腹吹っ飛ばされてまで庇った相手がド悪党であってほしくないって希望と、吹っ飛んだ腹を治してくれた相手がド外道じゃないんじゃないかって、願望」
どちらも、頼り切るにはいささかか細い綱なのは承知の上。だが、わざわざトップシークレットを明かしてまでスバルを救ったチシャが、ここで豹変して襲い掛かってくるような、そんな無意味な流れを作ることはしないだろうという信用はあった。
そのスバルの都合のいい問いを受け、チシャは静かに顎を引くと、
「当方は帝国を滅びの未来から救うため、必要な手立てを講じている次第」
「……それは、それこそ皇帝と一緒にやるんじゃダメなのか?」
「ヴィンセント閣下は非常に賢い御方ですが、一度結論付けたことを変えるということを知らぬ方でして。それが最も効率よく、消耗の少ない手であることは間違いないので、誰も閣下に逆らうことができぬ次第」
「でも、あんた……チシャ・ゴールドは違う、ってこと?」
「左様ですなぁ」
そう頷くチシャに、スバルは自分の脇腹に触れ、考え込んだ。
切り札を切ってまでスバルを助け、チシャは自分の目論見をこうして明かした。そこに嘘や企みがあると、スバルは底意地悪く疑えない。そこまで手を凝らし、罠にかけるだけの価値はスバルのどこにもないだろう。
徹頭徹尾、チシャが価値を見出し、救うべきと定めているのは皇帝と帝国。
誰にも理解されることのない彼の行いには、確かな二つの柱が立っている。
「一個だけ、確認したい」
「当方で答えられることでしたら構いませんなぁ」
「その『能』って他人に成り代わる力だけど、いつでも何度でも使えるもんなの?」
「――否定、させていただく次第」
声の調子を落とし、そう告げるチシャに「やっぱりか」とスバルは嘆息。
剥がされたヴィンセントの『面』も、ひび割れたフェリスの『面』も、その最後の消え方は塵になるというものだった。あれは消失や喪失というべき感覚であって、何度も何度も繰り返し使える類のものではないと、何となく直感していたのだ。
チシャの目的には、ヴィンセント・ヴォラキアの存在がいる。
そのためにヴィンセントの『面』を被っていたチシャは、あの膨大な治癒の力で致命傷さえ癒せるフェリスの『面』を被り直し、二つの『面』を手放した。
目的のためには欠かせぬ一枚と、有事の切り札になり得る一枚を、それぞれだ。
そうまでして命を救われたら、ナツキ・スバルは無理なのだ。――それをした相手に、何の恩義も感じないでいるなんてことは。
「もうちょい、詳しく話してくれ、チシャさんよ」
「――――」
「伊達や酔狂で、あんたがこれをしでかしたとは思わねぇよ。――滅びの未来が迫ってるってんなら、俺も他人事じゃねぇ。なにせ、この国には俺のレムが人質に取られちまってんだ。俺も、帝国をどうにかする理由がある一人なんだよ」
無理な理屈は承知の上で、スバルはチシャにそう宣言する。
『賢帝』と名高いヴィンセント・ヴォラキアが、見るからに賢いチシャ・ゴールドが、抗おうとする滅びが眼前にあるなら、スバルの微力が役立つ機会もきっとある。――否、その機会はスバルがこの手で、この足で、掴み取りにいくのだ。
だから――、
「――『大災』」
「タイサイ……大いなる、災い?」
呟きを反芻したスバルに、チシャは「ええ」と頷いて肯定する。
大いなる災い――ヴォラキア帝国に待ち受ける滅びの未来とやらの表現として、これ以上ないぐらいうってつけの呼び名。
それを口にしたチシャは、スバルを真っ直ぐに見据えながら続ける。
色のない顔で、しかし確かな熱を宿した声音で。
「その『大災』より、このヴォラキア帝国を救う手立てを講じる。そのために、当方には作り上げねばならぬ盤面があります次第」
「わかった」
立つ瀬は決めた。折しも、ヨルナ・ミシグレに心の在処を確かめるための旅路が、ここにきてスバルにも同じような決断の機会をもたらしてくれた。
王国の、エミリアやベアトリスたちを案じる気持ちは強くある。みんなと早く再会したい。『記憶』はなくとも、目を覚ましたレムと彼女たちを会わせたい。
でも、どうしても、ヴォラキア帝国を、チシャを見捨てることができないから。
「できないって選択肢はなしで、俺も協力する。――運命様、上等だ」
△▼△▼△▼△
「――ちょっと総督、何度も言わせないでいただけませんこと? これは、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下からの、直々の御下命ですわよ!」
「そちらの言い分はわかった。だが、本職も厳命され、この島の総督の任を引き受けた立場だ。施行されたしきたりを捻じ曲げる行いを、軽々に決断することはできない」
「キーッ! この石頭! 頭でっかち! わたくしを誰と思っておりますの!? わたくしは、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下の后となる女ですのよ!」
ドン、と作り物の胸を大きく叩いて、ナツキ・スバル――否、再びナツミ・シュバルツとなったスバル=シュバルツは、そう堂々と嘘の情報を喧伝する。
そうしていけしゃあしゃあと方便を用いるスバル=シュバルツの前、夜に思い出した子どもがトイレに行けなくなりかねないほど怖い顔をした人物、グスタフ・モレロが牙のはみ出した口を閉じ、厳めしい顔つきでたくましい四本の腕を組んだ。
プロレスラーみたいな体格に青い肌、そして普通なら二本しかない腕が人より多いグスタフは、『多腕族』という亜人族の出身者。
だが、スバル=シュバルツにとって最も重要な彼の立場、それは――、
「――『剣奴孤島』ギヌンハイブの総督、グスタフ・モレロ殿」
「正しく、本職の肩書きだ。思い出させてもらい、感謝する。チシャ・ゴールド一将」
「いえ、それはこちらの台詞というものですなぁ。むしろ、当方のお連れした方にこそわかっていただきたく、あえてお呼びした次第」
「む、それはどういう意味ですの、チシャ一将。まさか、一介の『将』に過ぎないあなたが、閣下の寵愛に与るわたくしを非難するんですの? 身の程知らずですわね?」
ぴしゃりと音を立てて扇を閉じ、スバル=シュバルツは自分の横に座った白面――チシャの横顔を睨みつけ、そう高慢ちきに言い放つ。その言葉にグスタフが眉のない眉間に皺を寄せるも、当のチシャは涼しい顔で肩をすくめて、
「非難などと。ただ、グスタフ総督の姿勢は、皇帝閣下の命を真摯に果たそうとすることの表れ……すなわち、ナツミ様の敬愛する閣下への忠義に他なりません。そのことがわからぬものの方が、よほど閣下の御心に沿えていないのではと愚考する次第」
「な……!」
カーッと顔を赤くし、スバル=シュバルツがわなわなと唇を震わせる。その様子に片目をつむったチシャがグスタフを見れば、組んだ腕の上で二つの拳を固めていた総督は、その拳を隠すように背中に回し、小さく咳払いした。
これをいい気味だと思ったなら、意外とグスタフもいい性格をしている。――スバル=シュバルツも張り切って、嫌な悪役令嬢を演じている甲斐があるというものだ。
現場の兵たちの心に真摯に寄り添うチシャと、現場感覚のない皇后候補のスバル=シュバルツ。この、飴と鞭(スバル=シュバルツ)作戦で、順調に拡大し続ける叛徒の勢力の拡大に歯止めをかけ、皇帝側の勝率を引き上げる必要があるのだから。
――スバルとチシャとの間で、『大災』に対抗するための同盟が結ばれてしばらく。
『魔都』カオスフレームの騒動が一段落し、オルバルトとカフマは何とか生還。アベルの率いるアラキアと二人の男たちも撤退し、戦いは痛み分けに終わった。
ただし、カオスフレームを拠点とするヨルナ・ミシグレは、皇帝側にも叛徒側にもつかないという意思表明をし、崩壊した魔都に防衛線を築いて閉じこもるのを選択した。
結局、スバルが片腹を吹き飛ばされたことも、チシャが計画に必要不可欠だったヴィンセントの『面』を失ったことも、骨折り損になったと言えなくもない。
「おまけに、ベルステツさんが勝手にマデリンちゃんに城郭都市ってところを攻撃させてたんだろ。……ベルステツさんは、チシャさんが皇帝に化けてたって知ってるんなら、もっと足並み揃えた方がいいんじゃないか?」
「生憎と、ベルステツ宰相とは方針は一致しているのですが、根っこのところで相容れない問題がありましてなぁ。究極的に、あの御老人は帝国の剣狼以外の何者でもなく、それ故に当方とは決定的に最後が食い違う恐れがある次第。ならば……」
「いっそ、絶対最後にある掛け違いのことは伏せて、このままいく?」
「現状は叛徒の勢いの拡大への対応に追われている次第。しばらくは、ベルステツ宰相が当方やあなたに気付く余地はないと思ってよいでしょうなぁ」
希望的観測、というにはおちおち希望も見えない状況でのチシャの見解。
あの見た目と態度で意外と血の気の多いベルステツは、カオスフレームでのごたごたが耳に入るや否や、早々に叛徒の拠点である城郭都市に攻撃を仕掛けた。
