第九章2 『悪役は気取らない』
「かかかっか! まさか、ワシみてえなのが戦場じゃなくて安地で死ぬかよ。寿命で死ぬシノビなんて聞いたことねえってのに、皮肉が利きすぎてんじゃろ」
そう言って、両手を失って空っぽの袖を振りながら呵々大笑する怪老。
その豪快な笑い声を聞きながら、治癒魔法の力及ばず、ガーフィールは複雑だった。
――あの『大災』との戦いのあと、ガーフィールは癒者団に合流し、負傷者の治療に当たっている。
帝国にきて以来、ほとんど休みなく、命懸けの激戦を続けてきたガーフィールだ。当然、仲間たちからは休むのが先決だと口々に言われたが、大人しくしていられなかった。
幸い、ガーフィールの体は頑丈で、『地霊の加護』のおかげで地べたに立っているのが一番の休養になるのだ。エミリア陣営で最も過労死から遠いのがガーフィールである。言うまでもなく、最も過労死に近いのはオットーだが。
ともあれ――、
『一度やると決めたなら、何を言っても無駄でしょう? それならいっそ、帝国に売りつけられるだけ恩を売ってきなさい。感謝の売り時よ』
そう、皆がガーフィールの考えに反対する中、一人だけはっきりと味方してくれた想い人の存在が嬉しかった。露悪的な言い方も、彼女らしくて好きだ。
そんなわけで、ガーフィールは仲間たちにも呆れられながら、この役を買って出た。最終的には誰も引き止めなかったのは、皆もわかっていたからだろう。
「一番辛ェッ大将がああしてんのに、俺様たちがまごッついてられッかよォ」
そうこぼし、ガーフィールは鋭い犬歯を噛み鳴らす。
喪われたのは強い、本当に強い女性だった。並んで同じ敵と戦ったとは言えないが、帝都で幾度も立ち上った焔の眩さはガーフィールの瞼にも焼き付いている。
それは、ただエミリアのライバルがいなくなったと、そう言える喪失感ではない。
だから、ガーフィールなのだ。
一人でも多く、失われることを防ぐ。屍人を容赦なく打ち砕き、時には仲間たちに立ちはだかる敵を力ずくで排除しなければならないこの手で、命を拾い上げる。
矛盾している。でも、矛盾していていい。難しいことは考えない。心のままに、だ。
心のままに、自分の力で敵を倒し、味方を癒し、救えばいい。
ガーフィールが寝る間を惜しめば一人でも多く救えるなら、それをし続ければいい。
「……ったく、本当に若ぇ奴らってのはすーぐ年寄りを置いてけぼりにしやがる。そういうとこが憎たらしくて仕方ねえんじゃぜ」
「んだよ、皮肉か、爺さん。てめェの腕が俺様じゃ治せねェからって……」
「かかかっか! 皮肉なんか言わねえっての。言っとくが、羨ましい妬ましいって何十年も言い続けてんのがワシの強さの原動力なんじゃぜ? ワシが羨ましいって言うのは嘘でも何でもねえのよ。ああ、羨ましい妬ましい」
長い白眉を上下に揺すり、腕のないオルバルトが器用に足で自分の首を掻く。
両手がなくても不自由しなさそうな態度は、治癒魔法の及ばないガーフィールに対する気遣いか、それとも逆におちょくられているのか、どちらともつかない。
いずれにせよ、腕のことを抜きにしても、ほとんど半死半生だったにも拘らず、もうこれだけ動けるのだからこの老人も怪物だ。
もっとも、死にかけで生き残ったという話をするなら――、
「――うだうだクソうるせえんだよ、クソジジイ! クソ疲れてるってのにクソほど仕事してくれてる奴にクソ絡みしてんじゃねえ!」
「おお、おっかねえおっかねえ。半死人の勢いじゃねえのよな」
と、奥の寝台に寝そべった人影の怒声に、オルバルトが低く喉を鳴らして笑う。その猛然とした勢いに、ガーフィールは「あのなァ」と頭を掻きながら、
「俺様をフォローしてッくれんのァありがてェが、先にてめェの体の心配してろ。本気で死ぬ一歩ッ手前……『手向けのヴィヴィロロ』って様なんだからよォ」
