第九章13 『最も愛されたモノと最も愛されぬモノ』
――二百八十九。
大一番を乗り越えたあとのロスタイム、伏兵の強襲は予想以上に容赦がなかった。
ガーフィールが少女たちを守りにいった傍ら、彼女たちと一緒にいなかった伏兵がどうやってあの大水を回避していたのかはわからない。しかし、自力でそれを成し遂げた伏兵は、疲労困憊で階下に降りてきたこちらの首を何度もへし折った。
質問なし。躊躇もなし。まさしく、障害を排除するという一点に振り切った行動は、自分が塔に残る最後の抑止力である自覚の為せる業だった。
「大したもんだよ、お嬢ちゃん」
その幼さでこれだけの実力を身につけるのに、いったい、どれほど血の滲むような鍛錬を積み重ねたのか、想像するだけで尊敬の念が湧いてくる。
双子の姉妹と聞いているが、彼女の姉か妹も同じぐらい強いのだろうか。――ここで聞かなくても、たぶん、直接確かめる機会は訪れるだろう。
なにせ、これからアルデバランは世界の全てを敵に回すことになるのだから。
「――っ」
微かに息を呑む音がして、伏兵の細い手がアルデバランの首を折り損ねる。
背後から忍び寄った少女の手が届く寸前、アルデバランは石のギプスで首周りを覆い、頚椎をねじ折る一撃を回避したのだ。
だが、それで手を緩めるほど甘い相手ではない。奇襲に失敗したとみるや、相手は即座にアルデバランの左側――腕のない死角へ滑り込み、脇腹を狙った手刀を放つ。
それも、可愛い手先と裏腹に、脇腹を突き破り、肋骨の隙間をすり抜け、そのまま心の臓を引き裂く恐るべき『流法』を纏った一撃だ。
ほぼ即死を免れない必殺、しかし、ほぼ即死はほぼ即死だ。即死じゃない。
短くても、耐え難い痛みには襲われる。だから――、
「う、ぁう!」
伏兵の少女が滑り込む先に土塊の義手を伸ばし、アルデバランは彼女の二つくくりにした髪を掴むと、そのまま力ずくで壁に押し付けた。さらにそこで、土塊の腕は大きな泥のテープに代わり、少女を壁に磔の状態にする。
両手足を拘束し、頭だけを自由にされた伏兵――フラムと、アルデバランは睨み合い、
「オレはお嬢ちゃんより弱い。オレは腕が一本足りない。オレは兜で視界が悪い。オレは連戦で疲れ果ててる。オレは実力も才能もない。――だから、オレの勝ちだ」
「アルさ――」
「黙っててくれや」
フラムの顔の前で右手の指を鳴らし、その口を石の猿轡で塞ぐ。手足が使えれば簡単に剥がせる程度の代物だが、その手足を封じ込められたらお手上げ状態。
そうしてようやく、ボーナストラックの攻略を達成したと言える。
「――――」
長く、深いため息がこぼれた。
安堵なんて微塵もないそれは、実際、やり遂げた達成感とは無縁の気鬱なものだ。
そもそも論として、山登りに例えるならこれは一合目――どんなポジティブシンキンガーでも、一合目から大はしゃぎなんて滑稽な真似はしないだろう。
ましてやこの挑戦は、誰に誇れるようなものでもないのだ。
「なんで、そんな目で見られても言い訳の一つもしてやれねぇよ、お嬢ちゃん方」
そう言って、振り返るアルデバランの視界、四層の通路に並んで立っている二人の少女がこちらを静かに見据えている。
――片方は切れ長な瞳に冷めた敵意を、もう片方は丸い瞳に切実な色を宿しながら。
「この子が怒ってるから、それ以上こないでくれるかしらあ?」
半身だった体を振り向かせ、自分たちに向き直ったアルデバランを三つ編みの少女――メィリィが牽制してくる。彼女の頭の上、青い髪を足場に尾を立てているのは、旅の道中と塔で幾度も姿を見せた、賑やかし役の魔獣だ。
その微かに先端を光らせた尾は、これで意外と侮れない攻撃器官でもある。無論、無防備に急所に喰らうようなことがあれば、だが。
「まぁ、近付かねぇのは了解。元々、嬢ちゃんたちに危害を加える気はねぇしな」
「こぉやって堂々と探しに下りてきておいてえ? ちゃんちゃらおかしいわあ」
「探しにきたってのは合ってて、探しにきた理由の方が間違ってんだよ」
そう取りつく島もないメィリィの態度に、アルデバランは兜の継ぎ目を指で弄りながら言葉を選ぶ。と、そのやり取りの傍ら、じっと黙っていた少女が「理由……」と小さく口にしたかと思うと――、
「なら、何の理由で下りてきたんですか、アルさん」
――しっかりと、目を逸らさずに問いを発したペトラにアルデバランは沈黙する。
「――――」
