第八章31 『石塊』
――『石塊』ムスペル。
四大精霊の一角に名を連ね、ヴォラキア帝国の大地に根付いた古き大精霊。
他国の『霊獣』や『通り魔』、『調停者』と異なり、自発的な行動や主張を歴史に残すことのない存在。ヴォラキアにいるとは知られていても、それ以上の情報も目撃例も浮上してこない、最も精霊らしい精霊と言えるかもしれないモノ。
それが、ただそこにある神域とされる『石塊』ムスペルの在り方であった。
「って、ベア子が可愛く説明してくれたわけだが、話が違うんじゃねぇか?」
四大精霊の知識に乏しいスバルのため、ベアトリスが語ってくれたムスペルの逸話。それを非常に興味深く拝聴したわけだが、その内容は実状と大きく食い違う。
その居所も、何なら正体も不明な大精霊、それがムスペルという話だが――、
「それが相手に奪われたって確信があるのは、お前が居所を掴んでたって裏返しだ。ってことは逆に、ムスペルはこの城塞都市にいた。――違うか?」
そう言って、スバルはアベルの仏頂面に人差し指と問いをビシッと突き付ける。
そのスバルの追及に黒瞳を細めるアベル。が、彼が口を開くより先に――、
「オイ、皇帝閣下になんて口の利き方してやがる」
不意の荒々しい口調、それがスバルとアベルの間に割り込み、風が吹いた。直後、スバルの突き付けた指の爪先、その白い部分がいきなり削られた。
ヒュンと、風と爪を切った白刃、その結果に思わずスバルは「どぅおわぁ!」と悲鳴を上げる。
そして――、
「ガキが! 立場弁えろ、立場をよ!」
「そりゃこっちの台詞だ! いきなり子どもの指先を剣で深爪させんな!」
突然の暴挙に手を抱え、スバルはその凶行の下手人――ジャマルにそう唾を飛ばした。
何故か、ガークラについてからアベルに同行を許されているジャマル、彼が抜いた白刃でいきなりスバルの爪を深爪させてきたのだ。
そのあまりにも短慮な行いに、スバルは信じられないものを見る目を彼に向け、
「ちょっとマシになったと思ったけど、やっぱり、お前嫌いだ!」
「ああん? オレもガキに好かれてえとは思わねえよ。……と」
トッドの訃報をカチュアに伝えたとき、理性的な会話ができたと思ったのが甘かった。
変わらぬ粗野さを発揮するジャマルの態度に抗議するスバルに、彼は年齢差を意に介さず睨み合おうとしたが、その大人げない態度を挙手が止める。
誰であろう、円卓に腰掛けるアベルが「やめよ」とそう命じたのだ。
「余計な諍いを起こすな。比較的使いやすい駒であることが、俺の認めた貴様の価値であると自覚せよ。今、王国と争う時はない」
「王国と争うって……あ」
アベルの言いように眉を寄せたスバルは、その意図を察して後ろを振り向いた。
すると、今のスバルたちのやり取りを目にした王国サイド――当たり前だが、エミリアやベアトリス、スピカといった面々の非難の目がジャマルへ向けられている。
この睨み合いが続けば、すぐに彼女たちの参戦は免れないだろうとも。
しかし、事の重大さがわかっていない風なジャマルは顔をしかめ、渋々といった様子で暴挙の矛を鞘に納める。
「皇帝閣下がそう仰るんでしたら。……ち、命拾いしたな、ガキ」
「この状況でまだそれが言える根性がすげぇよ……。今、同盟が破談して帝国が滅びかける瀬戸際だった気がするぜ」
皇帝のストップとスバルの仲間たちの視線、それを浴びてもなお悪びれないジャマルの態度に嘆息し、スバルはアベルを見た。
彼はジャマルを扱いやすいと評したが、とてもそうは思えない。
「お前、この期に及んでうっかり暗殺とかされないよね?」
「実際、俺の首を抱いて降れば、悪いようにはされぬだろうがな。これの姿勢は帝国の兵として極々平常……やや短慮に過ぎるが、セシルスほどではない」
「比較対象にセッシー出すのはズルいだろ……!」
