第九章9 『高効率魔導式誘導扉』
「――よく無事に戻られました。安堵」
口数少なく、スバルの帰還をそう喜んでくれたクリンド。
エミリアの騎士として叙勲して以来、肩書きに相応しい働きをしたいと奮闘するスバルに手ほどきし、体の鍛え方や鞭の扱いなど、今のスバルの自信に繋がる様々なことを教えてくれた彼は、実質的にこの世界の師匠と言える立場だ。
そんな立場にありながらも、平時は自分が仕える屋敷の人間と、スバルに対しても一定の距離感を保ち続けていた彼が、その再会の言葉をかけるときにはこちらの肩に触れ、わずかに目尻を下げていたように思えたのが印象的だった。
同時に、何事にも動じないように見えるクリンドにも、心配をかけていたのだと。
「そりゃ当たり前だよな。なんていうか、本当にごめん。クリンドさんも、エミリアたんたちが俺を迎えにくるのにすげぇ手ぇ貸してくれたって聞いたよ」
「いえ、できることをできる範囲でしたまでです。相応の、対価をいただくことはしておりますので問題は些少です。許容」
「クリンドさん……」
「それに、こうした場合の謝罪というのは陣営の方針と異なるのでは? 疑問」
「え?」
「スバル様が主人と仰ぐ、幼さを残したまま清らかで豪勇に成長されているエミリア様であれば、こうしたときにどう仰るでしょうか。思案」
そのクリンドの言葉に、スバルは小さく息を呑んだ。
彼の口にしたエミリア評は、無限の可能性に溢れる子どもを偏愛する性格が滲み出すぎていたが、スバルに言いたいことはわかった。
こういうとき、何かしてもらったエミリアは謝るのではなく――、
「ごめんじゃなくて、ありがとうだ」
「ええ。快答」
ここで、微笑まずに真顔で答えるあたりがクリンドらしさたる所以か。
心情の読み取れない師匠の在り方に、スバルは指で頬を掻いて苦笑する。この掴みどころのないところが、クリンドの主であるアンネローゼの苦労や、長年の付き合いがあるフレデリカの複雑な心境に通じているのだろう。
もっとも、フレデリカの複雑な内心については、クリンドを嫌っているにしては名前を出す頻度が多すぎるので、外野があれこれ言うものではなさそうだ。
「そう言えば、先行した鳥文ではフレデリカも同行するというお話ですが、ひと際背が高く、目立つ彼女の姿が見当たりませんね。確認」
「うん? ああ、そうなんだ。最初はフレデリカもきてくれるはずだったんだけど、急遽予定変更して、ロズワールと一緒にいってもらってる」
クリンドの呈した疑問に、スバルは彼方の空を意識しながら答える。
現在、スバルたちも含めて、ルグニカ王国の各所に役割分担しているエミリア陣営だが、帝国での出来事を王都へ報告に向かったエミリアとオットー、屋敷で『記憶』の療養をしているレムを世話するラムとなっている中、ロズワールとフレデリカが向かったのは王国の南側――バーリエル領だ。
プリシラが死に、その夫であるライプ・バーリエルもすでに故人となっているバーリエル領は、『太陽姫』と謳われた領主を失い、大きな混乱が予想される。
そうした混乱を最低限に収める目的で、ロズワールはプリシラ陣営で真っ直ぐ帰還することを選んだシュルトに同行し、フレデリカもそちらについてくれているのだ。
「フレデリカは子どもの扱いが上手いし、シュルトにも好かれているから任せて安心かしら。ロズワールだけだったらなんて、考えただけでもゾッとするのよ」
「わかるけど、あんまり言ってやるなよ。ロズワールだってだいぶ丸くなった……今回だって、エミリアたんがシュルトの力になってほしいって、そう頼んだのをノータイムで引き受けてくれるくらいだったじゃんか」
