第八章35 『命懸けの仕事』
「は? 今、なんて言った?」
「三度は言わぬぞ。――俺が皇帝の座に就いてから把握できる範囲の帝国民であれば、全員の顔と名前は一致する」
「馬鹿じゃねぇの、お前!?」
腕を組み、神妙な顔をしたアベルの馬鹿げた答えに、スバルの声がひっくり返る。
場所は竜車の中、城塞都市ガークラを出立し、今や屍人の本拠地と化した帝都ルプガナへと向かっている道中の車内だ。
ざっくりと、王国の関係者と帝国の関係者、あとは必要な荷物などを積んだ三台の竜車に分乗する突入組――『ヴォラキア帝国を滅亡から救い隊』だが、現在、スバルはその区分けの中であえて帝国の関係者側の竜車に乗り込んでいる。
その理由は王国への裏切りではなく、どうしても聞きたいこと――皇帝であるアベルが突入組に加わった理由、それを知りたかったからだ。
無論、ヴォラキアの存亡を争う大一番なのだから、立場的にアベルが主戦場に立つのは自然とも言える。が、これまで幾度もアベルと共に望まぬピンチを乗り越えてきた経験者から言わせてもらえば、アベルには知恵はあっても武力はない。
この先、帝都で必要とされる純粋な戦力面に、彼が同行する説得力は皆無だ。
まさかアベルまで頭ヴォラキアとは思わないので、ついてくるからにはそれを覆す理由があるはず。ただし、王国の人間の前では言いたくない的なパターンもありえたので、わざわざスバルがこちらの竜車に乗り込んだというわけだった。
そして、回りくどい話はせず、「お前は何の役に立つの?」と聞いたところへ――、
「国民全員の顔と名前が一致してるって……」
あまりにも馬鹿げた規格外発言に、スバルは開いた口が塞がらない。すると、そう罵倒されたアベル本人は不愉快げに眉を寄せ、
「思い違うな、帝国民の全てではない。森にこもり続ける『シュドラクの民』のように、表立った露出のないものたちの素性は押さえようがない。故に、帝国民の全てを把握し切ることなど不可能だ」
「どこに怒ってんだ、十分馬鹿だわ! だってお前、それってつまり、自分の部下の帝国兵のことは全部覚えてるってことだろ?」
「必要なことだ」
ぴしゃりと一言で言ってくれるが、それは普通の人間の考え方ではない。
もちろん、アベルが普通の人間などとは思わないし、帝国の人間全員の顔と名前を一致させている事実は、現状においてはとても大きい。
何故なら――、
「あの娘が屍人の頚木を外すには、名前が必要なのであろうが」
淡々としたアベルの言葉に、スバルは竜車の端の席に座っているスピカを気にする。
立場上、放置しておくわけにはいかないスピカなので、彼女もスバルと同じくこちらの竜車に乗り込んでいる。今はミディアムと、スバルの傍を離れないベアトリスに挟まれて大人しくあやされているところだ。
そのスピカの権能の力を十分に発揮するのに、アベルの異常性――記憶力が役立つ。
――『星食』、その力を発現するには不明瞭な点が多すぎる。
あの、ラミア・ゴドウィンという皇族の『星食』に成功したとき、誰も彼女を忘れなかったということは、スピカは『名前』を食べたわけではないらしい。それでも、顔と『名前』の一致があの権能の鍵だと、そういう手応えはあったのだ。
だからこそ、一度うまくいった方法に縋るしかないのが現状だった。
「でも、そのためにお前の馬鹿すぎる記憶力が役立つの腹立つ……」
「シュバルツ様、さすがにそれは言いがかりでは? いくらお相手が、ヨルナ様にたびたび冷たく当たられる非情な皇帝閣下と言えどもです」
「それは此奴への助言か? それともその皮を被った俺への不満か?」
「もちろん、シュバルツ様への忠告ですが?」
しれっと答え、アベルの視線に顔を背けたのはキモノ姿の少女、タンザだ。
