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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第九章 『名も無き星の光』
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第九章15 『敗北者』



「――お前の親父さんの身柄を、オレの協力者が押さえてる」


 そう切り札を切った瞬間、アルデバランは自分の敗北を痛感した。

 十三万二千四十四回、一個の問題のクリアまでにかかるマトリクスの試行回数、それを数える癖は『魔女』に躾けられたものだが、ここまで回数が嵩んだのは人生で二度目。

 そして、一度目のときと同じく、アルデバランはまたしても敗北した。


 万全の準備を敷いて、可能な限りの策を立てて、心を折られない限りは無限に計画を微調整するチャンスがあるのに、負けた。

 なんて、自分の心は弱いのだろうと、本当に本当に嫌気が差す。


 心が弱い。

 それは才能がないことより、努力が報われないことより、誰にも愛されないことより、ずっとずっとアルデバランに自分を嫌わせる猛毒だった。


「――――」


 度重なる『龍』との試行錯誤により、ついに血を流させることに成功した『剣聖』。

 その成功体験も、血を流せば流させるほどに強くなる『流血の加護』なんて馬鹿げた加護によって覆されたが、両腕を使い物にならなくさせたその姿は戦果だった。

 正直、ほとんど傷を負わない戦いを続けてきただろうラインハルト、彼に痛みを味わわせることで、その最強ぶりに陰りが生じる可能性も期待していたのだ。

 が、残念なことに、世界最強かつ歴代最強かつ史上最強の男は痛みにも強かった。

 故に、その両腕がズタズタのバキバキになっても、彼は顔色一つ変えなかった。

 だから――、


「……わかるぜ」


 正面、砂の海に倒れた自分を見下ろすラインハルトに、アルデバランは頷いた。

 口の中に砂利の不快感、頬の内側が切れて溢れかえる血の味、衝撃波に揉まれて全身がだるくて痛くて仕方ないが、それでも言わずにはおれなかった。

 十三万回以上の戦いの中で、両腕がそんなになっても顔色一つ変えなかったラインハルト。――その顔が、ひどく悲痛なものに歪んでいるのを見てしまったから。


「わかるぜ」


 まるで、ショッピングモールでの買い物の途中、親の手を放してはぐれてしまった子どもみたいな顔をしたラインハルトに、アルデバランは理解の言葉を重ねる。

 重ねて、続ける。


「家族ってのはいつも、オレたちの足を引く」


「――っ、あなたの言い分が本当だとは」


「見たらどうだ? 例えば……あれだ、公爵さんの『風見の加護』だよ。相手の嘘を見分けられるあれとかで、オレが本当のことを言ってるか見てみりゃいい」


「それは――」


「できねぇか? ――誰かの加護を取り上げるのに、トラウマがあるもんな」


 その指摘に、ラインハルトの表情を痛痒なものが過る。

 無敵で鉄壁の『剣聖』、その防備に蟻の一穴が生じる。堤防から水が溢れ出すように。そのしみ出す水を浴びれば浴びるほど、アルデバランの敗北感は強まった。

『体』でも『技』でも勝れなかった。そのせいで、『心』を責めるという反則技だ。


 それは目に見えて効果的な戦略だった。

 アルデバランが十三万回以上も挑んでできなかったことが、血も汗も流さず、ただ卑劣になるだけで成し遂げられようというのだから。

 そしてそれは、ラインハルト・ヴァン・アストレアに生まれ、『剣聖』となることを望まれた青年に、何の落ち度もないことなのだ。


「なら、論理で詰めちゃどうだ?」


「……論理?」


「そう、論理だ」


 ぐぐぐ、と砂の上に体を起こしながら、アルデバランがラインハルトを追い詰める。

『アルデバラン』が起き上がれたなら、疑心を植え付けたまま戦う手もあった。

 だが、昏倒した『アルデバラン』が目覚める気配はなく、すでに『心』を攻略する鍵は使ってしまった。ならば、閉ざされたルートをこの鍵でこじ開け切るのみ。――アルデバランは、そう決めた。