相変わらず、ロズワールに手厳しいベアトリスは愛らしいが、今回の彼の対応にはスバルは大いに感謝している。スバルが『スパルカ』する間、シュルトと話したらしいエミリアも、ロズワールが引き受けてくれて一安心という様子だった。
正直、他陣営の事情にロズワールが何の抵抗も示さず協力してくれる裏には、バーリエル領に対する影響力を持ちたい発想があるのではと思わなくもないのだが、たとえそれがあったとしても、他の野心ある人間にされるより、ロズワールの方が信用できる――と言うのが、ひとまずのスバルの納得だった。
そもそも、他陣営の事情に関わるという話をすれば、エミリアやロズワール以前に、スバルの方がよほど堂々と嘴を突っ込んでいるのだから。
「――――」
そう考えながら、スバルはロズワールに対し、もう一つの複雑な感謝――プリシラを救えなかったスバルに、彼が以前の発言を実行しなかったことを思う。
スバルの『死に戻り』――それが『死』が起点であることを知らないまでも、スバルにやり直す権能があると認識しているロズワールは、『聖域』での戦いのあと、ナツキ・スバルに失うことを妥協する道を許さないと、そう明言した。
スバルが大事な誰かを救えなかったとき、ロズワールはその世界をやり直させるため、全てを自らの炎で焼き尽くすと。
あれは脅しでも冗談でもなく、本気の発言だった。
しかし、ロズワールは今回、プリシラを救うことができなかったスバルに追い打ちをかけるように、その恐ろしい炎の光景を実現しようとしなかった。
それがロズワールの何らかの変化を意味するのか、それとも彼の中でプリシラはスバルがやり直すための相手としてカウントされなかったのか、それはわからない。わからないが、前者であってほしいと、そう願ってはいた。
「まぁ、そんなわけでフレデリカはロズワールの方にいるんだ。クリンドさんが顔見ておきたいなら、そっちにピョンと飛んでもらえれば……」
「残念ですが、私の移動法も万能ではありません。条件。それと、わざわざフレデリカにだけ会いたいということも。否定。ただ――」
「ただ?」
「当初の予定と違っている点が気掛かりだっただけです。些細」
短く首を横に振り、そう付け加えたクリンドにスバルは眉を上げる。
クリンドの言い分はわかるが、物事が予定通りに進まないことはままある。臨機応変とまでは言わないが、杓子定規すぎても身動きが取れない。
第一、フレデリカでなければ、ロズワールについていくのはペトラになっていた。陣営の内情的には、そちらの方がよほど不安だろう。
だから、自然な成り行きでこの組み合わせになった次第だ。
「――――」
「クリンドさん?」
「――。奥歯に物が挟まったような物言いしかできず、申し訳ありません。謝意。私の立場を考えれば、出過ぎた発言でした。配慮」
そう言って頭を下げるクリンド、その一線を引いた態度をスバルは寂しく思う。
元々、こうして自他の領分を弁えた人物ではあるのだが――、
「俺はロズワールでも、アンネローゼでもないんだ。だから、俺を相手に出過ぎた発言とかそういうのはないと思う。クリンドさんも、俺たちの仲間だよ」
さっき、ありがとうと伝えた経緯だってある。
ああまでしてくれて、力を貸してくれた相手が仲間でなくてなんだというのか。
「俺もクリンドさんも、健やかで可愛いエミリアたんの味方、だろ?」
「――。ええ、そうですね。肯定。ただし、お早い成長を期待されるスバル様と違い、私はすくすくとした可能性の芽吹きを見守っていたい立場です。揺籃」
「推しに対する相容れない派閥の違いを感じる!」
「ちなみにベティーは、今のエミリアの成長がにーちゃに誇らしい立場かしら」
