第八章47 『タンザ』
――これはとても複雑な気持ちだが、ナツキ・シュバルツと同じで、タンザはヴォラキア帝国のことが嫌いだった。
帝国民は精強たれ、なんて考え方を素晴らしいと持て囃し、その通りに強くないものが虐げられ、命を落としても弱いことが悪いと言い切られる。
弱いものは、帝国民である資格がない。――だったら、こっちから願い下げだ。
誰も、生まれる場所は選ぶことはできない。
だから、タンザだって誰だって、望んでヴォラキア帝国に生まれたわけじゃない。
タンザは、ヴォラキア帝国が嫌いだった。
父と母を奪い、幼く弱かったタンザを懸命に育ててくれた姉を、ようやく安住の地を見つけられたと安堵した姉を、やっとこれまでの恩返しができるはずだった姉を、帝国流なんてわけのわからない理由で嬲り殺しにした帝国が、嫌いだった。
きっと、だからだったのだと思う。
「主さんは、この国のことが嫌いでありんすか?」
そう問われたとき、滅多に感情の出ない表情を強張らせ、息を詰めた。
気付かれてはならないことを、知られてはならない考えを、排斥されて当然の思想を、見抜かれてしまったと思ったのだ。
しかし、総身を震わせて俯くタンザを見つめ、その心の内を見透かした美しい女性は微笑み、強張ったタンザの頬に優しく手を添えた。
その手指の温かみが、もう失われた姉のそれと同じように思えて。
我が身さえ惜しまずにタンザに尽くし、自分の幸せらしい幸せを何一つ知らないまま死んでしまった姉の、それと同じように思えて。
「わっちもでありんす」
一瞬、それが何を意味しているのかわからず、タンザは困惑した。
困惑したあとで、それが何に対する所感を述べたものだったのかを理解し、息を呑む。
タンザのような、物の道理がわからぬ童子が口にしたのであれば、それは叱責と罰を与えられるだけで済む。しかし、相手はそうではない。
大人というだけではなく、立場のある人物だった。
この、強さを奉じる帝国の、強さの象徴たる九人の一人――。
「――わっちも、この国の在り方が大嫌いでありんす」
そう、優しく慈しむように微笑みながら、その人はタンザに本音を打ち明けたのだ。
△▼△▼△▼△
「どうか、私をヨルナ様の下へいかせてください。お傍にいたいんです」
帝国の存亡をかけた戦いで、自分がワガママを言っている自覚はあった。
だから、どんな罵りの言葉も耐えるつもりだった。言われても仕方がないと、悪罵や叱咤を浴びて、それでも自分の気持ちに正直であろうと。
そう思っていたのに。
「――ああ、そのつもりだ。ちゃんと顔見せて、ちゃんと話してこい」
いつも、タンザの気持ちなんて身勝手に後回しにするくせに、こういうときだけ、まるで誂えたみたいにタンザの気持ちを言い当てる。
そういうところが、この黒髪の少年の嫌なところだった。
「――ヨルナ様」
と、そう呼びかけた直後、タンザは小さな体を目一杯広げて、迸った銀光を真っ向から受け止めて、首を断たれかけた大切な女性を救った。
衝撃が全身を貫き、タンザの手足の先までビリビリと痺れが走る。
だが、自分が痛い思いをしたと、そう伝わらないように奥歯を噛んだ。剣撃を放った相手にではなく、自分が庇った大切な女性に伝わらないように。
「――っ」
ぐっと、苦鳴と表情を押し殺して耐える。
普段はもどかしいことも多いが、こういうときは自分の仏頂面に感謝する。ちゃんと、自分がなんてことない顔で耐えたように見えただろう。
本当は、懐に忍ばせた氷の盾がなかったら、真っ二つにされていたに違いないのに。
「おんなじ顔だけど、全員どいて!」
そのタンザの強がりに次いで聞こえたのは、勇ましい銀鈴の声音だった。
タンザが二つにされなかった理由、氷の盾を忍ばせてくれた銀髪のハーフエルフ――エミリアは颯爽と帝都へ舞い降りると、並び立つ同じ顔をした屍人たちに手を向けた。
