第九章16 『共犯者』
――最初に感じた『それ』は、目を開けながら見る悪夢のようなものだった。
「ぶ、ぶ、ぶ……」
理解を、頭ではなく、魂が拒絶するような感覚。
まるで、張り詰めた糸を切るように断ち切られた『直前』の感覚、それは完全に今の自分と別物と切り離されているのに、体が認めたことを魂が認めない。
悪夢は、続いていた。
悲鳴を上げるために開かれた口から体内に入り込まれ、体の中身を中から貪られていく耐えられない喪失感、ありえない終幕感、許されない冒涜感。
己の存在を食い荒らされる感覚を、いったい、誰が、受け止められるというのか。
黄色い胃液を口の端からこぼしながら、冷たい地べたの上で痙攣する。
薄暗い空間、命の始まりにしては違和感のありすぎるその場所は、覚めぬ悪夢に苦しめられる引き裂かれた魂が、もう何度もこんなことを繰り返している証――、
――何故。
そんな問いかけが、頭の中に生まれる。
それは理不尽への、不条理への、思いがけない不運への、何かしらの悪意への、許されない脅威への、とめどない悪循環への、『どうして』という問いかけだった。
――何故、何故、何故、何故、何故。
どうして自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか。それほどの悪事を自分が犯したというのか。その報いを受けなくてはならないほどの罪なのか。
取り返しのつかないほどの過ちだったのなら、それをこうまで重ねて、溺れるほどの罰を継ぎ接ぐ前に、贖いを始めさせてくれればよかった。
それなのに、『どうして』なのか。
――何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故。
その、消えない問いかけに――、
『招こう――魔女の茶会へ』
そんな、祝福であるような、呪いであるような、悦びに満ちた声がした。
△▼△▼△▼△
「――ペトラちゃあん!」
目の前でぐらりと体勢を崩したペトラ、その肩をメィリィがとっさに支える。
意を決したペトラが、黒い装丁の本――『死者の書』のページをめくり、ほんの五秒後のことだ。その雰囲気を見れば、彼女がその本を読むことに成功したことがわかる。
『死者の書』は、死んでしまった人の生前の歴史を追体験することができる魔書だ。
しかし、誰の本でも自由に読めるわけではなく、読むのにも条件――対象となった本の人物と、何らかの接点があったものに限定される。
見知らぬ誰かの歴史を延々と覗き見るような、趣味の悪い真似はできないのだ。
もっとも、見知った誰かの歴史を覗き見るのが上品な行いかと言えば、それは議論の余地があるだろう。いずれにせよ、自分も見たいと思った『死者の書』を探した経験のあるメィリィには、その是非を問うことはできない。
重要なのは、ペトラの反応からして、その『死者の書』――ナツキ・スバルの鞄から発見された、題名の削られた本を読む条件を彼女が満たしていたということ。
そして――、
「ペトラちゃん、ペトラちゃんってばあ。……ダメねえ、起きないわあ」
抱きかかえたペトラ、その目を閉じた白い頬を軽く叩いてみるが、ぐったりと力の抜けた少女が起きる気配はない。気絶、失神、昏倒と、そのどれかだ。
そのメィリィの心配に触発され、頭の上の紅蠍がペトラを起こそうとするように、シャキシャキと鋏を忙しなく鳴らし始める。もちろん、効果はない。
『死者の書』を読んだものは、誰かの人生を丸ごと頭に詰め込まれることになる。
その精神的な負荷は相当なものなのだろう。頑張りすぎて十冊以上も読んだらしいエッゾも、最初は泡を吹いて失禁しながら気絶したとフラムが話していた。
幸い、ペトラはそこまで乙女の尊厳を損なう苦しみ方はしていないようだが――、
「――っ」
意識のない少女の表情は苦悶か苦悩の色が濃く、高熱にうなされているような息苦しさを覚える呼吸が、何とも痛々しかった。
「ペトラちゃん、誰の、どんな『記憶』を見せられたのお……?」
