第八章19 『バルガ・クロムウェルの策』
堪え性のないロズワールの一撃から、戦いは否応なく始まった。
「――死にたまえ」
と、その冷たい一言と対照的な、灼熱の業火が空を焼き尽くすかの如く炸裂する。
猛然とした炎が夜の空を一挙に広がり、屍人と命懸けの戦いを続ける戦士たちも、誰もが燃える空に目を奪われたことだろう。
ただ一人の敵を焼き払うだけが目的なのに、これはやりすぎだ。
「部屋の羽虫を殺すのに、屋敷を焼くような蛮行かしら」
目的のために屋敷を燃やすなんて、ペトラとオットーしかやらない暴挙だ。
あのぐらいの思い切りがなければ『禁書庫』を出る勇気が出せなかったかもと、こっそり感謝しているベアトリスではあったが、それでもやりすぎだとは思っていた。
その二人に負けないくらいのやりすぎを、ロズワールは先制パンチで発揮した。
しかし――、
「脅威度の認識、要・修正です」
空中で身を翻し、燃える夜空から脱した敵――スピンクスは健在だった。
せっかく屋敷を燃やしても、肝心の羽虫に逃げられては意味がない。これではただ、ロズワールは空を焼いて、周りのみんなを驚かせただけ。
ここにいたのが、ロズワール一人だけだったなら。
「エル・ミーニャ」
桃色の髪をなびかせ、空を自在に飛行するスピンクス、その進路上に浮かび上がる紫紺の瞬きは、対象の時を静止させて打ち砕く魔の骨頂。
すでに検証済みの、屍人に対する最大の効果を発揮する必殺の一撃だ。
「スバルとベティー以外の全員、陰魔法を修めてないのがよくないのよ」
屍人軍団相手にも、陰魔法の使い手がぞろりと揃えば怖さなどない。
もっとも、長い時を生きるベアトリスの感覚でも、陰魔法の使い手が十人以上一所に揃った場面なんて見たことがないので、無理難題は承知だった。
そんな益体のない思考で、ベアトリスは自分の中の躊躇いを先に射殺す。
――リューズ・メイエルと同じ顔をした、忌まわしき『敵』を撃ち抜くために。
「リューズ……」
ベアトリスの脳裏を、リューズ・メイエルの儚げな笑みが過る。
ガーフィールやフレデリカに祖母と慕われるリューズたちと違う、彼女たちの祖にあたるリューズ・メイエルは、ベアトリスの生涯最初の友人だった。
当時は認められなかった。認めるのがあまりにも遅かった。
ただ、今は違う。今は、彼女の存在の大きさをちゃんとベアトリスも受け止められる。だからこそ、この『敵』の姿かたちはベアトリスにとって――、
「とさかにきたかしら!」
吠えるベアトリスの視界、放たれる紫矢へと真っ向からスピンクスが突っ込む。
わずかに目を細めた『敵』は両手を顔の前に掲げると、その左右の五指から白い光を放ち、待ち構えるミーニャをことごとく切り払った。
砕かれる音も立てず、バラバラに吹き飛ばされる紫紺の結晶――だが、ベアトリスのフラストレーションは、そのぐらいでは壊せない。
「――ッ」
脅威を退けたはずのスピンクス、その表情が微かに歪んだ。
原因は、彼女が切り払ったはずの紫紺の結晶が、その砕かれた状態のままで飛礫となって広がり、高速で飛行するスピンクスに追い縋ったからだ。
「魔法はイメージ、防がれてしまったと思った途端にダメになるのよ」
しかし、ミーニャが象る結晶の矢は、矢の形をしていることが重要なのではない。突き立った相手の時を凍結させ、砕くという効果が本命なのだ。
それは矢の形をしていなくとも、相手に突き刺さるなら形状も大きさも問わない。
だから、負けん気に火を付けられたベアトリスの飛礫は、スピンクスを逃がさない。
そして――、
「脅威度の認識、再度、要・修正――」
「――考えッ直すのが百年遅ェ」
飛礫となったミーニャを回避し、懸命に逃れようとしたスピンクスの真横に、地面を蹴って飛んだガーフィールの凶相が並んだ。
目を鋭く、牙を剥き出したガーフィールは獰猛な獣のように唸り、そのしなやかな腕を豪快に振り回し、渾身の一撃をスピンクスへと叩き込まんとする。
瞬間、ガーフィールとスピンクスの視線が交錯する。
その祖母と同じ顔をした相手に、拳を叩き込む躊躇がガーフィールの心を――、
