第八章12 『ナツキ・スバルとヴィンセント・アベルクス』
その拳を振り抜いた瞬間が、小さくなったことを一番悔しがった瞬間だった。
全員で、一丸となって乗り越えることのできた剣奴孤島の惨劇よりも、グスタフを味方に付けるための『スパルカ』よりも、セシルスとの月下の問答のときよりも、この瞬間、小さい体よりも大きい体の方が、少しでも強く殴れただろうと悔しかった。
「貴様……っ」
幼いスバルの拳を左の頬に浴びて、血で顔を汚した皇帝が目を見張る。
視線は足下、着地に失敗して床に転がったスバルを見ていた。しかし、その表情には驚きはあっても怒りはない。屈辱よりも、驚愕が強かった。
皇帝は、痛みより驚きを与えたスバルの拳、それが当たった頬を手で押さえ、
「命が惜しくないのか!? 余に手を上げれば、『陽剣』の焔が己を焼くと……」
「ああ、惜しくないね! 今ここで、お前をぶん殴らずに見送るのに比べたら、焼け死ぬのなんて怖くも何ともない!」
「な……」
睨みつけてくる皇帝、その目の前で体を跳ね起こし、啖呵を切る。
途端、疲れの残った体がぐらついて扉に背中がぶつかったが、ちょうどいい。そのまま扉に背を預け、スバルは両手を広げて皇帝に立ちはだかった。
命が惜しくないなんて嘘っぱちだ。
でも、売り言葉に買い言葉、ここで弱い気持ちなんて一個も見せたくない。
この言いたい放題言ってくれた皇帝に、言葉でも拳でも、やり返してやらなくちゃ気が済まなかった。
「お前らの言う通りだよ。俺は、わけわかんないんだと思う。俺自身だって、自分で自分がどんな基準で動いてるのかちゃんとわかってない」
「……お前ら、だと?」
唇を噛みしめて、自分を睨むスバルに皇帝が眉を顰めた。
頬に当てた手を下ろし、スバルの手から滴る血で顔を汚した皇帝は、スバルの複数を対象とした発言の矛先が、自分以外の誰に向けられたものなのか思い悩む。
だが、いくら考えてもわかるはずがない。目の前の男は皇帝で、もう一人の男は役職のない一兵卒に過ぎなかった。
でも、その両者がスバルに与えた傷は、指摘した傷跡は、同じモノだった。
「好きな人を、大事な人を優先して守りたい。正直な俺の気持ちだ。でも、嫌いな人とか知らない人でも、目の前で危なかったら、俺は……」
トッドはスバルが、主観的な好き嫌いで助ける相手を選んでいると言った。
アベルはスバルが、好き嫌いですらなく、無軌道に救う相手を選んでいると言った。
それはどちらも正しくて、どちらも正しいから間違っている。
だって――、
「でも、それ、そんなにダメか……?」
「なに?」
「ダメなのか? 一生を背負うような覚悟もなく、大層な意義もなしに、目の前の人間を衝動的に助けたらダメか!?」
声を大きくして地団太を踏むスバルに、皇帝がその黒瞳を見開く。
らしくない態度と表情の連発は継続中だが、スバルはなおも畳みかける。
「お前の言った通りだよ! 俺は、自分の見える範囲で物事を考えて、自分の届く範囲で手を伸ばして、今日までやってきた。それの何が悪い!」
「貴様、居直るか!? 何が悪いだと? 明瞭だろう! 何故、貴様は大局を見据えず、自儘に感情のまま動く。与えられた権能を、何ゆえに活かさぬ!」
「俺は全部使ってんだよ! 活かしてここに立ってんだ! 感情的になるな!? 馬鹿言ってんじゃねぇ! 俺の感情を、俺がどう使おうと俺の勝手だ!」
「ならばせめて、その感情に従え! 好悪で人の生死を決めるなら、そのやり方を曲げようなどとするな。貴様の在り方は、歪みだらけだ」
「真っ直ぐ生きてててめぇの結論なら、根性がひん曲がってて大歓迎だ!」