直後、ガラスのひび割れるような高い音が一帯を押し包み、地面から伸び上がった透明な氷が次々と屍人たちを閉じ込め、氷の牢獄に収監していく。
とっさに屍人たちは飛んで逃れ、あるいは身を低くして躱し、あるいは剣撃で氷結を斬り払おうとした。――だが、正解を引けたものは少ない。
飛んだものは宙で、屈んだものは地べたで、刃を抜いたものはその白刃ごと、咲き誇る氷の花の一部にされ、その場で文字通りの氷漬けとされた。
二十人に迫った屍人たちのことごとくを呑み込み、逃れられたのはほんの数名ばかり。銀髪を躍らせるエミリアの、圧倒的な制圧能力。
それを言葉を尽くして称賛したいが、今は――、
「――ようやく。ようやく、もう一度お目にかかることが叶いました」
断たれた氷の盾が懐から落ちて、地面に落ちる前にマナへと拡散する。
そうして硬い感触を落とした胸に、タンザは膝をつく女性の頭を抱きすくめた。背の高い女性だから、こんな風に抱かれることはあっても、抱きしめたのは初めてだ。
正直、こうしたことをされるのはこそばゆいと思っていた。
示しが付かないとも思っていたし、子ども扱いされているようでもどかしくて。でも、決して嫌ではなかったし、子ども扱いについても考えが変わった。
シュバルツもセシルスも、小さかろうが子どもだろうがやりたい放題ではないか。
子どもであることは、何かをしようとしたときの障害になっても、諦める理由には程遠い。それを、タンザは自分の体一杯で相手へ返した。
血を流し、青い瞳を驚きで丸くした女性――ヨルナを抱きしめながら、タンザは黒い眼を敵へと、立ちはだかった邪魔者へと向けた。
そして――、
「ヨルナ様へ刃を向ける悪漢は、不肖の身なれど私がお相手いたします」
そうはっきりと、自分の立ち位置を表明するように断言した。
「――――」
そのタンザの宣言を受け、屍人の男たちも、胸の中のヨルナも声が出ない。
何を馬鹿なことをと呆れているのか、突然のタンザの出現に呆けているのか。いずれであろうと構わないと、タンザはヨルナを抱いたまま身構えようとした。
そこへ――、
「ていりゃあ!」
「うおおおう!?」
タンザが動くよりも、駆け出したエミリアの一撃が早い。
長い足で踏み込み、エミリアが両手に生み出した氷槌を立ち尽くす屍人に振り下ろす。タンザに注目していた屍人の男が仰天しながらそれを打ち払い、エミリアと対峙する。
「あなたたちの相手は私よ!」
「今、そっちの娘っ子が某の相手をするようなことを言ってござんしたが?」
「タンザちゃんは今、ようやく会いたいヨルナさんと会えたところなの。あなたに……あなたたち? 同じ顔だけど……あなたたちに邪魔はさせないわ!」
「悩ましかれど、数は増えようと某は某……ロウアン・セグムントは一人でござい。そこで惑う必要はねえでござんしょう」
「あなたに邪魔はさせないわ!」
言い直したエミリアが両手に氷の双剣を生むと、酷薄に笑った屍人――複数のロウアンが全員、同じ構えで彼女と相対する。
その背に、タンザは「エミリア様!」と加勢しようとするも、
「大丈夫、先にヨルナさんと話して。――スバルにお願いされてるの」
「――――」
シュバルツの名前を出され、タンザがわずかに口ごもる。
その間に、微笑を残したエミリアはキリっと表情を切り替えると、刀を鞘に納めた構えのロウアンたちへ一歩踏み出し、
「――アイシクルライン」
エミリアの唇がそう紡いだ直後、周囲の光景が一段階白く染まる。
あらゆる色に銀白を添えて、氷雪を纏ったエミリアの双剣を迎え撃たんと、ロウアンたちは会心の笑みを浮かべ――そこに、氷柱の嵐が降り注いだ。
「「おおおおお――!?」」