突入組として同行する一員に加わっている彼女は、この戦いに赴く最大の理由であるヨルナを巡り、アベルに思うところがある一人らしい。
聞いた話だと、アベルはヨルナの求婚をとにかく断っていたそうなので、魔都への冷遇も含めてタンザがアベルを好ましく思う理由はゼロ、むしろマイナスだろう。
「言っておくが、ヨルナ・ミシグレめが想っていたのは俺ではなく、かつての皇帝だ」
「え、そうなの? お前の親父さんとか?」
「もっと遠い。詳しく知りたくば本人に問い質すがいい。少なくとも、まだその機会は残されている。そうだな、娘」
「――はい。今も、ヨルナ様のお力を感じますので」
アベルに言われ、自分の片目にそっと手を添えたタンザが静かに答える。
それは希望的観測ではなく、タンザに貸し与えられているヨルナの力の恩恵、そこからくるはっきりとした確信だ。それがある以上、ヨルナの生存は確約されている。
ただし、帝都でどんな状況にあるかはわからないため、それがもどかしい。
ヨルナだけではなく、居所の知れないプリシラと、それを助けると残ったアル、勝手にはぐれたセシルスの動向も気掛かりで、気は急く一方だった。
「しかし、そう考えるとあれだな……やっぱり、戦力偏りすぎじゃねぇか?」
逸る気持ちを堪えながらのスバルは、改めて『滅亡から救い隊』の内訳を思い浮かべ、言うべきか迷っていたことをそう口にした。
その内容にアベルは片目をつむり、代わりにタンザが首を傾げる。
「戦力の偏り、ですか?」
「そうだよ。だって、俺たちは俺とベア子とエミリアたん、スピカとロズワールに、我らが期待のガーフィールだぜ?」
「今、ベティーの自慢をしたかしら?」
「ああ、したよ。ラブリーベア子、愛してる」
「ベティーも愛してるのよ」
途中で口を挟んだベアトリスと愛を確かめて、スバルは指を一本立てる。
この竜車の外、後ろを走っている竜車の方にエミリアたちが乗り合わせている。
「そっちにいるハリベルさんだって、アナスタシアさんが送ってくれた秘密兵器なんだ。帝国のための戦いだってのに、外部協力者だらけじゃんか」
もちろん、突入組に帝国の人間が全く編成されていないわけではない。
だが、その筆頭は頭でっかちさが人外級だと改めて明らかになったアベルと、彼に直談判して同行者に加わったというミディアム。それに、どういうわけか『将』に昇格した上に護衛役に抜擢されて、意気揚々で御者を務めるジャマルといった面々だ。
ミディアムとジャマルの二人が、帝国人の中でも戦闘力高めにカテゴライズされるのは間違いないが、それでもガーフィールより強いとは言えないだろう。
「タンザも俺のものだから、実質こっち側みたいなもんだろ?」
「――――」
「あれ? すぐに怒って叩かれると思ったのに拍子抜け……時間差ぁッ!」
「勝手なことを仰らないでください」
覚悟して言った軽口の代償に、覚悟以上の威力で引っ叩かれたスバルが叫ぶ。思わず涙目でしゃがみ込むも、タンザにはすごく冷たい目で見下ろされるばかりだ。
確かに言いすぎたが、いくら何でも怒りすぎではなかろうか。
「かかかっか! 言われとるんじゃぜ、閣下。帝国の本気度がよく見えねえとよ。これは言われても仕方ねえんじゃね?」
「そうそう、言われても仕方ない……うびゃああ!?」
「スバル!? どうしたかしら!?」
不意のしゃがれ声に頷こうとして、スバルは喉から絶叫した。
慌てて駆け寄ってくるベアトリスに、転がるように飛びのいたスバルが縋り付く。ベアトリスと抱き合うスバル、その視界に腰の曲がった小さな影が立っていた。
どこから現れたのか神出鬼没、『悪辣翁』オルバルト・ダンクルケン――、
「スバル、落ち着くのよ。いきなり現れただけの小さい年寄りかしら」