笑えない冗談と、有無を言わせない事例を出したアベルにスバルが憤慨する。それを余所にアベルは手振りでジャマルを下がらせ、改めてスバルを見た。
先の、スバルに突き付けられた指と問いに答える構え、すなわち横道に逸れかけた『石塊』についての情報開示だ。
「先ほど貴様が鼻息を荒くした疑問だが、肯定だ。『石塊』はこの城塞都市にいた。留め置くための手段を用い、この都市を神域としていたのだ」
「……信じられないかしら」
再び円卓を指で叩き、硬い音を立てながらアベルが事実を語る。と、そのアベルの答えに、思わず喉を鳴らしたのはベアトリスだった。
彼女はその可愛い横顔で、唇をきゅっと結びながら、
「とんでもない話なのよ。四大で一番、意思疎通が難しいのが『石塊』、母様からはそんな風に聞かされていたかしら」
「四大精霊で、一番……」
「ちなみに、四大で一番ちゃんと話を聞いてくれないのが『霊獣』で、一番お話にならないのが『通り魔』。一番話しても無駄なのが『調停者』らしいのよ」
「どれも大概じゃねぇか! パック、帰ってきてくれ!」
ますます、パックが恋しくなるラインナップに驚天動地の心境が隠せない。
『通り魔』やら『調停者』やら物騒そうな名前と比べて、『石塊』やら『霊獣』やらの方が印象的には柔らかく聞こえるのもどうかしている。
「『石塊』が話せないなら、まだ『霊獣』の方がマシに聞こえるけども……」
「母様は、『霊獣』は善意のお化けって言ってたかしら」
「おいおい、この世界のランドマークは全部見てみたい気持ちはあるけど、会いたい著名人は一人もいないぜ……逆にすごくねぇか?」
スバルもこの世界で一年以上過ごしているので、時々有名人の名前が耳に入ることもあるのだが、いずれも物騒な肩書きのものが多くて食傷気味だ。
王選候補者や『剣聖』など、ポジティブな著名人とはすでに知り合っているという事実も大きいかもしれないが。
ともあれ――、
「『石塊』を留め置くことと、神域という表現は初耳ですね。おそらく、ヴォラキア独自の言い回しかと思いますが、どういう意味があるんです?」
「端的に述べれば、『石塊』は地の属性を司る大精霊だ。故にあれが寝床とした地は、自然とその特性の庇護を受ける。実りの豊かな土が作られるのに加え、その土地で暮らすものの養生にも効果を発する」
「……なるほど。思ったよりもずっと重大な役目ですね」
疑問を差し挟んだオットーが、アベルの回答に口元に手を当てて感嘆する。
つまるところ、ムスペルの影響が届く範囲では農業も盛んになるし、病人や怪我人も治りが早くなると、いいこと尽くめの温泉みたいな効能があるらしい。
もしも、そのムスペルの配置を自由にできたのだとしたらそれは――、
「確かにそんなん、城塞都市が再建中なんて嘘よりもよっぽど隠さなならん話やね。帝国の高い国力、それを支える柱の一本が『石塊』やったって話やもん」
「それを他国の人間である我々に開示した。――ヴィンセント皇帝閣下の、覚悟のほどが窺えると私は受け止めます」
「あんまり胸襟を開かれすぎると、かえってそれが危うく感じんでもないけど……内輪揉めが嫌やって話は、ウチも同感やしね」
アナスタシアとユリウス、二人の態度は国外勢力としての自然なものだ。
無論、アナスタシアが最後に付け加えたように、帝国にとって不利な情報を明かしすぎという見込みもないではないが。
「それが本当に隠しておきたいことなら、アベルはもっと色んな言い方で誤魔化せたはずでしょう? それをしなかったってことは、そうじゃないってことだと思う」
「エミリアたんの言う通りだ。こいつは性格が悪いし悪知恵も働く。ロズワールとかアナスタシアさんだって騙そうと思えば騙せたさ。らしくなく見えても、これがアベルの精一杯の誠意ってやつなんだよ」
