第八章63 『唇に奇跡を含んで』
斬り上げる刃を斜めに浴びた瞬間、生涯――否、生前と死後を合わせて、初めての敗北を味わったものとユーガルド・ヴォラキアは覚悟した。
自分と剣を交え、対等に渡り合い、あまつさえ競り勝ったものは初めてだ。
その技量を見事と称賛する一方で、敗れてはならない勝負所で敗北した事実が、もはや鼓動を打つことのない心の臓を収めていた胸を疼かせる。
望むべくもない望みが叶い、こうして再び巡り合えたアイリスと、まだほとんど言葉も交わせていない。触れ合えていない。愛しさを伝え切れていない。
それでも、ユーガルドはアイリスとの再会が叶った。
ユーガルドとアイリスが望みを叶えるため、同じように愛するものと言葉を交わし、触れ合い、愛を伝えたくとも叶わなかったものたちがいるだろう。
それと同じことが、ユーガルドとアイリスの星の巡りにも起こった。
――そう、思おうとしたものを。
「この刀の使い手として僕は全然素人やし、なんぼなんでも一振りするだけでごっそり気力持ってかれてえぐいなぁって感じなんやけど」
その胸に呪いの証である茨を宿し、禍々しい力を纏った『邪剣』を振り切った漆黒の狼人――ハリベルがそうこぼす。
その表情が、同族というだけでまるで似ていない見知った狼人を思い出させた。
記憶の中、彼も時折、こんな目をしてユーガルドを見ていた気がする。
「持ってった気力の分、ちゃぁんと仕事はするんやから憎めん刀やねえ」
ユーガルドのその刹那の感慨を余所に、ハリベルは続ける。
それが手にした刀――『邪剣』ムラサメに対する感想であることはわかる。だが、その物言いは『邪剣』の秘めたる力が勝利に役立った、というそれと違って聞こえた。
まるで、『邪剣』は勝利以上のものをハリベルにもたらしたように――、
「――屍人の、妄念か?」
斬撃を浴びた我が身を確かめて、ユーガルドは言葉にできない感覚を言葉にする。
屍人の身で蘇ったユーガルドには、一種の強迫観念――帝国の生者に対する、本能に訴えかけてくるような敵愾心と暴力的な衝動があった。
おそらく、ユーガルドに限った話ではない。その上、ユーガルドはその強烈な衝動を、それ以上のアイリスへの想いで押しとどめていた。
それでも、蘇りを起こした首魁には逆らえず、その思惑に最低限従うしかなかったユーガルドは、ここで髭犬人やハリベルと剣を交えることとなったのだ。
その、逆らえず抗えない強制力が、消え去っていた。
鈍く禍々しい妖気を纏った『邪剣』に断ち切られたように、消え去っていたのだ。
△▼△▼△▼△
「故に、今や余の中には我が星への想いしか存在せぬ」
片手をこちらの頬に添え、そう柔らかに語りかけてくるユーガルドに、アイリスであり、ヨルナでもある女――アイリス=ヨルナは言葉を失い、魅入るしかなかった。
熱のない青白い肌ではなく、瞳も漆黒に金色を浮かべた偽物ではない本来の青。
屍人として蘇ったことと無関係に表情筋の動かない人だったと、その真顔が思い出させてくれる。
――それは紛れもなく、アイリス=ヨルナの知るユーガルド・ヴォラキアその人だった。
「御免状なしに割り込んで眼中にないたぁひでえ御仁だ」
その二人の再会を、威勢のいい嗄れ声が邪魔をする。
言葉の内容とは裏腹に、突然の乱入者を歓迎するように声を上擦らせ、屍人の剣士――『屍剣豪』が舌なめずりするような眼光をユーガルドに向けた。
その『屍剣豪』の眼差しに、ユーガルドはやはり表情を小揺るぎもさせず、