「小さい年寄りがいきなり現れたら、それはオルバルトさんか和風ホラー映画だよ! 共通点はどっちも怖い! ヤバい! イカれてるだ!」
「おうおう、言ってくれるもんじゃぜ、この坊主。相変わらずちいせえが、元気しとったかよ」
「誰のせいでちっちゃいと思ってんだ! 元気してたよ! そっちはどうだ!」
「ワシも元気しとったんじゃぜ。ちょいと右手はなくしちまったがよぅ」
ひらひらと、そう言って袖の折れた右手を振るオルバルト。ひらひらと揺れるそれを見せられ、スバルも下手なことが言えなくなり、黙らされてしまう。
とんでも爺さんなのに、傷を見せて同情を買うとはズルい手口だ。
「でも、まんまと術中に嵌まる俺……!」
「貴様の葛藤は後回しにせよ。――仔細は聞いているな、オルバルト・ダンクルケン」
抱えた頭をベアトリスに撫でられながら、懊悩するスバルを余所にアベルがオルバルトを呼んだ。その呼びかけに怪老は「まあよ」と頷いて、
「死人操っとる術者が帝都におるから、そいつを殺しにいくんじゃろ? 閣下に置いてかれたゴズの奴がぴいぴい泣くのが目に浮かぶんじゃぜ。可哀想じゃね?」
「あれにはあれにしか果たせぬ役割がある。無論、貴様もそうだ」
「ワシ、九十過ぎのジジイじゃぜ? それをまだ酷使とか、いたわりが足らんじゃろ」
「隠居の相談ならこの変事が片付いたあとで望むがいい。それと言っておくが」
皇帝であるアベル相手にも飄々とした態度を崩さないオルバルト。その怪老の不敬極まりない態度を見過ごしつつ、最後にアベルが付け加える。
その前置きに、「うん?」と眉を上げるオルバルトへと、
「この先、貴様の悪癖が顔を覗かせる場面は寿命が尽きるまでないと思え」
「――――」
「故に命じる。色気を出さず、己の務めを果たすがいい、オルバルト・ダンクルケン」
短いが、明瞭な意図の込められたアベルの言葉に、オルバルトが唇を結んだ。
それはスバルがオルバルトに抱く、かなり大きな懸念に対して言及したものであり、それを先んじて牽制する賭けでもあった。
ここでもしもオルバルトが激昂するようなことがあれば、こちらの竜車には彼を止められる人材はいない。
しかし、オルバルトはしばし沈黙し、自分の腰を残った左手でトントンと叩いて、
「やれやれ、若ぇ奴ってのは伸び代があるから好かねえのよ。まさか閣下までとは、ジジイに優しくねえ世の中じゃぜ」
「俺は寛大だ」
「かかかっか!」
今世紀最高のジョークを聞いたみたいにオルバルトが笑った。
それが、アベルとオルバルトの間の静かな果たし合いの決着だったと感じ取り、そこでようやくスバルの肩からも無用な力が抜ける。
アベルのジョークの面白さはともかく、二人の一触即発は避けられたのだ。
「……では、オルバルト様も帝都へご一緒されるんですか?」
タンザも、スバルと同じ緊張があったらしい。わずかに声を硬くした彼女の問いに、オルバルトが豊かな眉の下で目を細め、
「閣下からの要請じゃし、坊主に言われっ放しなのも癪じゃぜ。自分の国が危ねえときに手札も出さねえ国なんて笑い話にもならんしよ。それに」
「それに?」
「帝都にゃ他の連中もおんじゃろ。少なくとも、モグロとセシの野郎はよぅ」
「……ヨルナ様も、です」
魔都での一時的な共闘関係――詳しくは知らないが、スバルたちを『幼児化』させたオルバルトと、利害の一致で動いていたタンザだ。
複雑な間柄の二人だが、そのわだかまりはひとまず棚上げにしたやり取りだった。
名前の出た中で、モグロという人物とスバルは面識はないが、少なくともヨルナは実力的にも人格的にも信頼できて、セシルスも人格面のおつりがくるぐらいには実力的に申し分ない。それらとオルバルトが加われば、確かに帝国の戦力も充実と言える。