「まだハーフエルフの娘の方が無礼さを感じさせぬとは驚きだ。貴様、今の世でこのような評価は滅多にされるものではないぞ」
わざわざフォローしたのに、フォローし甲斐のない返事にスバルは唇を尖らせた。
そんなスバルたちの一幕にひと段落をつけたのは、手を叩いて注目を集めるフロップだ。彼は「旦那くんたちの言う通りだ」と頷いて、
「皇帝閣下くんは事実を明かした。それだけ、事は急を要するということの表れなのと、最悪の事態を説明するのに避けては通れない話題だったからだね」
「最悪の事態……それが、皇帝閣下の仰った帝国の大地の終焉と思ってーぇも?」
「そうなるね!」
勢いよく頷いて、フロップがロズワールの確認を肯定する。
帝国の大地の終焉――それが、『石塊』ムスペルが用いられ、このヴォラキア帝国を襲うことになる『大災』の最悪のシナリオ。
そして、そのシナリオがスバルたちに明かされる前に、アベルが民間人に過ぎないはずのフロップを連れていたのは――、
「神域についての情報を皇帝閣下くんに伝えるよう、そう僕に託したのは偽皇帝くんだったんだが……彼の真意は大精霊である『石塊』と協力することではなく、相手の計画に『石塊』が用いられている可能性の警告だったようだ」
「そうか。フロップさんは、アベルの偽物と直接会ってたんだな」
「うん。彼が何故そうした振る舞いをしていたのか、それに関して僕は答えも意見する資格も持たないが……託されたことは果たしたい性分でね」
失った血の気の分、まだ青白い顔色に見えるフロップ。彼の答えは相変わらずの彼の義理堅さを表していて、それに救われたスバルは内心で偽皇帝を思う。
アベルを玉座から追いやり、代わりに命を落とした偽皇帝――彼の真意はアベルとやり合ったときと同じで推察するしかなく、答えを聞くことは永遠にできない。
それでも、伝言を託した相手がフロップだったことは、偽皇帝にとっての最善手の一つだっただろう。
「ええと、今の話だと、帝国とムスペルは契約関係にあったってことでいいのかしら」
「貴様の考える契約が、精霊と術師との間に結ばれるものを指すなら否定だ。『石塊』にそうした自意識はない。こちら優位、あるいは対等な契約など持ちかけようもない」
「精霊との契約で有利不利の話を持ち出すのがヴォラキアだよな。見ろよ、俺とベア子の清く正しく微笑ましい関係を」
「この通りなのよ」
「童子が戯れているようにしか見えん」
ベアトリスと手を繋ぎ、二人で軽くステップを踏んでみせたところへアベルの感想。それにベアトリスと揃って頬を膨らませるスバルを無視し、アベルは話を進める。
「『石塊』との間に約束事はない。だが、あれは帝国の領土内に留まり続けた。それ故に利用する間柄だったが……同時にあれは、帝国の地底を移動し続け、根を張った」
「根を?」
「木の根と同じと思え。樹木の太く長い枝が張った大地は強固だが、翻ってその樹木が引き抜かれたあと、その土はどうなる?」
「……穴ぼこだらけで脆くなって、つついただけで崩れてまうやろね」
アベルの問いかけを、アナスタシアが端的にまとめた。
ヴォラキアの大地を豊かにし続けたムスペルは、それと引き換えに自分の命運と帝国そのものを紐づけてしまった。
そして――、
「ってことは、ムスペルが死んだらヴォラキアは一巻の終わりって、文字通りの意味で終わりなのかよ! とんでもなくヤバい話じゃねぇか!」
言うなれば、帝国自体を粉々に吹き飛ばす爆弾の存在を明かしたようなものだ。
今回のみならず、今後も永遠にヴォラキアが付き合わなければならない、隠し通さなければならない国家機密。その事実に、ようやくスバルの驚きが識者に追いつく。
しかし――、
「たわけ、慌てふためくな」
「慌てふためかずにいられるか! は! まさか、お前、これが全部片付いたら、秘密を知る俺たち全員を口封じするつもりで……」