陣営の中でも、エミリアの応援の仕方に大きな隔たりがあるのがわかりつつ、ベアトリスの意見が一番大人だったと結論付けられる。
ともあれ、アウグリア砂丘を乗り越えるのに欠かせないメィリィを連れ、クリンドが長距離をひとっ飛びしてくれたのは本当に大助かりだった。
「このあと、クリンドさんは?」
「お嬢様の命とはいえ、しばらく家令としての役目に集中できておりませんでした。反省。旦那様やエミリア様が戻られたなら、また忙しくなる向きもあるでしょう。ですので、皆様のことはフレデリカに任せ、引き返すつもりでしたが……思案」
瞳を細め、モノクル越しの眼に憂いの色を覗かせるクリンド。
その彼の思案の中心に、主人であるアンネローゼの存在があるのがはっきりわかる。
幼くとも、貴族としてすでに一流の精神を宿しているアンネローゼは、頼もしくもあるが、同時に危ういところもある。一番傍にいるクリンドとしては、そうした主の傍を長く離れるのには不安があるだろう。
だから――、
「――大丈夫だよ、クリンドさん。ガーフィールもいる。ペトラも、ずっと頼もしくなってるんだ。戻って、アンネローゼを安心させてやってくれ」
△▼△▼△▼△
そんな一幕があって、メィリィを迎えたスバルたちはアウグリア砂丘の攻略へ取りかかり、それを見事に成し遂げたのだが――、
「……本ッ気で、俺様の出番なんかなかったじゃァねェか」
「いや、だから大丈夫だってクリンドさんとも別れたのに、それで何か問題があったらそっちの方が大変だろ。何もなくてよかったんだって」
「わかるぜ? わッかってんだぜ? でもよォ、意気込んだ俺様の気持ちってもんがあんじゃッねェかよォ」
がっくりと、プレアデス監視塔の正門の前に立ち、ガーフィールが項垂れる。
砂風の吹き付ける中、しょんぼりと背中を丸めたそのガーフィールの姿に、砂海を乗り越える最大の功労者だったメィリィが腕を組んで頬を膨らませた。
「なあにい? まるでわたしが悪いみたいじゃないのよお。そんなに力自慢がしたいんだったら、牙のお兄さんだけ砂場を往復してきたらあ?」
「メィリィちゃんっ、そんな風に煽らないのっ! ガーフさん、ごめんね。メィリィちゃんは悪気はないの。ちょっと口が減らないだけで……」
「ペトラちゃんの風当たりが強いわあ……」
むくれていたメィリィが、仲裁に入ったペトラに渋々と引っ込む。
ミルーラの酒場でのやり取りだけが理由ではないが、この二人のパワーバランスは、何故か圧倒的にペトラの方が上というのが面白い友人関係だ。
「やっぱり、ご飯を食べさせてくれる側と食べさせられる側の力関係ってことか?」
「それも合ってるか疑問なのよ。屋敷でペトラとやり合える人の方が稀かしら。エミリアとラムくらいのものなのよ」
「エミリアたんは天然強くて、ラムはシンプル強いだけだな」
ベアトリスの相槌にうんうんと頷き、スバルもその指摘に納得する。
言わずもがな、スバルもベアトリスも、自分がペトラに勝てるだなんて口が裂けても言わなかった。ちゃんと自分の立ち位置がわかっている。偉い。
「しかし、改めてくると、じわじわと込み上げてくるものがあるな」
そう言ったスバルの胸中、目の前にした塔の威容にしくしくと疼くものがある。
ヴォラキア帝国へ飛ばされる切っ掛けになった場所というのもあるし、色々あったがスピカと巡り合わせてくれた場所とも言える。
だが、このときのスバルの胸を一番強く疼かせるのは、消えた彼女のことだ。
「――――」
シャウラ。――『死に戻り』を持つナツキ・スバルが、最初に救えなかった相手。
