第八章38 『ロウアン・セグムント』
――ロウアン・セグムントは『星詠み』である。
それはヴォラキア帝国の役職として、ヴィンセント・ヴォラキアが初めて彼らの一人であるウビルクを重用したこととは別の、本来の意味での『星詠み』だ。
自分の人生において、何よりも優先すべき天命を授かり、その至上の命題を成し遂げるためにあらゆる物事をなげうつ存在、それが『星詠み』。
あえて、ヴィンセントがウビルクに役職として『星詠み』の冠を持たせたのは、呼び名に役職を意味付けし、やがて『星詠み』という存在自体が形骸化していくことを目論んでのことと推察されるが、賢帝の真意はこの場は無視していい。
重要なのは、ロウアン・セグムントも天命を授かった一人であるという点だ。
『星詠み』となり、天命を授かったものへの強制力は強い。
それは一介の男娼に皇帝へ意見するために城へ出入りする発言力を持たせ、体の弱い母が命懸けで産んだ娘への愛情を忘れさせ、生涯を費やした目的をあっさりと手放させるほどの、人生への介入力を有した。
『星詠み』の多くは、天命にそれまでの人生を捻じ曲げられ、生き方の方針転換を余儀なくされる。そして、それを悲劇だとも思わない。
むしろ、生涯をかけてでもやり遂げなくてはならない大望を与えられ、それを果たすことが己の生まれた意味と疑いなく信じられるのだから、幸福とさえ感じられた。
それがたとえ、周囲から見てどれだけ異常や不憫に思えても、そうなのだ。
ただ、そうした『星詠み』共通の悲劇に関して言えば、ロウアンの置かれた立場は同じ『星詠み』たちと比べても例外であった。
なにせ、ロウアン・セグムントが授かった天命は、『天剣』へ至ること。
――他ならぬ、ロウアン自身が天命を授かる以前から抱いていた大望であったのだ。
△▼△▼△▼△
「剣士の道を究めんと、鋼を携え幾年月――」
ゆらゆらと左右に頭を揺らし、酒気に顔を赤くしたロウアンは上機嫌に歌う。
特にこれといった調子があるわけでもないが、気分は上々、歌わずにゃおれぬ。千鳥足もいい具合に揺れに揺れ、まるで舞踊の足運びの様相だった。
しばらく前、『黒髪の皇太子』の騒ぎが起こり始めるちょいと前から、帝国全体に懐かしくもかぐわしい血の香りが漂いつつあった。
それが戦乱の前兆であり、ヴィンセントの治世が馬鹿に大人しかった分、反動でそれはそれは大きな世の乱れが起きるだろう予感はしていた。
その予感が的中し、今や帝国は生者と死者の境さえ曖昧の災いの時を迎えている。
「あぁ、何ともまぁ、某好みの世にござんす」
世が太平から遠ざかり、世情が乱れれば乱れるほどに鋼の在り方は磨かれる。
切磋琢磨がいるとは言わぬ、ただ斬るに値する敵がいればいい。だが総じて、目を見張る強者というものは平安の中では産声を上げづらい。
魂の来たる場所が何処かは知らねども、肉の器に収まる前に心構えは整うらしい。
乱世に生まれるものは乱世を生きる才を与えられて産声を上げる。
それ故に、乱世以外で生まれたものに、それと同じ魂が宿るかは分の悪い賭け事。ロウアンも幾度も失敗し、セシルスを授かったのは八人の我が子を手にかけたあとだ。
産湯の中で白刃を見て、それが生涯愛せるものと笑ったのはセシルスのみ。
「そのセシルスも頭打ちとは、『天剣』は未だ遠かりしでござんしょう。ああ、ああ、つくづく、つくづく……生まれる時代を間違えた」
額にかさつく掌を当てて、ロウアンは幾度も抱いた嘆きをこぼす。
世が乱れれば乱れるほど、平安が荒れれば荒れるほど、時代は強者の圧倒を求める。斯くも『天剣』への道がはるか遠く険しいとなれば、四百年前の生きとし生ける全てのものが『魔女』を恐れた時代はどれほどよかったことか。
その時代に生まれていれば、『天剣』へ至る道が途切れる恐れなどなかった。
ましてや、ロウアンがセシルスに――、
「――おい、本気でやるつもりなのか、お前」
「ううん?」
背後、ふらふらと歩く背中に声をかけられ、ロウアンが胡乱げに振り返る。
両の足を石畳に突っ張り、長身で上から睨みつけてくるような眼光をぶつけてくるのは赤毛の剣士――ハインケルと、そういう名前の人物だ。
