第八章68 『惚れた男』
――『嫉妬の魔女』と呼ばれ、エミリアは目を丸くして驚いた。
驚いたことは二個あって、一個は『嫉妬の魔女』扱いされたのがとても久しぶりだったことで、もう一個は『嫉妬の魔女』扱いされて自分が傷付かなかったこと。
王選が始まってから一年以上が経って、ルグニカ王国では銀髪に紫紺の瞳のハーフエルフが候補者の一人であることを知らない人はもうほとんどいない。
スバル風の言い方をするなら、エミリアはエミリアとして顔が売れているのだ。
なので、普段のエミリアが認識阻害ローブを着る機会も減った。帝国で久しぶりにちゃんと着ているのは、エミリアであることがバレないようにだ。
だから、『嫉妬の魔女』と呼ばれるのは久しぶりだった。そして、そう呼ばれても自分は動じていない。――違うと、はっきりそう言える芯がある。
エミリアをエミリアだと認め、好きだと言ってくれる人がいるという芯が。
「私はエミリア、ただのエミリアよ。『嫉妬の魔女』じゃないわ」
その芯に支えられて、真っ直ぐ立ったままエミリアは相手に言い返せた。
そう返事をしてから、エミリアは目の前の見知った白髪の女性をまじまじと見つめて、
「あなたも……すごーく似てるけど、エキドナじゃなさそう? もしかして、ラムたちみたいにエキドナの双子? エキドナのお姉さん? 妹?」
「――。想像力が豊かなご様子ですね。ただ、ワタシは造物主の被造物であって、血縁者ではありません。要・訂正です」
「ゾウブツ、ヒゾウ……」
あまり耳馴染みのない言葉に眉を寄せ、エミリアは相手がエキドナの姉妹であることを否定したことだけ理解する。
落ち着いて考えてみれば、エキドナは四百年前の子なので、彼女本人もその姉妹もここで会うのはとても変だ。もちろん、死んでしまった人が起き上がってくる状況なので、もしかしたらエキドナとその姉妹もと思わなくはないが。
「でも、あなたはぴんしゃんしてるみたいだし、死んじゃってないみたい」
エキドナとよく似た彼女は、屍人たちのように顔色も悪くなければ目つきも普通だ。エキドナと比べると、ちょっとだけ表情が硬いかもしれない。
エミリアの知るエキドナは、たびたび意地悪な顔をした。――最後に見せた泣きそうな顔は、今も強くエミリアの心に残っていて。
「あの、あなたがエキドナじゃないのはわかったんだけど、名前を聞いてもいい?」
「そうですね、造物主の名前で呼ばれるのはワタシも気が咎めます。どうぞ、ワタシのことは『強欲の魔女』と呼んでください」
「……もうちょっと呼びやすい名前はない?」
「――。要・対応です。それ以外なら、スピンクスと」
「そう。……スピンクス!?」
ようやくそれらしい名前を聞けた途端、エミリアはそれが『大災』を引き起こしている中心人物と同じ名前だと気付いた。
エミリアの認識だと、スピンクスはリューズとそっくりだったはずなのだが。
「リューズさんにエキドナって、『聖域』と関係ある人とそっくりなの? じゃあ、次はガーフィールかフレデリカになるのかしら……」
「『聖域』も知っているのですか。思った以上にあなたとワタシには縁がありそうですが……エミリアというのは、プリシラ・バーリエルと同じ王選候補者では?」
「え? ええ、そうよ。プリシラのことも、早く見つけて連れ帰ってあげなきゃ――」
「――要・排除です」
瞬間、小首を傾げた女性――スピンクスの指から白光が放たれ、それを「え」とエミリアは脊髄反射で張った氷の鏡で斜めに逸らした。
もし、エミリアが得意なのが火属性でなく土属性だったら、土や石の壁を一発で貫通されて致命傷を受けたかもしれない。
そう思わせるような、ゾッとするくらい殺意に満ちた攻撃だった。
しかも――、
「もう! すごーくいきなり始めるんだから!」