元殺し屋で、修羅場慣れしたメィリィの肝が据わっているのはわかる。だが、元々単なる村娘で、メイド修行に邁進しているだけのペトラがこうもタフなのには脱帽だ。
全員の警戒が一番緩むタイミングを見計らい、アルデバランは誰にも兆しを悟らせずに今回の行動を起こした。つまり、ペトラたちはまるで状況がわかっていないはずだ。
その小さな頭の中には、ありとあらゆる疑問が、泣き出し、喚き散らしたい不安と混乱が渦巻いているに違いない。――それを、おくびにも出さなかった。
「オレは目的を果たした。もうこの塔には何の用もない。なんで、出てく挨拶だよ」
「挨拶なんて、されても……っ」
「ガーフィールとエッゾは塔のてっぺんで寝てる。すぐ手当てすれば、命は助かるだろ」
「――ぁ」
一瞬、アルデバランの身勝手な宣言に身を硬くし、臨戦態勢を取ろうとしたペトラ。隣のメィリィも、ペトラのその覚悟に付き合おうと足を広げかけたが、そんな少女の戦意が塔の上――一層を指差したアルデバランの言葉に掻き混ぜられる。
そして、生憎と少女相手だろうとアルデバランに容赦する余裕なんてない。
「どうする? ここで格好良くオレとやり合うか? 頑張ればオレに勝てるかもしれねぇが……負けたら、上の二人も道連れに全滅だぜ?」
「卑怯、者……っ!」
「知ってるし、心底、自分で自分が嫌になるぜ」
険しい目つきをしたペトラに罵られ、アルデバランは嫌な大人になったと自戒する。
だが、現実はその嫌らしく卑怯な大人の意見がまかり通るらしい。――賢く勇敢なペトラには、自分が負けた場合のリスクがちゃんと計算できるから。
ここで勝算の薄い戦いに挑んで、ガーフィールたちを死なせるリスクは冒せないと。
「お兄さんと、ベアトリスちゃんはどおしたのかしらあ?」
「二人一緒におねんねだよ。あれだけイチャイチャ仲良しなんだ。離れ離れにさせるなんて酷な真似、胸が痛んでとてもできねぇ」
ペトラに代わり、スバルたちの安否を尋ねたメィリィにそう答える。
生憎と、ここでそれ以上の情報を二人に与えるつもりはない。
どのみち、ガーフィールたちを助け出せば、彼らの口から同じ話は聞けるのだ。迂闊な真似をして、理性的な判断をしたペトラたちを無闇に刺激したくない。
領域の展開だって、負担を肩代わりさせていても疲れるものは疲れるのだ。
「近付くなって言われたが、出口がそっちなんでな。通してもらうぜ」
手を上げてそう告げ、アルデバランはゆっくりと少女たちの方に足を進める。敵意がないことを示すため、上げた手は下げないまま、開いたままでだ。
「――――」
近付いてくるアルデバランに、ペトラとメィリィが無言で道を開けた。左右に広がった少女たちの間を抜けるとき、静かな通路に小紅蠍の鋏の音だけが空しく響く。
その小紅蠍の威嚇音が、まさしく彼女たちの納得していない心の表れに思えて――、
「わたし、本当にこの三日間、ちゃんとアルさんをお手伝いするつもりでした」
「――――」
「あなたなんて、大っ嫌い」
絞り出された少女の涙声、それがアルデバランがこのプレアデス監視塔で受けたありとあらゆる傷の中で、間違いなく一番の深手と言えるものになった。
△▼△▼△▼△
アルデバランが塔の入口に降り立ったとき、そこでも四層のペトラたちとの相対と同様の、心を擦り切れさせる戦いが繰り広げられていた。
その戦いに参戦していたのは、アルデバランを含めた一行をこの塔へ辿り着かせるのに貢献したパトラッシュという名の漆黒の地竜。
そして、そのパトラッシュと正面から向かい合っていたのが――、
『よう、オレ。やり残したことは片付けてきたのかよ?』
そう、重く厳めしい声で、威厳などまるでない口調で話しかけてくる巨大生物。
塔の入口、大きな正門を片手で悠々と押し開き、そこで待機していたパトラッシュと睨み合う青く輝く鱗の『龍』――ボルカニカ改め、『アルデバラン』だ。
「――ッッ」
その『アルデバラン』と対峙し、パトラッシュは一歩も引かずに嘶いている。
正直、スバルの仲間の女性陣は全員精神的にどうかしている。――否、思い返せば、アルデバランが出会った女性たちも、みんな大概ではあった。
弱い女の人なんて、それこそ一人ぐらいしか思いつかない。
なんであれ――、
「龍のオレの方こそ、弱いものイジメなんてやめろよ。ただでさえヤバい見た目してんのに余計にヤバい奴に見えるから」
『ヤバいヤバい言うんじゃねぇよ。オレがヤバいんなら、お前も相当イカれてるだろ。普通、考えても実行に移さねぇよ。――『神龍』の乗っ取りなんかよ』
