第八章41 『地獄の在処』
――グルービー・ガムレットは『星詠み』に興味がない。
それは嫌悪や敵愾心がもたらす拒絶感ではなく、正しい意味での無関心だった。
そもそも、普通に生きていれば『星詠み』のような世迷言を並べる輩と接触する機会は稀だ。『将』という立場上、城への出入りを許されたウビルクと出くわすことはあっても、彼は自分の用がある相手以外とは滅多に話そうとしなかった。
グルービーも、会議に茶々を入れる彼を黙らせたぐらいしか話した覚えがないほどだ。
そんな心証の相手であるから、皇帝であるヴィンセントと腹心のチシャが、やけに『星詠み』の動向に注意を向けていたのも理解に苦しむ。宰相のベルステツが『星詠み』をどう思っていたかは不明だが、グルービーの嗅いだ限り、彼の帝国への忠誠心は本物で、ヴィンセントに抱いている複雑な怒りは判断に影響を与えるものではなかった。
なので、帝国の首脳陣が各々の態度を決めている以上、関わる機会もないグルービーが『星詠み』に関心を持つ理由自体がなかったのだ。
それだけに、この帝国の存亡をかけた『大災』との衝突が、事前に『星詠み』の知るところだったとわかれば、その口からは口癖の悪罵が山のように溢れただろう。
だが、少なくともこの場において、グルービーの口から馴染み深い悪罵が飛び出した理由は、『星詠み』何某への怒りが理由ではなかった。
「――クソがぁッ!」
左胸の上に浮かび上がった灰色の茨、それを毟ろうとした指がすり抜けた瞬間、鋭い棘に心の臓を貫かれる激痛がグルービーの獣毛を逆立てた。
体の内側、それも命と直結する急所に鋭利なものを突き立てられる感覚は、歴戦の戦士であろうと表情を歪めずにはおれない痛みだ。
憎たらしいことに、茨には実像がない。振り払うことができない。
一方的に浴びせられる痛みにギリギリと奥歯を噛み、グルービーはすぐ傍ら――自分が腰にしがみついている鉄兜の男を見る。
当然、グルービーと同じ呪縛を受け、彼もまた痛みに身悶えしていたが――、
「クソが、下がんだよ! 状況がもっとクソ悪くなる!」
「下がれって……ぐおっ!」
反応の悪い相手、アルの土手っ腹をぶん殴り、強引にその体を後ろへ下がらせた。
呻く彼が後ろ向きに通りに倒れると、グルービーはその体を引っ掴み、すぐ脇にある建物の陰へと素早く引っ込む。
無差別の範囲攻撃だ。こうして通りに潜む意味は気休めでしかないが。
「それでもぎゃあぎゃあ騒いでいるところを見られてわらわらと屍人が集まってくるのは避けたいところですからね」
「……てめえはクソ茨喰らってねえのか?」
「いいえ? もらっていますよ。どうせならツタだけでなく花まで付けてくれれば贈り物としては文字通り華があったと思いますが」
グルービーたちと同じ通りに舞い降り、セシルスが左胸を叩いてそう述べる。
その彼の胸にはグルービーと同じ茨が透けていて、痛みも同じだけあったはず。それでも、彼がグルービーでも眉を顰める痛みにへらへらしているのは――、
「花形役者の振る舞いというのは常に観衆の注目の的なんですよ。これが愛する誰かや大切な友人を失った上での痛苦に歪めた表情であれば感動も誘いましょう。でもただ自分自身が痛いからと顔を歪めては役者の格が落ちるのみ」
「だから、クソ痛かろうがクソ苦しかろうが顔は負けねえ。それがてめえのクソ馬鹿な心構えってんだろ」
「あれ? 僕この話前にもしましたっけ?」
「してんだよ、クソッ」
首をひねったセシルス、彼の哲学なら聞きたくもないのに嫌というほど聞かされた。
セシルスの戯言に聞く耳を持たないものが多い中、気持ちが引っかかると突っかかってしまうグルービーはたびたび彼に絡まれていた。彼の哲学を馴染み深く覚えているのはそれのせいだ。