「婆ちゃんとァ、心の匂いが違ェんだよォ――ッ!!」
そんな外野の心配は、エミリア陣営の頼もしい武官には不必要だった。
繰り出された拳、それがスピンクスの横っ面を捉え、少女の体を空中から地面へと打ち落とし、大地に拳ごと豪快に押し付ける。
大岩が降ったような轟音と土煙が上がり、振り切った腕の向こう側にスピンクスの体が木の葉のように舞っていくのがベアトリスの目にも映った。
容赦と躊躇いのない、純然たる怒りの込められたガーフィールの一発。
直撃されれば、ベアトリスも一発でマナに還元されかねない強大なそれを喰らい、噴煙の向こうにスピンクスは吹き飛び、転がっている。
「三人がかりの囲い込みだ。いいチームワークだったんじゃーぁないかい」
「一番最初に癇癪起こした奴がよく言うかしら」
「てめェとチームワークなんざッ虫唾が走るぜ」
肩をすくめたロズワールの、いかにも冷静沈着でしたと言わんばかりの態度にベアトリスとガーフィールからそれぞれ悪態が飛んだ。
そう突き放され、ロズワールはもう一度肩をすくめてみせた。
すると――、
「……再度、脅威度の認識、要・修正、です」
噴煙の落ち着き始めた大地で、ゆっくりと体を動かすスピンクスがそう呟く。
地面に落とされ、土に塗れたスピンクスは苦痛を表情に出していないが、その声音には明らかなダメージの蓄積があった。
「――――」
それでも、彼女は金色の瞳を光らせ、ベアトリスたち三人を見据える。
そこにあるのは敵意や怒りといった感情を孕んだものではなく、あくまでこちらを自分の興味の対象としている、理知の怪物的眼差しだった。
「ちッ、気に入らねェ」
ベアトリスと同じく、相手の眼差しに悪寒を覚えたガーフィールが舌打ちする。ロズワールも無言で目を細め、明らかな不快感に己の内でマナを練り始めていた。
またしても、ロズワールが先走らないか横目にしながら、ベアトリスは立ち上がろうとしているスピンクスを睨み、前に出る。
頼りにならない二人を代表して、その腹の底を聞き出そうと――、
「あえて呼んでやるのよ、スピンクス。お前は何を考えて――」
いるのか、とベアトリスが言おうとしたところだった。
「――――」
その場に立ち上がったスピンクス、その体が震え、視線が自分の胸元に落ちる。
スピンクスの薄い胸から、刃の先端が突き出していた。それは彼女の背中から刺され、胸から飛び出した致命の刃だ。
そして、その刃を握っていたのは――、
「嫌な気配のする娘ダ。生かしておくべき理由が何もなイ」
そう殺伐と言い切ったミゼルダが、刺した短剣を抜いてまた刺す。
三回、背中と胸を集中的に抉ったあと、彼女はスピンクスの髪を掴んで上を向かせ、その首を逆手に握った短剣で容赦なく掻っ切った。
屍人の体だ。血は流れないが、その全部が致命傷なのは疑う余地がない。
スピンクスの体も、その場にどっと膝をついて、前のめりに倒れた。
「おま、おま、お前……っ」
倒れ込んだスピンクスの傍ら、ナイフに血がつかないのを確認しているミゼルダに、ベアトリスは凝然と目を見開きながら言葉に詰まる。
ロズワールとガーフィールも、ミゼルダの行いには言葉もなかった。
そんな三人の様子に、ミゼルダは目力の強い美貌の首を傾げ、
「お前たちと因縁のある相手だったのはわかル。だガ、墓に話セ。戦場の習わしダ」
「まァ、そりゃそォか……」
身も蓋もない意見だったが、反論の余地がないとガーフィールが諦める。
ヴォラキアの人間の価値観にはたびたび驚かされてきたが、まだまだ認識が甘かったとベアトリスは彼女らのシビアさへの認識を改めた。
「スピンクス」
その、ベアトリスとガーフィールの動揺を余所に、ロズワールが進み出る。彼は倒れ伏したスピンクスを見下ろし、感情の見えにくい横顔で相手の名を呼んだ。
ミゼルダの一撃、それが致命傷なのは傷を負った場所だけでなく、ボロボロとスピンクスの体が崩れていく様子からも明らかだ。
すでにその下半身は大部分が塵に変わり、最初からひび割れていた少女の顔も部位の剥離が始まって、全体が砕け散るのも時間の問題だった。