ちょっと前まで、ロウアンと一緒に酒浸りだったはずの男は、こちらとは対照的にすっかりと酔いの覚めた顔つきでいる。そんな様子だと、最初に野っ原で拾ったときよりは身綺麗なはずなのに、もっと憔悴しているように見えるから不思議だ。
「なんて景気の悪い面してござんすかい。ほうれ、赤毛の、呑みなんせ。街はあちこち欠けちゃぁいるが、幸い、屍人連中は飯も酒も手付かずときたもんだ」
「幸い……っ」
「おおう、気に障ったみてえでござんすなぁ」
酒の入った瓢箪を掲げたロウアンに、ハインケルが歯を軋らせて頬を硬くする。
その反応は拒絶の表れと、ロウアンは仕方なしに行き場のない酒を自分の喉に通した。
ハインケルに告げた通り、目につく店も民家も人気はなく、屍人たちは生者を探して彷徨い歩くわりに、目的は血であって飯でも酒でもないときた。
すなわち、空腹も酔いも満たしたいだけ満たせると、そういう自由な気風だが。
「それの何が気に入らねえんでござんしょう。放っておいても腐らすだけなら、某たちがいただくのが一番合理ってもんでしょうに」
「飯だの酒だの、そんなもんはどうでもいい! お前の……お前ら親子の倫理観も期待しちゃいない。それより答えろ、本気でやるつもりなのか?」
「――――」
声を荒らげたハインケル、その言葉にロウアンは片目をつむり、沈黙する。
その数秒も待てぬとばかりに焦れた様子の赤毛の剣士、彼が何を問題にしているのか推察するも、イマイチその答えはわからなかった。
他人の考えや気持ちを推し量ること、それがロウアンはとみに苦手だ。
同じ欠陥はセシルスにも遺伝しているようだが、あれはまた別の角度からの視点で問題を強引に乗り越えている。ロウアンには同じことはできない。
いずれにせよ――、
「赤毛のが気にしてるのは、あの兜の御仁の計画に乗るや否やって話かい?」
「そうだ。成り行きで戻ってきたが、アルデバランの言う通り、挽回の機会だ。俺はこれをしくじれない」
頷いて、ハインケルがその指を通りの彼方――否、そのもっとはるか先、帝都の内からその外を覗かせない堅固な城壁へと向ける。
それは帝都決戦においても、反乱軍から市民を守るために機能した星型の城壁であり、そして――、
「俺たちが落とさなきゃならない五つの頂点、その内の一個だ」
重く強張った声で、ハインケルが作戦目標を口にする。
あの鉄兜の男、アルと呼ばれた人物が語った付けておくべき『道』――今、帝都にいるロウアンたちのあとに続く、『英雄』のための伏線だった。
現状、この通りには生者はロウアンとハインケルの二人しかおらず、幸いにして死者は一人も見当たらない。セシルスとグルービー、それにアルとは別行動中だ。
彼らはいずれも、帝都を守護する堅固な防壁に穴を開けるために動いている。
ロウアンとハインケル、それにグルービーの三人が帝都へ乗り込んだ方法はかなり横紙破りな手段だったので、他のものが真似をするのは難しかろう。となれば、通り道を作らなければならないというのは理に適った提案だった。
それで、縮んでもやかましい息子とも別れ、中年二人の気楽な旅路――とはいかないのが目の前のハインケルの熱のこもりよう。どうしたものかとロウアンは頬を掻く。
そのロウアンの心情を余所に、ハインケルは舌打ちすると、
「正直言って、お前の息子が言ってた伏線って意味はわからないが……」
「まぁ、あれの言いよう喋りように関しちゃあまり気にせんことでござんす。ともあれ、あの城壁が活きてちゃあとが続かんでしょうよってのは間違いねえでござんしょう」
「それがわかってるなら……!」
「――なんでまた、某は乗るや否やで否やの方を選ぶのか」
歯を剥いて怒鳴ろうとしたハインケル、その言葉を遮ってロウアンが肩をすくめる。
鼻白んだ彼の顔は傑作で、それを肴に酒が旨いと言いたいところだが、あまり酒が進みすぎるのもよろしくない。またそこらで酒を都合するのは手間だし、目の前の男が迂闊に剣を抜かないとも限らない。
「いや、某相手じゃ赤毛のは剣は抜けねえか」
「――っ」
