第八章幕間 『ウビルク』
――知っての通り、ウビルクは『星詠み』である。
彼が授かった天命は、降りかかる『大災』の滅びからヴォラキア帝国を救うことだ。
そのために、一介の男娼であった彼は慮外の知性を獲得し、ついにはヴィンセント・ヴォラキアから一定の価値を認められるに至った。
無論、それを自分の功績だと自惚れられるほどウビルクはおめでたくはない。
それでも、『星詠み』の役割を与えられたものの多くが悲惨な道を歩むと思われている中で、自分は幸運な立場だったと考えていた。
『星詠み』の多くは、天命を授かることでそれまでの人間性を捻じ曲げられ、新しい生き方を強制されることになる。それを不運や不憫と評されることもあるが、ウビルクからすれば前提条件が贅沢で、恵まれたものの見方としか思えない。
曲がる人間性と、変わったと感じてくれる周りの人間――そうしたものを持ち得ていなければ、そもそもそんな認識は抱かれようもない。
ウビルクはまさにそんな一人であり、何者でもないまま消費されるはずだった生き方を変えてくれた天命に、深く心から感謝していたのだ。
――それは、『星詠み』としての天命を果たし終えてしまった今も、変わらない。
「まーだ、ヴォラキアを救えたわけじゃないんですけどねえ……」
軍備の増強と人材の適切な配置、夜を徹した戦争の準備が行われている城塞都市ガークラの要塞で、持ち場のないウビルクは慌ただしい人々を見下ろして呟いた。
頭の中、その一角を常に占めていた霧が晴れた感覚があり、スーッと思考から霧の影響が抜けて、ウビルクは自分が『星詠み』でなくなったと自覚した。
前述の通り、ウビルクが授かった天命はヴォラキアを『大災』から救うことだった。
にも拘らず、この時点でウビルクが天命から解放されたのは、もはや『大災』に対してウビルクができることは何もないと、そう暗に通達されたのも同然だった。
途端、自分を突き動かしていた熱狂から覚め、ウビルクは裸にされた気分でいる。
「感謝はしてますよ? 感謝はしてるんでーすーがー」
実現に十年近い時を費やした、まさしく一世一代の大勝負だった。
その結果が出る直前で梯子を外されれば、話が違うと不満を言いたくもなるだろう。ウビルクは二心はないとヴィンセントに証明するため、魔眼族として生まれついた魔眼を潰してまで、自分の立場を表明したのだ。
今も、胸の中央には潰した魔眼の古傷があり、寂しいものである。
「まぁ、ぼかぁ魔眼の使い手としては無能なのでいいんですけど」
問題は、今日まで休みなくくべられていた薪が消えて、燻った煙だけを上げ続けている受け売りの信念と、それが消えたあとの自分という存在の置き所だ。
これまでは、天命の指し示す方に進み続け、『星詠み』の役割を全うしてきた。
それがウビルクの戦い方だったものだから、剣を振るなり弓を引くなり、そうした戦士の戦い方など身につけていない。剣奴孤島で過ごした日々も、天命を果たすために死なないことが最優先で、実戦の経験など皆無だった。
だから、誰もが戦う覚悟を決めたこの要塞で、ウビルクは独りきりだった。
「馬鹿正直に閣下にお伝えすべきでーはなかったですかね」
城塞都市ガークラを離れ、決戦のために帝都ルプガナへ向かったヴィンセント。
その出発前、ウビルクは彼から直接問われたのだ。――『星詠み』として、『大災』の回避のためにまだ役立てることはあるか、と。
そこで、まだ天命は残されていると嘘が言えれば、要塞に残されることもなかったか。
「でーも、ぼかぁ帝国を滅ぼしたいわけじゃないんですよ」
居所がないからと嘘をついて、ヴィンセントの気を迷わせるのは利敵行為だ。
ヴィンセントとチシャ、どちらが残るのが帝国のためかと天秤にかけて、ウビルクはチシャの計画に乗り、ヴィンセントが生き残るのを手助けした。
自分は天命を授かったが、天命を授からずに己の生き方を定めたチシャは立派だ。