なおもスバルの姿勢を詰る皇帝を、言い返しながらスバルは蹴飛ばす。皇帝の脛を何度も何度も蹴飛ばし、堪え切れない怒りをフルで爆発させた。
そのスバルの癇癪を込めた蹴りに、皇帝は頬を歪め、
「話にならん」
そう、一方的に話を断ち切ろうとした。また、一方的に。
そうして、価値観の断絶を置き去りにしようとする皇帝がスバルの肩を掴む。そのままどけようとしてくる皇帝、大人と子どもの腕力では逆らえない。
だから、スバルはその手に思い切り噛みついた。
「――ッ、貴様!」
「はっへなほほ、いっへんらねぇ!」
手加減なしに噛みついて、皇帝の右手に歯形と傷を刻んでやった。無理やり振りほどかれた右手からも出血、これでナイフの傷と合わせて皇帝は両手から流血だ。
いと貴かれし帝国の頂に血を流させ、スバルの処刑は免れまい。
「それも、国が残ってればの話だ、馬鹿野郎!」
「何を……ぐおっ!」
振りほどかれた瞬間、スバルは小さい体で正面から皇帝に掴みかかり、その腹に頭を押し付けて両膝を刈った。ヴァイツから教わったケンカ殺法だ。
さらに、ヴァイツの教えの応用へ進み、路上ルールで最強のマウントを取る。
仰向けに倒れた皇帝の胸に圧し掛かり、その胸倉を両手で掴んで、床に叩き付ける。後頭部を何度も打ち付けられれば、どんな相手でもたちまちノックアウトだ。
しかし――、
「調子に、乗るな!」
一度目は驚きで、二度目は混乱で、後頭部落としに成功したが、三度目は純粋な力の差で止められ、さらに髪を掴まれて無理やり体の上から引きずり下ろされる。
「ぎゃんっ」と悲鳴を上げて床に転がされ、そのスバルを横目に皇帝は立ち上がり、再び扉に向かおうとした。
「させるかぁ!」
その皇帝の膝に後ろから飛びついて、扉に向かった体を強引に引き止めにかかる。が、勢いがつきすぎて、そのまま相手を前に押し倒すことになった。
結果――、
「ぶ」
と、鈍い音がして、皇帝が顔面から部屋の扉に突っ込んだ。
「――――」
強く、顔を押し当てた扉に手を突く音がして、前のめりに扉にぶつかった皇帝が体を起こす。そして振り向いた皇帝は、その両手でスバルの胸倉を掴み、持ち上げた。
「うあっ」と苦鳴を漏らすスバルの体が反転、背中が扉にぶつけられ、押し付けられる。
眼前、皇帝が鼻と額を赤くして、足を浮かせたスバルを間近から睨みつけた。
「貴様は、何がしたい。何が目的だ。何を望んでいる!」
「お前を殴りたい! お前を殴るのが目的だ! お前を殴るのが望みだ!」
「貴様……ッ」
「お前の方こそ、何がしたい。何が目的だ。望みはなんなんだよ!」
「――――」
掴まれた胸倉、その皇帝の両手に爪を立てて、スバルも唾を飛ばして怒鳴り返す。
そのまま首をひねり、皇帝の手にもう一度噛みついてやろうと口を開けるが、どんなに頑張っても届かない。せめてと、皇帝の手に涎を溜めて唾を吐いた。
そうやって、スバルの唾に手を汚されながら、皇帝はその屈辱とは別の理由で頬を硬くし、呟く。
「余の、望み……?」
「そうだよ。大層なお題目とか抜きで、何かしたいことがあったんだろ。じゃなきゃ、こんな忙しいときにわざわざ俺のところになんかこない」
「――――」
「お前が一番、自分で自分がわかってねぇじゃねぇか。さっき、お前がした話の中で、お前が一番力の入ったやつが、一番気持ちの入ったやつが、一番大事なんだよ」
帝都からの避難状況の話や、スバルが『星詠み』だと疑った話。王国からきたエミリアたちの処遇の話に、スバルの在り方が理解できないという断絶の話。
そう言えば、意識不明から復活したスバルに見舞いの言葉もなかったし、そもそも魔都以来の再会についての一言もなかったこの野郎。
でも、そういう諸々を抜きにしたら、一番熱を持っていた話は明白だ。