「ああ、ああ、別に恥に思う必要はねえでござんす。少なくとも、某は誰彼構わず刀が抜けりゃぁ勇敢だとは思わん性質……怖い怖くないのはちとわからんでござんすが」
とんとんと自分のこめかみを指で叩いて、酩酊とは無関係の失陥に触れる。
それを聞いたハインケルが目を丸くするのを見ながら、ロウアンは城壁の方を見て、
「某が兜の御仁の話に乗れねえのは至極単純……兜の御仁の目的は、帝都を死人共から取り返すことでござんしょう? 某はそれ、別に望んじゃいねえんで」
だから、帝都の防備を抜くという計画にも協力する理由がない。
それがロウアンの正直な心情だが、なおもハインケルは目を白黒させている。わりと明快に答えは告げたつもりだがと、ロウアンは首を傾げた。
「それは、つまり、お前は屍人連中に味方するってのか?」
「なんでそうなる? そりゃまた話が違ぇでござんしょう。某は、屍人が暴れて国が荒れてる。そんな状況が都合がいいってだけで、屍人の味方なんざしねえでがしょ」
「……ダメだ、お前が何を考えてるのかちっともわからねえ。そもそも」
「うん?」
「お前がその気じゃなくても、お前の息子は……『青き雷光』はやる気だ。それをみすみす見過ごすってのかよ」
口元に手をやり、無理やり口に詰め込まれる情報を噛み砕こうとしているハインケル。彼が次いで出してきた話は、しかしそれもロウアン的には見当違い。
セシルスが、アルの計画に乗り気なのは確かにそうだが。
「某は某、息子は息子、それだけの話でござんす。それに」
「それに?」
「今のセシルスじゃぁ、『天剣』の頂はまたはるか遠くでござんしょう。縮むと剣の腕も鈍くなる。あれじゃ某を斬ったときの約束も果たせねえ」
「――――」
軽く自分の胸元を撫でて、ロウアンはそこに刻まれた刀傷を回想する。
苦々しく、グルービーの語っていた『皇帝暗殺未遂』の一件。ロウアンの立場はセシルスにやらせようとした側なので、暗殺教唆といったところか。いずれにせよ未遂に終わった一件、その咎として浴びせられた一太刀は、今も刹那の灼熱を忘れさせない。
と、そこまで考えたところで、ふとロウアンは首をひねった。
「しかし、赤毛の、ずいぶんと某と息子の話に食いつくもんでござんすなぁ。考えてみると、赤毛のが一番反応が深かった。――何かあると?」
縮んだセシルスがセシルスであることと、ロウアンがその大小どちらのセシルスの父親でもあることに、ハインケルの反応は重たく鈍いものだった。
その真意をロウアンが問い返すと、思いがけない答えが返ってきた。
それは――、
「……俺は、ハインケル・アストレアだ」
「アストレア……アストレア、アストレア、アストレア……おお、おおおお!」
十二分にもったいぶって、名乗ったハインケルにロウアンが瞠目する。
最初、聞こえた響きを舌に乗せ、何度か反芻するまで確信が脳に沁みなかった。だがしかし、それがはっきりと浸透すると、途端にその意味に血が沸き立つ。
「ということは、赤毛の! お前さん、『剣聖』の家系でござんすか!」
ルグニカ王国のアストレア家、それは親竜王国ルグニカで最強の称号であり、あるいは王国のみならず、四大国全土を見渡して最強とさえ噂される存在。
特筆して、今代の『剣聖』であるラインハルト・ヴァン・アストレアの存在は、これまで代を重ねてきたアストレア家の中でも別格であると聞く。
「まさかまさか、赤毛の! 名をハインケルと偽った今代の『剣聖』じゃありますまい? ということは、親類縁者……いいや、息子か! 息子がラインハルト! 『剣聖』の父! これはこれは意表を突かれた! なんと奇々怪々な縁にござんしょうか!」
ラインハルトはセシルスと同年代――元のセシルスと同年代と聞く。
そうなると、ロウアンと似た年代のハインケルも、ラインハルトとの関係性はおおよそ察しがついた。と同時に、ハインケルの苦虫を噛み潰した表情も理解に及ぶ。
ロウアンとハインケルは、『青き雷光』と『剣聖』の父親同士――。
「そんなことより、『天剣』へ至った一族の末裔ということでござんしょう?」
「……ぁ?」
「初代『剣聖』、レイド・アストレアの芳名は記憶と耳に違わず! とならば、同じ剣士として、目指すべき頂の到達者への敬意はござんす」
