第八章73 『宿敵』
――昏い場所で、首から下を埋められているような気分だった。
とめどない土と砂、細かな石が混ざり合ったものにズブズブと足が沈み込み、それはやがて腰へと達し、胸を、肩を埋め、頭以外が出ていない状態にされる。
その、唯一外に出ている頭だって、少しずつ降り積もる冷たい塵で埋められるのは時間の問題だった。
必死に首を上に向けて、降り積もる塵を吐く息で懸命に吹いて、窒息する瞬間を、頭のてっぺんまで埋められてしまうそのときを、少しでも先送りにしようとする。
生まれてから今日まで、こんなにも不自由を感じたことは一度もなかった。
心は常に水面の上を歩くみたいに不安定だったが、体はそんなことはなかった。きっと、普通の人よりも体を動かすのは得意だったはずだ。
その拠り所が奪われて、自分はなんて無力なのだろうと泣きたくなる。でも、涙の流し方を知らない。泣き方さえ、自分は下手くそだった。
何もかも足りなくて。それでも、欲しいものがあって。
あまりにも無自覚だったけれど、ようやく気付く。――自分の欲深さに。
そして――、
「――――」
ふと、頭上から降り注ぐ塵の感触が消えた。
さらさらと額に当たり、こぼれ落ちるように埋める感触を高くしていたそれが止まり、チカチカとした青白い光がぐるぐると回りながら辺りを照らす。
その、視界を挑発的に飛び回る光が無性に苛立たしくて、もがいた。もがいて、もがいて、もがいてやがて、首まで埋まった体の腕が宙へと伸びた。
伸びた手から逃れるように、青白い光はまた少し高いところへ。
それを追い詰めたくて、手を伸ばしても届かない高みへ至るため、埋まった体を強引に引き抜く。肩が抜け、胸が抜け、腰まで抜ければもう一息。
やがて、足先まで抜けたところで顔を上げ、青白い光を捕まえようとして、気付く。
煌々と辺りを照らし出す赤々とした炎が、すぐ目の前にあることに。
そして、捕まえようとした青白い光が自分の体にまとわりつき、眩しすぎる炎の方へと自分を押し出そうとしていることに。
一瞬、躊躇いがあった。炎への恐れではない。
その炎に焼かれる幸いに、冷え切った自分が相応しいのかどうかという躊躇いが。
ただ、その躊躇いも一瞬のことだった。
資格があるかどうかじゃなく、焼かれたいと、そう思った。
焼かれようと、そう思った。
だから――、
「――いい加減に目覚めよ。いつまで妾を待たせるつもりじゃ?」
その優しい炎に焼かれるために、真っ直ぐ、一歩を踏み出した。
踏み出して――、
「……姫様、わたし、頑張ったよ」
「当然じゃ。――貴様、妾の乳姉妹を誰と心得る」
△▼△▼△▼△
――瞬間、『魔女』スピンクスは全ての計画の崩壊を確信した。
『大災』として屍人の軍勢を生み出し、それらが行う無数の試行錯誤で魂の在り方を確かめ、それを用いて『強欲の魔女』を再現する造物目的を達成する。
加えて、『不死王の秘蹟』の術式の構築に利用した『石塊』ムスペルを亡き者にし、ヴォラキア帝国の大地を崩壊させ、帝国を構成するあらゆるものを終わらせることで、唯一、異空間に置いたプリシラ・バーリエルに故国の滅亡を見せつける。
そうすることで、スピンクスは自分におぞましく醜悪な『熱』を教えたライプ・バーリエルを、彼を死へ誘ったプリシラへ報復、勝利、復讐、優越、超克、打倒、圧倒、冒涜、屈従、勃興、破滅、狂奔、歓喜、幸福、とにかく『何か』ができると目論んでいた。
それが全て、完全に、容赦なく、完膚なきまでに、崩壊する。
「――『不死王の秘蹟』が」
その効力を失ったことを、スピンクスは認めざるを得なかった。