「ここまでやればわかる通り、オレはできる限りの手を打って、『剣聖』さんを迎え撃つ用意を整えてあった。山ほどのプラン、瘴気で満ちたアウグリア砂丘、それと」


「――『神龍』ボルカニカを、味方に付けた」


「厳密には、そこは裏技で乗り切ったとこなんだが……そうだ。けど、そこまでやってもあんたを倒し切れる確信はなかったし、実際、ダメだった。なら、わかるだろ?」


「――――」


「親父さんは、姫さんの協力者だった。チャンス……機会は、いくらでもあった」


 無論、プリシラがハインケルを自陣に入れたのは、そんなことが理由ではなかったとアルデバランは確信している。

 高慢で尊大、この世のあらゆるものを自分のモノだと公言して憚らないアルデバランの愛しい女は、美しいものも醜いものも、好悪の差はあれ、平等に赦した。

 ラインハルトの攻略のためにハインケルを利用することも、ハインケルの在り方を疎んで殊更に傷付けようともしなかったはずだ。

 その思惑の根っこのところは、まるで炎のように猛々しい彼女の心の深奥に秘められていたため、明らかにすることはできなかった。


 ――あるいは、そうすべきだったのかもしれない。


 焼け焦げることも構わず、左腕を失ったアルデバランに残されたもう一本の腕、それが炭になり、灰になることも覚悟で炎の中をまさぐるべきだったのかもしれない。

 そうすれば、プリシラ・バーリエルは今も――。


「……もう、どこにもいない」


「アル殿?」


「オレに躊躇う理由は何一つねぇ。そういう手立ても、問題なく取れる」


 そう断言するアルデバランに、ラインハルトの双眸が微かに細められる。

 諸事情で『風見の加護』を授かりたがらないラインハルトにも、信じさせるに足る情報量を与えたはずだ。


「――――」


 ちらと見れば、ラインハルトの負傷した両腕は回復が始まっていない。

 世界に祝福され、運命に愛されたラインハルトは、その身が傷を負えば周囲の精霊がよってたかってそれを癒そうとすると聞くが、このアウグリア砂丘には精霊の天敵である瘴気が満ち満ちている。だから、ラインハルトのファンガールも集まれない。

 もしかしたら、有史以来、ラインハルトをここまで追い詰めたのはアルデバラン以外にいないかもしれない状況で――、


「……あなたは、僕に何を望むと?」


 絞り出すように、ラインハルトが人質交渉のテーブルに乗ってきた。

 それを受け、アルデバランは『心』を責めた甲斐があったと、長く長く息を吐き、


「大それたことは何も。『神龍』みたいにオレにつけ、とか無理難題も言わねぇよ。ご主人様を裏切らせるなんて、自分がやられたら嫌なことはさせねぇさ」


「解せないし、信じられません。父の身柄を盾にしておいて、良心を語ろうとでも?」


「とんだ恥知らずだよな、そんな奴を相手しなきゃならねぇおたくに同情するよ。――オレの要求はシンプルに、このまま見逃してほしい、だ」


「見逃す?」


 ありえない、というニュアンスを込めた返答に、アルデバランは首を縦に振る。

 ラインハルトに自害を命じるだとか、父親と引き換えに賢人会の動きを封じろだとか、そんな無茶な交換条件を突き付けようとは思わない。

 そもそも、わかっていることだ。――ラインハルトは、人質交渉には乗らない。


「――――」


 彼は本気でハインケルの身を案じているし、敵対したアルデバランを死なせたくないと思っているし、塔に残っているフラムやエッゾという身内を心配している。

 そして、それら人間らしい有情さの全部をひっくるめて、いざとなれば世界の均衡を守るための無情さの犠牲にできてしまう。


 ラインハルトは本気で身を案じているハインケルを犠牲にできるし、敵対しても死なせたくないアルデバランを殺せるし、塔に残った身内であるフラムやエッゾを心配しながら見殺せる。――『剣聖』は、そういう存在だ。


 だから、自分を犠牲にしてでも大義を守れる人間しか、『剣聖』になれない。


「一つ言わせてもらうと、ここでオレを見逃しても、世界がどうこうなったりはしない。むしろ、王選から反則技の使い手が二人いなくなって、あんたのご主人様が王様になれる可能性が上がるはずだ」


