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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第九章 『名も無き星の光』
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第九章5  『九百三十一発』



 ――城塞都市ガークラの大要塞、『大災』との激戦の余韻が色濃く残る都市の中でも、ひと際大きな存在感を放つその砦の屋上に、異様な雰囲気が立ち込めていた。


 有事の際には弓を射掛けるため、相当数の兵士が並ぶことを想定された屋上だが、これほどの大人数――百人以上が居合わせることは想定外だろう。

 屈強な体格をした男たちが肩を寄せ合う光景は、彼らが何らかの処罰対象であることを思わせ、陰鬱な空気感を内外に押し付けかねない。しかし、実物の彼らの表情にそうした悲壮感はなく、面差しには真剣な、真摯な光が宿っていた。

 そして、その彼らの百対以上の視線の先には、ぽっかりと開けた空間がある。

 そこに――、


「――ぺっ」


 掠れた水音と共に、口の中に溜まった血を床に吐き捨てる黒髪の少年がいる。

 鼻血で汚れた顔、腫れ上がった瞼、ふらふらと前後に揺れる頭と、一目で満身創痍とわかるボロボロの状態。立っているのがやっと、立っているのが不思議、そんな状態でありながら、膝に手をついた少年は一度強く地面を踏み、顔を上げた。


 ――その顔面に、真正面から鼻面を叩き潰す一撃が叩き込まれ、少年がこれまでで一番派手に後ろに飛んだ。


 飛んで、飛んで、転がって、大の字になった。

 ぐったりと両手両足を投げ出し、ここまでの溜まりに溜まったダメージの分、立ち上がることもできないだろうと――、


「まだ、だ……」


 その認識を覆したのは、他ならぬ大の字に寝転んだ少年だった。

 ゆっくりと上体を起こし、流れ出した真新しい鼻血で口元をさらに汚しながら、それでも少年はその場に起き上がり、深く息を吐く。

 そして――、


「――ッ」


 振りかざされた相手の拳に、またしても少年は激しく打ち据えられていた。



                △▼△▼△▼△



「――これは俺のケジメなんだ。だから、絶対に手を出さないでくれ」


 そう前もって言われていなければ、すぐにでも飛び出していきたかった。

 しかし、その気持ちをぐっと堪え、唇を噛みしめて彼の気持ちを尊重する。それが今、ベアトリスがパートナーであるナツキ・スバルのためにできることだった。


「――ッ」


 硬い衝撃音が響き、苦鳴をこぼしたスバルの顔が横に弾かれる。そのまま傾きかける体で踏みとどまり、歯を食いしばったスバルの顔が正面を向いた。

 その鼻面に次の拳が叩き込まれ、大きくのけぞる。のけぞったが――、


「ま、だ、まだ……っ」


 ボタボタと鼻血を流しながら、真っ赤に充血した目でスバルが声を絞り出した。

 その声に、もう二十発以上もスバルを殴り続けている骸骨の刺青を入れた男――ヴァイツが強面を歪め、再び拳を振り上げる。


 そうしてまた、殴られたスバルの鼻血が散り、大要塞の屋上の床が汚れていく。

 そんなことがここ数日で何度も、今日だけで一時間以上も繰り返されていた。


「スバル……」


 一見、それはスバルとヴァイツの決闘だが、一方的に殴られるそれを決闘とはなかなか呼べないだろう。棒立ちのスバルは、ヴァイツの拳を正面から受け続ける。

 そして、それをベアトリスは――否、ベアトリスだけではない。


「「――――」」


 周囲、大要塞の屋上には百人以上の人間が押しかけている。

 彼らは全員、ナツキ・スバルがこの帝国で味方に付けた『プレアデス戦団』のものたちであり、同時にこの決闘の見届け人でもあった。

 そう、この、スバルが一方的に殴られ続ける儀式――、


「――『スパルカ』」


 スカートの裾を握りしめるベアトリスの傍ら、鹿人の娘、タンザが呟く。

 同じ光景を眺めながら、感情の窺えない黒目がちの瞳をしたタンザの横顔に、ベアトリスはひどくささくれ立ったものを覚える。

 彼女が『スパルカ』と呼んだ儀式に挑むスバル、その心情をベアトリス以上に理解していると、そう暗に言われているように感じてしまうから。

 だって、そうだろう。


「……ベティーには、スバルがこんなことしなくちゃいけない理由がわからないのよ」


 自ら望んで、一方的に殴られる儀式を自分に課したスバル。

 それをケジメだからと見届けるよう求められ、ベアトリスは胸の痛みを堪えながら、せめてその願いを叶えたいと、こうして立ち続けることしかできない。


 ――プリシラ・バーリエルの死は、彼女を知る多くのものの傷となった。


 その傷が浅く済んだものは、傷の浅さ故に苦しむことになり、逆に深く痛々しく抉られたものは、血を流し痛みを訴える傷の対処に追われている。

 そして悲しいかな、ベアトリスは前者であり、スバルは限りなく後者だった。


「――――」


 この『スパルカ』を始めるとき、スバルはこれをケジメだと言った。