「いくわ!」
剣技の競い合いが始まると考えていたらしいロウアンは、その氷塊爆撃に度肝を抜かれながらも、突っ込んでくるエミリアの攻撃に立ち向かう。
軽やかな氷の武器と、振るわれる屍人の刀がぶつかり合い、剣戟が始まった。
その剣戟の光景を背後に、タンザはエミリアの配慮に甘え、改めてヨルナを見る。彼女はなおも、状況に追いつけていない顔をしていて。
「ヨルナ様のそのようなお顔、初めて目にいたしました」
「――タンザ、でありんすか?」
微かに目尻を下げたタンザ、その顔をじっと見つめながら、ヨルナが再会して初めて意味のある言葉を口にする。その問いかけに、タンザは頷いた。あの、カオスフレームでの別れ以来、ヨルナと離れ離れになってふた月近くが経っていた。
便りも出せなかったのだから、死んだと思われていて当然だろう。
「ですが、私は無事でおりました。ヨルナ様の下へ帰るために」
力強く、ヨルナの目を見つめ返して口にする。
現実に目を白黒させるヨルナへぶつけた言葉、それは自分で言っていて、自分のものとは思えないぐらいの力強さがあった。
たぶん、こうしたことを何の衒いもなく言える人たちの影響だ。
ヨルナと離れていたふた月の間に、タンザも色々なことがあった証――ただ、変化があったのはタンザの方だけではなく、ヨルナにもあった。
青い、美しいドレス姿でいるヨルナ。見慣れたキモノ姿ではなく、結い上げた髪も下ろしている彼女の姿は、目新しい感動以上の疑念をタンザに与えた。
趣味の変化を疑問視したのではない。ヨルナが装飾品――カオスフレームの住人から献上された品々、それを身につけていない様子を訝しんだのだ。
魔都カオスフレームで暮らす住民は、その誰もがヨルナを愛し、尊敬してやまない。
その思いの丈を伝えるため、自分たちが排斥された多くの原因である亜人族としての特徴を削り、活かし、工夫してヨルナへと献上したものが彼女の装飾品だ。
簪や耳飾り、帯留めやキモノに通した針や糸の一本に至るまで、ヨルナはカオスフレームの住人の想いを纏い、威風堂々と自分の存在を示してきた。
その中にはタンザの、タンザの姉の角の一部を削り出した櫛もあって。
「タンザ……」
震える唇に名を呼ばれ、タンザはヨルナの動揺が収まるのを待つ。
ロウアンと戦ってくれているエミリアへの加勢もあるが、今は目の前の、ヨルナの感情の整理に全力を傾けたかった。恐る恐る、ヨルナの指がタンザの頬へ伸ばされ、その感触を確かめてから彼女と言葉をと。
しかし、ヨルナの指はタンザの頬に、触れてこなかった。
「ヨルナ様?」
寸前で、伸ばしかけた指を止めたヨルナがぎゅっと目をつむり、代わりに自分を抱きしめるタンザの胸を押して、一歩後ろへ下がらせた。
タンザとヨルナ、ようやく抱き合えた二人の距離がまた離れ、タンザは目を瞬かせる。その真意が読み解けないタンザに、ヨルナは口を開き、
「何をしに、このような場所へきたでありんすか」
「――――」
「今や、この帝都は屍人の都……帝国の兵たちどころか、『九神将』も皇帝さえも放棄したこの場所に、主さんのような娘が何しにきたでありんす」
地面についていた膝を持ち上げ、立ち上がったヨルナが険しくタンザを睨む。その切れ長の瞳に射竦められ、タンザは細い肩をわずかに縮めた。
一瞬、何を言われたのかわからない。でも、すぐにそれが拒絶の言葉とわかった。
ヨルナが、あらゆるものを受け入れた慈愛の女性が、タンザを拒絶したのだと。
「ここは、生者が過ごすには過酷で殺伐とし過ぎた場所でありんしょう。すぐに立ち去るのが賢明でありんす。できぬなら、わっちの手でそうしんしょうか?」
「……生者死者と、そうお分けになるのであればヨルナ様も条件は」
「同じとでも? ――わっちと、主さんが?」
