第八章18 『再会も束の間』
長い桃色の髪をなびかせ、浮遊する黒衣の少女。
その切れ長な瞳を細める少女の耳はわずかに長く、彼女の出自がこの世界で忌み嫌われるエルフ族のそれであることを見た目から証明する。
しかし、その外見の特徴は厳密には誤った認識であった。
何故なら、その少女の来歴を辿った場合、最も特徴的な事実であるのはエルフ族の部分ではなく、その生まれ方の方にあるからだ。
エルフ族であったリューズ・メイエルを素体とし、『聖域』に置かれたとある術式で生み出された複製体――人工精霊と同じような仕組みで作られた、新たなる生命。
そんな、数多く作り出された複製体の中で、最大の失敗作と評されたモノがいる。
それは術式を組み、仕組みを利用した『魔女』の思惑を裏切り、結果としてたくさんの犠牲者を生み、王国史に大いなる災禍として刻まれた。
――それが、『強欲の魔女』エキドナが自らの存在の複製に失敗し、その結果作り出された人工の怪物、スピンクスである。
「――――」
頭上、夜空に浮かんだ『敵』の姿に、ロズワールは息を呑んだ。
あってはならない敵との邂逅、それは彼の精神に少なからずの衝撃をもたらした。――否、虚勢を張らずに認めよう。
それはロズワールの心をひび割れさせかねない、渾身の痛撃だった。
これは、ありえてはならない再会だった。
頭上の怪物について、その存在を最も認知していたのはロズワールだ。それこそ、スピンクスが猛威を振るった『亜人戦争』で、実際に対面してもいる。
そしてあのとき、当時のロズワールの拳は怪物の命を打ち砕いたはずだった。
それなのに――、
「四肢の欠損、なし。記憶の方も、直前まで良好。私の姿は……不本意な状態に固定。自己認識というものは厄介ですね。要・対策です」
ぐっと、空中で自分の腕を伸ばしながら、スピンクスが静かな声で呟く。
その金色の瞳と、血色の悪い青白い肌は間違いなく屍人のそれだが、ロズワールたちがこれまで遭遇したいずれの屍人よりも、しっかりとした自我がある。
生前の記憶と自我の有無、それぞれの屍人ごとに異なるそれの差が何なのか、それを見極めるのもロズワールたちがここへきた理由だったが――失策だ。
それも、約四十年越しの失策。
スピンクスの生存はロズワールにとって大打撃だが、それ以上にロズワールが悔やんだのは、この場に居合わせたベアトリスとガーフィールのことだった。
会わせてはいけなかった。
スピンクスの正体とは別に、あの姿かたちをした『敵』と、あの姿かたちに思い入れのあるベアトリスとガーフィールの二人を会わせては、絶対に。
その後悔を瞬きの裏に隠し、ロズワールは心を鎧うとスピンクスから視線を外さぬまま――、
「――ガーフィール、先走ってはいけないよ」
「――ベアトリス、後ろに下がってろや」
「――ロズワール、落ち着くのよ」
三者、同時にそれぞれへと声を上げ、一瞬の沈黙が生じる。
各々が最も感情的になると思った相手に声をかけたのだとしたら、全員が最初の衝撃には対処したと前向きに考えるべきだろう。
ベアトリスとガーフィール、二人の認識を掘り下げるのは後回しだ。
「口を利く上ニ、纏っている空気が違ウ。あれは特別な屍人だナ?」
ロズワールたちと違い、硬直する理由のないミゼルダが目を細める。
その彼女の言葉に顎を引くと、ロズワールはベアトリスたちがスピンクスへと言葉を投げかける前に、自分の口を開いた。
「まさかとは思うが、『亜人戦争』の直後から屍人として生き延びていたとでも?」
「いささか、その組み立てには違和感が。屍人という表現が適切なら、生き延びていたという表現は不適切ではないでしょうか?」
「なるほど。質問に答えるつもりはないと。――相変わらず、人の神経を逆撫でする」
「質問の形式が不適切だと、そう指摘しただけなのですが」