『幼児化』で縮んだ体で剣奴たちと出会ったスバルは、事の成り行きと仲間集めの打算を理由に自分の素性を偽り、彼らを騙し、この戦乱の中心に引きずり込んだのだと。

 あの戦いの苛烈さと、その中で戦団が果たした役割の大きさを考えれば、それがなければ被害はもっと大きくなり、あるいは城塞都市が陥落していたかもしれない。


 だから、スバルの判断も選択も、帝国を救うための正解だったのだ。

 それを、他ならぬスバルが許せず、ああして罰を求めているだけで――、


「えあお……」


 きゅっと、スカートを掴むベアトリスの手に、小さな手が重ねられた。

 ちらと見れば、そうして手を伸ばしていたのは、ベアトリスを心配げに覗き込んでいるスピカだった。彼女は大きな瞳を憂いで満たしながら、痛々しく手に力のこもったベアトリスのことを案じていた。


 そうして、スピカに自分を心配させることさえ、ベアトリスは情けない。

 この場で唯一、ベアトリスと同じく、プレアデス戦団と無関係のスピカ。そんな彼女の心配や憂慮は今、全部、スバルに傾けてほしいと切に願うから。


「悪かったかしら。スピカ、お前の――」


「――おや。何やら屋上に人影多数と思って立ち寄ってみればボスの『スパルカ』ですか。今日も今日とて殴られ放題とは見かけによらず本当に律儀ですねえ」


「――――」


 と、ベアトリスがスピカの手を握り返したところへ、飄々とした声音と態度の人物がひょいと屋上のフェンスに足をかけ、『スパルカ』の場に顔を見せた。

 階段を一段飛ばしで上がるみたいな気安さだが、百メートル近い高さの砦の屋上にぴょんとやってくるのが簡単なはずもない。もっとも、このキモノ姿の剣客――『青き雷光』セシルス・セグムントに、そんな常識は通用しないらしいが。


「セシルス様」


 片足立ちでフェンスの上でバランスを取り、額のところに庇を作って『スパルカ』を眺めるセシルスは、そのタンザの呼びかけにふやけた笑みを浮かべ、


「どうもどうも、タンザさん。なんだかこうしてタンザさんと目線が違っていると新鮮でみょうちきりんな気分ですね。この状態が本来の僕のスタンダードでこれまでのチルドレン状態の僕が仮の姿だったわけですがタンザさんとはそっちの方が付き合い長いわけですしそんな変な感じがしません?」


「そうですね。私は体の目線の高さが変わっても、心の目線の高さが変わってらっしゃらないので、正直なところ、あまり印象が変わりません」


「はははは、ナイスジョーク!」


 すげないタンザの答えに手を叩いて笑い、それからセシルスの視線がぐるりとベアトリスの方を向いた。その青い眼差しにベアトリスが眉を顰めると、


「ボスの相棒さんはずいぶんと不満げですね」


「……当たり前なのよ。スバルが、あんな風にする必要なんてないかしら」


「要不要の話をするのはやめましょう。極端な話にすり替えれば命の価値無価値なんてちっとも粋じゃない話になりかねません。それに必要はなくても理由はあるんですよ。あなたの中になくてもボスの中にはちゃんと」


「――――」


「まぁ実際真面目が過ぎると思いますよ。剣奴孤島からこっちずっと一緒の戦団の皆さんを騙し続けてきたから全員の許しを得られるまで誠心誠意謝り倒すというのは。とはいえ戦団の皆さんも血の気の多い剣奴の方たちですから償う方法はこうなりますよね」


 つらつらと流暢に早口で語り、セシルスは最後にボロボロのスバルを指差す。

 憎たらしいが、そのセシルスの指摘は何も間違っていない。――彼の言う通り、スバルがヴァイツに殴られ続けるケジメとは、プレアデス戦団への贖罪だ。


 プレアデス戦団の団員、九百三十一人――都合、九百三十一発の禊の拳打。

 戦団を代表し、ヴァイツが繰り出すそれを受け切ることが、スバルが自らに課し、戦団のものたちを納得させた儀式、『スパルカ』だった。


「日にちを分けてるとはいえ九百発でしょう? それだけ殴られればさすがに僕でも死にますよ。そもそも無防備に殴られるという状況を考えたこともないので前提が成立しない感ありありではありますが……今どのぐらいです?」


「全日合計で二百五十六発です」


「なるほどなるほど……気が遠くなりますね!」


 タンザの口からカウントを聞かされ、悪気なくセシルスが言い放つ。

 その軽薄さに口出ししたくなるが、そうしたことが無意味な手合いだ。ベアトリスは言及を諦め、スピカの手を握り返し、スバルの心配に注力する。


 この『スパルカ』の間、スバルはベアトリスに治癒魔法をかけることを禁じた。

 だから、今日の『スパルカ』が終わり次第、一秒でも早く駆け寄り、その傷を癒すためにマナを高めておくのだ。


「セシルス」


 そう考えるベアトリスに代わり、重く厳めしい声がセシルスを呼んだ。

 たくましい四本の腕を組み、恐ろしげな顔つきをした大男――グスタフは、フェンスに立つセシルスと、彼の背後の景色に目をやり、


「本職に聞く権限があるかは知れないが、アラキア一将は?」


「別に僕とグスタフさんの間で隠し立てするようなことありませんよ。今後は剣奴孤島の総督の座は別の方に譲って帝都の要職に就かれるんでしょう? そうしたら一応帝都住まいの僕とはたびたび顔を合わせる機会もあるじゃないですか。まぁ今は帝都の方があの有様なのでどこで暮らすのか問題がありますが……」


