第九章幕間 『カチュア・オーレリー』
――帝都ルプガナで『魔女』スピンクスが討たれ、『大災』の敗着は決定した。
『魔女』の仕組んだ大規模な禁術の行使が中断され、歪な術式によって現世に蘇った死者たちは、いずれも限りある命として地上へ残ることを余儀なくされた。
望まぬ形で蘇らされ、『魔女』の思惑に従わされていたものは、これ幸いにと自ら塵となることで魂の在処へ還ったが、当然ながらそうしなかったものも多い。
たとえ命なくした屍人であろうと、いずれも『鉄血の掟』を知る帝国民だ。
理外の力で蘇った立場でも、再び剣を振るえるのであれば、命の有無など構わずに我を貫こうとするものも多く、『城塞都市』を取り囲んだ軍勢にもその戦意はあった。
しかし、実際には『城塞都市』ガークラを取り巻く戦いは、『大災』の敗着が決まったのとほとんど同時に決着し、死に損なった屍人たちは散り散りに逃げることとなった。
何故、屍人の軍勢は戦いを放棄し、逃げることを選んだのか。――それは、指揮官の不在による戦線の崩壊、それに伴う戦闘放棄だ。
たとえ死を恐れぬ帝国民、それも屍人の軍勢であったとしても、負けの決まった戦で無駄に命を散らすことを良しとはしなかったということ。
そして、何ゆえに指揮官の不在などという事態が起こったかと言えば――、
「こんな、こんな馬鹿げた話があるものか……!」
自身の緑髪を掻き毟り、打ち壊される陣を尻目にパラディオは吐き捨てる。
こんなことはあってはならない。あってはならないことなのに、起こっていた。全てはパラディオを取り巻く、あらゆるものに働いた不条理が原因で。
城塞都市へと差し向けられた屍人の大軍、それらを率いる指揮官としての役目を与えられたパラディオは、尊ばれるべきヴォラキア皇族としての務めを果たさんとした。
だが、パラディオの講じた策はことごとく都市の凡俗たちに妨害され、指示に正しく従わない屍人たちの不手際も重なり、苦境に陥らされることになった。
無論、それで諦めるつもりなど毛頭ない。だが、不条理に積み重なった負債が歪みとなって噴き出し、ついにはパラディオは遁走する憂き目に遭っていた。
――否、これは遁走などではない。
これは名誉ある転進であり、勝利のための布石なのだ。そうでなければ、優れた魔眼族の血を引くヴォラキア皇族の自分が、このような目に遭う帳尻が合わない。
「何が『強欲の魔女』だ……! 大言で我に気を持たせた末路があれか……!」
パラディオの脳裏を過るのは、積み重なった負債の中、最初に崩れた忌まわしい存在。パラディオの指揮下に加わり、一度は戦況を覆しかけておきながら、その役目を無責任にも突然放棄し、消滅した白髪の『魔女』への怒りだった。
魔法で星を降らせ、城塞都市を壊滅させる一手を放ったまではよかった。
だが、それも帝都からの横槍に打ち消され、挙句にその直後から瞳に炎を宿したものたちの猛反撃まで始まる始末だ。
パラディオの魔眼で見通した限り、城塞都市に閉じこもっていた全ての生者――無力な避難民までもが炎を宿して武器を持ち、屍人たちを押し返していた。
その直後だ。『強欲の魔女』が、事態の収拾も図らずに塵と化して消えたのは。
『――ああ、そうでしたか。ワタシは、スピンクスとして』
最後、こちらに一瞥もくれず、そう言い残して消えた『魔女』の横顔が腹立たしい。何故ああも、『魔女』は満足げな顔で終わっていったのか。
何一つ理解できない。理解できない上に、パラディオには不利益しかない。
「おのれ、おのれ、おのれおのれおのれおのれおのれ……っ!」
血を吐くような怨嗟をこぼしながら、パラディオは平野を逃れ、森へ逃げ込む。
『強欲の魔女』が消滅した前後、パラディオは屍人たちの異変――幾度でも蘇るはずのそれが蘇らなくなり、不死の軍勢が機能しなくなったことを理解した。
戦いには、流れがある。
どんな戦いにもそうだ。それが、帝国の未来に関わる大戦となればなおさらだった。
故にパラディオは流れの変化を感じ取ってすぐに陣を捨て、少ない供回りだけを連れて戦場から離脱、再起に備えるという最善の判断を下した。
故にこそ、これは遁走ではなく、勝利のための布石なのだ。
「今日は、貴様らが勝ったつもりでいるがいい。ヴィンセント、プリスカ……!」
