第八章29 『愛たくなかった』
――丘の上に佇んで、その男は遠くの地平を眺めていた。
すでに日が暮れてから時間が過ぎて、光源の乏しい寒村は夜闇に勝てない。
ましてや、男手の多くが負傷し、普段よりもかがり火の数が少ないとあってはなおさらで、少女の目には暗闇に立つ男の姿はとても奇異に映った。
近隣の村々を荒らして回っていた野盗、その矛先を向けられた故郷は家畜や食料を奪われ、男たちが怪我をする大きな被害を受けたばかり。
それでも、村が滅びずに済んだのは不幸中の幸いであり、丘の上に立っている人物も、そんな幸運の一端と言えた。
野盗が村を襲った際、抵抗した男たちが死傷し、女や子どもは次々と捕まった。
少女もそのまま売られるか、よりひどい目に遭わされる可能性を目前に、そこへ現れたのが丘の上の男を含めた、都から派遣された兵士たちだった。
彼らはあっという間に野盗を取り囲み、ほとんど抵抗させずに全滅させてしまった。
その後、保護と復興の手伝いを理由に村の傍に駐屯し、テキパキと対応、村は野盗の被害に遭う以前よりも堅牢な囲いを手に入れることとなった。
男たちの怪我が癒えれば、村はひとまず安泰だろう。
少女も大人の女たちと同じように怪我人の手当てや、兵士たちへの料理の差し入れ、村の子どもたちの面倒など、忙しく駆け回っていた。
丘の上の男を見つけたのは、それらがひと段落して家に帰る途中だった。
「――――」
無言で、夜闇に目を凝らしている男の姿は滑稽と言うこともできた。
何も見えないだろう闇に目を凝らすなんて、無駄な行いの極みだ。結果に結び付かない行為は価値を認められない、それが過酷な帝国の流儀である。
しかし、少女の目には男が滑稽に見えなかった。
一心不乱に彼方を見据える男、彼が余人には見えないものを確かめようとしているように思われて。
それが、いったい何を見ようとしているのか無性に気になってしまったから。
「真っ暗闇を眺めるより、空の星を数えた方が心が安らぎませんか?」
気付いたら、男の背中にそう声をかけていた。
振り向いた男は微かな驚きを瞳に浮かべていて、それがなんだか誇らしかった。
――それが長く長く語られる、おとぎ話となる少女と王の出会いだった。
△▼△▼△▼△
――その再会は予期できないものだった。
運命の悪戯か、巡り合わせの妙というべきものだろう。
未曾有の危難に晒されたヴォラキア帝国において、ほとんど誰もが同時に周知することとなった『大災』の全貌。
屍人として蘇った死者たちの行進は、あらゆる生者たちを混乱の内へ叩き落とした。
しかし、その混乱への避けられない転落を味わい、這い上がるものたちがいる。
肉体的な強弱に拘らず、精神的な強者として立ち上がる存在――凡庸な只人の目に、英雄や傑物として映るものたちだ。えてして、そうした強者は肉体的にも強者であることが多いが、それらの行動が帝都の命運を大きく左右した。
生者たちへの最悪の奇襲となった『大災』の一撃は、その被害の単純な想定を大幅に下回る結果に留まった。
だが、それは生者たちの健闘を意味しても、最善の結果を意味しない。
何故なら、本来正しく傑物に数えられるはずの存在を、最初の混乱から這い上がるよりも早く、最初の奇襲が呑み込む事態を生じていたからだ。
「――ん」
微かな吐息が唇から漏れ、意識は緩やかに覚醒へ向かう。
長い睫毛に縁取られた瞼が震え、夜明けを恐れる太陽のようにゆっくりと瞳が世界を映し出すと、一度二度と、青い瞳の瞬きが行われ――刹那、泡沫の夢がパチンと弾け、意識がはっきり現実に定着する。
「――っ」
急いでその場に体を起こせば、視界に映り込んだのは見知らぬ場所だった。
天井の高い造りの部屋は、その壁や床の材質も職人の腕も一級品だ。上等な部屋には上等な部屋に相応しい調度品が置かれ、高貴な佇まいの場と一目でわかる。
広々とした部屋の中、自分が柔らかな寝台に寝かされている事実もその理解に拍車をかけるが、その理解した事実自体が異様だった。
それは直前の記憶と照らし合わせて、あまりに不自然極まりない事実なのだから。
「わっちは、帝都の戦いに……」
参じていたはず、と自らをそう振り返る。
途端、蘇るのは天地のどちらも赤々と染まった世界で、奇跡的な再会を果たした娘と共に、泣き喚く童をあやすのに奔走した記憶だ。
文字通り、手を焼かされる状況だったが、その試み自体は成功を収めたはず。