「それこそみくびるな。そのつもりがあれば、貴様らにそのような疑いさえ持たせるものか。謀略と暗闘は聖王国だけの特権ではない」
「それを自慢げに語る帝国も、それで有名な聖王国も滅んだ方がいいんじゃない?」
事が大きいせいで、景気よく国家規模の話が飛び出すが、帝国は言わずもがな、聖王国も碌なものではなさそうだ。スバルもかなりひどい目に遭っているつもりだが、それでもルグニカ王国がはるかに過ごしやすい国だと思い知らされる。
「まぁ、エミリアたんたちと出会えた時点でこの世の地獄でも、ルグニカ王国が一番天国なのは間違いないんだけどね」
「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」
「いいよいいよ、こっちの話。――で、さっきの話の真意はそっちの話だ」
首を傾げたエミリアに笑いかけ、スバルは再び話の水をアベルへ向けた。それを受け、彼は静かに片目をつむって腕を組むと、
「こうまで見え透いた、心の臓を他者へ委ねるような真似を放置しておく統治者など正気ではない。当然、『石塊』の根との切り離しは進めていた。貴様の懸念も、あれを探し出した上、命を奪うことの困難さを知らぬ戯言よ。筆で龍に挑むも同然のな」
「なるほど! それなら安心! ってなるなら、さっきの時間がないって話を繋がらねぇだろ。実際に切り離しは進めてたかもだが、間に合ってないから今回の状況……そこはそうなんじゃないのか?」
「――――」
「分が悪くなったからって黙るなよ!」
図星を突かれて沈黙したアベルの反応は、スバルの疑念が的中した証だ。
いずれヴォラキアはムスペルと一蓮托生の運命を断ち切れるのかもしれない。だが、それは今ではないし、差し迫った状況を打破する手掛かりとは言えないのだと。
「すなわち、我ら帝国民と『石塊』との命運は紐づいたまま。あの屍人の群れが我々を追い、それを躍起になって蹴散らし続ければ、いずれは『石塊』のマナが尽き、国土の滅びは免れないわけだ。戦って殉死した兵もすぐに蘇ると聞く。つまり――」
「相手を倒しすぎるのも、こちらの死者が出るのも望ましくない状況だーぁね」
「そうなるな。どこまでも惨たらしく、心躍る不条理な趣向というわけだ」
強制的な後手を強いられている上、防衛戦の条件さえ悪辣なものが設定された。
何故セリーナが楽しげなのかわからないが、ただの屍人の力押しに留まらない敵の執拗な計略は、帝国を確実に滅ぼすための作為が見え隠れして――、
「――でも、スピンクスはどうしてこんなことするのかしら」
「え?」
ふと、思いついた疑問を口にしたエミリアの言葉に、スバルは目を瞬かせた。
帝国の大地に眠る多くの死者を蘇らせ、『大災』とされる滅亡のための策を講じる恐るべき敵――『魔女』スピンクスの正体と計画、それはかなり具体的に明らかになった。
しかし、エミリアが疑問に思った『魔女』の動機、それは――、
「そりゃ、帝国を滅ぼしたいからじゃ……俺も気持ちはわからないじゃないし」
「ナツキさんの本心はともかく、それはエミリア様の疑問の答えとしては不十分ですよ。辺境伯とベアトリスちゃんが確認した、敵の首魁の正体がかつてルグニカ王国で暴れた『魔女』だというんなら、その恨みの矛先は王国に向くべきです」
「だというのに、『魔女』は帝国で死者を蜂起させた。確かに腑に落ちない。ただ、条件に合うのが帝国だったという可能性はあるだろう」
「条件、ですか?」
エミリアの抱いた疑問を起点に、オットーとユリウスが視線を交錯させる。
推論の先を求めたオットーに、ユリウスは自分の細い顎に指を添えながら、
「『不死王の秘蹟』と復元魔法を混合した、ゾンビの軍勢……この実現に、規格外のマナを保有する四大の存在は不可欠だった。故に、『魔女』は帝国で術式を実現し――」