驚きに打たれながらも、そう抗弁しようとしたタンザにヨルナの手が伸びた。しかし、それはタンザの頬に触れるためではなく、その胸倉を掴むためだ。
ヨルナの細い五指にキモノの合わせを掴まれ、タンザの小さな体の足が浮く。
抱き上げられたことはある。でも、こんな風に乱暴にされたことはなかった。
「わっちと主さんは同じ側には立っておりんせん。わっちは……お傍に居続けたい方がいるでありんす。ようやく、その御方とまた。だから……」
「よ、るな様……っ」
「もう、主さんも、他の子らもわっちには必要ありんせん」
吐息がかかるほどの距離で、ヨルナがタンザの顔を覗き込む。彼女の口から告げられるそれは、ヨルナが屍人だらけの帝都に残っていた理由。
囚われの身になったのではなく、自ら望んでこちらへ残ったという事実。
「――――」
ヨルナがこちらを覗き込むように、タンザもヨルナの青い瞳を覗き込んでいた。
その瞳の奥に、ヨルナが魔都で過ごしながら、魔都の住人たちに、タンザに柔らかく接しながらも、決して消えることのなかった切望の欠片が見える。
ヨルナ・ミシグレはずっと、何かを探し続けていた。
それはきっと、タンザでは計り知れないほど大きく遠く、ヨルナであっても手を届かせることのできない、星のような探し物だったのだと思う。
光り輝き、眩しく煌めいていることがわかっているのに、手の届かないモノ。
ヨルナはずっと、それを探し続けていた。
彼女がそうしたモノの探し人であることを、タンザも、誰もが知っていた。その願いが叶えばいいと祈り、叶わないなら代わりのモノを差し上げたいと望む。
タンザだけではなく、みんながそう思っていた。
そして、それがようやく見つかったと、ヨルナの願いが星に届いたのだと。
それがこうして、タンザの胸倉を掴んでいる理由なら――、
「――もっと幸せそうに、私を拒んでください、ヨルナ様」
そう、タンザは相手の手首を掴み、下手くそな嘘をつく大切な人にそう言った。
△▼△▼△▼△
――ああ、自分は悪い子になってしまった。
白く細い手首を掴みながら、タンザは変わり果てた自分のことをそう嘆く。
こんなはずではなかった。タンザには、タンザの理想とする自分の姿――それこそ、死んでしまった姉のゾーイのようになりたいという理想像があったのだ。
――ゾーイは、とても芯が強く、心優しい女性だった。
タンザの生まれ故郷が滅んだのは、鹿人族の角を煎じれば万能薬になるなんて迷信が流行り、高値で取引される角を狙った野盗の襲撃に遭ったからだ。
父も母も殺され、まだ幼かったタンザは姉に手を引かれ、命からがら逃げ延びた。
だが、姉妹の受難はそれでは終わらない。角を狙ったものの魔の手は幾度も追いつき、そうでなくても弱者は食い物にされるのがヴォラキア帝国の習わし。
何度も命を危うくし、皿一杯のスープを手に入れるために姉がどれだけ過酷な目に遭っていたか、あれから歳を経たタンザにも想像がつく。同時に、何もできずに姉の庇護に甘えるばかりだった自分を、殺したいほど憎くも思うのだ。
「タンザ、誰かを呪ってはダメよ。誰かを簡単に呪う人は、自分も同じように簡単に呪われてしまうの」
痩せ細り、ボロボロの服を纏いながら、一杯のスープを姉妹で分け合う夜に、姉はタンザにそう言って聞かせた。
誰も優しくしてくれず、みんながタンザにもゾーイにも冷たく当たる。そんな世の中を腐したとき、優しい姉は必ずそう言ってタンザを叱った。
苛立ちではなく、親心でタンザを叱る姉。――姉だって、まだ親に甘えたい年頃で、親になるなんて早すぎる歳だったのに。
鹿人の角にまつわる迷信はなかなか立ち消えず、姉妹は一所に留まれなかった。
ずっと逃げて、逃げて、逃げ続けて、逃げ続けるのも疲れた頃に、姉妹の耳に飛び込んできたのが、『魔都』カオスフレームの噂だ。