「――チシャ」
「……何故だ、ナツキ・スバル」
寸前の、押し合いへし合い、掴み合いで高まった熱が失われ、しかし、代わりの冷たい熱を灯した問いかけが、再び発される。
暴力を伴ったそれらが赤い炎なら、その問いかけは青い炎だった。
その青い炎を宿した眼光で、すぐ目の前のスバルを焼きながら皇帝が問う。
「あれを仕込んだのは余だ。あれであれば、寸分の狂いなく余と同じ働きができよう。事によれば、あれの方が武威の面で優れていたとも言える」
「――――」
「余と、チシャめに能力で差はなかった。どちらが残ったとしても、『大災』へ抗うための戦いを引き継ぎ、十全を尽くした。――何故だ」
その、スバルの黒瞳を見据える皇帝の――否、アベルの黒瞳が揺れた。
二度と外すまいと、おそらくは覚悟と共に被った皇帝の仮面が、決意から間もなく剥がされて、そのアベルの顔が見える。
そして、この国の皇帝としてではなく、大事な誰かを失った一人の人間として、アベルはスバルに問わずにはおれなかった。
「何故、忌み嫌った俺を生かし、チシャを死なせた、ナツキ・スバル」
自分自身で、スバルに何を問いたかったのかを自覚した上で、アベルは取っ組み合いを始める前と同じ問いかけをスバルに投げかけた。
その声に込められた悲痛さと繊細さは、直前までのそれと比較にならない。
ヴィンセント・ヴォラキアという皇帝は、己の持てる全部を帝国のために使っていた。
この世界で四大国と呼ばれ、その中でも最も広い国土を持つ大国を統べる皇帝、遍く全てを見通す存在として、ヴィンセント・ヴォラキアは君臨してきた。
そのヴィンセント・ヴォラキアという皇帝が帝国のためではなく、ただ一人の人間として問いを発するということは、その問いの一つに帝国と匹敵する重みがある証だ。
それを肌で、血で、脳で、魂で感じ取り、スバルの心は震える。
それと同時に、感情を肥大化させるアベルと対照的に、スバルの感情は静かだった。
「――――」
どうして、チシャという人物は死ななくてはならなかったのか。
スバルの知らないところで、アベルとチシャは天秤のそれぞれの皿に載せられ、どちらか一方しか救われない状況に陥っていた。
そして、アベルは自分の方こそが、朽ちる天秤と運命を共にするつもりだった。
それを、塗り替えられたのだ。――おそらく、死したチシャ本人によって。
――アベルは、自らの死をいつから覚悟していたのだろうか。
生まれた以上、命はいつか必ず終わる。なんて、そんな誰もが知っていて、誰もが無意識に無視している事実とはまるで事情が異なる。
予言された死への覚悟は、スバルが『死に戻り』した原因と向き合うのと変わらない。
アベルはいずれ来たる自分の死と、ずっと対峙してきた。
スバルが、訪れるその『死』を変えられるものと、変えなければならないものと信じて戦い抜くのと同じ覚悟で、アベルは戦い続けてきた。
スバルが死ななければ、エミリアやレムが、ベアトリスが死んでしまう。
オットーたちが、タンザたちが、シュドラクのみんなが、フロップたちが、大勢の人間が死んでしまう。自分の命と引き換えに、みんなを生かせるとしたら。
そのために、自分の覚悟の全部を費やしてきたとしたら、アベルは。
「俺は、終わるための用意を全て終えた。だというのに――」
エミリアが、レムが、ベアトリスが、スバルの身代わりになって生かされた。
オットーたちが、タンザたちが、シュドラクのみんなが、フロップたちが、大勢の人間の誰かがスバルを生かすため、犠牲になって生き延びてしまった。
その絶望を、他の誰がわからなくても、ナツキ・スバルだけは思わなくてはならない。
