第八章53 『魔弾の射手』
――ロズワール・L・メイザースは王国一の、世界一の魔法使いである。
このことを本人に問い質せば、彼は不敵な笑みと確かな自負を交えて、「現代においてはそうだろーぉね」と条件付きの肯定をするだろう。
現代においては、とそう注釈を付けるロズワールの表情に悔しさは宿らない。彼の左右色違いの瞳に代わりに宿るのは、切望めいた寂寥感と深愛だ。
それが魔法について物語るときの、ロズワールの内から消えることのない儚い思慕であることは、ラムとベアトリス以外は知らず、彼自身にさえ自覚のないことだった。
それを踏まえて、ロズワールの現代随一の魔法使いという地位は揺るがない。
決戦へ挑むミディアム・オコーネルにもそう告げて、抱き上げた彼女と共に空を舞いながら、はるか彼方の高空へ上がった『魔弾の射手』と対峙し――ロズワールは、自らの魔法に自信と自負を抱いた上で、勝算は低いと見積もっていた。
「――――」
帝都の南西から都市の空へ侵入したロズワールの視界、最北に位置する水晶宮の直上の空が真っ赤に染まり、いくつもの爆炎が花開く。その炎を降らせたのはロズワールだが、爆炎へと作り変えたのは城から飛び立った一組の飛竜とその繰り手――らしい。
らしいというのは、ロズワールの目には数キロも離れた位置から、高速で動いているだろう相手を捉え切ることができないからだ。
ロズワールの視力の問題ではない。人間の目は、そうできていないという話で。
ただし、腕の中のミディアムは加護の力で、相手方である『魔弾の射手』も何らかの方法でその限界を突破し、互いに互いを視認し合った。
その証拠に――、
「――う、きゃん!」
可愛らしい掛け声と共に、抱きかかえられるミディアムが蛮刀を振るった。
完全に他者に依存して飛んでいる状態だ。決してバランスがいいはずがなかったが、それでもミディアムの蛮刀は迫る光弾を捉え、水飛沫のような音を立てて斬り落とす。
衝撃に打たれ、断たれた光弾が自分たちの背後へ抜けてマナへ還元されるのを感じ取り、ロズワールはその攻撃の速度と精度に戦慄を禁じ得ない。
――それは、信じ難いほどの練達の末に完成した殺しの魔技だった。
放たれた光弾は『陽魔法』の一種と推測するが、光の熱線を放つジワルド系と違い、光の弾を撃ち出すそれは体系化されていない独創的な代物だ。
一瞬の攻防で確実なことは言えないが、おそらくエミリアが撃ち出す氷柱と同じような形質に光を整え、それで相手の急所を穿つのだろう。注目すべきは氷や土の弾丸のような実体を伴うものではなく、あくまで光でそれをやっている点だ。
そうすることで傷に実弾が残らないため、相手に攻撃の正体が暴かれにくく、さらに当たった傷の周辺を光で焼くことで深手を負いやすくしている。
「いい魔法だ」
まさしく、『魔弾』と称するに相応しい一撃だとロズワールは称賛する。
これを独自に編み出したなら、相手には一流の魔法使いとなる才能があったはずだ。もっとも、今さら当人はそうした名誉を望まないだろう。帝国人としての評価なら、『九神将』というこれ以上ない評価をすでに受けた相手だ。
ましてや、生者ではなく、死者がそうした栄誉を欲するとも考えにくい。
「そもそも、生前から名誉や栄達に固執する人物ではなかったようだしねーぇ。それについては身近な人間からも、最期に立ち会った相手からも聞いている」
相対する『魔弾の射手』――バルロイ・テメグリフの情報は、生前の彼を知るものが殊の外多かったことで、ロズワールの耳にも期待以上に仕入れるチャンスがあった。
ただし、オコーネル兄妹から聞けたのは性格的な証言が多く、セリーナも彼女らしからぬ罪悪感が言葉を詰まらせた。なので、ロズワールが欲する戦術的な観点の情報を彼女らから得ることはできなかったが――思わぬ伏兵がいた。
それは――、
「――まさか、ユリウスくんが件の『九神将』を倒した人材だったとは」
腕の中、集中力を高めるミディアムに聞こえぬよう、思考を整理しながらロズワールは思い詰めた顔をしたユリウスのことを思い出す。
アナスタシアの一の騎士であり、その義理堅い性分から、主共々ヴォラキア帝国でまで協力してくれている『最優の騎士』は、ロズワールがミディアムと一緒に挑んでいる強敵についても、実に有用な情報をもたらしてくれた。
――元々、戦場が帝都と城塞都市のどちらになろうと、バルロイ・テメグリフとのマッチアップ相手はロズワールとなるのが既定路線だった。
それはロズワールがセリーナ・ドラクロイと旧知の間柄で、彼女が子どもの時分から面倒を見てきたバルロイに引導を渡す役目を託されたから、ではない。
ロズワールにも情はあるが、情に流された判断は排除するのが常だ。
当然、ロズワールがバルロイの相手をするのは、戦略的な判断によるものである。
今さらな話だが、ヴォラキア帝国はルグニカ王国にとって長年の宿敵だ。
四大国のいずれも油断ならない関係性ではあるが、その間柄において最も警戒すべき相手と互いに認識している事実は動かしようがない。
それ故に、王国での王選が開催されている期間、帝国との不可侵条約が結ばれたのは歴史的な快挙でもあったのだが、それで両国の冷え切った関係が温まるわけではなかった。