「そなたの一芸には目を見張るものがあるが、生憎と時機が悪い。余の限られた時間の全ては我が星のために費やしたい」
「そうつれないことを言うものじゃあござんせ――」
淡々と望みを告げたユーガルドに、『屍剣豪』は聞く耳を持たない。――否、聞く耳を持たないと答えようとして、答え切れなかった。
「離れなさい!」
そう鋭く叫び、アイリス=ヨルナの腕の中で小さな体が回転、氷の下駄を履いた足が猛然と空を奔り、『屍剣豪』の胴を強烈に蹴り払ったからだ。
「なんの!」
その少女の蹴撃に屍人は腰の鞘を合わせ、直撃を免れて後ろに下がった。
衝撃は消し切れたものではないが、『屍剣豪』はやり返されたことに怒りよりも喜びを感じた凶気的な笑みを浮かべ――、
「ていや!」
その凶笑が、豪快に振り下ろされる氷槌に叩き潰された。
後ろから飛びかかった一撃に頭から爪先までを押し潰され、その『屍剣豪』の個体は木端微塵に砕け散る。とはいえ、安堵はできない。
この程度で倒せるなら、すでに五十回は『屍剣豪』を倒せているはずだ。これまでと同じく、あの屍人はいくらでも蘇ってくるだろう。
ただ、その『屍剣豪』への対応の前に――、
「――ふむ、童とは思えぬ気持ちのこもった一撃だ。その将来性を鑑み、無礼を許そう」
「ヨルナ様から離れてください」
「た、タンザ! 閣下に……閣下になんてことを!」
悲鳴を上げるアイリス=ヨルナの視界、そこでユーガルドの『陽剣』の柄と、タンザの氷の下駄がかち合い、ギリギリと軋む音を立てている。
アイリス=ヨルナを守るため、『屍剣豪』を蹴り飛ばしたタンザだが、彼女の狙いにはあの屍人だけでなく、唐突に割って入った見知らぬ皇帝も含まれていた。
突然のことで、タンザがユーガルドを敵味方区別できなくて当然だが。
「だからって、いきなりはダメでありんしょう……! 閣下、わっちのタンザが申し訳ありんせん。この子に悪気は……」
「そう悲痛な顔をするな。余はそなたであればどのような顔も愛おしく思うが、懸命に訴えるそなたを愛で続けたいと思うのは心が咎める」
「こ、こういう人でありんした……っ」
アイリス=ヨルナがタンザの弁明に言葉を尽くすも、ユーガルドからの返事は芯を食っていない印象が否めない。こんなことは、ユーガルドとの日々では日常茶飯事だ。
そう、ユーガルドとの時間で、これは日常茶飯事だった。
「……ヨルナ様」
きゅっと、抱きしめる腕により力を込められ、タンザがアイリス=ヨルナを呼ぶ。
この腕を振りほどいてユーガルドに飛びかかれるほど、タンザは平静も見境も失っていない。関係性はわからなくても、ユーガルドがアイリス=ヨルナに敵意がないことは彼女もわかってくれたはずだ。
あとは――、
「ねえ! まだゆっくりお話しするのは早いかもしれないの!」
そう駆け寄ってくるのは、タンザと一緒に『屍剣豪』と戦っていたエミリアだ。
後ろから容赦なく氷槌で屍人を叩いた彼女は、アイリス=ヨルナとタンザの傍にいるユーガルドを紫紺の瞳で見つめると、
「あなたは私たちの味方でいい?」
「それで構わぬ」
「よかった! あなた、すごーく強そうね! 頼りにさせて!」
「承知した。任せるがいい」
ユーガルドの即答を受け、エミリアが安心したように胸を撫で下ろす。
一瞬で敵味方の見極めを消化した彼女にアイリス=ヨルナは目を瞬かせるが、ハーフエルフである彼女の境遇を思えば、一般的な感性の話などするのもおこがましい。
ともあれ――、
「閣下、そのお体は……」
「残念だが、燃え尽きるまでの残り火に過ぎぬ」
「――――」