しかし、あくまでそれは一時の、譲られた勝利に他ならない。
こうしてパラディオが逃げ延び、再起し、次なるは覆しようのない一手で以て、『魔女』の手など借りない絶対の勝利をもぎ取れば、それで終わりの儚いひと時だ。
次こそ、今度こそ、ヴォラキア帝国を正当な皇帝の支配下に置いてみせる。
パラディオには、そのための魔眼がある。
この天の眼を与えられた自分こそが、必ずや皇帝の座に――、
「――――」
その確信を胸に、パラディオは魔眼の力で往くべき道を見定めようとし、気付く。――いつの間にか、連れていたはずの供回りが誰も見当たらないことに。
「なんだ? おい、おい!? どこへいった!? 貴様ら、我を置いて――」
どこに消えたのか、というパラディオの怒りは、すぐさま冷水を浴びせかけられたような感覚に塗り潰された。
一瞬、供回りが不敬にもパラディオを見捨てて逃げたのではと疑ったが、だとしたらパラディオの魔眼に逃げる背中が捉えられない説明がつかない。だとしたら、彼らがいなくなった理由は単純明快――死んだのだ。
「――っ」
血の通わない屍人の体が総毛立つ感覚に、パラディオはとっさに『陽剣』を抜いた。ヴォラキア皇族の証にして、皇帝となる資格の持ち主である剣の形をした宿命――。
「――ぁ」
――それを握った腕が肩から斬り飛ばされ、パラディオは地べたに倒れ込んでいた。
「な、な、な……」
何が起きたのかと、額と合わせて三つの目を見開く。
その直後、残っていた方の腕にも衝撃が走り、剣を握るための手を一瞬で両手ともなくした。それが、斧の奇襲にもたらされた結果と、そうパラディオは理解する。
だが、理解できたのはそこまで、それだけ、それしかなかった。
「何故……」
パラディオを特別たらしめた魔眼、天の眼がその奇襲を捉えられなかったのか。
わからない、わからない、わからない。――その瞬間、不意にある可能性が過った。
かつて、パラディオが聞いた話だ。
贖い難い罪を犯し、ヴォラキア帝国で最も優れ、恐れられた皇帝の怒りを買い、『鉄血の掟』に唾棄すべき存在として刻まれ、存在を認識されなくなった愚かな種族を。
それは、帝国では生きているだけで死に値する咎人と目されたおぞましき獣人――、
「――ま」
「待たない」
その冷たく無慈悲な衝撃が、パラディオ・マネスクを永遠に舞台から退場させた。
――それが、城塞都市を取り囲んだ屍人の軍勢の指揮官が失われ、『大災』が完全なる敗北を喫する戦線の崩壊を招いた、歴史の裏側の決定打であった。
△▼△▼△▼△
車椅子の車輪を軋ませ、カチュアは宛がわれた部屋の広さに途方に暮れていた。
「兄さんが特別な『将』になったからって、縁者の私まで特別待遇だなんて兄さんは言ってたけど……持て余す……」
広々とした部屋の中を見回し、カチュアは先々のことを考えて肩を落とす。
元々暮らしていた帝都は、『大災』とやらの影響で復旧にかなり時間がかかるそうで、今しばらくは帝都の避難民は、城塞都市や周辺の町村へ分散した居住が求められる。
そうした中で、色々な巡り合わせを理由に皇帝であるヴィンセントの傍付きの立場を獲得したジャマルを兄に持つカチュアは、他と比べてはるかに好待遇に与っていた。
とはいえ、カチュアは贅沢な暮らしがしたい性質ではないし、贅沢品をあれこれと用意されたところで、所詮は足と愛想の悪い小娘でしかなく、満喫できる自信もなかった。
なので、大抵の特権というものはことごとく辞することとなったが。
「ちまちま、近寄ってくる連中もうざったいしね……」
一応、オーレリー家は帝国貴族の端くれであり、カチュアも貴族の令嬢という立場ではある。家中には使用人もいて、それらに面倒を見てもらうことに抵抗感はないが、落ち目の貴族でしかなかったそれまでと違い、今のジャマルの立場はちょっとしたもの。
そのせいか、ジャマル目当てにカチュアに取り入ろうとするものも少なくない。
そういった、つまらない前提や外的要因を欠片も気にかけなかったから、レムとの距離感はカチュアにとって、確かに居心地のいいものだった。
「……まぁ、もういない子の話とかしてても仕方ないけど」
気難しく、面倒な性格を自覚しているカチュアにとって、意外と口が悪く、言ってほしくないこともズバズバと口にするレムは相性のいい相手だった。有体に言えば、彼女はカチュアにとって初めての友人だったのだ。
