第八章71 『英雄幻想』
――ここで一つ、断言しよう。
それは、思い立ったエミリアの独断行動がなければ、『魔女』スピンクスの策は成り、ヴォラキア帝国の滅びは免れない形で訪れていたという事実だ。
しかもそれは、エミリア以外の誰であっても阻止できなかったかもしれないもので。
「――やっ!」
鋭い呼気を放ち、頬に力を入れるエミリアは四方八方から降り注いでくる光の熱線や光球を、磨き上げた氷の武装で打ち払い、懸命に踏ん張る。
正面、敵であるエキドナそっくりのスピンクスの魔法はどれも驚異的で、よけるのが難しい攻撃は鏡みたいに光らせた氷でうまく防ぐしか耐え方がない。
エミリアも、普段から「創造性が大事!」とスバルに言われているので、氷で作る武器の『でぃてーる』にはちゃんと拘っているが、今回、それが抜群に活きた形だ。
いつもそうしているおかげで、スピンクスの魔法に対応する武器もすぐに作れた。
「いつもありがと」
この場にいないスバルに感謝を告げて、エミリアは張り切って氷装を纏う。
今も帝都のどこかで、ベアトリスやスピカと手を繋いで頑張っているだろうスバルは、小さくても一緒にいられなくても、こうしてエミリアの力になってくれている。
そうしてスバルを想うだけで、エミリアは疲れを忘れて大きな氷槌を振り回せた。
「――要・排除です。それも、早急に」
そのエミリアと向き合い、距離を保ちながら魔法を放ってくるスピンクス。彼女の猛攻に晒されながら、エミリアは顔に出ない相手の焦りを感じていない。
元々、スピンクスは何かをするために誰もいないこの場所にこっそりきていた。それを何となく察したエミリアが、えいやっと駆け付けたのが戦いの切っ掛けだ。
その、スピンクスがしようとしていた何かをやらせてはいけない。
そう考えて、エミリアは得意ではないが、徹底的に相手の邪魔に集中していた。
――ここでも、エミリアは帝都の他の誰にもできない最善手を打っている。
仮にエミリアがスピンクスの命を奪えば、『魔女』はその殺された記憶を魂へ持ち帰り、エミリアという脅威を把握、対策を用意した個体を新たに顕現させただろう。
しかし、エミリアはスピンクスを止める気はあっても殺す気はない。
そのため、スバルが『死に逃げ』と名付けた状況は発生せず、共有されていないエミリアの脅威に対し、スピンクスが新たな自分を増援として送ってくることもない。
これは、ここにいたのがセシルスやハリベルといった強者でも、ヴィンセントやロズワールといった知恵者でも、スバルやアルといった無法者でも成立しなかった。
エミリア以外の誰にも、ここでスピンクスを釘付けにはできなかったのだ。
「ええいっ!」
そうした奇跡的な噛み合いを自分の直感頼みでやってのけたエミリアは、しかしそんな自覚のないまま光球を氷の靴で蹴り飛ばし――、
「何かはわからないけど、あなたのやろうとしてることはさせないわ! あと、プリシラの居場所も教えて! シュルトくんとの約束なの!」
「――。一方的で、欲深い。本当に魔女らしい方ですね」
前のめりに意気込むエミリア、その要求にスピンクスが冷たく呟く。
だが、その呟きには隠し切れないぐらい、確かな苛立ちが込められていたのだった。
△▼△▼△▼△
――白い光が視界を覆い尽くし、次の瞬間には世界が終わる。
それが、ナツキ・スバルが短時間で何度も味わうことになった、新たな『死に戻り』の局面だ。
「――――」
飛行するロズワールの小脇に抱えられ、反対側の小脇にいるベアトリスと、そのロズワールの腰の裏でぎゅっと手を繋いでいる。
ベアトリスの存在も、ロズワールの熱も、全身で風を浴びる感覚もリアルだった。
それだけでなく――、