そうなる可能性を覆し、権能で以て現実を塗り替えてきたスバルだけは、アベルが味わっている絶望を頭ごなしに否定してはならない。
理解して、飲み下して、その上で言わなくてはならない。
「――俺は、『星詠み』じゃないよ、アベル」
「――――」
伝えた言葉は、アベルにとってはこの期に及んでという裏切りに思えただろう。
この期に及んでスバルは、彼が欲しがる答えを返さずに秘したのだと。だが、アベルがスバルをどう疑っても、事実は動かせない。
あるいはスバルは、『星詠み』と同じことができるのかもしれない。
あるいはスバルは、『星詠み』よりももっと運命へ介入する術を持つのかもしれない。
それでも、万能ではない。万能ではありえない。
万能であれたらいいけれど、万能では足り得ない。
「だから、お前の話してるチシャって人を助けられない。助け方も、わからない。でも、一個だけ、言える」
「……なんだ」
「……もし、俺に本当にお前の言うみたいな力があったとしたら、それでも俺は、知らない人を助けるより、嫌ってるお前を助ける方を選ぶ。先を見据えてとか、そういう理由じゃなくて、そうする。そう、しちまう」
本当に、どうしようもない性分だと自分でも思う。
でも、それがナツキ・スバルが、自分で理解している器の中で、自分の持てる能力と相談した嘘偽りのない結果、その結果なのだ。
「――――」
ゆっくりと、胸倉を掴んだアベルの手から力が抜け、スバルの体が解放される。
背中で扉を擦りながら、その場にスバルの体がずり落ちた。なおも、アベルの両手はスバルの胸倉にかかったままだが、指が白くなるほど込められていた力が抜けている。
ほどこうと思えば簡単にほどける手を、しかし、スバルはほどかなかった。
ほどかないまま、ただ、「アベル」と彼の名前を呼んで――。
「貴様が、『星詠み』でないと言うなら……」
弱々しく、アベルの唇がそう音を発する。
だが、アベル本人も、その発した音に得心がいかなかったのか、その先が続かない。アベルの黒瞳が、本当に欲する言葉を探して彷徨い始める。
自分の心情を言葉にする。
もしかしたら、幼児でもできることを、今までやってこなかった帝国の皇帝が。
「貴様が、俺をどうあろうと救おうと……」
「――――」
「帝国の存亡と争う事態で、つまらぬ些事にかまけて……」
「――――」
「余は……俺は! 貴様の在り様を、初めて目にしたときから……」
「――――」
どれも、途中で言葉に詰まってしまう。
どの言葉も、感情も、アベルの本心を言い表すには足りていない。何度もつっかえ、自分自身で修正し、言い直そうとするアベルをスバルは急かさない。
「貴様は、俺を嫌い、敵視して……」
たどたどしく、発した言葉の先に求める答えがないと聡明な己で気付いて、アベルは何度も何度も、言うべき言葉をやり直す。
ヴォラキア帝国始まって以来の賢帝と呼ばれ、その叡智を誰しもに尊ばれた男が。
そして、繰り返して繰り返して、ようよう、辿り着く。
「俺は……」
「――――」
「俺は、自分が死ぬ覚悟をしてきた。……喪う覚悟など、していない」
取り残す側としての心構えばかりを鍛えて、取り残される側の心構えを磨かなかった。
もしかしたら、最期に遺す言葉まで考えていたのかもしれない。探せば、彼の遺書がそこかしこから見つかる可能性さえあった。
それは全部、あとに続くものたちへ託すためのものであり、自分が託される側に回るだなんてまるで思っていなかった覚悟で。
「何故だ」
震える声が、そう言った。
震える声で言いながら、アベルがその手を、スバルの胸倉から外した。その手を、血で汚れた自分の手を、己の顔へと持っていって、顔を覆う。