早い話、仮想敵と言えるヴォラキア帝国に対するルグニカ王国の警戒は長く続いており、その主力である『九神将』や、警戒戦力である飛竜隊への対策は常に練られていた。
その対策会議の中で、決まっていたのだ。――帝国の飛竜隊を相手するのは王国の魔法部隊であり、その頂点たるロズワールが最高の『飛竜乗り』と衝突することは。
「とはいえ、要警戒対象の『悪辣翁』とも『魔弾の射手』とも、帝国の中で対峙することになるとは思わなかったけーぇれどね」
対帝国の話し合いが持たれたとき、最大の脅威と目されたのが件の二者だ。
無論、個人武力で言えば『青き雷光』や『精霊喰らい』という二大戦力がいるが、それに関しては王国にも引けを取らない『剣聖』がいる。
だが、事が戦争となれば、重大なのが指導者の存在だ。
戦争を終わらせる一番の方法は指導者の命を絶つこと。――それにおいて、『壱』や『弐』より恐れられたのが、『悪辣翁』と『魔弾の射手』の二人だった。
故に、ロズワールも『魔弾の射手』の噂から技と力量の推測はしていた。
結局は相対しないまま、謀反を起こした彼が命を落としたと聞き、そのシミュレートの意味はなかったとなったが、数奇な巡り合わせがこの状況を実現した。
そして、想像ではなく、実物のバルロイ・テメグリフの技量を確認したところで、世界最強の魔法使いであるロズワールは確信した。
「――やはり、私一人じゃーぁ勝てないね」
冗談や悪ふざけの類ではなく、臆病風に吹かれるわけでもなく、ロズワールは淡々とした事実としてそれを認めた。
これは魔法が武芸に劣るなんて話ではなくて、土俵の違いだった。
まず第一に、機動力が違う。
飛行魔法を使えるロズワールは、世界で有数の単独飛行を可能とする個人だが、その速度と機動性は本職の飛竜には及ばない。真っ向から空中戦を挑めば速さで掻き乱され、三次元的な動きに翻弄されるうちに撃墜されるのが関の山だ。
第二に、互いの攻撃手段の目的と精度が違う。
バルロイの習得している『魔弾』は、まさしく他者を殺すためだけに鍛え上げられた技であり、その威力と正確性において完成されていると言っていい。
ロズワールも師に恥じない魔法使いとなるため、あらゆる魔法の習熟を目標としているが、魔法の深奥はいまだ遠く、その多彩さではバルロイに圧倒的に勝れても、対象の殺害という一点に特化した敵に及ぶものはないと断言できた。
そして第三に、戦闘条件が違う。
頭の痛い話だが、これがこのマッチメイクにおける最大の障害だ。
考えてみればわかるだろうが、戦いというのは離れたところから一方的に相手に攻撃できれば負けることなどありえない。それが本来のロズワールの戦い方であり、自分に可能な最大距離で戦うのは魔法使いの基本的な必勝戦術とも言えるだろう。
問題は、この攻撃の最大距離で相手が自分に勝っている場合だ。
そうなれば当然、これまで自分がしてきた一方的な攻撃を相手に許すことになる。その事態を避けるため、射程で負けているなら彼我の距離を詰め、距離的な有利不利を打ち消した状態で地力の勝負に持ち込む必要がある。
だが、ロズワールに課せられた戦闘条件が、その前提を許さなかった。
『正直、遠くから味方を次々やられるのが一番どうしようもねぇ。相手にそのつるべ打ちをやらせないために、何とか相手を押さえてくれ!』
帝都攻めにおいて、『滅亡から救い隊』のメンバー分けを行う際、スバルがロズワールに託した役割がそれだ。
実際、それは合理的な判断だった。ハリベルやオルバルトを差し置いて、自分が最高戦力だと主張するつもりはロズワールにはないが、最大射程は間違いなく自分だ。
エミリアもいい線いっているが、彼女の場合は攻撃の繊細さと、相手の主戦場である空へと上がる方法がない。ロズワールにお鉢が回ってくるのは当然だった。
結果、ロズワールは他の味方を狙撃されないため、相手の方が圧倒的に有利な間合いから攻撃を仕掛け、注目を自分へ引き付ける開戦を余儀なくされた。
「恐れていた通り、これだけ離れていても相手の攻撃は正確に届く。注意を引くことはできたが……ここから私の距離へ詰めなくてはならない。まさに決死行だーぁね」
それがどれほど困難なことかは、前述の三つの不利で十分にわかるだろう。
強敵を相手に、相手の得意な戦術と得意な距離で戦わなくてはならない。その上、彼我の実力差を認めて、ロズワールは相手の方が上だと確信している。
だが、その左右色違いの双眸には悲嘆も、絶望感も宿っていない。
何故なら――、
「でぃやぁ!」
チカッと瞬きがあったと思った直後、水飛沫の音と衝撃がロズワールとミディアムの二人を揺すぶった。
それが次弾の着弾と、再びミディアムが撃墜に成功したことの証明。それをやってのけたミディアムの技量に感嘆しつつ、ロズワールは笑みを深める。
その笑みの理由は――、
「ミディアムくん、いけそうかい?」
「うん! やれるよ! ロズちんの言った通り……バル兄ぃは、あたしの腕とか肩ばっかり狙ってきてるみたい!」
△▼△▼△▼△
「ちっ――」
拡大された左目の視界、放たれた次弾を蛮刀に斬り落とされ、バルロイは見知った少女の技の上達と、相手の狙いの悪辣さに奥歯を噛んだ。
光の屈折で作り出した天眼鏡の中、やる気満々の顔をしたミディアムと、彼女を抱いて空を飛んでいる男の姿が徐々に、確実にこちらへ迫ってくるのがわかる。