その選択を汚したくはない。一方で――、
「――――」
忙しない空気の要塞の中、行く当てもないウビルクは幾人もの人とすれ違う。
皆が皆、置かれた苦境をわかっていながら、自分のやるべきことに挑める人々だ。その能力に優劣に拘らず、自分の本分を尽くせるものたちを尊敬する。同時に、羨ましくもあった。少し前まで、ウビルクも彼らと同じ側だったのにと。
それ故に、ウビルクは思う。
「もしも、帝国が危なくなったら……また、ぼかぁ天命を授かれますかーね?」
これ以上は不要と役目を取り上げられたなら、再び、手が必要となったらどうか。
今さら、帝都へ出立したヴィンセントたちにウビルクができることはない。だが、例えばヴィンセントたちが『大災』の元凶を取り除けても、帝国の要職に就くものが命を落としたり、協力関係にある王国の関係者が死んでしまえばどうなる。
それもまた、『大災』とは異なる形の、帝国の滅亡の危機ではないだろうか。
「一度、天命を授かり、その役目を果たした『星詠み』が新しい天命を授かる可能性なんて、ゼロに近い。――でーも、ゼロじゃない」
天命が、ヴォラキア帝国を滅びから救うためにもたらされるものならば。
その新たな危機が生まれれば、その危機を回避するための天命が下るかもしれない。
――そんな可能性への切望が、ウビルクの足を要塞の裏手へと向けた。
「――――」
ウビルクや、帝国と王国を問わず要人が詰めているのはガークラで最も堅牢な大要塞だ。
この要塞まで屍人たちが到達するには、都市を囲った防壁や道中の複数の要塞を陥落させる必要があり、そこまでされた時点で防衛の観点的には大敗北だ。
しかし、城塞都市にはこれ以上の退路はなく、兵たちは最後の一兵まで戦わなければならない。文字通り、帝国の最後の砦となるのがこの大要塞なのだ。
――そこに、綻びがあれば。
「ほんの、些細な」
綻び一つで構わない。
門の閂を外すまでしなくても、ほんのり浮かせておくだけで外れやすくなる。要塞の外壁に簡易的な魔石の時限装置を仕掛けてもいい。一歩、屍人の背を押せれば。
それが用意できれば、火の気の絶えたウビルクの心に次の薪が――、
「――あんた、そんなとこで何してんのよ」
不意に、頭上から降ってきた声に足を止めて、ウビルクは頬を硬くした。
振り向けば、要塞の二階の通路からこちらを見下ろしている視線――車椅子に乗った、焦げ茶色の目つきの悪い女性と目が合った。
連環竜車にも乗っていた、役回りのわからない立場の女性だ。彼女は胡乱げな目で、人気のない要塞の裏手にいるウビルクを睨み、
「まさか……サボり? だとしたら、最悪だわ。あのね、私みたいな足の悪い女だって働いてるのに、死にたいの? あんた」
「……いーえ、サボっているわけじゃ」
「じゃあ、なんでそんなとこにいんのよ。へ、下手な言い訳しないでくれる? 私みたいな世間知らずなら簡単に騙せると思ってんでしょ。そういうの、わかるんだから」
異様に自罰的な視点を交えながら、女性がウビルクをそう糾弾してくる。
一方的すぎる態度だが、何を言い返しても無駄に怒らせそうで、ウビルクはどうすべきか真剣に悩んだ。悩んで、ふと思う。
「ちょーっとお聞きしたいんですが……足が不自由で、おそらくは戦うこともできないだろうお嬢さん、どうして生きていられるんです?」
「あんた、ケンカ売ってんの!?」
「あー、違う、今のは間違いました。ぼかぁ、お嬢さんを悪く言いたいわけじゃーなくてですね……」
目を剥いて、窓から身を乗り出してくる女性に、ウビルクは両手を上げて謝った。謝りながら、本当に言いたかったことを頭の中で組み立てる。
この状況下、戦士たちが行き交う大要塞で、役立てもしない体の不自由な女。
「そんなお嬢さんはどうして、そうやってやれることを探せるんです?」
「そんなの、何もしないでいたら居心地悪いからに決まってんでしょ!」
「――――」