マデリンの率いる飛竜の群れの一方的な空からの攻撃に、城郭都市はほぼ壊滅。叛徒たちは拠点を放棄し、散り散りになったという話もあるが、それらをまとめ上げているアベル――チシャの話によれば、本物の皇帝もただでは転ばない。
アベルたちは帝都にいる皇帝は偽物であるという風聞を流し、人心に混乱を起こした。それを否定する最適な手段は、他ならぬヴィンセント・ヴォラキアが民衆の前に姿を現すことだが、皇帝の『面』を失ったチシャにはそれができない。
故に、叛徒の風聞を言葉で否定し、噂を立てるものを捕らえる対処療法でしか状況に対応できていない有様だ。
加えて、帝国軍と叛徒との間の戦力差も、少々問題になってくる。
「生還こそしましたが、カフマ二将の戦線復帰は今しばらくかかる見込み。オルバルト一将も片腕を失い、ヨルナ一将も味方にできなかったのが痛手でしたなぁ」
「オルバルトさんか……」
「そう暗い顔をされる必要はないと思います次第。あなたの機転や助言がなければ、オルバルト一将は腕一本で済まず、カフマ二将も命を落としていた可能性が高い。二人が倒れれば、当方たちも無事に戻れたかどうか」
表情を暗くしたスバルを、チシャはそう慰めてくれたが、複雑は複雑だ。
カオスフレームでの思いがけない死闘では、手加減を知らない超越者たちの戦いに巻き込まれ、スバルも幾度もの『死に戻り』を重ねる羽目になった。
中でも最たる衝撃は、『参』という帝国三位の実力者であるはずのオルバルトが、アラキアとの戦いの最中の奇襲で命を落とすケースが何度もあったこと。同様のピンチはカフマの身にも降りかかり、それを阻止するのにスバルは幾度も挑み続けた。
「それもこれも、あのバンダナ野郎……」
最終的に命を奪うのは、オルバルトもカフマもアラキアの一撃であることが多かった。しかし、その状況を生み出す決定打を作ったのは、常にそのバンダナ野郎だ。
まるで悪口のような呼び方しかできないのは、『死に戻り』を繰り返して何度もぶつかることになったのに、相手が徹底して自分の情報を出さなかったから。相棒だろう粗野な双剣使いにさえ、バンダナ野郎は決して自分の名前を呼ばせなかった。
正直、恩人判定をしているアラキアが敵に回ったこともショックだし、帝国二位の実力者である彼女の恐ろしい力には戦慄を隠せない。
それでも、スバルは不思議と、アラキアよりもあのバンダナ野郎の方が怖かった。
徹底した殺意と異様なまでに熱のない眼光――チシャに玉座を追われ、叛徒に身を落とすことになった皇帝は、どこであんな男を味方に引き入れたのか。
ともあれ――、
「アラキアが一人敵にいるだけで、戦場での数は無効化される恐れがあります次第」
「そんな馬鹿な……とは、カオスフレームの戦いを見てたらさすがに言わねぇよ。アラキアちゃんは、なんだってあんなとんでもない力を……」
「そういう出自、という他ありませんが、『弐』の座は伊達ではない次第。付け加えると、あまり情報は多くありませんが、叛徒に強力な援軍があったとか」
「ただでさえ、アラキアちゃん一人で厄介すぎるってのに。……ちょっと、ヴィンセント皇帝さん恨まれすぎじゃない? ちゃんと玉座返して大丈夫?」
「最終的には帳尻が合う、と当方は計算しておりますなぁ」
そう計算高いチシャが言うのだから信じたいが、たびたびスバルの、皇帝の人間性に対する質問への回答を誤魔化すのは何故なのか。
皇帝の『面』を被っていたときのチシャの言動が、実際の皇帝そのものであるなら、おおよそ語りたがらない理由もわかると言えばわかる。たぶん、ヴィンセント・ヴォラキアは当人が優秀過ぎるせいで、言葉が足らなすぎるタイプ。下の人間は苦労しそう。
「で、どうする? なんかカッコいい御触れとか出して、兵士たちの気を引き締めて裏切りを防止したり……いっそ、囚われのゴズさんに全部話してみるとか」
「賭けの要素が強くありますなぁ。とはいえ、アラキアの対策は悩ましい次第」
「アラキアちゃんを押さえられる猛者、か。ちなみに、チシャさんも『九神将』の一人なわけだけど、腕前は……」
「多少の覚えはあれど、アラキアと向き合えばものの数秒で塵芥でしょうなぁ」
「見るからに知略タイプだもんなぁ。そりゃそうか。……って、『九神将』で思ったんだけど、帝都にもいなくて、アベルの方にも協力してない『九神将』ってなると、ヨルナさん以外の人はどうなってんだ?」
ふと、そもそもの『九神将』の立ち位置が気になり、スバルは首を傾げる。
『九神将』というのだから、当然のように全部で九人。『将』の中にはカフマのような例外も一部いるが、基本的には一将の相手は一将にしか務まらない。いずれも一騎当千の超越者たちであり、アラキア対策というならまずその中からだ。
「『玖』のマデリン・エッシャルトはベルステツ宰相の下に。『捌』のモグロ・ハガネは故あって帝都の防衛を離れられぬ次第。『漆』のヨルナ・ミシグレは魔都にこもり、『陸』のグルービー・ガムレットは大事を任せるため、西部に遠征中ですなぁ」
「で、『伍』のゴズ・ラルフォンさんが冤罪で囚われの身、『肆』がチシャ・ゴールドさんが謀反者で、『参』のオルバルト・ダンクルケンさんが負傷中。『弐』のアラキアちゃんが裏切った挙句に手が付けられねぇと。……あれ? 『壱』は?」
「――――」
「『壱』がそういや出てこないぞ。確か、ええと、セシルス・セグムントさん?」
「セシルスの話は、まぁよいでしょう」
「よくはねぇでしょ! ってか、アラキアちゃんを止めるって話をするんなら、まず最初に名前が出てこなきゃおかしい奴じゃんか! 『弐』に対して『壱』をぶつける! 俺は前に『無敵』に『最強』をぶつけたこともあるんだ! 詳しいんだ!」
何故思いつかなかったのかと、名案中の名案ではないかとスバルは膝を打った。
少なくとも、スバルの耳には帝国一位が皇帝=チシャを裏切り、叛徒側=アベルについたという噂は聞こえていない。
ならばいるはずだ。帝国最強の、ヴォラキアの『青き雷光』が。
「多少の問題児って聞いてるけど、アラキアちゃんを押さえるためなら覚悟すべきリスクってもんで……」
「多少の? 問題児? あれに対し、そのような認識ではいただけませんなぁ」
「あれ? ちょっと? チシャさん?」
スバルの考えの何が気に食わなかったのか、文節を区切りながら続けたチシャに、スバルは目を白黒させる。そのスバルにぐいとチシャは顔を近付け、色の抜け落ちた細面に紛れもない苦労と苦悩を滲ませながら、
「当方がこれまで、セシルスを一将の地位に縛り付けておくのにどれほど腐心したか、ナツキ殿の耳に入った『多少の問題』とやらをお聞きしたい次第」
「マズい、変なスイッチが入った! ごめん、ごめんって! 外野の意見!」
「いいえ、もはや胸襟を開いた以上は当方とナツキ殿は一蓮托生。互いの認識のすり合わせは必定と言えますなぁ。では、まず当方から。当方が語るべきセシルスの話は、両手両足の指を全て合わせて倍にしても到底足りぬ次第ですが――」
「ヘルプ! ヘールプ!!」
――と、チシャがセシルスに対して抱えている諸々の感情を滝のように浴びせられたスバルは、しかし最終的にやはり彼が必要だと結論付けた。
その後、スバルとチシャは一計を案じ、表に顔を出せなくなったヴィンセント・ヴォラキアは体調を崩したと発表し、「内乱中に倒れるものに皇帝の資格はない」とか「病に倒されたなら、次の皇帝は病か?」とかそんな正気の沙汰とは思えない方向にヒートアップする帝国民の対応をベルステツに任せ、各地に飛んだ。
「レム! 俺のいない間、大丈夫だったか? 怪我とか、不自由とかないか? 一緒に連れ出せないのがものすげぇもどかしいけど、何かあったら包み隠さず話してくれ。今のうちに俺に言っておくこととかある?」
「ものすごく急に戻ってきて、なんなんですか。第一、もう用事は済んだはずなのに、どうしていつまでも女装を?」
「帝国のいざこざに俺が関わってるって知れ渡っちゃ困る状況は継続中だから、ナツミ・シュバルツの出番も必然なんだ。必要に迫られてってやつだよ」
「――。――――。――――――――。そうですか」
「わかってくれてなさそうな間!」
「何でもありません。とりあえず、ご無事で何よりではありました」
「ああ! まぁ、腹が半分吹っ飛んで死にかけたりしたんだけども」
「は?」
「うあう!」
もちろん、帝都に戻れたタイミングでレムの下に顔を出し、彼女の様子に代わりがないかを確かめるのは欠かせない。
多少の足の痺れは残しつつも、かなり動けるようになってきたらしいレムは、その持ち前の気遣い屋さんな性格を発揮し、ベルステツの屋敷でだいぶ自由にしているようだ。『記憶』がなくても見えるレムの片鱗に、スバルの胸は温かくなる限り。
その周りを相変わらず、ルイがちょろちょろとしている状況は忌々しいが。
「そう言えば、そのナツミ・シュバルツですが……」