「でも、こっちもハリベルさんがいるから、セッシーたちがいてもやや俺たちが優勢……っていうか、セッシーも俺の仲間だから」
「あれに首輪を付けられると? だとしたら、貴様のあれへの理解も程度が知れる」
「あー、ハリベルの奴がきてんのよなぁ。あいつ、この世で唯一ワシより強ぇシノビじゃから本気で嫌いなんじゃぜ」
手元にある手札で最強の二人に、それぞれがそれぞれに言いたい放題。
ともあれ、アベルがついてきた理由とスタンス、帝国側の戦力の当てに関してはオルバルトの合流で目処が立ち、スバルの疑問もおおよそ――まだ、ミディアムが皇妃候補となった話など掘り下げたい部分もあるが、ひとまず解消された。
「ミディアムさんの話は戻ってからのお楽しみにしとく。――レムにも言われてるし」
握ったベアトリスの柔らかい手の感触を確かめながら、スバルは出発のとき、レムが大要塞の中からかけてくれた見送りの言葉を思い出す。
それはスバルが戻ってくることを望み、無事を祈ってくれたものと最大限ポジティブに解釈できる内容のものだった。
「戻ったときにすげぇ勢いで罵られるかもしれないけど、実際にそうなるまではレムが心配してくれてたんだってポジティブに受け止めるぜ」
「そ、そんな卑屈に思わなくても心配してくれてたと思ったのよ?」
「私も、そのように受け取っていましたが……」
「おいおい、仕方ないけど二人ともレムのことをわかってねぇよ。そりゃ、レムは優しいからちょっとはあると思うけど、大部分は俺への怒り……違う違う、ポジティブポジティブ……!」
うっかりと、自分で自分にかけた暗示を解いてしまいそうになり、改めて自分にポジティブの魔法をかけ直しておくスバル。
そのスバルをベアトリスとタンザが不憫そうに見ているが、魔法をかけ直したスバルには二人の視線の色など通用しない。カキン、跳ね返した。
「――閣下、もうじき中継地点に着きますんで、いっぺん竜車が止まります」
と、そうスバルがメンタルを武装し直したところで竜車の小窓が開き、御者台から車内を覗き込んだジャマルの報告が飛び込んできた。
走行する竜車の周囲を警戒しているジャマルは、報告に頷くアベルの横にいるはずのないオルバルトを見つけてギョッとする。その反応にオルバルトは上機嫌に手を振り返していて、悪趣味なことこの上ない。
ともあれ、報告された中継地点に着いたなら、疑問の解消されたスバルはエミリアたちのいる王国側の竜車へと戻るつもりだ。ただその前にちょうどいいと、スバルは小窓の向こうのジャマルに「おい」と声をかけた。
「ちらっと小耳に挟んだんだけど、お前、カチュアさんのために死ぬとか言ってんだって?」
「あぁ? それがなんだよ、ガキ」
「いや、おかしいだろって話だよ。カチュアさんは婚約者がいなくなってすげぇ悲しんでるのに、それで家族まで死んだらどう思うか想像つかないのかよ」
勇ましく立派に死んでくる、とカチュアに堂々と宣言したと聞いて、スバルはジャマルの正気を疑ったし、頭ヴォラキアとはここまで深刻なのかと眩暈がしたぐらいだ。
だから、そんなジャマルの発言を撤回させてやりたかったし、絶対にカチュアのところに生きて帰ると誓い直させてやるつもりだった。
しかし、ジャマルはそのスバルの言葉に不愉快そうに鼻を鳴らし、
「あのな、ガキ、くだらねえこと言ってんじゃねえよ」
「くだらない? 何がくだらないんだよ」
「オレが死んでカチュアが泣く? んなこたどうでもいいだろうが。大事なのはオレがどれだけ閣下や国の役に立って死んで、恩賞が出るかどうかなんだよ」
「そうやって、お前らは名誉がどうとかで命を軽く見て……」