しかし、まだスピンクスの、屍人の生命力は尽きていない。
反撃や悪足掻きの力はなかったが、その金色の瞳を動かし、自分を見下ろしているロズワールを見返すぐらいの余力はあった。
「――――」
中身が別人とわかっていても、リューズの姿が崩れるのを見るのは胸が痛い。
ロズワールが感じているのはベアトリスの感傷とは違うものだろうが、ミゼルダの徹底したリアリズムに邪魔され、その感傷を癒す術はもしかしたら奪われたのかもしれない。
いずれにせよ、ベアトリスたち三人を苦しめた元凶は――、
「……要・熟考すべきでした」
ボロボロと、全身が崩れていく最中、その苦痛を一切顔に出さないスピンクスが、そうぼそりとこぼしたのが聞こえた。
最初、ベアトリスはそれが、自分の力不足を悔やんだ言葉だと考えた。
「――あなた方は」
しかし、続く言葉でそうではなかったことがわかる。
その付け加えた言葉にベアトリスは息を呑み、ガーフィールは「あァ?」と唸った。
ベアトリスも、その真意がはっきりわかったわけではない。だが、それが無視してはならない、捨て台詞の類ではないとだけ感じ取れて。
そこへ――、
「――しまった!」
と、弾かれたように顔を上げたロズワール。
彼はその表情に焦燥と自責を張り付け、背後へと振り向く。――背後、ベアトリスと共に空を飛び、先へ進ませた連環竜車の方へと。
同じく、ロズワールの焦燥感につられ、ベアトリスもそちらへ振り向く。
そして己の小さな胸の内の騒がしさに打たれるままに、
「――スバル」と、彼の名前を呼んだのだった。
△▼△▼△▼△
一瞬の、そう、全ては一瞬の出来事だった。
違和感を目に留めて、その疑問を音にして発した直後に、全ては白い光に呑まれた。
傍らにいたエミリアも、レムも、ユリウスさえも一切の反応を許されず、当然ながらスバルも何もできぬままに、白い光が全部を呑み込んで、消えた。
それが何を意味するのか、ナツキ・スバルは即座に直感する。
――自分の命が潰え、『死に戻り』が始まったのだと。
その証拠に――、
『――愛してる』
と、一度自分を見つけた彼女が二度と手放すまいと、そう囁く声が聞こえたから。
「あの、私の混乱を先に処理していただいてもいいですか?」
その、呆れと疲れと、わずかな苛立ちを等分した声が聞こえた刹那、スバルの中で『よーい、ドン!』のスイッチが押された。
「――――」
自分の足場と、周囲の状況を確認し、居合わせた顔ぶれから瞬間を把握する。
連環竜車の通路で、エミリアとユリウスと話していたところにレムが合流した場面。会話の流れ上、スバルの最後の発言は「もしかして、グァラルとかでプリシラからいらないこと吹き込まれてた可能性もあるかも……」と、レムの様子を慮ったものだ。連環竜車の前方ではアベルやオットーたちが戦力把握の詳細に務め、走り去ったはるか後方ではロズワールと共に送り出したベアトリスが、屍人に対抗する手段を魔法的な観点から探るためにアプローチしてくれている。ベアトリスたちが向かった先ではガーフィールや『シュドラクの民』の奮戦、そこには『プレアデス戦団』のみんなもいるはずで、誰も大怪我しないでほしいと祈るような心地と、彼らなら大丈夫だという信頼とで心がやかましい。
――と、スイッチが入ったスバルはそこまでを一瞬で切り取った。
「スバル?」
驚いたような声で、エミリアがスバルの名前を呼ぶ。彼女の目には一瞬、スバルの目がぐるぐるとめまぐるしく動いた様子が映っただろう。
前にも一度、同じ状態のスバルを目にしたタンザにそう指摘されたことがある。
『シュバルツ様の目がぎょろぎょろと動いて、その、不気味でした』
『死に戻り』の直後、状況把握に努めるスバルの尋常でない様子に、言葉を選びながらも選び切れなかったタンザのコメントがそれだ。
同じものを目にしたエミリアの反応が、とても奥ゆかしいのがわかるだろう。
ともあれ――、
「エミリア、ちょっと待って」