そんなレムも、彼女を迎えにきた男や姉と一緒にルグニカ王国へ帰ってしまった。
別れの期日が迫ると、寂しい顔をする彼女を見ていられず、手紙のやり取りなど約束してしまったが、手紙なんて何を書いていいものかさっぱりわからない。
「た、ただでさえ、代わり映えのない毎日だっていうのに……」
ここしばらくが激動だっただけで、基本的にカチュアの日々は平坦で退屈、特別なことなど何も起こらない、ゆっくりと死んでいくような時間だけだ。
そんな中でレムに手紙を書くにしても、碌なことが書けない気がする。そして、碌なことが書けない間に愛想を尽かされ、徐々に手紙の頻度は減り、いずれなくなる。
そんな悲観的な未来が、カチュアの脳裏にはありありと浮かび上がるのだ。
「もう、やだ……ホント、もう、死にたい……」
一人になった途端、押し寄せてくる寂寥感に苛まれ、カチュアの気分は沈み続ける。
元来、カチュアは何に対しても悲観的だし、自罰的な思考が強い。それを、傍にいる誰かが考えないようにせき止めていてくれただけだ。
昨日まではレムが、そしてそれ以前は――、
「……バカ。バカバカバカ、ホントにバカ」
ぎゅっと車椅子の車輪を握りしめ、カチュアは憎々しげに、力なく呟く。
カチュアの世界に土足で無理やり上がり込んできて、近付いてくるなと拒んだのに強引に抱き寄せて、聞きたくない睦言を散々囁いた上に、勝手にいなくなる。
そんな、大馬鹿野郎のことが思い出されて、とてもとても辛くなった。
「あ、やだ、やだ、泣きたくない……」
じわじわと、熱いものが目の奥に込み上げてくる感覚があり、カチュアは苦しむ。
こんな惨めな思いを味わうくらいなら、あの『大災』の騒動の最中に、レムでも庇って死んでしまえばよかった。そうすれば、レムにはきっとバカと罵られただろうが、彼女の心に深々と棘となって残って、忘れないでいてもらえた。
無様な手紙を書いて、これ以上、嫌われるようなことも避けられただろう。
死んだ人は、ズルい。死んだら、もうそれ以上、悪く言われようがない。
だから、カチュアはそんなズルを許さないように、死んだ人にこそ悪口を言う。
「バカ、バカバカ、バカバカバカ、バーカ……!」
その、八つ当たりか腹いせのような試みがかえって仇になる。
死んだ誰かに悪口を言い続けるということは、悪口を口にし続ける限り、その相手のことを思い続けるということに他ならない。
そのせいで、涙が込み上げるだけでなく、鼻までツーンと痛くなってきた。
きっと鏡を覗いたら、そこには信じられないほど不細工で、態度の悪い女が車椅子に腰掛けているのが見えるはずだ。
「もうやだ……誰にも会いたくない……」
そうこぼし、カチュアは車椅子を回転させ、寝台の方に進路を向ける。
行儀は悪いが、髪の三つ編みも解かず、服も着替えずに寝台に倒れ込み、そのまま餓死するまで寝転がってやろうかと思う。もちろん、餓死なんてできない。どうせ、お腹が空いて餓死を切り上げ、鼻水を啜りながら何か食べるに決まっているけれど。
それでも、こんな気分で、誰かを想って泣きじゃくりたくなんて――、
「――? 誰?」
そのまま寝台へ車椅子を進めようとしたところへ、部屋の戸が外から叩かれた。
間が悪いと思いながらも、無視して寝台に向かうのは躊躇われる。今は、各所で連絡が滞ったり、問題が起こったりしてみんな大変な状況だ。ここでカチュアがつまらない癇癪を起こしたせいで、誰かの何かが間に合わなくなるかもしれない。
根っこのところで真面目なところを発揮し、カチュアは扉へ向かった。
一瞬、ひどい顔をしているだろうことをどうすべきか迷ったが、本当に一瞬だ。誰になんと思われても構うものかと、カチュアは扉に手を伸ばした。
そして――、
「はい、どちら様……?」
そう言いながら、カチュアはゆっくりと、扉を開いて――、
「――ぁ」
掠れた吐息が、その細い喉から弱々しく、漏れた。
△▼△▼△▼△
「――お疲れ様です、ジャマル親将」
「おう、そっちもな」
ピシッと敬礼し、道を譲った帝国兵に敬礼を返し、ジャマルは口の端を笑みに歪めた。
呼びかけられた『親将』というのは、今回の大戦に際し、皇帝であるヴィンセントの傍での戦働きを認められたジャマルに、特別に用意された『将』の地位だ。