狙いは明白、遠距離攻撃を得意とする相手と距離を詰めるのは戦の定石だった。
炎弾による雲上からの奇襲、それに失敗してすぐに切り替えた――わけではあるまい。
あれだけ大味な攻撃、当たる前に気付かれないと思う方がどうかしている。あれは撃ち落させるための攻撃だった。それがわかっていても、撃墜しなければならない攻撃。
そうしてまんまと相手に開戦の火蓋を切らせれば、こちらが圧倒的に有利な超遠距離戦が始まり――ミディアムの姿に、バルロイの戦意が竦んだ。
奇襲を防がせ、それでもこちらの有利な距離で戦いを始めたのは、バルロイの『魔弾』が撃ち抜く相手を選ぶと知っての作戦だったのだ。
「ミディ……っ!」
初弾と次弾、バルロイの放った『魔弾』はいずれもミディアムに防がれた。
昔からそうだった。落ち込んだ顔をしているときのミディアムは、運動音痴のフロップにさえ押し負けるくせに、やる気満々のときは手が付けられない暴れん坊になる。
フロップもマイルズも手も足も出ず、身内贔屓があるとはいえバルロイも手を焼かされたものだ。セリーナが咎めないものだから、その元気さは留まることを知らない。
とはいえまさか、自分の『魔弾』を防ぐまでとは思ってもみなかったが。
「――ッッ」
「――。わかってやすよ、カリヨン」
奥歯を噛んだバルロイに、翼をはためかせる愛竜が嘶きで訴えてくる。
『飛竜繰り』の技法により、バルロイとカリヨンとは魂――オドとオドで互いの存在を結び付けている。それにより、生来は凶暴な飛竜を従えるのが門外不出の『飛竜繰り』だ。
そんな間柄だけに、バルロイの思考や感情の揺れは直接的にカリヨンにも伝わる。同じことは逆にも言えて、カリヨンの思考もバルロイには察せられた。
わかっている。『魔弾』が防がれた理由はミディアムの技量だけが理由ではない。
懸命な表情をした妹分の姿を目の当たりにしたバルロイが、戦士としての非情さを以て彼女を撃ち抜けなかったことが理由だった。
「手足の……」
一本でも落とせば、ミディアムの戦線離脱は確実だ。
彼女を連れている魔法使いも、重傷の彼女を連れて飛ぶのに利はないと判断するはず。できれば足ではなく、腕がいい。腕なら、その後の生活の支障は足より少ない。
ミディアムを負傷離脱させ、あの魔法使いを撃ち落とし、スピンクスに彼女の助命を願い出ればいいのだ。そうすれば、憂いは消えてなくなる。
憂いは、消えて、なくなるのだ。
「――やりやしょう」
血の気を失った屍人の顔で、バルロイの金色の双眸に明確な戦意が宿る。
直前までの、ミディアムを攻撃することを躊躇った表情ではなく、自分の性分と自分の目的との合意を見出し、それを実現する『魔弾の射手』の表情だ。
「――――」
戦意を金瞳に宿しながら、バルロイの全身から熱が静まり返る。
右目を閉じて、左目の天眼鏡に意識が集中され、愛竜の背で立てた膝に槍を固定すると、その先端に鋭く先鋭化した光の弾が作り出される。
バルロイは外道の魔法使いであり、この一芸しか磨いてこなかった。
この一発はマナの消費も少なく、必要最小限の手順で最大の効果を発揮するため、自分の性分とも相性がいい。――確実に決める、その姿勢の表れだ。
「――――」
こうしてバルロイが集中する傍ら、同じく集中力を高めるカリヨン。
天眼鏡を覗き込み、標的の挙動をつぶさに観察する瞬間、それ以外の周囲への警戒は疎かになるが、そうなったバルロイの代わりの周辺視野を確保するのがカリヨンだ。
飛竜の視力と本能的な警戒心で周囲を見張る愛竜は、この戦術を確立したバルロイにとって決して欠かせぬ存在だった。
「あっしとやり合うんでしたら、そりゃあ距離を詰めたいでしょうや。でも、それがわかっててまんまとそれをさせるとでも?」
飛行魔法なんてものがあるとは驚きだが、その接近速度は『飛竜乗り』とは比べるべくもない。相手が近付くのと同じだけ下がれば、彼我の距離は縮まらない。
無論、下がり続けるのにも限界があるため、距離を取る方法は下がるだけでなく、旋回や高度を駆使することになる。だが、問題はない。
広大な空には制限がない。それ故に、『魔弾の射手』の戦技は確立された。
「――当たれ」
水気のない唇で言葉を紡ぎ、それを合図にパッと槍の先端が強く光る。
『魔弾』が放たれる瞬間、バルロイの側には何の反動も感慨もない。あるのはわずかな光の瞬きと、一秒とかからずにもたらされる狙撃の結果だけ。
天眼鏡で拡大された視界、ミディアムは三発目の『魔弾』をも蛮刀で防いだ。
バルロイの狙いが手足だと気付いている動きだ。それが彼女の生来の勘の良さか、あるいは後ろの魔法使いが吹き込んだ助言かは不明。
それを大したものだと称賛しながら、バルロイは吐息をこぼし、
「――当たれ、当たれ、当たれ、当たれ、当たれ」
と、続けざまに四発目から八発目までを一息に叩き込んだ。
「――――」
バルロイの『魔弾』に反動はない。故に、立て続けに撃つのにも支障はない。
強いて制限があるとすれば、発射するための光の弾を作り出す速度だが、バルロイはこの『魔弾』の一撃を極めるのに己の魔法の才の全てを注いだのだ。
一秒で五発、寸分の狂いなく同じ精度で放てる光弾――それが、バルロイ・テメグリフが『魔弾の射手』と呼ばれる所以であり、一将の地位を勝ち得た理由だった。