「あぁ? 俺はてめえのおかげでクソ助かったって言ってんだろうが! てめえ、俺の感謝が受け取れねえとかクソ言い出すんじゃ……ぐぎゃおう!」
「うるせェ、寝てろ!」
短躯の頭を手で押してやると、全身に悲鳴を上げられた相手がひっくり返る。そうなって当然の重傷度合い、治癒魔法を全力でかけ続けても追いつかない被害だ。
実際、今だって絶え間ない激痛が常に肉体を駆け巡っているはずなのに。
「俺様の言えたッ話じゃァねェが、よく起きて喋れッてるもんだぜ」
「クソ痛ぇだのクソ苦しいだの、このグルービー・ガムレット様を止めるクソにはならねえんだよ。そんなもん、毒でも薬でも使ってクソ騙して……ぐおおお……ッ」
「やめとけやめとけ。それで体中の信号全部丸無視した結果が今のお前さんじゃろ。両手なくしたワシと死にかけ具合でほぼ変わらんのじゃぜ。引退したら?」
「するか、クソバーカ!」
おちょくるオルバルトに、そう牙を剥いて怒鳴るのはグルービー・ガムレット――『九神将』の一人であり、おそらく帝国で最も死に近付いて生還した人物だ。
『大災』との死闘の最中、彼が果たした役目はべらぼうに大きい。なにせ、あの『アイリスと茨の王』の主役、『荊棘帝』ユーガルド・ヴォラキアと一戦交え、ハリベルと協力してその呪いを退けた勝利の立役者なのだから。
「てめェがそれをしてッなきゃ、みんな茨で動けなくなってたって話だかんなァ」
「やれるクソをひり出しただけだ。『荊棘帝』と『礼賛者』を見送ったあとは、クソセシルスにクソ『邪剣』を渡すまで寝っ転がってただけだしよ」
不貞腐れたようにこぼすグルービーだが、その寝っ転がるまでの働きが大きいのだ。
彼がユーガルドの呪いをその身で引き受け、自分ごと『邪剣』に斬らせたという話は何度聞いても意味がわからない。だが、グルービーらに言わせれば、『雲龍』とやり合ったガーフィールも意味がわからないというのだからお互い様だった。
個々人の最善と奇跡の積み重ね、それがあのとき帝都で――否、帝国の全土で起こっていた現実。『雲龍』と戦ったガーフィールも、『荊棘帝』を茨から救ったグルービーも、『魔女』の目論見を腕一本の犠牲に防いだオルバルトも、全員が力を尽くした。
その功績を過剰に称える必要も、事実に背く必要もない。
「ま、老い先短ぇジジイとしちゃ、それなりに見れる若ぇのが次々逝くのも結構堪えっからよぅ、お前さん方が生き残ったのは喜んでんじゃぜ」
「……俺はともかく、あいつが生き残ったって言えるかはクソ怪しいだろが」
「あいつってのァ……」
話題に挙がった相手の心当たりに、ガーフィールの視線が治癒室の端に向かう。と、そこに異様に目立つ、特徴的な人影が棒立ちになっているのがわかった。
今も慌ただしく、負傷者の対応のために人が行き交っている治癒室の隅、邪魔にならないよう壁と同化するように立っているのは、鋼でできた体を持つ存在――それはガーフィールの視線に気付くと、頭と思しき部分に嵌まった緑の宝玉を光らせ、
「私、視線を感知。用事、命令、指示、いずれかと予測した」
そう言いながら、のしのしとガーフィールたちに近付いてくるのは、『鋼人』と呼ばれたこれまた『九神将』の一人、モグロ・ハガネだった。
もっとも、正確には種族としての鋼人とは別で、その正体は水晶宮の核となる『ミーティア』だったという話だ。その肩書きも、肝心の水晶宮と魔晶砲が崩壊した今、何の意味も持たないものとなっているのだが――、
「あー、悪ィな。たまッたま目がそっちいっただけで、用ァねェんだ」
「了承。他、二名は?」
「何もねえよ。クソ邪魔にならねえように、その辺にいろや、モグロ」
「モグロ。それが私。了承した。指示、また待つ」
バツの悪い顔のガーフィールの傍ら、グルービーが顎をしゃくって言い放つと、その指示にモグロは大人しく従い、寝台の横にぺったりと座り込んだ。