そこで一拍、ユリウスは間を置くと、会議室にいる全員の顔を見渡して、
「帝国を滅ぼした上で、次いで王国へ攻め入る目論見であるのかもしれない」
「な……っ」
「――ふざけるな!!」
ユリウスの危惧する可能性、それを聞いてスバルが絶句すると、それを塗り潰す勢いでゴズが怒号を上げた。ゴズはその子どもの頭ほどもある拳を強く強く握りしめ、円卓を壊さない最低限の理性を保ちながら、歯軋りする。
「もしも貴公の考えが正しいならば! 我らがヴォラキアはもののついでに滅ぼされようとしているというのか!!」
「正確には、本命の標的を叩く計画の第一段階ってところやろけどね。ううん、『石塊』の居所やらゾンビの仕込みやら、段階はもっともぉっと前から動いとったやろけど」
「ぐ、ぬううう……っ!!」
アナスタシアもそのつもりはなかっただろうが、彼女の補足はゴズの怒りを宥める役割を果たさなかった。かえって悔しそうに唸るゴズ、彼と同じでジャマルも激昂している様子だが、誰でも自分の故郷の危機を、ついでと言われて納得などできない。
その胸中を慮るスバルは、しかし、傍らのベアトリスの表情に気付く。
「ベア子?」
「――。ユリウスの考えはわかるかしら。ただ……ロズワール」
「ああ、君の懸念はわかるとも。――はたして、あのスピンクスに王国への報復なんて人間らしい感情があるかどうか。それこそ、騎士ユリウスの考えの半分だけが正しいような気がしてならない」
「ユリウスの考えの半分って……」
「帝国では条件が合った。だからやった。そういうことさ」
黄色い方の目を残し、片目をつむったロズワールの言葉にスバルは息を呑んだ。隣で険しい表情のベアトリスが何も言わないのは、彼女も彼と同じ意見だからだ。
ユリウスの考えが正しければ、帝国の出来事は王国にとっても他人事ではない。
だが、ベアトリスとロズワールの考えが正解なら、そちらの方がより救いがない。
そして――、
「いずれであれ、すでに『魔女』は帝国へ弓を引きました。皇族の方の命さえ辱められた以上、もはや敵を滅ぼす以外の選択肢はありません。違いますかな?」
「ずいぶんと血の熱を感じさせる発言だな、宰相殿。やはり、ラミア閣下のことは宰相殿の腹に据えかねたか」
「――ええ、それが何か問題でも?」
揶揄する目論みがあったのかもしれないが、だとしたらセリーナの思惑は外れた。
ベルステツはその感情の見えない糸目の顔に、それでもはっきりと感じられる敵への怒りを宿し、表面上の態度だけは静けさを保つ。
そのベルステツの言葉に、セリーナは己の顔の刀傷をなぞり、
「いいや? 今の宰相殿の方がよほど私の好みの男だ」
「恐ろしいことを仰る」
「ははは! 傷にさえ目をつむれば器量はいいつもりだがな」
心境の変化があったベルステツをそう評し、セリーナが豪快に笑う。
その二人のやり取りはともかく、内実はベルステツの語った通りだ。屍人の軍勢を率いるスピンクスとは雌雄を決する以外の選択肢がない。
たとえ、その目的がなんであろうと、だ。
「で、エミリアたんは大丈夫そう?」
「――ん。一生懸命考えても、今はわからないってことだものね。直接、スピンクスから聞ける機会があればいいんだけど……」
「出くわしたのは一瞬だけど、あまり話せそうな感じはしなかったね」
「ベティーもスバルと同意見なのよ。あれとの対話は難しいと思うかしら」
自らの命を使った『死に逃げ』で連環竜車を狙ったスピンクス。
その命を使い捨てる戦法もさながら、多くない対話の中に一切の熱を感じなかった。感情の動かない相手は挑発にも乗ってこない。スバルの苦手な相手だ。
それ故に、たとえ『死に戻り』があったとしても難敵――。
「こうしてる間にも、相手は着々とゾンビの数を増やして、ムスペルって大精霊の余力をちょっとずつ削ってる。持久戦は、ただただこっちの不利になるだけ」