心外だとばかりの返答だが、そう述べるスピンクスの表情は変わらない。
元々、感情らしい感情を持たない怪物だった彼女は、屍人の姿となったことでよりその心の熱というものを喪失していた。まさしく、死体の冷たさと言えるだろう。
ただ、そうして屍人の肉体を持つ時点でロズワールは異物感を堪えられない。
『強欲の魔女』エキドナの作り出した複製体の術式は、あくまでマナによってその体を構成する人工精霊と同じ仕組みを採用している。
先ほど、ベアトリスと共に解明を急いだ『不死王の秘蹟』の改良もある。
この怪物は、明らかに以前よりも危険な存在となっていた。
「てめェは、一体全体なんだってんだァ、オイ」
ロズワールとのやり取りを見て、埒が明かないと思ったのかガーフィールが口を挟む。
少年は鋭い犬歯をカチカチと噛み鳴らし、翠の瞳に憤激を溜め込みながら、
「その面と声で喋るのが婆ちゃん以外にいるのァ知ってらァ。ッけどなァ、婆ちゃん以外のその面も全員、きっちり名前と居場所で把握してんだよ」
「――――」
「てめェは何もんだ」
ガーフィールが口にしたのは、彼が祖母と慕っているリューズと、彼女と同じ生まれ方をしながら、役割を与えられなかったことで自我の芽生えが薄い複製体のことだ。
その複製体たちにも名前が与えられ、今は離れて暮らすリューズが彼女たちの教育係をしながら、いずれは陣営の仕事を任せられればと考えていた。
ともあれ、ガーフィールもその直感で、スピンクスがそのいずれでもない、しかし同じ生まれ方をした一体だとは見抜いたようだ。
その、ガーフィールにとっては家族を汚されるも同然の冒涜的な存在。切実な少年の問いかけを受け、スピンクスは静かに目を伏せると、
「先ほどから大気中のマナを乱していたのは、あなた方のようですね」
「――ッ」
一切、ガーフィールの存在を無視した。
問いかけなどなかったかのように、スピンクスの視線がロズワールとベアトリスに向く。その事実にガーフィールの喉が詰まり、瞳に宿る怒りの度合いが増した。
その、ガーフィールの怒りを理解しながら、ロズワールは片目をつむる。その、黄色い方の瞳だけでスピンクスを睨み、悪罵と挑発の二択に迷った。
「お前が、何者なのかはぼんやり予想がつくかしら」
「ベアトリス」
「黙るのよ、ロズワール。あれが、ベティーが『禁書庫』にこもっている間に出てきたものってことで、ひとまず黙ってたことは見逃してやるかしら。でも――」
言葉選びの間に先を越されたベアトリスに、そう言われてロズワールは嘆息。
彼女には、ロズワールがスピンクスの存在を明かさなかった理由がバレている。その上でのロズワールの不手際は、あとで追及されることだろう。
しかし、今は――、
「今度は、お前を逃がしてはやらんのよ」
手をかざし、ベアトリスがスピンクスをその丸い瞳でしっかりと見据える。ベアトリスの強い意気込みの目と真っ向から見合い、スピンクスは頷いた。
その怪物もまた、自分の手をベアトリスの方に向けて、
「私も、脅威を認識しました。要・排除です」
そう、言ってはならないことを言った瞬間に、ベアトリスとスピンクスの両者の瞳の色がわずかに強くなり――、
「――死にたまえ」
誰よりも早く、ロズワールの放った魔法の爆炎が戦いの始まりを告げた。
△▼△▼△▼△
連環竜車の通路で足を止め、スバルはふとした胸騒ぎに窓の外へと目を向けた。
うっすらとした夜の空が広がっている帝国の平野、その彼方に送り出した少女の無事を願って、微かに鼓動の乱れる胸に手を置く。
「スバル、大丈夫?」
と、そんなスバルの様子に気付き、声をかけてくれるのは傍らのエミリアだ。
美しい紫紺の瞳を細め、顔を覗き込んでくるエミリアに手を上げ、スバルは「うん、大丈夫だよ」と頷いた。