「ああ。え、なになに? ナツミ・シュバルツに言うことある? 可愛いとか?」
「違います。……噂を耳にしました。その、皇妃になる、というような」
「それか。なるっていうか、なりそうって噂を流す。戦略の一環でな。諸事情で皇帝閣下が動きにくいんで、名代……正確には、名代の名代って感じだが、それをやる」
「――。危険なんじゃありませんか」
「危険がないとは言わないよ。でも、余所者の俺やレムにとっては、帝国はずっと虎穴に入らずんばの虎穴なんだ。虎穴から大手を振るって出るためなら、危険も冒すさ。できるだけ、勝算のある戦い方でな!」
「その勝算の高い戦い方が、女装ですか?」
「そうそう。……え、可愛くない?」
「――。――――。――――――――。真面目にやってください」
そんなレムの声援を受け、スバル=シュバルツは戦力確保の行脚へ向かった。
道中の目的は各地に駐屯する帝国兵たちの慰撫と鼓舞だが、それにはこれまで妻を一人も迎えてこなかった『賢帝』の皇后候補、ナツミ・シュバルツが大いに役立つ。
自信満々に振る舞い、皇帝の名代だと公言し、その傍らには足りない説得力を補うために『九神将』のチシャ・ゴールドが同行するのだから、十分だった。
そして順調に、スバル=シュバルツとチシャは目的地へ向かい――、
「――おやおやおや、外からのお客人が僕を訪ねてくるとは珍しい! まだ島の興行に本格的に参加したことはないはずなんですがそれでも噂が広まってしまうとはさすがは僕ですね! やはりこの世界の花形主演役者の輝きは隠し通すことが難しいと!」
そう、火の付いた爆竹みたいにキャンキャンとやかましい少年――噂よりも幼い見た目のセシルス・セグムントと、剣奴孤島での対面を果たすこととなったのだ。
足りない決定打の不足を補う手段に、セシルスを呼ぶことをチシャはかなりの抵抗を示していたが、最強の存在というものは代わりになるものがいない。
そのため、スバル=シュバルツは張り切ってセシルスを口説き、帝国に訪れる『大災』を防ぐための剣の一振りに加えようと張り切って、そして――、
△▼△▼△▼△
「さあさあさあ、大一番! 遠からんものは音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 花形役者、セシルス・セグムントのお目見えです!!」
轟々と唸る風、島と陸地とを繋ぐ跳ね橋の島側に立ちながら、無手のセシルスが威勢よく見栄を切る。――剣奴孤島に押し寄せる、黒い影の塊を相手に。
それが如何なる存在で、どれほど危険なものなのか、骨身に沁みているスバル=シュバルツは息を呑み、セシルスの舞台度胸に圧倒されるしかない。
――『九神将』の『壱』であるセシルス・セグムント、彼を剣奴孤島から連れ出す計画は大いに大いに難航した。
島の管理を任される総督のグスタフ・モレロは、非常に頑固で融通が利かず、チシャという説得力の塊を連れたスバル=シュバルツの訴えにも頑として首を縦に振らなかった。
島にいる罪人――剣奴を外に出すなと、そう本物のヴィンセントから命じられていた彼は、正式な手続きにもなお抵抗感を示し、スバル=シュバルツたちを苦しめた。
特に厄介だったのが、強引に島からの脱出を図った剣奴を絶命させる『呪則』だ。
グスタフの有する呪具を媒介に、島を丸ごと範囲に取り込んだ呪いの法則は、知らずに島内に入ったスバル=シュバルツたちにも適用され、脱出を阻んだ。
おかげで、予定外の苦闘を何度も強いられる羽目になったスバル=シュバルツだが、剣奴孤島の難関はグスタフだけに留まらなかった。
目的であるセシルス・セグムントもまた、容易に従わない難物だったのだ。
「これで案外僕は自由であることを無条件に是とはしません。枠線のない紙には絵を描くのも文字を綴るのも自由ですが無闇に無軌道に書かれたそれらが名著・名画となる可能性は著しく低い。どんな名作にも情熱と一定の方向性は必要です」
「クライアントの要求や、納品する〆切りなどのことですの?」
「いいですねえ。皇后候補様とお話していると知らない単語にバシバシとインスピレーションが刺激されて気持ちが上がります! そしておそらくは皇后候補様の仰ることで正しいかと! 物語には要るのです。目的地が」
「でしたら、わたくしたちと……」
「それを僕と皇后候補様とご一緒できるかはまだ決めかねます! なにせ僕は引く手数多の花形役者……今も僕の活躍を期待してやまない方々からの応援の言葉の数々が雨だれの如くこの心を打ち続けているんですから!」
と、説得にかかったスバル=シュバルツに耳を貸しているようで貸そうとしない。
事前に聞いていたより一回りか二回りは幼いセシルスだが、根っこの部分の扱いづらさは健在なようで、グスタフに匹敵するほどの苦労がそこにあった。
それでも、スバル=シュバルツはチシャと協力し、グスタフとセシルスという、剣奴孤島を攻略する上での二人の難関を共に乗り越えようと苦心した。
そしてその挙句に――、
「――あれは、『魔女』か?」
波打つ湖の波濤が押し寄せ、その水飛沫を浴びるセシルスの背後、スバル=シュバルツと並んで影を見るグスタフが、驚愕を押し殺した声でそうこぼす。
『魔女』、そう『魔女』だ。とびきり強力で、手の付けられない最大級の脅威――それが剣奴孤島に現出し、スバル=シュバルツたちの前に立ちふさがる。
笑うセシルスと、戦慄するスバル=シュバルツとグスタフ。
そして、スバル=シュバルツの腕に倒れ込んで血涙を流し、これまでで最も苦しげな顔を見せるチシャ――直前に、スバル=シュバルツの『面』を被った『白蜘蛛』が。
「まさか、わたくしの『面』を被ったから……?」
以前から、『嫉妬の魔女』はスバルが『死に戻り』を口外するのを禁忌としてきた。
その禁忌を犯した際のペナルティの恐ろしさを知るスバルは、『死に戻り』を明かすことを諦め、その権能の犠牲者が己の外に拡大しないよう苦心してきた。
その禁忌を、『面』を被ったチシャにまで適用されるとは、思いもせずに。
「――っ」
血の涙を流しているチシャは、厳密にはスバルの『面』を被れなかった。被ろうとしたが、それが『能』を発動する瞬間にチシャを拒絶し、『面』は砕け散ったのだ。
しかし、未遂を理由に見逃してくれるほど、『魔女』の懐は深くない。気付いたときには空の色が変わり、禍々しい風が吹き始め、世界は壊れ出していた。
そうして、ゆっくりと終わりの使者として、『魔女』が島へやってくる――。
「世界は広く雄大で思いがけないものばかり。――楽しくなってきましたね、皆さん」
ドクドクと脈打つ心の臓に体を内から殴られるスバル=シュバルツに、強がりや虚勢の色の一切ない声で、セシルスが堂々と言い放つ。
この窮地を、窮状を、目前に迫りつつある終焉を、セシルス・セグムントは笑って迎える。そのことにスバル=シュバルツの心胆が震えた。――それが恐怖か、いっそ憧れに近い衝動か、その区別さえつかないままに。
「脅威、には違いないようですが……いささかの揺らぎが、見える次第……」
「チシャさん!」
「驚かせ、お恥ずかしい限りですなぁ。……あの大きさのセシルスに見下ろされるというのも、当方としては避けたい次第で」
こちらははっきりと、強がりと虚勢とわかる声色でこぼし、スバル=シュバルツに支えられていたチシャが体を起こして立ち上がる。
指で血涙を拭い、白い頬に血の痕跡を残したチシャは、立ち尽くすグスタフの背を叩いて、剣奴孤島の総督を正気に立ち返らせる。
「チシャ・ゴールド一将……本職は」
「あなたにしか、できぬ役割がおありのはずですなぁ。ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下は、あなたになんとお命じに?」
「それは――」
「ここは当方たちが。――あなたは務めを果たしなさい、グスタフ・モレロ!」
力強く言われ、息を呑んだグスタフが牙だらけの口元を引き締め、それから猛然と振り返り、島の中枢へと駆け込んでいく。
剣奴孤島には大勢の剣奴と、それを管理するものたちがいる。その彼らに被害が及ばないよう、全員を適切に動かせるのはグスタフだけだ。
そして――、
「あなたも、安全な場所に下がられた方がよいと具申する次第ですが?」
「安全な場所……この島の、どこにありますの?」
チシャの提案に首を横に振り、スバル=シュバルツもまた立ち上がって答える。
湖の黒い水を吸い上げたかのように、小山ほどの大きさとなって迫ってくる『魔女』の影は、島のどこにいようと全てを丸々呑み込む強大さだ。
禁忌に触れたものへのペナルティとしては、『聖域』の墓所でエキドナに『死に戻り』を打ち明けたときの、何もかもを呑み込んだあの展開に近しいか。あのときは、エキドナが光を仕込んだペトラのハンカチがなければ、自害さえ許されぬ窮地だった。
しかし、今この瞬間は――、
「どこにいても同じなら、見届けますわ。――たとえ何度でも」