手を上げ、追及されるのを避けながらスバルの意識が鋭敏に尖る。
死んでリトライが前提の環境、剣奴孤島の全員生存を目指す上で欠かせなかった感覚がスバルを包み、自分を『死』に至らしめた原因の究明に極限の集中力が発揮される。
死んだのか、なんて遅速すぎる感覚に騒いでいる場合ではない。
死んだのなら、という現実に追いついた感覚がなければ解決には至れない。
その切り替えが迅速にできないせいで、スバルも、周りの人間も、倍の数だけ命を落とさせると理解しなければいけないのだ。
「――? あの……」
「レム、お願い」
集中するスバルの横顔に、微かに眉を寄せたレムが疑問の目を向ける。が、そのレムの疑問を手で制し、エミリアが彼女を引き止めてくれた。
その間、スバルは『死に戻り』の直前の出来事と、『死』の関連付けを終え――、
「――――」
走る連環竜車の窓の外、景色に紛れ込む異物をまたしても捉えた。
刹那、スバルは竜車の窓に飛びつくと、
「――ユリウス! 外だ!」
「承知した!」
エミリアとレムの感じたスバルの変化、それは当然、ユリウスも察知した。
スバルが呼びかけた直後、一瞬の停滞なく彼が動いたのがその証だ。ユリウスは窓に飛びつくスバルの後ろで騎士剣を抜くと、斜めの斬撃で通路の壁を切り払い、後ろから伸びてくる長い足で壁を蹴倒す。
そのまま、複数の地竜による『風除けの加護』の影響の外へ、スバルを小脇に抱えて一気に飛び出した。
「着地任せた!」
「任されよう」
加護の範囲外に出た瞬間、猛烈な風と慣性がスバルたちに殴りかかる。が、スバルは生存のための用意を全部ユリウスに投げ渡し、彼もそれを引き受けた。
ふわりと、ユリウスの周囲に黄色と緑の準精霊が浮かび上がり、片方が風の絨毯を、片方が大地をクッションに変えて、二人の着地をサポートする。
その、ユリウスと準精霊たちとの再び結ばれた絆が織りなす見事な技量に、しかしスバルの注意は微塵も向かなかった。
じっと、飛びついた窓が壁ごと切り離されたときも、その後の暴風の中の流麗な着地劇のときも、その視線は一点――空から降ってくる少女を見据えている。
「やっぱり、リューズさんと同じ……」
桃色の髪と黒の貫頭衣、その姿は愛らしくババ臭いリューズと同一のものだ。が、いくらエミリアたちがスバルとレムを心配していたとしても、さすがにリューズまでヴォラキア帝国に引っ張ってくることはないだろう。
すなわち、あれは本物のリューズではありえない。リューズと同じ姿かたちをした複製体の、ピコたちの誰かである可能性も皆無だろう。
彼女たちは区別がつくよう、全員髪型を変えたり、個別のリボンや髪飾りを持たせてある。そのどれもないということは、その誰でもないということ。
「ユリウス! あの子だ! 押さえろ!」
空中の、まだ地面に降り立つ前の偽リューズを指差し、スバルが叫んだ。
そのスバルの訴えを聞いて、ユリウスも夜の空に同化する少女の姿を発見。彼女が何者で何をするのか、そうした疑問の一切を後回しに、『最優』が飛ぶ。
足下の柔らかい土にスバルを落とすと、ユリウスの体が風の絨毯の残滓を纏い、それを足場に空中を跳ねて、偽リューズへと一直線に接近した。
そのユリウスの鬼気迫る勢いに、偽リューズも彼を脅威と認識する。
途端、偽リューズの瞳が夜でも鮮やかな金色の光を放つのがわかって、遠目ではわからなかった青白い肌をした屍人なのだと理解が通った。
そのまま、偽リューズはユリウスに手を向け、忌まわしき白い光がユリウスへと放たれようとして――、
「――イン、ネス、力を貸してくれ」
偽リューズの指先に灯った光、それとは別の白い光がユリウスの全身を淡く発光させ、代わりに黒い光が偽リューズの全身を薄く包む。
それが、二体の準精霊による陽魔法と陰魔法の同時行使とわかった瞬間、ユリウスの騎士剣が閃き、光を宿した偽リューズの腕から力が抜けた。
「要・説明です」
「肩の腱を斬らせてもらった。無論、すぐに繋がるのだろうが……」