エミリア陣営とヴォラキア帝国の首脳陣、そこにカララギ使者団が加わった話し合いはいったん区切りを迎え、現在は戦力の計算や兵站の確保などの数字の分野が専門家たちによって意見交換されている。
作戦的な突破口を求められれば役立てもするが、こうした現実的な大人数の運用の話になると、途端にスバルは自力不足を感じざるを得ない。
「プレアデス戦団でも、グスタフさんとかイドラに任せっきりだったからな……」
「ん、私もスバルの気持ちはわかるつもり。ホントなら、こういう話し合いでもちゃんと役立てたらって思うんだけど……まだオットーくんの足を引っ張っちゃうから」
「むしろ、あの場に残ってガンガン話し合いに参加するラムとオットーの方がどうかしてるんだよ。姉様はともかく、あいつ恐怖を感じる神経死んじゃったんじゃないかな」
「もう、いくら何でもそれは言いすぎよ。オットーくんは私たちのためにすごーく頑張ってくれてるんだから」
陣営の頼りになりすぎる内政官への評価に、エミリアがそう頬を膨らませる。
そうして、落ち着いた状況でエミリアと向き合っていると、本当に彼女と再会できたことの喜びと、相変わらずのドストライクぶりに心が浮足立つ。
毎朝見ても心がバタバタするのに、久しぶりだと破壊力がすごい。
「なんて、エミリアたんの今日の可愛さへの賛美で心を埋め尽くしたいけど」
「ベアトリスとロズワール、心配よね」
「俺のためだと、ベア子が張り切りすぎるかもしんないしね」
窓の外、空の彼方に目をやった理由を言い当てられて、スバルは苦笑。
冗談めかしてはいるが、意外と考えすぎでもないことだとも思う。実際、ベアトリスがスバルのためと鼻息荒く飛び出していったのは事実なのだ。
色々と複雑な気持ちのあるロズワールとの協力も、そんな想いの一端と言える。
スバルたちの話題に挙がったベアトリスとロズワール、二人は連環竜車を離れ、敵勢の遅滞戦術を行っている一団と合流し、ある検証へと臨んでいる。
その検証とは、ズバリ、屍人の特性の見極めだ。
「実際のところ、ゾンビたちがちょこちょこ言われてる『不死王の秘蹟』ってやつで蘇ってるのか、魔法が使える目で確かめる……か」
「ヴォラキアは、ルグニカよりも魔法を使える人が少ないみたいだから、物知りなベアトリスとロズワールにしか気付けないことがきっとあるわ。それをアベルたちに教えてあげたら、手伝わせてって言ったことが果たせると思うの」
そう言ってから、エミリアは小さく首を傾げ、
「ホントなら、私も役に立てたらよかったんだけど……私、あんまり魔法のこと詳しくなくて。いつも、えいやって使ってるから……」
「エミリアたんは感覚派だからね。読書家のベア子とかオタク気質のロズワールとはニーズが違うっていうか、ちゃんと光り輝く場面があるから大丈夫。むしろ、俺の目にはいつだって一番星みたいに輝いてるよ」
「ごめん、ちょっと何言ってるのかわかんない」
ベアトリスたちを手伝えないと、そう悔やむエミリアを励まそうとしたのだが、言葉を尽くしたのがかえって空回りになってしまった。
とはいえ、エミリアとこうして不安を共有できて、抱え込まずに済んだのは僥倖だ。
そもそも、スバルが心配している相手はベアトリスたちだけではない。同じ場所で奮闘しているガーフィールも、プレアデス戦団のみんなも不安だ。
戦団の中で、タンザだけはこの連環竜車に乗り込んでくれているが、それ以外の面々はいったん竜車を降りて、遅滞戦術部隊に参加している手筈でいるから。
ここまで、一丸となって激戦を乗り越えてきた戦団の仲間たちだ。
なんでかいつまで経っても合流してこないセシルス含め、信頼はしているが。
「それでも心配は心配なんだよ~。頼むから、みんな無茶しすぎたり、調子に乗りすぎたりしないでくれよ……」