「不可解な言い回しですが、ストンと落ちるのが不思議ですなぁ」
己の肘を抱いて、スバル=シュバルツはその場から動かぬ覚悟を決める。
実際、逃げ場はない。そして、あの『魔女』に抗う力を持ったものたちが抗し切れなければ、スバル=シュバルツは機会を作り、状況を打破する術を用意するだけ。
その、『死に戻り』をも覚悟したスバル=シュバルツの前で、進み出たチシャが、最前線に立つ青い髪の少年に並んで――、
「待ち望んだ見せ場大舞台晴れ舞台! ここ一番で輝く地上の稲光である僕に並び立つということは覚悟は決まったと期待しても?」
「その大きさでも口の減らぬことですなぁ。……覚悟とは?」
「ははは、誤魔化さなくて構いませんって! 剣奴孤島を訪れて以来僕のことを避けていたでしょう? 皇后候補様は色んな手練手管で僕を篭絡しようとしてくれましたがあなたは僕と触れ合わないことで興味を引いた! 狙ったかどうかはいざ知らず! その前提でこの状況となれば期待せざるを得ません!」
「期待。――あなたの方からそれとは、憎たらしいやらなんとやら」
幼い姿となり、チシャとの接点を忘却しているセシルス。その事実を当然のことと受け止めるチシャは、おそらくセシルスの現状に深く関与している。
そのことをスバル=シュバルツは思いながら、ただ、並んだ二人にこうも思う。
「……頼もしい」
――これが、ヴィンセント・ヴォラキアの見ていた景色。
どれだけ強大な敵が立ち塞がろうと、自分の前にチシャとセシルスが並び立てば、それを打ち砕き、ねじ伏せ、道を切り拓けると信じられる力がそこにある。
そう鼓動に確信させられるスバル=シュバルツの前で、チシャが先に動いた。
ゆっくりと、チシャが己の白い顔に手を伸ばし、『面』を被る――。
「――『雷光』の面」
音を立てて骨が軋み、体格が、肉の厚みが、体の造りが変わっていく。
その、ある種のグロテスクな『能』の変化を目の当たりにしながら、しかしスバル=シュバルツの心にあったのは、正義の味方の変身バンクだ。
何が起こるかを期待させるという意味で、それは紛れもなく変身バンクだった。そしてその変身バンクが明けたとき、そこには――、
「へえへえへえ! これはこれはうっかり見惚れるほどの美青年! どことなく見知った相手の面影を感じるテイストですがこれ如何に?」
「ブレぬ感想で感心する次第」
声を高くしたセシルスの隣、そこに立つチシャの姿が青い髪を長く伸ばした青年のものに変わっている。それが誰なのか、見比べる対象がすぐ傍にあるおかげで、二人の後ろにいるスバル=シュバルツにも一目でわかった。
――『能』で再現されたこれこそが、本来のセシルス・セグムントの姿。縮む以前の、ヴォラキア最強たる『青き雷光』の存在感だ。
「綻びを攻める次第。ついてこられますかなぁ」
「おおっと、言ってくれますねえ! 少々目に留まる心に刻まれる美形だからといってこの僕を置き去りにできるとは思わぬことです。皇后候補も瞬き厳禁!」
本来の自分の姿をしたチシャからの挑発に応じ、最後にスバル=シュバルツにもひと声かける配慮を見せながら、セシルスがゾーリで島の地面をつつく。
その横で全く同じ仕草をしたチシャ――大小二人のセシルスが視線を交わし、刹那、二条の雷光が島に稲光の線を引き、不完全に顕現した『魔女』へ飛びかかる。
それはまさしく、絵物語に長く壮大に語られるべき伝説的な一幕。
迸る二条の雷光が黒い影の怪異とぶつかり合う、一期一会の大舞台の怪演であった。
△▼△▼△▼△
「――明日にも、本格的な衝突が始まるでしょうなぁ」
離宮のバルコニーから煌めく水晶宮を眺め、酒杯を手にしたチシャがそう呟く。
夜の光に照らし出され、眩く美しい光を乱反射する城を遠目に、スバルもまた杯を――中身はミルクだが、それを手にチシャに並び、「そうか……」と吐息をこぼした。
「――――」
何となく沈黙が生まれ、スバルは複雑な胸中の感情を飼い殺すのに苦労する。が、小手先の苦労でどうにかできるほど、この苦心は簡単に攻略できる敵ではなかった。
それこそ、カオスフレームでチシャを救い、チシャに救われて、彼の目的に協力すると手を結び、帝国の問題に介入すると決めてからずっと、消えないしこりとなってスバルに自問自答を強要し続ける難敵なのだ。
その難敵とチクチク体力を削り合っているスバルの横で、酒杯を口に運び、酒で舌を湿らせたチシャが「ナツキ殿」とこちらを呼び、
「あなたにはずいぶんと助けられました。改めて、感謝をお伝えする次第」
「おいおい、センチメンタルだな。決戦前にそういう身辺整理的なこと言う奴は、いざってところでやらかすフラグになりかねないぜ」
「フラグ……セシルスの言うところの『伏線』でしたか」
「そうそう、セッシーのそれ」
セシルス特有の言い回しは難解だが、読み解くと意外と事の本質を捉えていて、芯を食った考え方に感心させられることも多い。
不完全な顕現だったとはいえ、剣奴孤島を襲った『魔女』をチシャと共に退けたセシルスは、「待ちに待った晴れ舞台!」と大はしゃぎで島を飛び出し、良くも悪くものびのびと帝都で出番を待っている。
セシルスが幼い姿になった具体的な経緯は不明だが、見てくれと共に考え方や感じ方まで若返っているなら、いずれ彼が元の姿に戻ったとき、今の瑞々しい感性は失われることになるのだろうか。だとしたら、それはそれで惜しいとも思える。
「心配せずとも、セシルスはいつなりともあの調子でしたからなぁ」
「マジかよ。じゃあ安心……ってならないで、逆の意味で心配になるわ。『壱』のセッシーがあれで、『弐』のアラキアちゃんがあの調子って、よく回ってたな、ヴォラキア」
「全てはヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下の差配あってのこと。――故に、此度の試みばかりは当方も成否の確信はない次第。実際、想定外だらけでしたなぁ」
「俺の登場とかね」
「ご自分で言われるとは」
口の端を緩め、チシャがスバルの言葉に小さく笑った。
想定外という話をするなら、スバルだってチシャに負けてはいない。そもそも、ヴォラキア帝国に飛ばされたところから、一個も想定通りに話が進んでいないのだ。
「強いて言うなら、ナツミ・シュバルツの実在性が王国に続いて帝国でも証明されたことぐらい、か」
「……散々利用している当方に言う資格があるとは思えませんが、あれらの技術は王国で身につけられたものなのか疑問する次第」
「あー、スキル上げはルグニカ仕込みだけど、スキル習得は別のとこだよ。俺の地元で、いわゆる大瀑布の彼方……いけね。この言い方すると誤解されるって、ベア子に散々怒られてたのにまたやっちまった」
「大瀑布の彼方。――なるほど、合点がいった次第」
ベアトロミン不足に指先の震えを覚えるスバル、その隣でチシャが今の話に何やら感じ入ったように頷いた。話の流れ的にスバル=シュバルツのことではなく、そのあとの話題――大瀑布について、だろうか。
「元より、いくらか疑問を抱いておりましてなぁ。王国民であるナツキ殿の価値観が、当方たち帝国のものと違っているのは自然としても、隔たりが大きすぎると」
「隔たりが、大きい?」
「有体に言えば、命の価値を高く見積もりすぎる次第。――より正確に言うならば、他人の命の価値を、というべきでしょうかなぁ」
己の細い顎を指でなぞりながら、そう口にするチシャにスバルは目を瞬かせる。
命の価値、それが大きく意味を持つのは当然のことだろう。命は一個しかない。例外もいるのかもしれないが、そんな特例の話を無視すれば、それは絶対の理だ。
だからこそ、どんな命からも機会が奪われることなど、あってほしくない。
「チシャさんだって、カオスフレームで俺を助けたじゃんか。あのとき、皇帝の『面』を剥いでフェリスのを被ったせいで、想定外オブ想定外が連鎖しただろ」
「それは、ナツキ殿に利用価値があったからに他ならぬ次第。当方の価値基準で言えば、あの場であなたを死なせる損失の方がよほど大きく感じられただけのこと。ですが、あなたはそうした利害で物事を見ない。その理由が、根の価値観でしょうなぁ」
「……育った土とか水で考え方が変わるのはわかるよ。俺、帝国嫌いだし」
「ふふ、快いぐらいはっきりと仰られますなぁ」
「帝国は嫌いだよ。嫌いだけど、その土の上にいる人たちのことまで丸っと嫌いになり切れるわけじゃない。俺の価値基準って、そんなもんだけどな」
特別な物の見方ではない、と少なくともスバルは考える。
無論、苛烈で厳しいヴォラキア帝国の価値観は言うまでもなく、あのルグニカ王国の価値観に照らし合わせても、スバルの考えが甘々なのは自覚している。一年以上も異世界生活をしていても、命のやり取りには永遠に慣れる気がしない。
それを失望の理由にされるのは、ある意味で仕方ないと割り切れる。でも逆に、それを評価の理由にされると、そんな大それたことではないと、思ってしまうのだ。