「――――」


「おや、失敬、アーニャの話でしたね。――彼女は変わらず心と体のバランスを取るのに難儀していますよ。ただでさえあの細い体がはち切れそうなくらい大きな精霊を取り込んだんです。それを調伏するには心の安定が必要不可欠だっていうのに拠り所だった妹姫様が亡くなられましたから困った困った」


「その心痛と苦労は察するに余りある。だが、君にしか果たせぬ役割は帝国の存亡にも関わることだ。本職のみならず、帝国民一同が君に期待を寄せている」


「何を言ってるんですか嫌ですねえ、グスタフさん」


「む……」


「僕はこの世界の花形役者ですよ? 誰かの期待ましてや帝国の期待を丸々背負うなんてぐらい日常茶飯事です。――アーニャのこともありますし手は抜きませんよ」


 そう答えるセシルスは平然としたものだったが、彼が軽はずみにすら見える態度で口にしたことがどれほど困難なことなのか、それは目に見える形で証明されている。


 ――セシルスの背後、要塞の屋上から見える西の城壁の向こうに見える広い荒野、そこにはできたばかりの天変地異の痕跡がいくつも刻まれていた。


 それは涼しい顔でここにやってきたセシルスが、四大に連なる大精霊という尋常ならざる力を取り込んだアラキアの暴発を防ぐため、力の発散に付き合っていた証拠だ。

 放置しておけば、第二の『大災』になりかねない膨大な力。かといって、生半可なものでは今のアラキアの近くに在り続けることすら難しい。

 それ故に、その大役は帝国広しを見渡しても、セシルスにしかできないのだ。


「望むと望まざるとに拘らず人は歩みを止められません。止まるのを許されるのは死者だけであり生者は進み続ける他にない。アーニャの苦しみも足掻き藻掻くボスの禊も根っこのところは同じです。痛々しくはありますが歓迎すべきことでしょう」