ちらと、ペトラの手元から取り落とされた『死者の書』の方を見て、床の上に逆さに開いた状態の本をメィリィは伸ばした足で遠ざけた。
背表紙側を向けているが、うっかり中身が目に入って、メィリィまでもペトラのように倒れることになっては問題だ。――あまり、メィリィとペトラに共通して、『死者の書』が効果を発揮するような人間は思い当たらないが。
「まさか、エルザじゃないんでしょお?」
唯一、メィリィとペトラとの間で、互いに存在を知っていて、すでに死者となった存在となると、エルザ・グランヒルテの顔が頭にちらつく。
今回の旅路の目的を考え、彼女の『死者の書』を見つけたスバルが、万一にもメィリィの目に入らないよう、鞄に隠しておくというのも浮かばない予想ではなかった。
だが、しかし――、
「……ええ、わかってるわあ。お兄さんだったらあ、背表紙を削ってわたしから隠すようなことしないわあ」
長い尾を左右に振り回す紅蠍の抗議に、メィリィは静かに頷いて答える。
それは、メィリィの中にあるナツキ・スバルへの確かな信頼。
エルザ・グランヒルテを忘れなくていいと、彼はそう言ってくれた。――仮に彼がエルザの本を見つけていたら、悩んで迷って、その末に打ち明けてくれただろう。
その迷いも、自分のためではなく、メィリィとエルザを気遣った上で。
だから、これはそうではない誰かの『死者の書』であるはずだが――、
「――?」
ふと、頭に乗せた紅蠍の動きの硬直に、メィリィはゆっくりと顔を上げる。
メィリィの頭上で方向転換した紅蠍、それが赤い複眼を何もない空間――否、塔の壁へと向けていて、その事実に気付いたメィリィのうなじがくすぐったくなる。
それは予感、それもあまりよくない予感だ。微細な空気の変化を肌で感じ取り、メィリィと紅蠍の意識は塔の外、砂丘の彼方に嫌な気配を察知する。
「これってえ……まさか!」
思い当たる節が脳裏を過った直後、メィリィはペトラを抱きかかえたまま、片手で紅蠍を自分の服の襟元に滑り込ませた。途端、どろりと煮詰めすぎた鍋が溢れるみたいに、壁の向こうから何か――否、そんな曖昧なものではない。
恐ろしい、『魔女』の力が迫ってくるのがわかった。
前に、ナツキ・スバルとレムを南の帝国まで吹き飛ばしたあれが、くる。
「冗談、じゃ、ないわあ……っ!」
あのときは、塔の上にいた『神龍』ボルカニカが『魔女』の力を迎え撃ったのだ。
だが今、『神龍』はどういうわけかアルと一緒に塔を離れてしまい、あれをどうにかできる存在がどこにもいない。『神龍』なしで『魔女』の力とぶつかって、どこかに飛ばされるなんて可愛い結果だけで終わるとは到底思えない。
すなわち――、
「ここで、おしまい?」
呆気ない結末の予感に息を吐いて、メィリィはそう呟いてしまう。
その、どうしようもない現実を認めたような自分の吐息に、メィリィは肩の荷を下ろすような脱力感を覚え――自分の腕が、なおもペトラを抱き寄せたことに気付く。
無意識に、ペトラを庇おうとしている。あの、『魔女』の力を相手に。
「お兄さんの、ばかあ……」
それが、どういう理由でこぼれた悪態だったのか、メィリィにもわからない。
ただ、弱々しい自分の声に耳を塞ぐように、メィリィはペトラの体に覆いかぶさる。こんな薄っぺらい肉の盾、ちっとも役になんて立たないだろう。もっとたくさん、お肉を食べておけばよかったと悔しく思い――、
――直後、『魔女』の力が塔に到達する寸前で、何かがそこに割り込んだ。
「――――」
変わらず、壁の向こうの出来事はわからない。
しかし、塔の分厚い壁を通り抜けて、光と音が室内のメィリィたちを吹き飛ばした。
「ぁぁあ!」
悲鳴を上げ、メィリィの体がペトラを抱いたまま床と壁に押し付けられた。
たまたま壁際にいて、床に伏せていたのが功を奏した。そうでなかったら、二人とも壁に飛ばされて、もっと痛い思いをしていたかもしれない。
それでも髪は乱れ、服は乱れ、部屋の中は荷物が散乱したひどい有様になっていた。しかし、奇跡的にメィリィとペトラは大きな怪我をしないで済んだようだ。