しかし、自分はこんな場所にいた。それがあまりに不可解で――、
「――キモノが」
そこまで考えたところで、己の胸に当てた手の感触の不慣れさに遅れて気付いた。
寝台に入った自分の体を見下ろせば、その肢体が纏っているのは着慣れたキモノではなく、これもまた高級感のある良質な布を使った青いドレスだった。
まとめていた髪も解かれ、髪飾りや耳飾りもどうやら外されてしまっている。
あれらは全て、自分にとってかけがえのないものであり、意識のない間に手放すことなどあってはならないもので――、
「――目を覚ましたか、我が星」
見失った装飾品を探そうと、寝台を出ようとした矢先、その声が聞こえた。
「――ぁ」
不意に鼓膜を打ったその声に、誇張なしに脳の活動の全てが奪われる。
声が発されたのは部屋の入口で、そこまでには視線を奪うような典雅で煌びやかな調度品が様々並べられていた。だが、それら一切は自分の目に入らない。
耳を奪われたように、心を奪われたように、意識がそちらへ持っていかれる。
それは自分にとって――ヨルナ・ミシグレにとって避けられないことだった。
「――――」
目を丸く見開いて、寝台のヨルナは入口に立つ人影を凝視する。
そこにいたのは小柄な人影だ。背丈は女性としては長身なヨルナよりだいぶ低く、子どものような線の細さを感じさせるが、顔立ちは刺々しく整った立派な男性だった。
肩に届くぐらいの黒に近い緑髪と、不機嫌を思わせる隈の深い不健康そうな目つき、それらは人を寄せ付けない彼の性格を如実に反映しているようでもある。
しかし、実際には人が彼を恐れるだけで、彼が人を遠ざけているわけではないとヨルナは知っている。――事実、彼は自分を遠ざけようとしなかった。
その、最期の瞬間を目の前にしても、遠ざけることを心から拒んだ。
だから、今、自分がここにいるのだとヨルナはそう知っている。
知っているから――、
「……閣下、でありんすか?」
「妙な喋り方をする。だが許そう。そなたの魂が関わる全てを」
信じ切れない思いを抱え、問い質したヨルナへ小柄な男がそう応じる。
そのひどくぶっきらぼうで無愛想、陰気な重みを孕んだ声音には、短い発言と比較してはち切れそうなほどの感情が詰め込まれていた。
それは人の身には余るほどの執着であり、その執着の起源は愛にある。
目の前の男は、ヨルナ・ミシグレを愛している。
それはヨルナが『愛』されることに特化した能の持ち主だからわかるのではなく、この場に他の誰がいても一目瞭然でわかるぐらい明々瞭々な強い感情だった。
もっとも、この場に他の人間が居合わせるなんて絶対にありえないことだろう。
なにせこれは――、
「三百年近く間を空けた逢瀬だ。誰にも余とそなたの邪魔はさせん」
「――――」
「よく顔を見せろ。姿かたちが変わろうと、そなたの瞬きを近くで見たい」
ゆっくりと歩み寄り、そう告げてくる男の言葉にヨルナの心の臓が震える。
それが如何なる感情によるものか、自分でもはっきりとわからない。ありえない再会を喜び、その胸に飛び込みたい衝動はもちろんあった。
しかし同時に、それをしてはならない理由も三百年分ある。差し当たって直近の数十年が、ヨルナを衝動的にさせなかった最大の理由だ。
故に、ヨルナは歩み寄る男に、相反する感情を抱いたまま唇を震わせ――、
「――ユーガルド・ヴォラキア閣下」
呼びかけに相手の足が止まり、ヨルナは己の唇をきゅっと引き締めた。
そう呼ばれ、足を止めたなら見間違いではない。そもそも見間違うはずがない。他の誰が彼を見誤ろうと、ヨルナだけは彼を見間違うことなどありえない。
ヨルナだけは――否、アイリスという少女から始まったこの魂だけは、『茨の王』と呼ばれたユーガルドのことを間違えるはずがなかった。
――アイリスと茨の王。
それはこの世界で古くから語られるおとぎ話であり、同時に史実にあった昔話である。
アイリスという少女と、『茨の王』と呼ばれたヴォラキア皇帝との出会いと別れ、そして悲劇的な結末を描いたことで知られた物語だ。
そのアイリスの魂が天へ昇らず、帝国の大地へと縛られ、幾度もの転生を繰り返した存在がヨルナ・ミシグレ。そして、アイリスの魂を帝国の大地へ縛ったのが、他ならぬ『茨の王』ユーガルド・ヴォラキアだった。
つまりこれは、描かれなかった『アイリスと茨の王』のその後の物語――、