帝都ルプガナを中心に据え、ヴォラキア帝国の東西南北と合わせた五ヶ所の地点――移動し続ける『石塊』の定着地として指定されていた地点に敷いた魔法陣は、ヴォラキア帝国の大地に染み込んだ血を媒介に、『不死王の秘蹟』で以て死者を蘇らせ続けていた。
しかしそれも、『石塊』からの莫大なマナの供給がなくなればおしまいだ。
「『精霊喰らい』アラキア……彼女が、ムスペルを御しましたか」
ありえざる事実でも、起こった出来事からそう推察するしかなかった。
抱え込むにはあまりにも強大すぎる大精霊、それを取り込んで爆ぜるはずだったアラキアは、『夢剣』マサユメを操る剣士の調伏と、彼女自身の信じ難い執念により、あの大精霊を完全に支配下に置いてしまった。
もはや、『精霊喰らい』アラキアが『石塊』ムスペルと同一の存在だ。
そしてアラキアには、ヴォラキア帝国に背いて『大災』と協力する理由などない。
これ以降――、
「もう、屍人は蘇らない」
不死の軍勢、死してなお蘇り続ける亡者の群れ、その前提が崩れ去る。
たとえ『石塊』からの供給が断たれようと、それで即座に屍人たちの命が失われるわけではない。ただ、条件が同じになっただけ。――死ねば終わりの、生者たちと。
「――っ」
魔法陣へのマナの供給が断ち切られ、その状況の整理に費やしたのは五秒ほど。
だが、そのほんの五秒の間に、三十六体まで減らされたスピンクスがさらに七体減らされ、二十九体まで数を減らす。
尋常ならざる速度と戦闘力で動く、『青き雷光』と『礼賛者』が強すぎる。
造物主を、『強欲の魔女』の能力を再現できているはずのスピンクスが、まるで太刀打ちできない。歯が立たない。数の暴力で押し切れる次元の相手ですらない。
それをどうにかしたくとも、『魔女』を押しとどめるのはその二人だけではない。
故に――、
「「「――要・撤退です」」」
事ここに至り、『魔女』スピンクスは計画の破棄が最も合理的であると考える。
盤石の態勢を整え、万全の策を講じ、万端の状態から始めた計画だったが、それでもなおここまで覆されては、もはや計画の修正は不可能だ。
業腹だが、二つの大目標のうちの一つを達成したという事実で呑み込むのが得策。
事実、長きにわたる造物主から与えられた造物目的は果たされたのだ。三百年以上も追い求めた目的と、ほんの一年ちょっと欲した目的が同一の価値のはずもない。
「「――要・撤退です」」
そもそも、天秤の釣り合った状況などではなかったのだ。
自分が何のために生み出されたのか、それを改めて自覚する。求められるのは『強欲の魔女』としての再臨であり、それは確実に果たされる。
今のスピンクスとしての自我を塗り替え、『強欲の魔女』エキドナへと――。
「――要・撤退です」
作り変えられる。造物目的は、それで果たされる。
スピンクスが消え、エキドナが蘇り、三百年以上の執念の日々が終わるのだ。
それ以上を望むのは合理的ではない。合理的ではない。合理的では、ない。
合理的ではないのに――。
「――――」
刹那、掲げられる『陽剣』が眩い光を発し、帝都全域に己の存在を誇示する。
それは異空間を焼き滅ぼし、強引に帝都の天空へ舞い戻り、八つ裂きにされるはずだった未来を当然のように超克し、撤退を決意する『魔女』へと訴えかけてくる挑発。
血のように赤いドレスを纏い、太陽のように明るい髪色をして、炎のように眩い存在感を放ち、焔のように他者を焼き尽くす生き方しかできない女が、笑う。
「――くるがいい、スピンクス。妾が、貴様の敵である」
瞬間、二十九体の『魔女』スピンクスの全員が決意する。
それは――、
「「「――ワタシは、あなたの敵だ、プリシラ・バーリエル!!」」」
△▼△▼△▼△