「何が、あったのお……?」
「ペトラ様! メィリィ様! ご無事ですか!?」
霞んだ目で瞬きしながら、その場に体を起こしたメィリィ。腕の中でぐったりしたペトラは目を伏せたまま動かないでいる。
それを確かめた直後、部屋に大慌てで駆け込んできたのはフラムだ。
『死者の書』を発見したメィリィたちに先んじ、ガーフィールとエッゾを下層に運んでいたフラムは、二人を見つけてわずかに目尻を下げたあと、真剣な顔になり、
「若様です。若様が、食い止めてらっしゃいます」
「食い止める、ってえ……?」
「それは……」
「――『嫉妬の魔女』のことお?」
その名前を出され、フラムの表情がはっきりと青ざめる。
アルに裏切られ、『神龍』が敵に回ったとわかってもここまで動揺しなかった彼女が、その名前には明確な恐れを瞳に刻むのを見て、メィリィは「ごめんねえ」と謝った。
当然の反応だ。メィリィとて、二回目だから多少は落ち着いていられるだけ。
大半の人間は、『嫉妬の魔女』の存在を現実のものとして感じるだけで、全身の血が凍ったような心地になり、動けなくなるだろう。
「エミリアお姉さんたちが特別すぎるのよお……」
覚悟の極まったものか、持ち合わせた勇気と度胸故なのか。
いずれにせよ、それを誰もが持てというのは無理で無茶な話だと、メィリィはペトラを支えたまま立ち上がった。
「今、外で『剣聖』さんが戦ってくれてるのよねえ?」
「――。はい、若様が押さえてくれています。でも、若様が押し切れないなんて」
「……わたしたちがここにいたら、邪魔になっちゃうわあ」
『嫉妬の魔女』の癇癪の原因はわからないが、メィリィ的には癇癪があったのは二回とも塔にいたときだ。まさか、自分が『嫉妬の魔女』の怒りの原因とは思いたくないので、塔に長居するのが嫌がられていると考えるべきだろうか。
と、そう考えた途端、服から抜け出した紅蠍の鋏で、首筋を軽くつつかれた。
「ごめんなさあい、あなたも二回とも一緒だったわねえ」
「メィリィ様! 急いで塔を離れましょう。ペトラ様は私が……」
「――。ううん、平気よお。ペトラちゃんはわたしが運ぶから、フラムちゃんはパトラッシュちゃんたちの準備をお願い」
ゆるゆると首を横に振り、メィリィはフラムの申し出を断ると、自分でペトラを背中に負い、その場にゆっくりと立ち上がった。
一瞬、フラムは判断に迷った顔をしたが、すぐに「はい」と頷き、先に出る。
「螺旋階段の下へ! 竜車の準備をしておきます」
「はあい、お願いねえ」
飛び出すフラムの背中が見えなくなり、メィリィもそれを追って走り出す。
寸前で、部屋に散乱した荷物――とりわけ、ペトラが意識をなくした原因の『死者の書』の存在に後ろ髪を引かれたが、
「今は、それどころじゃないわあ」
再び、頭の上に戻った紅蠍のシャキシャキ音に応援されながら、メィリィはペトラを落とさないようしっかり抱え、部屋を飛び出していく。
『死者の書』の内容は、どうしても必要ならあとでペトラから聞けばいい。――ペトラが無事に、その『誰か』の人生をしっかりと受け止め切ったあとで。
そう考え、懸命に走り出したメィリィ。そのメィリィに背負われたペトラ、彼女の長い睫毛に縁取られた閉じた瞼の奥から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
そして――、
「ごめんね……ごめん、なさい、スバル……」
弱々しくこぼれる、少女の胸を引き裂くような謝罪の念。
悪夢に許しを乞うような悲痛な少女の訴えは、塔の外から響いてくる『剣聖』と『嫉妬の魔女』とのありえざる激突の余波に紛れ、誰の耳にも届かないのだった。
△▼△▼△▼△
「――ミルク、冷てぇの」
カウンター席にドカッと座り、アルデバランは店のマスターにそう注文する。
アウグリア砂丘の最寄り町、ミルーラにたった一軒だけある酒場だ。西部劇にありがちな寂れた酒場の雰囲気そのままの店で、店内には他の客が見当たらない。