そこは、多くの亜人族が群れ成して暮らしている、排斥されたものたちの楽園だと。
そこを支配する女主人は強く、慈しみに満ち溢れ、弱者が虐げられるのを許さない素晴らしい人だと。――そんな馬鹿なと、子ども心にタンザは思った。
そんな人がいるはずがない。そんな都合のいい人がいてたまるものか。
そんな人がいたんだとしたら、どうして父と母は死んだのか。どうして、姉はこんなにボロボロで痩せ衰えて、タンザの手を引いているのか。
だから――、
「――よく頑張ったでありんす、ゾーイ、タンザ」
あるはずがない楽園に辿り着いて、ボロボロの、薄汚れた姉妹を城に上げた美しいキモノの女性が、拙く名乗った二人をそうして抱きしめたとき、タンザは初めて、姉が声を上げて泣くのを聞いた。
父と母が死んだ日も、スープ一杯のために見世物にされた日も、聞き分けのないタンザが心無い言葉で姉を罵った日も、ゾーイは決して泣かなかった。
そのゾーイが涙を流して泣きじゃくり、女性の胸に縋り付くのを真横で見ていて、タンザもまた声を上げて泣きながら、心の底から思ったのだ。
この女性の作り上げた楽園を――否、この女性を、ヨルナ・ミシグレを絶対に、失ってはならないのだと、強く強く、幼心に思ったのだ。
――食事と寝床を与えられ、キモノを纏ったゾーイは美しく、タンザの自慢だった。
ヨルナを慕い、彼女に仕えたいと懸命に祈ったものは大勢いた。ゾーイはその中で、一番真面目で努力家で、ヨルナもそんな彼女を重用してくれるようになった。
すごいヨルナに仕え、大切な仕事をするゾーイのことがタンザは自慢だった。
いずれは姉のようになり、ヨルナに誠心誠意お仕えして、カオスフレームという楽園の在り方を大勢の、苦しむ弱者に知ってほしいとそう思った。
姉が死んだのは、その生活が始まって二年後のことだった。
魔都の外で、カオスフレームに庇護を求める亜人族の一団。
それが遠征中の帝国兵の砦近くを通ったとき、姉はヨルナの名代として一団と接触し、彼らを魔都へ案内している最中だった。
帝国兵は亜人族の一団を仮想敵に仕立てて襲い、姉は呆気なく殺された。鹿人の角と無関係に嬲り殺しにされ、亡骸は晒された。
「タンザ、誰かを呪ってはダメよ。誰かを簡単に呪う人は、自分も同じように簡単に呪われてしまうの」
姉の言葉が脳裏を過り、悲しみの中でタンザの心はズタズタに引き裂かれた。
これでも、ダメだろうか。これでも、誰かを呪ってはならないだろうか。ようやく、幸せになれるはずだった姉を殺され、まだ呪ってはならないだろうか。
「主さんは、この国のことが嫌いでありんすか?」
絶望に苛まれ、己の角が折れんばかりに苦しんだタンザに、そう声がかけられた。
姉を真似して袖を通したキモノ、姉の真似事にもならない傍仕えの乏しい知識、そして自分の胸の内すら隠せない弱く脆い心。
そんな自分を見抜かれたと、そう嘆くタンザの頬に、彼女は触れた。
「わっちもでありんす」
触れながら、彼女はタンザの怒りを、呪いを、肯定してくれた。
そして、その呪いを形にする術を、力を持たないタンザの代わりに、動いてくれた。そのために相対するのが、大きな大きな帝国であろうと構わずに。
「――わっちも、この国の在り方が大嫌いでありんす」
『極彩色』ヨルナ・ミシグレが帝国に反旗を翻すのは、いつだって誰かのためだった。
そうしてしまう女性だと知っているから、タンザはそうさせたくなかった。
ヨルナを危ない目に遭わせない子でいたかった。
ヨルナに悲しい目をさせない子でいたかった。
姉のゾーイのように、ヨルナを困らせない、ちゃんとした従者でありたかった。
――それなのに、タンザは悪い子になってしまった。
「ヨルナ様は姉を救ってくださいました」