そうしていると、ちょっと大きめの置き物といった風情だが。
「躾の行き届いた地竜やら雷狼みてえに健気なもんじゃぜ。しかし、あれじゃな。水晶宮でも物忘れなんてすんのな」
「水晶宮も魔晶砲もクソ吹っ飛んでんだ。モグロの核だけ残ってんのがクソ奇跡だぜ。寝てた俺の近くにたまたま落ちてきたのもクソできすぎだ」
「お前さんと一番仲良かったから、会いにきたんじゃね?」
けらけらと笑い、軽口を叩くオルバルトにグルービーが不満げに鼻を鳴らす。
彼らの会話が示す通り、モグロ・ハガネは『大災』以前のことを何も覚えていない。スバルに言わせれば、『初期化状態』というものらしく、この『ミーティア』がこれまでモグロ・ハガネとして積み上げてきたものは全て消えてしまったそうだ。
帝都を丸々吹き飛ばしかねなかった膨大な力、それを無理やり抑え込んで空に上がり、一帯を巻き込むまいと爆発したというのだから、代償は軽いと言うべきなのか。
「なんて、レムのことがあんのに言えてッたまっかよォ」
それまでの『記憶』がなくなるということが、どれだけ重たいことなのかはガーフィールも身内のことで痛感している。
『記憶』はなくした本人もだが、なくされた周囲だって大いに動揺するものなのだ。
だから、気持ちはわかる――なんて軽はずみなことは言わないが。
「案外、この爺さんの言うッことも間違ってねェかもしんねェぜ」
「あぁ? てめえまでクソふざけた話で俺をからかうクソかよ」
「違ェよ。確かに何にも覚えちゃいねェのかもッしれねェけどよ。こいつは、てめェの傍から離れようとしねェじゃァねェか」
そう言って、ガーフィールは寝台の横に座っているモグロに目を細める。
その大きな図体で治癒室に居座られるのは正直邪魔だが、できるだけ周りに迷惑をかけないようにコンパクトにしているのは好感が持てる。
そもそも、そうまでしてモグロがここに居残っているのは、やはりグルービーの傍を離れたくないからなのだろう。
それは『記憶』をなくして、最初に自分を認識した相手への刷り込みみたいなものかもしれない。ただ、この帝国でラムとレムがついに再会を果たしたとき、レムは不思議な感覚で、ラムを自分の姉だと直感したとそう話していた。
そういう『何か』が、モグロの中に残っているのかもしれないと、そう思う。
「まァ、大将はレムの奴にいきなり指折られたとかって言ってたッけどよォ……」
そういう、『何か』が残っていなかったパターンもあるので一概には言えない。が、ここが治癒室という誰かを癒す場所で、誰も知らない場所で一人きりのモグロがその心を癒しにきているなら、彼を追い出す理由はガーフィールにはなかった。
「むしろ、手の施しようもねェのに喋ってばっかの爺さんの方が邪魔ッだぜ」
「かかかっか! 言いよるんじゃぜ、この若僧! ま、わかる話なんじゃがよ」
肩をすくめたガーフィールに、オルバルトが両袖をひらひらさせながら笑う。そんな二人の会話を余所に、グルービーは自分の黒い鼻を指でこすり、モグロを見やる。
微動だにせず、ただ近くに寄り添う戦友だった相手を。
「クソ感傷的なことしてんじゃねえよ、クソが」
「発言に、水音を感知。異常事態の恐れ、指示を」
「クソ黙ってろ!」
「了承した」
そんな不毛なやり取りが聞こえて、ガーフィールは牙を鳴らして思わず笑った。
笑ってから、笑っていいかを少し悩み、心のままに、ちゃんと笑った。
△▼△▼△▼△
「――では、アナスタシア様はカララギ経由でルグニカに戻られるんですね」
「うん、そのつもり。元々、カララギからの特使なんて立場で帝国入りしとるからね。みぃんなお題目やなんてわかってるけど、それはそれでちゃんとこなさんと」