もっとも、それを話したことを忘れた今、手足の伸び切る以前からその理論を実践していたとは恐れ入るのを通り越して普通に馬鹿なのが発覚した。
と、そんなグルービーとセシルスがやり取りしていると、
「げほっ……なんだ、茨の痛ぇのが収まった?」
引きずられた路地で体を起こし、アルが胸の茨を見下ろしながらそう呟く。代わりに彼は殴られた腹の方をさすり、恨めし気な空気をグルービーに向けて、
「殴られた腹の方がよっぽど痛ぇ……どうなってやがる?」
「てめえがとっとと下がらねえのがクソ悪ぃ! ……茨の方は、たぶん距離だ」
「ほうほう、それはつまりこの茨の術者と僕たちとの距離ということですね? 確かに下がった途端に痛みが消えたならそれが道理! 僕たちは引っ付いていたからなおさらわかりやすいですね。最初にお腹側のグルービーさん、次に挟まれていたアルさん、最後に背中の僕と一秒に満たない時間でも差はありました」
「……でも、茨は消えてねぇ」
スカスカと、不可触の茨に指をすかしながら、アルが苦々しく呟いた。
彼の言う通り、痛みは薄れても肝心の茨は消えていない。痛みというわかりやすい難点が消えても、茨との接点が消えないのは気掛かりだ。大抵の場合、この手の残り続ける呪縛には標的の居所を感知する効果がある。
この茨がある限り、こちらの居所は相手に筒抜けの可能性が高い。
「そうなるとせっかく隠れてもわっと手勢が差し向けられるかもしれませんね。――あまり敵を倒しすぎるのもよくないというのが僕の考えなんですけども」
「さっきも言ってたな。理由は」
「さっきも言いましたが勘です」
「……てめえのクソ勘か」
躊躇なく閃きを理由にするセシルスを、グルービーは馬鹿な戯言と笑えない。
笑える状況ではないのと、戯言と切り捨てられない実績がある。セシルスとアラキアは一将の中でも完全な直感型だが、それぞれ違った理由で勘所がいい。
グルービーも、この規模の災害を引き起こした相手が、ただの力押しという単調な手を打ってくるとは考えていなかった。
むしろ、相手が力押しだけなら、ヴィンセントやチシャの相手にはならない――。
「――――」
一瞬、ちらとセシルスの横顔を見やり、グルービーは押し黙る。
色々と頭の中を過る考えはあったが、そもそも相手が力押し一辺倒を選択したなら、セシルスやアラキアがいる帝国とぶつかり合うのが誤った考え方だ。
その前提を間違えるような相手など、ヴォラキア帝国の敵にはならない。
無論、こうしてセシルスが縮むところまで相手の狙い通りなら大したものだが、それに関してはグルービー自身の嗅覚が否定する。
セシルスを縮めたのはチシャだ。それはマナの残り香から間違いない。
そして、チシャが帝国を滅ぼす側に加担することはありえない。とはいえ、結局、チシャの思惑を図りかねるのがグルービーとしては据わりが悪くて仕方がないが。
「居場所がバレるってんなら、長々と考えてる暇はねぇ。どうする。全員でつっかけてって、呪ってきてる張本人をとっちめるか?」
「ええ。それが最速の解決策! と言いたいところですが先ほどのグルービーさんの見立てだと呪いの効力は距離と関係しているということでした。ということは離れて痛みが遠のいたわけですから相手にギュギュっと近付くと……」
「今度はあの程度の痛みじゃ済まねぇか」
「かもですです」
頷くセシルスの推測に、アルが悔しげに胸の茨を睨みつける。
そのセシルスの考えにグルービーも同意見だ。この、範囲内の対象に無作為に茨の呪いを振りまく敵の恐ろしさはそこにある。