とはいえ、それで店が流行っていないと決めつけるのは、ちょっと狭量だろう。
なにせ、アルデバランが酒場を訪ねたのは深夜と早朝の狭間――朝方人間も夜型人間も、どちらも一番眠たい時間帯と言えば、田舎の酒場が営業時間外でも無理はない。
それでも、こんな時間の訪問客であるアルデバランのために店主は店を開けてくれたのだ。実に思いやり深く、話のわかる、接客業の鑑というべき店主だろう。
「だもんで、オレはあんたの仕事ぶりを尊敬してんだ。そんな相手に悪さ働いたり、ひでぇ真似しようなんて考えねぇさ。ちゃんと金も払うよ」
カウンターに行儀悪く肘をついて、アルデバランは髭の店主に肩をすくめる。
店は住居と兼用らしく、夜中に起こされた店主は寝巻きのシャツ姿だが、それで店に立つことを責めたりしない。アルデバランが抗議しているのは、店主がなかなか注文のミルクを出すために動き出してくれないこと。
ただ、それについても――、
『おいおい、正直、何言って脅してるようにしか聞こえねぇよ、オレ』
「まぁ、どう考えてもそりゃそうか」
『やっぱり、夜中突然押し入ってきた、兜で顔を隠した隻腕の男ってのがお茶の間のウケがよくない理由なんじゃねぇか?』
「最大の理由がなんか言ってら」
そう壁越しに話しかけてくる『神龍』――ルグニカ王国では何より尊ばれる存在、それが親しみやすくというより、ヤカラっぽく現れたのだから仕方ないだろう。
もちろん、『アルデバラン』の図体で店の中に入るはずもないので、『龍』は外の通りで窮屈そうに待たせてある。それで店主の心の安寧に一役買えるかは怪しいが。
そんなわけで、深夜の不審者と『神龍』の来店――それが、この酒場の店主が出くわした、何とも気の毒な一幕のざっくりした説明だ。
「……ミルクだ」
落ち着くのにたっぷりと時間を使った店主が、木製のジョッキでようやくミルクを出してくれる。それを「サンキュ」と受け取りながら、アルは店の外を顎で示し、
「ついでと言っちゃなんなんだが、外のツレにも水だかミルクだか、樽で出してやってくれねぇか。酒はやめてやってくれ。どうなるかわからねぇ」
『なんだ、別に酒でもいいだろ。まさか、伝説のドラゴンが下戸ってことはあるめぇ』
「神話の龍に酒って退治されるやつじゃん。まだしばらく、お前が退治されちゃ困るんだよ。……しばらく、使い物にならない相方でもな」
『ちぇー、マスター、頼むぜ』
銃声みたいにうるさい舌打ちをして、窓から店内を覗き込んでいた『アルデバラン』が首を引っ込める。それを見届けてしばらく迷ったあと、店主は意を決した様子で樽を担いで店の外に向かった。
その片足が義足なのにそこで気付いて、アルデバランは面倒な頼みをしてしまったと反省。アルデバランが自分で樽を運べばよかったと思う。
思うが――、
「……本気で、尋常じゃなく、疲れた」
肉体的にも節々が痛むが、精神の消耗の大きさと比べれば屁みたいなものだ。
その精神の摩耗具合ときたら、まるで十三万二千四十四回ぐらい強敵と戦ったあとみたいに疲れ切っている。――否、今のはいい言い方をしてしまった。正しくは、十三万二千四十三回負け続けて、十三万二千四十四回目でようやく終わらせられた、だ。
おおよそ、事前に計画した通り、『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアの足止めに成功したと言える。言えるが、アルデバランに達成感は全くなかった。
あるのは強い敗北感と大きな無力感、そしてほんの少しの――、
「乗り切った、って安堵感……か」
アルデバランの目的、その最大の障害となる双璧をそれぞれ見事に押さえ込んだにも拘らず、胸にあるのが安堵感だけとはどこまでも小市民だ。
もちろん、見事にやり込めたなんてのは皮肉としか思えない。――少なくとも、すでにアルデバランはラインハルトを含め、塔にいた全員をズタズタに傷付けた。そしてその数はこの先も、まだまだどんどん加速度的に増えていく。