「他人事みたいに、勝手に言ってくれるもんなのよ」


「他人事なんて無粋な言い回し。これはボスの持ち場ボスの見せ場というお話です。とはいえ……今日はここまでですかね」


 片目をつむり、ベアトリスに応じたセシルスがそう呟く。

 彼の言葉に「え」とベアトリスは息を呑み、それから弾かれたように振り向くのと、ヴァイツの拳骨がスバルを床に叩き伏せたのは同時だった。


「はぁ……はぁ……終わりだ……っ」


 荒い息をつきながら、スバルを殴って血に塗れた拳をヴァイツが下ろす。その言葉に、意識をなくしたスバルからの返事はない。

「スバル!」と、そのスバルに駆け寄り、ベアトリスは大急ぎで治癒魔法を発動した。それを見届け、ヴァイツはくるりと背を向けるが、


「待つかしら。お前の手も、治療させるのよ」


「いらん……オレよりも、シュバルツを優先しろ……」


「そうはいかないかしら。スピカ」


 呼びかけに、スピカがヴァイツの前に回り込み、「う」と両手を広げる。

 その立ちはだかるスピカを押しのけられないヴァイツに、ベアトリスはすかさず治癒魔法を発動、じんわりと傷の癒える感覚に、振り向くヴァイツがこちらを睨む。

 だが、骸骨の刺青が凶悪な印象を与える男でも、その表情が辛苦に引き歪んでいては大精霊ベアトリスを威嚇することなんてできない。


「お、おい、タンザ、これで何発になった?」


「二百五十八発です、ヒアイン様」


「あと……六百七十三か。……先は長いな」


 そのベアトリスたちの傍ら、震え声でタンザに尋ねたのは蜥蜴人のヒアインだ。彼の問いにタンザがカウントを教え、髭のイドラが気鬱げに首を振る。

 と、そこでヒアインは「あのよ」と周りを見回して、


「別に、もうよかねえか? こんだけやったんだし、十分気持ちはわかったみたいに」


「寝言は寝て言え、トカゲ野郎……! 途中でやめるなら、何のためにオレがこの役目を買って出てると思ってる……!」


「なんでって、てめえが一番キレてるからだろ? 俺は、俺はそこまでじゃねえ!」


 長い舌を伸ばし、声を裏返らせるヒアインにヴァイツの額に青筋が浮かんだ。が、ヒアインに詰め寄ろうとする彼を、タンザが「治療中です」と引き止める。

 代わりに、ため息をついたイドラがヒアインに向き直った。


「はっきり言えば、私もお前の言い分に賛成だよ。確かに、シュバルツの正体には驚かされたし、騙されたという思いはあったが……」


「シュバルツはオレたちを島から助け出した……。あと何がいる……!」


「じ、じゃあ、誰もやりたくねえんじゃねえか! だったらなんで……」


「それはナツキ・シュバルツ――いや、ナツキ・スバル自身が必要としていることだ。タンザや契約精霊のベアトリスが止めない以上、本職はこの行いに賛同する」


 イドラとヴァイツ、ヒアインの会話にグスタフが割り込み、重く厳めしい彼の言葉に周囲の剣奴たちも、各々の仕草や言葉でおおよそ近い温度感の反応を示した。

 無論、中にはスバルの言動を許せぬと憤ったものもいただろうが――、


「うあう……」


 手をかざすベアトリス、その反対にしゃがみ込み、顔を腫らしてぐったりとしているスバルを心配げに見ているスピカ。

 そんな少女たちの様子と、贖罪に痛々しく身を投じるスバルの姿を見て、何も思わないものはそもそもプレアデス戦団に所属すらしなかったはずだ。


「今は、シュバルツ様には必要なのでしょう。ご自分が足を止めていらっしゃらないという証が。それがたとえ、痛みであっても」


 そのタンザの一言が、ヒアインに端を発した問題提起を結論付けた。

 それを受け、ヴァイツはベアトリスの治癒魔法で癒えた拳を握りしめると、


「オレは続ける……たとえ拳が割れても、あと六百発付き合ってやる……!」


「いいですね実にいい。それが見せ場の使い方というものです、ヴァイツさん」


「――――」


「アレ? 何ですこの変な空気」


 一瞬、セシルスが口を挟んだことにその場の全員が目を見張る。とりわけ虚を突かれた様子のヴァイツは、セシルスをじっと見据えて、


「まさか、お前がオレの名前を覚えているとは思わなかった……」


「確かに僕が忘れっぽいのは事実ですが! ちゃんと覚えている価値のある役者の名前ぐらい覚えておきますよ」


「ふん……」


 肩をすくめたセシルスに鼻を鳴らし、それからヴァイツは今一度、倒れているスバルをじっと見下ろす。おそらくは、彼の記憶に焼き付いた幼いスバルと印象は重なっても、はっきりと重ね合わせるにはまだ時間がいるだろう顔を。

 そして――、


「あとは任せた……」


 言い残し、ヴァイツが大股で要塞の屋上を去る。その背中に続くように他の男たちも、後ろ髪を引かれるヒアインを連れ出すイドラも屋上を出ていく。

 最後にグスタフが、その場に残るベアトリスたちに頷きかけ、


「本職もゆく。ナツキ・スバル……やはり、シュバルツの方がしっくりとくるな。彼のことは君たちに任せる」


「言われるまでもないのよ。ただ、覚えておくかしら」


「なんだろうか」


「お前にとってスバルがシュバルツなら、そう呼び続けてもスバルは嫌とは言わないのよ。お前たちの中で特別な呼び方を、余計な気遣いでなくす必要はないかしら」


「――感謝する」


 深々と頷いて、ゆっくりとグスタフもその場を離れていった。

 そうして、『スパルカ』の見届け人である剣奴たちが一斉に去ると、途端にがらんとした屋上でベアトリスはため息をつく。それからちらと、傍らのキモノの少女を見上げ、


「お前も、あの連中と一緒にいってもいいのよ」


「お気遣いされずとも大丈夫です。皆様と違い、私がここに残ることはおかしなことはありませんから」


「――。お前は主の心配もあるかしら。あれも、苦しんでいるのよ」


「――――」


 その指摘は、皮肉や嫌がらせの類ではなかったのだが、結果的にそうなってしまったことをベアトリスは一瞬悔やむ。

 微かにタンザの頬を硬くさせた指摘、彼女の主であるヨルナ・ミシグレも、プリシラの死に大きな傷を負った一人――その魂の不合理な縛りにより、幾度も転生した中の過去の彼女こそが、死んだプリシラの母親だったというのだ。

 つまり、プリシラとヨルナの親子は、複雑な死別をそれぞれ味わったことになる。


「お気遣い、ありがとうございます、ベアトリス様。……ですが、ヨルナ様はお一人で大丈夫と、そのように」


「――――」


「そのように、仰られておりますので――」


 目を伏せたタンザの答えに、ベアトリスは彼女を見誤っていたと気付いた。

 タンザはヨルナの言葉に納得していない。それでも彼女は、ベアトリスがスバルのケジメを見届けると決めたように、ヨルナの思いを尊重すると決めたのだ。


 今の、一人で大丈夫だと言い張ったヨルナの心情を他者が推し量るのは難しい。――だが、ベアトリスにはその一端がわかる気がした。

 転生とは違うが、ベアトリスも長く生きる中で、多くの命を見送ってきた。スバルに禁書庫から連れ出される以前は、意識的に避けてきたことだ。


 それが、ベアトリスと向き合おうとしたものたちに対し、とても不誠実な態度だったことを今は悔やめる。それを教わらずして学べなかったベアトリスと違い、ヨルナは自らの経験でそれを知り、学んでいたのかもしれない。