腕に力の入らない理由を問うた偽リューズに、ユリウスが律義にそう答える。その答えの最後、空中でユリウスが身をひねり、唸りを上げる長い足が宙にある少女を打ち据え、その体を地面へと叩き落とした。
その偽リューズが落ちる先、大地の在り様が黄色い光と共に変質する。粘度を増した地面は少女の体を柔らかく深く受け止め、そこで一気に硬質化した。
結果、石でできた布団にくるまれたように、偽リューズが動けなくなる。
「抵抗は推奨しない。この忠告が聞けないならば、生者と死者の区別なく、あなたを『敵』として扱わせてもらおう」
「――――」
地べたに仰向けに横たわる偽リューズに、剣を突き付けたユリウスがそう宣言。
そうして相手を無力化したユリウスは、それを見届けたスバルに首肯した。と、その一連を見ているしかなかったスバルは、指で頬を掻くと、
「いや、そういうことをやってほしかったんだけど……マジか、あいつ。明らか、前よりもずっと強くなってやがる」
準精霊の援護を組み合わせた戦い方が、以前よりスマートで洗練されている。
六種類の属性の準精霊と契約している『精霊騎士』の本領発揮というべきか、魔法と剣技を組み合わせたハイブリッドな戦いぶりだった。
「わ、すごい、あっという間にやっつけちゃったのね」
と、そのスバルの後ろの方から、草を踏んで駆けてきたのはエミリアだ。
どうやら、スバルとユリウスを追って竜車を飛び降りたらしい彼女は、ユリウスの鮮やかな手並みに出る幕がなかったと目を丸くしている。
「エミリアたん、レムは?」
「スバルとユリウスが飛び降りちゃったって、オットーくんたちに伝えにいってもらったわ。私も急がなくちゃって、すぐに追いかけてきたのに」
「いや、エミリアたんが遅いんじゃなくて、あいつが早すぎ。あと、レムまで連れてこなかったのは大正解」
もしかしたら、今のレムなら一緒に降りてきかねないとも思ったが、エミリアが好判断をしてくれたおかげで危険に巻き込まずに済みそうだ。
とまで思ったところで、記憶のあった頃のレムでも全然飛び降りそうだと考え直したので、とにかく残るように指示したエミリアは大正解だった。
ともあれ――、
「リューズさん、じゃないのよね?」
「見た目はそっくりだけど、ゾンビなのは間違いないと思う。そう言えば、ベア子とかリューズさんはゾンビになるのか……?」
ベアトリスやリューズの死なんて考えたくもないが、その肉体の造りが普通の生き物と違っている彼女らに、ゾンビ化が可能なのかは疑問の余地がある。
実際、あのリューズの姿をした屍人がいる以上、奇跡的なそっくりさんでない限りは、その出自はリューズと同じはずだ。
それならばと、考える必要性のないだろう考察をしつつ、スバルはエミリアと一緒に油断なく、ユリウスの捕らえた偽リューズの下へ向かう。
「喋ることも、考えることも可能なゾンビだ。スバル、注意したまえ」
「ああ。実際、見た目よりもヤバいことをしでかす可能性が高い。エミリアたんも、注意して見ててくれる?」
「ええ、任せて。あなたも大人しくしてれば、ええと……」
警戒を任され、奮起したエミリアが偽リューズにかける言葉に戸惑う。
抵抗しなければ傷付けない、という警告が屍人相手に意味があるのか怪しいものだ。とはいえ、絶対に油断してはならない。
この小さな存在は、先ほど一息に連環竜車ごとスバルたちを消し飛ばしたのだ。
四肢を封じ、動けなくしても万全と言えるかはわからない。
「先制攻撃が失敗して残念だったな」
「――。あなたは」
「俺の名前は……と条件反射で名乗りたくなるが、友達になろうってんじゃねぇんだ。お前がヤバい奴で、その目論見を阻止したって関係でいい」
「なるほど、奇妙な人材ですね。一見して、秀でた能力はないようですが」
寝そべったまま、スバルを見上げる偽リューズがそんな所見を述べる。
侮られるのは慣れているので、その評価には腹も立たない。横ではエミリアが何か言いたげだが、ユリウスが首を振ってそれを制していた。
いずれにせよ――、
「他のゾンビはきてない。飛べるから一人だけ先行したか? もしそれで、俺たちをやれると思って先走ったんならお生憎様だ」