決して、人前で両目を閉じることさえしない皇帝が、両手で顔を覆った。
「何故、俺を残して死んだ、チシャ……っ」
両手で顔を覆ったまま、声を震わせて、その黒瞳にもしかしたら涙さえ浮かべて、ヴィンセント・ヴォラキアが膝をついた。
大事な、とても大事な人間を失って、嘆き悲しむ時間さえなかっただろう男が、皇帝の仮面を被らなくていい無礼で不敬な嫌っている相手の前で、膝をついた。
それを見ながら、スバルも長く、長く、深く深く、息を吐いて――、
「――ごめん」
そう、理不尽な運命と戦い続ける同志として、懸命に戦い続けて傷付いた同志に対して、決して慰めにならない言葉を、伝えた。
△▼△▼△▼△
去っていこうとするアベルに殴りかかったとき、スバルの頭の中に浮かんでいたのは、かつて同じように自分を殴り飛ばしてくれたオットーの記憶だった。
「お前はすげぇよ。お前ほどスマートに俺はできねぇ。……絶対、本人に言わないけど」
癪な気持ちと恥ずかしさがあるので、本人に直接言うのは絶対に嫌だ。
いつか、オットーが寿命で死ぬときに、枕元で「実はすげぇと思ってたんだ」と伝えるのを検討するぐらいだ。本当に実行したら、たとえ今際の際でも「なんでこれまで黙ってたんですかねえ!」と突っ込んでくれる信頼が彼にはある。
ともあれ――、
「――――」
どっかりと、地べたに座ったアベルは部屋の壁に背を預け、片膝を抱きながら薄暗い室内に視線をやっている。
スバルも、その隣で胡坐を掻きながら、ぼんやりと静けさを噛みしめていた。
冒頭の、オットーへの感謝と弄りは紛うことなくスバルの本心だ。
いつだったか、スバルが何もかも一人で抱え込んで潰れそうになったとき、オットーはスバルの横っ面を殴り飛ばし、必要な言葉を投げかけてくれた。
友達相手に、つまらない格好をつけてるんじゃないと、そう言ってくれて。――あの経験が、スバルにベッドのスプリングを弾ませる勇気を与えてくれたのだ。
もっとも――、
「俺とお前は友達なんかじゃないけど」
「――。当然だ。おぞましいことを口にするな。貴様と友になど……いいや、俺に友など必要ない。欲してはならない」
「友達ができないんじゃなく、作らないだけって論法か? それ、俺も孤高を気取ってたときにやってたけど、周りからはバレバレだぞ」
「貴様の不敬は留まるところを知らんな」
隣に座り込んだまま、互いの方を向かないまま、スバルとアベルが言葉を交わす。
もみ合い、取っ組み合うような熱量はもはやないが、かといって話を中途で打ち切って立ち去るほど、お行儀のいい取り繕いもできない。
スバルの顔も服も、手もあちこちも血塗れだ。
もちろん、アベルも顔や髪、服のあちこちも血塗れだった。
部屋の中はシーツが血に染まり、ナイフは床に転がっている。飛び散った血があちこちに点々と汚れを作り、荒らされた形跡と血痕が各所にあった。
殺害現場というには血の量が足りないが、犯罪現場には十分な見栄えだ。
「でも、暴れても部屋の一個も壊せない。それが、俺とお前って個人の限界だよ」
スバルとアベルが手加減なしに暴れ回っても、せいぜい備品を壊すのが関の山。
この世界の本当にヤバい奴らが暴れ回ったら、この部屋なんて瞬く間に跡形もなく壊れてしまうだろう。エミリアが可愛い顔と可愛い手で、この部屋を可愛く叩き壊すのにどのぐらいの時間がかかるものか。
「俺とお前がやり合っても、可愛くも何ともない」
「……貴様はいったい、何を問題にしている」
「お前の方こそ、何を問題にしてるんだよ。言っとくが、お前の話が取っ散らかりすぎてるせいで、どの話がしたいのか感覚的にわからねぇ」
「――――」
アベルが押し黙り、黙考する。