「そもそも、チシャさんは信じてくれんだ? 俺が大瀑布の向こうからきたって」
「見聞きしたことのない言葉に考え方、いくつかの技術にその価値観。非常識な環境で育てられながら、社会性と社交性を身につけた魔女教徒――と、恐ろしい定義をするぐらいならば、大瀑布の彼方からの来訪者とした方が当方の心の安寧は保たれる次第」
「マジかよ。そのレベルで言い聞かせないと天秤が釣り合わないぐらいの情報なのか……もっとベア子の話は真剣に聞いとくべきだったな……」
チシャをして、魔女教徒と思うよりマシだから信じるというレベルの話らしい。
エミリア陣営ですらそれなりに聞き流される類のスバルの来歴なので、チシャが屁理屈の上でも信じてくれたのはありがたいが、今後は大いに切り出し方に気を付けたい。
「迂闊にレムに俺の昔話する前でよかったぜ。せっかく微々たる勢いで稼いでる俺の好感度がまた下がるところだ。ようやく地の底に達したのに」
「これまでが異様に低すぎると思いますなぁ」
変動値が計測しづらいレムの感情、それに対してチシャのコメントは同情的だ。
お互いの胸襟を開き合う過程で、チシャにはレムが『暴食』の大罪司教の被害に遭い、その結果、スバルとの関係を忘れたことは伝えてある。
もっとも、さっきの大瀑布関連の受け取り方を考えると、スバルがレムに対して拗らせた執着心を抱いた邪悪なストーカーと思うよりマシだから、の可能性もあるが。
「――元々、当方はセシルスを呼び戻すつもりはありませんでした」
「え?」
ふと、話の流れの変わる雰囲気にスバルは意表を突かれ、目を丸くした。
見れば、チシャはバルコニーの手すりに酒杯を置き、空になった自分の手を開閉しながら、その金色の瞳で水晶宮を――否、帝都そのものを眺めている。
その雰囲気の変化に、スバルもまた杯を置いて、同じ光景に目をやった。
「すでにおわかりでしょうが、あれを幼い姿に変えたのは当方の『能』でしてなぁ。相応の理由あって、ああして剣奴孤島へ送りました。それも全ては――」
「来たる『大災』に備えるため、だろ? セッシーを縮めて島に放り込んで、それで何が得するのかわかんないけど……あ、いや、もしかすると、ゴズさんと一緒?」
「当たらずとも遠からず、としておく次第。なにせ、誰もセシルス・セグムントと同じ高みに並び立つことはできませんからなぁ。――『剣聖』や『礼賛者』ら以外には」
「……ここでも名前出るの、さすがワールドワイドだぜ、ラインハルト」
実際のところ、セシルスの戦闘力が常軌を逸したものなのはスバルもこの目で見た。
『魔女』を相手に繰り広げられた大立ち回りの中で、『青き雷光』の真価は確かに発揮されていた。――ただし、それを発揮していたのは幼いセシルス本人ではなく、その『面』を被った、大人セシルスに扮したチシャの方だったが。
ラインハルトの超絶戦闘を二度間近に見たことのあるスバルの目には、確かに大人セシルスの力量は同じ超越者の括りに入れていいものと、そう思われた。
だが――、
「強さって話ならそうだけど、並んで立つのに必要な資格ってそれだけじゃないでしょ」
「――。と、言いますと?」
「いや、ギヌンハイブであのでかい影にチシャさんとセッシーが挑んだとき、俺がヒロインメンタルのナツミ・シュバルツだったのもあると思うけど、感じたんだよ。――この並んだ二人、帝国最強じゃんって」
「――――」
「チシャさんが、大人のセッシーに化けられたからって話じゃないぜ? あのときの俺が感じた頼もしさって、そうじゃなくてさ。強いから勝てるわけじゃなくて、そういう次元とは違う話っていうか……うまく言えねぇなぁ!」
頭をガリガリと掻き毟り、スバルはあのときの熱を伝える術を探し求める。
ただ強いから強いのと違い、同じ強さだから並べるのとも違い、1+1の答えが2じゃなくて、もっと大きな大きな数字になるような、そんな特別感。
「正直、これだけ勝手しまくったんだ。もしかしたら、チシャさんの真意を知っても、皇帝閣下はめちゃめちゃぶちギレて許してくんないかもしんないけどさ。俺は、ヴィンセント皇帝は果報者だと、そう思う」
「閣下が果報者、ですか。それは当方も同意見ですなぁ」
「あ、ここは謙遜しねぇんだ?」
「己は当然として、他者の能力を正しく把握することは、帝国における当方の役割としては必要不可欠な物差しである次第。何より、己の実力を知らしめる意図を持たぬものは、この剣狼の国では喰われるのみですからなぁ」
「超実力社会、超能力主義、超競争原理……わかるけど、俺はヴォラキアがそれだけの場所じゃないってところに、ちょっと希望がある」
そう言って、スバルはくるっと反転して手すりに背をもたれ、夜空を仰いだ。
煌めく水晶宮を北端に置いた、星型の城塞を象る帝都ルプガナ、その空には満天の星々が輝いていて、名前のわからぬそれらにスバルは目を細める。
名前のわからない、見覚えや接点のない星々が、本来なら見えることのなかったこの星空が、まさしくヴォラキアで出会った人々と同じに思えて。
「ベルステツさんは、あれで意外と熱血だね。チシャさんは超帝国主義って評価してたけど、俺はあの人、情熱家だと思った。たぶん、密かに約束とか大事にしてるタイプ。マデリンちゃんはなかなか心を開いてくれないけど、結構面倒見がいいんじゃねぇかな。傍にいた人が良かったんだと思う。今は、思いやりの使い道に迷ってる感じ?」
「それはそれは、いささか柔らかすぎる見方と感じる次第ですが……なかなか興味深いので続きを拝聴したいですなぁ」
「そんな大それたもんでもないけど。オルバルトさんは腕が一本なくなったってのに、ちっとも悲壮感を感じさせないのは年の功なのかな。悪ぶってるけど、若い連中に案外情はありそう。モグロっちとはまだちゃんと話せてないんだけど、実は帝国で一番の真人間の可能性、俺、期待してます」
カオスフレームへの同行後、なくした腕に武器でも付けるかと、こちらの罪悪感に配慮してくれたみたいなオルバルト。水晶宮の警護を担当するモグロとは、しょっちゅう都市の外にいたスバルは接点が少なかったが、言葉少なな中にも気遣いがあり、こちらを離れたアラキアや囚われのゴズをよく気にかけていた。
「カフマさんは、レムが使い方思い出してくれた治癒魔法が効いたもんだから、レムの強火担当になってて正直笑う。でも、俺がバタバタしてる分、マデリンちゃんもそうだけどレムを気にかけてくれる人がいるのはありがたい。あと、ウビルクは……あー、えーと、なんて言うかな。組織の潤滑油的な働きが……」
「思いつかないのであれば、無理してよい点を探されずともよいかと思う次第」
「で、セッシーはセッシーなんで割愛するとして……あとは、チシャさんか」
「――――」
「なんだかんだ、帝国に飛ばされてきてからこっち、ずっとチシャさんには助けられ……振り回され? 付き合わされ……」
「いずれに落ち着こうと、当方としては心外の粋を出ませんなぁ」
なかなか評価の定まらないスバルに対し、チシャが嘆息と共にそう述べる。
振り回したや付き合わせたはいざ知らず、助けられたという評価すらも心外扱いするところが、何ともチシャ・ゴールドという人物の気難しさだ。
ただ、そういう部分も含めて、短い時間でよくよく共に過ごした相手だから。
「良くも悪くも、俺の帝国エピソードの八割に関わるのがチシャさんだよ。俺にとっちゃヴォラキア帝国はイコールでチシャ・ゴールドってことだ」
「畏れ多い。ここは剣狼の国、ヴォラキア帝国はヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下の国に他なりませんので、その考えは改めていただきたいものですなぁ」
肩をすくめて冗談めかし、そのヴィンセント・ヴォラキア皇帝を玉座から追い払って、帝国を好き放題に掻き回した謀反者がそんなことを言う。
それをスバルは「ナイスジョーク」と称え、しばらく二人で笑い合った。
それから――、
「これもフラグなり伏線なりになりかねないから言うかどうか迷うんだけど……この、チシャさんの狙いがうまくいったあと、どうする?」
「どう、というと?」
「いや、しでかしたことがしでかしたことだから、仮に全部打ち明けても、ヴィンセント皇帝がチシャさんを許してくれるかわかんないじゃん? だから……あれだよ。もしも帝国に居場所がなくなったら、今度は俺が王国を案内するぜ!」
「ほう、ルグニカ王国を、大瀑布の彼方からきたナツキ殿が?」
「一応、王国暮らしも一年以上だから、近場の案内ぐらいできらぁ!」
どのみち、レムをルグニカ王国に連れ帰れたなら、その『記憶』を蘇らせることばかりを目的にしたくはないが、彼女の見知った土地を巡る旅はしたいと思っていた。
もちろん、エミリアの王選のこともあるから、自由時間が多く取れはしない。そんな旅路の一幕に、エミリアやベアトリスたち、そして帝国を追われた白い剣狼がいたとしても、スバル的には悪くないという感覚だった。