実際には一回、その先制攻撃でまんまとやられているが、おくびにも出さない。
この挑発で相手が口を割ってくれればと儲けもの。もっとも、伊達に肌の血の気が引いているわけでもないらしく、感情的になってくれる手応えがない。
ただ、この手のタイプはかえって見当違いな発言を繰り返していると、ついつい自分の知性をひけらかしたくなるというのがお約束だ。
必要なら、一世一代の渾身の愚かな子どもを演じる用意がスバルにはある。
しかし――、
「――バルガ・クロムウェル」
「うん?」
不意に、寝そべったままの少女の唇が知らない単語を口にした。
――否、どこかで聞いたことぐらいはあるかもしれない響きだが、それがいつで何のことだったのか、スバルはとっさに思い出せない。
その、疑問に眉を顰めるスバルの傍ら、エミリアとユリウスの反応は違った。
二人とも、その名前を知っているらしき反応を見せたのだ。
だが、偽リューズの一言に、エミリアたちが追及の言葉を発するよりも先に――、
「これは、当時は実行されなかった彼の策です」
そう、偽リューズが続ける方が早かった。
そしてその後の展開も、一度出遅れた問いかけを無視してシームレスに繋がる。
「スバル!!」
瞬間、血相を変えたエミリアの声がして、彼女の腕に力づくで引き寄せられる。そのままエミリアが奥歯を噛み、スバルたちの周囲に氷の壁が生み出された。
その氷壁の内側では、ユリウスもまた足下の偽リューズに向けていた騎士剣を構え直し、六体の準精霊の力を結集した虹の光を纏う。
来たる危機的な何かに対し、エミリアとユリウスが刹那の準備を完了した。
それを――、
「――な」
――空の彼方から降り注ぐ白い光が、嘲笑うかの如く一気に消し飛ばしていった。
△▼△▼△▼△
「あの、私の混乱を先に処理していただいてもいいですか?」
「――っ」
呆れと疲れ、苛立ちを等分に孕んだレムの声がして、スバルは短く息をつく。
前回と違い、わかっていた『死』の到来を避けられなかった自責の念と、わかっていた衝撃を受けた魂の震えが、スバルの心臓を内側から滅多打ちにした。
――『死』の原因、それを完全に測り間違えた。
目に見えるわかりやすい変化に飛びついて、それで防ぎ切ったと思い上がった結果だ。
一度目、偽リューズの存在の知覚から『死』までの間隔がなさ過ぎたせいで、本当に起こっていた事象を取りこぼしてしまった。
スバルたちを消し飛ばしたとんでもない威力の白光は、あの偽リューズが放ったものではなく、別の場所から放たれたものだったのに。
「スバル?」
「――。エミリア、ちょっと待って」
スバルの内省に気付いて、首を傾げるエミリアに手を上げて答える。
反省を中断し、後悔を放り投げる。反省はまだ発展性があるが、後悔はしたつもりになっているだけの自分可愛がりだ。
それでは可愛がった自分も、蔑ろにした周りのみんなも、誰一人助けられない。
そんなのは御免だ。そんなのは、絶対に、御免だ。
あの瞬間、偽リューズは『バルガ・クロムウェル』という名前を出した。それは未だスバルにはピンときていないが、エミリアとユリウスは知っていそうだった。その詳細を聞いておくべきか。――いや、後回しだ。そのバルガという相手の正体がわかっても、次に起こった白光の威力が消えてなくなるわけじゃない。あの攻撃はリアルな、それもとんでもない脅威としてスバルたちの目の前に立ちはだかったのだ。あれを防がなければならないが、そもそも撃たせないことは可能か。あの状況で偽リューズと攻撃が無関係とはありえないが、果たして彼女は交渉に応じてくれる屍人なのだろうか。言葉が交わせる屍人ならば、交渉の窓口を閉じるのは危険ではないのか。いや、話してわかる相手なら、問答無用で殺しにかかってはこない。話せるにしても話せないにしても、交渉のテーブルにつくためにはテーブルを置けてからの必要がある――。
「――? あの……」
「レム、お願い」
思考をスパークさせるスバルの横で、レムの疑問をエミリアが制する。