はんなりと微笑むアナスタシアが、そうあけっぴろげに内情を明かすのを、オットーは「なるほど」と表面上は静かに、なんてことない風に受け止めていた。
ただ、その内心は表情ほど無心ではいられない。――どうあれ、アナスタシアはカララギ都市国家と約束した役目を果たしたのだ。これで彼女を送り出したカララギ評議会からの評価は上がり、アナスタシアは王選にまた確かな追い風を受けるだろう。
無論、エミリアもヴォラキア帝国存亡の危機に際し、皇帝であるヴィンセントから直接救援を求められ、『大災』との戦いに大いに貢献した功績がある。
帝国入りでは密入国する形になった自分たちが、帰国時は堂々とした凱旋を果たせるだけの手土産を持ち帰れると言えるだろう。
それでも、プリステラでの魔女教との戦いと、プレアデス監視塔の攻略、さらにはヴォラキア帝国の救援にも、自分たちエミリア陣営だけでなく、アナスタシア陣営が噛んでいるのは旨くない。――アナスタシアと並ばない、エミリアだけの名声がいる。
もちろん、今回の帝国を襲った『大災』との戦いに一枚噛めていなければ、陣営の立ち位置は大きく後れを取るどころでは済まなかったが。
「考えることが仰山あって、オットーくんも大変やね?」
その一瞬の沈黙を、アナスタシアが浅葱色の瞳で食い破ってくる。
おおよそ鎌かけで間違いないだろうに、何らかの確信がある問いだと思わせるのは、アナスタシアが踏んだ場数で鍛えたしたたかさが理由だろう。
そうした彼女の牽制に、オットーは「いえ」と微笑み返し、
「確かに気が重いのは事実ですが、考え事の多い少ないの話をするなら、ここから帝国を立て直していく必要のある皇帝閣下や、ベルステツ宰相と比べ物になりませんよ」
そう言って、オットーは話題の矛先を自分から、同席する別の人物――帝国宰相であるベルステツの方へと向けた。
アナスタシアとベルステツ、それとオットーが顔を突き合わせる会議室では、『大災』との戦いを終え、今後は復興という再生に向けた事業を戦っていくヴォラキアと、協力関係にあった面々の先々の方針が話し合われていた。
そんな中、オットーに水を向けられたベルステツは、その糸のように細い目の奥の瞳の色を隠したまま、
「仰る通り、課題は山積みです。が、実のところ、私奴は重荷とは思っておりません」
「へえ、そうなん? ずいぶんと頼もしいこと言うんやね」
「元より、私奴は『白蜘蛛』チシャ・ゴールドと結託し、皇帝閣下の地位を危うくした奸臣です。状況が状況でした故、『大災』との戦いの最中にこの首を落とされるようなことはありませんでしたが、本来、戦後は処刑を免れぬ身」
「……ですが、こうして僕たちと話しているんです。その処分はない、ですよね?」
「ええ。皇帝閣下はそうお決めになられた。無論、私奴を許せまいと、そう考えるものがあればその刃を身に受けるのもやむなしと思いましたが……」
そう言葉を区切ったベルステツ、彼が沈黙のうちに何を考えているのかオットーにも想像がついた。それはおそらく、ベルステツの首が今も繋がっている最大の理由――戦後、帝国最強の『青き雷光』が発した宣言だ。
『誰か端役が血迷わないうちに宣言しておきますがベルステツさんを殺さないというのは閣下がお決めになられたことですから皆さんも従ってくださいね。それに逆らうようでしたら僕も久しぶりに閣下の剣らしいところを発揮しなくてはいけません。それに何となくですけどベルステツさんを閣下が殺さないところまでチシャの企てだったような気がするんですよねえ。実際ベルステツさんがいないとこの先しんどくないですか? チシャいないわけですし』
宣言、というには一息で長ったらしすぎるものだったが、それがベルステツの所業を知るものたちを思いとどまらせた要因であることは大きい。
同じことを思い浮かべていたらしいベルステツは、その口元を小さく歪ませ、