「今のドラゴン退治ですけど首の数で手柄を競うような真似をするのはあまり綺麗じゃないと思うんですよね。実際のところ欲しいのは手柄首よりも万雷の拍手じゃないですか。なのでひとまずはヴォラキアとカララギの両雄並び立つ的なまとめでどうでしょう!」
「ええよええよ、僕はそれで。あんまり目立ちすぎてもそれはそれで、戦後のあれやこれやで担ぎ出されるんも困りもんやしねえ」
存在を断たれ、空で霧散していく屍邪龍を尻目に、それを文字通り瞬殺したセシルスとハリベルがやいやい言葉を交わしながら地上へ落ちていくのも見えて聞こえる。
紛れもなく世界の頂点、いずれ劣らぬ超越者の二人だが、それでも物理法則に逆らって空に居続けることはできないのだと、そこにはある種の納得感もあるが――、
「――今は」
何が起きているのか、新たな脅威を把握し、対策しなければならない。
魔晶砲を防いで、迫ってくる邪龍をも斬り落として、空の彼方で膨れ上がる緑の光が雲を吹き飛ばすのを目の当たりにしたあと、まだ『魔女』の仕掛けがある。
それが発動し、世界が白く染まり、スバルたちが命を落とすまで時間は多くない。
考えろ、考えろ、考えろ。考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考え――。
「――スバル」
そう、思考を走らせるスバルの鼓膜に、ベアトリスの芯の強い声がかかった。
手を繋いでいる彼女には、スバルの心身が――否、魂が味わった強烈な喪失感と、それを何とかしなければという決意が伝わったのだろう。
その上でベアトリスが言葉を尽くさないのは、可愛い彼女の気高い覚悟の証。
「何でも言うかしら。ベティーが全部、手伝ってあげるのよ」
多くを聞かずに、そう言ってくれるベアトリスにどれだけ救われることか。
毎度毎回、もらいっ放しの自分が嫌になると感じながら、スバルは頷く。
頷いて――、
「――俺の意識が吹っ飛ぶギリギリまで持っていってくれていい。合図するから、いつでもさっきのやつが使えるように準備しといてくれ!」
△▼△▼△▼△
――頭上、スバルが大きな声を上げ、それを受けた黒と青が空を奔る。
具体的な指示の内容までは聞こえなかった。だが、その代わりに聞こえた気がする。
光の時間を紡ぐため、掛け違った世界の歯車が噛み合い、回り始める音を、確かに。
「――――」
それが幻聴だろうと関係ない。事実、そうなるはずだ。
ナツキ・スバルが考え、状況を打破する最善手として手を打った。ならば信用できる。――否、信用するしかない。
それが、まだ『魔女』の万策が尽きていないと、そうスバルに呼びかけたアル――アルデバランの、なけなしの最善手というものだった。
「クソ」
短い悪罵、それは兜の中で自分の耳にだけやけに響く。
そのせいで、自分が無意識にそう呟いたことを強調して気付かされた気分になった。
いったい、アルデバランが何を悔しがることがあるというのか。
この帝国でナツキ・スバルを見つけたそのときからわかっていたことだ。いざとなれば躊躇なく、ナツキ・スバルを使うべきなのだと。
それを嫌い、厭うのは結局のところ、ただのくだらない意地でしかない。
――あのナツキ・スバルと、同じことができない後追い星に過ぎない自分の。
「……要・再考です」
不意に聞こえたその声に、アルデバランは無言で振り返る。
そこには首から下を実体のある黒い光に固められ、荒れた地べたの上に無防備に転がっているスピンクスの姿がある。
ゲートを完全に封じられ、文字通り、手も足も出ない状態に陥っているスピンクスは、しかしその忌まわしい顔に焦りも怒りも浮かべず、アルデバランをじっと見る。
まるで観察されているような嫌な眼差しだった。