身も蓋もない怒声が投げ返されて、ウビルクはビックリした。
そのビックリしたウビルクに、彼女は「ああもうっ」と苛立たしげに指の爪を噛む。噛みながら、ウビルクを親の仇のように見据え、
「……私ね、この戦いで婚約者が死んだのよ。わざわざ私を助けにきて、死んだの」
「……そーれは、辛かったでしょうね」
「知ったようなこと言わないで。っていうか、あんただけじゃないけど。知ったようなこと、みんな言うけど、余計なお世話よ。でもね」
「でも?」
「車椅子の女がうじうじめそめそと、役立たずのままでいたらどう思われる? ああ、あんなのに構ったから婚約者は死んだんだって、トッドが馬鹿にされるのよ」
わなわなと声と唇を震わせ、怒りの眼差しに涙を浮かべながら女性が言う。
その、説明もなしに飛び出したのが婚約者の名前だろうか。彼女が口にしたのは紛うことなき被害妄想だ。だが、脚色はひどいが、現実を言い当ててもいた。
事情を知らず、彼女と婚約者の関係を知らず、他人事として一時だけ彼女と人生がすれ違えば、そうした哀れみを女性に抱くものが大半だろう。
「哀れみなんかいらない。わ、私が少しでも堂々としてれば、ちょっとでもできる仕事があれば、あのバカが、あのバカを知らない連中に見下されないで済むの」
「――――」
「私は、堂々と生きてやる」
歯を食い縛り、目に涙を浮かべて、痛々しく声を震わせながら、彼女はそう言った。そう言って、彼女は改めて、その潤んだ瞳でウビルクを睨んだ。
ビシッと、高低差のある位置から彼女は指を突き付けて、
「わ、わかったら、仕事探して働きなさいよ。あんた、車椅子の女以下なの?」
それは発破をかけるためなのか、それとも純粋に口が悪いだけなのか。女性の名前すら知らないウビルクには、その真意はわからなかった。
わからなかったが、彼女が己にどんな生き方を定めているのかは十分に伝わった。
そしてそれは――、
「立派でーすね、お嬢さん。あなたは、帝国が滅びる理由を一個、殺したんですから」
『星詠み』でなくなったウビルクを、本当の意味で天命から解放する切っ掛けになった。
△▼△▼△▼△
「そんなわけわかんないこと言って、こっちを煙に巻こうとしたのよ、その男。まぁ、そのあとでちゃんと砦の兵士に仕事もらいにいったみたいだけど……」
憤懣やる方無しと、そう鼻息を荒くしているカチュアの隣を歩きながら、レムは彼女が注意したというその男の話に深々と嘆息した。
こうした、誰もが一丸とならなければならないような状況でも、やはり一定数の問題児は現れる。周りの士気を挫き、輪を乱すような輩が。
「でも、気を付けてください。相手が逆上して、カチュアさんに暴力を振るわないとも限りませんから」
「うぐ、それは……」
「今回は相手が素直に耳を傾けてくれたからよかったです。次からは、私が傍にいないときは無茶はしないでくださいね」
苦い顔で唇を尖らせたカチュアは、レムの心配に何も言い返せない。
素直に頷きたくはないし、かといって無意味に感じの悪いことも言いたくない。そんなカチュアらしい苦悩が垣間見えて、レムは目尻を柔らかく下げた。
スバルたちが帝都へ出立し、都市に残ったレムたちは防衛戦の準備に追われている。
戦えるものたちは各々の配置につき、戦えないものたちはそれらの支援に当たる。治癒魔法の使えるレムは重宝されており、文字通りの総力戦だ。
不真面目な人員を一人改心させたカチュアも、そのために力を尽くす一人――もちろん、奮戦する彼女が、喪失感から立ち直れたわけではないとレムもわかっている。
婚約者であるトッドを亡くし、さらには兄のジャマルにさえ堂々と死地に向かうと宣言されたカチュア。その内心を想像すると、レムも胸が張り裂けそうだ。
それをレムに気遣わせまいとする、カチュアの強がる姿勢もそれを助長する。
だから――、
「カチュアさん、清潔な布を集める手伝いをお願いできますか? きっと、戦いが始まったらたくさん必要になります」