「かといって、帝国中の戦力を集めて帝都に再攻撃……ってのもあかんね。大軍同士のぶつかり合いやなんて、それこそ命の消耗戦やもん。ますます被害が大きなるわ」
「こちらにも相手方にも被害を出せない縛られた条件……つまり、目前に迫った『大災』から帝国を救うための作戦は、ほとんど一択です」
スバルとアナスタシア、そしてオットーが言葉を続け、自然と視線は円卓に座っているアベルへと集まった。帝国の人民の全てが当事者であり、その当事者の頂に立つ男はその視線を当然のものとして受け止めると、
「――少数精鋭で帝都へ攻め込み、首魁である『魔女』の身柄を押さえる。そうして、彼奴が綿密に敷いた『大災』の道を解体する」
――この、ヴォラキア帝国で始まった戦いの最終局面、『大災』を止めるための作戦をはっきりと、そう宣言したのだった。
△▼△▼△▼△
円卓を囲んだ会議の結論が出され、一段落がついた。
打ち立てた方針に従い、ここから先は電撃戦に向けた人員の選定と、帝都攻撃のための策が練られることになる。
しかし、本格的にその話し合いが始まる前に――、
「――『石塊』がガークラへ配置されていたとは思い至りませんでした」
と、皇帝と宰相だけが残った会議室で、そう切り出したのはベルステツだった。
同盟を結んだ王国の面々だけでなく、セリーナやゴズといった帝国側の人間も席を外したひと時だ。護衛のジャマルも部屋の外で待たせ、まさしく帝国の首脳陣だけでの話し合い――本当なら、ここにもう一人いたはずだが。
「つまるところ、貴様もまんまとチシャの思惑に乗せられたということか」
「そのようです。予定通りであれば、今時期の神域は西南の雲海都市……メゾレイア付近のはずでした。いったい、どの時点で私奴の目を盗んでいたのか」
「閉じているような目つきだ。盗むのは容易であったのだろうよ」
「閉じているようで閉じていない。故にこそ予防の効果がある……とは、実際に謀られてから言っても負け惜しみでしかありませんな」
ゆるゆると首を横に振り、ベルステツが己の失策を嘆くように呟く。が、ヴィンセントはそれをベルステツの落ち度とは思わない。
たびたびのことだが、チシャがヴィンセントとベルステツの思惑を上回っただけだ。
皇帝と宰相の二人を欺いただけでなく、チシャは来たる『大災』がいったい何を仕掛けてくるものか、それを見極める術も用意していた。
「『石塊』が利用されていなければ、城塞都市を拠点として防備を固めればいい。『石塊』が奪われていたならそれは――」
「すなわち、『大災』の目論見に利用される。あの大たわけ、帝国を滅ぼす方法をいくつも考え、頭の中で実行したらしい。それ故の的中だ」
「簒奪を目論むものへの対策ならいざ知らず、滅ぼすことが目的の相手は慮外でした。以降、厳しく努めます」
「――。そうせよ」
以降、と先々の展望を口にしたベルステツに、ヴィンセントはわずかに虚を突かれた。
この一件が片付いたあと、ベルステツは宰相の座を辞し、ラミアに殉じようとする可能性もなくはないと考えていたためだ。
「ラミア閣下には、それを拒まれましたので」
その一瞬の空白に疑問を見つけ、ベルステツが自らそう答えた。
それを聞いて、ヴィンセントは何も語らない。ただ、小さく鼻を鳴らすのみだ。ヴィンセントのその反応を受け、ベルステツは「それにしても」と言葉を続け、
「閣下が『石塊』と神域について語ったのには驚かされました。『石塊』と国土の切り離しについても、目処が立っているとは言い難い」
「此度のことが決着し次第、止めていた国策に着手する。王国との不可侵条約が切れる二年後までに成果を出せねば、今日を越えようと明日がない」
「左様かと。時に」