「なんて、そんな美しい物語では到底ありんせん」
ゆるゆると首を横に振り、ヨルナは自分の胸の内の衝動を押さえつける。
望まぬ別離を迎えたユーガルドとの再会、それはヨルナにとって悲願だったと言っていい。ある意味、これはその悲願が叶った瞬間と言えただろう。
しかし、違うのだ。ヨルナの思い描いた再会は、こんな形ではなかった。
「そのような御顔や眼をした閣下を、目にしたくはのうありんした」
嘲笑うような運命の悪質さに、ヨルナは悲しい怒りを携えてユーガルドを見る。
足を止めて、ヨルナの眼差しを受け止める愛おしい皇帝――青白い肌に金色の双眸を宿した彼は、ヨルナの知る姿からあまりにも変わり果ててしまっていた。
具体的に、彼に何があったのかはわからない。
ただ、ユーガルドの姿が尋常のものでないことと、それが決して自分や自分の愛し子たちにとっていい影響を与えるものでないことは確信ができた。
変わり果てた姿で、ありえない蘇りを果たしたユーガルド――自分が目覚めた見慣れぬこの場所がもしも水晶宮の一室だとしたら、最悪の可能性さえ頭を過る。
何か途轍もない事態が起こり、帝国の在り方が変わってしまった可能性が。
「閣下、主様はいったい何があってこうして……」
交わしたい話は涸れない涙のようにある。
だが、ヨルナはそれを振り切って、問い質すべきことを問い質そうとした。
しかし――、
「――我が星」
そのヨルナの問いかけは、指を一つ立てたユーガルドの仕草に封じられた。
その仕草にヨルナの口を封じる力があったわけではない。その仕草に付随して、ヨルナの心の臓を締め付ける鋭い痛みがそれを封じさせたのだ。
「か、ぅ……」
鋭い痛みに心の臓を貫かれ、ヨルナの喉から問いの代わりに呻き声がこぼれる。
反射的に押さえたヨルナの胸元、そこに視線を向ければ、先ほどまでのドレスにはなかった意匠――灰色の茨が加えられている。
その茨はヨルナの胸の中心で渦を巻き、白い肌をすり抜けて内側まで届いていた。
それがヨルナの心臓に茨の棘を突き立て、凄まじい痛みが全身を支配する。しかもそれは手で触れようとしても、ヨルナの指をすり抜け、触れられもしない。
その痛みに白く染まる思考の中、ヨルナの脳裏を過るのはユーガルドの異名――代々のヴォラキア皇帝は、その統治の仕方や成し遂げた覇業を理由に様々な名で呼ばれるが、ユーガルドを示すそれは『荊棘帝』だ。
文字通り、ユーガルドは他者を茨の痛みで縛り、従える。
植え付けられた不可触の茨、それで以てユーガルドは帝国民を従え、痛みと恐怖を用いて帝国の領土を現在の形に広げた大帝であったのだから。
耐え難い痛みに苛まれ、ヨルナは喘ぐように喉を震わせる。
そして思い出した。――あの帝都を巡った戦いの中、泣いて暴れるアラキアをプリシラと共に下したあとで、自分が如何なる不覚を取ったのか。
何のことはない。
その場に現れたユーガルドの姿にヨルナが気を奪われ、茨の縛めを避けられなかった。そして、縛られたヨルナと意識のないアラキアを抱え、プリシラはユーガルドと、その背後に続く多くの金色の目をしたものたちと相対することになり――、
「――プリスカは、無事でありんすか?」
問いかけは、激しく鋭い痛みの中で発された。
痛みに耐える呻きだけがこぼれた唇が、意味のある問いを発せられたのはひとえに気持ちが痛みを上回ったからに他ならない。
事実、与えられる痛みは微塵も揺らいでいない。
ユーガルドは茨の縛めを緩めない。それは相手がヨルナであろうと、アイリスであろうと同じことだ。そもそも、ユーガルドの行いは怒りの発散や折檻が目的ではない。
茨を植えるのも他者を縛るのも、ユーガルドにとっては呼吸も同じだ。
人が二本の足で歩くように、ユーガルドは茨で他者を縛る。
その棘が深く刺さった相手の泣き声も流れる血も、彼が他者と触れ合うための手段でしかない。
だから、彼とあるということは、この痛みと共にあるということだった。
それを身を以て思い出せば、ヨルナは口の端に微笑さえ浮かべて、その問いを発せられた。
「わっちと一緒に、あの場にいた二人は無事でありんすか?」
「そなたといたというなら、余の眼には入っておらぬ。余の眼に入るのは我が星、そなただけだ」
「そう、でありんすか……」
重ねた問いかけに、ユーガルドの答えは望んだものではなかった。
だが、それを理由に声の調子を落としたヨルナを見て、ユーガルドは思うところがあったように双眸を細めると、