そこにプリシラが加わり、スバルは頭では理解していたはずの、『死に戻り』が万能ではないという事実を、魂で理解させられることになった。
だからこそ、もう二度と、あんな思いを、傷を、味わうのは御免だ。
「とはいえ、実際一安心したかしら。さすがに、もう塔にいくだけであんなすったもんだな目に遭うのは御免なのよ」
そのスバルの心中を、繋いだ手から感じたのかどうか、ベアトリスはあえてスバルの感傷に触れずにいてくれたので、「そうだな」とスバルも頷き返せた。
プレアデス監視塔自体は、ミルーラからも遠目に存在を確認できた。以前に比べ、立ち込める雲と砂煙の濃度が薄れたのか、塔を見失う心配はほとんどないレベル。
もちろん、砂風が強まる『砂時間』にはそうも言っていられなくなるが、一度攻略して『砂時間』の中に塔へ通じる空間のねじれのようなものがわかっている今、むしろ、その『砂時間』の到来が待ち遠しかったくらいである。
「あの砂風の中でも、ちゃんと竜車の周りを警戒して、岩場と谷を避けたって功績があるのに、ガーフィールは落ち込みすぎかしら」
「未然に危機回避したってのも、十分あいつのおかげなんだけど、こう、筋肉を使わないと仕事した気にならないってのがガーフィールの今後の課題かも」
この砂海の攻略の功労者をシンプルに格付けするなら、ちゃんとガーフィールは上位三人に入ってくる位置だ。もちろん、一人はメィリィで、もう一人は――、
「こう立て続けに遠出に付き合わせて悪いな、パトラッシュ。毎回毎回、お前のスタミナと突破力と気品に助けられてるぜ」
「――ッ」
スバルがそう声をかけると、当然とばかりにパトラッシュが嘶く。
ヴォラキア帝国ではもちろんのこと、こうして再びのプレアデス監視塔への道のりでも竜車を引いてくれた彼女は、紛れもなく欠かせないメンバーだ。
長旅ばかりが続いて落ち着く暇もないが、しっかり屋敷に戻って落ち着くタイミングがくれば、ブラッシングでもピクニックでも何でもしてねぎらわなければ。
そうして、無事に塔に着けたことをスバルたちがねぎらい合う傍ら――、
「ここが――」
スバルたちに遅れて竜車を下り、静かに塔を見上げたアルが掠れ声で呟く。
そのアルの声音に混じった刹那の感情、それがひどく切実なものであったことに、スバルは頬を強張らせそうになり、慌てて指で摘まんでそれを堪えた。
この旅の間も、スバルは極力アルの前で深刻な顔や、心配した顔をしないように気を張り続けていた。旅の目的が目的なのだ。それを全部忘れて接することはできないが、それでも、気に病んで腫れ物に触るような態度はできるだけしたくない。
逆の立場でそうされたらと、少なくともスバルは思うからだ。
「目的の、プレアデス監視塔だ。窮屈な旅だったかもだけど、お疲れ」
その意識から、スバルは摘まんだ頬をぐにぐにとほぐしてからアルに声をかける。そのスバルの呼びかけに、アルは視線を塔に向けたまま、
「……窮屈な旅、なんてこたねぇさ。子どもらにも散々気ぃ遣ってもらって、厄介者なりに快適な旅させてもらったよ」
「厄介者なんてつもりは、ないぞ」
「ああ、悪ぃ悪ぃ、嫌味とか皮肉じゃねぇんだ。ダメだな。つい、余計なことを言いたくなっちまう。いい歳したオッサンが情けねぇ」
ゆるゆると首を横に振り、兜の額に手を当てながらぼやくアル。そんなアルの難しい心境に、一端がわかるスバルはなかなかうまいことが言えない。
スバルがアルを気遣うように、アルもスバルや他のみんなに配慮があるのだ。
ただ、落ち込んでいないと虚勢を張ろうにも、実態は落ち込んでいるのだからなかなかそれがちゃんと効果を発揮できない。
結果、変な強がりと、言わなくていいことを言ってしまう心情が働いてしまう。