 それでも――、


「……ぅ」


「うあう!」


「すぴ、か……? あ、え、俺……」


 ふと、スバルの瞼が震え、ゆっくりと黒瞳が開かれる。その反応に目を輝かせたスピカが飛びつくと、スバルはその場で何度も瞬きした。

 その様子に、気絶する前の記憶が飛んでいるとベアトリスは吐息し、


「もう連中はいないかしら。今は治癒魔法をかけてたところなのよ」


「あ、あー、そうか! そうかそうか、ごめんごめん! あれだ、相変わらずベア子には心配かけ通しで悪い! お前がいなきゃホントにダメダメだわ、俺!」


 ベアトリスの説明に、理解の追いついたスバルが両手で顔を思い切り叩く。そうして乾いた音を立てると、スバルは「しっ」とその場に飛び起きた。

 その勢いが強すぎて、思わず前につんのめりかけるが――、


「うーう!」


「おと、悪い悪い、スピカ……ってか、見届け人ありがとな。お前、よく飛び出さないで我慢してくれたよ。お前がうっかりガツン! ってヴァイツに一発入れちまわないか、今思うとだいぶ綱渡りだった気がするし」


「あうーう、うあう」


「タンザの方がよっぽど? 確かに言われてみたらそうだ! なんせ、タンザはだいぶ俺のこと大事だからな。ヴァイツ、多方面からヤバかったかもだわ」


 そう言いながら、スバルは倒れかけた自分を支えたスピカの手を取ると、その場で彼女と一緒にくるくると踊り始めた。

 その顔の腫れは治癒魔法でだいぶ引いたものの、まだ唇が切れていたり、微妙に腫れぼったい目が気になるので、もう少し治療を続けたいのがベアトリスの本音だが。


「私の名誉に関わりますので、勝手なことを仰らないでください、ナツキ・スバル様」


 と、そのスピカと踊るスバルに、ため息をついたタンザがそうつつく。すると、スバルは「おいおい」と渋い顔を作り、


「俺が元のサイズに戻ってから言葉に棘がない? あと、タンザにシュバルツ様以外の呼び方されるの案外ズーンって堪えるからやめてほしい」


「申し訳ありません、ナツキ・スバル様。ナツキ・スバル様は王国からの賓客と伺っておりますので、そのようなご無礼、とても出来かねます、ナツキ・スバル様」


「タンザぁ~」


 心の距離があるタンザの答えに、スピカを抱きかかえたスバルが悲しげにする。――その、馬鹿に明るい平常心を装った態度が、ベアトリスにはとても見ていられない。

 プレアデス戦団相手にケジメを求め、ベアトリスや気心の知れたものたちの前では明るく振舞う。全ては、周りに心配をかけないためなのだろうが――、


「……逆効果かしら」


 泣きたいときに明るく振舞い、辛いときにみんなを笑わせようとする。

 スバルのそうした性格をベアトリスは愛しているが、それも泣きたさと辛さがスバルの許容量を超えていないときの話だ。

 誰だろうと、こんな風に自分の泣きたさや辛さに蓋をしてはいけないのだから。


「ベア子? そんな可愛い顔してどうした?」


「――。ベティーが愛くるしいのはいつものことなのよ。それより、まだ治療が途中だから大人しくしてるかしら」


「そんな手間暇かけさせらねぇ……って言いたいとこだけど、万全にしとかないとまだまだ半分も登れてない山だからな。うし、バッチコイ」


 頷くスバルがその場に座り、胡坐の上にスピカを乗せてキリっとした顔をする。

 そのスバルに治癒魔法の治療を再開し、ベアトリスはちらとタンザに目配せ。しかし、タンザは無言でゆるゆると首を横に振るばかりだった。

 彼女も、今のスバルになんと声をかけていいのか正解がわからないでいる。

 そこへ――、


「ボスボス、ちょっといいですか?」


 スバルを気遣うベアトリスたちの緊張感など素知らぬ顔で、成り行きを見守っていたセシルスがスバルを呼んでいた。

 その呼びかけに、スバルは「おお」とフェンスの上のセシルスを見つけ、


「誰かと思ったらでっかいセッシーじゃん。マジでそのままでかくなってて違和感仕事してねぇな」


「ボスの方こそと言いたいところですがボスはちゃんと成長すると目つきの悪さが際立つ感じになりましたね。幼い姿なら愛嬌でしたが今のボスだとシンプルに凶器です」


「言いたい放題言いやがって……一人? 彼女は一緒じゃないの?」


「アーニャならクレーターに寝かせてありますよ。『石塊』の力で反則度が上がって頑丈になったので百回くらい殺してきました。しばらくは起き上がれないと思います。それよりも、ですよ」