「再考って、考えを改めるってのか? いったい何を? 何したところで、てめぇが何を考えてるのか話そうとしねぇくせに」
口の端を歪め、アルデバランはスピンクスを兜越しに睨みつける。
これも事実だ。――すでにアルデバランは、この捕らえたスピンクスに対して何度も何度も尋問を行い、彼女が企てについて口を割らないことを確認している。
皮肉なことだが、アルデバランが得られる無数の試行回数の中でも、決して捻じ曲がらない結果というものは一定数存在する。
たとえ無限にサイコロが振れようと、零や七の目を出すことはできないのだ。
そう、出せない。――アルデバランには。
「でもな、てめぇらは終わりだ。敵に回しちゃいけねぇ相手を敵に回した。今さら何か考え直したところで――」
「再考したのは、あなたへの評価です」
「あ?」
「あなたのことは、単なるプリシラ・バーリエルの従者としか認識していませんでしたが……あなたは、ワタシと同じものですね」
「――――」
「自分の造物目的を果たせず、そのために生き足掻く殉教者。――ワタシは自らの造物目的を達したため、いまだ足踏みするあなたに憐れみを禁じ得ません」
囚われの身で、魔法使いが魔法を封じられた立場で、それでもスピンクスは虚勢や負け惜しみではなく、静かにアルデバランを憐れんだ。
そこに嘘のないスピンクスの眼差しに、アルデバランの喉が凍り付く。
その、自分の喉を凍らせた冷たさの正体が殺意だと、アルデバランには自覚があった。
この口の減らない魔女面した女を、殺さなくてはならない。息の根を止めなくてはならない。他でもない、その顔でアルデバランにそう言うことなど許されない。
――いったい誰が、自分をアルデバランにしたと思っている。
「てめ――」
「アル! 力貸せ!!」
視界が真っ赤に染まり、思考が白く塗り潰される瞬間だった。
あと一秒どころか、ほんの数コンマ遅ければアルデバランはスピンクスを殺していた。しかしそれを、猛然と滑空してくる風が、殴りつける声と共に引き止める。
「お前の力がいる! お前の言った通り、『大災』はまだ終わらねぇ! 総力戦だ!」
すぐ傍らに降り立ったそれは、血相を変えた顔でアルデバランにそう呼びかける。
隣に長髪の魔法使いとドレスの精霊という頼もしい二人を連れ、アルデバランが伸ばしても届かない光に届く、いくらでも手を探せるナツキ・スバルが。
「手ぇ貸せって言われても……」
「うるせぇ!」
「――っ」
あらゆるバツの悪さがないまぜになり、アルデバランはそう口走っていた。
だが、スバルはそんなアルデバランの内心など知らぬとばかりに拳を突き出し、
「今、一人一人の悩みに寄り添ってる余裕がねぇ! だから、今この瞬間は切り替えて協力しろ! お前、前に言っただろうが!」
「オレが、前に……?」
「俺に期待してるって! 俺もお前に同じこと言い返してやる!」
「――ぁ」
顔を赤くして怒鳴るスバルに、アルデバランは息を呑んだ。
同時に思い返されるのは、このヴォラキア帝国でスバルと再会し、城郭都市グァラルで彼が自分の存在意義を見失いかけていたときの、自分とのやり取りだ。
レムという少女に否定され、足場のぐらつくスバルをアルデバランは励ました。
あのとき、アルデバランは、なんと言って彼に――。
「失った自信も何もかも、結果で取り戻すしかねぇ。全部、これまでとおんなじだ!」
「――――」
そのスバルの一声に、彼と手を繋ぐ少女が、後ろに佇む長髪が、瞳に期待を滲ませる。
そうして、自分の周りに力を与えるスバルが、同じようにアルデバランにも手を差し伸べて、あのときのお返しのように言うのだ。
「こい、アル! ――俺と一緒に背負え、英雄幻想!」と。
△▼△▼△▼△
――『魔女』の企みは、ヴォラキア帝国の滅びは、『死』は、幾度も成就した。