「いいわよ。ほら、私の膝の上とか、意外と物載せられるんだから」
そのカチュアの強がりを指摘せず、レムは彼女に仕事の手伝いを頼んだ。それが今のカチュアに、そして一人でも多くが明日に辿り着くのに必要だと信じて。
と、そこへ――、
「――あ、レム姉様っ」
そう名前を呼ばれ、顔を上げたレムの視界に通路の先で手を振る少女の姿が飛び込む。
頭に大きなリボンを付けた可愛らしい少女――ペトラだ。その傍には長身のフレデリカの姿もあり、さらにもう一人――、
「姉様も、三人揃ってどうしたんですか?」
壁に背を預けたラムを目に留めて、レムがそう首を傾げる。
彼女たち三人は、スバルが言うところの『記憶』があった頃のレムの同僚だそうだ。ひとまずラムとの関係性は納得したが、他の二人とはまだ距離を測りかねている。
そうわずかに緊張するレムに、目尻を下げたフレデリカが微笑み、
「わたくしたちの仕事はひと段落つきましたので、休憩しましょうと誘いにきたんですのよ。緩みすぎず、最低限の緊張感は必要ですけれど……」
「緊張し通しではもたないし、レムと過ごす時間は多ければ多いほどいいもの」
「わたしも、ラム姉様に賛成だったので。それに……」
正直なラムの言葉に笑い、ペトラが意味深にレムを見上げてくる。
そのペトラの眼差しに、レムは一瞬黙って真意を悟った。彼女たちはレムにとって関係性を探り探りの相手だが、同じことは彼女たちにも言えるのだ。
とはいえ、今が有事というのも事実ではあるので――。
「気持ちはありがたく思います。でも、今はそんな場合では……」
「いいえ、レム。それは逆よ」
「姉様……?」
「状況が状況だもの。こんなことしている場合じゃないと思うかもしれないわ。でも、今しか機会がないとも言える。ラムは問答無用でレムを信じられるわ。でも――」
そこで薄紅の瞳を細めて、ラムが傍らの二人を視線で示す。
レムは、切迫した状況だからこそ親睦は後回しにすべきだと考えた。しかし、ラムたちはむしろ、こんな状況だからこそ信頼が大事だと考えている。
「……カチュアさんはどう思いますか?」
「え!? わ、私に聞かないでよ、そんなこと。大体、私は誘われてないでしょ……」
「何言ってるの。レムの友達でしょう? あなたもきなさい」
「な……か、顔は似てるくせに、レムとは大違いに強引な……ううん、落ち着いて考えたらこっちも十分強引な女だけど……っ」
レムとラム、姉妹から同時に話しかけられ、カチュアが大いに戸惑った。
ともあれ、意見を求められたカチュアはしばらく視線を彷徨わせてから、
「……仲良くしとけば? ちゃんと仕事の話もしてれば怠けたことになんてなんないでしょうし、向こうもあんたと会いたかったんじゃない? って思うし」
「カチュアさんっ」
「――カチュア様」
「い、勢いよくこないで! 私、あんたたちの名前も知らないからっ」
悩んだ末にラムたち寄りに意見したカチュアに、ペトラとフレデリカが喜んだ。その二人の勢いに動揺するカチュアを横目に、レムも観念する。
何も、レムも悪い気はしていないのだ。ただ、どうしても気が急くだけで――。
「――そんなにバルスが心配?」
「はい。あの人は無茶ばかりしでかして……ぁ」
胸に手を当てたレムの横顔に、ラムが静かに問いかけてくる。
それがあまりに自然なものだったから、レムもつい反射的に本音が漏れてしまった。
思わず、胸に当てた手を口に当て直し、レムはじっとラムの方を見る。が、姉は片目をつむって自慢げに微笑むばかりで、敵わないなと思い知らされる。
と、そのときだ。――大要塞の空で、大きな大きな破裂音が鳴り響いたのは。
「――っ」
瞬間、弾かれたようにレムは窓の外を振り向き、朝焼けの空を切り裂く閃光を見た。
それは事前に取り決めと通達のあった、都市の物見からの報せ――、
「――フレデリカ!」
「わかっていますわ!」