「対立した相手の排除による王位の獲得を、フェルト様は望まれない」


「高潔だな。でも、そりゃそうか。それで構わねぇって性格だったら、王選なんて始まった瞬間に消去法にできた」


 これは交渉材料にならない。それもわかっていた。

 紆余曲折あったが、最終的に自分以外の四人の王選候補者をプリシラは認めていた。彼女の眼鏡に適ったものたちが、つまらない取引に乗ってくるはずもない。


 つまるところ、この人質交渉そのものが結末のわかり切った茶番なのだ。

 たとえどれほど言葉を尽くしたところで、アルデバランが危険な存在であることは、ラインハルトのボロボロの両腕が証明してしまっている。これで自分が安全な男だと言い張ったところで、信じてもらえる余地などない。


『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアが、アルデバランを見逃すなどありえない。


 ならば、これはいったい何のための問答なのか。その答えは明白だ。――アルデバランの仕組んだことは全て、この先の目的を遂げるためだけにある。


「――きたか」


 その、微かな空気の変化をアルデバランが先んじて感じ取れたのは、予想外だったラインハルトと違い、アルデバランは待ちわびていたからだ。――『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアとの、終わらない戦いを終わらせるモノの到来を。


 それは――、


「――馬鹿な」


 アルデバランに半秒遅れ、その気配を捉えたラインハルトが唖然とした声を漏らした。

 おそらく、これまでラインハルトはアルデバランの半分ほどの人生で、おおよそ同年代の人間が目にすることのない、様々な世界の深淵を覗き込んできたはずだ。

 ルグニカ王国と盟約を結び、強い信頼関係で結ばれているはずの『神龍』ボルカニカ、それが敵に回った状況でさえ、彼は動揺せずに冷静に対応してきた。


 そのラインハルトが絶句する。無理もない。彼も、目にしたのは初めてなのだ。

 プレアデス監視塔の建てられたアウグリア砂丘――その、塔が建てられた理由は、戦いに疲れた『賢者』が隠居するためでも、知りたがりの『魔女』がオド・ラグナを騙くらかして作った趣味の悪い書庫を置きたかったからでもない。


「――『嫉妬の魔女』」


 ――封印されたそれを、監視しておくためだったのだから。



                △▼△▼△▼△



 ――それは、アルデバランの十三万二千四十四回にも及ぶ戦いが始まった頃。


「これで、応急手当はできたけど……」


 そう言って、きゅっと包帯を巻き終えたペトラが負傷した二人を心配げに見る。

 今しがた、ペトラが手当てをしていたのは、ぐったりと意識のないガーフィールだ。監視塔のてっぺん、最上階に倒れていたガーフィールとエッゾ、その二人を四層まで運んできて、できる限りの処置を終えたところである。

 ガーフィールの手当てはペトラが、もう一人のエッゾの手当ては――、


「こちらも、処置は終わりました。道具を貸していただいてありがとうございます」


「ううん、全然いいよ。それより、フラムちゃんは平気なの?」


「はい。幸い、アル様は私の動きを封じただけで、危害を加えられませんでしたから」


 と、自分の体を手で示し、そう応じるフラムだ。

 彼女の口にした名前を聞いて、ペトラの表情が微かに曇る。フラムは無事、でもガーフィールとエッゾは瀕死の重体――それは、他ならぬアルのしでかしたこと。

 フラムだけでなく、彼はペトラたちにも手を上げていかなかった。だが、それでアルの行いが肯定できるわけでも、許されるわけでもない。


「二人ともお、手当ては終わったのお?」


 押し黙り、悔しさに拳を握ったペトラ。その背後から声をかけてきたのは、部屋を覗き込んだメィリィだ。塔の警戒の名目で手当て役を辞退していたメィリィは、頭の上に小さな紅蠍を乗せたまま、包帯を巻かれたガーフィールたちを見やり、