「当たれ、当たれ、当たれ、当たれ、当たれ」
両手の蛮刀を猛然と振るい、ミディアムが『魔弾』への抵抗を必死に続ける。
それ自体は称賛すべきことだが、バルロイの方の余力は全く削れていない。過ぎた時間もせいぜいが十秒、あと十秒も二十秒も続ければ、必ずミディアムは力尽きる。
その瞬間を淡々と、バルロイは己の『魔弾』で近付ければ――、
「――――」
一瞬、冷静に徹するバルロイの思考に疑問が生じた。
その間も光の弾の作成と、『魔弾』による絶え間ない連続狙撃は続いているが、バルロイが疑問を抱いたのはこの状況だ。
奇襲にミディアムを同行させ、著しくバルロイの『魔弾』に制限をかけた相手だ。
当然、バルロイを相手するつもりで挑んできた敵が、こちらがいつもの戦型を貫くだけで突破できるような、生温い策を実行するだろうか。
おかしいと、妙だと思わなくてはならない。自分の本分が発揮できている状況こそ。
そう、バルロイが考えた直後だった。
「――ッッ」
天眼鏡を覗き込むバルロイに代わり、周囲を警戒するカリヨンが高く嘶いた。
水晶宮の上空を高速で飛びながら、相手との距離を一定に保っている愛竜の訴えに、バルロイの意識もカリヨンの嘶きの原因へ向く。
それは高い空の上にあるバルロイたちよりも、さらに上から降ってきた。
「――ッ、やってくれやすね!」
歯噛みして吠えるバルロイ、その視界、分厚い雲を突き破って落ちてくるのは、先ほど水晶宮を狙った炎弾の雨よりもさらに直接的な脅威。
――小山のように巨大な氷の塊が、猛然と空から帝都へ落ちてきたのだった。
△▼△▼△▼△
「遮蔽物のないところでバルロイ殿と戦うのは命取りになります。相手は帝国随一の『飛竜乗り』……全方位が射程の、驚異的な使い手なのですから」
深刻な顔をしたユリウスの助言に従えば、ロズワールが挑まされた空中戦は、帝国で最高の『飛竜乗り』相手に最もやってはいけない戦場選びだった。
なにせ、空には遮蔽物となるものが何もない。前後左右は言うまでもなく、上下斜めの三次元的全方位に射程を確保できる、およそ最悪の環境だ。
相手にとって、最も不利な戦況を用意するのは戦士の常であり、わざわざ相手と条件を合わせたり、むしろ自分が不利な状況を選んで戦うのは頭のおかしい人間だけ。
ならば、条件的に仕方がなかったとはいえ、相手の得意な戦場で得意な戦術を使わせ、得意な距離で戦うことを選んだロズワールは頭のおかしい異常者か。
――断じて、否だ。
ロズワールは自分が正常とは言わないが、勝利の渇望に身を焦がしたり、不利な戦況を愉しんだりする酔狂さとは無縁と理解している。
自分の異常性は認めるが、その異常性は戦闘において発揮されるものではない。
故に、勝ち目のない戦場に臨むなんて愚かしい真似、ロズワールはしなかった。
「はっ、はっ、はぁぁぁっ」
ロズワールの腕の中、荒い息をつくミディアムの体から湯気が立ち上る。
触れた掌から伝わってくる高熱は、彼女の体が戦意に呼応して性能を高めている証。それと同時に、ほんの十秒程度で限界を幾度も超えさせられた証拠でもあった。
恐ろしいまでの『魔弾』の連射性能、たとえそれが致命傷を避ける形で飛来するものとわかっていても、五十に迫る弾数を打ち払い切ったミディアムには感嘆する。
だが、もう十秒はもたない。だから、ロズワールは戦況を一段動かした。
――帝都に覆いかぶさる雲を突き破って、雲上から巨大な氷塊が地上へ落ちる。
山と見紛うほど強大な氷の塊、それを落としたのはもちろんロズワールだ。ただし、あれだけのサイズの氷塊を作り出せば、いくら世界最高の魔法使いを自負するロズワールであってもマナの残りがカツカツになりかねない。
だから、氷塊はマナを有り余らせているエミリアに作ってもらった。
「あれだけのものを作ってピンピンしているんだ。本当に、とんでもない話だよ」
もはや氷山を作り出すに等しい奇跡を起こし、エミリアは平然とスバルの指示に従って別の戦場へ臨んでいる。それが頼もしいと同時に、いずれ敵対的に向き合うかもしれない可能性を考えると、ほとほと頭が痛くなる。
しかし、この瞬間はその頼もしさに寄りかかり、氷山落としの策とした。
あの巨大な氷山は、ロズワールのマナを全て使って作り出せるか怪しいところだが、エミリアが作ったそれを維持し、浮かべておくだけならそこまでではない。
それを、炎弾を落としたあとにも待機させていて、今この瞬間に頚木から放った。
「――――」
空から山が落ちてくるに等しい質量攻撃だが、その狙いは空を逃げ回るバルロイを頭上から押し潰すことではない。それができれば話は早いが、バルロイならば氷山の被害範囲から逃れるのもそう難しいことではないだろう。
故に、氷山を落とした理由はバルロイへの攻撃ではない。――妨害だ。
「遮蔽物がないなら、作り出せばいい」
呟いた直後、ロズワールの双眸が細められ、直後に氷山の全体にひび割れが生じる。
その瞬間、空をつんざいた甲高い音は、まさしく空に嵌め込んだガラスが一気にひび割れたようなものであり、続く現象は空の崩壊にも見えたかもしれない。
氷山が砕かれ、バラバラと破片をばら撒きながら氷塊が地上へ乱れ落ちる。