と、そこでベルステツが一拍を置いて、その糸目をわずかに開いた。
「おわかりかと思いますが、『石塊』の留め方は明かされませんよう。それが帝国の機密というだけでなく、同盟者らの心証がございます」
「ナツキ・スバルと、精霊術師のハーフエルフは潔癖であろうからな。――死罪の咎人を『石塊』の契約者とし、死するまで使い捨てていると知れば面倒があろうよ」
「閣下」
迂闊に口にするな、と釘を刺すベルステツにヴィンセントは肩をすくめた。
会議中、エミリアから『石塊』と帝国が契約関係にあるかと問われ、ヴィンセントは彼女の認識する契約関係はないと答えた。
あれは嘘ではなく、事実をそう嘯いただけのことだ。
『石塊』を留め置くには、精霊と人間との間で結ばれる契約が最も手っ取り早い。
ただし、『石塊』に自意識はなく、契約において交渉の余地も窓口もない。故に、『石塊』と契約した場合の代償は一律、契約者へと流れ込む膨大な虚無の負荷だ。
意思疎通不可能な、途方もなく大きな存在と四六時中体を共有するような感覚は、容易に人間の精神を壊し、原形をとどめない状態へ追いやる。
免れない廃人化と引き換えに、『石塊』は契約者の現在地に留まる性質だ。
故に帝国では神域の必要な土地に、『石塊』と強引に契約させた死罪人を留まらせ、その神域の恩恵を各地へ分配する。一度、『石塊』の居所を見失えば探し出すのは至難の業なため、死罪人の補充は最重要事項の一つだ。
そして、帝都決戦が始まる以前に、皇帝に扮したチシャは『石塊』を城塞都市ガークラへと移し、『大災』へ備えさせていた。
だが、都市にはその『石塊』と契約した死罪人の姿はなかった。
「移されたなら、手掛かりなしに探し出すのは不可能でしょう。であれば、仔細まで語って得られるのは同盟者からの不信のみ」
「わざわざ口に出さずとも、察しのついたものもいたろうがな」
会議の顔ぶれを思い出し、数名の該当者を浮かべてヴィンセントは片目をつむる。
ベルステツの言う通り、この状況で内部に不和が生まれるのは避けたい。それこそ、察して口にしなかった面々も同じ腹積もりだろう。
いずれにせよ、城塞都市から奪われた時点で『石塊』は使える手駒ではなく、もはや行方のわからぬ時限の滅びと化したのだ。
スピンクスなる『魔女』の身柄を押さえる以上の解決法がないなら、殊更にその存在を気にかけていても意味は――。
「――――」
「閣下?」
ふと、押し黙ったヴィンセントの反応を訝しみ、ベルステツが皇帝を呼んだ。
その呼びかけに、ヴィンセントは「いや」と首を横に振った。
一瞬、ある考えが頭を過ったが、この先の策に含むには可能性の薄すぎる線だ。
ましてや、それは帝国で最も手綱を引けない存在、その次に扱いにくいモノで――。
「――『石塊』の居所を掴める可能性があるとすれば、理外の獲物に鼻が利く猟犬ぐらいのものであろうが、それは高望みだろうよ」
△▼△▼△▼△
――同刻、帝都ルプガナの何処かで。
暗がりの中、硬く湿った地べたにべったりと横たわり、それは動けずにいた。
傷の重さはある。心身共に消耗したことも大きい。しかし、動けない最大の理由は心よりももっと高く、己の大事な部分にあるものの負った傷――魂の損傷が理由だ。
ずっとずっと、信じて祈り続けてきたものが否定され、地へ落とされた。
生まれてから今日まで、それよりも大事にしたものなど何もなかったのに、他ならぬ大事に思っていたそれそのものから拒絶されて。
それは、生きる意味を、理由を、見失っていた。
己の価値を、存在意義を、できることを、手放してしまっていた。
ただただ、湿った地べたに転がったまま、それは呼吸する胸を上下させ、呟く。
「ひめさま……」
己の意味を否定された相手へと、縋るような、祈るような、か細い声で、呟く。
それは弱々しく、呟き続けるだけだった。