放たれた白光はその一発だけでなく、銀髪を躍らせるエミリアを追いかけるように光の熱線が世界を切り刻み、戦いが始まってしまった。
相手はエキドナとそっくりで、どうやらエキドナと同じで魔法が得意らしい。
でも、それはエミリアも同じだ。
「そっちがその気なら、私も全力でいくわ! 動けなくして、スバルたちのところに連れてっちゃうんだからね!」
「彼らとは二度と会いたくありませんね。ですので、あなたの命をここで奪い、プリシラ・バーリエルがどのような顔をするか確かめます」
「――! プリシラがどこにいるのか知ってるの?」
縦横無尽、放たれる光の攻撃を鏡のようにピカピカにした氷剣で切り払いながら、エミリアはスピンクスの言葉に紫紺の瞳を輝かせた。
何となく、水晶宮にいてほしいという気持ちでプリシラがそこにいると思っているが、スピンクスの口からちゃんとした居場所が聞き出せるならそれが一番。
ますます、負けられないと意気込むエミリア。そのエミリアの発奮に目を細め、エキドナと同じ顔をしたスピンクスがわずかに苛立たしげに、
「この地点をワタシが確保しておけないのも困ります。――要・撃退です」
そう、静かに呟いたのだった。
△▼△▼△▼△
水晶宮の最上層に設置された魔晶砲の砲台、その操作を行う塔内で始まった戦い。
目的を考えれば広すぎるぐらいの空間だが、それでも壁も天井もあり、閉じた環境というのはシノビのオルバルトにとって有利な戦場だった。
シノビの術技は多彩さと応用性が売りだ。それはどんな環境でも任務を果たすための発展だが、いずれの術技も最終的な目的は相手の命に喰らいつくことに決着する。
それを成し遂げる戦場として、理想的な空間だった。
「狭ぇとこじゃと、魔法使いは窮屈でしんでぇじゃろ?」
戦いというのは、相手の不得意に自分の得意を押し付けること。
それがオルバルトのシノビとしての戦い方の基礎だ。むしろ、オルバルトはあらゆる相手の不得意に対応するため、あえて自分の得意分野を作っていない。
オルバルトが頭領になる以前、シノビは原則一芸特化が推奨されていた。
だが、理想とされる一芸特化とはセシルスやアラキアのような、本当に誰にでも通用する一芸を持っているものだけの特権で、そうでない凡才は応用力がなくて死ぬだけ。
別に自分以外の人間がどれだけ死んでもオルバルトは気にしないが、間違ったことばかり教わって死んでいくシノビを憐れむ心ぐらいは持ち合わせていた。
だから、オルバルトは自分が頭領になったときに一芸特化の教えをすぐ破棄した。
自分の特技を盲目に磨くより、相手の長所を潰す戦略を徹底的に鍛え、その状況を作れる戦況へ誘導する術を仕込む。もっとも、それもなかなか実は結ばなかった。真っ当に形になったのは数えるほどで、四、五年前に里で出た天才少女で最後だ。
その天才少女もどうやら死んだらしいので、人材の育成というのは損ばかり。
――本当に、我が生涯に悔いばかりだ。
「だからせめて、ワシが老いぼれるまで生きた意味をくれよ」
床を蹴りつけ、砕いた石材の破片を飛ばして『魔女』の頭を壊しにかかる。
同時、オルバルトは腕のない右手と腕のある左手を左右に振って、時間差で旋回して届くクナイを投じ、その上で後ろ足の踏み切りを爆発させた。
飛礫を躱せても、オルバルトの手刀を避けれても、左右から迫るクナイを撃ち落とせても、そのどれかが『魔女』の行動力を削ぎ、命に喰らいつかせる。
そのシノビの強襲を――、
「――要・意識改革です」
わずかに目を細めた白髪の『魔女』は、何もしないで全部喰らった。
「――――」
飛礫に額を割られ、クナイを首と大腿部に突き立てられ、その胸の中心をオルバルトの手刀で貫かれるまで、『魔女』は一歩も動こうとしなかった。