「牙のお兄さんもセンセイさんも、どっちも包帯ぐるぐる巻きねえ」


「……二人とも、体中ひどい火傷なんだもん。わたしたちの誰かが、ちゃんとした治癒魔法を使えたらよかったのに」


「申し訳ありません。若様のお傍にいると、魔法を学ぶ意欲が削がれてしまって」


「落ち込まないでよお、ペトラちゃん。わたしなんて、治癒魔法どころか包帯だってうまく巻けないんだからあ。エルザにやってあげてた頃は適当だったしねえ」


 言い訳にならない言い訳と、慰めにならない慰めを聞かされてもペトラの心は晴れない。治癒魔法である水魔法への適性不足もあるが、ペトラがここで必要な技術を習得していないのは、間違いなくペトラの覚悟不足だから。


「せめて、ガーフさんが起きてくれたら……」


 自分の治療を自分でやらせることになるが、エミリア陣営で一番真っ当に治癒魔法が使えるのはガーフィールだ。『地霊の加護』で地べたに立っているだけで元気になり、その状態で治癒魔法も使えるのがタフで頑丈なガーフィールの強み。

 だからその分、ガーフィールが最初に戦えなくなることを、ペトラも陣営の他の仲間たちも想定していなかったと言える。――違う、今回、最初に戦えなくなったのはガーフィールではなくて。


「スバル……」


 握りしめた拳を胸に当て、ペトラの唇がその名前を呼んだ。

 スバルとベアトリス、二人の姿は塔の中のどこにも見当たらない。二人は、ガーフィールたちより先にアルに無力化されたようだが、いったいどこにいったのか。

 考えたくないことだが、死体も残さず掻き消された――なんて線も想像してしまう。


「あの兜さんの態度からしてえ、それは違いそおだったけどお?」


「そんな気休め……」


「気休めじゃないわあ。気休めってことは、ペトラちゃんのためにわたしが嘘をつくってことでしょお。これは嘘じゃなくてホントの考えだものお」


「――――」


「わたしは魔獣ちゃんの力が借りられるからそおでもないけどお、普通にやったら死体を消しちゃうのって大変なのよお。だから、兜さんはお兄さんたちを殺したんじゃなくて、他の方法で連れてっちゃったと思うのよねえ」