「彼奴を取り逃がせば、紛れもなく世界の災いとなろう。本来、妾は世界の在り様の変化に手は加えぬ。――じゃが、あれは妾を己の宿命と定めた」
崩れ落ちる石と土の足場を背後に、アルの腕から下りるプリシラがそう口にする。
傲岸不遜を絵に描いた彼女のその姿は、直前まで囚われの身であったことが疑わしくなるほど覇気に満ちた堂々としたものだった。
その言葉には思わず、勢い込んでいったアルも気圧された様子で、
「だから、姫さんが相手するってのか? どうしてそんな必要があんだよ。あんな迷惑な奴、囲んで叩いちまえば……痛ぇっ!」
「たわけ。手段を選ばず命を奪いにかかれば、相手にも同じ選択肢を与えよう。あれが己の敵を世界と定める前に、戦いは決しなければならぬ」
「……そうじゃなきゃ、勝てない?」
自分の豊満な胸を強調するように腕を組むプリシラに、その傍らで跪いたアラキアが首を傾げる。右目に火を灯し、血で赤く染まった左目を手で押さえるアラキアの問いに、プリシラはやれやれとばかりに肩をすくめた。
「アラキア、貴様までアルのような馬鹿げたことを言うでない。貴様の知る妾は、勝ち負けなどという一側面に重きを置くものであったか?」
「でも、姫様、勝つの好き。勝つ方が嬉しそう」
「当然であろう。それが妾というものである」
「自分で言った前提を自分で蔑ろにするな! こんがらがるだろ!」
アラキア相手に理不尽そのものの問答をするプリシラ、そこに黙っていられず、ついつい口を挟んでしまったのがスバルだった。
思わず前のめりに突っ込んだスバル、その勢いにプリシラは紅の瞳を細め、
「なんじゃ、貴様は。貴様の如き童の出番などないぞ。疾く失せよ」
「悪かったな! サイズ感こんなだけどナツキ・スバルだよ! 天満不滅、ラブリーキュートなエミリアたんの騎士!」
「かような童を騎士とは、あの半魔の人材不足も深刻と見える。これならば、まだあのやかましい凡愚の方がマシであったろうよ」
「それが俺! ザッツミー!」
まさかのアラキアへの応答以上の理不尽に、スバルは全身の虚脱感も忘れて叫ぶ。
プリシラが興味のない相手を記憶から削除するのは知っているが、アルやシュルト、シスコンのアベルほどでなくとも、ここまで彼女の身を案じていたスバルにそれはない。
と、鼻血を拭った顔でそう詰め寄るスバルに、
「――たわけ」
「え?」
「戯れ事との区別ぐらい付けるがいい。――ナツキ・スバル」
「――ぁ」
腕を組んだまま、表情も変えずにそう言い放つプリシラ。そのプリシラの言葉の意味が脳に浸透した途端、スバルの全身を熱が支配した。
だがそれは、弄ばれたことへの怒りではなく、ある種の、感動だった。
あのプリシラ・バーリエルが、自分の名前を覚えて、呼んだという事実への。
「……顎を蹴り砕かれた昔の俺が報われた気分だぜ」
去来した感情を押し殺し、スバルは自分の顎に触れてそう言葉にするにとどまる。
それ以上のやり取りを交わしている暇は、帝都にいるあらゆる全員に一秒もない。
そのためにも――、
「――あれに教えてやらねばならぬ。貴様が見るべきは世界などではなく、妾だと」
そう述べた直後、プリシラが組んだ腕をほどき、右手の『陽剣』を天にかざした。
次いで、何をするのかの説明もなく、『陽剣』の輝きが一挙に増し、そこに新たな太陽が生まれたかのような眩しさがスバルたちの目を焼いた。――否、それは凄まじい光量だったにも拘らず、太陽を直視したような痛苦をもたらさない。
「『陽剣』は妾の斬ると決めたものを斬り、焼くと望んだものを焼く」
改めて、その規格外さを説明したプリシラが、眩く輝く宝剣――それこそ、帝都のどこからでも存在を気付かせる瞬きを手に、笑う。