アストレア家の特別性の証明である『剣聖』の称号、その初代にして、『天剣』という概念へ初めて到達したとされる全ての剣士の頂点にして超越者。
そう思った途端、ハインケルへのこれまでの態度が無礼なそれに思えて詫びたくなる。『天剣』の到達者の末裔に、なんと無礼な真似をしたものか。
「すまなんだ、赤毛の。これまでの非礼をお詫びする。よもや、『天剣』へ至ったレイド・アストレアの係累が、ここまで落ちぶれたとは思いもよらず」
「――――」
「赤毛の?」
腰の刀に手を当てて、深くお辞儀したロウアンにハインケルの返事はない。
それを訝しんで上目に見れば、ハインケルは自分の顔を掌で覆い、首を横に振った。それから彼は長く、やり切れない風な息をこぼし、
「……わかった。もうわかったよ。お前とは、お前とも、根っこのところで違うんだ」
「何が何やらでござんすが、あまり気を落とさねえこった。某は某、息子は息子。でもって赤毛のは赤毛のだ。どうあろうと、鋼を通す以外じゃ深くは斬り込めねえ」
「――あそこで、俺が死なずに済んだのはお前のおかげだ。それだけは、感謝しとく」
それ以上のやり取りを拒むように、ハインケルがロウアンに背を向けた。
少し、その律儀な背中に斬り込みたい欲求が首をもたげたが、ハインケルは命の危機なら武器が抜けるという手合いでもないので、無為な殺生はやめておいた。
得るもののない殺生は、ただ鋼を曇らせるだけだ。
ハインケルはそのまま、指示された頂点へ向かい、妨害工作に勤しむのだろう。
そこにもしも手練れがいれば、自分が動けなくなることが算段に入っているのか不明だが、それでロウアンを当てにしていたのだとしたら申し訳なかった。
だが、ロウアンにはロウアンの目的があり、それはハインケルとの関係性が優先するものでは微塵もない。
なので、酒飲み仲間と別れるのは寂しいが、ここでいったんお別れよと――、
「息子もほったらかして、何がしたいんだ、お前」
駆け出そうとする手前、背を向けたままのハインケルの声に苦笑する。
顔や目つきもそうだが、女々しさを引きずる御仁という印象を裏切らなすぎる。ともあれ、その問いかけにロウアンは迷いなく、胸の刀傷を叩くと、
「もちろん、某自身の悲願のために。――赤毛の、お前さんと同じでござんす」
息子をほったらかしてというのなら、そこの部分も同じだろう。
それに、ハインケルがどんな反応をしたのか、一切合切に興味なく、ロウアンは自分の目的に向かい、生者皆無の帝都を軽快に走り出した。
△▼△▼△▼△
――さて、ロウアン・セグムントは『星詠み』である。
その彼の名誉に誓っていうが、ロウアンにも『星詠み』となる以前の、授けられた天命の成就に無我夢中になる前の人格が、望みが、人生があった。
無論、『星詠み』の大半がそうであるように、ロウアンも天命を授けられ、『星詠み』の一人となった時点でそれまでと違う生き方を強制された。だが、周りにはそのロウアンの変化は目立って感じられなかった。
何故なら、天命を授かる以前から、ロウアン・セグムントの悲願は『天剣』への到達であり、そのためにできることには血道を上げて取り組んでいたからだ。
ロウアンと同じく、技を究めんとした強者を、村を襲った恐るべき魔獣を、魔獣に滅ぼされかけた村の人間を、他者を虐げる悪漢を、他者に施す聖人を、とにかく片っ端から鋼を鍛える足しになればと斬りまくったが、あまり成果は上がらなかった。
様々な流派に学び、技術を習得しては流派の長を斬り、自分の中で吸収した多くの技法を統合しようともしたが、己の技の均衡が崩れるだけとわかってそれも捨てた。
文字通り、血道を歩いて歩いて歩いて歩いて、それでも至れぬ『天剣』への道と、そう心から渇望し、いっそ自らの命を絶とうとさえ考えた――そのときだ。
ロウアンが天命を授かり、『星詠み』となったのはそのときだった。
何をしようとも『天剣』へ至るべしと、そう宿命づけられたロウアンは、自らが『天剣』へ至るのではなく、『天剣』へ到達する存在を作り出すための試行錯誤に追われた。
だが、正解はわからない。基本的に、ロウアンのやり方はいつも同じだ。