「ただでさえ、ハーフエルフという問題を抱えた方をお支えする立場で、そうした手の広げ方はいささか節操がなさすぎるかと思う次第。その分だと、ナツキ殿のいらっしゃる陣営の調整役は、さぞかし苦労が嵩んでおられるでしょうなぁ」
「ぐ……いいの! あいつは苦労を背負いたがる性質だし、格好つけないで何でも言っていいって言われてるもん!」
「もんとは」
まあまあ真っ当な指摘を返され、スバルは唇をへの字に曲げる。
その話の逸らし方は、つまるところはフラれたということになるだろうか。無論、帝国の明日のために踏ん張るチシャに、帝国から追い出されたあとの展望を持ちかけるなんてのは、ノンデリどころの話でないのもわかってはいたが。
「もう帰る場所がないとか、居場所がなくなるとか、そういう悲壮な背水の陣を敷いてどうにかしようとするの、俺は好きじゃねぇんだ。だから、差し伸べたい手は差し伸べる」
「ナツキ殿……」
「ほい! 決戦前夜のフラグ建築は終了! 俺のしたい話は全部……あ、レムの生活、面倒見てくれてありがとう。よくしてくれて本当に助かった。……ものすげぇ複雑だけど、ルイもついでにありがとう」
スバルが帝都に不在の間、ますますレムとの関係性を深めたらしいルイ。
今のところは大罪司教らしい悪さは一個も働いておらず、それどころか献身的にレムに尽くしているようだが、根っこのところはわからない。――そうでなくとも、レムを王国に連れ帰るとき、彼女をどうするかは頭痛の種だ。
この頭痛の種をどう育てるかも、オットーへの相談案件だろうか。
「――――」
と、そんな風にオットーの胃痛の増大を計画しているスバルの傍ら、チシャが珍しく眉を顰め、何事か言おうとして唇を開き、閉じる。開いて、閉じる。三度も。
それが何らかの躊躇いが生んだもののように思え、スバルは首を傾げる。
「チシャさん、なんか立てるフラグあった?」
「――。いえ、むしろその逆ですかなぁ。危うく伏線になりかねない発言をしかけてしまいましたので自重した次第。セシルスやナツキ殿に中てられるところでした」
「俺、セッシーと同じ枠!? マジで!?」
含み笑いをし、そう言ったチシャにスバルは目を見開いて仰天する。そのスバルの反応に多くを語らず、チシャは手すりに置いた酒杯を取り、酒を呷った。
人知れず、帝国を揺るがす『大災』を退けるための策を講じ、あるいは事実が明らかになったあとも後ろ指を差される生き方をせざるを得ないかもしれない男、忠誠を捧げた主さえ欺いた彼の戦いの結実が、間近に迫りつつある。
その望みが成功に行き着くことを祈る反面、ようようルグニカ王国へ帰還するはっきりとした道筋が見え始め、スバルも拳を握りしめる。
そして、込み上げる熱の訴えるままに、その拳を空に突き上げて、
「やろうぜ、チシャさん。この戦い、俺たちの勝利だ!」
「そこまで熱くはなれない性分ですが……心意気は買いたい次第」
そう言って、チシャは勢い任せでなく、酒杯を夜に掲げ、スバルの拳と合わせた。
お互いに、望んだわけではない不条理から始まった共闘――否、共犯関係。ヴォラキア帝国を欺く大嘘つきたちの、それは確かな誓いの夜だった。
――そしてそれが、ナツキ・スバルとチシャ・ゴールドの、最後の夜だった。
△▼△▼△▼△
肩を揺すられ、頬を叩かれ、意識を覚醒に導かれたナツキ・スバルは、目覚めたそこがベルステツの屋敷の寝室ではなく、狭苦しい箱の中だったことに驚愕した。
「うー!」
と、そう高い声でスバルの目覚めに一役買ったのは、その狭苦しい箱の中、ぎゅうぎゅう詰めの場所にスバルと同じように収まったルイ・アルネブ。
その破顔したルイの向こうにレムの姿を見つけ、スバルは跳ね起きる。箱の天井に強烈に頭を擦り付け、痛みと熱に「ぎゃおう!」と悲鳴を上げる。
そして――、
「――ルグニカ王国へ向かう竜車の中です。そう話しているのが聞こえました」
「は、ぁ? なんで、そうなる? だって……いや、だって! もう反乱軍が!」
「私だってわかりません! 突然のことだったんです。強引に竜車に押し込まれて……あなたは、ちっとも起きませんでしたけど」
「馬鹿言え、俺は寝起きはいい方で、こんな騒ぎがあったらすぐに……」
目を覚ますはず、と言いかけて、実際に起きれなかった事実と照らし合わせる。そうなったとき、スバルの脳裏を過ったのは、昨夜口にしたミルクだ。
離宮のバルコニーでチシャと語らいながら飲んだミルク、あれはチシャがスバルのために用意したもので、話し終えた直後から、急激な眠気に襲われた記憶がある。ふらふらと与えられた部屋に戻り、そこで泥のように眠って――、
「チシャさんに嵌められた……! 何を考えて……馬鹿か俺は。いや、馬鹿だ俺は。チシャさんが何考えてるかなんて、一発だろ」
決まっている。この状況を組み立てたチシャの狙いは明らかだ。
チシャは、一人でやるつもりなのだ。ここまでスバルの手を借り、盤面を整えてきたチシャは、最後の最後、皇帝にもそうしたように、スバルのことも盤面から取り除き、自分だけで『大災』との最後の戦いを始めると決断した。
最初からそのつもりだったのかとか、どこから騙されていたのかとか、そうした女々しく取り返しのつかない泣き言が頭の中を荒れ狂い――それを、シャットアウト。
今この瞬間、ダメだダメだと嘆いていても、仕方ない。
「何とか外に……」
「難しいと思います。何度か試しましたが、頑丈な箱で、びくともしません。王国との国境を越えたところで、解放される……みたいです」
「それじゃ、帝都決戦に間に合わねぇ! おい! おーい! 誰か! 開けてくれ! 開けなさい! わたくしは、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下の皇后候補、ナツミ・シュバルツですわよー!!」
ガンガンと箱の壁を叩きながら、ナツミ・シュバルツぶって叫んでみるも、竜車側からのアクションは何も起こらない。当たり前だが、目覚めたスバルたちが何を言っても耳を貸さないよう、これを仕組んだチシャに言い含められているのだろう。
「――っ、インビジブル・プロヴィデンス」
ぐっと奥歯を噛みしめて、スバルは己の内側にある不可視の腕――『インビジブル・プロヴィデンス』を発動し、箱の破壊を目論む。
だが、元の持ち主だった『怠惰』の大罪司教と違い、スバルのそれは目に見えないこと以外、スバルにとっての三本目の腕という判定と大差ない。スバルの両腕で壁が壊せないなら、その一本を以てしても無理なものは無理だった。
「せめて、箱の鍵が簡単なやつだったら、インプロで開けられたのに……」
反動の体の軋みだけを味わい、スバルは策の失敗に歯噛みする。
そう奮闘するスバルの傍ら、すでに同じような悪戦苦闘を繰り返し、壁に小指の先程度の凹みをいくつも作ったレムが張り詰めた表情をしている。――彼女もまた、今このときに帝国を離れることを良しと思っていないのだ。
スバルの人質としてベルステツの屋敷に置かれたレムだが、その暮らしの中で治癒術の使い方を思い出し、帝国では貴重な存在として重宝されていた。
その働きに充実感を覚え、レムはレムなりに帝国の中で交友関係を作っていたのだ。友達もできたと、そういう話も耳にしていた。
「マデリンさんもカチュアさんも、帝都に残ったままで、私は……」
別れの挨拶もさせてはもらえていないだろう。
スバルも、チシャと交わした最後の言葉は、「寝る前にトイレいかないと」だったような気がしてならない。眠気が限界だったとはいえ、なんて体たらくだ。
「クソ! 出してくれ! せめて、せめて話し合えよ! 勝手に進めやがって!」
「あー、う?」
「うるせぇ! いつもだが、今は特にお前に構ってる場合じゃねぇんだよ!」
壁を叩くスバルを横から覗き込み、心配している風な顔をするルイを怒鳴りつける。それが八つ当たり以外の何物でもない自覚があって、相手が大罪司教とはいえ、激発の矛先にした自分に嫌気が差す。
その情けないスバルに代わり、怒鳴られたルイをそっと後ろからレムが抱きしめた。
そして――、
「うー?」
「……大丈夫、ではないです。ルイちゃんに心配をかけたくないから、大丈夫だって言い張りたいんですけど、今は。私も、この人も」
「うあう、えう。――あー、う」
抱きすくめられるルイが、瞳に涙を浮かべたレムの言葉に目をぱちくりとさせ、それからわずかに表情を引き締めたと思うと、その手を伸ばし、スバルに触れる。
その感触に、スバルが奥歯を噛みしめた。――直後だ。
「――ぁ?」
次の瞬間、不意に視界がブレたかと思った刹那、スバルは街道に座り込んでいた。
「え、あ、え? 外……にしても、外すぎる!」
わけのわからない声を上げ、狼狽えたスバルが立ち上がる。と、いきなりの現象に仰天するのはスバルだけではない。ルイを抱いたレムも、そこに座り込んでいた。