そう告げるときさえ、ユーガルドはアイリス=ヨルナから目を逸らさず、表情を悲しみや寂しさに歪めることをしなかった。
アイリス=ヨルナも、そうして一切容赦なく、言ってくれるのを期待していた。
そうやってアイリス=ヨルナを真っ直ぐ見つめたまま、ユーガルドは続けるのだ。
「だが、燃え尽きるまでのわずかな時は、余の全てはそなたのものだ」
「――はい、閣下」
ただアイリス=ヨルナを悲しませ、寂しがらせて終わるだけのことをしないために。
この誰からも恐れられた優しい『茨の王』は、いつだって自分が茨以外で誰かを傷付けることがないように、その心を静謐に波打たせているのだから。
「全然、全然……幸せなことでありんす」
たとえ限られた時間でも、ユーガルドと触れ合い、言葉を交わせる。
あの日々の最後、自分には――アイリスには果たせなかったことだ。そしてそれを果たせなかったせいで、とてもたくさんの犠牲を出してしまった。
その後悔を、過ちを償うために、アイリスはヨルナとして帝国に――、
「――その手の宝剣、『陽剣』ヴォラキアとお見受けいたす」
ふと、熱を抑えた嗄れ声が聞こえて、アイリス=ヨルナたちは顔を上げた。
集まった四人から少し離れた位置に、ゆっくりと地面から起き上がるように一体の屍人が現れる。そのまま次々と、大きな石の裏から虫が湧くように、次々と次々と、おぞましき妄執に支配された『屍剣豪』が現れる。
それらは一様に、個性なく、一糸乱れぬ動きで金瞳を輝かせ、凶気的に笑む。
「世界に名だたる伝説の刀剣、ドラ息子が持っていやがる『夢剣』と『邪剣』に並ぶ理外が鍛えた魔具神器……目にはしても、交える機会にはとんと恵まれんでござんして」
「……ここまでして、武人の血が騒ぐとでも言うでありんすか」
「お恥ずかしい話……その通りでござんす」
恥ずかしいなどと、口先だけで微塵も感じていないだろう。それは爛々と輝きを増していく双眸と、冷たい熱を感じさせる凶笑から痛いほど伝わってくる。
他の屍人と比べても、明らかに異常な『屍剣豪』の鬼気と妄執に、アイリス=ヨルナは実力以外の部分で気圧され、情けなさに自分の手を握りしめた。
その強く握った手が、腕の中のタンザの手で優しく包まれる。
「童よ、そうして我が星の手を握り、寄り添い続けることを許す」
「……お許しをいただかなくてもそうさせていただきますが」
憮然としたタンザの声は、ユーガルドの怜悧な横顔を崩せない。が、ユーガルドがその返答を快く受け止めたのがアイリス=ヨルナにはわかった。
そのまま、十、二十ととめどなく増える『屍剣豪』へと足を進めるユーガルドに、エミリアも張り切った顔で並ぼうとする。
そのエミリアを、ユーガルドは視線で引き止めた。
「助力の意思やよし。だが、余に任せよ」
「でも、あなただけじゃ……」
「――ユーガルド・ヴォラキア、それが余の名だ」
「ヴォラキア……それって」
名乗ったユーガルドの家名に目を見張り、エミリアがアイリス=ヨルナの方を見る。その視線に頷いて答え、アイリス=ヨルナはユーガルドの背を見送る。
ユーガルドは『屍剣豪』たちと、十メートルほどの間合いで向かい合った。
「ユーガルド・ヴォラキア……もしや、『荊棘帝』じゃござんせんか?」
「自称したことはないが、余をそう呼ぶものもいる。帝位にあった余を端的に言い表したよい表現だ。後世の歴史書にも残しやすかろう」
「はは、ははは! なんとなんと! 神聖ヴォラキア帝国歴代皇帝最強! そんな御方とお会いできるとは……やはり、某は持ってござんす!」
声を弾ませ、『屍剣豪』がますます凶的な剣気の圧を増す。