痛みのない死という終わりは、もしかしたら理想の終わり方なのかもしれない。
何が起きたのかもわからないうちに訪れる終焉は、いずれ来たる終わりを恐れる人間を恐怖から救う唯一の優しい手段なのかもしれない。
だけど、思うのだ。
「いや、俺の理想の終わり方はエミリアたんとベア子と孫たちに見送られて大往生を迎えることだから違うし」
もし仮に、『大災』が全ての人間を悲しみや苦しみから救うために、痛みも恐怖もない終わりをもたらすみたいなラスボス的思考だとしても、スバルは断固お断りする。
自分の思い描く理想の終わり方を迎えたとき、残していくことになるエミリアやベアトリスのことを思うとガラスでグサグサとめった刺しにされるような痛みが心に走るが、それはその状況に至るまでにスバルが苦しみ抜いて解決策を見つけるべき悩みだ。
断じて、誰かがくれた甘い夢に丸投げなんてできない。
そもそも全部仮の話だし、『大災』の目的は優しい終わりとかではなく、思いつく限りのひどい策を何個も重ねて帝国を滅ぼす方向性なので前提が成立していない。
だから、『大災』の目的を挫く以外の妥協案は、この戦いに存在しないのだ。
「……ちょっとずつ、見えてきた」
最初、世界は為す術もなく白く染まり、スバルは自分や仲間たちが何に滅ぼされるのかもわからないまま、押し付けられる『死』に呑み込まれるしかなかった。
しかも、戻ってこられたのはスバルとベアトリスがロズワールの両脇に抱えられ、襲いくる邪龍がセシルスとハリベルに斬り落とされた直後だ。
それからほんの一分と経たないうちに、あの終わりがやってくる。
「――――」
猶予は短く、すべきことは多い。
アルが『魔女』の企みだと教えてくれなければ、それを暴くことにさえ時間がかかったはずだ。そのおかげで、おそらく五回以上の『死に戻り』を短縮できた。
それでも、何が起きているのか見極めるのに試行回数は必要だった。
そして、その試行錯誤の中で――、
「一番ありえるのは、『石塊』……ムスペルが殺されることかしら。相手が逆転の一手を残しているとしたら、その可能性が一番高いはずなのよ」
「帝国の大地の崩壊、その大災害をもたらすためのトリガーを相手が用意している可能性はあるねーぇ。――スピンクスの常套手段なら、何らかの魔法陣もありえる」
「ひとまず、一番の問題やった『茨の呪い』はグルービーが解除してくれたんやし、それ以上の呪いの隠し玉があるって考えはあんまりせんのやないの?」
「はいはいはいはい! アルさんの話だとアーニャが死んじゃうと帝国が丸ごとおじゃんってことになるそうなのでそれも関係あるかもです! つまりアーニャ狙いで大軍勢が差し向けられる可能性もありますね! 久々にやりますか千人斬り!」
「うー! うあう! あー、う!」
「無事でありんしたか、童……! タンザが大層、世話になったと聞いているでありんす。わっちが手を貸せることでありんしたら、何なりと言うでありんす」
「シュバルツ様、嫌な予感が……戦団の皆様は、ご無事でしょうか?」
「幼いながらよい目をしている。我が星も、余ほどではないが頼みにしているようだ。必要であれば何なりと言うがいい」
「大将! 嬉しいッけど俺様を褒めんのは早ェ! まだ終わってねェんだろ? 何でも言えや、何でもやってやらァ!」
「……失せろ。俺をお前らと一緒にするな、ガキ」
『消えるっちゃ……竜は、もう、これ以上、何も……』
「消えるっちゃ……竜は、もう、これ以上、何も……」
「スバルちん、あたし、考えるの苦手だけど考える! スバルちんも頑張って!」
「お、悪ぃんじゃがよ、両手がなくなっちまったからお前さん、自力で戻ってくんね? これだと元の形に魂こねんのもできそうにねえのよ、かかかっか!」