直後、レムが動くより早く、鋭いラムの呼びかけにフレデリカが反応する。
彼女は素早くカチュアの背後に回ると、車椅子を手で押すための持ち手を掴んだ。
「カチュア様、舌を噛まれないようご注意を!」
「ちょ、ま、待ちなさ……ぎゃうっ」
「フレデリカ姉様、こっちですっ!」
猛然と走り出したフレデリカに、車椅子の上のカチュアが悲鳴を上げる。その車椅子を先導するように、ペトラがタッと小さな体で要塞の通路を駆け出した。
それに一手遅れて、次々と大要塞の各所――否、城塞都市ガークラの全域で人々が動き始める気配があり、瞬間、都市は一個の生き物と化す。
運命共同体、一蓮托生、生きるも死ぬも全員同じの生き物に。
「レム、心の準備はいい?」
街全体が揺れているような錯覚に息を呑むレム、その隣にラムが並んだ。
問いかけに、精悍な姉の横顔を見返し、レムは小さく息を吐くと、
「もし、準備が整っていないと答えたらどうするんですか?」
「そのときは、ラムがレムの心の分まで準備を済ませておいたから安心なさい」
「――。姉様はさすがです」
「当然ね。ラムはそう胸を張りたくなる姉様だもの」
言うまでもなく、勇気を分けてくれるラムに頷いて、レムは前をゆくカチュアたちを追い、姉と一緒に騒がしくなる要塞の中を走り出した。
戦いが始まる。――この帝国の命運を左右する、最後の戦いが。
「お願いします。――あなたが、頼りなんですから」
この場にいない少年のことを思い浮かべ、レムは忸怩たる思いを堪えて祈った。
それが少年を頼ることへのものなのか、それとも少年を傍で手伝えないことへのものなのか、悔しさの源泉はわからぬままに。
レムは前をゆくラムの背中を追いかけ、揺れる要塞を駆け抜けていった。
△▼△▼△▼△
帝都ルプガナからの大規模避難と、それに伴う史上類を見ない規模の撤退戦。
民にも兵にも少なくない犠牲者を出しながら、それでも本来想定された被害を大幅に下回る現状を作り出せたのは、常日頃の帝国民の心構えの影響が大きい。
――帝国民は精強たれ。
その教えと哲学は帝国民の端々にまで染み渡り、極限状態においても多くのものが生き残るための最善手を打つことに成功した。
そうした個々の覚悟と行動が功を奏したのに加えて、連環竜車を始めとした有事の際の備えが十全に機能したことも大きかった。元々、『星詠み』から予言されていた『大災』の訪れを、いずれ来たる脅威と捉えて用意をした人物の功績だ。
その当人が、この『大災』との戦いの場に辿り着けなかったのは痛恨と言える。
「だが、その滅私が帝国を生かした! 自分は敬意を表します、チシャ一将……!」
そう声を大に吠えながら、カフマ・イルルクスは両腕から放出した茨で屍人の群れを薙ぎ払い、背にした城塞都市への道を守るべく奮戦する。
帝都から城塞都市へ続く街道を段階的に展開した帝国軍は、逃げる帝国民の撤退を支援しながら、徐々に都市へ後退しつつ、要塞組との合流を目指していた。
帝都決戦へ参じた『将』たちの中で、カフマが与えられた役割は最も重要度が高く、彼自身は認めないが、ヴォラキアの存亡を左右する働きをしたと言える。
避難民の被害には帝国民の覚悟が、城塞都市の防備には事前の備えが、そして帝国兵の高い士気と必要最低限の損耗にはカフマの奮戦が大きく影響していた。
城塞都市へ徐々に後退する陣のいずれでも殿を務め、その内に取り込んだ『虫』の力で屍人の進軍速度を鈍らせ続けた功績は、歴史書に残されるべき偉業だ。
しかし、それも全てはヴォラキア帝国が滅びを免れればの話。
そして、カフマの常軌を逸した功績は、自らの生存を考慮に入れていないが故の戦果でもあった。
「――ッ」
大平原を見渡す限り、屍人の軍勢が埋め尽くしている。
それらに茨を、光弾を、風刃を叩き付けながら、カフマは己を内側から蝕む『虫』の食欲に歯を食い縛り、己の悲鳴を噛み殺した。