その最たる危機的状況は、今もなお進行中――、
「――『剣聖』と『嫉妬の魔女』の、世紀の決戦」
兜の顎部分を浮かせ、ジョッキからミルクを飲みながら、アルデバランが呟く。
その視界の端、『龍』が首を引っ込めた窓の外――そちらから漏れ聞こえ、ちらちらと見えるのは砂海の彼方、繰り広げられる終末のような激しい戦いの余波だ。
それは砂の海の夜を幾度も切り裂くように白く瞬き、遠目にも見えるような砂嵐を生みながら、雷鳴のような轟音を立て続けに響かせる戦い。
どんなに戦いと無縁で、どれだけ勘の悪い人間でも、あの光景が世界の終わりの日に展開されるものと同じであることは本能で察せる。
だから、こんな夜とも朝ともつかない未明の時間にも拘らず、ミルーラの住民たちは起き出し、外に出て、砂海の向こうを呆然と眺めていたのだ。
「――――」
あの戦いは、太陽が昇り始め、新しい一日が始まっても終わることはない。
どこかで見切りを付けない限り、人々は延々とその戦いを眺めることになる。だが、おそらく切っ掛けのないまま、住民たちはこの場に留まり続ける気がする。
危機意識がないとか、他人事気分であるとか、そんな話ではない。
ただ、自分の器で受け止め切れない光を浴びたとき、人間は目が眩むものなのだ。
そうして目が眩んだままでは、危なっかしくて歩き出すことはできない。だから多くの場合、目が眩んだものは、その眩ませた光の声や気配を辿り、ついていく。
盲目的に、目を眩ませるほどの強い光の、その熱に惹かれてしまうように。
だから、立ち尽くす人々に責められる謂れは――、
「――わ~わ~! 近くで見たらホント~に『龍』なんですね~! ぶっちゃけ、ここまで近付いてみるまではっきりわかんなかったですよ」
不意に、戦争中みたいに殺伐とした空気を、甲高い少女の声が切り裂いた。
場違いなほど明るく、キャピキャピとしたその声は、アルデバランがミルクを飲んだくれている店の外から聞こえてきた。
その声に、スツールの上で尻を滑らせ、アルデバランは入口の方を向く。
次の瞬間――、
「――いるのか、アルデバラン! 今すぐ出てこい!」
酒場の入口を破るように乗り込んできた赤毛の男、それがアルデバランを見つけると、乱暴に荒々しい足取りで目の前にやってくる。
そのまま、男は勢いよく剣を抜いて、その切っ先をアルデバランに突き付けた。
そのあまりの剣幕に、アルデバランは「おいおい」と片手を上げ、
「出てこいって言ったくせに、自分から突っ込んでこられちゃ無理だぜ、そりゃ」
「人の揚げ足を取ってんじゃねえよ。そんなことより、表にいた、あれだ! あれは間違いなく、間違いなく……っ」
「表のあれ?」
「とぼけてんじゃねえよ!」
首を傾げた途端、埒が明かないとばかりに胸倉を掴まれ、無理やり立ち上がらされたアルデバランが酒場の入口から外に押し出される。
背中に切っ先を当てられる鋭い感触があり、「そんなことしねぇでも大丈夫だよ」と言ってみるも、相手は聞く耳を持ってくれない。
それも仕方ないことだ。――相手にしてみれば、念願の存在を前にしているのだから。
「お、アル様、出てきた。……なんで、人質みたいになってらっしゃるんです?」
「どうも、頭に血が上りすぎちまってるらしい。お前も刺激すんな。オレが危ねぇ」
「またまた~、そんなこと言って。アル様、何したって死なないくせに~」
そう言って、剣を宛がわれるアルデバランにひらひらと手を振るのは、赤色を基調に和風のテイストを取り入れたメイド服の少女だ。
猫のような気紛れな雰囲気の少女は気安く言ってくれる。アルデバランは、実態はそんな気軽なものではないと思ったものの、口には出さなかった。
言っても無駄だし、彼女にだけはそれを知られてはならないから。
ともあれ――、
『修羅場が続くじゃねぇか、オレ』
「他人事みてぇに言ってくれてんなよ、オレ」
と、その様子を高いところにある頭から見下ろし、楽しげに笑う『神龍』にアルデバランは大きなため息をつきながら言い返した。
