第八章11 『うるせぇ』
「――あの人のところにいくんですか、アベルさん」
横合いからの呼びかけに足を止めて、ヴィンセントは振り向いた。
客車を連結し、長い一本の竜車として扱うことで、複数の地竜の『風除けの加護』を適用させる連環竜車――ヴィンセントが渡ってきたその連結部のところに、見知った青い髪の少女が立っているのに片目をつむる。
思えば、こうしてこの娘と言葉を交わすのも久しぶりではある。
「王国からの招かれざる客たちは目的を果たしたか」
「あの人たちの目的は私ではなくて……」
「やめよ。己でも信じ切れていない戯言で、余の時間を徒に奪うな。時間は貴重だ。特に今の状況では。わかっていよう」
「――――」
ヴィンセントの険しい声に、少女が目を伏せて俯いた。
しかし、彼女はすぐに、時間が有限だとするヴィンセントの意を汲んで顔を上げ、
「あの人のところにいくんですか、アベルさん」
と、重ねて同じ問いを放った。
「アベルではない。余は、ヴィンセント・ヴォラキアだ」
その問いに対して、ヴィンセントは表情を変えずにそう言い返す。
アベルとは仮の名であり、逃走中は都合あってそう名乗っていたに過ぎない。皇帝の座に就く前の家名、アベルクスから拝借したもので、拘りもない。
ただ、そう呼ばれることの不快感が、今は強かった。
「――。あれが目を覚ましたと報告があった。余は、対峙せねばならぬ」
その不快感を押しやり、ヴィンセントは少女の問いに答える。
娘が何を思っていようと、それがヴィンセントの方針を変えることはない。元より、この娘にそれほどの意思や考えがあるとも思っていなかった。
守られ、流され、苦悩し、長い時間をかけて当然の結論へ至る。
多くのものがそうであるように、彼女もまたそうした凡人の一人に過ぎないと。
故に、ヴィンセントは早々に問答を打ち切ろうとした。
しかし――、
「あの人は、アベルさんの敵ではありませんよ」
「――なに?」
押し黙り、俯くばかりと思った娘からの返答があって、しかもその内容が思いがけないものであったのもあって、ヴィンセントは眉を顰めた。
そうするヴィンセントを見据える娘、その薄青の瞳には確かな意思があった。
別れたときには宿らなかった光、それが臆しながらも堂々と、ヴィンセントを射竦めようとするかの如く貫いてくる。
「――。余はヴィンセント・ヴォラキアだ。三度目はない」
「ごめんなさい。でも、私は記憶がありませんので、皇帝のヴィンセント閣下のことをよく知りません。なので、ヴィンセント閣下に言えることはないのですが」
「――――」
「あの人は、アベルさんの敵ではありません」
一度も視線を逸らさずに、そう重ねて強調してくる娘。
ヴィンセントは彼女のことを、手にした能力のことで把握していた。ナツキ・スバルを御するための手綱であり、貴重な治癒魔法の使い手でもある。
もしも、その立場を自覚した上でヴィンセント相手に強気に出ているなら大した胆力と言わざるを得ないが、そうしたわけでもなさそうだ。
そして――、
「貴様、名はなんと言ったか」
「――レムと。少なくとも、今はそれははっきり答えられます」
「記憶がない娘が明言するか」
「不思議ですね。頭でも心でも覚えていなくても、環境が教えてくれることがある。私がレムだと、ずっと言い続けていた誰かがいてくれたおかげで」
それが感謝なのか呆れなのか、娘――レム自身にもわかっていない物言いだった。
ただ、それが嫌悪や嫌気じみた負の想念に繋がっていないことだけはわかって、ヴィンセントはこれ以上の会話を不要と判断する。
背を向けて、足を進めた。その途中で、
「レム、二度と余の時間を無為に使わせるな。次の不敬では首を刎ねる」
それだけ言い残し、レムとの対話を終えた。
そして――、
「貴様はどこまで雄弁に語る、ナツキ・スバル? ――親竜王国の『星詠み』よ」
△▼△▼△▼△
向けられる敵意をひしひしと感じながら、スバルはその男と対峙する。
思い返せば、この男との関係は不可解の一言に尽きた。