笑いながら、この場にいるいずれでもない、自分に注目すべき相手を挑発する。
「――くるがいい、スピンクス。妾が、貴様の敵である」
「――――」
それが、プリシラの張った罠であると、スバルは直感で理解した。
アベルをプリシラの下へ連れ去ろうとしたスピンクスは、何らかの理由で彼女に執着している。そして、その執着は囚われのプリシラと接するうちにより大きくなった。あるいは、そうなるようにプリシラが誘導したのかもしれない。
いずれにせよ――、
「――ワタシは、あなたの敵だ、プリシラ・バーリエル!!」
そう、『魔女』がプリシラの宣戦布告を受け取ったのが、張り詰める戦場の空気からもありありと伝わってきた。
その、まるで論理的でも合理的でもない、感情的な結論をスバルは笑えない。
太陽に挑まれて、その眩しさを無視できる生き物などいないのだから。
「アル、ここは任せた。アラキア、供をせよ」
「――っ、わかった」
「ん、姫様」
短く、そして抗い難いプリシラの指示にアルとアラキアがそう応じる。
その場を任されるものと、一緒にくるよう頼まれるもの。そして、そのいずれでもないスバルの方にもプリシラは振り向き、
「ナツキ・スバル」
「お、おう。俺は……」
「英雄幻想と、そう言ったか」
「――――」
再び名前を呼ばれたことの動揺が、続く言葉によってあっさりと打ち消される。
スバルとアルとの間で交わされた、自分たちがこの帝国で、そして今後の世界でやっていかなければ、背負っていかなければならない覚悟と決意。
人に聞かれれば、スバルたちのような弱い人間が何を馬鹿なと笑われるだろう看板――だが、プリシラはそれを笑わない気がした。
「――貴様の為すべきことを為すがいい」
はたして、そのスバルの感覚はプリシラの一言に肯定される。
プリシラの一声に背を、魂を押される感覚があり、スバルは押し黙った。だが、プリシラは返事を待たない。言いたいことだけ言って、彼女は背を向ける。
そのプリシラの細い腰をアラキアが抱くと、二人の体は宙へ浮かび上がった。
そうして、アラキアと共に飛び立つプリシラへと、
「姫さん! いつも通りにかましてくれ!」
「当然であろう。妾を誰と心得る」
「プリシラ・バーリエル! オレの姫さんだ!」
「誰が貴様のものか、たわけ」
アルの言葉にそう言い返し、わずかに唇を綻ばせた残像を残してプリシラが飛ぶ。
一路、プリシラたちはスバルたちから離れる。――否、正確にはスバルたちから離れたのではない。ここで囚われた存在、『魔女』から遠ざかったのだ。
「――――」
振り向くスバルとアル、両者の視線の先には破砕した壁に寄りかかって座る『魔女』の姿がある。その全身は黒い光に拘束され、身動きを封じられた状態だ。
以前、プレアデス監視塔で捕らえた『暴食』の大罪司教、ロイ・アルファルドに施されたのと似ているが、どこか異なる印象も覚える封印。
その、力を封じられた『魔女』と相対するのが、スバルの役割だ。
「スバル! 見つけてきたのよ!」
スバルが意気込んだ直後、タイミングばっちりに戻ってきてくれたベアトリス。ロズワール共々、ベアトリスはこの最後の局面に必要な相手を迎えにいっていた。
その相手は、ベアトリスと一緒にロズワールの背に乗って飛んでくるスピカだ。
「両手を空けておく方が魔法使いとしては合理的だーぁけど、これはないんじゃない?」
「やかましいかしら! ほら、スピカ、いくのよ!」
「えあお、あう!」
ベアトリスに言われ、スピカはロズワールの背中を蹴ると、地上のスバルの傍らへ。見上げてくる彼女の頭を撫でて、くすぐったがるスピカにスバルは笑いかける。