「わかんねえガキだな! 立てねえし、子どもも産めねえ女だぞ! トッドの奴がいなけりゃ貰う男もいねえ! カチュアが生きてくには金がいるんだよ!」
食い下がろうとしたスバルに、声を荒げたジャマルが唾を飛ばしてくる。
そのままジャマルはスバルを飛び越し、その背後にいるアベルの方を見やると、
「今、オレは三将だ。ここで閣下のお役に立てば、死んだときに二将の扱いも期待できる。そうすりゃカチュアは安泰だ。オレは生きてるより、死んだ方がカチュアの兄貴として仕事ができんだよ!」
「――っ」
その強烈なジャマルの思考に、スバルは思わず息を呑んだ。
「スバルちん……」
押し黙るスバルの方を見て、心配げに眉尻を下げたのはミディアムだ。しかし、彼女のアクションもそれまでで、ジャマルの理屈には異論を挟まない。そしてそれはミディアムだけではない。アベルもオルバルトもそうだ。
ジャマルの意見は筋が通っている。帝国の人間の視点では、それは共通なのだ。
ベアトリスだけが、スバルを慮るように半歩、寄り添って肩を合わせてくれる。
「うあう」
――否、スピカもまた、そっとスバルの背中に手を当て、支えようとしてくれた。
「――――」
ジャマルの理屈に対し、スバルのそれは帝国の現実を知らない感情論だった。
でも、ジャマルの言うことは、アベルたちが何も言わないのは間違っている。死ねば恩賞が出て、それでカチュアの今後の生活が保障されるというなら、ジャマルが生きて生きて生き抜いて出世して、それで給料でカチュアの生活を保障すればいい。
「アベルが『将』に払ってる給料が、めちゃめちゃ薄給じゃないならできるだろ。――決めたぜ、ジャマル」
「ああ? まだ何か……」
「お前のその将来設計、絶対に、俺が阻止する。――絶対に、死ねねぇよ、お前は」
強く奥歯を噛みしめて、挑むようにスバルはそう宣言した。
それを聞いた周囲、アベルが小さく鼻を鳴らし、オルバルトが愉快そうに歯を剥いて低く笑う。タンザがぎゅっと自分の腕を抱き、ミディアムが目を丸くしたあと頷いた。
そして、ベアトリスとスピカの二人は、スバルと並んでジャマルを見据える。
その、並んだ三人の子どもの視線にジャマルは眼帯をしていない左目を細めて、
「気持ち悪ぃガキだぜ、てめえ」
「お前の友達にも言われたよ。――やめねぇけど」
小窓が閉められる前、最後にそうやり取りを交わし、ジャマルが中継地点に竜車を止めるために周囲の警戒の役目に戻る。
それを見届けて、スバルは目をつむり、自分の心と正直に向き合った。
ジャマルにも、考えがあるのはわかった。そしてそれが、帝国では正しいとされる考え方の一つなのだということも。
それを念頭に入れた上で、クソ喰らえだと思うのだ。
「死んで誰かを救おうなんて、そんなの――」
そんなのは、あのアベルさえも耐え切れないほど、辛い手段でしかないのだ。
だからナツキ・スバルは、その方法をなんとしても否定し続けなくてはならないのだ。
急ぐ竜車の速度とは裏腹に、問題の帝都は遠く、もどかしい。そこで起こっていることを思えば、早く早くと気持ちが焦れる。
早く早くと、スバルの気持ちはなおも焦れ続けるのだった。
△▼△▼△▼△
――場面は一転、同じ空の下、穏当とは言えない状況へと切り替わる。
黒い雲がかかり、滅びへ進む帝国の先行きを暗示するような空模様。
破壊された止水壁の向こうから流れ出したおびただしい量の水に浸り、その星型の防壁の内側にいた大勢の生者を逃して屍人の都となった帝都ルプガナ。
蘇った死者たちの徘徊と、息を潜めて見つかる恐怖と戦い続ける生存者――中には隠れ潜むばかりではなく、戦うことで生を勝ち取ろうとする猛者もいる。
しかし、武器を持った多くのものは、その安易な決断を悔やむことになる。