「お前が常日頃から情けない男だとは誰も思わんのよ。誰でも、顔を上げていられなくなる瞬間はあるものかしら。大事なのは、そうして顧みることなのよ」
「……やれやれ。その慰めが真面目にじんわり沁みるぜ。ありがとよ、ベア子ちゃん」
「――。その呼び方は、スバルにしか許さないかしら。次は気を付けるのよ」
つんとすまし顔をしながらアルに答えるベアトリスに、スバルは優しい気持ちになって彼女の頭を撫でる。
それから、塔の正門を開けようとしているガーフィールたちの方へ向かい――、
「――兄弟、ありがとよ」
その背中にアルの感謝の声がかかり、スバルは一瞬足を止めかけ、結局はそうせずに背中越しに手を振り、ベアトリスと一緒に塔の入口に足を進めた。
色々と、プレアデス監視塔へくるのに迷いはあった。本当に、プリシラの『死者の書』を求めることが正しいのかどうかと。
ただ、実際に『死者の書』が見つかるかどうかの手前、アルのために心を砕いたことが無意味ではないのだと、それだけは確かに思えた。
そして――、
「あ、スバルっ。このおっきなドア、どうやって開けるの?」
「ああ、超でかいけど見た目ほど重くないんだ。俺が全体重かけて、全力で押し切ったらちゃんとちょっとずつ開くぐらいだから」
「力ずくなんだっ!?」
「そうなのねえ。前は裸のお姉さんとかエミリアお姉さん……それに、『剣聖』さんが開けてたから知らなかったわあ」
目を丸くして驚いているペトラの横で、肘を抱いているメィリィがそうこぼす。
彼女の口から『剣聖』――ラインハルトの存在が示唆されるのはちょっと驚くが、どうやらスバル不在の間、例の賢人会からの納得を引き出すため、メィリィはフェルトやラインハルトと共に一度塔を訪れていたとのことだ。
つまり、メィリィが塔を訪れるのは短期間で三度目。おそらく、世界で一番プレアデス監視塔を訪ねた女であり、今後もそのカウントを増やしていくだろう立場だ。
「そおそお、それで前にきたときなんだけどお……」
「まあまあ、ちょっと待てや。そのッ話もいいけど、いい加減塔に入ろォぜ。力ずくでなきゃ開かねェってんなら、ここは俺様の出番で――」
と、前回の旅の話をしようとしたメィリィを遮り、拳の骨を鳴らすガーフィールが前に進み出る。力ずく、という単語に反応し、ここが自分の見せ場と前のめりになるところが実に可愛い奴だが、実際、ガーフィールが適任だろう。
そう考え、スバルも「任せた」と背中を押そうとした。――そのときだ。
「――ァ?」
満を持して、扉に挑もうとしたガーフィール。その彼の目の前で、石と石が擦れ合う音を立てながらゆっくりと開かれていく。
もちろん、ガーフィールはまだ扉に触れてもいない。
その事実に驚愕するガーフィールの向こう、開かれた扉の隙間から――、
「――どうだ、驚いたかね? 今後、塔へ出入りする人間が増えるだろうことを鑑み、アウグリア砂丘に漂う瘴気の浄化も兼ねて、新たな術式を構築したのだよ」
聞こえてきたのは、自信と自尊心に満ち溢れた男の声だった。
笑み含みの、自慢げなニュアンスが込められた発言の主、その姿がゆっくりと、着実にスバルたちの眼に晒される。
そこに待ち構えていたのは、緑髪を綺麗に切り揃えた黒いローブの人物。
「微量だが、特定のマナを魔法陣に流すことで、扉と連動する仕組みだ。それにより、出入りに難儀する非効率な塔の在り方を入口から是正した! この仕組み、名付けて高効率魔導式誘導扉――」
「――自動で開く扉なので、自動扉です」
「ぬが!?」
ますます声のボルテージが上がり、それがいよいよ頂点に達しようとしたところで、横合いから冷や水のように冷めた声がかかり、勢いがつんのめった。