 言いながら、セシルスがぴょんとフェンスから飛び降り、スバルの目の前に。その彼を迎え、スバルとスピカが同じ角度に首を傾げる。

 そんな二人の反応にセシルスはニヤリと笑い――、


「ボスたちもそろそろ王国に帰られるんですよね? その前にいっちょ閣下の横っ面をぶん殴るところを見せてくれませんか?」



                △▼△▼△▼△



「ってわけでボスを閣下のところへお連れしました! 剣奴孤島から散々閣下をぶん殴るとボスは息巻いてましたのでぜひその場面に立ち会いたいなと!」


「疾く、失せよ」


 ビシッと挙手し、笑顔で乗り込んできたセシルスを、執務に追われていたらしいヴィンセントが書類に目を落としたままそう切り捨てた。

 忙しい皇帝なのだから当然の対応だが、そんな当然の対応をされようと、帝国で最も我が強いだろうセシルスは引き下がらない。

 彼は「え~」と不満げに唇を尖らせ、堂々と仕事中の皇帝の机に尻を乗せ、


「いくら何でも働きすぎじゃありませんか? そりゃ武官の仕事は有事にあって文官の仕事は有事も有事以外でも休みなしというのはわかりますが!」


「それで貴様は余を説得しているつもりか? 仮に貴様の甘言に乗り、仕事の手を休めた余に何をさせるつもりだと?」


「ボスにぶん殴られてください!」


「疾く、消えよ」


「ぶー! 閣下の働き者! 皇妃様もそう思われません?」


「あたしー?」


 ヴィンセントの無慈悲な答えに、机に座ったまま体を傾けたセシルスが援軍を呼ぶ。その声に反応したのは、執務室のソファでスピカと戯れていたミディアムだ。

 彼女はスピカの長い金髪を梳かしながら、「ん~」と唸り、


「あたしもアベルちんは働きすぎだと思うけど、アベルちんがしてる仕事が大事なことだってのはわかるから無理は言えないかな? あと、アベルちんとスバルちんがケンカするところも見たくないし」


「ケンカではなく一方的に閣下が殴られるという……ある意味『スパルカ』ですね!?」


「疾く、尻をどけろ」


 ぐっと拳を固め、盛り上がるセシルス。その尻の下に敷かれた書類を抜こうとしながら、ヴィンセントは片目をつむり、嘆息した。

 そして、彼はその黒い眼を部屋の入口の方に向けると、


「貴様、いつまでそこで立ち尽くしている。目障りだ」


「ぐ……それは、その……」


「スバルちん、ベアトリスちゃんと一緒に正面どーぞ!」


 ヴィンセントの冷たい声と、対照的に温かいミディアムの声に誘われ、気まずい顔をしていたスバルが部屋の真ん中、ミディアムの正面のソファに座る。スバルと手を繋ぐベアトリスも一緒に席に着くと、そっとミディアムがお茶を置いてくれた。


「どーぞ、粗茶ですが」


「仮とはいえ、余の執務室だぞ。貴様、皇帝に粗茶を出しているのか?」


「あんちゃんから礼儀だよって教わったの! あたしだって、礼儀なんてよくわかんないから一生懸命やってるんだよ~」


 言いながら、ミディアムがヴィンセントの机にもあったお茶のお代わりを注ぐ。立ち上る湯気にも特段、ヴィンセントは文句を言わずにおり、淹れたお茶に問題がないことは、ベアトリスも自分の舌で確かめられた。