彼がそうして口を噤んだ理由は、話題の散らばり方に自覚があったからだろう。本心の訴えに耳を塞いで、耳心地のいい、通りのいい話題ばかりを選んだ結果、気もそぞろになって何一つ実のある話にならなかった。
それがさっきまでのアベルの話の本質であり、彼も自覚した己の落ち度だ。
そこから、彼がどのような挽回を見せるのかとスバルが待っていると――、
「ナツキ・スバル、貴様が『星詠み』でないというのは事実か?」
「……本当だよ。俺は『星詠み』なんかじゃない。未来の予知がどうとかって、それは俺より魔女教っぽいだろ。あいつらと俺、仲悪いんだぜ」
「ルグニカで、大罪司教が二人落とされたという話は耳にしている」
「非公開だけど、三人だよ。『暴食』も……いや、『暴食』を倒したか倒してないかは難しいところだから忘れてくれ。ルイのことも……あ!」
「なんだ」
「お前、ルイに何もしてねぇだろうな。お前がルイを殺すって言ったときのこと、俺は許してねぇからな」
魔都カオスフレームで、スバルがアベルたちと別行動する切っ掛けになったのが、アベルの断固たるルイに対する態度が理由だった。
大罪司教であると事実を明かしたとき、アベルは彼女を許さないと言った。
それが理由で、スバルはアベルたちと別行動になり、ルイと二人で孤立無援の状態でヨルナの城に向かい――、
「なんやかんやあって今だが、許してねぇぞ」
「たわけたことを。貴様の方こそ、あの娘を散々嫌っていたろうが」
「前は前、今は今だ。そもそも、初対面の印象を引きずってたら、俺が仲良くしてるメンバーのこと知って正気疑うぞ、お前」
「貴様の正気など、シュドラクの集落の時点で疑っている。――憂慮は不要だ」
「ああ?」
「あの娘に危害は加えておらぬ。そも、あの場でも俺が言おうとしたのは、大罪司教と思しき相手を即座に処刑せよという話ではなかった」
「な……っ」
「貴様の早合点だ。努々、省みよ」
不必要な警戒だったと言われ、スバルは絶句する。が、もしもそれが事実でも、スバルがそう早合点した理由は、アベルの態度の淡白さと冷酷さにある。
それまでのアベルの態度の積み重ねが、あの場の不信感に繋がったのだ。
「あれは、お前の態度に問題が……」
「必要だった。万一にも、貴様に俺を生かしたいなどと思われぬようにな」
「――――」
「それも、全ては貴様が『星詠み』であるという推測に基づくものだ。王国で前例のない成果を挙げ続ける貴様が、只人ではなし得ぬことを為し得ていると」
「それは……」
「もっとも、わざわざ貴様の印象を悪くする必要はなかった。演じずとも、貴様は俺の最も嫌いとする類の人種だ。嫌悪も侮蔑も、本心から溢れた」
「こ・の・や・ろ・う……!」
嘘か真か善か悪か、アベルの言葉にスバルは額に青筋を浮かべる。
だが、スバルが薄氷の上を歩きながらアベルとの関係性を探っていたように、アベルもアベルで綱渡りのような心境でスバルと接していたわけだ。
スバルが氷の上を、アベルが綱渡りをしながら、そんな付き合いはうまくいかない。
お互い、自分の足下しか見えておらず、相手の顔を見てもいないのだから。
「……俺は、チシャって人のことを知らない。お前を玉座から追い出して、お前に化けて皇帝のふりをしてた。カオスフレームで、皇帝として出くわしただけだ」
「――――」
「その人が何を考えてて、何を企んでお前を城から追い出したのかわからない。けど、お前がその人が死んだのをそんな風に悔しがってて、その人が本当なら死んでたはずのお前の代わりに死んだって、それはわかる。だから……」
たどたどしく、思ったことを思ったままに口にするスバル。