 唇に指を当てたメィリィの推測、物騒な経験値を理由にした言葉にペトラは眉を顰める。

 メィリィの言う通り、スバルとベアトリスが死んでいないならそれが一番だ。もしもどこかに連れていこうというなら、取り戻せる目もある。

 いったい、アルは何を考えて――、


「――アル様が何を考えているにせよ、その目論見はすぐに砕かれるはずです」


「あらあ、やけに自信満々に言うのねえ」


 ふと、そう口を挟んだフラムに、メィリィが片目をつむって首を傾げる。自分の長い三つ編みを忙しなく弄っているメィリィに、フラムは「はい」と頷き返し、


「詳しい方法は伏せますが、妹のグラシスにここで起きた事情を伝えました。グラシスは今、若様と一緒にいますから、若様にも同じ情報が伝わるはずです」


「若様って……」


「『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレア、それが若様です」


 心なしか、それを口にするときのフラムは胸を張り、誇らしげに見えた。

『剣聖』と、その響きにペトラは目を丸くしたが、傍らにきていたメィリィは「うわあ」と嫌そうとも同情的とも感じる反応をしていて。


「『剣聖』さんが飛んでこられるんなら、兜さんが何を企んでても大丈夫そうねえ。むしろ、兜さんが可哀想になってくるわあ」


「メィリィちゃんがそんなに言えちゃう人なんだ……」


「『剣聖』さんったら、当たり前みたいに『神龍』ちゃんとぶつかってたのよお? あ、でも、今は兜さんに『神龍』ちゃんがついてるからわからないかしらあ」


「……わたしは、アルさんがやられても可哀想なんて思わないもん」


 むしろ、けちょんけちょんにやられてしまえと、ペトラはそう思わずにはおれない。

 ペトラの気持ちが踏み躙られたのは、まだいい。ペトラはアルをほとんど知らないし、彼への気持ちを裏切られても、痛い気持ちは少なくて済んだ。

 真に痛いのは、アルのことをペトラよりよっぽどよく知っている人たちだ。

 スバルもエミリアも、アルのことを本当に心配していて、そのために一緒にいたい時間も堪えてこの時間を作った。――アルは、それを裏切ったのだ。


「わたしは、許したくない……っ」


 時々、ペトラは自分がひどく心が狭くて、嫌な子なのではと思わされる。

 今、アルに抱いた怒りだけではない。『聖域』を取り巻く事件のときから、ロズワールのこともずっと許していないし、帝国でも許せないと思うことに何度も出くわした。

 それらをペトラの心は許せないし、許してあげたいとも思えない。ペトラがよくしてあげたいのは、ペトラの許せないことをしない人たちだけ。

 本当に優しい人たちの傍にいると、そんな自分がとても嫌な子に思える。


「ペトラちゃんも、十分優しいわよお。わたしが保証してあげるわあ」


 思わず俯いてしまうペトラ、その頭をポンポンとメィリィが軽い調子で撫でる。彼女の掌の感触に顔を上げると、メィリィがなんだか変な顔をしていた。

 自分に呆れたり、ペトラに呆れたり、そんな変な雰囲気の顔だ。


「……大変だけど、ガーフさんを下まで連れていこう。加護があるから、地面にぺたって寝かせてあげた方が治りがよくなるかも」


 そのメィリィの表情にも、頭の上の手にも言葉では触れず、ペトラはそう提案。

 幸い、ガーフィールもエッゾも男の人のわりに体の大きい方ではない。何より、ペトラとメィリィはこの通りの非力な少女だが――、


「わかりました。エッゾ様もついでに運びましょう。上と下で分かれて看病する方がずっと面倒ですから」


 言いながら、フラムがひょいと二人の体を持ち上げてしまう。

 ペトラたちと同年代の少女なのに、その身体能力は比べるべくもない。『剣聖』の屋敷の使用人とのことだが、それが理由の強さなのだろうか。

 ともあれ――、


「まだ、これで終わりじゃない気がする」


 とんでもないことをしでかしたアルは『神龍』を連れて塔を去り、遠からず、フラムの連絡を聞いた『剣聖』ラインハルトの追跡を受けることになる。

 それでメィリィもフラムも、アルがどんな目的を持っていても台無しになると考えているみたいだが、ペトラはそんな風に楽観視できなかった。


 ペトラがラインハルトを直接知らないから、というのもあるかもしれない。

 ただそれ以上に、スバルを意のままにしたアルが、そのラインハルトの対策もしていないというのは、ちょっと変ではないかと思ってしまう。

 もしも、そのラインハルトでもアルを止められなかったら、そのときは。


「――あれ?」


 フラムがガーフィールとエッゾを担いで部屋を出て、ペトラとメィリィも広げてあった旅支度をまとめ、その背中を追おうとしていたときだ。――道具を鞄に押し込んでいたペトラは、その鞄の奥におかしな感触を見つけ、引っ張り出した。

 それは――、


「……本?」


 ペトラの手に収まり、鞄から出てきたのは一冊の本――見覚えがある。ありすぎるそれは、この塔の中には文字通り、山のようにある本の一冊。

 間違いない。これは、三層の書庫に大量に並べられた『死者の書』の一冊だ。


『死者の書』があること。それ自体はおかしくない。

 だが、ここにあるのはおかしい。『死者の書』は書庫から持ち出さないようにと、前もってエッゾから厳重注意を受けていたし、みんなそれで納得していたはずだ。

 にも拘らず、『死者の書』が鞄から現れた。それも――、


「――スバルの、鞄」


 手元にある鞄、それはスバルとベアトリスの私物が入った鞄だった。

 必需品の着替えや、スバルが書いている『ベアトリス成長日誌』などが入った鞄に、何故か『死者の書』がこっそりと隠すように入れられていて。


「名前のところ、読めない……?」


 唾を呑み込み、背表紙を確かめたペトラは眉を寄せる。

『死者の書』の背表紙には、その本の題名――『死者の書』の場合、その本に生と死を綴られた人物の名前が記されているのだと聞いた。実際、書庫の『死者の書』は読む資格のあるなしに拘らず、背表紙の題名は確認できたはずだ。