それから、ぐるりと身を回し――、
「まったく、頼もしいメンバーだぜ」
――『神龍』の竜殻を奪い取った『アルデバラン』。
――自他共に認める王国の『無駄飯喰らい』ハインケル・アストレア。
――『太陽姫』の命を狙った女シノビ『紅桜』ヤエ・テンゼン。
――それが、世界を敵に回すアルデバランの『共犯者』たち一同だった。
△▼△▼△▼△
――十六。
『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアの攻略において、父親である彼の存在は文字通りの急所であり、切り札になり得た。
アルデバランがその切り札を使いたかったかどうか、感情の部分は無視して、その切り札を用意しないなんて怠慢は許されない。だから、ちゃんと口説き落とした。
アルデバランとは違う理由で失意のどん底にあったハインケルだったが、話の組み立て方さえ間違わなければ、こちらの話に耳を貸すだけの頭は働かせてくれる。
同じ陣営に所属していながら、決して仲良しとは言えない間柄だったアルデバランとハインケルだが、彼の望みは一貫していてわかりやすい。
一途な愛、とでも言えばいいのか。――アルデバランが憧れ、同時にひどく嫌悪するものを己の芯とした男には、協力したあとの見返りがよく効いた。
もっとも――、
「――お前は俺に『龍の血』を約束した! 実際に、こうして目の前にその『龍』もいる! それなのに、まだ俺に待てってそう言うのか!?」
血走った目で唾を飛ばし、そう怒鳴りつけてくるだろうとも想像していた。
今にも斬りかかってきそうな剣幕で詰め寄ってくるハインケル、その剣先が向けられるのは、町の通りに飼い犬みたいに大人しく伏せている『アルデバラン』だ。
厳密には、切っ先が向いているのはその『龍』の胸――竜殻の内で脈打つ、『龍の血』を蓄えた心の臓に他ならなかった。
――『龍の血』は大地に豊穣をもたらし、あらゆる病魔さえもたちどころに癒す。
それはルグニカ王国に古より伝えられた物語であり、かつて『三英傑』が『嫉妬の魔女』を退けた際、『神龍』が王国に授けた三つの至宝の内の一つと言われる。
そしてそれは、力のある『龍』の心臓が最後に脈打った一滴の心血であり、『龍』のほとんどが地上を去った今、正攻法で手に入れる術が限られる代物なのだ。
その『龍の血』を得る可能性がすぐ目の前にある。――その事実が、十年以上も奇跡を追い求めたハインケル・アストレアの魂を焦がしてやまない。
「やっと、やっとルアンナを……!」
「……あんたの、嫁さんの名前か」
「そうだ。俺の、妻の……ずっと、ずっと眠り続けてるルアンナを、『龍の血』なら目覚めさせられるはずだ。だから、俺はお前に協力した!」
「ああ、あんたが貢献してくれたのはわかってるし、認めてる。実際、あんたって保険があったおかげで、おたくの息子は押さえられた」
「だったら!!」
押し問答というより、ハインケルの気持ちが逸りすぎていて、まともな話し合いにならないといった方が適切か。
ここでも密かにマトリクスを更新しながら、アルデバランはなんと言えばハインケルを落ち着かせられるか、次の言葉を選ぼうとして――、
「あの~、ご歓談中すみません。ちょっとお聞きしたいんですけども~」
「なんだ、メイド! 今、こいつとは俺が大事な話を……」
「あっちの、砂丘の方でバチバチ光ったり音鳴ったりしてるのって、もしかしてハインケル様のご子息だったりしないです?」
「――あ?」
一つにまとめられた朱色と桃色の中間色の髪を揺らし、少女――ヤエが指差すのは砂海の彼方、そこでなおも時間を空けずに続いている天地無用の戦いだ。
どうやら、夢にまで見た『神龍』しか意識になかったらしいハインケルは、その激闘に青い目をぱちくりとさせ、
「……おい、ありゃなんだ? あそこでやり合ってるのは――」
「ご想像の通り、『剣聖』と『嫉妬の魔女』だよ」
「――ッ! なん、で……なんで、そんなことになってやがんだ!?」