自分一人で頭をひねって、何でも解決できるスーパーマンじゃない。
一分しかない限られた時間を、『死』と引き換えに何度でも繰り返して、スバルは敵が作り上げた盤面を一手ずつ、一手ずつ、確実に詰める。
『石塊』ムスペルの死、魔法陣、『茨の呪い』、アラキアの命、スピカの『星食』、ヨルナが無事でよかった、城塞都市の戦況、元気に惚気てくる屍人の皇帝、うちのガーフィールは最高、話にならない酒浸り、話ができない龍、話ができない竜人、頑張る、頑張る気力が萎えること言わないでほしい、etc.etc.――。
「――たわけ。下を向くな、ナツキ・スバル」
「俺も貴様も、下を向いている暇などない。足掻くと、そう決めたはずだ」
「諦めるつもりはない。――この俺を、誰と心得る」
傲慢な物言いの裏に、いったいどれだけの自尊心がちゃんとある。
そんな裏側を覗き込むような無粋な真似はしない。いいだろうとも。やろう。
諦めるなんて、ナツキ・スバルには選べない。
「――――」
いくら探しても見つからない彼女のことも、そうだ。
それを不安に思うよりも、信じる気持ちの方が今は勝る。――危ない目に遭っているかもしれないけれど、安全な場所で大人しくしているなんて似合わない彼女が、きっと未来を勝ち取るために頑張ってくれているのだと。
だから、覆しにいこう。――『魔女』の盤面を。
「こい、アル! ――俺と一緒に背負え、英雄幻想!」
△▼△▼△▼△
ありえざる不条理が、『魔女』スピンクスの最後の策を覆さんとしていく。
「――万全の準備を」
したはずだった。それがことごとく、覆されていく。
欲しかった結果を、造物目的を果たすという至上の命題を成し遂げ、確かな達成感が胸の内を支配したのも束の間、状況は次々と捻じ曲げられる。
何がスピンクスに、『大災』に立ちはだかっているのか。
「――ヴィンセント・ヴォラキア」
「――――」
「――アルデバラン」
「――――」
「――ナツキ・スバル」
その、スピンクスの心中へと寄り添うかの如く、赤い唇がそれらの名前を口にする。
『大災』として選ばれ、ヴォラキア帝国の存亡をかけた戦いを始めたスピンクス、その企てをことごとく覆さんと追い縋ってくる、星の巡りを正そうとする抑止力。
「あなたは、彼らのことをどう評しているのですか?」
スピンクスの問いかけに、鎖の金属音を立てて彼女がこちらを見る。
水鏡越しにスピンクスを見つめる紅の双眸、プリシラ・バーリエルは問いに笑う。それは嘲笑でも憐れみでもない、微笑だ。
プリシラを知るものがそれを見れば驚いただろう。笑みには、親しみさえあった。
プリシラ・バーリエルが、スピンクスへと抱く親しみが。
「何故……」
「そんな顔をする、と? 貴様が妾に問うたのは今の男たちの評ではなかったか? さすがは『強欲の魔女』、答えにすら貪欲じゃな」
「嘲弄であれば……」
「わかっていよう。そうではないと」
ぴしゃりと言われ、プリシラの眼差しにスピンクスは黙らされる。
彼女の瞳にも言葉にも、スピンクスを愚弄する色はもはやなかった。ならば、その紅の双眸に宿しているものは何なのか。
それがスピンクスの胸を内側から掻き毟る。知らない感覚だ。
造物目的を果たさなければと、使命感に動かされ続けていたときとは違う。
それは、スピンクスにとって耐え難く、逃し難い衝動で。
「覚えておけ。それが、焦がれるということじゃ」
「焦が、れる……」
「己の領分を超えたものを得ようとするならば、焔に焼かれる苦痛に耐えてでも足掻かねばならぬ。それを求めぬものもいようが、そのような生き方などくだらぬ」
「――――」
「焔に焼かれ、魂の訴えに耳を傾けよ。焦がれるように生きるがいい。溺れるように愛するがいい。――この世界は妾にとって、都合の良いようにできておる」