とりあえず、片っ端からやれることをやってみるしかない。才あるものを見出し、それを育てて到達させる道はすぐに断念した。
自分でやった方が上手くやれる。その自分より上手くやれなければ『天剣』なんて夢のまた夢なのだから、そんな儚い希望は斬って捨てた方がいい。
そうしているうちに気付いた。
自分が『天剣』へ至るべく見込まれたのは、自分であることの意味があるはずだと。
そう考え、改めて自分で『天剣』を目指そうとしてみたが、闇雲に励んでも至れぬ道と闇雲に人を斬ってから手放した。
そうではない。ロウアン自身が、ではない。――ロウアンの種が、至ればいい。
かくして、ロウアン・セグムントのたゆまぬ努力により、セシルス・セグムントという『天剣』へ至る器が誕生し、ロウアンは役目を全うした。
産湯に浸かり、自分の首に押し当てられた白刃を見ながらキャッキャと笑った我が子を見て、ロウアンは長く長く、自分を雁字搦めにした縛めから解き放たれた。
『星詠み』は、その天命の成就を見届けたとき、与えられた役割から解放される。
そうしたあとに精神を支配するのは、直前まで何の理由もなく、信念や信条さえも捻じ曲げて平然と従えていた価値観が、まるで理解できなくなるそれだ。
当然、ロウアンにも同じことが起こった。
天命を果たすために、『天剣』へ至る才能を持った我が子を作ろうと必死になって、そうした果てに生まれた子どもを見て、やり遂げたと思った瞬間、どうでもよくなった。
結果、残されたのは『天剣』へ至る可能性を認められた息子と、自分が『天剣』へ至るという目的を見失い、他者のために全盛期を費やした己だった。
その、あまりにも耐え難い事実の前に、ロウアンは今度こそ、かつて実行できなかった自ら命を絶つ決断へと向かいかけた。
だが――、
「あー」
命を脅かす白刃を笑い、『天剣』へ至る道を歩むと生まれながらに約束された息子が、絶望するロウアンの指を握ったとき、その考えは跡形もなく消し飛んだ。
その弱々しい命がロウアンにもたらした衝撃は、これまでに数多の命を斬り捨て、湖ができるほどの血を浴びてきた彼にも計り知れないものだった。
気付いたのだ。
今は、箸の一本も持てないような弱々しい存在が、いずれは『天剣』へ辿り着くために相応しい剣力を得ることになる。ならば、全盛期を過ぎて衰えていく一方と己の先行きを決め付ける理由がどこにあろうか。
赤子が『天剣』へ至るなら、老いた剣士にも道は残されている。
故に、ロウアンは道を閉ざす悲嘆を忘れ、自らの望みに邁進すると改めて誓った。
天命を授かり、天命を成し遂げ、『天剣』へ至る我が子を世に誕生させ、『星詠み』である役目から解放されたロウアン・セグムント。
――彼は今も、自分が『天剣』へ至るための道を諦めず、進み続けている。
△▼△▼△▼△
ハインケルと別れ、軽快に走るロウアンの足は帝都の北側へ向かう。
進路の先にあるのは帝都で最も目立つ建物である水晶宮であり、そこが現在、屍人たちの拠点と化していることは疑う余地もない。
おそらくは、グルービーやアルが問題としている死者を蘇らせる首魁、それも城にいるのだろうが、それはロウアンの足を止める理由にはならなかった。
城へ突入し、誰よりも早く敵の首魁の首を落とす――などと、事態を収拾するために水晶宮を目指しているわけではないことは明言しよう。
ハインケルへ告げた言葉は一切嘘偽りなく、ロウアンは帝国が救われようと救われまいと至極どうでもいい。混乱と災いは大きい方が良い、ぐらいの認識だ。
そのロウアンが一心不乱に、水晶宮へと急ぐのにはわけがある。
それはもちろん、実の子であるセシルス・セグムントが理由だった。ただし、セシルスが理由と言っても、親子の愛や情の話ではない。
「あのすっとこどっこいめ、『夢剣』と『邪剣』を手放すなんてとんでもねえこった」
歯を噛むロウアンの脳裏、思い描くのは凄まじい力を秘めた二振りの刀――世に魔剣や聖剣の類は数あれど、真に力のある刀剣はたったの十本。
その内の二本がセシルスの愛刀であり、縮んだ挙句に手放している『夢剣』マサユメと『邪剣』ムラサメだった。