慣れない声で慣れない見た目、翼を動かしながら『アルデバラン』がそう述べる。その『アルデバラン』の言葉に、アルデバランは肩をすくめた。
ヤバい、イカれてると自分に言われても、やれるからやった苦肉の作戦だ。
そもそも、そう言ってくる『アルデバラン』もアルデバランなのだから、同じ状況になったら同じことをするに違いないのに、そうやいやい言われるのも理不尽だった。
『悪ぃな、地竜ちゃんよ。けど、動かなくて正解だぜ。地竜ちゃんがやられたら、誰もこの砂の海から身内を連れ出せねぇ』
「――――」
『なんだよ?』
「いや、さすがオレだと思って。脅し方が完全に一緒だわ」
パトラッシュを見下ろした『アルデバラン』、その戦いを避けるためのロジックがペトラたちを脅したアルデバランのやり方とまるで同じだったのが複雑極まりない。
ともあれ――、
「飛び方は?」
『いける……と思う。おいおい慣らしていく感じで一つ』
「不安の尽きねぇ言い方……」
イマイチ頼もしさに欠ける『アルデバラン』の答えに、アルデバランは微妙な不安を隠せないまでも、その尾を足場に背中に飛び乗った。そして、いくつもある龍の鱗の突起にしがみつくと、「いいぞ」と声をかける。
『――リフトオフ!』
次の瞬間、掛け声と共に翼をはためかせ、『アルデバラン』が空へ上がった。
轟々と巻き起こす風で砂を散らしながら、『龍』は一気に高度を上昇させ、高い高いプレアデス監視塔の上部まで迫ると、そのまま塔から遠ざかる。
どんどん離れていく塔、そこに残してきたものたちをアルデバランは振り返り――、
『まさか、後悔してんのか?』
「したよ。後悔なら四百年も前に」
全部の事情を把握している自分に皮肉られ、アルデバランは舌打ちする。
『アルデバラン』が言いたいのは、後ろを見ている余裕なんてないだろうという現実だ。そしてそれは正しい。一度山に例えた通り、これはまだ一合目。
ここから先の、何としても辿り着くのだと決めた那由多の先の星明かりを目指し、アルデバランは一手たりとも詰め誤るわけにはいかない。
『まぁ、一人で気負いすぎんなよ。こっから先はオレもいる。ちったぁマシだろ?』
ぐんぐんと、砂海の夜空を翼で切り裂きながら、『アルデバラン』が気楽に言う。
『死者の書』から共通した『記憶』がインストールされているとはいえ、その楽観視は入っている器の違いなのだろうか。とはいえ、過剰にネガティブもよくない。
実際、これ以上望むべくもない強力なバックアップを手に入れたのだ。
あとは――、
「――そこまでだ」
△▼△▼△▼△
――光に貫かれたのは、次の方針を打ち立てようとした瞬間だった。
「――――」
猛然と、冷たい夜の砂の海に墜落し、『龍』がゆっくりと体を起こす。その『龍』の翼にくるまれていたアルデバランも、頭を振って砂の上に降りた。
そして、一人と一体、別々のアルデバランの視界に、それは悠然とやってくる。
「――――」
燃える炎のような赤毛に、澄み切った空を閉じ込めた青い瞳、その信念と歩む騎士道の在り方そのままに汚れのない白い装いを纏った、世界に選ばれし存在――、
「塔に残していたフラムは、『念話の加護』の加護者なんだ。彼女は妹のグラシスと、一日に一度だけだが、距離も時間も関係なく言葉を届けることができる」
それは、自分がこの場に駆け付けられたことの説明で、理不尽な状況に陥った相手の混乱に配慮し、寄り添った実に律儀な対応だった。
「……説明ありがとよ。もしかして、クレーム付けられるの慣れてる?」
「先に僕の方から疑問を解消しておきたくてね。――あなたには、聞きたいことが多い」
「――――」
「投降をお勧めします。あなたを、斬りたくはない」
そう言って、腰の『龍剣』に触れながら、青年――ラインハルト・ヴァン・アストレアが、アルデバランと『アルデバラン』を前に、堂々と言い切る。
「――――」
その威風堂々たる態度、勇壮なる立ち姿、夜の世界にあってなお眩い在り方――英雄になるべくしてなった彼に、朽ちた英雄幻想の担い手として、一言、物申したい。
ずいぶんと、言いたい放題言ってくれたものだが――、
「もったいぶるなよ、ヒーロー。どうせオレが勝つ。――星が悪かったのさ」
満天の星々に見下される砂の大海で、アルデバランはラインハルトと対峙する。
――それは世界に愛されたモノと、愛されぬモノとの、決して交わらぬ対立だった。