愕然と目を見開き、ハインケルが息子と『魔女』とが激突する砂海の方を睨む。それからわなわなと肩を震わせたかと思うと、
「聞いてた話と違えぞ! 俺を使ってあいつを止める。そういう条件で……すぐに、すぐにやめさせろ! 『嫉妬の魔女』だと? そんな馬鹿な真似……!」
「悪ぃが、その頼みは聞けねぇ。親父さんの報酬は『龍の血』だ。ここで止めるのは最初の条件と違ぇ。二つはやれねぇよ」
「ぐ、く……っ! だったら……っ」
「だったら?」
「――ぅ」
激昂し、しかしその先の言葉が続かず、ハインケルの目が泳ぐ。
そのハインケルの意思の弱さを、アルデバランはただただ哀れに思った。――アルデバランはハインケルに同情している。
彼もまた、身の丈に合わない家族を持った、運命に弄ばれる泥人形だからだ。
そのアルデバランの心中を余所に、ハインケルの持つ剣の切っ先は、上がるのと下がるのとを何度も繰り返し、
「ハインケル様、私、ハインケル様の巻き添えとか絶対に嫌なんで、そんな風にうだうだと駄々こねるのやめてくださいませんか?」
それを見かねたヤエに、ひどく冷たい一声を浴びせられる羽目になった。
その言葉にアルデバランは額に手をやり、ハインケルが目を剥いて彼女を睨む。その視線を真っ向から受け、ヤエは微笑みながら首を傾けた。
そして、口元の微笑と違い、全く笑っていない目でハインケルを見据え、
「一回やるってなったのに、あとでグチグチ揺れるのって往生際悪いですよ。欲しいものが二ヶ所にあったら、片方に手を伸ばしてる間はもう片方には伸ばせないなんて、そんなの当然じゃないですか。子どもじゃないんだから」
「――ッ、あいつは何歳だろうとガキだろうが!」
「やれやれ、お話になりませんね~。――アル様?」
冷静さをなくしたハインケルに、うんざりした様子でヤエがアルデバランを見る。その細められた視線の意味するところに、アルデバランは首を横に振った。
ヤエは手加減を知らない。殺す以外の方法を学んでこなかった女だ。
だから――、
「……頼むわ、オレ」
『あいよ』
次の瞬間、振り下ろされる『アルデバラン』の前腕が、ヤエを睨みつけていたハインケルを真上から叩き伏せ、地面に打ちのめした。
「わ~お」と凄まじい風を浴びたヤエが目を丸くし、彼女の目の前にはうつ伏せに地面に埋まったハインケルの絵面が出来上がっている。
「親父さんには悪いが、まだ『龍の血』はやれねぇ。今はまだ、『神龍』の心の臓を止められちゃ困るからな」
「なんだか渋い感じ出してますけど、ハインケル様、死んだのでは? 今の、私でも瀕死になりそうな一発でしたよ?」
『死なねぇよ。手加減……はしてねぇけども、死なねぇ。前々から親父さんはやけに頑丈だと思ってたが、なるほどねえ』
「……あんまりちゃんと確認してないんですけど、このアル様っぽい喋り方する『神龍』様って、どういうカラクリなんです?」
「あとで話す。今は時間がもったいねぇ」
説明を求めるヤエにそう答えて、アルデバランは埋もれたハインケルの傍にしゃがみ、抜き身の剣を鞘に戻そうとした。――そのときだ。
「お」
と、伸ばした腕の手首を掴まれ、アルデバランは息を詰める。それをしたのは、『龍』の手加減してないらしい一撃を喰らったハインケルだ。
ハインケルは目の焦点が合わない様子だが、鬼気迫る顔でアルデバランを睨む。その視線の意味するところを察し、アルデバランは息を吐くと、
「『龍の血』の約束は守る。ラインハルトも、『嫉妬の魔女』には呑み込ませない。――そこはまぁ、信じてくれや」
「――――」
アルデバランの返答、それを心から信じたわけではないだろう。が、それを聞いたハインケルがぐったりと頭を落とすのを見て、アルデバランは掴まれた手首を外す。
それから、ハインケルに一撃くれようと踵を振り上げていたヤエを見て、
「オレ、疲れてるし、片手だし、親父さん担ぐの任せていい?」
「それ、私に選択権あるんですか? あるんなら嫌です」
「ない。命令。お前が担いで」