まかり間違っても、あの二本の刀はなくされては困る。
『天剣』へ至るには、当人の剣才と剣技の冴えは言わずもがなだが、それらを本物と世界に証明するための鋼もまた相応しいものを譲れない。
マサユメとムラサメは、まさしくそれに相応しい二振りなのだ。
「あれがいつ元に戻るか知れねえが、刀なしじゃ格好がつかぬでござんしょうに」
縮んだセシルスが元の大きさに戻ったとき、刀がなくてはお話にならない。
あるいはこの大きな大きな災いのひと時に、セシルスは『天剣』へ至るかもしれない。そうなったとき、セシルスに刀がなかったらとんでもないことだ。
――たとえ『天剣』へ至ろうと、万全の刀を持たないセシルスを斬ったところで、ロウアンが『天剣』へ至ったという証明にはならない。
その証明のためにも、セシルスには刀を取り戻してもらわなくては。
「あの野郎、縮んで父親との約束も忘れちまうたぁふてえ野郎でござんす」
かつて、ロウアンとセシルスの親子の間で交わされた約束。
ロウアンがセシルスを『天剣』へ至らせるため、手っ取り早く帝国全土を敵に回させようとしたとき、あろうことかセシルスは「雑な悪役っぽい」という理由でそれを拒否し、ヴィンセントについてロウアンを斬り捨てようとした。
そのとき、ロウアンはセシルスに見逃させるため、約束をしたのだ。
いずれ、セシルスが『天剣』へ至ったとき、必ずロウアンが斬りにいくと。
セシルスはそれを了承し、重傷のロウアンを川に落として逃がした。死にかけはしたが生き延びて、ロウアンは技を磨きながらそのときを待った。
そして、それが目前へと迫ろうとしている。
「場所が変わってねえのなら――」
セシルスは『壱』の座にありながら、その報酬のほとんどを刀剣に費やしていた。
そのため、一将に相応しい屋敷などは持たず、水晶宮の北の野っ原に小屋を建て、そこで過ごすという生活を送っていた。それが変わっていないなら、『夢剣』と『邪剣』の二振りはその小屋に仕舞われている可能性が高い。
それを回収し、セシルスへ届けるためにロウアンは水晶宮の奥地へ――、
「――ッ」
屍人の目を掻い潜り、水晶宮を素通りして、破壊された止水壁の足下まで向かおうとしたところで、不意の気配にロウアンは大きく横へ飛んだ。
そして、それで正解だった。
――凄まじい衝撃が真上から墜落し、猛烈な破壊力が大通りを丸く陥没させる。
通りに面した水晶宮の周辺を囲った壁が歪んで崩壊し、爆発のように広がった噴煙が視界を埋め尽くして、ロウアンは舌打ちと共に刀を鞘走らせた。
彼方へ斬撃を飛ばす雲切の要領で噴煙を断てば、その向こうに衝撃の主が見える。
それは細身の、長身の一人の女だった。
白い髪を長く伸ばし、青いドレスに身を包んだ流麗な立ち姿の女。美醜の観点にはとんと疎いが、ロウアンの価値観で美しいと評せるしなやかな体躯。
その切れ長な青い瞳は悲嘆の色を宿しており、ロウアンはそれを訝しむ。
屍人たちと違い、黒い眼に金色の瞳を浮かべたものではない。白い肌には血が通い、こちらを見据える女はおそらく生者のそれだ。
しかし、ここは死者の城、屍人の都であり、その振る舞いは生者の敵のはず。
「そちらさんは――」
「――アイリス」
「……いきなり名乗られるとは思わなんだ」
刀を腰溜めに構えたまま、ロウアンは唇を舌で湿らせ、目を細めた。
女だが、それは侮る理由にはならない。何より、纏った空気が信じ難い強者のそれ。その力を前向きに振るう表情ではないが、それもロウアンとしては些事。
その些事に殊の外拘るような表情で、アイリスと名乗った女が、その白髪の中に埋もれた狐の耳を震わせて、
「お帰りなんし。わっちの目の届くうちは、誰も死ぬ必要はありんせん」
「それはそれは、ごめんなすって」
切実に訴えてくる女――アイリスの前で片目をつむり、ロウアンは刀を握り直す。
相手の思惑がどうあろうと、それがこちらの道を阻むものなら致し方なし。何より、これほどの強者を前に退くなど、一剣士としてありえぬこと。
すなわち――、
「――『天剣』への道、未だ険しけり。そちらさんを斬って、先へ進ませてもらうでござんす」