 そうするベアトリスの横で、スバルが眉を顰めながら、


「なんつーか、本当にアベルとミディアムさん、夫婦になんのな」


「うみぅ!」


「なんだ、今の鳴き声は」


「う、う~、ちょっとまだその響きは恥ずかしくて」


 顔を赤くし、小さく嘶いたミディアムは、しかし自分の置かれた状況に戸惑ってはいつつも、それを心から拒んではいないようにベアトリスには見える。

 正直、ベアトリスはヴィンセントの人となりをよくは知らない。

 ただ、スバルが散々人格的にボロクソ言っていたので、逆説的に、オットーやユリウスのようにそれなりに見れる点の多い人物なのだろうとも思っている。


「でないと、おちおちミディアムを任せる気にならんのよ」


「それはそう。フロップさんも金と地位に目がくらむなんて、らしくないぜ」


「おやおや言われてますよ、閣下。ボス的には閣下にはヴォラキア皇帝という地位と名誉と財産しかいいところがない的な言い回しです」


「全員、余を怒らせて仕事の手を止め、帝国を滅ぼそうという算段か?」


 だとしたら目下、その試みはうまくいっていると言わざるを得ない。

 これだけ話しかけられ、物理的に書類を押さえられれば、当たり前だがヴィンセントの仕事の手はストップせざるを得なかった。

 そうして、ヴィンセントはセシルスの尻の下から書類を抜くのを諦めると、代わりにその黒瞳でスバルを射抜き、


「ケジメなどと称し、剣奴孤島の脱獄囚と奇行を繰り返しているそうだな」


「……お前には無意味だって言われると思ったよ。それより、脱獄囚ってのが聞き捨てならねぇぞ。島のみんなは……」


「元々、理由があってギヌンハイブへ送られたものたちだ。正しく、脱獄囚であろう。それが帝国の混乱に乗じて抜け出し、その武威を振るって好き放題に暴れた」


「じゃあ、みんなをどうするつもりなんだ」


 剣呑な物言いに頬を硬くし、スバルがヴィンセントを睨み返した。一瞬、ピリッとした緊張感が二人の間に立ち込める。

 しかし、その二人の視線を「ダメだよ」とミディアムが手刀で切って、


「アベルちん、そんなイジワルな言い方したらスバルちんが誤解するでしょ」


「――。島の脱獄囚には、此度の働きでの恩赦を与える。その旨は剣奴孤島の総督であったグスタフ・モレロからも上申されたことだ」


 ミディアムに促され、ヴィンセントが静かな声でプレアデス戦団の進退を告げる。

 降って湧いた戦団のピンチ――そもそも、ヴィンセントにもたらされたそれが、そのままヴィンセントによって取り上げられ、感情のアップダウンが激しい。

 実際、スバルもわなわなと震えながらヴィンセントを睨んで、


「か、解決済みの問題で人を弄んで楽しいのかよ……!」


「あー、わかりますわかります! 閣下はそういうところがありますよね。思い返すとチシャにもそんな意地悪をたびたびされた覚えがあるのでこういうのって頭のいい人たちが共通でやる何かなんですかね?」


「過ぎた話題と言えば、セシルスがさっきから言ってる皇帝への腹いせなら、スバルはとっくに自前で済ませてるかしら」


「あれえ!?」


 声をひっくり返らせたセシルス、その反応にベアトリスは舌を出した。ようやく、この傍若無人のペースを崩せたようで小気味いい。

 ただ、それならそれでとばかりにセシルスは「はてな」と口にし、


「大変面白い見せ場を見逃したショックはあとで詳細を聞いて癒すとして疑問ですね。だとしたらどうしてボスは僕に連れられて閣下のところへ? タンザさんみたいにすげなく僕を振り切ることもできたはずでは?」


「それは……」


 セシルスの問いかけに、スバルは答えに詰まりながらヴィンセントを気にする。

 その反応を見なくとも、ベアトリスにはスバルの内心は筒抜けだった。ここ数日、ベアトリスたちやプレアデス戦団とは積極的に接せているスバルだが、どうしても足を向けられずにいた相手が何人かいる。


 ――それがヴィンセントとヨルナ、そしてプリシラの陣営のものたちだ。


 それは、スバルの過剰な責任感を思えば、そうなって当然の関係者だろう。それでも、このままでいいとスバルは思っていない。

 だから、無理やりという体で、セシルスに連れてこられるのが都合がよかった。

 そうすれば――、


「ようやく余の……俺の前に顔を見せたか」


「アベル……」


 スバルの抱えるジレンマ、躊躇い、そうした諸々の感情。

 それはどうやら、『賢帝』と称されるヴィンセント・ヴォラキアにはお見通しであったらしい。その鋭い眼差しに、スバルは確かに気圧された。

 だが、ベアトリスと繋いだ手に力がこもり、スバルはそのプレッシャーと正面からぶつかり合う覚悟を決め、口を開く。


「アベル、悪か――」


「――先ほど、貴様は解決済みの問題がどうと俺を腐したな」


「え……」


「だが、俺に言わせれば、解決済みの問題をこすり続けているのは貴様の方だ」


 言葉の出鼻を挫かれた上、そう言われてスバルが目を瞬かせる。

 一拍、それが何を意味することなのか理解が追いつかない顔だ。しかし、それが意味するところを理解した瞬間、スバルの表情が激変する。

 それは怒りと悲しみとがないまぜになった、正しく激情だった。


「解決済みの問題って……何を、何のことを言ってやがる!」


「今、貴様がかかずらわっている大部分の問題だ。剣奴たちへの贖罪もそうなら、俺やヨルナ・ミシグレへの態度も同じ。何より――」


「やめろ!!」


 続けようとするヴィンセント、その言葉を食い止めようと、ソファから立ち上がったスバルが猛然と彼に詰め寄ろうとした。

 だが、そのスバルの前に第三者が割って入る。――セシルスだ。


 机から尻を下ろしたセシルスが、ヴォラキア皇帝に詰め寄ろうとしたスバルの前に割って入り、その前進を阻んでいた。


「邪魔するな、セッシー! 俺がアベルを殴るのを見たがってただろうが!」


「ええそうですね、それはそうです。でもそれはボスと閣下の間の『スパルカ』が見たいという話であって衝動的でつまらないカードが見たいわけじゃありません」


「――っ」


 互いに身長が元に戻り、互いに子どもではない立場で睨み合う二人。

 ただ、このスバルとセシルスの睨み合いで、いつものようにスバルに味方する気持ちがベアトリスには湧いてこなかった。むしろ、セシルスの――否、真っ向からスバルに言葉をぶつけるヴィンセントの方に、肩入れする。