己の体に共生する『虫』の力を用いる虫籠族は、取り込んだ『虫』の種類によって大小様々な能力と戦闘力を発揮する。だが、虫籠族と『虫』の関係はあくまで共生だ。
一方的な使役でもなければ、同化したわけでもない。
当然ながら、『虫』は己の働きの対価を宿主に求める。それは宿主のマナや生命力、そしてそれで足りなければ、血肉だ。
すでに、カフマが死力を尽くすと決めて戦い始めてから五十時間以上が経過し、その間、文字通りの飲まず食わずを強いられていた。
昂る戦意に意識はかつてないほど研ぎ澄まされているが、宿主の精神状態は体内の『虫』には関係ない。ただ、腹を空かせた事実を宿主に訴え、耳を貸さない相手に愛想を尽かし、その肉体を食い破ろうとし始めるだけだ。
「約束を、反故にしているのはこちらの方だ。しかし……!」
ここで、自分が戦線を離脱するわけにも、倒れるわけにもいかない。
帝国には自分以外にも多くの頼れる武人がいるが、カフマはその中でも一番勇敢に死ねる自負があった。その自負を、本物だと証明しなくては。
そのためにも――、
「自分が、ここで倒れるわけには――」
いかない、と己を鼓舞し、内臓を喰い尽くされるままに踏み出そうとしたときだ。
後ろから、大きな掌に肩を掴まれたのは。
そして、その大きな掌の持ち主は――、
「下がれぃ、カフマ二将! 貴公は十分、役目を果たした!」
怒鳴り付けるような大声は、しかしこの人物にとっては平常の声量だ。
風を浴びるような声で言われ、カフマは凝然と目を見開き、隣に並んだ黄金の鎧の巨漢――ゴズ・ラルフォンを見た。
その手に彼しか扱えない鎚矛を握ったゴズ、彼の登場にカフマは驚く。
「何故、前に出られたのです、ゴズ一将。一将は要塞から指揮を……」
「そちらはドラクロイ上級伯がいる! 私が要塞にこもらずとも、かの女傑が兵たちをうまく扱おう! それよりも、戦場の方が私は閣下のお役に立てる!」
「――。でしたら、自分も一緒に」
決死さ、懸命さでひび割れかけた心が、ゴズの登場で再び強く鎧おうとする。だが、そのカフマの訴えを、ゴズは「いや」と引き止めた。
そのまま、ゴズは立てた太い指をカフマの胸に突き当てると、
「貴公の内を、掻き回し貪る音がする。『虫』が制御を失っていよう。貴公が喰らい尽くされでもすれば、それは大きな損失だ!」
「それは……ですが、自分の積み重ねてきたものはこの戦いのために!」
「カフマ・イルルクス! 死ぬこととは、贖罪ではないぞ!!」
「――ッ」
正面から、今度こそ正しく怒声を叩き付けられ、カフマの全身が震え上がった。
このときばかりは、カフマの体を貪るのに夢中だった『虫』たちも動きを止めて、眼前のゴズの猛々しい気配に身を竦ませる。
そうなるカフマを見下ろし、ゴズは傷だらけの髭面を怒らせ、
「貴公がなおも、同族がバルロイめと組んで起こした反逆の咎を償おうとしているのはわかる。だが! 死んで果たせる償いではない! 貴公は生きよ!」
「ゴズ一将……」
「この『大災』が収まったのちも、帝国は即座に元通りになるわけではない! まだまだ私も貴公も閣下のお力になれる! 故にだ!」
怒号に忠義をはち切れんばかりに詰めて、ゴズがカフマの考えを殴りつける。
ここは命の捨て場所ではないと、自分の内心まで見透かされたカフマは強く目をつむり、ゴズの前で深々と頭を下げた。
「なに、どのみち、貴公が下がろうと、下がったままで終えられるほど容易い闘争ではない。またすぐに出番がくる! それまでに喰らい、眠り、気力を戻せ!」
「承知、しました。ゴズ一将、この場をお任せします……っ」
「言われずともだ。――私も、鬱憤は溜まっている!」
絞り出したカフマの言葉に破顔し、ゴズが肩に担いだ鎚矛を敵陣へ向ける。
彼以外には軽々と扱うなど不可能だろう超重量のそれを構え、ゴズの全身から、可視できると錯覚するほどおびただしい闘気が溢れ出した。
再び、自分の体内の『虫』が怯えるのを感じ取りながら、カフマは思う。