役回りとしては、ヴィンセントの傍付きとして護衛を務める名誉ある立場。――元々、オーレリー家の栄達を求め、『将』を目指していたジャマルにとっては望んだ地位だ。
これで、ジャマルを身の程知らずと笑った連中を見返すことができるし、何よりも、周囲の支えなくして生きられないカチュアにいい生活をさせてやれる。
何事にも消極的で、自分の価値を認めないカチュアは、こうしたジャマルの計らいを嫌がるのはわかっているが、それでも兄一人妹一人の大事な家族だ。
口では色々言いつつも、カチュアが拒み切れないのはわかっている。
「ったく、兄貴のこんなお節介も本当は必要なかったってのによ」
ぶつけようのない苛立ちを口にして、ジャマルの足がカチュアの下へ向かう。
ジャマルが親将に昇格したのを切っ掛けに、縁者であるカチュアの待遇も、そんじょそこらの一般の帝国民とは違った扱いになっている。
ひとまずのところ、帝都の復興が進むまでの仮住まいだが、あれこれと大変な思いをした分、カチュアには不自由しない生活をさせてやりたい。
しばらく、カチュアと一緒にいてくれた友人の娘も、王国に帰ってしまったのだ。
そろそろ、いい加減、カチュアも悲しんでいい頃合いだろう。
「それが済んだら、とっておきの酒と肉だ」
そう言って、ジャマルは『将』の権限で備蓄庫から回収した酒瓶と、上等な肉の入った袋を揺らし、カチュアを慰める手段に思いを馳せる。
分厚い肉を贅沢に焼いて、それにかぶりつきながら上等な酒を呷る。
それが、ジャマル流の悲しみとの向き合い方だった。
「カチュア、いるか? オレだ」
ドンドンと扉を叩いて、ジャマルは部屋にいるはずのカチュアに呼びかける。
一人で出かけるのも難儀するカチュアは、何もなければ大抵の場合は部屋にこもり切りで過ごしている。だから今も、そうしているはずだ。
しかし、部屋の中から返事はなく、ジャマルは胡乱げに眉を寄せる。
「寝てんのか? オイ、勝手に入るぞ」
不貞腐れ、死んだように寝続けるのもよくあることなので、ジャマルは気にかけずに扉を開け、カチュアの部屋の中に足を踏み入れた。
まだ移ったばかりの一室だけに、主の印象も何もない部屋の中、ぐるりと見回したジャマルは、寝室から人の気配がしないことを疑問に思う。
「カチュア?」
案の定、覗き込んだ寝室に人影はなかった。
それどころか、部屋のどこにもカチュアの姿は見当たらない。あまりないことだが、外出しているカチュアと入違ったかと、そうジャマルが考えたときだった。
――寝室の、机の上に置かれた手紙に気付いたのは。
「――――」
最初、意識の外にあったその手紙に、ジャマルの意識は強烈に引き付けられた。手紙自体には何もおかしなところはない。特徴的なのは、手紙と一緒に置かれたものだ。
そこにあったのは、ジャマルの記憶に鮮明な、とある男が巻いていたバンダナ――。
「――っ」
逸りながら手紙に手を伸ばし、乱雑に封を切って、中身に目を通す。
そこにあったのは、見るからに生命力に乏しいカチュアの細い文字と、それとは異なる強い筆跡が添えられた、婚姻届けだった。
「――あの、クソ野郎」
その婚姻届けの意図を察した瞬間、ジャマルの口からそんな悪罵が漏れた。
それは、言葉の内容と裏腹に、隠し切れない安堵と歓喜、大事にしていた妹を、憎たらしい友人に持っていかれた、そんな複雑な兄心で満たされていて。
「は、ははは、はーっはっはっはっは!!」
挙句に、ジャマルは掌を顔に当てて、手紙を前に盛大に笑い出した。笑い、笑い、笑いすぎて、眼帯に覆われた方の目から、涙が流れる。
それが、別れのために多くの涙が流された帝国で流れた、数少ない祝福のための涙であったことは、帝国の歴史書のどこにも残ることはない。
ただ、この日、ここに、消えた貴族令嬢と、彼女を連れ去った不届き者との婚姻が為され、それを一人の『将』が祝福したことは事実だった。
――こののち、カチュア・オーレリーの所在ははっきりと知れなくなる。
しかし、それが悲観すべきことでないことは、彼女の唯一の友人の下に、その後、絶えず手紙が届き続けたことと、綴られる手紙の文字に悲愴さや不幸せの色が一切なかったことが、何よりの証明となっていくのだった。