砕かれたと言えど、山の破片だ。破片の一個一個が建物や竜車に匹敵するほど大きく、空から落ちてくるそれは氷山の土砂崩れに等しい。
まるで、箱一杯に小石や砂を詰め、花壇の上でひっくり返したような光景――、
「これが、魔法使いの本領だ」
得意な距離から一方的に攻撃できれば負けることはありえない。
それが魔法使いの基本にして必勝戦術だと、そう前述した。故に、ロズワールもその基本に則った戦い方を好み、実行する。
一方的に攻撃するためには、相手の『選択肢』を削ることが肝要だ。
得意な距離というのは、そうするためのわかりやすい指標に過ぎない。相手の『選択肢』を削り、自分の有利な状況へ引きずり込むこと。
それが、世界最強の魔法使いであるロズワールの戦い方だった。
「てりゃいっ!」
降り注ぐ氷片と氷塊の隙間を光が抜けて、迫った『魔弾』をミディアムが斬り落とす。
ミディアムには、何が起きても動じるなと命じてあったが、その指示通りに動いてくれてありがたい限りだ。『魔弾の射手』も相当に度肝を抜かれたはずだが、すぐに攻撃に転じたところは見事と称賛に値する。
ただし、その連射性能と機動力は比べるべくもなく削がれた。
何より――、
「君が私の聞いた通りの人物なら、『魔弾』は私を直接狙えない。――この高度から落ちれば、ミディアムくんに助かる方法はないからね」
△▼△▼△▼△
規格外の戦況を実現する、悪魔のような敵。
ミディアムを盾にして、こちらの戦術を封じてくる魔法使いに対し、バルロイははっきりと明確な敵意を以て、相手をそう認識した。
ヴォラキア帝国では、いわゆる魔法使いが非常に貴重だ。
それは土壌や種族的に、魔法の扱いを不得意とする性質が引き継がれているというのもあるが、究極的には帝国人の主義に魔法が合わないためだった。
帝国人の根底にあるのは強者への尊敬であり、それは優れた武人の技や才への憧れと言い換えてもいい。自ら武器を持って相手と打ち合い、これを打倒することがヴォラキア帝国の理想の武人であり、そうでない戦いは疎まれる。
そうした戦い方に対する偏見と先入観は根深く、ヴィンセントの治世で見直されるようになってはいたが、それでも完全に消えるにはまだまだ時間がかかろう。
『魔弾の射手』と呼ばれたバルロイの戦い方や、シノビの頭領であった『悪辣翁』オルバルトの殺し方も、他国の警戒と裏腹に評判がよかったとは言えない。
バルロイもオルバルトも、評判のために戦っているのではないから構わなかったが。
そうした割り切りがあったから、バルロイも他の帝国人と違い、殊更に魔法使いを忌むことはなかった。――その生前の評価を、ここで掌返ししたい。
「そういうやり口は好きやせんぜ、魔法使いの旦那――!」
万物万象を利用し、自らの戦場を作り出す手腕に感嘆はあれど、その毒牙を自分へ、あろうことか身内にまで向けられては怒りも湧く。
その頭を、胸を撃ち抜いてやりたいが――、
「カリヨン――!」
「――ッッ」
背を叩いて愛竜を発奮させ、嘶く飛竜が翼をはためかせて速度を上げる。
暗い空を舞い踊るバルロイとカリヨンは、信じられない規模で降り注いでくる氷の嵐の中を飛び、不意に生じた氷塊の迷宮の攻略に集中、突破へ挑む。
バルロイの『魔弾』を避けるため、木々の生い茂る森へ逃げ込んだり、堅牢な砦へこもるといった対処はされたことがある。
そうなったとき、バルロイは『魔弾』の連射で木々を一掃して射線を確保するか、相手の潜んだ場所を特定し、同じ場所に『魔弾』を当てる壁抜きで敵を仕留めてきた。
だが、こんな馬鹿げた方法で攻略を試みたものなど今までにいない。
だから当然、こんな馬鹿げた攻略方法をひっくり返したことも、またない。
「ってことは、これを越えればあっしの勝ちでやんしょう?」
砕けた氷山の破片、掠めれば命ごと持ち去られかねないそれらを回避しながら、仕掛けてきたミディアムと魔法使いの姿をバルロイは思い描く。
あの二人以外に、帝都の空に上がれているものはいなかった。すなわち、バルロイとの空中戦で出せる手札は、この二人で尽きているということだ。
どうやらセリーナは、バルロイ相手に自慢の飛竜隊は出さなかったらしい。
「さすが、上級伯はわかってらっしゃる」
飛竜を用いた空中戦にあっても、明確な序列というものは存在する。
例えば、相方のいない単独の飛竜は、『飛竜乗り』のいる飛竜に決して敵わない。優れた『飛竜乗り』は、たったの一組で百の飛竜の群れを駆逐するのだ。
そして、『飛竜乗り』と『飛竜乗り』がぶつかれば、これも優れている方が必ず勝つ。数の有利不利はほとんど関係なく、優れた『飛竜乗り』のいる方が勝つのだ。
バルロイより腕利きの『飛竜乗り』がいなければ、飛竜隊をどれだけ送り込んでも、貴重な繰り手と飛竜の屍を山と積み上げる結果にしかならない。
優れた『飛竜乗り』というものは、それほど貴重で、飛び抜けた人材なのだ。
だから、バルロイはセリーナを憎んではいない。彼女がマイルズにルグニカ王国での密命を許可したのは、必要なことだった。――仕方のない、ことだった。
「それでも、あっしは――」
歯を噛んだ呟きの後半、それは口にしたバルロイ自身にも聞こえなかった。
バルロイたちの眼下、砕かれた氷山が次々と帝都へと墜落し、轟音を立てながら凄まじい噴煙と共に、その街並みを壊し、作り変えていったからだ。