それから改めて、彼女と手を繋いで『魔女』に向き直った。
そして――、
「スピカ、腹が膨れて胸焼けしてるかもだが、もうひと頑張り頼む」
「う!」
スバルの頼みに健気に応じ、スピカが尖った歯を見せるように笑った。その気丈さに頼り切りで、スバルは『魔女』を見据える。
『魔女』は、この世で最も性格の悪い『魔女』と同じ顔でスバルを見返した。その黒瞳が細められ、『魔女』が笑み、口を開く。
「あなたに、ワタシの魂が捉えられますか?」
身動きできない状態で、生殺与奪だけなら常に握られながら『魔女』が言う。
その『魔女』の答えに、スバルは繋いだスピカの手の感触を、隣で頷きかけてくるアルの存在を、ロズワールと共にスバルの邪魔を排するベアトリスの活躍を、落ちてくるプリシラを助けるために協力した面々と、最後に見せた温かな氷の花を思い浮かべ――、
「勘違いするなよ。お前を倒すのは俺じゃない、俺たちだ」
「――――」
そう告げてから、スバルはスピカと一緒に一歩、『魔女』と距離を詰める。
それから、『魔女』の頬にスピカと共に手を伸ばして触れ、
「――スピンクス」
屍人たる『魔女』の在り方を喰らうため、最後の『星食』へ挑んだ。
△▼△▼△▼△
――光球が次々と降り注いだ瞬間、ヴィンセントは傍らのミディアムを横抱きにし、水晶宮の上層から外へと飛び出していた。
「わひゃっ!?」と悲鳴を上げるミディアム、彼女の細い腰を抱き寄せ、抱えているマデリンを落とさないよう注意しつつ、外へ踏み切る。
同時に、その場に居合わせた手の届かぬ相手にも意識を向け、
「オルバルト・ダンクルケン!」
「言われねえでもじゃって!」
直後、ヴィンセントたちとオルバルト、一同が飛び出した魔晶砲の砲台が吹き飛ぶ。
高空からの風を浴びながら、ヴィンセントは「捕まっていろ」とミディアムに指示。とっさに強く彼女の腕が絡みつくのを確かめ、強く壁を蹴った。
その壁を蹴る勢いで、追撃となる光の熱線を回避、地上へと落着する。
「おうおう、危ねえ危ねえ。もうこうなりゃ、他のシノビがやれねえワシのできることなんて寿命で死ぬぐれえじゃってのによぅ」
「確かに、老衰で死ぬシノビなどという話は聞いたことがないな」
「使い物にならねえ年寄りは、魔石持たせて自爆させるのがシノビの常套手段じゃぜ」
「もう! 怖い話してないで下ろして! おーろーしーて!」
両腕を失いながらも元気なオルバルト、彼と言葉を交わすヴィンセントの腕から、手足をバタバタさせたミディアムが地べたに降りる。
それで両手の自由を得たヴィンセントは『陽剣』を握り直し、頭上を仰いだ。
そこに――、
「――『魔女』か」
ヴィンセントの視界、白髪をなびかせる女が砲台に降り立つのが見えた。
魔核が失われ、城の魔水晶も大規模な術式にかなり持ち去られたはずだが、それでもなお『魔女』があそこへ降り立ったのは、目的がそこにあるからだ。
ヴィンセントたちをどけて、『魔女』は何を目論むのか。
「――。モグロ・ハガネか」
「おおん? 何言ってんじゃぜ、閣下。モグロの奴なら、バルロイが持ってっちまったじゃろうよ。じゃってのに……」
「たわけ、持ち去られたのはあくまで魔核だ。城には『ミーティア』の、核以外の部分が残されて――」
「――! アベルちん!」
雷鳴のような感覚、その可能性に思い当たったヴィンセントの肩を、血相を変えたミディアムが叩いて城を指差す。
その刺激に歯噛みするヴィンセントたちの前で、水晶宮に新たな変化が生じた。――ゆっくりと、水晶宮そのものが立ち上がったのだ。
「――――」
モグロ・ハガネは、水晶宮というヴォラキア帝国の象徴の『ミーティア』だ。