相対したのが『荊棘帝』ユーガルド・ヴォラキアと知ってなお、『屍剣豪』は恐れおののくどころか尋常ならざる理屈で己を鼓舞した。
その、『屍剣豪』たちの金瞳がギラリとユーガルドを、その『陽剣』を見やる。
「某が皇帝閣下に勝てば、『陽剣』はいただけるんで?」
「相応しきと剣が認めればそうなろう。しかし、易々とは譲れぬ」
「ほう」
「この剣を余の手の内で真のものとするため、多くの臣下が命を懸けたのだ」
そうユーガルドが口にした多くの臣下、その全員を共有できるアイリス=ヨルナだけが、誰よりも恐れられた優しい『茨の王』の情熱を理解できる。
――そのアイリス=ヨルナが見守る前で、ユーガルドが『屍剣豪』が同時に動いた。
「――し」
短く鋭い呼気、稲妻のような踏み込みが彼我の距離を消滅させた。
二十の同一人物が四手に分かれ、閃く剣光が渦巻く風のようにユーガルドへ迫る。
一級品の剣技を束ねて集め、超級へ至らせんとする凡庸なるものの蛮行――剣風を凌駕した剣嵐とでもいうべき斬撃、それにタンザとエミリアが息を呑む。
しかし、アイリス=ヨルナは欠片も疑わなかった。
襲いくる二十の斬撃――だが、その斬り合いは正しく一合で決着する。
刃の形をした『屍剣豪』の大嵐、それは全方位からユーガルドを狙った。
しかし、その刃が『茨の王』に届くより早く、煌々と光り輝く『陽剣』が一閃――迫った二十の刃をことごとく焼き払い、真紅の切っ先が『屍剣豪』の首を薙ぐ。
「この程度――っ」
首を抉られ、それでも致命傷を受けたのは正面の一人。
刃を断たれようと、まだ十九の自分が、あるいは次々と溢れる他の自分が届くと『屍剣豪』は頬を歪める。
だが、死してなお次があることが自分の強みと思い違いしているのなら――、
「おしまいでありんす」
――次の瞬間、斬られた『屍剣豪』の全身が燃え上がり、それが他の十九の『屍剣豪』たちにも延焼、一斉に全員が焔に呑まれる。
「――な、ぁ」
ユーガルド・ヴォラキアの手の中で、『陽剣』ヴォラキアがその真なる焔を発火、斬撃を浴びた『屍剣豪』の根源たる魂を火種に焔が立ち上る。
奇しくも、それはヴィンセント・ヴォラキアの『陽剣』が、『大災』の担い手となった『魔女』スピンクスの魂を燃え上がらせたのと同じ結末だった。
「か」
「ぐぐ」
「――ォォォ!」
凄まじい業火に揉まれ、『屍剣豪』が次々と灰燼と帰す。燃える個体が滅びるたびに新たな個体が蘇り、補充されるが、それもまたやはり炎に呑まれる。
何度も何度も、繰り返し繰り返し、例外がないとわかるまで十体以上の自分の炭屑を転がして、『屍剣豪』は消えぬ炎に焼かれ続ける自分の両手を見下ろす。
そして――、
「ああ、ああ、チクショウめ。ここで、終われるものかよ……っ!」
炎に焼かれた喉から不明瞭な声をこぼし、屍人の剣士が燃える頬を歪める。
一瞬、それは敗北を認められないものの最後の悪足掻きを想像させたが、その懸念は燃え尽き、炭屑となって崩れ去る『屍剣豪』の末路に否定される。
ボロボロと、崩れる両手を天に伸ばし、『屍剣豪』の姿が消えていく。
やがて――、
「――消えて、なくなった?」
同じものを目にしながら、確信を持てないでいるタンザの声。
彼女に手を握られるアイリス=ヨルナは、その小さな手を空いた自分の手で包み返してやることで、タンザの不安に大丈夫だと答えを与える。
「……あの人、全員燃えちゃったの?」
「いささか適切な表現を探すのが困難だが、そうだ。『陽剣』の焔は所有者の望んだものを焼き尽くす。魂であれ、例外はない」