哀れな帝都への被害、魔法によってもたらされた魔災というべき惨害は続く。
生前には守ろうとしていた見慣れた街だ。それが壊れていく事実に思うところがないではないが、バルロイの意識は壊れゆく街よりも敵へ集中している。
「――――」
氷片が粉のように舞い散り、光を乱反射する幻想的な光景が生み出される中、彼方にいたはずのミディアムたちの姿がより鮮明に見えるようになる。
しかし、まだ距離はある。雲の上から氷山を落とし、帝都の街並みをこれほど大きく壊すまでの被害を生んで、なおも稼いだ距離は微々たるものだ。
「当たれ、当たれ、当たれ」
稼いだ距離を押し返すように、バルロイの放つ『魔弾』が届くまでの時間が短縮される。
それはその分だけ、ミディアムに刹那だけ早い反応が求められるということだ。すでに消耗の激しいミディアムに、あと何発の阻止が可能か。
たとえバルロイの機動力を削ぎ、射角と射線を限定しても、まだこちらが有利。
すなわち、次の手がくる。
「――? またさっきの炎の塊……いや」
上空に異変の兆しがあって、氷片を槍で突き崩し、光弾で吹き飛ばして射線を確保しようとしたバルロイは顔を上げ、眉を顰めた。
氷山が大穴を開けた厚い雲、その穴を通り抜けるように落ちてくる炎弾と、先ほどの氷山には及ばないまでも、それでも巨大な氷塊の数々。それらが落ちてくる光景に、バルロイは空の障害物が追加されたかと考え――その真意に気付く。
それらが落ちてくるのは、バルロイたちが飛んでいる位置から大きくズレて――水晶宮を直撃する軌道を描いていた。
「なんて、真似しやがりやすか、外道――ッ!!」
自分を狙って落ちてきていない炎と氷の落下物を目撃し、しかし、それが他ならぬ自分への攻撃であるのだとバルロイは声を張り上げた。
あれらは、バルロイに直接的な被害をもたらさない。代わりに、城の中に残っているマデリンの体や、城内のものたちを容赦なく押し潰す。
やらせるわけにはいかない。――スピンクスに、死なれてはいけないのだ。
「おおおおお――ッ!!」
翼を広げて急旋回し、氷塊の当たらない位置で急制動するカリヨン。その背で弾かれるように体を起こし、バルロイが槍の穂先を水晶宮の空へ向け、『魔弾』が放たれた。
秒間五発の作製速度では追いつかぬと、この瞬間、生前には超えられなかった限界を超えて、バルロイの『魔弾』が弾幕のように空を覆った。
落ちてくる炎弾を、氷塊を、荒れ狂う光の弾丸がことごとく撃ち落とし、水晶宮を崩壊させるはずだった大被害から守り抜く。
だがこの瞬間、背を向けたバルロイを相手が狙ってくるのは自明の理――。
「――当たれ」
故にバルロイは、槍の穂先で水晶宮への落下物を狙いながら、槍の柄尻で迫ってくる敵を照準し、『魔弾』の前後への同時射撃で対応した。
「――――」
背後へ放った『魔弾』は一発だが、それで十分だった。
背を向け、隙を見せたと思わせたバルロイへ向けて、真っ直ぐ迫った炎の魔法――それが真正面から『魔弾』に貫かれ、これも空中で爆散する。
相手の魔法を突き抜けた光弾はなおも直進し、隙を突いたと思っていたミディアムたちへと的中し、蛮刀がそれを迎え撃つ。
「ミディ、あっしは『九神将』だった男でやすぜ」
戦技において、やる気十分とはいえ妹分に後れを取るようなことはない。
意表を突くために背後へ放った『魔弾』は、バルロイがこれまで放った光の弾丸と比べて、ほんの一回り大きく、その分だけ威力に勝った。
「――うあっ!」
水飛沫の音を立てて、ミディアムの手から蛮刀が二本とももぎ取られる。
とっさに本能で違いを察したか、一本ではなく二本で迎え撃ったのは見事だった。おかげで左手の肘から先を吹き飛ばすつもりが、彼女の腕は両方残った。
ただし、防ぐ手段がなくなれば同じだ。次の一撃で、その腕を飛ばして終わらせる。
「当たれ」
決意と共に穂先が瞬き、水晶宮を潰しかけた炎と氷の処理が終わる。
そのまま一気にカリヨンで上昇し、近付かれた分の距離を再び開きつつ、ミディアムを離脱させるための『魔弾』の生成を――、
「な」
――刹那、バルロイの視界を一杯に塞ぐように、虹の輝きが空を覆った。
△▼△▼△▼△
――バルロイ・テメグリフの攻略において、ユリウスの助言は実に有用だった。
すでに一度、攻略したことのある人間からのアドバイスだ。
これほど有益な情報は、スバルにすらなかなか用意することができない。なにせ、スバルは戦士ではないので、戦い方についての献策はあやふやになりがちだから。
ともあれ――、
「私はバルロイ殿と戦い、彼を倒しました。無論、フェリスの助力なしには勝ち得なかった勝利です。……バルロイ殿ほどの人物が、どうしてあのような謀反に与し、ヴィンセント閣下の御命を狙ったのか、その理由も後々に」
「『死者の書』を見た、だったねーぇ。実に数奇な偶然だ。ユリウスくん、可能であれば君が見たものをつぶさに……」
「――メイザース辺境伯、あくまで私がお伝えするのはバルロイ殿の戦型と、私自身が如何にして戦ったか。私が、彼の許しを得ずに目にしたもの、バルロイ殿の抱いていたものについて口外することは、生涯ないとわかっていただきたい」