帝国の滅亡を未然に防ぐ鬼謀を発揮したチシャ・ゴールドも、覇気をみなぎらせて立つだけで『虫』たちを怯えさせるゴズ・ラルフォンも、ヴォラキア帝国の一将とされる座へ至ったものたちは、いずれ劣らぬ超越者なのだと。
そこに自分が並べられかけた過去と、並ばなくてはならない未来を思い描き――、
「――帝国は強い。屍人や災厄などに奪われるほど、自分たちは易くはないぞ」
△▼△▼△▼△
「強いとか弱いとかではなく、物量の問題は如何ともし難いですね。幸い、城塞都市の物資と防備は潤沢ではありますが……そう何日も籠城はできません」
「はっきりと言うものだ。まぁ、相手の顔色を窺って碌々意見もできないようなものよりよほど好感が持てる。智謀に武力が追いつけば、より私好みだが」
「ドラクロイ伯、脱線はそのあたりに」
そう窘めてくるベルステツは、糸のように細い目でセリーナを睨む。その眼差しに肩をすくめるセリーナに、口説かれたオットーは小さく息をついた。
場所は大要塞の指令室、顔を突き合わせているのは本格的な都市防衛戦において、指揮を執る役目を担わされたものたちだ。
物見からの報告があり、大要塞を中心に臨戦態勢へ突入した城塞都市ガークラ。
敵の進軍を押しとどめていた遅延部隊も都市に合流し、ヴォラキア帝国が誇る最強の防御力を持つ都市を舞台に、帝国史上最大の籠城戦が始まろうとしている。
「とはいえ、普通の籠城戦の勝利条件は援軍の到着やけど、今回はそれは見込めんわけや。あくまでウチたちが勝ったて言えるんは……」
「――ナツキくんたちと皇帝閣下が、敵の首謀者を見事に討ち果たしたときのみ。ボクたちはそれまで、ヴォラキアが滅びないように奮闘する役目というわけだ」
「ヴォラキアが落ちたら、そのままカララギもルグニカも危ないやろし……なんや、ホントに世界存亡をかけた戦いってことやねえ」
白い頬に手を当てて、そうはんなりと唇を綻ばせるアナスタシアの言葉に、合いの手を入れる狐の襟巻きが呆れたように嘆息する。
何とも珍妙な見てくれだが、狐の襟巻きはアナスタシアが連れた精霊だそうだ。使える頭は一個でも多い方がいいと、まさしく総力戦の様相を呈している。
「まずは都市の防壁がどこまでもつか、だ。イルルクス二将と入れ替わりにラルフォン一将が向かった。あの見た目で存外に繊細で器用な仕事をする男だからな。可能な限り、閣下のお達しに従ってゾンビの命は奪わぬはずだが……」
「不殺を一貫するのは無理ですよ。それはゴズ一将だけでなく、他の誰でも同じです。強いて期待が持てるとすると……」
「あの、ナツキくんのお友達一行らかなぁ」
「と、思いますね」
アナスタシアとオットーが顔を見合わせ、互いの意見をすり合わせる。
二人が話題に上げたのは、城塞都市の珍奇な防衛戦力として期待が寄せられている『プレアデス戦団』の面々のことだ。
ヴィンセントと奇跡的な友誼のような関係性を結んだ黒髪の少年、彼を代表とした一団は強い連帯感と不可解な戦闘力で、避難民の支援に一役も二役も買った。
現状、代表の少年はヴィンセントらと帝都へ向かい、代わりに集団を率いているのはグスタフ・モレロ――堅物な多腕族を筆頭に、剣奴たちが大暴れしている。
「士気も高く、不殺性能も高いか。たびたび思うが、ナツキくんは必要なモノを必要な場所に持ってくる天才だな」
「ええ、それが唯一の取り柄みたいな人ですからね。できれば届け物や橋渡しだけして、一番危ういところに突っ走る悪癖は何とかしてほしいですが」
「せやけど、それはエミリアさんの方が問題なんちゃう? エミリアさんが前に前に走り出してしもたら、ナツキくんも走らんわけにはいかんもん」
やれやれとアナスタシアが首を横に振り、同調するようにオットーが肩を落とす。
そうしたやり取りを眺め、人間関係の推移を見守るのも乙なものだが、長々と時間を費やすと宰相の視線が厳しくなる。
セリーナは咳払いをし、一同の注目を集めると、