 しかし、この本の題名は読めない。読めないように、削り取られていた。


「――――」


 その、題名の削られた本の正体と、鞄に隠されていた意味をペトラは想像する。

 題名を削る意図は当然だが、この『死者の書』が誰のものなのかを隠すため。鞄に隠した理由も、この『死者の書』の存在を隠すためだろう。

 そして、この『死者の書』がスバルの鞄に隠されていた以上――、


「スバルが隠した、本……」


「ペトラちゃん? こっちの荷物はまとまったわよお。そっちはあ?」


「……メィリィちゃん」


 その声に、手の止まっていたペトラがメィリィを振り向く。最初、メィリィは只ならぬペトラの様子に首を傾げたが、その手元の本に気付くとぎょっとする。


「ペトラちゃん、その本ってえ……」


「……スバルの鞄から出てきたの。もしかしたら、これに」


「その本にい?」


「――今、何が起こってるのかの、ヒントがあるかも」


 きゅっと本の装丁を握り、ペトラはそれがあながち間違った推測ではないと考える。

 塔の中で起こった、アルの突然の暴走――元々、アルの目的は、亡くなった王選候補者であるプリシラ・バーリエルの『死者の書』を読むことにあった。あるいは、それ以外の目的があったのかもしれないが、いずれにせよ、塔に目的があったはずだ。

 その目的が、もしかしたらこの『死者の書』で、スバルがアルにこの本を渡してはならないと判断し、自分の鞄の中に隠していたのだとしたら。

 それがスバルとアルとの間の、決定的な亀裂の原因になったのだとしたら。


「この本を読んだら、それがわかるかも」


「……わたしは、危ないと思うからおススメはしないわあ」


「――――」


「でもお、何にもできないままで終わりたくないってペトラちゃんの気持ちも、わたしはわかっちゃうのよねえ」


 困りもの、とでも言いたげな顔でそう告げるメィリィに、ペトラは「ごめんね」と小さく舌を出す。

 たとえメィリィに何を言われても、ペトラはそれをするつもりだった。――『死者の書』を読むことは危険なことだと、スバルにもベアトリスにも口を酸っぱくして言われた。

 一応、エッゾは『死者の書』の本を読むときのコツは心を閉ざし、無にすることだと豪語していたが、それがペトラにできるかはわからない。


 ただ、自分に何もしないで蹲っていることを許しておけるほど、ペトラ・レイテは黙って置き去りを良しとする娘ではなかった。

 だから――、


「――メィリィちゃん、何かあったらあとはお願いね」


「わたしにそんなお願いするなんて、ペトラちゃんって見る目ないわあ」


 そんなやり取りを交換して、ペトラは深呼吸のあと、膝の上に置いた本のページをゆっくりとめくり――、


「――ぁ」


 ――この世界の、禁忌となる『記憶』に触れた。



                △▼△▼△▼△



 それがいつになるか、アルデバランにも確信はなかった。

 もしかしたら、アルデバランが思うより少女たちの心が脆く、起こった出来事を受け止め切れずにさめざめと泣いて、伏せ札がめくられない事態も起こり得た。

 そうなっていたなら、アルデバランは十三万回をさらに十三万回繰り返し、それでも終わりのこない那由多の石積をなおも続けていたかもしれない。

 だが――、


「嬢ちゃんたちなら、そこまで考えてくれると思ったぜ」


 残された少女たち、ペトラとメィリィ、それにフラムの三人は年齢に見合わない経験値と聡明さ、そして環境に恵まれてきた稀有な能力の持ち主だ。

 瀕死のガーフィールとエッゾの治療を終えたあと、彼女たちは立ち止まるのではなく、前向きな行動を起こすため、動き始めるとアルデバランは読んだ。

 そして、そうしようとした彼女たちは見つける。――ナツキ・スバルの鞄の中、意味深に隠された一冊の『死者の書』を。


 それは頼るもののなく、道しるべを失った彼女たちには、ナツキ・スバルが残した一握の可能性に見えたことだろう。その可能性の糸を手繰ることができれば、必ずや、閉じた袋小路を脱出する光に辿り着けるはずだと。