「よもや、セシルス・セグムント一将に私奴が庇われるとは。『陽剣』でなければ、あの方の刃が私奴の首を落とすものと思っていました」
「そうはならなかった。帝国の事情ですから外野はあれこれ言えませんが、僕は英断だったと思いますよ。有事の武官と、有事の前後の文官は替えが利かない」
「同感。ベルステツさんまで抜きになって、頭脳労働できるんが自分だけになったら、さすがに皇帝さんも可愛い奥さんの応援があっても死んでまうんやない?」
「そうですな。私奴としても、ようよう閣下が皇妃を迎えられたことは喜ばしい。――祝い事でもなければ、閣下にはお辛いことが重なりすぎました」
「――――」
ゆるゆると首を横に振り、そうこぼしたベルステツに会議室を沈黙が覆った。
その沈黙の中、オットーがちらと意識を向けるのはアナスタシアの方だ。同じ沈黙をかみしめながら、しかしその味わいはオットーとは違っているだろう彼女。
この沈黙の理由は言うまでもなく、ヴィンセントに重なったとされる凶事――腹心の部下と、血を分けた妹姫の死だ。
後者の影響はオットーにとっても、アナスタシアにとっても無視できるものではない。
「ホント、勝手なお姫さんやったわ」
ぽそりと、アナスタシアの唇が紡いだ音、それにオットーは目をつむった。
わずかに込められたそれは、あらゆる出来事に動揺しない豪胆さがあると思われたアナスタシアの、ほんのささやかな綻びにも感じられて。
それは常々、オットーがアナスタシアに長じるために欲しいと思っていた彼女の弱さだった。――その待望の弱さを、利用する気が起きずに手放す。
もし、それが何故かと聞かれたならば。
「再現性がありませんから」
このとき生じた隙は、次の機会にもまた使えるというような便利な道具ではない。同じ機会を用意することは難しいし、できたとしてもすべきではない。
なにせ、アナスタシアに開いた穴より、もっと大きく深い穴が身内に開きすぎる。
正直言えば、それもオットー的には望ましくない。この数ヶ月で、エミリアたちとアナスタシアたちは距離が近付きすぎてしまったと。
「そう自覚的に悪役をしようとしすぎなくてもいいんじゃないかな」
「――。それは、もしかして僕に言ってるんですか?」
ふと、アナスタシアでもベルステツでもない、第三者の声がしたのにオットーは反応。その視線が向くのは、声が発されたアナスタシアの首元――狐の襟巻きに扮した精霊、エキドナが黒い眼でこちらを見ていた。
そのオットーの言葉に、エキドナは微かに目を細めると、
「自分への指摘だと、そう受け止めたことが君の心中の証明だろう?」
「僕の方を見ながら言われた言葉では、説得力に欠けますよ」
「強情だな、君は。アナといい勝負だよ」
拗ねたような物言いをするエキドナ、その狐の頭が細い指に「こら」と押さえられる。アナスタシアだ。彼女はオットーに絡んだ自分の襟巻きを見つめ、
「そないな風にオットーくんに絡まんの。誰とでも話してええてなった途端、すっかりお喋りなんやから」
「む、まるでボクが自分の欲求に従って口を開いているような言い方はよしてくれ。確かに、今のボクの立場からすれば、以前の境遇が窮屈だったのは認めるところだけどね」
「まったく。ごめんな、オットーくん、うちの子が絡んで」
そうアナスタシアに謝罪され、オットーは「いいえ」と手を振るにとどめた。
エキドナの一声、あれは自分の存在を主張するためのもので、真にオットーを気遣ってかけた言葉ではなかったはず。当然、アナスタシアと最も身近にいるエキドナも、オットーが気付いたアナスタシアの穴には気付いている。
あれは、それを突かせまいとする牽制だ。その穴を利用するつもりがないと、そう考えるオットーの内心が見えない以上は必要なものだった。
とはいえ――、
「自分が悪役だなんて思ってませんよ。……役なら、それは演じているだけですから」