と、そうスバルが祈る気持ちで手を合わせたところだ。
「――スバル、エミリア様、ここにいたのですか」
「あ、ユリウス」
通路を仕切る扉が開かれ、その向こうから姿を見せた美丈夫にエミリアが眉を上げる。彼女が呼んだ通り、そこに現れたのはワソーに騎士剣を佩いたユリウスだった。
小さく一礼した彼は、通路に佇むスバルとエミリアのすぐ傍にやってくると、先ほどまではいくらか硬かった表情の唇を緩め、
「先ほどの場では、あまり言葉を交わせなかったのでね」
「む……だな。お前にもアナスタシアさんにも、エキドナにも心配かけたよ。わざわざこんなとこまで探しにきてくれて、サンキュな」
「――。驚いたな」
ユリウスとアナスタシアの尽力、それに素直に感謝を述べたスバルに、彼は本気でわずかに眉を上げたかと思うと、
「君がそんなに素直に謝意を口にするとは。もしや、年齢が若返ったのが理由で、見た目相応に頑なさがほぐれているのだろうか」
「うるせぇな! そういう弊害がないでもねぇけど、縮んでなくても礼ぐらい言うわ! ここがどこだと思ってんだ! 地獄だぞ!」
「地獄じゃなくてヴォラキアでしょ? そんな言い方、アベルたちに悪いわよ」
「そうかな? 俺がこの国を地獄だと感じてる原因の大半はあいつのやり方にあるんだから、あいつにムッとする資格とかなくない?」
無論、アベルにはアベルの言い分があると思うし、彼なりに帝国を上手に運用しようと試行錯誤していたのは想像に難くない。が、それはそれとして結果がスバルの味わってきた苦痛なのだから、スバルにはこれだけ言う資格があるはずだ。
そんなスバルの訴えに、エミリアはなんと言えばいいのかと困った様子で、彼女も少なからずスバルの言いようを否定できないと思ったのだろう。
一方、そのスバルの痛烈な物言いにユリウスは目元の傷を指で撫でて、
「……先ほどの会議の場でも思ったが、スバル、君はヴィンセント皇帝閣下とどのような関係なんだ? 今の物言いといい、あまりにも」
「もし、これで不敬とか言ってたら、俺があいつに何したか知ったら卒倒するぞ。言っとくけど、子ども特権で暴れてるわけじゃねぇから。こんな風になってるのも、あいつがちゃんと手綱握れてない爺さんのせいだし」
「想像するのが恐ろしい。エミリア様は詳しい事情を?」
「ええ。スバルとアベルが、思ってたよりすごーく仲良しってことでしょ? 最初は二人が仲良くできてるか不安だったんだけど……ホント、スバルったらすぐに友達を作っちゃうんだから」
「友達、かなぁ……」
えへん、と我が事のように自慢げなエミリアには悪いが、スバルは微妙にアベルの存在を自分の関係者のどこに置くのか思案中だ。
少なくとも、互いに胸の内をぶちまけながら殴り合ったとはいえ、河川敷でやり合った不良同士みたいにすぐ打ち解ける間柄とも言えないだろう。
「――。スバル、君は私を友人と思ってくれていると判断しても?」
「え? まぁ、それは、うん、そうかな? 前までは際どいと思ってたけど、ひとまずのところは、一緒に砂海も渡ったし、いい、かな? いいと思う」
「そうか、安堵したよ。君やエミリア様たちの無事の次の朗報だ」
大げさな冗談を言いながら、とりあえずユリウスの疑問は解消された。
もっとも、そのぐらいは一目でわかるスバルの現状からすれば序の口だろう。目下、誰の目から見てもわかるスバルの最大の問題は解消されていないのだ。
「スバル、君の体だが……」
「シノビの爺さんにやられたんだよ。お前も今度やってもらえ。見てみたい」
「遠慮しよう。あまり、幼い時分の自己と向き合いたくはないのでね。アナスタシア様やエミリア様なら、幼少の頃もさぞかし愛らしかっただろうが」
「エミリアたんの! そうか! その手があったか!」
「私? うーん、どうかしら。『聖域』で小さいときの私も見たけど、今のスバルとかベアトリスの方が可愛いと思う」
