第八章60 『魔女』
帝都ルプガナの水晶宮、かつては謁見の間だったその場所で、忍び込んだシノビであるオルバルト・ダンクルケンは、肘から先のない右腕を振り、白眉を顰めた。
「やっとこ動かなくなったかよ。ったく、ジジイに気の滅入ることさせすぎじゃぜ」
ゆるゆると肩をすくめ、嘆息したオルバルトの眼前、そこにシノビの怪老をもうんざりさせた異形――その姿かたちをおぞましく作り変えられた、もはや屍人とすら呼ぶこともおこがましい、異貌のモノの残骸が転がっている。
その異形異様のモノへの仕打ちを、オルバルトは介錯だとみなしていた。
死した屍人は記憶を持ったまま蘇る。加えて、屍人を蘇らせるためには帝国の大地を支える『石塊』のマナを消費する。――故に、屍人殺しは最小限の指示だ。
「それでも殺してやった方がいい。ワシにそう思わせるとかヤバすぎるじゃろ」
人命の尊重だとか弱者への慈悲だとか、そういった心に余裕のある人間しか持てないゆとりを、老い先短くゆとりのないオルバルトはとうに捨て去っている。
そのオルバルトをして、謁見の間――否、『魂』の実験場は度を越していた。
「アラキを造った連中を思い出させるんじゃぜ、このやりよう。遊びでも復讐でもねえのにこういうことしやがるから始末に負えねえのよな。始末したんじゃけど」
そうこぼすオルバルトの脳裏に、過去に始末したとびきりの外道集団が思い浮かぶ。
アラキアという『精霊喰らい』の完成形を作り出すため、膨大な数の犠牲者を出した下手人たちは、その動機を使命感だとか帝国の未来のためだとか語った。
この謁見の間の惨状――土塊でできた器で蘇る屍人たちの魂に手を加え、魂が混ざったモノや変貌したモノ。この戦争に勝つためではなく、目の前の勝敗を度外視した目的のために行われた蛮行。異種異様なそれらを生み出した経緯にも、それらの外道たちと同じような、感情と切り離した成果を求める探求心を感じる。
そしてその探求の目的は、オルバルトも一端に触れられるからわかる。
「――魂に手を加えようとしてやがんのよな」
シノビの術技で他者の魂――オドを丸め、縮める技をオルバルトは使える。チシャにも盗み取られたそれは、しかし、あくまでその表層を撫でているだけだ。
だが、この探求者はそれ以上の成果を求めている。
それが具体的に何なのか、探求者を知らないオルバルトには知る由もないが――、
「いや~な予感がするんじゃぜ、閣下。――やっぱり、ワシの裏切る余地なくね?」
△▼△▼△▼△
――『亜人戦争』における亜人連合の敗北と、スピンクス個人の敗北。
その敗北に関して、多くを語る言葉をスピンクスは持たない。
三百五十年以上も生きたが、その月日のほとんどを隠れ潜み、生き延びることに費やし続けたスピンクスでは、彼女を討つと決めて鍛えた相手には敵わなかった。
起こった出来事を語るなら、ただそれだけの話である。
正直なことを言えば、『強欲の魔女』の弟子に倒され、敗死を目前としたスピンクスの脳裏には、これもやはりさしたる感慨はなかった。
元々、命に対する執着はないに等しい。長い年月を生き延びることを最優先に費やしたのは、そうすることが造物目的を果たすために合理的と考えたから。
そしていざ、その造物目的を果たせずに消えようというときにも、最後まであったのは造物目的を手放し難いという本能的な忌避感だけだった。
だから、決戦の地となったルグニカ王城の地下へ逃げ込み、そこで一度は『強欲の魔女』の弟子を振り切る気力を発揮したのも、その本能に従った結果だ。
ただ、その命に対する執着のない逃走劇が、スピンクスの運命を変えた。
「――貴様には使い道がある。役立ってもらうぞ、私の望みを叶えるために」
その男の濁った瞳には、強烈なまでの野心の炎が揺らめいて見えた。
△▼△▼△▼△
――『陽剣』ヴォラキアの焔は、滅ぼすと決めたものを焼き滅ぼす。
ヴィンセント・ヴォラキアとナツキ・スバルの画策は、皇帝が真紅の宝剣を何らかの理由で手放したと、そうスピンクスに信じ込ませた。
結果、壮絶な命の駆け引きの末に、騙し合いに敗れたスピンクスを焔が焼く。
『魔女』スピンクスへと届いた『陽剣』の刃は、屍人として蘇った『大災』の担い手の魂へと赫炎を届かせ、ヴィンセントたちと対峙する複数のスピンクスを、水晶宮に待機するスピンクスを、帝都の各戦場を観察するスピンクスを、帝国全土へと攻撃を開始するはずだった無数のスピンクスを、一斉に燃え上がらせた。
「――要・対策です」
赤々とした炎に焼かれながら、斬られたスピンクスがそう呟く。だが、痛覚に乏しい屍人の利点を活かしても、焼失する己を長く留めることはできない。
では、すでに焼かれた複数の体を放棄し、この『死』を糧に学んだ新たなスピンクスで計画を遂行するか。――否、不可能だ。