「ちぇ~、アル様の鬼畜~、わかりましたよ~だ」
べ、と舌を出したヤエが屈み、埋まっているハインケルを掘り起こす。その作業をするヤエの傍ら、アルデバランは『アルデバラン』を見やり、
「親父さんのこと、なんか言ってた?」
『あ? ああ、大したことじゃねぇ。元気で頑丈ってだけ』
「……親父さんの立場と性格でそれって、人生が苦痛に満ちてそうで可哀想」
こんなことになって申し訳ないが、ハインケルにはなるべく強く生きてほしい。
かなり辛い境遇であるものの、ハインケルの不遇さも世界で一番というわけではない。なんて定型句のような慰め、耳を貸してもらえるとも思わないが。
「それに、そういう慰めが通じる関係は今終わっただろうし」
それを残念に思う資格も、埋め合わせたいと願える権利も自分にはない。
その自覚があるから、アルデバランはそれ以上のお気持ち表明はやめた。その代わりに、作業中の少女に「ヤエ」と声をかけ、
「金」
「パッと聞くと最悪の台詞ですね。ど~ぞ」
懐を探ったヤエに革袋を投げ渡され、アルデバランはそれをキャッチ。中から一枚の金貨を取り出すと、それを指で弾いて――、
「迷惑料も込みだ。とっといてくれ」
そう言って、自分たちのやり取りを黙って眺めていた酒場の店主に受け取らせる。
『アルデバラン』の傍には空っぽの水樽があり、ちゃんとオーダーは通してくれたのだ。かなり心労をかけただろうが、共犯者と合流できたし、一服もできた。
「私のお金ですけど」
「うるせぇな。着いて早々だけど、すぐ動けるか?」
「シノビの修業ってイカれてるんですよ。竹筒一本の水だけで、帝都から半月ぐらいかかる里まで不眠不休で走らされるんです」
「お前のイカれたシノビエピソードは外れがねぇな」
そんな地獄の経験をしてきたから、このぐらいでへこたれないと言いたいのだろうが、アルデバランに伝わったのはシノビのヤバさと、帝国で一番ヤバいシノビに散々な目に遭わされたげんなりする記憶の裏付けだった。
ともあれ――、
「ま、待ってくれ! ……いや、待ってください」
そのまま、その場を去ろうとしたアルデバランたちを店主が呼び止めた。
これだけの色物集団かつ、直前の暴力的な『龍』の一撃だ。声をかけるのも相当に勇気がいっただろうが、店主は振り向くアルデバランたちに唾を呑み込み、
「あれを……あの、プレアデス監視塔で起こっている災いを、止めてくださいませんか。あなたは、『神龍』ボルカニカ様なのでしょう!?」
「ああ……」
その店主の訴えに、アルデバランは兜の金具の継ぎ目を指で弄り、嘆息する。
見れば、アルデバランたちを遠巻きにしながら、ミルーラの住民たちが縋るような目をこちらに――否、『アルデバラン』に向けているのがわかった。
彼らの瞳にあるのは恐れと不安、だが同時に畏れと期待でもあった。
伝説に名高い『神龍』ボルカニカを間近に見て、遠くで起こっている天変地異のような戦いを止めてくれるのではと、そう思って。
しかし――、
『悪ぃな。今、あれを止めるのはオレの役目じゃねぇ』
「――っ」
『意地でも『剣聖』さんが止めるはずだが、それでも余波がここまで届かねぇとも限らねぇ。ほんの何日か、町を離れた方がいいぜ』
「何日か……それは、どのぐらい……」
頼りにした『神龍』に期待と異なる答えを返され、それでも店主は諦めずに、自分たちの心をざわつかせるものを抑える理由を求め、問いを重ねた。
町を離れるにしても、いつまでなのか。
それは――、
「――七日だ」
「――――」
「七日で、ケリを付ける。――七日で、世界の終わる原因を取り除く」
そう告げて、アルデバランは店主に、ミルーラの住民に、背を向け、歩き出す。
その背中に、意識のないハインケルを背負ったヤエが続き、重々しい音を立てながら体を起こした『アルデバラン』もまた、歩き出した。
世界を敵に回したアルデバランと、『共犯者』たちが進む。
その足は決して、止めてはならないのだと。
「続けるよ。――オレが、オレであるために」