術者に近付けば近付くほど、茨の呪いは強く働く。おそらく大抵の人間は、術者に手が届くより前に痛みで行動不能に陥るだろう。
「そうなりゃ、どんなクソ馬鹿だろうと動けなくなるだろうよ」
「そこで僕の方を見るということは僕が考えなしに突っ込んでいきかねないうつけ者と思ってのことですね? でもさすがに僕もここで無策で突っ込んだりはしませんよ。苦痛に耐えながら相手を斬ることで問題を収められるならそれも一興ではありますが――」
と、一拍区切ったセシルスが胸の前で強く手と手を合わせ、音を鳴らす。そのまま彼は両手の指を合わせ、その隙間からグルービーとアルを交互に眺めると、
「そうではない、でしょう? 相手の首を刎ねて済む問題ならとっくにグルービーさんが僕を送り出してそうさせているはずですし」
「……それが呪いってクソのクソ厄介なとこなんだよ」
妖しく笑うセシルスの前で、グルービーは嘆息を禁じ得ない。
これが魔法なら、術者を殺せば大抵の場合は効力を失う。魔法は術者がマナを用い、世界に干渉する形で発動するものだから、術者が消えればそこまでなのだ。
しかし、呪術は対象を死に至らしめる被害に特化した代物である。
そのために対象のオドと結び付けて発動するものが多く、術者が死んだとしても、標的が生き続けている限り効力を失わないものがほとんどだ。この茨など、明らかに術者よりも標的のオドに依存したもので、まさにその代表格と言える。
この手の呪いの解呪は術者に解かせるか、裏技を使うしかない。
「クソ刀のムラサメがいる。そいつを取ってこい」
顎をしゃくったグルービーの指示に、セシルスとアルが揃ってきょとんとする。
知らないアルはともかく、知っているのに忘れたセシルスが憎たらしい。その憎たらしいセシルスの胸倉を掴み、グルービーはぐわっと歯を剥いた。
「『邪剣』ムラサメだ! 呪いだの契約だの、ああいう形のねえもんをぶった斬るのはあのクソ刀が一番手っ取り早ぇ! 探してこい!」
「ええ!? そうは言われましても知らない剣ですよ!? どこにあるのかわからないと探してこようにも……それともグルービーさんなら臭いで場所がわかります?」
「無駄だ。あのクソ刀は俺が鼻で追えねえように、臭いを斬っちまった。年中血の池に沈めてても臭いじゃ追えねえんだよ、クソッ」
そうでなくても、ムラサメは剣の状態から鋳溶かし、刀に打ち直したグルービーのことを嫌っていて、手に取ることさえも許そうとしない。
扱いづらいという意味では所有者のセシルスとどっこいな『邪剣』、その在処はグルービーの鼻では探すことができないのだ。
「――けど、それがあればこの茨はどうにかできるんだな?」
詰め寄るグルービーととぼけた顔のセシルス、その二人のやり取りの傍らで、立ち上がったアルが低い声でそう確認してくる。
その真剣な声色に、グルービーはセシルスを解放して頷いた。
「そうだ。あるとすりゃ、クソ馬鹿の家か秘密の保管庫だが、クソ馬鹿が秘密を秘密のままにしとけるとは思えねえからそんなもんはたぶんねえ」
「同感だ。家ってどこにあるんだ?」
「水晶宮の庭だ。クソ馬鹿小屋でアラキアと暮らしてる」
「待ってください待ってください! グルービーさんの散々言ってるクソ馬鹿って僕のことだと思いますけど知らない名前が飛び出してきましたよ誰ですか!」
「アラキア……あの嬢ちゃんとできてて、城の庭で? 世間が狭すぎるだろ……」
「いや、できてはねえんだ、たぶん」
アルのこぼしたもっともな呟きに、グルービーは鼻面に皺を寄せて答える。