オルバルトの動きに反応できなかった。――否、『魔女』の視線は動きを追っていた。見た目ほど鈍重な女ではないと、そうオルバルトは判断する。
つまり、『魔女』は何かできたのに何もしないで喰らった。――否、今からする。
次の瞬間、密着するオルバルトと『魔女』の周囲に、拳大の光球が無数に浮かんだ。
「オルバルト!」
同じものを察したモグロの叫びに、オルバルトは長い片眉を上げ、『魔女』を見る。
『魔女』はその美しい表情を小揺るぎもさせず、オルバルトの次の判断を観察していた。その眼差しに、自分の九十年を覗き込まれた気がして吐き気を催す。
その上でオルバルトは優先した。『魔女』の命より、目的を挫く方を。
全身に致命傷を負い、胸を貫かれてもなお、手を乗せたままの台座――水晶宮の魔核へと注ぎ込まれる、『魔女』のマナを断つ方を。
「嫌がらせがシノビの真骨頂なんじゃぜ」
刹那、跳ね上がる爪先が台座に触れる『魔女』の手首を吹き飛ばし――無数の光球が術者である『魔女』ごと、オルバルトの矮躯を消し飛ばしに殺到した。
△▼△▼△▼△
「――ヨルナ・ミシグレ!」
異変を察した直後、ヴィンセントは戦場を一歩離れて俯瞰するヨルナへ叫ぶ。
頭上、半壊した魔晶砲の砲台から降ってきたオルバルトの声は、あの『悪辣翁』をして普段の飄々とした態度を守れない切迫したものだ。
ちらと視線を横に向ければ、ヴィンセントの隣で『陽剣』を振るい、周囲の屍人を牽制するユーガルドと目が合った。
「ゆくがいい」
短く、こちらの意図を察したユーガルドにその場を任せ、ヴィンセントはヨルナへと駆け寄っていく。そのヴィンセントの視線を受け、ヨルナは一瞬呆けた顔をしたあと、唇を引き締めると傍らの鹿人の少女――タンザの手を離し、
「タンザ、ヴィンセント閣下を頼むでありんす!」
「――! はい、承知しました」
ヨルナの呼びかけに顎を引き、タンザが両手を組んでわずかに腰を落とした。そのタンザの動きの意図を察し、ヴィンセントは軽く跳躍し、少女の小さな手に足を乗せる。
次の瞬間、その細腕を振り上げる勢いで、タンザがヴィンセントを空へ――水晶宮の最上層を目指し、真上へと放り投げる。
「――っ」
足りない飛距離、届かない勢いを城の壁を蹴って稼ぎ、ヴィンセントが五十メートル以上の高さのある最上層へ到達。まるで、階段の上り下りを横着するセシルスのような真似をしたと頭を掠めるが、そんな考えはすぐに霧散した。
間近にしたオルバルトが、ヴィンセントの初めて見る姿だったからだ。
「かかかっか……! あれでワシが死ぬとか思ってんの、笑えね?」
半壊した砲台の壁際で、片膝を立てて座り込んだオルバルトが低い声で笑う。しかし、その怪老の全身は血に塗れ、特徴的な長すぎる眉も垂れ下がっている。中でも最も重傷なのは、右腕に続いて左腕も吹き飛んでいることだ。
オルバルトがこれほどまでに苦戦するなど、どれほどの強者がここにいたのか。
――否、今は。
「死ぬ前に話せ。『魔女』の企みとはなんだ?」
「かかっ、本当に年寄り使いの荒いことじゃぜ。……モグロ見りゃわかるじゃろ」
「モグロ・ハガネ……」
文字通り、血を吐くオルバルトの言葉に振り向き、ヴィンセントは荒れ果てた砲台の奥に設置された台座、そこに嵌まった緑の宝珠――魔核を見る。
魔晶石を惜しみなく使って作られた水晶宮、言うなれば尋常ならざるマナの凝縮体である城は、すさまじく巨大な爆弾も同然だ。それが帝国の中心たる帝都に堂々と鎮座していられる理由が、それらを制御している魔核の存在にあった。
魔核、すなわちこれこそが水晶宮の心臓部である。――その心臓部である魔核の緑の輝きが、ヴィンセントの黒瞳に異常に高まっているのが見えた。