その断言に、スピンクスは稲妻に撃たれるような感覚を真に味わった。
絶対の揺るがぬ自己、移ろうことのない自信、免れることのできない焔の熱を感じ、スピンクスは死して、初めて自分が生きる実感を覚える。
同時に、焦がれた。――目の前の、この焔のような女に勝ちたいと。
故に――、
「要・対策――いいえ、防げるものなら防いでみろ」
△▼△▼△▼△
五つの頂点を持つ星型の城塞に囲われた帝都、その城塞の五つの頂点にちょうど逆さとなるように敷かれた五稜星の魔法陣――それを起動する役目を持ったスピンクスたちは、不完全な術式の発動を訝しみながら、それでも効果を受け入れる。
魔法陣の効果、その対象は無防備となった水晶宮の魔水晶だ。
無色のマナの巨大な塊であるそれを解体し、『魔女』スピンクスは枯渇寸前となったマナを自らの魂へ取り込み、莫大な力を得ようと企てていた。
『強欲の魔女』としての魂の再現に成功した今、スピンクスはあらゆる魔法の知識を保持した造物主と同じ力を振るえる。そのためのマナさえ、確保できれば。
そのために――、
「魔法陣の完成を――」
「残念ですがそれを阻止してこいというのが閣下とボスのご命令でして」
瞬間、迸る剣光は反応させることも許さず、スピンクスの首を刎ね飛ばした。
長い白髪が断たれた首の位置で断髪され、くるくると宙を舞う視界にスピンクスは自分を殺した青年の姿を見る。
美しすぎる一閃、しかし、まだ、不十分だ。終われない。
不完全な魔法陣でも、魂に息継ぎさせることはできた。
あとは――、
「――ああそうですか。あなたも溺れているのですね」
直後のスピンクスの選択の結果に、刀を携えたセシルス・セグムントが笑う。
そのセシルスの視界、魔法陣の完全な起動を阻止させまいと、彼の斬撃の味を持ち帰った魂から復元された、複数のスピンクスが立ちはだかる。
立ちはだかったスピンクス、それが首を傾げ、
「ここに水源はありません。溺れているとは? 要・説明です」
「本物の川も池も湖も水たまりさえも必要ないのです。『オオウナバラ』というやつは誰の心にもある。何かを強く欲するものは皆が皆溺れているのだそうです」
その言いように、なおも傾げたスピンクスの首は戻らない。
だが、セシルスはそれに構わずに、納めた刀の柄に手を当てて身構えると、名乗る。
「――剣客、セシルス・セグムント」
「――『強欲の魔女』スピンクス」
気付けば自然と、スピンクスたちの口からそれがこぼれていた。
△▼△▼△▼△
『青き雷光』と『魔女』の術技が帝都を揺るがすのと同刻、同じように魔法陣の発動を阻止するための激闘は他の三ヶ所でも始まっていた。
「――『礼賛者』ハリベル」
「――『強欲の魔女』スピンクス」
「――第六十一代ヴォラキア皇帝、ユーガルド・ヴォラキア」
「――『強欲の魔女』スピンクス」
「――『ゴージャス・タイガー』ガーフィール・ティンゼル」
「――『強欲の魔女』スピンクス」
ナツキ・スバルの選りすぐりの精鋭たちが、『大災』の最後の策を潰すための矛として『魔女』と向かい合い、壮絶な魔法の猛威に晒される。
解体されゆく水晶宮の魔水晶、それが完全に『魔女』の魂に流れ込めば、もはやその目論見を阻止することは叶わない。
何故なら、手段は無限大に広がるからだ。
魔法は使い手の発想と応用力で、その可能性の枝を無限に伸ばすことができる。
すなわち、『魔女』スピンクスは極大のマナを手に入れることで、およそあらゆる不可能を可能とする超越者としての力を手に入れる。
そしてそれは、あらゆる障害を超克し、為したい願いを叶える鍵を彼女に与える。
だが、スピンクスの真に恐るべきは、その強大な力を手に入れるビジョンではない。