先ほどと同じ流れで、しかし、ここから先はそれとは違った展開に持ち込まなくてはならない。順番に、何をしたのかを頭の中で整理し、『死』という結末に辿り着いてしまうレールを外れるため、必要な分岐点を変える。
そのために――、
「――ユリウス! 外だ! エミリアもきてくれ!」
「承知した!」
「ええ! わかったわ!」
窓の外、来たるべき『死』の先触れたる少女の姿が掠めた瞬間、スバルは窓に飛びついて、背後のエミリアとユリウスの二人に声をかけた。
躊躇わず、ユリウスの剣撃が連環竜車の壁を断ち切り、蹴倒される壁に合わせて、スバルたちが外へ。そのまま、『風除けの加護』の範囲外に逃れる前に叫ぶ。
「――レム! 頼みがある!」と。
△▼△▼△▼△
長い足が一閃、蹴撃が偽リューズを地上へ叩き落とし、その性質を変化させる大地が屍人の体を受け止め、またしても土布団がその全身を拘束した。
「抵抗は推奨しない。この忠告が聞けないならば、生者と死者の区別なく、あなたを『敵』として扱わせてもらおう」
「――――」
地べたに寝そべった真横でそう言われ、剣を突き付けるユリウスを偽リューズが見つめる。ユリウスの流麗な手並みに驚嘆しているのかもしれないが、彼の戦いぶりにはスバルの『死に戻り』のアドバンテージは何も活かされていない。
純然たる実力で相手を押さえたユリウスに、スバルも拳を握りしめる。
「リューズさん、じゃないのよね?」
一瞬の攻防で相手を無力化したユリウス、彼の足下の偽リューズの姿に、今回は一緒に連環竜車から飛び降りたエミリアが形のいい眉を顰める。
スバルも、偽リューズの正体はわかっていない。ただ、屍人であることと、スバルたちに対して害意と実行力があること以外は、何も。
「見てくれはそっくりだけど、リューズさんでもピコたちでもない。それよりも、俺を下ろして警戒! 準備して、エミリア!」
「警戒? もうあの子はユリウスがやっつけたのに?」
「もっと大物がくる。準備不足じゃやられちゃうぐらいの」
そう言って、スバルは自分を抱きかかえるエミリアの腕から飛び降りる。
今回の着地の援護はエミリアに任せ、ユリウスには即座に偽リューズを押さえてもらっていたのだ。そのまま、スバルは驚くエミリアに頷きかけると、偽リューズを拘束しているユリウスの方へ駆け寄り、
「よくやってくれた! でも、まだ続きがある! 空の向こうからすげぇ一発がぶち込まれるんだ! それを止めないとみんなヤバい!」
「空から?」
「エミリアにも深呼吸してもらってる!」
細かい事情をすっ飛ばし、スバルが後ろのエミリアを指差す。
その先で、エミリアは大きく腕を広げながら、ゆっくり深く長く呼吸をしていた。集中力を高め、このあとの展開に備えてくれている。
その様子にユリウスも頷くと、彼の周囲に六色の準精霊が渦を巻く。
「――。あなたは」
てきぱきと、エミリアとユリウスの二人に準備を急がせるスバルに、地面に拘束される偽リューズの視線が疑念を帯びた。
今のやり取りで、彼女も自分の動きの頭を押さえられた原因が、スバルにあるのだと早々に理解しただろう。だが、偽リューズの驚きはそれで終わらせない。
「バルガ・クロムウェル」
「――――」
「それが、お前の作戦参謀の名前だろ?」
片目をつむり、スバルは偽リューズに魂胆は見えていると伝えてやる。
実際には、偽リューズの魂胆どころか、バルガ・クロムウェルが何者なのかすらわかっていないのだが、それをおくびにも出さないのがハッタリのテクニックだ。
まんまと偽リューズ本人から聞いた情報で、偽リューズを驚愕させる。
事実、これまで表情の変わらなかった偽リューズが頬を硬くし、それまで以上に目力の入った眼差しをスバルに向けていた。
「注意すべきはあの魔法使いと精霊と思っていましたが、あなたも要・注目です」
「……策は見抜かれてんだ。潔く諦めても」
いいんだぞ、とスバルはハッタリを続けようとした。が、ハッタリで折れる心を偽リューズは持ち合わせていなかったのと、そもそもの企図するところが違った。