 それが、アルデバランが張り巡らせた罠だと気付く余地は、ない。

 その『死者の書』――、


「――『菜月・昴』の本だ」


 この世界の理に反したものの、まさしく禁忌と呼ぶべき『死者の書』。

 それを誰かが読み解くことで何が起きるか、それは言葉で説明するよりも、目の当たりにする方がよほど直感的で、誤魔化し難い。

 それは――、


「――馬鹿な」


 青い双眸を見開いたラインハルトが、再び唖然と同じ言葉を漏らした。

 しかし、彼がどれほどその現実を否定しようとしても、それは覆ることはない。『剣聖』ラインハルトが世界に祝福されたモノなら、それは世界を呪うモノ。

 祝福と呪いは表裏一体、どちらが強いというパワーバランスではない。

 だから――、


「『剣聖』以外、誰もあれは止められねぇよ」


 その場にどっかり胡坐を掻いて、ラインハルトの肩越しに夜の砂海――星明かりだけの光源を頼りにした光景、それをなおも黒々と染め上げる脅威を視界に収める。

 それは世界の東の果ての果て、『賢者』の住んでいた塔よりもさらに東、あらゆる存在が目を背ける封ぜられた祠より来たる、ちゃぶ台返し、台無しの象徴。

 猛然と、黒い津波のように押し寄せる、『魔女』の瘴気で練り上げられた魔手だった。


 禁忌に触れ、『嫉妬の魔女』を世界に介入させる。

 それが、アルデバランが対ラインハルト用に仕込んだ、時限式の大爆弾――、


「――っ、あなたを」


「オレを仕留めてからってんなら、オレも全力で抵抗する。言っとくが、あんたがいかなきゃ世界が滅ぶぜ。別に、オレはそれでも構わねぇ」


「何を……」


「世界が滅んでも、オレは滅びない。――あれは、オレを無視し続けるから」


 それが理由で、アルデバラン自身が爆弾のスイッチになることはできなかった。

 目敏く聡明で、物事を打開する勇敢さのある存在しか、このスイッチにはなれない。


「ラインハルト、オレは世界を壊したいんじゃない。むしろ、その逆だ」


「く……っ」


「親父さんに手は出さねぇよ。――いけ」


「アル殿、何もかもうまくいくとは思わないでください」


 悔しげに歯噛みして、おそらくは可能な限りの悪態をついたのだろう。それでもお上品すぎる騎士性をその場に残し、ラインハルトが砂を蹴った。

 アルデバランたちに背を向け、ラインハルトが真っ直ぐ――プレアデス監視塔を呑み込まんと迫る『嫉妬の魔女』の魔手に、横合いから猛然と襲いかかる。


 ――瞬間、世界から音と色と光と熱と、あるべきものが根こそぎ取り上げられる錯覚をアルデバランは味わった。


「――――」


『剣聖』の白い一撃と、『魔女』の黒い破壊とが衝突し、白でも黒でもない色が生じる。

 それは直前の、『剣聖』と『神龍』の戦いのときに生じた星の光、稲妻の弾丸、夜を灰燼に帰す炎、そうした天変地異的ビッグバンに匹敵するものだった。

 そしてそのビッグバンは、その一度きりで終わらずに続く、続く、続く。


 何度も、何度も、幾度も、幾度も、終わりなく、終わることなく、終わりを知らず、熱が生まれ、光が生まれ、色が生まれ、音が生まれ、世界を生まれ変わらせるように、これまでとこれからの世界を切り分けるように、ぶつかり合う。