てんで自己評価の高くないエミリアはそんな風に言うが、そんなはずがないだろう。
成長してこれだけ美少女のエミリアなのだから、小さいときだって美幼女だったに決まっている。それこそ、ベアトリスとはいい勝負かもしれないが――。
「ただ、今の言いようで安心したよ。どうやら、元に戻るための道筋はすでに整えられているようだね」
と、そのユリウスの一言に、「そうなの」とエミリアも頷いた。
彼女は身長差のあるスバルの肩に後ろから手を置くと、
「スバルをちっちゃくしちゃったお爺さんも、アベルたちの味方みたい。今は外で『ぞんび』たちと戦ってるけど、戻ってきたらお願いしなくちゃ。スバルを元に戻してあげてって。そうしたら……」
「あ~、実はそのことで言っておかなきゃいけないことがあるんだ」
「――?」
ちょっと気まずく思いながら、スバルは真後ろのエミリアを見上げる。肩に手を置いていたエミリアは、スバルのその言葉に目を丸くした。
正面のユリウスも眉を顰める中、スバルは指で自分の頬を掻きながら、
「俺の体なんだけど、オルバルトさんが帰ってきてもまだ戻さないつもりだ。しばらく、この小さい体のままの方が都合がいいと思う」
「え!? どうして? あ、もしかして、子どもの体の方が食べるご飯が少なくて済むから? それなら、私のおかずを分けてあげるから……」
「ものすごい可愛い思いやりだけど、そうじゃなくて」
首を横に振り、スバルはエミリアの考えを優しく否定する。そのスバルの答えに、ユリウスは真剣な面持ちで黄色い瞳を細めると、
「君のことだ。それが必要だと考えてのことだろうが……」
「ああ。お前やアナスタシアさんにはまだ紹介してないけど、俺がヴォラキアで仲間になったプレアデス戦団ってメンバーがいるんだ」
「プレアデス……」
プレアデス監視塔があるだけに、ユリウスはその響きに目敏く気付く。が、それが話の腰を折るだけと、細かい疑問は無視してスバルに先を促してくれた。
その気遣いに頷いて、スバルは続ける。
「この戦団の仲間たちなんだが、細かい原理はさっぱりだけど、俺も含めて全員で気持ちが一個になってるとめちゃくちゃ強くなる。気持ちの問題とかじゃなくて」
「――。エミリア様?」
「ん、それはホントみたい。タンザちゃんって子とか、他のスバルのお友達もみんなすごーく力持ちで、一生懸命戦ってくれてるから」
「で、俺はその友達みんなに嘘をついてる。――俺が、皇帝の息子だって嘘だ」
エミリアの肯定があっても、その先の話にはユリウスも瞠目する。エミリアも、「あ」と吐息をこぼす口に手を当てていた。
「そう言えば、そんな風に名乗ってるって……ええと、でも、スバルはヴォラキアの生まれじゃないのよね?」
「ああ、違うよ。俺の故郷はこんな地獄じゃない。もっと平和でラブピ」
「……城塞都市でも、『黒髪の皇太子』の話題は聞かれた。黒髪と聞いて、君の存在を連想しないではなかったが」
「言っとくけど、これ発案者はアベルだから、苦情はあっちに言ってくれ。とにかく、戦団のみんなはそれを信じてるってのが大事なんだ。だから……」
剣奴孤島を出立した際、スバルは共に往くために口説いた仲間たちに、自分がヴォラキア皇帝の息子であると信じさせた。
今日の、プレアデス戦団の結束の根本にはその嘘が重たく横たわっている。このまま永遠に、彼らに嘘をつき続けようとはスバルも思っていない。
この、ヴォラキア帝国を揺るがす未曾有の大災害が決着した暁には、スバルは元の大きさに戻り、エミリアたちとレムを連れ、ルグニカ王国へ凱旋するからだ。
そして、スバルたちがこの戦いを大勝利で終えるには、プレアデス戦団の協力がどうしてもいる。