一度始めた戦いは、延々と蘇りを続ける屍人との終わらない競争を意味し、すでに生命力の尽きたものたちと生命力を比べ、勝ち目などあるはずもない。
皮肉にも、勇敢であるものから命を落とし、屍人の列に加わって次の生者を探す。
帝都は今や、屍人が屍人を呼ぶ死が渦巻く螺旋の都市と成り果て、この世の絶望が煮詰められた地獄の顕現と化していた。
だが――、
「――なかなかお目にかかれない事態でこそありましたが見慣れてみるとさほど面白いものではないのが困りものですね。せめてもう少し張り合いのある方が今一度舞台へ舞い戻った! というなら多少の見所に期待もできますが」
そう言いながら、束ねた青い髪を饐えた香りのする湿った風になびかせる少年。
ワソーにゾーリの目立つ風貌の少年は、自分の目元に手で作った庇を当てながら、ぐるりと周囲を見回してそんな感想をこぼす。
血の通った肌と青い瞳は、最もわかりやすい屍人の特徴から遠ざかった生者のそれだ。
しかし、変わり果てた帝都で阿鼻叫喚の光景を俯瞰しながらの感想は、ある意味ではそこいらの屍人以上に生者から遠ざかった意見でもあった。
あるいは人によっては、真なる超越者とは生者や死者といった区分けすら無意味にしかねない自儘を許された存在だと、そう定義したかもしれない。
いずれにせよ、少年の瞳には明るく朗らかな狂気的――この状況に対して、一切の恐怖を抱いていないから狂気的なのではない。
生まれてから一度も恐怖を抱いたことがないから、狂気的だと言える光が宿っていた。
「さて、このまま目につく敵を片っ端からズンバラリと斬り倒して一人で戦場を塗り替えてしまうのも僕にしかできない偉業に覇業にレジェンダリーとは思いますが……」
その、かえって他者を恐怖させるだろう眼差しをした少年が手を下ろし、遠くを眺める行為をやめて首をひねる。
「なんでかなぁ? あんまりそれがいい展開に結び付く感じがしない!」
お手上げ、とその両手を空に伸ばして、少年は自分の感じたところに素直になる。
少年の力量ならば誇張なしに、この帝都に蔓延る屍人の大半を一人で薙ぎ倒していくこともできるだろう。が、少年はそれをやらない。そして、それをやらない理由が自分の中でうまく言語化できず、苦悩している。
それは、この帝都で苦しんでいる大勢の人間からすれば、贅沢どころか憤死さえ免れないほど横道に外れた悩み事。少年以外には理解もできず、少年以外には意味を為さないような、しかし少年にとっては重大な悩み。
それに対してうんうんと唸り、少年は困った風に嘆息してから、
「うまく説明できませんねえ。そこのところあなたはどう思います?」
「よく、わからねぇん、だが……」
「ええ」
「それって、オレを引き上げてからするんじゃダメな話か……?」
その場にしゃがみ、下を覗き込んだ少年。
彼の視界に飛び込んでくるのは、いったんの止まり木に選んだ背の高い建物の屋上、その縁に掴まって、何とか落ちまいと必死になっている鉄兜の男だ。
片手で自分の全体重を支える男だが、それも仕方ない。なにせ彼は隻腕で、両手で自分を支えるということができようもない立場なのだ。
ともあれ、そんな危機的状況にある男を見下ろし、少年――セシルスは笑った。
「ダメですねえ、アルさん。なにせあなたが何なのかちっともわからない以上はこの先の僕のヒストリーに付き合わせていいものか答えが出ないので!」
破顔したセシルスの眼下、ぶら下がる男――アルの喉がか細く鳴った。
帝都ルプガナは今や、屍人が屍人を呼ぶ死の螺旋が渦巻く地獄と化していたが――、
「ああ、クソ、マジで最悪……」
少なくとも、この瞬間のこの一幕だけは、争わなくていいはずの生者と生者が命の在処を問い質す、そんな状況と成り果てていたのだった。