声を詰まらせ、愕然と自分の横を見るローブの男――子どものように背の低い人物は、わなわなと震えながら隣に立った相手を指差し、
「フラム嬢! 何度言ったらわかるんだ。これは地味で利便性がわかりづらいが、ゆくゆくは多くの施設で有用に使われるべき新たな技術だ。だからこそ、それに相応しい名称というものが必要で……」
「でも、言いづらくて覚えづらいです。自動扉で」
「そんな安直な……!」
凝然と目を見開く男の横で、ゆるゆると首を横に振ったのは桃髪の少女だった。
大体、同じぐらいの背丈の二人に迎えられ――出迎えというにはこっちを置き去りな様子だが、ともかく、先着者に「おーい」とスバルは声をかけ、
「取り込み中のところごめんなんだけど、二人は……」
「センセイさんとフラムちゃんよお、お兄さん」
二人の素性を尋ねようとしたスバルに、そう口を挟んだのはメィリィだ。
彼女の口にした言葉、それが『先生』と女の子の名前であると察し、メィリィが見知った相手であるという態度からも、相手が誰なのか察しがつく。
前回、メィリィがフェルトたちと共にプレアデス監視塔を訪れた際、警戒と連絡役に塔に残ったという、フェルト陣営の――、
「む、そこにいるのはガーフィール殿か! 久しいな、プリステラ以来だ! 壮健にしていたかね、エッゾ・カドナーだ」
「今日も元気でうるさいエッゾ様です」
「うるさいはただの悪口だな、フラム嬢!」
そう言って、フラムと呼んだ少女に目を剥くのが、自分でも名乗ってくれた通りのエッゾ・カドナー――噂に聞く、フェルト陣営の頭脳派魔法使い。
そのエッゾから親しげに声をかけられ、ガーフィールも知人との再会に喜んでいるかと思いきや――、
「ま、また俺様の出番が……がお……」
と、伸ばした腕をへなへなと下ろし、凹んでいる様子なのだった。
△▼△▼△▼△
「――なるほど。詳しい事情は聞けていなかったが、プリシラ・バーリエル様が」
その、プリシラの訃報を聞いて、エッゾは沈黙のうちに静かな黙祷を捧げる。
堂に入った彼の鎮魂の祈りには、子どものように幼く見える小人族であるその風貌に、確かな理知の色を滲み出させていた。
フェルト陣営の一員であり、対立陣営であるプリシラのことを当然認識していただろう彼は、しかし彼女の死の情報に狼狽えず、アルへと視線を向けると、
「アル殿、哀悼の意を表する。私はプリシラ様とお会いする機会はなかったが、フェルト嬢からは侮れぬ強敵であったと聞かされていた。彼女の見る目は確かだ。あなたの主君は正しく、優れた御方であったのだろう」
「……ああ、感謝します、エッゾ殿」
厳かに、プリシラへの哀悼を示したエッゾに、アルもまた神妙にそう応じる。
鉄兜で顔を隠した異邦人と、見た目の幼さに反した大人らしさを発揮する二人、傍から見ると違和感の拭えないやり取りだが、そこには真摯な思いの告げ合いがあった。
「では、ナツキ殿やガーフィール殿は、帝国から直接塔に?」
「そうなんだ。いったん屋敷に戻るより、真っ直ぐ塔にくる方が距離的に近くて」
「そうか。とはいえ、主であるエミリア様のお傍を離れるのは苦渋の決断だっただろう。ラインハルト殿も、呆れるほどフェルト嬢から離れたがらない」
「あいつらはあいつらの付き合い方があるからね。……俺、実はラインハルトがフェルトが嫌な顔するの楽しんでるんじゃないか疑惑があるんだけど」
清々しいぐらいラインハルトにおざなりなフェルト。そんな彼女の反応が、誰からも丁寧に応じられるラインハルトには新鮮に映るのかもしれない。