セシルスとアラキアの関係は、傍で見ているグルービーにもよくわからない。互いに十年近い付き合いらしいが、セシルスが他人をどう思っているか謎だし、アラキアがセシルスを嫌っているのは確かなのだが、一緒に暮らしているし、食事も共にしている。
番っていたらグルービーは臭いでわかるが、その様子もない。たまに本気で殺し合っては帝国の地形を変えたりするので、傍迷惑な二人だ。
「だが、『夢剣』も『邪剣』もクソ馬鹿が縮んだあとも放っとかれてるとは思えねえ。だからありえるのは……」
「――。城に入れるんなら、そもそも最初からそうしてんだぜ」
もしも回収されて城の中にあるとしたら、という不安の懸念はアルの言う通りだ。
水晶宮へ乗り込めるなら、援軍を当てにした頂点攻略という手段は取らない。だが、援軍を迎え入れるためにも、この術者を封じるのは必須条件で――。
「うーん、どうでしょうね。そんなすごい武器を城に置きっ放しなんてもったいないことをするでしょうかね。意味ありげに出てきた武器は使われなくては」
そこに、頭の後ろで手を組んだセシルスがそう口を挟む。
話し合うグルービーとアルに背を向けたセシルスは、これ見よがしにちらちらとこちらを見ながら「うーんうーん」と唸っている。
「あんだよ。言いてえことがあんならクソってねえで言え」
「いえいえ。お二人はお二人で話されたらいいんでは? どうせ僕が何を言ったところでお二人の耳には入らないようなので別に別に」
「アラキアのことで拗ねてんのか、クソが! てめえとよく殺し合ってる女だ! その辺にいやがんだろ! 以上だ、クソ馬鹿、とっとと話せ!」
「ええ~、そこまで欲しがられては仕方ありませんね。――ズバリ、相手の立場からしたら城に置いておくより誰かに持たせてしまった方が良いのではというお話です」
拗ねた顔から一転し、破顔したセシルスの発言にグルービーは眉を寄せ、それから思った以上に真っ当でありえる意見を出されたことが悔しくなった。
つまり、セシルスの推測が正しければ、『夢剣』と『邪剣』という強力な武器は、屍人のいずれかが持たされている可能性が高い。
それも――、
「それだけ強力な武器というなら大事な場所を任せる相手に持たせるのでは?」
「クソッ」
セシルスの言う通り、その可能性が最も高いとグルービーも悪罵で賛同した。
となれば、削れる可能性を削って、適切な場所へ向かうのが得策だ。
「三番にバルロイがいやがるなら、野郎は違ぇ。あいつの得物は槍だ。わざわざ持ち替えるクソ判断はしねえ」
「それなら他のどこかですね。せっかくアルさんが父さんたちを囮に使ったのが無駄になってしまいかねませんが」
「いや、オレもこいつが一番どけなきゃならねぇってのは同意見だ。……兄弟たちがきたとき、こいつ一人に足止めなんて冗談じゃねぇ」
アルが握りしめた拳を震わせ、それに片目をつむったセシルスがグルービーを見る。
方針は定まった。『邪剣』を手に入れるため、持っていそうな相手を他の頂点に探しにいくという行き当たりばったり感の否めない手ではあるが――、
「クソ馬鹿、せめて最初に引き当てろ。どこの可能性が高い」
「うーん……何となく二番ですかね?」
「南東なら、まだこっからは近いとこだな。なら、また皮衣使って三人で……」
「いや」
向かう頂点を決めたところで、アルの言葉をグルービーが遮った。
首を横に振り、グルービーは手にしていた人狼の皮衣をアルへ放ると、二人に背を向けて路地の入口へ向かう。
そして――、
「こっからは別行動だ。このクソ敵が動かねえように頭を押さえる必要がある。――クソったれな役目だが、俺しかできねえ」
「――っ、話はわかるが、茨があんだぞ! 条件はオレもあんたも一緒だろ!?」
引き止めようとするアルの声に、グルービーは足を止めない。