「そう。……ありがとう、すごーく助かった」
そう感謝を告げたエミリアは、しかし燃え尽きた『屍剣豪』のいくつもの炭屑に憂うような目を向けていた。
たとえ、相手が屍人であろうと、屍人の特性を禍々しく利用した相手であろうと、その命が失われた事実がエミリアの紫紺の瞳を揺らしている。
そうしたエミリアと同じ感覚は、かつてアイリス=ヨルナにもあった。――幾度もの生を重ねるうちに、手放さざるを得なかったものの一つだと思う。
ただ、手放せなかったものもある。
「――我が星」
改めてそう呼ばれ、アイリス=ヨルナはユーガルドを正面に迎えた。
屍人として蘇り、その忌まわしい頚木から解き放たれたユーガルド。その整った優麗な顔立ちも、声量と比べて胸に響きすぎる声も、あの日の続きだ。
しかし、それだけでは説明のつかないこともあった。
「閣下、茨は……」
他者を縛め、心の臓へと棘を突き立てる『茨の呪い』。
ユーガルドを孤独にし、彼がアイリスと特別な時を共有する切っ掛けとなったそれは、死してなお彼の魂に絡み付き、逃れることを許さない呪縛だった。
それが今、感じられない。アイリス=ヨルナだけでなく、タンザやエミリアにも。
それはすなわち、ユーガルドが『茨の呪い』から解き放たれたということだ。
「呪いが、解かれたでありんすか?」
「――そうではない。『茨の呪い』は解かれず、残っている。呪いは余の内ではなく、別のものへと移し替えられたのだ」
「移し替えられた……? そんな、そんなことができるでありんすか?」
「あのものは可能とした。余の生前の時代では成し遂げられなかったことだ。あれより時が流れ、数多の叡智が生まれ出でた。見事な世だ」
ユーガルド・ヴォラキアが、『茨の呪い』から解放された。
静かに顎を引いたユーガルドの答えには、それを成し遂げたものへの強い敬服の念が込められていた。元よりユーガルドは、他者を称賛し、認めることを厭わない性格だが、そこには皇帝や皇族として以上の、一個の命としての感服があった。
「閣下の、呪いが……」
一方で、アイリス=ヨルナはユーガルドの答えに言葉が出なくなる。
あくまで、『茨の呪い』は消えたわけではないと、物事を正確に表したいユーガルドの性分はわかっていても、それはアイリス=ヨルナにとっての悲願の成就なのだ。
たとえ死後であろうと、ユーガルドの魂が『茨の呪い』と離れられたなら。
「ヨルナ様、この方は」
「タンザ、こちらの御方はユーガルド・ヴォラキア皇帝閣下……わっちの、わっちの愛する、困ったお人でありんす」
そのアイリス=ヨルナの紹介に、タンザが微かに目を丸くする。それから顔を上げる彼女はユーガルドと見合い、しばしの躊躇ののちに、
「タンザと申します。ヨルナ様の侍従を務めております」
「そうか、タンザ。余の不在の間、我が星がそなたの世話になった。大儀である」
おずおずと、そう述べたタンザにユーガルドが頷く。
互いの顔と顔が見える距離で、声と声が届く距離で、手を伸ばして触れ合おうとすれば触れ合える距離で、ユーガルドとタンザが、言葉を交わした。
かつて、痛みに顔をしかめずにユーガルドとそれができたのは、アイリス以外に誰一人いなかったというのに。
「私はエミリア、ただのエミリアよ。ユーガルド、まだ手伝ってくれる?」
そのアイリス=ヨルナの感慨に相乗りするように、エミリアもユーガルドに躊躇なく話しかける。
彼女の言葉にユーガルドは「無論だ」と顎を引くと、