三人で、箱の中にいたのと同じ並びで、街道に――。
「今の、テレポート……転移? まさか」
「う!」
答えを直感したスバルの前で、勢いよく手を上げたのはルイだった。
それは、ルイの持つ力――否、『暴食』の大罪司教としての権能の力だ。プレアデス監視塔にいた『暴食』は、短い距離をテレポートする能力を誰かから喰らっていた。それを使い、ルイはスバルとレムを連れ、竜車の外に脱出したのだ。
「ルイちゃん、すごい……」
「すげぇ、って正面から褒めるのが癪だが、ここはよくやってくれた! お前、そのテレポートで一気に帝都まで戻ったりできないか!?」
「うー? あう、うーあうう」
勇んで肩を掴み、ガクガクと頭を前後に揺するスバルにルイが目を回しながら首を横に振った。それが否定のニュアンスとわかり、スバルは悔しがる。
竜車からの脱出が叶ったのはありがたいが、おそらく、帝都からかなり離れたところまで連れ出されてしまった。今から徒歩で、しかも足が回復し切っていないレムを連れた状態で、帝都に戻るまでどれだけかかるか。
いっそ、レムには悪いが、彼女にはこのまま国境の外を目指してもらい、スバルだけが自力で帝都に戻るという方策も――と、思ったときだった。
「――――」
不意に、甲高い音がレムから発せられ、スバルはぎょっと振り返る。見れば、謎の高音を発したものは、レムが口に当てた小さなホイッスルのようなものだった。
それが何なのかと目を丸くするスバルに、レムは「竜の骨笛です」と告げ、
「マデリンさんからもらいました。前に、マデリンさんの服を繕ったとき、とても大事な服だったから報いる、と。この笛を吹いたら――」
「笛を吹いたら……って、うお!?」
マデリンが寄越したという竜の骨笛、それを吹いた成果が空から舞い降りてくる。
それは、竜人であるマデリンが多く従える飛竜の内の一頭だろうか。特殊な育て方以外では一切人に懐かないという凶暴な性質の飛竜、それが笛を手にしたレムの前に跪き、頭を垂れて従う意思を見せている。
たぶん、マデリンに言いつけられ、レムに従うよう命じられているのだ。
「こいつが乗せてくれるなら、帝都にも!」
「さっき、私とルイちゃんを置いて、一人で帝都に戻る算段を立てていませんでしたか?」
「悪かったよ! でも悪気はなかったんだよ! お前が大事で愛おしいだけなの!」
「は? 乗せませんよ?」
「もうできるだけ言わない! 乗せてくれ!」
焦りと興奮で葛藤を見抜かれ、バタバタしながらスバルはレムに懇願する。そのスバルの言葉にため息をつき、レムは差し伸べた手でルイを引き寄せると、
「どんな速度が出るかわかりません。しっかりしがみついてください」
「おう! なんやかんや言って、飛竜に乗れる機会も初めてだがそれどころじゃねぇ」
空を飛ぶ生き物の上に乗り、自由に大空をはばたくというのはなかなか経験できるものではない。同じ条件でスバルが空を飛んだのは、今のところはロズワールとだけだ。
そんな益体のない感慨を抱きながら、スバルは後ろからレムとルイの腰を抱き、ひょいと二人を持ち上げて飛竜の背中に飛び乗った。
そして、「ちょっと!」と抗議するレムに謝りつつ、
「戻るぞ、帝都! このまま、俺たちがドロップアウトで物語を閉じれると思うなよ!」
△▼△▼△▼△
「――チシャさん、その時は目前です」
帝都決戦の始まる直前に、チシャを訪ねたウビルクはそうお告げをしていった。
『星詠み』の立場にあり、彼らが『星』と称する天上の観覧者――この世界の理を築き上げ、絶対的な隔たりを是とする存在からのコンタクトに、チシャは反吐が出る。
「コンタクト、などとナツキ殿の影響ですなぁ」
自分の胸中に呟かれた単語を意識し、チシャはふっと唇を緩めた。
眠らせ、昨夜の内に帝都から運び出したスバルと、連れのレムとルイは、真っ直ぐに帝国と王国との国境へと向かわせている。チシャへの忠誠心の高い兵たちは、何の説明もないそれを受け入れ、戦場から遠ざかることになる指示に躊躇なく従ってくれた。
存外に、自分は人に恵まれていると、そうチシャは感慨深く思う。
「それはそれはもちろんそうでしょう! なんと言ってもこの僕がついてきているわけですからそこのところは疑う余地はありません!」
「……すでに配置を命じたはずですが、あなたは何ゆえにここにいるのですかなぁ」
と、水晶宮の通路で出くわした幼い姿の『青き雷光』に、チシャは眉を顰める。しかし、そんな質問は愚問とばかりに手を差し出し、セシルスは「ナンセンス!」と叫ぶと、
「僕のことはわかっているでしょう? 世界の花形役者たらんとする僕ですから晴れ舞台には必ずや間に合うことは確約されています。実際こうして帝国を揺るがす大戦の場面にもしっかりと立ち会っているわけですから」
「それは当方と、ナツミ・シュバルツ殿があなたを迎えにいったからでは?」
「そ・れ・が! 必要なときに僕に訪れる導きだと言っているんです。仮にですよ? もし仮に僕を迎えにきたのがマムやあなたたちでなかったとしても! あるいは迎えが出されることがなかったとしても! 僕はきっとこの戦場に居合わせたでしょう。それが如何なる運命の悪戯であろうともです」
「相変わらず……『星詠み』ですら、星からの伝達事項をもう少し奥ゆかしく伝えてくるものですが、あなたには何を言ってもでしたなぁ」
「当然でしょう。容易くぐにゃぐにゃと捻じ曲がるような人間性の持ち主がどうやって魅力的な主演役者と愛されます? 刀は持たずとも信念はいずれも持ち合わせるもの。それは僕に限らずあなたやマムも同じですよ」
ビシッと指を突き付け、セシルスがいつもの調子で言ってくる。それがあまりにもいつもの調子すぎるものだから、彼が小さいことを刹那だけ忘れるほどだった。
マムと、セシルスがそう呼ぶナツミ・シュバルツ――転じてナツキ・スバルにも、確かに彼が言うところの『甘さ』と称されるような信念があった。
ならばはたして、チシャ・ゴールドにはあるだろうか。――信念が。
「ありますよ。――あなたもまた僕が認めた役者の一人なのですから」
「当方を選んだのはあなたではありませんなぁ。それだけは言わせていただく次第」
「おやま、手厳しい。ととと、そろそろ開戦の気振りですね」
すんすんと鼻を鳴らして窓の外を眺め、セシルスがその青い瞳を細める。
それが単なる仕草の一環なのか、本気で戦いの気配を鼻で嗅ぎ取ったのか、チシャには確かめようもなかった。
ただ、くるりと背を向け、今度こそ命じられた戦場へ征かんとする彼に、チシャは「セシルス」とそう呼びかけ――、
「すでに一度、告げたいことは告げたあとなので恐縮ですが、せっかくなのでもう一つ」
「ほうほう、なんでしょう。戦場に向かう花形役者に景気のいいやつを頼みますよ」
「あなたと竜車を進ませ、車輪の轍を付けるのは存外に快い日々でした。――武運を祈ります、セシルス・セグムント」
「――――」
そう、自分でも思った以上に穏やかな声が出て、チシャは驚きを静かに消化した。それと同じ言葉にセシルスは軽く目を見張り、それから見慣れた笑みを作ると、
「――パーフェクト!!」
△▼△▼△▼△
騙し、偽り、嘘をつき、謀り、罠にかけ、嵌めて、欺いて欺いて欺いてきた。
欺くのは好きではなかった。だが、得意分野だった。
『能』がチシャ・ゴールドに宿ったのは偶発的なことだったが、それがもたらすことになった結果を思えば、必然――否、『伏線』だったように思えてならない。
などとそう考えてしまうのは、いささか物語脳が過ぎているだろうか。
「ですが、仕方ありますまい。当方が、どれだけセシルスと共に過ごし、あの野放図で快活な言葉の波に晒されてきたことか」
その考え方に共感こそしなくても、影響を受ける面は多々ある。
何も、セシルスの意見の全部が馬鹿馬鹿しいと切り捨てられるものでもない。あれで意外とセシルスの言葉には含蓄がある部分もないではない。
特に、人は皆役者で、舞台の上で果たすべき役割があるのだと、そう言い切れる考え方には理解があった。――ならば、チシャ・ゴールドの役割とは。
「存外、感慨も湧かぬものだな。――追われた玉座を、こうして下から仰いでも」
「――――」
我が物のように堂々と、敷き詰められた赤い絨毯を踏みながら、やってきた男を玉座から迎え、チシャは黄金の瞳を細めた。
現れたそれは黒髪の美丈夫、顔に鬼を模した面を被り、皮肉にも『面』を被ることを生業とするチシャと向き合うのは、帝都に迫りし叛徒の長――否、この神聖ヴォラキア帝国の本物にして唯一の皇帝、ヴィンセント・ヴォラキアその人だった。
「――ベルステツと結び、俺を追放して望みは叶ったか?」
多くを退け、数多の苦難に見舞われながら、ヴィンセントは己の城に戻った。
決して身体的に優れたわけではなく、玉座を追われた立場では頼れるものもなく、本当に自身の智謀と言葉の力だけが武器だったはずの、その皇帝の凱旋だ。
帝国の頂が、チシャ・ゴールドの主が、望みは叶ったかと問うている。