それが理由でフェルトの傍にいるなら、ラインハルトもいい性格をしている。
「もちろん、大事なご主人様って方が理由だろうけど……俺も、エッゾさんの言う通り、エミリアたんの傍を離れるのはしんどかったよ。ただ――」
帝国へ向かうため、エミリアたちが王国を離れていたのはふた月近くになる。
その間、王選に関わる諸問題は何も進められていなかった上、帝国との関係性の変化についても、早々に王都に報告を上げなければならなかった。――それは、プリシラの訃報という王選を激震させる情報も含めて、だ。
故に、王都への報告を先延ばしにする選択はなかった。
それと並行して、消沈するアルを長く放置し、塔へ向かいたいと願う彼を縛り付けておくこともままならず、エッゾの言う通り、苦渋の決断となったのだ。
とはいえ――、
「これに関しては大きく揉めはしなかった。正直、俺も自分が無理言ってる自覚はあったんだけど、俺がそう言い出すのは承知の上って感じで……申し訳なかったよ」
エミリアたちは、スバルが何を言い出すのかすでにわかった上で、そのスバルの言い分を最大限、安全に叶える方法を用意してくれていたように思う。
前述した、王都への報告やバーリエル領の対応など、先送りにできない事情がある中での最大限が、今、スバルたちをプレアデス監視塔へ届けてくれたのだと。
「揉めなかった……ふむ、そういうものなのか」
「――?」
「ああいや、こちらの話だ。君の、フェルト嬢たちの主従関係への評価通り、それぞれのことはそれぞれのこと。私には、帝国でのことも想像することしかできないからね」
細い顎に指を添えて、エッゾが鷹揚にそう頷く。
そのエッゾの語り口と態度には、話していて何となく落ち着くものがあって、メィリィが彼女を『先生』と呼んだのも頷けると思う。
ともあれ――、
「塔に着いて一休み……ってしたいところなんだけど、たぶん、目当てのものが目の前にきてて落ち着かない奴がいるから、さっそくだけど」
「書庫のある『タイゲタ』へ、か。無論、止める理由は私にはない。ただ、一点だけ確認させてもらいたい。――アル殿」
互いの素性と事情もそこそこに、塔の入口――五層から続く螺旋階段を見上げ、目的の三層へ話を進めようとしたスバルを遮り、エッゾがアルの名を呼んだ。
その呼びかけに振り向くアルに、エッゾは指を一本立てると、
「先ほど、私がプリシラ様と面識のないことは伝えたが、あえて言わせてもらう。そのお人柄を聞き及ぶ限り、プリシラ様は君に自分の『死者の書』を読ませたいとは思わないのではないだろうか? それでもなお、君は亡き主の書を望むのかね?」
「――――」
「エッゾさん、それは……」
「沈黙を、ナツキ殿。私はアル殿に聞いている。大事なことだ」
そうエッゾが静かに告げた直後、彼の立てた指先が淡く光り、スバルは自分の喉から声が出なくなったのを感じる。とっさに、それがエッゾの魔法であることを察し、彼が聞きしに勝る魔法の使い手であることを思い知らされる。
そうして無理やり口出しを禁じられたスバルを傍らに、エッゾとアルが見つめ合い、
「親しい相手を失うというのは辛いことだ。私にも、誰にも経験があるだろう。だが、そうした経験をしたあらゆるものがこの塔を訪れ、『死者の書』を望むとは思わない。ましてや、書に記述される当人が、それを望まないとなればなおさらだ」
エッゾが述べるそれは、血が出るほどに鋭利な良識的意見だった。
「――――」
沈黙するアル、その表情は鉄兜に隠され、窺うことはできない。
しかし、彼が深く大きく傷付いて、その傷の痛みと流血に溺れかけているのは事実。それをどうにかしたいと、スバルも、誰もが思ったことも事実なのだ。