「余を、長く苦しめた茨より解き放ったもの……グルービー・ガムレットから託されたものがある。余は、彼奴の代わりを果たさねばならぬ」
「グルービー……あちら様が、閣下の呪いを」
「我が星」
「は、はい」
恩人の名前の発覚に気を取られ、急な呼びかけに村娘のような声が出る。
刹那、ユーガルドの空気が柔らかくなったのが、そのアイリス=ヨルナの反応を愛らしいとでも思った証拠と思ったが、それには触れない。
ただ、ユーガルドはその青い瞳にアイリス=ヨルナを捉えたまま、
「余の全てはそなたのために費やしたい。その言葉に嘘はない。故に――」
「言われずとも、ご一緒するでありんす。――もう、片時も離れたくありんせん」
あなたが失われてしまうその瞬間まで、この奇跡を唇に含んでおきたい。
それが、アイリス=ヨルナの偽らざる心からの答えだった。
△▼△▼△▼△
――魂の焼け焦げる臭いが鼻をつく。
痛みは感じない。全身が炎に巻かれ、焼け爛れていく熱もそよ風のようだ。
ただし、このそよ風は振り切ることもできず、新たに作り出される体をことごとく灰か炭屑に変えて、その存在を終わらせようとしてくる。
水を浴びても消えない。他に燃え移らせようとしても燃え移らない。燃え始める部位を斬り飛ばしても、即座に全身が発火する逃れ得ない終局の炎――そう、終局だ。
感覚がある。わかる。この焔は消えない。終わりまで、消せない。
「ああ、ああ、嗚呼、なんてこったい……」
自らに刃を浴びて、屍人の身に落ちてまで極めようとした剣の道。
その道の行き着く先の道中で出くわした『陽剣』の焔が、ロウアン・セグムントという天剣に焦がれた男の魂を焦がし、焼き滅ぼそうとしている。
あの場に残り続けることを拒み、ロウアンは戦場を離れ、駆ける。
踏み出す足がボロボロと崩れ、次の一歩で下半身が失われれば、余計な時間はかけまいと自らの首を刎ね、その亡骸の次の一歩を次なる自分に踏ませる。
それを繰り返し、ロウアンは走る。――『荊棘帝』から遠ざかり、辿り着かなければならない場所に、燃え尽きる前に辿り着くために。
「なんてこったい……某は、やっぱり、持ってる」
その全身から火を噴きながら、ロウアンは凄絶な笑みを浮かべる。
自ら屍人に成り果てて、ロウアンは己の魂の在り方を肌で理解し、『天剣』へ至るための階に爪先をかけた。その次の一段を確実に踏むための、次なる試練だ、これは。
ロウアンの魂は、そう遠くないうちに燃え尽きるだろう。だが、消える寸前の蝋燭の火が、最も強く燃え上がる。
――ロウアン・セグムントにとって、『天剣』に至ることは生涯の悲願だ。
そのためなら誇張なく命を投げ出せるのは証明した通り。
事実、ロウアンは死を体験し、自分の魂の形を知ることで着実に願いに近付いた。
そして、ロウアンは『天剣』に辿り着けさえすれば、それが一秒でも構わない。
自分の魂が燃え尽きる前の、ほんの一秒、たったの刹那でも至れればいい。
そのために必要なのは――、
「――おやおやおや、誰かが猛然と走ってくると思えば燃えて登場とは! これはこれはなんともド派手な演出じゃありませんか」
聞こえてきた声、燃え尽きる前に辿り着きたかった場所。
その声の主を燃える視界の彼方に見つけ、ロウアンは自分の宿業に感謝する。
辿り着きたかった場所にはこられた。あとは、辿り着くだけだ。
そう、燃えながら嗤うロウアンを前に、褐色の肌の少女を腕に抱いた少年が笑う。
当然であり皮肉にも、ロウアンと似た部分のある笑みを浮かべ、少年は言った。
「今、初めて父さんに思いました。――嫌いじゃないです、むしろ好き」と。