魔核という『ミーティア』の制御部にして、動力源でもあったそれは解体され、暴走した魔核の爆発は持ち去られた空の彼方で果たされた。
つまるところ、『九神将』のモグロ・ハガネとして周囲に認識されていた個体は、その巨大な『ミーティア』の一部に過ぎない。『大災』が起こる前の帝都決戦でも、その実力を遺憾なく発揮したモグロ――本来、魔核を守るための防衛機構は残っている。
『魔女』はそれを利用した。魔核を失い、本来の役目を果たせなくなった防衛機構を強引に起動することで、鋼の巨人――否、魔晶石の巨人を呼び起こしたのだ。
立ち上がった水晶宮――魔晶巨兵とでも呼ぶべきそれは、個体としてのモグロ・ハガネと共通点を持ちつつも、その禍々しさで比較にならない存在感を発した。
およそ五十メートル以上もある巨体、しかもその構造の大部分を魔晶石で固められているそれは、あまりにも大きな爆薬が歩いているに等しい。
「迂闊に手出しすれば――」
モグロとバルロイが命を賭した意味が消えてなくなる。
そう、ヴィンセントが歯噛みした直後だ。
「仕掛けよ」
「ん、姫様」
決して大きく声を張ったわけではない。にも拘わらず、よく通る声だった。
それがヴィンセントたちの頭上を通過したかと思った次の瞬間、光を纏った巨大な炎の拳――十メートル規模のそれが放たれ、魔晶巨兵を猛然と殴った。
凄まじい熱波が空に、地上に広がり、殴られた巨兵が大きく後ずさって、足下の街並みが大軍に薙ぎ払われたかのように吹き散らされる。
あまりにも規格外で、あまりにも向こう見ずな一撃だった。
「向こう見ずとは言ってくれる。まるで妾が考えなしかのようではないか」
「――――」
「あ~! プリシラちゃん!」
大きく傾く魔晶巨兵、それを殴りつけた炎の拳を放ったのは、中空を高速で飛び回っている金剛石の輝きを纏ったアラキアだ。
そのアラキアの手を離し、ドレスの裾を翻して着地した女――プリシラを指差し、ミディアムが高い声で彼女の存在を知らしめる。
「アベルちんアベルちん、プリシラちゃんだよ!」
「そう声を大にせずとも見えている。――どこに囚われていた?」
「兄上らしいが、感動の再会とは思えぬ言いようよな。妾がいたのは異界じゃ。城の地下牢ごと、『魔女』に持ち去られた異界」
「なるほど、見つからぬわけだ。どうやって出た?」
「無論、燃やして」
端的なプリシラの返答に、ヴィンセントはいっそ小気味よささえ覚えた。
囚われの身で、『魔女』相手にどんな目に遭わされていたかと思えば、この最終局面で堂々たる姿で現れるのだから――、
「――。プリシラ、貴様」
一瞬、頭の片隅に芽生えた違和感、その答えをプリシラに尋ねようとした。が、それは問いの形になる前に、魔晶巨兵からの応戦によって阻まれる。
中空を旋回し、尋常ならざる力で巨兵を撹乱しているアラキア。
そのアラキアを仕留めんがために、魔晶巨兵の全体が発光し、右の腕部というべき部位から破壊の火が放出された。
魔晶砲の強大な一撃に比べれば劣るが、一個の生命を、あるいは帝都の半分ほどを吹き飛ばすには十分すぎる威力、それが空を往くアラキアを狙う、狙う、狙う――。
「――くる」
狙い撃たれるアラキアの援護、そのための割って入る隙を窺うヴィンセントは、そのプリシラの一言に同じものを目にし、『陽剣』をかざした。
瞬間、アラキアを狙う右腕の反対、空いた左腕から放射される破滅の光が、ヴィンセントたちへと容赦なく放たれる。
「――――」
ミディアムたちを背後に、ヴィンセントとプリシラが『陽剣』を構えて立つ。眩い真紅の宝剣の輝きが立ち上る焔となり、押し寄せる光と真っ向から拮抗した。