それの意味するところは――、
「――魔核に過負荷をかけ、水晶宮諸共に帝都を吹き飛ばすつもりか!」
「オルバルト、阻止した。『魔女』、途中で、止めた」
オルバルトの口にした『魔女』の仕掛け、その真意を察して戦慄するヴィンセントに、魔核――モグロ・ハガネの声がそれを裏付ける。
前述の通り、水晶宮の魔晶石を奇跡的に安定させているのは魔核の功績だ。その魔核に大量のマナを注ぎ込み、『魔女』はその処理能力に大きな負荷をかけた。それにより、魔核の制御機能を失わせ、魔晶石の均衡を崩して都市を吹き飛ばそうと仕組んだ。
そこまで理解したヴィンセント、その脳裏に一瞬の引っかかりがある。
「この場に『魔女』が居合わせたと? 炎上する以前の?」
「違う。『魔女』、燃えていない。オルバルトと自分、一緒に攻撃した」
「――――」
モグロの言いように、ヴィンセントの疑念は解消されない。
この戦場で『魔女』と呼ばれていたスピンクスは、チシャとナツキ・スバルの策にかけられ、その魂を焼き尽くされて消えたはずだ。
ならば、『魔女』は二体いたとでもいうのか。あるいは――。
「優先すべきはこちらの方だ」
逸れかけた思考を打ち切り、ヴィンセントは魔核を見下ろす。
オルバルトの奮戦により、魔核の暴走による帝都の崩壊は免れた――否、先送りになっただけだ。魔核の状態を見れば、すでにそれが安定を失っているのがわかる。
魔核には火が入ってしまった。もはや、その爆発は避けられない。
「――モグロ・ハガネ、これまで大儀であった」
その事実を確信したとき、ヴィンセントはモグロにそう声をかけていた。
『鋼人』モグロ・ハガネとして、この水晶宮そのものである『ミーティア』は、ヴォラキア皇帝であるヴィンセントによく仕えた。はっきり言って、実力以外は問題ばかりだった『九神将』の中で、モグロとグルービーをどれほど重宝したことか。
その忠臣であったモグロに、ヴィンセントが報いる術は一つだけだ。
「貴様の望みである、ヴォラキア帝国の安寧は必ずや果たそう」
「――。閣下、感謝する。閣下、嘘をつかない」
「たわけ、必要ならばいくらでも他者を欺こう」
「人、騙す。私、騙さない」
確信めいたモグロのその言葉に、ヴィンセントは微かに息を抜き、唇を緩めた。
この血の通わない石の人形であるはずの『ミーティア』は、権謀術数が渦巻く世界である帝国において、まやかしかと思うほど貴重な存在だった。
「……どうするつもりなんじゃぜ、閣下」
「魔核を台座より外そうと、それを持ち出す術がない。ならば、魔核の崩壊と水晶宮そのものの崩壊、どちらも燃やし尽くす他にあるまい。――『陽剣』ヴォラキア」
オルバルトに問われ、ヴィンセントは握りしめた『陽剣』を見やる。
ユーガルドを呼び寄せ、二振りの『陽剣』で――というのは意味がない。これから起こる事態で必要なのは、手数ではなく出力の話だ。
魔核と、それが内包する力を『陽剣』の焔で焼き尽くす。魔核から溢れ出す力が水晶宮を、帝都を呑み込んで吹き飛ばしてしまう前に。
おそらくは、全てはほんの刹那で片付くことになろう。
「それとも、他の案があるのか?」
「んや? 案どころか、降参したくても両手もねえのよ。閣下が思いつかねえなら、帝国どころか世界中見渡しても誰も思いつかねんじゃね?」
「――ふん」
腕のない肩をすくめた怪老に、ヴィンセントは小さく鼻を鳴らした。
世界中でヴィンセント以外に対策は思いつかないなどと、買い被ってくれたものだ。もしも、この場にいたのがヴィンセントではなく、スバルやチシャ、プリシラなら――。
「詮無いことを思うな、愚かなヴィンセント・ヴォラキアよ」
そう、自分自身を愚かと吐き捨て、ヴィンセントは両手で『陽剣』を構えた。