 ――それは終わらぬモノと滅びぬモノとの、決着のつかない戦いだった。


『……寝かされてた。どうなった?』


 策が成り、ラインハルトと『嫉妬の魔女』をぶつけるのに成功した。

『剣聖』と『嫉妬の魔女』との伝説的なぶつかり合いは、数キロも離れた塔の付近で起きているにも拘らず、ここまでその余波が届くような恐ろしさがある。

 その余波を感じ取ったのか、気絶していた『アルデバラン』が目を覚ました。


 砂の上に大の字と、最強のドラゴンにあるまじき醜態を晒していた『アルデバラン』だが、彼方から伝わる衝撃波に黄金の瞳を細め、


『うまくやったみたいじゃねぇか』


「ああ。寝惚けて不完全な『嫉妬の魔女』と、瘴気と両腕の怪我で万全じゃない『剣聖』……切れる綱を十三万本も渡った甲斐があった。いけるか?」


『喉がイガイガするのと、マナタンクの竜殻でもごっそりとマナを減らしてる以外は。飛んで砂海を抜けるのは問題ねぇよ』


「上等だ。寝てる間のことは、あとで同期すりゃいい。今のうちに――」


 いくぞ、と立ち上がろうとした瞬間、アルデバランの足を狙い、はるか彼方から凄まじい勢いで何かが飛来、それをとっさに『アルデバラン』が尾で払い落とした。

 弾かれ、砂の上を転がったのは単なる小石だ。――おそらく、『嫉妬の魔女』の魔手を押しとどめるラインハルトが、アルデバランへと飛ばしたもの。


『次から次にくるぞ! 完全に見えなくなるまで続きかねねぇ!』


 なおも続く小さすぎる飛礫の攻撃、翼を広げた『アルデバラン』に包み込まれるように守られながら、アルデバランはラインハルトの使命感に感服する。

 救世主たる自分の役割をわかった上で、そうでない部分も全霊を尽くしている。――アルデバランの知る人物像よりも、この『剣聖』は欲張りらしい。

 それがきっと、ラインハルトの傍にいる誰かの影響なのだろうと思いながら――、


「――言ったろ、ヒーロー。どうせ、オレが勝つ。十万回、負けてもな」


 届かぬ言葉を残し、『アルデバラン』に掴まれたアルデバランが再び空へ飛ぶ。

 夜の砂海、夜よりも暗き『嫉妬の魔女』の妄執と真正面から押しとどめる『剣聖』の姿は、まるで大津波にたった一人で立ち向かう殉教者のようだ。

 もっとも、あの殉教者はむしろ、滅んだあとの世界に一人取り残されるのだが。


『今なら、あれと挟み撃ちにして『剣聖』も倒せるんじゃねぇか』


「……やってどうすんだよ。ラインハルトがいなくなったら、地獄の蓋を閉じる役目がいなくなる。あいつには、蓋の役をしてもらわなきゃならねぇ」


『言ってみただけだよ』


「あいつには、死なれちゃ困る」


 そもそも最初から、ラインハルトを死なせるつもりは微塵もなかった。

 ただ、殺せるだけの攻撃をしなければ、傷付けるだけの成果も得られない。『剣聖』がそれほどに高い壁であると、そう認識していただけで。


「何もかもうまくいくと思うな、か」


 高い壁にして、世界に取り残される殉教者、その別れ際の言葉が思い出される。

 これも加護の力なのだろうか。だとしたら、『急所の加護』か『弱点の加護』みたいな代物を授かっていて、それが発動したのかもしれない。

 確かに、アルデバランには無限の試行回数で、欲しい結果を引き寄せる力がある。

 力があるのに――、


「今まで何か一個でも、本当にうまくいってほしいことがうまくいったことなんて、ねぇよ」


 十三万二千四十四の抗いの向こう側に辿り着いても、祝福とも呪いとも無縁なるモノの胸の内、その敗北感は消えることがなかった。


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― 新着の感想 ―
流石に面白すぎる
ラインハルトって作中最強なのにたかだか13万回程度の試行でアルの思い通りになったのが違和感すごい もちろん勝つのではなく嫉妬の魔女とぶつけるための試行回数なのだろうけど...
「今まで何か一個でも、本当にうまくいってほしいことがうまくいったことなんて、ねぇよ」 この言葉があらゆる読者の代弁のように感じる。猫先生はスバルのような人物のおとぎ話的視点だけでなく、アルの現実的視点…
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