 表現的には酷でしかなく、もっと他の言い方などいくらでもあるはずなのに、あえて血と痛みを伴う言葉を選んだところは大嫌いだが――、


「――プリシラの死も、すでに過ぎたことだ」


「アベル――!!」


 その断言に、スバルは強く強く声を怒らせ、ヴィンセントを睨みつけた。だが、セシルス越しの眼差しに、ヴィンセントは身じろぎ一つしない。

 そのスバルの痛々しさに表情を強張らせたのは、ベアトリスとスピカ、それにミディアムと揃って女性陣だった。


「プリシラはお前の……お前の妹だろ。それでも、お前は……」


「そうだ。あれは俺の妹だ。幼い時分より賢しく生意気で、ついぞその性格を矯正すること叶わぬままに命を落とした。……チシャのときと同じく、プリシラを失ったことは、確かに俺の中に傷を生んだ。隠し立てはすまい」


 ゆるゆると首を横に振り、ヴィンセントが自分の胸に手を当ててそうこぼす。

 そこには確かに、ヴィンセントが皇帝としての矜持の裏に押し隠した、彼なりの妹への煩悶や、失ったことの悲嘆が秘められているのがわかった。

 ヴィンセントに、それを生じさせたことをスバルは悔やみ、だからこそ、何を言えばいいのかわからずに顔を出せずにいたのだとも。

 しかし――、


「――これは俺のものだ。貴様の関与する余地はない」


「――――」


「俺とプリシラの間の物事だ。それすらも、貴様は指をかける権利を欲するのか?」


「い、や……違う、違うんだ。そうじゃない。そうじゃない、けど……」


 そのヴィンセントの舌鋒に、スバルは直前までの怒りに水を浴びせられ、言うべき言葉が見つからない顔で視線を彷徨わせた。

 そうしているスバルに、なおもヴィンセントは言葉を止めない。

 あるいはそれは、ベアトリスたちが知らない、スバルとヴィンセントとの間に培われた帝国での時間、それがなくては成立しない追及だったのかもしれなかった。

 ヴィンセントは、静かにこう続けた。それは――、


「ナツキ・スバル。――プリシラは最後に、貴様になんと言葉をかけた?」


「――――」


「それが呪いの言葉であったなら、貴様の中に残されたものは俺が引き取ろう。だが、そうでなかったのだとしたら……それが、貴様とプリシラの間にあったことの結実だ」


「――――」


「俺の妹の餞を受け取り、己の血肉とするがいい。――それが、その問題の解決だ」


 どんな言葉をかければいいのか。償いに何をすればいいのか。

 そうした様々な疑問と疑念、足を止めてはいられないという焦り、苦しまなければならないという自罰的な考えが、ここ数日のスバルの行いの根幹。

 そして、その根幹の発端自体が掛け違っているのだと、ヴィンセントは言い切った。


「プリシラ、は……」


「あれは?」


「……俺を、本当の騎士だって、言った」


「ならば、それがプリシラが貴様に与えたものの全てだ。――大儀であった、ナツキ・スバル」


「――――」


 その一言に、スバルの表情が決壊する。

 怒りと悲しみ、それが支配していた激情が押し流され、その後ろから噴き出してきたのはとめどなく、煮立った鍋から沸騰した水が溢れるような勢いの感情だった。

 おそらくはあえて、プリシラの死を見届けた朝から直視していなかったものが。


「スバル……」


「べあ、とりす……俺は、俺は……」


「大丈夫なのよ。ちゃんと、ベティーは……ベティーもエミリアも、みんなちゃんとわかってるかしら」


 立ち尽くすスバルの傍らに寄り添い、ベアトリスはその手を引いて頷きかける。そのベアトリスの言葉に、溢れる涙を堪えられないスバルの顔が引き歪んだ。

 そうしてようやく、初めて、ベアトリスはあの朝から、自分の声がやっとスバルに届いたのだと、そう確信させられて。


「わぶ、なのよ」


 不意に、スバルが膝をついたと、そう思った直後だった。

 跪いたスバルが、正面からベアトリスを抱きしめる。その縋るような抱擁の弱々しい力の強さに、ベアトリスは柔らかく、自分からもスバルを抱き返した。


「――これはこれで閣下が殴られるのとは違いますがよい見せ場が見れました」


「そういうのは言わぬが花かしら」


「失敬」


 そう余計なことを言った口を指で閉じる仕草を入れ、セシルスがウインク。後ろではスピカを抱きしめるミディアムが、スバルの涙につられて涙を流している。

 そして、ベアトリスの胸に頭をうずめて泣きじゃくるスバルには、ベアトリスの見えているものが見えていなかった。


「――――」


 スバルを決壊させたヴォラキア皇帝が、ほんのわずかに目尻を下げた姿。

 付き合いの短いベアトリスにもわかる。――それはおそらく、この『賢帝』と称されるヴィンセント・ヴォラキアが滅多に、あるいは誰にも見せることのなかった顔。


 愛しい妹の最期に、自分に代わって涙を流すものを尊ぶ、そんな表情だったのだと。



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― 新着の感想 ―
いや本当にスバルはよくやったよ。真の騎士の称号に偽り無し
[良い点] いい話なんだけどねえ… [気になる点] プリシラは死も、ってなに…? [一言] 逆説的に…wwwww
[一言] 最初はポテチと携帯しか持ってなくて、ただのなにもない青年の大言壮語な祈りだったはずなのに、それが相手からも認められた騎士となって、今や太陽姫にも認められてるの、本当にすごいよ
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