「だから、俺はまだ戻れない。俺は戦団のみんなが信じてる、『ナツキ・シュバルツ』でなくちゃいけないんだ。この、帝国を取り戻す戦いが終わるまでは」
「スバル……」
ぎゅっと、もはや見慣れてしまった小さな拳を握りしめ、スバルは自分の決意をそうはっきりと口にする。
こうしてエミリアたちに宣言するまで、スバルも迷ってはいた。
当たり前だが、小さい体よりも大きい体の方が自分の体だ。元の体に戻りたい欲求は強くあるし、ベアトリスを軽々抱き上げたり、エミリアと同じ目線で語らいたい。
でも、そんなスバルの焦がれる気持ちは、本当に必要なことと比べられない。
「――。まったく、どの場所でどんな姿であろうと、君は変わらないな」
そのスバルの決意を聞いて、小さく吐息したユリウスがそう言った。彼は自分の前髪を手でかき上げると、呆れと納得を等分にした眼差しでスバルを見やり、
「最も困難で意表を突く決断を強いる。それが他人であろうと己であろうと区別なく」
「……そんな立派な覚悟じゃねぇよ。『まだちょっと子どもでいたい』って、なんか昭和の歌謡曲にありそうな決意だろ」
真正面からユリウスに言われ、スバルは何となく気恥ずかしさでそう答える。と、そのスバルの頭にそっと手が置かれ、振り向く視線が紫紺の瞳と行き合った。
エミリアはその眉尻を下げ、スバルに慈しむような目を向けていて。
「そうやって、スバルはまた私を困らせるんだから」
「う、それについては本当に言い訳できないなとは。いや、俺もちゃんと元の体に戻ってエミリアたんとイチャイチャしたいんだよ? だけどさ……」
「わかってます。スバルは色々考えてて、それで一番いいと思ったことを選ぶんでしょ? 私も、それがスバルだってユリウスとおんなじ風に思うもの」
わたわたと手を上下させ、慌てふためくスバルにエミリアが微笑む。彼女はスバルの頭に置いた手、その指で今度はスバルの鼻をつつくと、「でもね」と続けて、
「どんなにちっちゃくても、スバルはスバルだって私はわかってるから。もしも、ちっちゃいまま戻れなくても、おっきくなるまで私はずーっと待てるからね」
「さすがに俺も、戻れなくなるのは避けたいけど……あれ、今のって……?」
「――?」
優しい態度で口調で、なんだかすごいことを言われた気がしたスバルは目をぱちくりとさせる。が、言った当人はスバルの反応の意味がよくわかっていないのか、全く悪気のない顔で不思議そうに小首を傾げた。
いや、小首を傾げられても困る。とんだ小悪魔もいたものだった。
「――――」
思わず、頬に朱が昇ってくるのを感じながら、スバルは助けを求めるようにユリウスを見る。しかし、彼はスバルの視線に肩をすくめ、縋る思いを無情にもいなした。
その頼りにならないユリウスに内心で悪態をつき、やっぱり友達ではなかったかもしれないと先ほどの判定を悔やみながら視線を巡らせ――、
「は?」
と、ちょうど通路に面した一室から出てきた少女の、こちらを凝視する視線と真っ向から視線がぶつかったのだった。
△▼△▼△▼△
「は?」
そう、スバルたちの様子に声を発したのは、青い髪に薄青の瞳が特徴的な少女――その姿を目にした途端、スバルはパッと顔を輝かせた。
「レム、よかった。お前とも話したかったんだ」
姿を見せたレムに、スバルの頭から直前の出来事がぴょんとすっぽ抜けた。
エミリアやベアトリスたち共々、帝都でのいざこざのあとで意識をなくしたスバルは、レムともゆっくりと話す時間が取れていなかった。
アベルとやり合ったあと、カチュアに伝えなければならないことを伝えたところで、スバルはレムに彼女を任せ、そのまま話し合いに臨んでいた。
その話し合いが一区切りついて、それからのようやくの再会だ。
「その、カチュアさんは? 落ち着いたか?」
「――。事情が事情ですから、そう簡単には。ただ、今は泣き疲れて眠ってしまったので、お兄さんが傍で見てらっしゃいます」