そう、真剣な面差しで告げたユリウスの態度を、利敵行為と指摘して、彼が『死者の書』から得た情報を根掘り葉掘り聞き出す術もあった。が、ロズワールはそれを選ばず、あくまでユリウスが伝えると決めた内容を聞くだけに留めた。
その選択を自分でも意外とは思う。
元来のロズワールであれば、相手の情報を得られる手段があるなら、それを知り尽くした上で策を講じ、戦いへ臨むことを良しとしたはずだ。
にも拘らず、ユリウスの心情に寄り添い、彼の考えを尊重したのは何故なのか。
その心変わりの理由、それの確たる答えはわからないが――構わない。
バルロイ・テメグリフの全てを知らなくても、ユリウスは貴重な答えをくれた。ロズワールからすれば、それだけでも十分だった。
「君を仕留めたのがユリウスくんということは、だ。――もしかすると、君は自分がどうして死んだのか知らないんじゃーぁないかな、バルロイ・テメグリフくん」
『暴食』の権能により、ユリウスは『名前』を喰われることになった。
結果、ユリウスの周囲の人間は、例外であるスバルを除いて誰もが彼を忘れた。それはロズワールも例外ではなく、おそらく死者すらも例外ではない。
他ならぬユリウスの手にかかったバルロイですら、自分を死に至らしめたものがなんであるのかを知らない。
つまり――、
「――一度死んだときと、同じ方法で殺せる」
実に数奇な偶然、奇跡的な巡り合わせだった。
これはユリウスがバルロイを殺し、そのユリウスが『名前』を喰われていなかったら、掴むことのできなかった一条の勝機だったと言える。
当事者であるユリウスやバルロイの苦悩は想像することすらおこがましいが、部外者であるロズワールは心の中だけで、その巡り合わせに感謝しよう。
――展開された虹の障壁が、上昇を試みるバルロイと飛竜の進路を塞ぐ。
極光による障壁、それがユリウスがバルロイを倒した決定打になった魔法と聞いた。
これはユリウスが引き連れた精霊と編み出したオリジナルの魔法であり、再現するのはロズワールでも異常な消耗を必要とするものだ。
複数の魔法の同時使用はロズワールもやるが、六種類同時は正気の沙汰ではない。
自分の体内のゲートが悲鳴を上げるのを聞きながら、それでも、ロズワールは勝率を上げるためにユリウスの勝利を再現する。
これは何らかの揶揄や嫌がらせが目的ではなく、戦略的な選択だ。
無論、バルロイの逃げ道を封じるだけの目的なら、ロズワールが得意とする炎や風を使って同じことができた。だが、使い慣れた魔法は一目で危険と看破される。
必要なのは、バルロイの判断力を刹那でも奪える初見の魔法。
それ故に、この虹の極光も、『暴食』の権能が忘れさせたものの一部だろうと推測し、負担を覚悟であえてこれを最終局面に持ち込んだ。
「――っ」
歯を食い縛ったミディアム、彼女の両手からは蛮刀がもぎ取られ、それでも戦意を失わない様子でぎゅっと拳を握り固めている。
もしかしたら、『魔弾』の一発二発は両手を犠牲に防げるかもしれないが、そこまでの代償を要求する戦いにするつもりはなかった。
相手の選択肢を奪うという意味で、ミディアムは十分以上の働きをすでにした。
帝都へ向かう道中、ミディアムがスバルに感謝を告げて、スバルもまたミディアムに感謝を伝えていたが、ロズワールも全くの同意見だ。
『何言ってんだよ、ミディアムさん。ありがとうなら、俺の方こそありがとうだ。あそこでミディアムさんとフロップさんに会えなかったらなんて、ゾッとするよ』
そうはにかんだスバルの役者ぶりには、ロズワールも拍手したくなった。
確かに、オコーネル兄妹の協力がなければ、この攻略は成し得なかったと。
「だが――」
虹に阻まれて落ちる。
それが帝国最高峰の『飛竜乗り』が迎える決着になると、ロズワールは目を細め――、
「――――」
――刹那、斜め後ろからの衝撃に射抜かれ、大きく意識を揺るがされた。
△▼△▼△▼△
眼前に虹の光が広がった瞬間、バルロイの全身を悪寒が襲った。
屍人の体にも拘らず、生存本能というべき戦いの直感が働き続けるのは皮肉な話だ。
その、死したる生存本能の訴えに従い、バルロイは極光が作り出した障壁へ向けて、文字通り、隠しておいた『隠し弾』を放ち、突破の礎とした。
――ロズワールの推測した通り、バルロイは自分の死因を覚えていない。
何故、自分が命を落とすことになったのか。その切っ掛けとなる動乱のことや、そこに加わった動機や理由は思い出せるのに、死の理由だけがぼやけていた。
どうせなら、死の理由よりも、それ以外のものを忘れられればと思わなくもない。
だが、それを忘れてしまえば自分でもないと、そうも言い切れた。
ともかく、バルロイは自分の死の瞬間が思い出せずにいた。
しかし、他の屍人の話を聞くに、何がなんだかわからないうちに死んだモノを除けば、その死に至る経緯まで忘れているモノは見当たらなかった。
それだけに、バルロイは考えた。自分が何故死んだのか、答えの出ないものを。
そして、自分がどんな風に死ぬのか、可能な限り思案したのだ。
謀反の関係者とバレて、セシルスあたりに首を落とされる流れや、グルービーにモグロといった一将仲間に粛清された場合も考えられた。
だが、謀反を決行した理由が理由だ。――ルグニカ王国の人間絡みではないだろうかと考え、どんな戦いだったのかと思いを巡らせた。