だが、連戦に次ぐ連戦、休みなく燃やし続ける戦意の薪をくべ続けてもなお終わらない戦いに、『陽剣』を握りしめるヴィンセントの手に血が滲む。
「なんじゃ、だらしないではないか、兄上」
「……つい先ごろまで休息していた貴様が今しばらく奮起せよ」
「なんと、一度は毒を飲ませて殺し、故国から追い払った実の妹になおも無体な仕打ちを働くとは、兄上もヴォラキア皇帝らしくなったものじゃな」
売り言葉に買い言葉、破滅の光と命懸けの押し合いの最中のやり取りに、ヴィンセントは奥歯を噛み、緩みそうになる唇を引き締めた。
認めよう。快いと。囚われたプリスカ――否、プリシラの帰還に心が沸いている。その容赦のない悪罵さえも、戦意の代わりにくべられるほどに。
そうして踏みとどまる、ヴィンセントとプリスカ、そこに――、
「――我が子の子らよ、大儀である」
瞬間、ありえざる三本目の『陽剣』が拮抗に加わり、一拍、光が爆ぜ、押し合いが終わる。それを果たしたのは、猛然と舞い戻り、芸術的な一閃を放った『茨の王』。
その優麗さに一片の曇りもない、ユーガルド・ヴォラキアの参戦だ。
「立ち上がった水晶宮に対処せよと、我が星から送り出されてのことだ。魔晶石の瞬きは『陽剣』以外では対処が難しかろう。そなたらの力不足ではない」
「付け加えられずとも、だ。助力には礼を言う」
「ふむ。――母上の魂の良人、加えて『茨の王』じゃな」
並び立ったユーガルドの言葉に、ヴィンセントは片目をつむって応じ、プリシラは協力されたこととは別の感慨を以て相手を見る。
ヴィンセントも、読書家であったプリシラが『アイリスと茨の王』を読んでいたことは知っていた。もっとも、ヨルナ=サンドラとも、アイリス=ヨルナとも知らなかったヴィンセントと、プリシラの持つ知識は違っているだろうが。
ともあれ、じろじろと自分を見るプリシラに、ユーガルドの方も目を細めると、
「そなたも、今代の皇族か。余の正妃……テリオラの面影があるな」
「――ふん」
そのユーガルドの評価を、プリシラは珍しく言葉少なに受け入れた。
誰かと比べられることを嫌がるはずのプリシラのその反応に、ヴィンセントはいささか違和感を覚える。まさか、おとぎ話の登場人物と出会い、プリシラが舞い上がっているなんて可愛げがあるとは思わないが。
いずれにせよ、ここにはヴィンセントとプリシラ、そしてユーガルドがいる。
「『選帝の儀』でもなしに、『陽剣』が三本とは理外のことだ」
「そうだな。事実、兄弟姉妹に向け合う以外の形で複数の『陽剣』が顕現することなど一度としてなかった。ましてや、それが帝国の敵とは」
ヴィンセントとユーガルドの言葉通り、それは実現し得ない事態だった。
屍人を蘇らせる『大災』の行いと、ヴォラキア帝国の皇帝争いである『選帝の儀』の仕組みに背いたヴィンセントの暴挙、それがもたらした光景がこれだ。
「結末へ至る道程で感極まるとは、兄上も『茨の王』も余裕のあることよな」
頷き合うヴィンセントとユーガルド、その二人の間に立ち、プリシラが鼻を鳴らす。
眩く輝く宝剣を手に、堂々たる焔として振る舞うプリシラ、その姿勢にヴィンセントとユーガルドは今一度顔を見合わせ、前を向いた。
「アベルちん! プリシラちゃん! ヨルナちゃんの旦那さん!」
そうして並び立った三人の背後、抱きかかえたマデリンと負傷したオルバルトを連れて下がりながら、ミディアムが声を大にする。
これまでで一番、この帝都で一番、声を張り上げて――、
「――頑張れ!!」
それを受け、ヴィンセントは口の端を緩め、ユーガルドは深く頷き、そしてプリシラは紅の双眸を爛々と輝かせながら、魔晶巨兵を見上げる。
「無論のこと。――心行くまで、妾の剣舞に見惚れるがいい」