「残念ながら、いまだ叶ったとは言い難い次第。それ故に、もう今しばらく、閣下にはご協力いただきたいことがありますなぁ」
「これだけ奪い尽くしてなお、まだ俺から何かを欲さんとするか。俺の見立て以上に欲深い面があったのだな、貴様は。――だが、欺瞞だ」
「――――」
「俺を玉座からどかし、貴様が得ようと思ったものは実体のない霞に過ぎん。徒に戦火を拡大し、帝国は無用の炎に焼かれつつある。――今すぐ、消す術もあるがな」
言いながら、ヴィンセントが己の顔に手をやり、鬼面を外した。
そうして露わになった彼の素顔は、『面』を失ったことで、チシャには鏡の中の対面すら叶わなくなった主のものに相違ない。おそらくは相応の苦労を重ねたためだろう。玉座にあった頃よりわずかに顔色は悪く、頬骨も薄く浮いている。
それでも、皇帝としての激務をこなしていた頃と、玉座の奪還のために奔走する日々との疲労感が比較になる時点で、ヴィンセントの在り方は自分を蔑ろにしすぎだ。
――そう、この皇帝閣下は、自分を蔑ろに、しすぎなのだ。
「俺が――」
「――閣下」
何事か続けようとしたヴィンセントを遮り、チシャが主の名を呼んだ。
その瞬間、瞼を閉じてもいないのに、脳裏に幾人もの顔が過る。過った中の全部、その全部を欺いた罪悪感を胸に、チシャは息を抜き、
「――盤面を俯瞰しすぎることが、あなたの大きな欠点ですなぁ」
瞬間、チシャは後ろ手に回していた手を己の顔に被せ、『面』を被る。軋む音と共にチシャの肉体に変化が生じ、背が縮み、筋張った肉体が変形し、胸が膨らむ。そうして、ヴィンセントの前に顕現する、切り札――、
「――『太陽』の面」
プリスカ・ベネディクト。
当時、その名前で呼ばれ、今や隣国のルグニカで王選候補者の一人に名を連ねる、ヴィンセント・ヴォラキアの最大の弱点の『面』を被り、チシャが笑う。
そのありえぬ邂逅に息を呑んだヴィンセントへと、床を蹴ってチシャは飛んだ。軽やかに舞うように、チシャは硬直するヴィンセントの顔に手を伸ばし、そして――、
「――『賢帝』の面」
素早く、『能』を以てヴィンセントの新たな『面』を形作り、被ったばかりのプリスカの『面』を脱ぎ捨て、それを被る。
再びの成り代わりの音が響く最中、チシャは変わっていく己の体に耐えながら、硬直するヴィンセントに対し、さらに追加で行動した。
ヴィンセントが外した鬼面を奪い、それでまた皇帝の素顔を隠したのだ。
「貴様――」
何のために、誰のために、どうして。
起こった出来事に対し、賢すぎる皇帝が答えを求めるように声を震わせる。だが、チシャの言葉なしに、きっと皇帝はその答えには辿り着けない。
今しがた、ヴィンセントに告げた通りだ。
盤面を俯瞰し、物事を効率的に考え、全ての駒の価値を一律に定義する。
そこに、自分が舞台の役者の一員であるという自覚の欠けたヴィンセントには、チシャの行動の真意など、決して伝わるはずもない。
だが、それでいい。真意など、伝わらずとも構わない。
欲しいのは、結果だ。
チェシャ・トリムという取るに足らない端役だった存在が、チシャ・ゴールドという『面』を被って、そうして得た全てを欺いてまで求めたものが、得られるかどうかの結果。
それを自分が見届けることはできないが、確信があった。
観覧者を騙し、『大災』を罠にかけ、ヴィンセント・ヴォラキアを欺き切ることさえできたのなら、チシャの欲しいものは必ずや輝きを放つ。
だから――、
「――――」
突き飛ばされ、微かに頬を硬くしたのが鬼面越しにわかる。
きっと、多くのものがその真意を取り違えるだろう表情。賢すぎるが故に、省くべきでない言葉を省くことも多い皇帝は、その表情すらも口数が少なかった。
おそらく、この表情の意味を正しく受け取ることができるのは、長年、この皇帝と一緒にやってきた自分ぐらいのものだろう。
「ああ、ですが――」
もしかしたら、あるいは、ひょっとするとと、期待してしまう。
この、ヴィンセント・ヴォラキアという素晴らしく賢き皇帝であり、あまりにも愚かで自己評価の低い一人の男を、真っ直ぐ見てくれるものがいるかもしれない。
そう思ってしまったのも、仕方ないだろう。
「――――」
城壁を打ち破り、突き飛ばされたヴィンセントを避ける形で、皇帝の『面』を被ったチシャの胸が光に貫かれたとき、窓の外に見えたのだ。
――遠ざけたはずの共犯者が、飛竜の背に乗り、この場へ飛びつけるのを。
心の臓を貫かれ、生きられるものはいない。
故に、それは必然の出来事、訪れるべくして訪れた運命の終着点。
「――――」
男は死んだ。
チェシャ・トリムであり、チシャ・ゴールドとなって、そしてヴィンセント・ヴォラキアとして、男は死んだ。
忠義を捧げた主と、その主を欺くのに加担した共犯者の見ている前で、死んだ。
――それが、この瞬間に起こった出来事の、全てだった。
△▼△▼△▼△
――そうして、物語は本来あるべき形へと収束し、『大災』の時を迎える。
蘇りし死人の群れは、帝国の滅びを望む『魔女』に率いられ、世界を燃やす。
集められた『九神将』たちは、正史とは異なった陣につき、あるいは生死さえも結末を変えながら、己の武の最大を尽くすべく、命を燃やす。
離れ離れになった大事な少年を探しに隣国へ渡った彼女たちは、帝国に訪れる壮絶な転機に立ち会い、その中でも希望をなくさず、絆を燃やす。
そして、本来あるべきではない二振りの『陽剣』の片割れを有する太陽の如き女は、在り方を歪められた死人の群れに、自らへの怒りを発露する『魔女』に応えるために、変わらぬ傲岸な美貌を輝かせ、魂を燃やす。
その、炎と炎と炎に彩られた物語の中心で、あらゆるものを欺き切った男の死を見届けたものたちは、声を嗄らし、血の涙を流し、魂をひび割れさせながら、運命を燃やす。
「――立て! 諦めんな! 諦めるのだけは絶対に許さねぇ! あいつが何のためについた嘘か、お前はとっくにわかってるはずだ!!」
「黙れ、凡愚。貴様がいったい、俺の何を物語る。俺は――」
「お前は!!」
「「――神聖ヴォラキア帝国、第七十七代皇帝、ヴィンセント・ヴォラキア」」
屈しかけた膝を震わせ、男は立ち上がる。
泣きじゃくりそうな心を必死に繋ぎ止め、少年は拳を握る。
力の及ばなかった自分を責めながら、まだできることがあると少女が顔を上げ、その少女に寄り添う幼子が、帝都を揺るがす『大災』を指差し、吠える。
砕かれた城壁の大穴、そこから街並みを見下ろし、男たちが並んだ。
並んで視線を交わし、ナツキ・スバルとヴィンセント・ヴォラキアが、本来ならもっと早くに交わるはずの宿業を交えた二人が、運命を欺き切った男に託された二人が、押し寄せる『大災』を打ち滅ぼし、あの男の欲した未来を掴むため、前を向く。
「俺は貴様らの皇帝、ヴィンセント・ヴォラキア。――帝国の剣狼、その一頭だ」
「俺の名前はナツキ・スバル、天下轟雷の行きずりだが、チシャ・ゴールドって大嘘つきの共犯者!」
二人が自らの立場を表明し、声高に、力強く、帝都の空に自らを響かせる。
やってくる『大災』、恐るべき敵の群れ、それらが押し寄せたとき、最も戦力が帝都に集中するよう盤面を組み立てたのだと、ナツキ・スバルは頬を歪める。
そして――、
「勝手に渡されたバトンは受け取ったよ。――運命様、上等だ!!」
△▼△▼△▼△
――これは、ありえたボタンの掛け違い。
歯車の狂い一つで物語は大きく捻じ曲がり、運命のレールは容易く行き方を変える。
起こるはずのない流れが変われば、宿命の奔流は人を木の葉の如く翻弄する。
それでも、だ。
それでもなお、まつろわぬままに変わらぬ彼岸に辿り着くことがあるとしたら。
それはきっと、決して揺るがぬ強固な望みが、その天命を欺き切ったときだけ。
その、一世一代の嘘こそが、男の生涯の意味であり――、
「――当方の、一度限りの晴れ舞台と、そう幕引きさせていただく次第」
《了》
というわけで、恒例のエイプリルフール企画でした!
本編では出番が少なく、その真意を最後にバーッとぶちまけていなくなった男。
スバルとの接点がほとんどなかったため、大事な部分以外の明かされないキャラクターでしたが、もしもの世界線で遭遇することがあったなら――と、IFの七章となりました。
こちらの世界線だと、ちらほらと関わるキャラクターが違ったり、スバルが辿るイベントの展開が変わったり、深く関われる相手と関われない相手がいたり、なかなか面白い。なお、どちらのルートであろうとスバルは女装をする。宿命だから。
ともあれ、今年もお付き合いありがとうございました!
これは帝国編が終わった、今回のエイプリルフールでしかやりたくなかったのでよかったです!
本編とアザムクでどのぐらいキャラクターの立場とか生存者が変わるの?という話については、また別のタイミングで活動報告などに上げられればと思います!
じゃあ、ありがとな! いい夢見ろよ!