真に恐るべきは、その目的一辺倒になっていない周到さだ。
「ベア子! ロズワール!」
「ミーニャ!」
「ウル・ゴーア」
紫矢と炎弾の嵐が周囲に逃げ場なく広がり、押し寄せる屍人たちが吹き飛ばされる。
しかし、先鋒を退けてもそれを踏みつけて乗り込んでくる屍人たちは、ここへきてその自我を完全に壊され、命令に従う人形となって襲いくる。――アラキアを殺しに。
魔法陣だけでなく、それを阻止するのもスバルたちの勝利条件には必要だった。
「アル!」
「わかってらぁ!」
囲みを突破し、少女の命を狙う屍人へとアルが飛びつき、土塊の青龍刀を突き刺し、それを相手の内側で肥大化させ、中から爆発させる。
アルの戦いっぷりを見るのはカオスフレーム以来だが、改めて見ても危なっかしすぎてハラハラする。戦巧者とは到底言えない。
それでも、手当たり次第の全員一丸で挑む総力戦だ。
「――一分は過ぎた」
これまでの致死ラインを乗り越えて、スバルは状況の進展を実感する。
『大災』を率いるスピンクス――正直、その姿がエキドナそっくりになっているのを見たときの衝撃は尋常でなかったが、スバルの混乱を押しとどめたのはベアトリスだ。
自分の生みの親とも言えるエキドナ、その姿かたちと瓜二つとなった『魔女』の姿を目の当たりにしても、ベアトリスは気丈に冷静さを保った。
「スバル、あれはお母様とは別人なのよ」
「そうだとも。『強欲の魔女』エキドナとは似ても似つかない。――非常に、不愉快極まりない相手ではあるがねーぇ」
何故か、ベアトリスと同じぐらい確信的なロズワールの言葉にも背を押され、スバルは不気味な『魔女』の姿かたちより、その狙いの看破に意識を集中した。
そもそも、アベルの『陽剣』で焼かれたはずの『魔女』が姿を変えて生き延びていたということ自体、『陽剣』や『星食』に対する究極的なカウンターだ。
その攻略も、視野に入れなければならない。
ただ、今は――、
「魔法陣の発動を、完全に邪魔できれば――」
そう思った瞬間だった。
帝都の空に、巨大な水鏡が展開し、映像が映し出され――降ってくる星に今にも消し飛ばされそうになる、『城塞都市』ガークラの絶体絶命の時が突き付けられたのは。
△▼△▼△▼△
「――アベルちん!!」
血相を変えたミディアムが、そう切迫した声でヴィンセントを呼んだ。彼女は片手にマデリンを抱き、もう片方の手に持った蛮刀で空を示す。
そこには帝都の空を覆い尽くすような巨大な光の歪みがあり、すぐにそれが薄く広がった水の塊であるとヴィンセントも理解する。一瞬、『魔女』が用意した次なる攻撃かと警戒するも、直後に波紋を生んだ水面がどこかの光景を映し出したことで確信に変わる。
やはり、それは『魔女』の攻撃だった。
ただし、人体を著しく傷付けるというわかりやすいものではなく、誰もが目を離せない形で、逃れ得ない現実を突き付けるという精神を貫く攻撃だ。
――天空の水鏡に映し出されたのは、屍人の大軍に囲まれる城塞都市。
屍人の軍勢を引き付け、ヴィンセントたちと同じく、帝国の存亡をかけた戦いを繰り広げる剣狼たちの砦、その上空から星の光が降り注ぐのがわかる。
それは、この帝都でも滅びをもたらさんと落ちてきた美しい滅亡の審判だ。
あれが城塞都市へ落ちれば城壁も砦も崩壊し、籠城するものの大半が死ぬだろう。そしてそれは、仮に帝都の作戦が成功したとしても立て直せない帝国の滅びを意味する。
帝都での星光、滅びの火、魔核の暴走、そして水晶宮を標的とした魔法陣。
立て続けの『魔女』の滅びの策謀は、帝都だけではなく、帝国の滅びへ矛先を向ける。
知恵者とは真の致命的な一撃を、決して悟らせぬように打っているものだ。
故に――、