こちらを追おうとするアル、その胸をトンとセシルスの小さな手が止めた。そうしてアルを押さえたまま、セシルスは歩くグルービーに問う。
「勝算があるんですよね?」
「少なくとも、クソ馬鹿が仕事する時間は作ってやる。俺を誰だと思ってんだ。『九神将』の『陸』、グルービー・ガムレット様だぞ」
ぐっと腕を掲げて、グルービーは背中越しにセシルスへと自信の根拠を告げる。
それがセシルスには殊の外響いたらしい。彼は見なくてもわかる上機嫌な鼻息をフンフンとこぼすと、
「ではどうぞ存分に。次は『邪剣』と共にお目にかかりましょう!」
そう、聞き慣れた花形役者らしい口上で以て、石畳を蹴るグルービーを戦場へと送り出したのだった。
△▼△▼△▼△
――セシルスとアルと別れ、一人になったグルービーが帝都を跳躍する。
人目も憚らずに街路を飛び越え、建物の壁を屋上を蹴り、豪快に跳ねた。
ここから先は人狼の皮衣を被ってするような隠密行動と違い、あえて派手に動いて相手の注意を惹き付けなくてはならない。
ようやく、ようやっと、グルービーらしい本領発揮の機会が訪れた。
「クソ窮屈な真似させてやがって……ッ」
溜まりに溜まった鬱憤を舌に乗せ、グルービーが憎々しげに悪罵を口にする。
元より、グルービーは逃げ惑うであるとか、他人の目から隠れ潜んで行動するとか、そうしたちまちました行動が好きではないのだ。得意不得意の話ではなく、嫌いなのだ。
にも拘らず、屍人の出現で西方戦線を離脱してからこっち、帝都へ至るまで延々とそれを強制され続け、いい加減、我慢の限界だ。
無論、その鬱憤が理由で単独行動を提案したわけではないが、こうして自由に暴れる機会を得たからには、それを満喫させてもらう。
「――きやがったな、クソが」
膝を抱えてくるくると縦回転するグルービー、その獣毛に覆われた胸に浮かんだ茨の蔦が蠢いて、術者との距離が縮まったのを理由に縛めが再発動する。
心の臓へと直接突き刺さる激痛は、たとえ痛みに慣れている戦士であっても容易に耐えられるものではない。それは先述した通り、嘘偽りない事実だ。
ただし――、
「相手を痛めつけるクソ呪いってんなら、抜け道はあんだよッ」
そう吠え、グルービーが己の体に巻いた胴締めの帯から一本の短剣を引き抜く。
複数の短剣が装填された帯から選ばれたのは、その刀身に紫の線が入った一本で、グルービーはその短剣の切っ先を自分の首に向け、刃先を自らに押し込んだ。
途端、短剣の刃先に仕込んであった毒がグルービーの体内へ流れ込み、血流に乗って髭犬人の矮躯を急速に蝕んでいく。猛毒が生き物を殺すという本分を果たせる喜びに喝采して駆け巡り、その生命活動を致命的に絶ち切ろうと――寸前で、刃を引いた。
「――あァ」
胃の中身が逆流する感覚を堪え、グルービーの見開かれた目が血走る。
眼球の毛細血管が千切れ、その双眸を赤く染めながら、しかしグルービーの肉体は猛毒に殺される手前で踏みとどまり、代わりの変調をもたらした。
体の感覚の一部が猛毒で沈黙した。――痛覚を、殺したのだ。
瞬間、グルービーの足を止めかねなかった茨の痛みが消え、心の臓を締め付ける拘束感は陥った生命の危機を強引に乗り越えた興奮が超克する。
本来なら、この毒は捕らえた敵に投与し、痛みを感じなくなった相手に意識がはっきりした状態で、自分の体が壊されていく過程を見せる拷問に用いるものだ。
だが、投与量を調整すればこの通り、体の自由を残したまま、痛覚だけを壊した状態で活動することができるのではと思っていたのだ。試したいとは思いつつも試す機会はなかったが、ぶっつけ本番でうまくいった。