「……だが、『魔女』が生きたものを城に入れた。そなたの話すものもいるやもしれん」
そう付け加えたユーガルドに、ヨルナは微かに息を詰めた。
記憶の中の藍色の瞳と違い、黒い眼球に金色の光を宿しているユーガルドだが、ヨルナを見つめる眼差しの柔らかさと、不器用な気遣いは変わらぬ彼を思わせる。
それに、茨とは違った痛みが胸を締め付けるのを感じながら、
「でしたら、閣下にお願いがありんす」
「願い?」
「――。その、『魔女』でありんしたか? その『魔女』が城に入れたというのが、わっちの連れだったか確かめていただきたくありんす」
プリスカとアラキア、二人の無事を確かめたい。
現状を把握し切れていないヨルナにとって、目下、最優先すべきは二人の安否だった。
それが叶うなら――、
「――そなたは死を諦めるか、我が星」
ユーガルドの発した言葉、それはまたしてもヨルナの胸を別の痛みで貫いた。
「――――」
声を発さず、顔を上げたヨルナをユーガルドが見下ろしている。
そのユーガルドの言葉に、ヨルナはとっさに何も言えなかった。何を馬鹿なことを、などと言えるはずもない。それは紛れもなく、ヨルナの真意を突いている。
魂を帝国の大地に縛られ、死するたびに別の体で新たな名前を得て蘇る。――それを繰り返したヨルナの、アイリスの抱く願い。
それを、ユーガルド・ヴォラキアは正しく看破している。
「……血は、争えぬものでありんす」
そして同じことは、ヴィンセント・ヴォラキアもまた看破していた。
それ故にヨルナはヴィンセントと手を組み、謀反者から帝都を奪還する戦いに身を投じることを選んだ。無論、崩壊した魔都のことも多分を占めるが、自分の本音がどちらにあるのか、それに迷う時点で不誠実だとヨルナは考える。
だから、ヨルナはユーガルドの問いに頷いた。
「あの子らの命が助かるなら、わっちの死なんて些少のことでありんしょう」
「いいだろう。そなたの願いを聞こう、我が星」
痛みに耐えて微笑したヨルナに、ユーガルドは顔色を変えずに頷いた。
そして、彼は一度は止めた歩みを再開し、ヨルナのすぐ目の前へやってくると、そっと伸ばした手でヨルナの頬に触れた。
その優しい手つきと裏腹に指は冷たく、詰めた距離の分だけ茨の棘が深く刺さる。
「しばし待て」
心と体、どちらにも突き刺さる痛みを味わうヨルナから手を放し、そう言い残してユーガルドが背を向けた。
相変わらず、やると決めた行動が早い。
そんな感慨を抱きながら、ヨルナは部屋の扉へ向かう背中に問いを発した。
「わっちの元々着ていたキモノと、髪や耳の飾り物はどうなりんした?」
「余の好む趣きではない。だが、そなたを飾った品々だ。取ってある」
そう言って、ユーガルドは寝台の脇にある棚を手で示し、それ以上の言葉は費やさずにヨルナへの返答を終わらせた。
そのまま部屋を出ていくユーガルドの淡泊さは、まさしくヨルナの知る彼そのものだ。生前の彼はああして、常に時間に追われるように生き急いでいた。
そんな彼に、急がなくてもいいと言いたくてアイリスは隣に並んで――。
「……か弱い小娘のようなことを」
ゆるゆると首を横に振って、ヨルナは寝台から抜け出し、棚に手を伸ばした。
引き出しを開けると、そこにはヨルナのキモノと帯が丁寧に畳まれ、髪飾りと耳飾りを入れた巾着も一緒にされていて、安堵の息がこぼれる。
その安堵があまりにも大きかったからか――、
「――ぁ」
らしくない、か細い音が喉から漏れたのと、頬を熱が伝ったのは同時だった。
「く」
体を前に折り、ヨルナはぎゅっと歯を噛んで嗚咽を堪えた。
涙なんて流してはいけない。それは強固に作り上げられた『極彩色』を、ヨルナ・ミシグレという魔都の女主人を、ただの村娘のアイリスへ引き戻す呪いだ。
アイリスに戻るということは、愛するものをただ一つへ絞るということ。
これまでの三百年間、誰かの子であり、誰かの親であり、誰かの妻であり、そうして過ごした日々の全部をなかったことにしてしまうということ。
「何故でありんす、閣下……どうして、今なの?」
プリスカを、魔都の住人たちを、この帝国に生きる多くのものたちを、愛せるという自分のままでいたい。
それを、胸の内で棘を主張する茨の痛みが忘れさせようとする。
その、狂えるほど懐かしい甘い痛みが、ヨルナは恐ろしくてたまらなかった。
たまらなかった。