「そうか。うん、そうだな。大変な役目を任せてごめん」
「……私がしたくてしたことですから。あの、ところでなんですが……」
目の前にやってきたスバルにそう答え、レムがわずかに声の調子を落とした。そのレムの前置きに、スバルは何事かと首を傾げる。
しかし、レムが言葉を発するよりも先に――、
「――レム嬢、目を覚まされたんですか!」
そう、レムの存在に驚くユリウスが声を上げる方が早かった。
目を丸くし、素直な驚きと喜びで声を弾ませた彼に、スバルは「そうだ!」と頷く。
「悪かった。お前と、それにアナスタシアさんとエキドナにも教えなきゃいけなかった。みんなとはぐれたあと、レムの目が覚めたんだ。ただ……」
「私の中にレム嬢の記憶は蘇っていない。私と事情は同じだと?」
「ってだけじゃなくて、クルシュさんともおんなじのハイブリッド状態なんだ」
「……では、自身の記憶が」
スバルの説明に、ユリウスが形のいい眉を顰める。
手放しに喜べる状況ではないとすぐに悟り、なんと言うべきか惑っている様子。だが、彼は一度瞼を閉じると、開いたときには精悍な表情を取り戻し、
「レム嬢、突然の呼びかけ失礼いたしました。私はユリウス・ユークリウス……とある方にお仕えする騎士で、スバルの友人です」
「この人の、友人……」
「強調されると反発したくなるけど、そう。こいつもあれだ。なかなかレムの目が覚めなかったときに、色々手伝ってくれた一人」
「それは――」
瀟洒に一礼するユリウスとの関係を聞かされ、レムが驚きに眉を上げる。その驚きに一拍をおいて、レムもその場で頭を下げた。
「ご心配をおかけしました。まだ、万全とは言えませんが、ひとまずはこうして自分の足で立って歩けています」
「それは何よりです。あなた自身のためにも、あなたを想っていた周囲の皆にとっても」
「――はい」
相変わらず、そつなく気遣いに溢れた言い回しだと悪態をつきたくなるが、胸に手を当てて柔らかく頷いたレムの前では、そんなやっかみも言い出せない。
ともあれ、ユリウスにもレムがこうして目覚めたことを伝えられてよかった。あとで、アナスタシアたちにもしっかり話さなくてはならない。
「でも、アナスタシアさんたちが帝国まできてくれたおかげで、こうやってレムとも会えてホントによかった。あなたたちも心配してくれてたものね」
「ええ。アナスタシア様も胸を痛められていました。レム嬢は覚えていないでしょうが、共に旅をした身としては心から喜ばしい」
「ん、私もそう思う。それもこれも、スバルが頑張ってくれてたおかげね」
そう言って、微笑むエミリアがまたしてもスバルの頭を撫でる。
この身長差だから撫でやすいのはわかるが、こうやって何度も何度も撫でられていると子ども扱いされているようで非常にもやもやした。
大変気持ちはいいが、エミリアに子ども扱いされるのをよしとしたくない男心。
「え、エミリアたん、あんまり可愛がらないで」
「可愛いとは思ってるけど、可愛がってるつもりはないわよ? ちゃんとスバルは偉いなって思ってるだけ。さすが、私の騎士様ね」
「は?」
「え?」
と、エミリアがそんな調子でスバルの頭を撫でていたところに、不意に放り込まれた尖った声があり、エミリアの手が止まる。
目を丸くしたエミリアが見るのは、スバルを挟んで向かい合うレムだった。
そのレムは、薄青の瞳でスバルの頭に置かれたエミリアの手を凝視している。
「レム? どうかしたの?」
「いえ、あの、少し混乱が。エミリアさん、確認してもいいですか?」
「確認? ええ、何でもどんとこいだけど……」
「どんとこいってきょうび聞かねぇな……」
肩や頭に手を置いたまま、肩や頭に手を置かれたまま、スバルとエミリアがレムの言葉に揃って首を傾げる。