お互い、顔を向け合わないのが暗黙の了解となっていたから、それを話しながらもアベルの表情がスバルには見えない。それが、怖くもあった。
あのアベルが心の平衡を保てないぐらい、失ったことを悔やむ相手だ。
その人のことを何も知らないスバルが語るには、あまりにも心に踏み込みすぎた発言かもしれないとも思う。
でも、思うのだ。
大して長い時間じゃないかもしれなくても、このアベルと名乗った男に散々振り回されて、一国の存亡がどうとかいう事態にまで巻き込まれたスバルは、思うのだ。
「そのチシャって人、すげぇな」
顔を上げて、もしかしたら場違いかもしれないけど、明るい声が出た。
無理に明るくしようとしたんじゃなく、それはスバルから溢れた心からの称賛だった。
実際、どのぐらいいるだろうか。この、ヴォラキア帝国始まって以来の賢帝と呼ばれ、あらゆる物事を自分の頭の中で形作り、その思った通りに運ばせることを良しとする男の思惑を裏切り、自分の狙いを見事に成し遂げることができる人間が。
ただそれだけで、十分以上に称賛に値すると思ってしまう。
その上で、残されたアベルがうじうじと凹んでいることまで、思惑通りか知れないが。
「お前は、自分とその人と、どっちが残ってても大差なかったって言った。それが本当なら、その人がこの状況を作った理由は一個だ」
「……貴様」
思いつくままに喋るスバルに、こちらを向かないままアベルが低い声を出す。
怒りとも、怒りでないとも言い切れないその声音は、知ったような口を利くスバルを糾弾するのではなく、
「貴様は、わかるというのか? チシャが、何ゆえに俺を謀ったかが」
そう、スバルの思いついた結論を話せと、促すためのものだった。
「――――」
アベルは答えを欲している。
自分の、アベルの賢い頭でも弾き出せない答えを。それが、チシャという人物を知らないスバルの口から出るなど、期待していなくても期待してしまっている。
その期待をプレッシャーに思わなくもないが、
「もう、お前にどう思われても、今さらだ」
そう開き直ってしまえば、ここで思うがままに喋るのを躊躇う理由はなかった。
スバルの思う、チシャが自分ではなく、アベルを残した理由。
それは――、
「お前を殺そうとする運命と、運命相手に諦めてるお前がムカついたんだよ」
「――は」
「自分が死んでも、お前に生きててほしかったってパターンもある。けど、俺はそうじゃないと思った。だってお前、そこまで人に想われる生き方してねぇもん」
たとえ自分が死んでも、その人に生きていてほしいと思う気持ちは理解できる。
でも、そういう気持ちを抱くには、よほどその相手のことを大切に想い、そう想わされるだけの理由がいると思うのだ。
いずれ訪れる自分の死を覚悟して、あとに続くもののために地面を踏み固めるのに必死だったアベルが、そんな想われ方をするとは信じ難い。
だから、スバルの答えはそうだ。
「チシャは、お前にムカついたんだよ。だから、証明したんだ」
「証明、だと? 何を……俺を謀れると、俺を愚かだとでも?」
「お前が頭のいい馬鹿なのは、たぶんフロップさんとかミゼルダさんも気付いてるよ。違くて……運命ってもんの、手の長さだよ」
「運命……」
初めて、その単語を口にするとでも言うように、アベルが馴染みのないものを舌で転がす風にそう呟いた。
実際、あらゆる物事と真正面から対峙し、自分の思惑で抗いを続けてきたアベルにとってすれば、全ての障害は言語化できるものであって、『運命』なんて形のない、途方もないものを相手にしている自覚はなかったのかもしれない。
だが、紛れもなく、アベルが無自覚に敗北を認めていた敵は運命だ。
それと同時に、チシャは自らの命を用い、アベルを生かすことで証明した。