台座の魔核の輝きが増していくのを正面に、『陽剣』の輝きに、ヴォラキア帝国の至宝である真紅の宝剣に、当代のヴォラキア皇帝として力の発揮を希う。
次の瞬間、ヴィンセントの周囲――否、『陽剣』の周囲の空気が熱を持ち、ゆらゆらと蜃気楼の如く世界が歪み始める。塵は燃え、空気は炙られ、大気中のマナが強引に火属性のそれに塗り替えられ、『陽剣』の眩さを後押しした。
赤々とした刀身は発される熱、高まる焔の兆しに輝きを白くし始める。
「こりゃ、やべえのな」
同じ空間に居合わせ、『陽剣』のもたらす熱の影響をもろに受けるオルバルトが、その宝剣の力の高まりに静かな驚きを得ている。
そもそも、『陽剣』とは滅多に抜かれないものだ。存命の間に三代の皇帝を見ただろうオルバルトも、『陽剣』がこれほどの力を発揮したのを見るのは初めてなのだろう。
ヴィンセント自身、『陽剣』の力をここまで解放したのは初めてだ。
しかし――、
「――足りぬ」
かつてない力の高まりを感じながら、ヴィンセントは出力の不足を確信する。
高まり続ける魔核の圧と、水晶宮の建造に使われている魔水晶の割合から計算して、今の『陽剣』の出力では発生する爆発の威力を燃やし切れない。いくらか減衰させればいいという話ではない。求められるのは、完全なる消滅なのだ。
そしてそれは、ヴィンセントの不完全な『陽剣』では困難だった。
ヴィンセント・ヴォラキアの『陽剣』は、その真価を発揮できない。
理由は単純明快――ヴィンセントは実妹であるプリスカ・ベネディクトを生かし、正式な形で『選帝の儀』を終えていない。全ての帝国民を欺いて帝位に就いた、皇帝の資格を得ていない仮初の皇帝なのだ。
故に、『陽剣』ヴォラキアはヴィンセントにその真の力をもたらさない。
『陽剣』の真価に関しては、歴代皇帝の一人であるユーガルドも同じだ。
あくまで、『陽剣』は皇族の血筋によって屍人たるユーガルドにも力を貸しているが、その力の本命は当代の、本物の皇帝にしか宿らない。
不完全な『陽剣』で、挑むしかないのか。あるいは――、
「――俺の命と引き換えに」
対価を捧げ、『陽剣』の真なる焔の招来を求める。
今しがた、モグロと交わしたばかりの約束を反故にしかねない選択だが、それが必要だというならばヴィンセントはそれをする。
あらゆることは、ヴィンセントが選んできた道筋の結果だ。あらゆる選択の結果を積み重ねた果てに、今、ヴィンセントは立っている。
故に――、
「果たすべき責務が――」
「――そんなのないよ、アベルちん」
握りしめた『陽剣』に希い、命さえ燃える対価に差し出そうとしたヴィンセント。そのヴィンセントの手が、隣に立ったものの白い手に押さえられる。
集中のあまり、余所に割かなかった意識の隙間に寄り添ったのは背の高い女だ。横顔を覗き込んでくる青い瞳に、ヴィンセントは目を見張った。
「ミディアム・オコーネル……」
「えへへ、きちゃった」
「――――」
はにかみ、そう答えるミディアムにヴィンセントは言葉を見失う。
『陽剣』の熱が高まり続けるこの場所は、もはや只人が呼吸するのにも適していない。そんな場所に唐突に乗り込んできて、しかし、彼女は笑顔を浮かべていた。
笑顔で、彼女はヴィンセントの手を押さえたまま、
「アベルちんがでっかい責任を抱えてるのはわかるよ。でも、自分で死んじゃうとかダメ。あたし、そういうの一番嫌いだから」
「事の、重大さを考えよ。そもそも、貴様に意見する資格はない」
「ええ~! あるよ! あたし、アベルちんの奥さんになるんでしょ!?」
「それは……」
「いいって言ってた!」
「――――」
「言ってた!」
そう勢いよく押し込まれ、ヴィンセントはミディアムの剣幕に圧される。それはヴィンセントの命を狙うものや、潜在的な政敵からかけられる圧力とは違う。