偽リューズの策は、見抜かれて失敗という類のものではなくて。
「バルガの策は、見抜かれても止めようがないものですよ」
瞬間、あの白い光が空の彼方からスバルたちを目掛けて――否、違う。
白い光はスバルたちを狙ってではなく、地べたに横たわる偽リューズを狙って、地上のあらゆるものを薙ぎ払わんと放たれた。
「――スバル!!」
迫ってくる『死』の光、それがスバルの存在を消し飛ばす前に、手を伸ばしたエミリアが展開した氷の障壁が真っ向からそれと激突する。
同時に襟首を引かれ、スバルの体は踏ん張るエミリアの足下に倒れ込んだ。そのスバルの眼前、スバルより光の位置に近かった偽リューズが白光に呑まれ、消える。
おそらく、これまでもそうだったのだ。
あの白い光は偽リューズを狙い、放たれたものだ。彼女の存在があの白光を照準するためのマーカーになり、着弾の余波がスバルたちを、連環竜車を呑み込んでいた。
敵中に乗り込み、圧倒的な威力の砲撃の生きた照準になる。――否、死んでいるのだから死んだ照準か。いずれにせよ、発案者は完全にイカれている。
「バルガ・クロムウェルってやつの馬鹿野郎――!!」
「アル・クラウゼリア!!」
スバルの心からの叫びに、光へと剣先を向けたユリウスの詠唱が呼応する。
生み出される虹色の極光、その輝きが壁となって白い光とぶつかり合い、エミリアが作り出した複数枚の氷の障壁、それが光に砕かれるのを寸前で引き止める。
破壊の白光と、極光を纏った守護の氷壁。
準備不足で当たるしかなかった前回と違い、白光に対して力を練る時間はあった。それが先ほどと比べ、エミリアとユリウスが抗えている理由だ。
だが、それでも――、
「う、やああああ――っ!」
「ぐ、く……っ」
声に必死さを滲ませ、エミリアとユリウスが白光へと抗う。
だが、この二人が二人がかりで押しのけられないなんて、どんな威力のものなのか。この場面で何もできないスバルは、踏ん張るエミリアの背中を支えるだけだ。
「頑張れ! 二人とも、頑張ってくれ!」
ぎゅっと奥歯を噛んで、物理的な支援のできないスバルが精神論を叫ぶ。
それで二人が奮起してくれて、白光を完全に消し飛ばせる力が湧き上がってくれたらいいが、物事はそううまくは働かない。
どんな事態であっても、虚空から唐突に救いの手が差し出されることはないのだ。
どれだけ祈っても願っても、配られていないカードは勝負に使えない。
だから――、
「――よく僕を呼んでくれたわ、偉い偉い」
そう、切迫した状況と対照的な呑気な声がして、スバルは息を詰める。
誰かが隣を歩いて抜ける。そのとき、相手はスバルの頭を大きな手で撫でると、まるで散歩するみたいな気安い様子でエミリアとユリウスの前に出た。
二人も、そのいきなりな相手の行動に驚くが――、
「ここが死穴や」
言うが早いか、三人の前に進み出た人物が袖から抜いた腕を振るい、白光の中に何かを放り込んだ。
全てを呑み込み、塵に変える力を秘めた光だ。エミリアやユリウスが必死に障壁で押しとどめる向こう側にいけば、それも呑まれて掻き消える。
と、そう思われたのだが。
「嘘……」
ふっと、吐息のような声を漏らし、エミリアが紫紺の瞳を見開いた。
彼女のその美しい眼に映り込むのは、目前まで迫っていた白い『死』ではなく、それが跡形もなく消え去り、光の形に抉られた厚い雲のかかる夜の空だった。
同じものを目の当たりにして、スバルも、ユリウスも声を失う。
光とぶつかり合った極光を纏った氷壁も消失し、自らを的にさせた偽リューズが光に消えた以上、そこにはもはや何もなく――、
「青鬼の子ぉが呼んでくれたおかげやね。でも、三人ともよぅ頑張ったわ。飴ちゃんあげよか」
言いながら、圧倒的な『死』をその手で掻き消した狼人――都市国家最強が振り向き、呆気に取られるスバルたちに笑いかける。
そのまま、ごそごそと彼は懐を手で探り、煙管をくわえたまま首を傾げ、
「あ、僕、飴ちゃん持ってへんかったわ」
と、何も持たない手をひらひら振って、脱力したスバルに尻餅をつかせたのだった。