ぎゅっと、胸倉を掴んだ手首を握り返し、タンザの唇がそう述べる。
タンザの反応と行動、その言葉のどれもが予想外だったのか、ヨルナが青い瞳を見開きながら、微かに唇を震わせた。
その震える唇が、『ゾーイ』と姉の名を象ったのをタンザは見逃さない。
「ヨルナ様は私の勝手な願いを聞き入れてくださいました」
ゾーイが命を落とし、帝都と真っ向からぶつかり合う『謀反』の決着後、姉の敵討ちを済ませてくれたヨルナに、タンザは姉の代わりに仕えたいと願い出た。
役者不足も甚だしい、図々しさの極みのような願い、それをヨルナは快く聞いた。
誠心誠意、タンザは彼女に仕えた。そうすることを許してくれた。
「ヨルナ様は大勢の人生に、幸いをもたらしてくださいました」
自分や姉のことばかりではなく、ヨルナがどれほど大勢の支えになったことか。
どれだけ大勢のものたちが、ヨルナとの繋がりに救われ、守られてきたことか。タンザの言葉や行動など、その感謝の塊のほんの一欠片に過ぎない。
そうしたモノを全部置き去りに、ヨルナが心置きなく進めるというならいい。
ヨルナが自分たちを重荷に思い、身軽になって星の届くところへ飛び上がりたいというならそれもいい。
ヨルナが幸せであれないなら、自分たちといてほしいとは思わない。ヨルナが幸せであれないのに傍にいてほしいなんて言うなら、それは呪いと変わらぬワガママだ。
だから、せめて、繋いだ手を振りほどくなら、幸せを望んで微笑んでほしい。
そうできないなら――、
「――ヨルナ様は、私たちを愛してくださっています」
過去形ではなく、今もそうである想いを手放さず、タンザははっきりそう告げる。
眼前、ヨルナの見開かれた瞳が、その限界を超えてさらに見開かれ、驚愕に落ちる。タンザが言い返すなどと、まるで思ってもみなかった顔だ。
実際、そうだろう。タンザはヨルナによく仕えたかった。ゾーイのように、ヨルナの言葉に静々と従い、叶えるために懸命であるように。
だが、それに不向きな片鱗は、ヨルナと別れる切っ掛けに現れていたはずだ。
カオスフレームを訪れた皇帝と偽皇帝、それらがヨルナを戦乱に巻き込むのを防ぐため、タンザはヨルナに独断で行動を起こし、徒に混乱を拡大した。
結果、その後の出来事でタンザはヨルナと離れ離れになり、多くを見聞きした。
そして果たされた再会で、タンザは真っ向からヨルナに反論をした。
悪い子だ。自分は悪い子になった。
幸せになってほしい人に、幸せになるための行動を妥協してほしくない。そのためなら、相手の言葉や祈りを踏み越えることも、やってしまう。
そんな、悪い子になったのだ。
「――ぁ」
驚きに目を見張ったヨルナ、彼女の唇からか細い吐息が漏れる。
それはヨルナが、手首を強く握られた痛みに反応したものだ。タンザが、自分の胸倉を掴んでいるヨルナの手首を、逆に強く握り返した。
もしも、ヨルナが自分で言った通り、タンザたちのことがどうでもよくなり、自分の望んだことを心置きなくやれているなら、こうはならなかったはずだ。
ヨルナの『魂婚術』は、愛するモノへと力を分け与える。
その効果がヨルナ自身に適用される理屈、自己愛――それは自分への肯定感、自分の行いを正しいと信じられる気持ちの表れと言っても差し支えない。
己が正しいと心から思える限り、ヨルナ・ミシグレには尋常ならざる力が湧き上がる。
だが、そう思えなかったとしたら、どうなる。
『九神将』の一人であり、ヴォラキア帝国の武の頂点の一角でありながら、己の行いを肯定できないヨルナから、加速度的に力は失われていく。
それこそ、生を手放した『屍剣豪』の剣に強さで追い抜かれるほどに。
ヨルナは愛せないものを、肯定できないものの背中を押すことができない。