そういう意味で、エキドナの指摘は全くの的外れだ。
アナスタシアすらも動揺し、それ以上の揺れを陣営にもたらしたプリシラの訃報――それに関して、オットーは自分でも薄情だと思うぐらい心を揺らしていない。
プリシラとはそれなりに言葉を交わす機会もあり、彼女が王選候補者として確かな傑物であることも認めていた。その上で、だ。
「王選の最中に、候補者が欠けるというのは十分ありえる話です」
さすがに、隣国の存亡を懸けた戦いに参加し、命を落とすなんてケースは想定外だが、それでも国家の一大事に関わる政争ともなれば、王選候補者の命を狙った暗殺者が差し向けられ、その凶刃に倒れる可能性も十分あった。
エミリア陣営の場合、暗殺者を差し向けてきたのがまさかの身内だったパターンだが、そうした例外を抜きにしても、そうだ。
こうした事態に際し、ルグニカ王国の現在の政治を司る『賢人会』が何も考えていないとは思わない。
王選候補者が欠けた場合、その席を新たに埋めるために誰かが補充されるのか、それとも五つの席の一つを欠いたまま王選を続けるのか。
後者の可能性の方が高く、後者の方がありがたいというのもオットーの本音だ。
そうした、王国にとっても一大事となる事情があるだけに――、
「数日以内に、僕たちは王国へ帰国する手筈です。帝国側にとっても、これ以上、『大災』のあとの内情を他国の人間に知られるのは避けたいでしょう」
「ウチたちもおんなじ。足並み揃えてってのもおかしな話やから、こっちは準備が整い次第、明日にでもカララギに出発するわ。オットーくん、城への報告は……」
「こちらに任せてください。手紙でやり取りできるお話でもありませんから」
アナスタシアが顎を引き、王城へ報告する役割をこちらで預かる。
正直言って気の重い役割だが、同時に重大な務めでもある。もちろん、オットーがこれには付き添うが、エミリアには非常に辛い役回りとなるだろう。
こんなとき、エミリアのことを一番に支えるのが一の騎士の役目なのだが。
「……今のナツキさんじゃ、エミリア様に逆効果になりかねませんから」
「……その感じやと、ナツキくんの様子は変わらんのやね」
「ええ。騎士ユリウスも何度か顔を出してくれていますが、難しいですね。こう言ってはなんですが、プリシラ様には振り回されてばかりの印象でしたが……」
「ナツキくんにとっては、そこのところは重要やない。――危ういわ」
静かな声音で言いながら、アナスタシアの指先がエキドナの首をくすぐる。その感触に身を震わせながら、エキドナの黒い眼もスバルを案じているようだった。
そこにはアナスタシアとエキドナの、まざりっけのない好意が感じられて。
「王国と都市国家、いずれの特使のご意見もわかりました。皇帝閣下からは両国への礼を尽くせと、私奴が判断する御許しをいただいております。何かあれば」
「軽々に、とは言わんよ。白紙の約束手形を出されるんが一番緊張するもん」
糸目の奥に感情を隠したベルステツに、アナスタシアが苦笑する。オットーも彼女と同じ心境ながら、引き出せた言葉は大いに利用したいと考える。
ここが、エミリア陣営の悪役ならぬ『必要悪』を引き受ける自分の持ち場なのだ。
そんな自分だから、仮にプリシラが死ななかった場合でも、彼女が帝国の皇族出身である事実を理由に、王選候補者に相応しくないと辞させる手法は考えていたし、選べた。
そう、選ぶことができたのだ。
だから――、
「――あなたは亡くならなくても、僕たちの敵にはならなかった。ナツキさんやエミリア様が傷付いている分、あなたの死は……僕には痛手ですよ」
異なる陣営の人間として、その死を惜しみ、悲しむ理由を持たないものとして、それが失われた女性に抱けるオットー・スーウェンのせめてもの哀悼だった。