「――俺たちの悲観は的中したぞ、ナツキ・スバル」
そう、ヴィンセントが口にした直後だ。
――天空の水鏡を叩き割るように空に開いた穴から、滅びの火が帝都の北へ向かって真っ直ぐに突き抜けたのは。
△▼△▼△▼△
――正真正銘、ナツキ・スバルとベアトリスの切り札。
アル・シャマクで異空間に飛ばした魔晶砲の滅びの火を、次のアル・シャマクで異空間からこちらへ戻し、『城塞都市』を終わらせるはずの星の光を撃ち落とす。
セシルスとハリベルの助力のおかげで、邪龍退治に使わずに済んだ切り札が、『魔女』の用意したこちらを動揺させる最後の一手を撃ち抜いた。
「――っ」
砕かれた水鏡が大量の雨滴に変わり、通り雨のように帝都に降り注ぐのを浴びながら、スバルは強烈な虚脱感に眩暈を起こし、鼻血を噴いた。
この数時間、ベアトリスの本気を延々と発揮させ続けている反動だ。
ベアトリスの振りまく可愛さはプライスレスでも、その有能さを発揮してもらうための代償は大きい。その負担を『プレアデス戦団』と分け合うにも限界がある。
その限界が目の前に現れ、スバルは思わず片膝をつく。
「スバル!」
叫んだベアトリスに支えられ、しかし、安心させたくても声が出ない。
ボタボタと、とめどなく溢れる鼻血をベアトリスがドレスの袖で止めようとする。せっかくの衣装が汚れると、それを止めたいがやはり腕が上がらない。
「まだ、まだ……」
ここで、立ち止まるわけにはいかない。
まだ、果たさなければならない役割が、阻止しなければならない企みが、ある。
総力戦と、そう決めたのは他ならぬスバルなのだ。
そのスバルが最初に力尽きるなんて、そんな馬鹿な話があってたまるものか。
だから――、
「――ぁ?」
「スバル? 無理したらダメなのよ。少しでも休んで――」
ふと、息を抜いたスバルをベアトリスが慌てて諌めようとする。が、そのベアトリスの言葉が途中で止まった。――スバルがその場に、立ち上がったからだ。
「――――」
丸い目を見開き、立ち上がったスバルを見つめるベアトリス。その彼女の視線を浴びながら、スバルは自分の両手を見下ろし、困惑していた。
直前まで、スバルの全身を襲っていた虚脱感、それが跡形もなく消えた。――否、虚脱感が消えたどころではない。むしろ、その逆だ。
「力が……湧き上がってくる?」
呆然とこぼしたスバル、その言葉の通り、全身に活力が満ち溢れていた。
それはプレアデス戦団の仲間たちと気持ちが一つになり、その心身の強さまでも強烈に高まっていくそれと似て非なる感覚――大いなる炎に抱かれる全能感だった。
そしてそれが、何ゆえに引き起こされたものなのか、スバルはすぐに理解する。
――砕かれた天空の水鏡、光の帯を引きながら彼方の星の光を穿つ滅びの火。それらが席巻した帝都の空に、新たな光が生まれていた。
それは星の光と比べれば小さく、滅びの火と比べてもなお小さく、しかしその輝きに関してだけはそれらと引けを取らないどころか、圧倒する瞬き。
天空から落ちてくるそれは、血の色をしたドレスを纏う、炎のような女――。
「――大儀である」
絶望を映し出そうとした水鏡にも、誰もが空を仰いだ。だが、それはそれ以上の鮮烈さを以て、帝都にいる全てのものたちの目を空に引き付け、魂を焦がす。
降ってくる。橙色の髪をなびかせ、紅の双眸を爛々と輝かせた、剣狼の雌――。
「余計な言葉はいらぬ。――妾の名をこそ呼ぶがいい」
その手に真紅の宝剣を握り、窮地の都市へと落ちてくる太陽の如き姫――それを見上げる一人として、スバルは思わず、その思惑に乗っていた。
すなわち――、
「――プリシラ」
そう、降臨する彼女の名前を呼んだのだ。
――その右目に炎を灯し、太陽の恩恵に与る一人として、彼女の名を。