その様子を疑惑の眼差しで眺めるレムは、スバルとエミリアを交互に見やり、
「……お二人は、どういう関係なんですか?」
「私とスバル?」
「俺とエミリアたん?」
レムの問いかけに、スバルとエミリアは顔を見合わせる。
確かに現状、レムはエミリア陣営のみんなと再会したばかりで、ラムとの関係性の把握は行われたと聞いているが、それ以上の詳しい事情はまだだった。
本当なら、全員が揃っている場所でやるべきことかもしれないが――、
「そうだな。簡単に説明すると、エミリアたんは俺たちの陣営のトップで、ルグニカ王国って国の未来の王様だ」
「まだそうなれるように頑張ってる最中だから、候補者だけどね。それで、スバルはその私の一番の味方の騎士様なの」
「一番の味方……」
「ああ、俺のエミリアたんの夢を叶えるために全力投球だ」
「そう、頑張ってくれてるの。私じゃなくて、スバルが私のなんだけど」
胸を張ったスバルの言葉に、エミリアがはにかみながらそう答える。すると、その二人の答えを聞いたレムが、自分の額に手を当てた。
それから、しばらくじっと考え込んだかと思うと、
「すみません。混乱しているんですが、これは私が原因ですか?」
「――。いえ、レム嬢の責任ではないと思います。第三者の立場からですが」
「ありがとうございます……」
何やら思い悩んでいる様子のレムに、何故かユリウスがそんな風に答える。
スバルだけでなく、エミリアもレムの混乱にピンときていないのに、陣営の外側の人間であるユリウスが理解者顔なのも釈然としない。
「今のレムに、ルグニカのこととかいっぺんに言いすぎちゃったかしら……」
「一応、事前にちらほら伝えてあったし……もしかして、グァラルとかでプリシラからいらないこと吹き込まれてた可能性もあるかも……」
「待ってくれ。何故、プリシラ様のお名前が? まさかとは思うが、プリシラ様がヴォラキア帝国にきているのか?」
「あの、私の混乱を先に処理していただいてもいいですか?」
生じた疑問の解消を探るうちに、また新しい疑問が生じて堂々巡りになりかける。
ひとまず、ユリウスやアナスタシアたちにちゃんと共有しておかなければならない話題が多すぎると感じながら、問題処理の優先順位に悩む。
まずなんと言っても、レムの混乱の解消を第一にしたいところだが――、
「――――」
エミリア共々、レムの混乱の解消策を探ろうとしたところで、不意にスバルは視界の端をわずかに過ったものに意識を惹き付けられる。
それは窓の外、夜の空からふっと平野へと落ちた何かだった。
「スバル?」
思わず目を丸くしたスバルを、エミリアの疑問の声が呼ぶ。その声に応じるのを後回しに、スバルは窓に駆け寄り、外を覗き込んだ。
普段なら、絶対にスバルはエミリアの呼びかけを蔑ろにしない。しかし、今はそれに応えるよりも、ちらと見えたそれを確かめることを優先した。
流れる景色に目を凝らし、その、夜空から降ってきたものを視界に捉え直す。
それは――、
「――なんでここに?」
いるはずのない人物、記憶の端っこに引っかかったそれを引っ張り出して、スバルは目を何度も瞬かせ、その名前を口にする。
そこにいたのは、ルグニカ王国で穏やかな日々を過ごしているはずの――、
「――リューズさん?」
「――――」
スバルの囁きを聞きつけたわけではないだろう。
聞こえるはずのない距離と声量、しかしそれでも、スバルはこちらを向いたその小さな人影と目が合い、お互いを認識したと本能で察した。
その、小さな人影はスバルと見つめ合ったまま、唇を何事か動かす。
それが何なのか、聞き取ろうとスバルは身を乗り出して――、
「――ぁ」
――直後、連環竜車へと降り注ぐ白い光が、ナツキ・スバルを、その竜車に乗り込んでいたものの大半を呑み込み、吹き飛ばしていた。