『陽剣』の焔は、スピンクスの魂を燃やしている。
新たな屍人のスピンクスを生み出そうと、その根幹である魂が燃えている以上、土塊の体は燃えながら作られることを回避できない。
「――――」
対策はない。そんな手詰まりの感覚を伴い、このスピンクスの体が崩壊する。
焼け死に、この『死』を学んで次へ向かっても、再構築されたスピンクスの体は燃え上がり、やはり対策はないと結論付けながら終わっていくだけ。
終わり、終わりだ。長い時間をかけて世界を巡った『強欲の魔女』の出来損ない、スピンクスの探求の旅は、ここで幕を閉じる。
手を尽くし、十全に罠も張ったが、及ばなかった。
それはかつて、『亜人戦争』の折に味わったのと同じ敗北だ。あのときも、スピンクスは手を尽くして及ばず、敗死する他になかった。
そうならなかったのは、スピンクス自身の行動ではなく、外野からの干渉が理由だ。
そして今回、それと同じことを望むことはできない。
だって、もう、あのときスピンクスを救った、あの野心の持ち主はいないのだ。
ライプ・バーリエルは死んだ。だから、もう――、
「――要・検討です」
不意に、焼かれるがまま、滅びを迎えるはずだったスピンクスは動いた。
その全身に『陽剣』の焔を灯したまま、スピンクスは自分の顎下に指を当てて、頭部にいる核虫ごとそれを吹き飛ばし、『死』を引き起こした。
そしてそれが、戦場に、帝都に、帝国全土にいるスピンクスが連鎖的に実行する。
「「――要・検討です」」
自棄を起こしたわけではない。希死念慮に支配されたわけでもない。
ただ、スピンクスは死ぬことで、その記憶を魂へ統合できる。無数のスピンクスが一斉に死に、無数の記憶を統合することで、自分自身という集合知を積み立てる。
無論、その記憶が集まってくる魂は焼かれ、燃え尽きるのも時間の問題だ。
しかし、燃え尽きるまでの間、スピンクスは生まれながらに焼かれる自分を造り続けることで、状況と対策の検討と討議を無数に積み重ねる。
かつては、『死』に何の感慨もなかった。だが、今は、違った。
「「「――要・抵抗です」」」
抗い、抗い、抗いながら、スピンクスはあらゆる可能性を搔き集め、検討する。
各頂点の決着、水晶宮での魂の実験、ヴォラキア皇族の歴史、『精霊喰らい』、王国からの異物、『星詠み』、天命、『大災』、あらゆる可能性を、万象の欠片を。
――そして、
△▼△▼△▼△
――牢に繋がれるプリシラは、目の前のスピンクスに起こった一連の出来事の全てを、その紅の双眸でしっかりと目撃していた。
突如として、その全身を赤い焔で燃え上がらせた『魔女』、それがヴォラキア帝国に伝わる『陽剣』のもたらした赫炎と、プリシラには一目でわかった。
その赫炎を『魔女』へ届かせたのが、ヴィンセント・ヴォラキアであることも。
「ようやく伏せ札をめくったか。本当に、どこまでも食えぬ兄上よ」
ヴィンセントが『陽剣』を抜かず、切り札として温存していたことは、同じくヴォラキア皇族であるプリシラには自明の理だった。無論、『陽剣』の持つ厄介な特性上、ヴィンセントが軽はずみにそれを頼れなかったのも道理ではある。
ともあれ、騙し合いに敗北し、『魔女』は焔に滅ぼされる――はずだった。
「貴様、何をした?」
「――要・検討を」
『陽剣』の炎は焼きたいものを焼き、『陽剣』の刃は斬りたいものを斬る。
その道理を曲げることはできない。にも拘らず、プリシラの前で赤々とした炎に呑まれていたはずの『魔女』は、ゆっくりとその赫炎から抜け出した。
炎は、『魔女』を燃やすことをやめたのだ。
『陽剣』の炎は焼きたいものを焼き、『陽剣』の刃は斬りたいものを斬る。
故に、ヴィンセントの『陽剣』で焼かれ、斬られた『魔女』の運命は変えられない。
ただし――、
「貴様は、何者じゃ?」
焼くと決めたものが、斬ると届かせたものが、違うものとなれば話は別だ。
ヴィンセントは『魔女』を、スピンクスを『陽剣』で殺したのだろう。
だが、焔から抜け出したその『魔女』の姿は、プリシラの知る『魔女』ではなかった。
ひび割れた青白い肌も、黒い眼に金色を沈めた瞳も、童女のような幼い容姿も、いずれも脱ぎ捨てて、その存在はプリシラの前に立っていた。
長く背中まで届く白い髪に、透明で理知的な探求心を宿した黒瞳。――白と黒、その存在を描こうとすれば、その二色で表現し切ることができる。
「貴様は、何者じゃ?」
「――『強欲の魔女』」
重ねたプリシラの問いかけに、静かな、確信に満ちた答えがあった。
それは長い時の果てに己の造物目的を果たし、魂の在り方を作り変えた存在――『強欲の魔女』の現身は、焔に焼かれる運命を脱し、告げる。
「造物目的は果たされた。――ワタシは、ワタシの生きる目的を叶えにゆく」と。