「運命とは戦える。――諦める理由なんか、一個もねぇってな」
「――――」
微かに息を呑み、アベルは告げられた言葉に心の臓を打たれた風に押し黙った。
自分の敵が『運命』だと思っていなかったなら、それと戦えるとも、抗えるとも考えたこともないだろう。考慮したこともないはずだ。
しかし、もしも、その『敵』が何者なのかがはっきりわかったら、どうか。
ヴォラキア帝国始まって以来の賢帝は、『敵』の正体がわかったら、どうするのか。
「――アベル、俺は『星詠み』じゃない」
「――――」
「でも――」
押し黙ったアベルの隣で、スバルは胡坐を掻いた膝に手を置きながら告げる。
問われ、否定し、また問われ。否定し、問われ、また否定して。
自分の権能のことを、『死に戻り』のことを説明も証明もできないまでも、スバルもこの問答で心に決めたことがあった。
それはあるいは、やり込められるばかりで、はっきりとした反撃をすることができなかった別離の相手、トッド・ファングに対する答えでもあって。
「俺の手が届く範囲なら、できる限り多くを救ってみせる。それでも、本当に、それでも掬い上げられない命があったら、それは……」
「……それは、運命への敗北ではないのか?」
「――。全勝はできない。運命と戦ってるのは、俺だけじゃないから」
全てを救ってはこられなかった。
そしてこれからも、全てを救っていくとスバルが断言することはできない。
運命様上等と嘯きながら、運命と戦い続けることを誓いながら、それでも失われる命に対して、ナツキ・スバルは悔やんで悲しんで、言い続ける。
そうして、悔しがる機会も、涙する機会も減らすために――。
「お前の力を貸せよ、アベル。そしたら、俺の力も貸してやる」
「――――」
「こっから先、全面的に俺が協力する! ……とは、エミリアたちに相談なしで勝手なことは言えねぇけど、意気込みはそうだ。だから」
言いながら、スバルは強く膝を叩くと、その場に立ち上がった。
そしてアベルの顔を見ないまま、ゆっくりと部屋の中を進み、寝台の傍らへ。血に塗れて乱れたシーツを横目に、スバルは果物籠に手を伸ばした。
そこに、アベルが二つに割って放置したリンガがある。白い断面は、空気に触れて茶色く変色しつつあったが、構わず手に取った。
そして――、
「お前が二つに割ったリンガ、食い切るのを手伝ってやる」
割ったリンガの片割れをアベルに投げ、残った方のリンガに齧りつく。
気持ちのいい音と、じわっと甘い果汁が口の中に広がって、スバルは床に座り込んでいるアベルの顔を見た。
投げられたリンガを受け取ったアベルは、そのリンガを見下ろすと、わずかな躊躇いのあとで、それを齧った。
同じように気持ちのいい音がして、甘酸っぱい味わいが彼の口にも広がったはずだ。
好きも嫌いも、憎いも愛しいも、その味には関係ない。
生きているもの同士、分かち合ったリンガの味に違いはなかった。
「ナツキ・スバル」
「なんだよ」
「俺は、貴様を好かぬ」
「ぬが」
「――だが、貴様の力が必要だ」
そう告げて、ゆっくりとその場にアベルが立ち上がる。齧った、食べかけのリンガを手にしたまま、アベルはスバルをその黒瞳で見据えた。
この部屋の中で見せた、らしくない感情的な色の全部を再び皇帝としての自意識の裏側に隠して、しかし、ほんのりと瞳と声音にそれを滲ませながら、
「数々の非礼を詫びる。王国の騎士よ」
そう、神聖ヴォラキア帝国の皇帝が頭を下げるのを目にして、スバルは笑った。
笑って、リンガの残りを齧りながら、
「数々の不敬は謝らないぜ、帝国の皇帝」
そうして、最初から間違い続けた関係性の、掛け違いを正す一歩を踏んだのだった。