「セシルスのクソ馬鹿で試したら、ヘマしたとき取り返しがつかねえからな」
自分の体のことなら、獣毛の数から牙一本分のブレもなく把握している。そのおかげで微調整もできるが、セシルスやアルに試そうとすれば命懸けの目分量だ。
あるいはセシルスですら毒では死ぬのか、それを試したい気持ちがないではないが――むくむくと込み上げる好奇心を抑え、グルービーは四番頂点を目指す。
状況が状況だ。この場は、ヴォラキア帝国を滅亡の危機から救うのが最優先。
本当なら、この屍人が蘇るという状況を最大限に利用し、すでに滅びた種族や、数の限られた稀少人種の素材を片っ端から集めたいが、涙を呑んで見送るしかない。
そうするだけの理由が、グルービーの中には沸々と燃えていた。
「クソが」
短く吐かれた悪罵、それは消えることのない苛立ちからくるものだ。
――こうして屍人に支配された帝都を目にしたときから、グルービーはヴィンセントかチシャのどちらかが死んでいる可能性を想起していた。そして、どちらかが死んでいるとしたら、死んだのはチシャの方だろうとも。
ヴィンセントの歩みに、どこか淡々とした死の香りが付きまとっていた兆しはあった。だがあるとき、それがぷつりと立ち消えたかと思いきや、この事態だ。
「クソ白い面したクソ馬鹿野郎が」
淡々と感情を窺わせない男だったが、彼はついに臭いにさえも心中を隠し切った。
帝都決戦を目前に、グルービーを戦場から西方へ遠ざけたのはヴィンセントの指示だったが、あのヴィンセントがチシャだったのだろう。
その間、ヴィンセントがどうなっていたのかグルービーは知る由もないし、セシルスが縮んだ経緯も想像すると、チシャの独り勝ちだ。
だがその勝利も、帝国が負けてしまえばなかったことになる。
「クソが」
そんな、馬鹿げた話があってたまるものか。
グルービーは帝国に生まれ、帝国で育ち、帝国で生きている髭犬人だ。グルービーの働きには種族の地位向上がかかっており、勇ましく戦って死ぬのが務めと言われ続けた。
グルービーは自分が帝国史に名を刻む存在として生まれた自覚があったし、事実として皇帝に見出され、帝国一将へととんとん拍子に出世した。
そのグルービー・ガムレットが、自分と対等かそれ以上と認めたのが『九神将』だ。
グルービーは帝国の戦士であり、『帝国人は精強たれ』という哲学を奉じる一人だ。
だからこそ、勝敗とは神聖なものだ。――勝者は、称えられなければならない。
「クソがクソがクソがクソがクソがクソがクソが……ッ」
戦いの絶えないヴォラキアで、その不文律さえも歪められればこの世は地獄だ。
そして地獄とは、ヴォラキアの敵が味わうものであり、この世を地獄とするわけにはいかないのだ。
地獄の在処を、敵にわからせてやらなければならない。
「――クソ発見」
くるくると、回転する視界に動く複数の人影を見つけ、グルービーが呟く。
眼下の屍人の群れも、飛んでいるグルービーを見つけて何事か叫んでいる。が、反応が悪すぎる。放置しておいても害ではないが、放置しておいてやる理由がなかった。
何よりも、血の臭いの中でグルービーが獲物を見逃す選択肢はない。
音を立てて牙を合わせ、グルービーが背中に背負った鎖鎌を抜いた。
片手で扱う幅広の鎌と、鎖で分銅とを繋いだ扱いに癖のある武器だ。通常、鎖の長さはせいぜい数メートルで、近距離と中距離とで戦うことを想定されているのが鎖鎌だが、グルービーのそれは特殊な素材でできている。
それ故に、三十メートル近く離れた屍人の集団にも、鎖分銅は悠々と届いた。
鎌を持った手を大きく振り回し、遅れてついてくる鎖分銅が鎖の音を奏でながら地上へと豪快に飛んでいく。分銅の大きさは拳一個分だが、加速のついた威力は純粋な拳骨一発分で換算できるものではない。