ヴィンセントの中に、抗い方を用意していない類の代物だった。
「現実を見よ。いくら貴様が皇妃の座を惜しもうと、肝心の帝国が――」
そう押しのけようとした瞬間だった。
不意の衝撃に頬を打たれ、顔を弾かれたヴィンセントは驚きに瞠目した。瞠目したまま振り向き、ミディアムを見た。――皇帝の頬を叩いたミディアムを。
「あたしがアベルちんを心配する理由を、二度とそんな風に言わないで」
「貴様……」
キリっと頬を引き締め、ミディアムがそう言い放つのにヴィンセントは思わず目をぱちくりとさせてしまった。と、それを目にしたミディアムが「あ」と驚き、
「アベルちんが両目つむるとこ、あたし、初めて見たよ~」
そう破顔して言われ、ヴィンセントは何も言えなかった。
目は、開けておく。両目を同時に閉じることがあれば、皇帝の命を危うくする。それがヴォラキアの鉄則で、ヴィンセントは寝るときさえそれを守ってきた。
それを、破らされた。命を奪うためでなく、ヴィンセントを案じて頬を叩く女に。
「かかかっか! オイオイ、そんな場合じゃねえじゃろうに、傑作じゃね?」
そのヴィンセントの動揺を見て取り、瀕死の老体がうるさく口を出す。それに思考力と判断能力を取り戻し、ヴィンセントは歯を噛んだ。
一瞬、毒気を抜かれかけたのは事実でも、状況は何も変わっていないのだ。
変わらず帝都は、帝国は、世界は終わりかけている。それを――、
「大丈夫だよ、アベルちん、大丈夫」
奥歯を噛んだヴィンセントに、なおもミディアムがそう笑いかけてくる。
根拠のない、ただの希望を口にしただけの感情論だ。議論の場において、最も発展性がないものだとヴィンセントが心から厭うものだった。
――そんな厭うた感情論に、玉座を追われてから何度苦しめられ、救われてきたか。
「――どうです、閣下? うちの妹分はなかなか大したもんでやしょう?」
そのときだった。
ヴィンセントの沈黙の理由、それをまるで我が事のように、自分も同じ目に遭ったみたいに見透かしたような声がしたのは。
△▼△▼△▼△
結局、何をやらしても中途半端だったとバルロイ・テメグリフは自嘲する。
生きていたときも帝国に尽くし、帝国に逆らった。
そして死んでからも帝国に逆らい、最後には――、
「帝国に尽くして、なんてあっしのガラじゃないんですがね」
そうこぼしたバルロイの胸には穴――最悪の魔法使いの魔弾で貫かれ、開いたままになっている敗着の証がある。
――バルロイの願いをかけた戦いは、手段を選ばない敵への完敗に終わった。
件の魔法使いは「紙一重で、どちらが勝ってもおかしくなかったーぁよ」などと言ってはいたが、それは耳心地のいい嘘に過ぎない。
おそらく、あの男とは百回やって百回バルロイが負ける。そういう相性だ。
一個の目的のため、どこまでも冷酷になれる。
結局のところ、やり残しや未練を理由に蘇ったにも拘らずそれを貫けなかった時点で、バルロイは屍人よりも血の冷たい相手には敵わなかったのだ。
ミディアムを放り捨てられ、見過ごせば死ぬとわかっている妹分を見捨てられなかった。それがバルロイの弱さで、また負けた理由の全部だ。
「違うよ。バル兄ぃは優しいからだよ」
バルロイ自身が納得する敗着の理由に、しかしミディアムは納得しなかった。
弱さや甘さを優しいと評するミディアムは、背丈が伸びてもその性根の真っ直ぐさと、晴れやかな笑顔がちっとも衰えない自慢の妹分だった。
そう、妹分だ。バルロイは本当に、出会いに恵まれた。
セリーナも、フロップも、ミディアムも、マデリンも、みんなそうだ。
相棒のカリヨンは言うに及ばず、『将』として駆け上がっていくバルロイと並んでくれた大勢の帝国兵、そして『九神将』たちも。