それこそ、エミリア陣営が全会一致するほどに――。
「あんたの言う通りですよ、エッゾ殿。あんたの言う通り、身の回りの誰かが死んでも、自力で立ち直れる人はいる。本の力なんて借りなくてもだ」
「同意見で何よりだ。だが、続きがありそうだね」
「ありますよ。もう一個、あんたの言う通りなことがある。姫さんは――プリシラは、自分の『死者の書』を読まれることを望まねぇ」
「――――」
「けど、死んだんだ」
ひゅっと、声の出せないスバルの喉が微かに鳴った。
アルの口から、死んだと、そうプリシラのことを語るのを初めて耳にして、スバルは切れ味の鋭い刃に斬りつけられたような感覚を味わった。
それは痛みよりも、勢いよく血が流れ出し、体が冷えていくような感覚。
そして、その言葉をスバルとエッゾに聞かせたアルは、なおも続けて――、
「プリシラは死んだんだよ。――もうオレに、何も言い聞かせられない」
「――。そうか」
低く、心が凍て付いてしまったようなアルの声に、エッゾが目を伏せる。
エッゾと同じ答えを聞きながら、スバルはアルの心に訪れた氷河期――プリシラという太陽を、焔を失い、荒涼としたその心境の痛々しさに心の臓を刺される。
そのスバルと同じ感覚を味わった顔で、エッゾは小さく吐息し、
「試すようなことを言い、言いたくないことを言わせた。謝罪する」
「……いいや、必要なことでした。オレにとっても、言葉にするのが」
そう、掠れ声で返したアルの言葉に、エッゾは深く頷いた。
と、そこでエッゾが指をパチンと鳴らし、
「失礼した、ナツキ殿。個人的に、横槍なしに聞いておきたかったんだ」
「あ、あー、あー、声が出る……今のは」
「陰魔法……と見せかけ、陽魔法の応用だ。声を出なくしたのではなく、普通に聞こえないほど高い音にした。蝙蝠などが発する音域だ」
「そんなことできるのか……おみそれしました。それと……」
喉に手をやりながら、スバルはちらとアルの方を気にする。そのスバルの視線の意図を察し、エッゾは「わかっている」と前置きし、
「究極、当事者の問題だ。部外者が口を挟むことではない。もっとも、迷いや躊躇いがあるようならそれとなく引き止めるつもりだったが、それをしなければ進めないというのであれば、覚悟のあるものは進むしかない」
「それで、いいの?」
「おかしなことを。君たちも、それぞれの形で納得を呑み込んだのだろう? それに、私自身は自分が死んで、誰かが私の『死者の書』を読みたいと思うなら望むところだ。私の生前の全てを知り、その上で未来の礎にしてもらいたい」
「――――」
「というか、切実な望みという形ではないが、私もすでにかなりの数の『死者の書』の閲読に勤しんでしまっている! まさしく、どの面下げてという話だな!」
それまでの整然とした大人の顔はどこへやら、そう声を大きくするエッゾは最初の、塔の扉を開ける『自動扉』の術式を披露したときの、自信家の顔に戻っていた。
その態度の急変に驚きつつも、それが自分の作った緊迫した空気を紛らわすための一工夫なのだと、スバルはエッゾの人間性に好感を抱く。
正直、会う人会う人がほとんど潜在的な敵になり得る人材ばかりの帝国から戻ってきたばかりなので、安心して接される人というだけで好感度が高い。
いずれにせよ――、
「焦らさせてすまなかった。すでに知っているナツキ殿たちのお株を奪うようで悪いが、おそらく現状、最も多く書庫に出入りしている私自ら案内しよう。――大図書館プレイアデスの本命、『死者の書』の所蔵された『タイゲタ』へ」
と、プレアデス監視塔を訪れた目的が果たされる時間が、ついにきたのだった。