当然、屍人たちはそれを受けまいと飛びのき、分銅から逃れるが――甘い。
「クソ馬鹿共がぁッ!!」
グルービーの咆哮、それが向けられた先、投げつけられた分銅が地面と接触する。
刹那、分銅が内側から一気に赤化し、周囲の建物を巻き込んだ大爆発が発生、凄まじい衝撃波が逃れた屍人たちを呑み込み、帝都の通りが一本壊滅する。
――カララギ都市国家の北西、大瀑布近くにあるギラル赤丘。
赤い砂漠地帯に見えるその場所は、砂粒のように細かな火の魔石の粒子でできた世界で最も危険な土地。風が吹くだけでも尋常でない連鎖爆発が起こるその土地は、四大に入り損ねた大精霊の血涙でできていると語られる大地だ。
グルービーの鎖鎌の分銅、その内側にはギラル赤丘で回収された火の魔晶石が内蔵されており、周囲のマナを吸収したそれはこうして凄まじい破壊力を発揮する。
通り一本を丸々吹き飛ばす爆熱の余波を浴び、グルービーは火の手と黒煙を上げる焼け野原に着地し、そこでぐっと背筋を伸ばすと、
「おおおおおお――ッ!!」
と、己の内側から膨れ上がる破壊衝動のままに雄叫びを上げた。
ドクドクと脈打つ心の臓が、茨の締め付けを訴えるも痛みはない。ただ、灼熱が自分の体内を焼き尽くしていく感覚を味わいながら、グルービーは血の香りのする息を吐く。
そして、牙を強く噛み鳴らして鎖鎌を持ち直すと、
「そのクソ呪いじゃあ、奇襲なんざクソ不可能だなぁ!!」
上空から、赤い外套の裾をなびかせて落ちてくる人影へ、鎖分銅を打ち上げる。
その分銅の威力は証明された通り、それを真正面から相手は手にした剣で受け、直後、爆炎が相手を呑み込む。
だがしかし――、
「ちぃッ!」
瞬間、空を押し包んだ炎が真っ二つに断たれるのを目にし、グルービーが後ろへ飛ぶ。
不自然な炎の変化は、飛んできた人影がそれを叩き斬った証拠だ。そして、この相手がグルービーや周囲に茨の呪いを振りまいている張本人であることも、主人の到来に歓声を上げるように躍動する茨が教えてくれる。
もしも、毒で痛覚を黙らせていなければ、今頃は血を吐いてのたうち回っていた。
これで相手が茨に頼るだけの存在なら、グルービーが完全に上手と言いたいところだが、生憎とそう容易い敵ではないらしい。
「奇襲とは異なことを。何故、余が姑息な真似をしなければならない」
言いながら、焼け野原に着地した人影がゆっくりとこちらを見る。
ひび割れた青白い肌に、黒い眼に浮かべた金色の瞳。屍人の条件を満たしたその姿は予想通りだが、予想を一段も二段も塗り替えるものがそこにある。
まず、ヴォラキア皇族にしか許されない意匠の装束に、どことなくヴィンセント・ヴォラキアの面影を感じさせる顔立ち、何より相手が手にしているそれだ。
それは、ヴォラキア皇帝にしか持つことの許されない、赤々と輝く『陽剣』の光――。
「クソが」
屍人が蘇るなら、当然、そこにヴォラキア皇族が入ってくることもありえる。
だから、相手が『陽剣』を手にしている事実は、驚きはしても納得ができた。納得がいかなかったのは、それだけではなかったことだ。
右手に『陽剣』を下げた屍人の皇帝は、左手にも異なる武器を携えている。
そしてそれは、ここでこの屍人が持っていることを想定していなかった得物――、
「――このクソ刀が、どこまで俺にクソ逆らいやがるッ!!」
怒りのままに吠えるグルービー、その視界で屍人の皇帝が手にしていたのは『邪剣』ムラサメ――『陽剣』と『邪剣』、ありえぬ魔剣の二振りが『呪具師』グルービー・ガムレットの敵として立ちはだかっていた。