「事前の取り決め通り、我々の戦闘方針はあくまで籠城、防衛戦だ。これといった相手を倒せばケリがつくというのであれば、それを暗殺するのも考慮に入れたいが……」
「現状、帝都へ向かわれた閣下たちが暗殺のための矢ということになりましょう」
「そうなる。――総力戦だ」
セリーナの一言に、ピリッと空気の渇く感覚があり、全員の表情の熱が変わる。
直前までの笑いを交えたやり取りは終わり、ここから先は死力を尽くす世界だ。
帝国軍の将兵、反乱軍の戦士たち、プレアデス戦団の剣奴に『シュドラクの民』、果ては王国の協力者に都市国家の使者と、存在するモノ全部を使った戦い。
その、最初の関門として――、
「期待させてもらうぞ、都市国家の使者」
「ええよ、任せとき。――ウチの覚えてる限り、ウチの期待を裏切ってくれたこと、ないんやもの」
△▼△▼△▼△
――ヴォラキア帝国の戦争において、他国と最も異なる部分はどこか。
帝国兵の心構えや、戦争に挑む気概の強さといった部分を無視すれば、その答えは単純明快――飛行戦力の有無だ。
他国にはない『飛竜繰り』の技術と、多数の飛竜が生息する帝国の独自性は、戦争においても十全にその優位性を発揮してくる。
考えずともわかる話だが、空を飛べるということはそれだけで戦争を有利にする。
事実、同規模の都市の中では高い守備力を誇るとされていた城郭都市グァラルは、『飛竜将』マデリン・エッシャルト率いる飛竜の群れに壊滅状態に陥った。
ただ、手の届かぬ位置から物を投げ落とされるだけで、戦いは一方的になる。
その脅威は、高い高い防壁に囲まれた城塞都市ガークラであっても変わらない。
しかし――、
「放テ――っ!!」
城壁の上に並び立ち、弓を構えたシュドラクが一斉に矢を空へと放つ。
逃げ場のない矢の弾幕が空を覆い、真正面から無数の攻撃に穿たれるのは、堅牢な都市を上空から襲うよう命じられ、空を駆って迫る屍飛竜の群れだった。
容赦のない一撃に穿たれ、頭部を砕かれた屍飛竜が次々と塵と化して地へ落ちる。
中には、多少の攻撃を意に介さずに飛行を続ける個体もいるが――、
「やっちまエ!」
「落っこちちゃうといいノー」
太さも長さも、通常の矢と比較にならない一撃をぶち込まれ、そうした個体は空中で木端微塵に吹き飛ばされる末路を迎える。
飛行戦力に対し、無類の強さを誇るシュドラク――彼女たちの戦いぶりは、前述の城郭都市での大敗、その経験が大いに影響していた。
あの敗北がなければ、シュドラクはここで屍飛竜と戦えなかっただろう。
全ての戦いに意味を持たせ、『シュドラクの民』もまた、ヴィンセント・ヴォラキアの追放から端を発した帝国の動乱を最初から戦ってきた。
その、彼女たちの意気に応えるように――、
「いケ! 顔のいい男ヨ!」
「ご期待に沿おう。――アル・クラウゼリア」
優麗な声色が詠唱を紡ぎ、振るわれる騎士剣の切っ先が空をなぞれば、その軌跡を追いかけるように生まれた虹の光が屍飛竜たちの進路を阻んだ。
虹の極光はその美しさと裏腹に、あらゆるものを拒絶する防壁となる。
「蕾だった頃とまた違う、花開いた彼女たちの瞬きだ」
ほんの瞬きほどの時間だけ、城塞都市の空を覆った虹の極光――しかし、その虹の規模と範囲の広さは、広大な城塞都市の半分ほどを守り切る。
その規格外の攻防力に、前線で戦う帝国兵たちも、同じく防壁で都市を守る任につくものたちも言葉を失い、次いでその頼もしさに勇気を与えられずにおれない。
そうした士気の高まりを肌に感じながら、虹を生んだ騎士――ユリウス・ユークリウスはキモノの裾を翻し、改めて空を仰ぐ。
左目の下、白い傷跡も精悍な青年は、義によって参加した戦いにおいても、一片の迷いもない眼差しでやるべきを見据え、死者たちの迫る空を、大地を見据えながら、その彼方に向かった友の奮戦を信じ――、
「――私は私の役目を果たそう。君も、存分にやるように、スバル」