――飛行中、逃げ道を封じられるという負け方は、候補に挙がったのは最後の方だ。
バルロイがその発想に至ったのは、連環竜車の戦いがあり、あの場からラミア・ゴドウィンの身柄を回収し、フロップとミディアムの存在を確認した一戦のあとだった。
あのとき、バルロイが牽制のために放った『魔弾』を、連環竜車の中にいた誰かが虹の障壁を張って防いだのが見えた。――その、虹を見たあとだった。
確信はなかった。ただ、あれは厄介な代物だと感じたのだ。
だから、どんな状況に追い込まれたとしても、瞬時に抜き放てるよう、『魔弾』を一発予備に用意しておくよう、心に留めていた。
それが、この瞬間の虹の障壁破りに役立ったのだ。
「――ッッ」
吠えるカリヨンが虹を突き破り、その全身に傷を負いながらも囲みを抜ける。
屍飛竜となったことの利点を最大限に活かし、痛々しい傷を復元しながら生存への道を飛んでくれた愛竜に感謝し、バルロイは『魔弾』を装填した槍を斜めに構え、
「当たれ」
放たれたそれは、敵とは見当違いの方向へ真っ直ぐと飛ぶ。しかし、その光弾の射線には落ちてくる氷塊の残骸があり、光弾はその氷の断面を斜めに滑った。
その勢いで、光弾が周囲の残骸の中を弾むように飛び回り、飛び回り、飛び回り――そのまま、こちらへ虹を放った敵の背中へ突き刺さる。
生まれて、死んで、初めて成功した光の跳弾だ。
死線というべきものを文字通りに飛び越えて、バルロイの魔技はさらに進化を遂げた。
――ロズワールにとっての不運は、バルロイの対処が遅れる初見の魔法を選ぼうとしたことで、実は再見だった二度目の虹に本能的な反応を許してしまったことだった。
「ロズちん――!!」
想定外の角度からの跳弾に撃たれ、その飛行を妨害された魔法使いを悲鳴が呼ぶ。
それは魔法使いの腕の中で、自分の守れない位置から攻撃されて手も足も出なかったミディアムの悲痛な声だった。
直接、魔法使いを狙って撃ち落とせば、かなりの高さから落下することになり、ミディアムも助からないという恐れがあった。
それがバルロイに攻撃する対象をミディアムに絞らせる効果を生んでいたが、氷山落としと水晶宮への攻撃が、かえって相手の仇になった。
「ここからなら、落ちる前に拾えやす」
帝都の南西と最北、数キロもあった長距離戦の距離は戦いの中でなくなり、ぐらつく相手が地面へ墜落する前に、ミディアムを拾い上げることもできる距離だ。
バルロイはカリヨンの首を手で叩いて、そのまま氷塊をすり抜け、ミディアムを回収するべく翼をそちらへ向けた。
なんとミディアムに罵られるか、それに耐える覚悟をしながら――、
「ロズちん?」
ふと、聞こえた声はとぼけたもので、直前までの悲鳴のようなそれとは全然違った。
強いて言えば、ミディアムらしい抜けた声色だったが、それがこの戦いの中で聞かれたことのおかしさと、その後の展開にバルロイの意識が奪われる。
「な」
黒い眼に金色の瞳を浮かべた屍人、その双眸を見開いてバルロイは絶句する。
そのバルロイの視界、空を飛んでいた魔法使いの腕を離れ、ミディアムが地上へと落下していく――否、落下ではない。投げ捨てられたのだ。
ミディアムの体が勢いをつけて、地上へ思い切りに放り投げられた。
自由落下よりも早く、地上へ落ちる。今すぐに拾いにいかなくては間に合わない。
そう思考した直後、バルロイは悪魔の考えを理解した。
「――――」
ミディアムの下へ飛ぶ選択の寸前、バルロイと魔法使いの視線が交錯した。
ついに顔をはっきり拝める距離へ近付いた相手は、天眼鏡越しでなくてもなんと腹立たしい顔をした男なのか。
背中を撃たれ、その口から血をこぼしながら、相手は笑みを浮かべていた。
その笑みに『魔弾』を叩き込み、即座にミディアムへと飛びつく。相手の思惑通りに運ばせることはしない――、
「――ッッ」
瞬間、カリヨンの嘶きがバルロイの意識をミディアムへ向けた。
投げ捨てられ、地上へ落ちるミディアム。その落下速度は早いが、バルロイとカリヨンなら十分追いつける見込みだ。――否、見込みだった。
そのミディアムの落ちていく先に、砕けた氷塊の残骸が剣山のように待っていなければ。
「――――」
ミディアムの全身が、氷の刃にズタズタに引き裂かれる姿を幻視する。
相手にとって、ミディアムは仲間の一人のはず。そんな当たり前の事実が、この相手を前にしては何の保険にもならないと理性が叫ぶ。
相手は魔法使いだ。万物万象を、我が物として利用する魔法使い――。
「――――」
思考は刹那、結果は直後に現れる。
バルロイの槍の穂先に宿った『魔弾』は一発、選択肢を選ぶ機会は一度きり。この『魔弾』を魔法使いと、氷の剣山のどちらへ向けるか。
――バルロイは、身内の死を何よりも嫌った。
「――そうでやしょう、マイルズ兄ぃ」
「――ッッ」
囁くような呼びかけに、愛竜の嘶きが許しのように重なった。
刹那、放たれた『魔弾』は真っ直ぐに、落ちていくミディアムを貫かんとしていた氷の剣山をことごとく破壊し尽くす。
そして――、
「――君の敗因は、一番大事なモノ以外にブレたことだ」
非情に徹した男の声と同時に、放たれた相手の『魔弾』がバルロイの胸と、愛竜の翼とを貫いて、この空の戦いを決着へ至らしめていた。