だから、今の自分の背中を押すことができない。
だから――、
「――ヨルナ様は、その愛情だけは偽ることができません」
その左目に青い炎を点したタンザは、ヨルナの愛を一切疑わずに信じられるのだ。
「――――」
浮いた足を地面について、瞳を燃やしながら自分を見るタンザにヨルナは絶句する。
強く握られた手首を自分で押さえながら、ヨルナは目の前のタンザの顔を、そこに宿った炎というこれ以上ない『愛』の証を、信じられないように見つめている。
まるで、自分は自分の心を完璧に騙せるとでも思い込んでいたみたいに。
「ヨルナ様は、そう器用な方ではありませんよ。――髪を結い上げるのもキモノの着付けも、いつも私や姉、あなたを愛する皆に力を借りていらっしゃるじゃありませんか」
そう言って、タンザはその場に背伸びをし、伸ばした手でヨルナの頬に触れた。
いつか、自分がそうされたように、愛しく慈しみたい相手にそうするように。その指先の感触に、ヨルナの青い瞳が大きく揺れた。揺らいだ。
姉が初めて声を上げて泣いたときのように、頑なな心がひび割れるように。
そこへ――、
「――っ! いけない! タンザちゃん!」
ヨルナと向かい合うタンザの背後、切羽詰まったエミリアの声と、ゾーリが強く地面を踏み切る音が鼓膜を捉えた。
同時に、鞘走りする刃の音――エミリアの妨害を掻い潜ったロウアンの一人が、こちらへ迫ろうとしているのだと察しがつく。
「そこをおどきよ、娘さん。こっちゃ夢見たほどに焦がれた舞台でござんす!」
勝手な発言と共に、相手は疾風の如く駆けてくる。
おそらくは肩越しに、ヨルナはその相手のことを見たのだろう。とっさに彼女の手がタンザの肩に伸び、その体を押しのけて守ろうとする。
先ほどのお返しに、今度は自分がタンザの盾になろうとでもいうように。
「ですが、いけません」
「タンザ……っ?」
押しのけようとする手に踏ん張って耐えて、タンザはその行いを拒絶する。代わりにヨルナを背後に庇うように振り向き、眼前にやってくる醜悪な金瞳と対峙した。
放たれる斬撃がタンザの首を、その後ろにいるヨルナの胸下ごとの両断を狙う。冷たく冷えた空気を焦げ付かせるほどの一刀、それがタンザの首に迫り――、
「――ッ」
「夢見た舞台ですか」
驚愕を喉の奥で押し殺し、ロウアンの金瞳が見開かれる。
それもそうだろう。放たれた渾身の一撃を、こんな幼子に掴み取られるとは思ってもみなかったに違いない。
掲げた手で、タンザは空気を焼き切る銀光を掴み取って止めた。
――ヨルナの『魂婚術』は、愛するモノへと力を分け与える。
自分は正しいと、愛されていることに疑いはないと、そう心の底よりワガママに信じられるものであれば、その効果は絶大となろう。
『タンザも俺のものだから、実質こっち側みたいなもんだろ?』
ああ、腹立たしい。愛されることに自信がある、悪い子がうつってしまった。
それがあまりにも、むず痒くて耐え難い。顔に出ない性質で、本当によかった。
「申し訳ありません。私は忙しいので、幸せな夢を見ている暇なんてありません」
掴み取った刀、手に力を込めてそれをへし折り、タンザは驚きに息を呑む反応に前後を挟まれながら、正面の邪魔者の顔面目掛け、刀を砕いた拳を叩き込んだ。
その鼻面が、頭部の内側にめり込むほどの拳骨を喰らわせ、タンザは宣言する。
楽園を夢見て、大切な人のために祈り続けるだけの日々は終わりだ。
楽園も大切な願いも、自ら動かなくては掴み取ることはできない。
それが姉に救われ、ヨルナに助けられ、ナツキ・シュバルツやプレアデス戦団の仲間たちと出会い、ここへ辿り着いたタンザの答え――。
「――辛く苦しく、愛しい現実が待っているので」
星に手を届かせるために、立ち止まっている暇なんてないのだから。