だけど、でも、その全部の出会いへ感謝していても、手放せなかった。
それが――、
「それでも、バル兄ぃはやめらんなかったんだよね」
涙ぐみながら、そう微笑むミディアムの姿にハッとさせられた。
出会った頃から全然変わらないと思った彼女は、それでもちゃんと成長し、少女から女性になって、こんな風に違う笑い方もできるようになっていたのだ。
自分だけが、変わらないままずっと、同じ場所で足踏みを。
「……『魔女』が蘇らせられる相手は、帝国で死んだ相手限定だそうで。その縛りを解くには帝国を滅ぼして、その先の、王国やら都市国家やらに範囲を広げるしかない。それができてようやく、そうやってようやく……」
「――マイルズ兄ぃに会える?」
「――――」
「わかるよ。だって、あたしはずっとバル兄ぃを見てたんだから」
そのミディアムの言葉に、バルロイは痛切な二つの感情を得た。
片方は自分の心の内を知られていたことの自嘲で、もう一個はわずかな嫉妬だ。ミディアムの初めて見せている微笑の、その意味がわかる。
「ミディ、惚れた男がいるんで?」
「え!? い、いないよ? ……たぶん」
「目をつむって、最初に笑った顔が思い浮かぶ相手がそうでやしょうよ」
「そんなのあんちゃんだよ! それに、アベルちんはちっとも笑わないし……ぁ」
口に手を当てて、頬に朱を上らせるミディアム。その妹分のまたしても初めて見る反応にバルロイは笑った。笑い、ゆっくりと体を起こす。
バルロイは本当に、どこまでも中途半端だ。
それを嫌がって、自分を負かしたあの魔法使いみたいに全部割り切れれば、もしかしたら違った自分になれるのかもしれない。
「そんな冷血漢、願い下げでさぁ」
ああはなれない。ああはならない。
生きていた頃から中途半端だった自分は、死んでもやっぱり中途半端なままで。
そんな生き死にも、願いと恨みも曖昧な自分だから、こうも言える。
「それじゃ、ミディの惚れた男でも助けにいきやすか」
「まだわかんないんだってば!」
顔を真っ赤にして、幼い頃とも少女時代とも違う顔で、そんな風に言い張られても説得力なんてありはしない。
ミディアムにこの顔をさせて、それでも彼女を悲しませるようなら、そんな相手はバルロイがこの手で殺してやる。自分を棚上げして、そう思った。
「――ッッ」
そのバルロイの身勝手な兄心に、一心同体のカリヨンが上機嫌に嘶いた。
△▼△▼△▼△
――その瞬間、生者と死者を区別せず、帝都にいた全てのものが空を仰いだ。
それが何故だったのか、説明できるものはいない。
自分が空を仰いだ理由であれば、説明できるものも多いだろう。感覚の鋭いものは強いマナの波動を感じ取り、耳のいいものであれば高らかな飛竜の嘶きを聞いた。直前に放たれた魔晶砲の出所に目を向けていたものや、城を目的地としていたものも。
だが、いずれも自分の理由は説明できても、全員の理由は説明できない。
できるとすればそれは、この世界の理を自分の中で決めつけている花形役者だけで、その彼に言わせれば単純明快――、
『――もちろん、誰かのクライマックスだからですよ!』
そう声高に、晴れやかな笑みで堂々と言い切ったことだろう。
そしてそれを否定できるものは、このヴォラキア帝国においては一人もいないのだ。
それは実力が理由であり、実力以外の理由で唯一、その花形役者に否やを突き付けられるものは、空を仰ぐ理由を目の前で見送ることになった。
――ぐんぐん、ぐんぐんと、眩く輝く緑の光が水晶宮の直上の空へ線を引く。
引いていき、引いていき、それはいつの間にか、帝都の空にあった全ての雲を集めたような巨大な雲海へと飛び込んでいって――。
「――――」
――瞬間、まるで空が瞬きするように、わっと世界は眩く瞬いたのだった。