最初の出会いは、森の中で野宿をしている怪しい包帯男だ。あのときは、はぐれたレムとルイを探すのに必死で深く突っ込めなかったが、不審者どころの話ではなかった。
次の出会いはシュドラクの集落の檻の中で、囚われの身なのにどうしてあんなにも偉そうにしていられるのか説明がつかなかった。何か脱出の手段があるならまだしも、そのあとで『血命の儀』をやらされたのだから、ノープランだったはずだ。
その後はレムの奪還に力を借りながらも、一度は別れ、しかしスバルたちが戻ってこざるを得ないとわかっていて、その事情を知らせない悪質さを発揮した。
かと思えば、城郭都市グァラルの攻略においてはスバルの案に全面的に協力し、共に踊り子のナツミ・シュバルツとビアンカ、フローラとして敵本陣へ乗り込んだ。
プリシラと只ならぬ関係を疑わせ、あのヨルナからも言い寄られ、さらには魔都でルイを生かしてはおけないと躊躇いなく宣言し、別離した間柄。
それでも、剣奴孤島を脱してから、帝国全土を取り巻く情勢を聞いたとき、それが彼の差し金であると信じて疑えもしなかった、玉座を追われた皇帝。
帝都ルプガナを放棄し、大勢での避難・撤退が行われている状況では指揮を執り、改めて帝国民の頂点として采配を振るっているいと名高き賢帝――。
「そのヴィンセント・ヴォラキアさんに、見舞いにきてもらえるなんて光栄だよ。ちょうどいいから、リンガ剥いてくれる?」
「戯れるな。そもそも、余は果実の皮むきなどできぬ。第一、リンガがどこにある」
「どこにって……」
寝室に足を踏み入れ、歩み寄ってくる男の問いにスバルの視線が横を向く。
こういう状況でのお約束なのか、異世界でも怪我人や病人の見舞いに果物が持ってこられるのは定番だ。なので、寝台の横にリンガの入った籠がある。
もちろん、相手にも見えているはずだが。
「その果物籠だよ。赤々してておいしそうだろ」
「たわけ、余を謀るか? リンガとは白い果物のことだ」
「そりゃ、皮剥いた中身は白いけど……待て、この会話、すげぇ記憶の彼方でおんなじやり取りしたのが蘇る気がする」
かなりおぼろげな記憶だが、だいぶ前に同じ会話をしたような気がする。
そのときの相手が誰だったのか細かいことまでは思い出せないが、上流階級とはここまで極まったものかと、今と同じ感想を抱いた覚えがあった。
ともあれ――、
「お前も知らないことがあるんだな。意外だわ」
最初の、互いの言葉のやり取りの序章としてはしまりがないが、悪い出だしではないように感じられて、スバルはそう言った。
そのスバルの言葉に、男――アベルは果物籠に手を伸ばし、置いてあったナイフでリンガを半分に割る。当然、中の白い断面が露わになった。
「――――」
動かし難い答えを目にして、先のやり取りの事実を認める気になったのか。アベルはナイフを置くと、半分に割ったそれを籠の中に放置したままこちらを向く。
その黒瞳をなおも濡らしているのは、見間違いようのない敵意のそれだ。
「まさか、リンガの色で恥掻かされたって怒ってるんじゃないだろ。……さっきの、俺を変な呼び方したのは」
「親竜王国の『星詠み』、だ」
「それだ」
その呼ばれ方を改めて意識し、スバルは心当たりのなさに眉を顰める。
聞き覚えのない単語ではない。確か、この帝国で皇帝の傍に張り付いている占い師がそう呼ばれているというような話を聞いていた。
それはルグニカ王国の予言板である『竜歴石』のように、未来を示す存在だと。
「いや、もっと悪い言い方……明日を覗き見するみたいな言い方だった気がする」
「その認識で違いない。余は、あれなる存在をそう捉えている」
「それだとお前、俺のことを覗き野郎って言ったところなんだけど、自覚ある?」
世が世なら、普通に斬り捨て御免の侮辱ではなかろうか。スバルの知る現代的に言うなら、名誉棄損を民事裁判で争う覚悟だ。
しかし、そのスバルの返答に、アベルの表情は小揺るぎもしない。遊びには付き合えないと、スバルと同じ色なのに、深みの違う黒瞳でそう告げてくる。
もちろん、スバルも遊んでいるつもりなんて毛頭ないが――、
「貴様は、どこまで把握している」
「どこまで把握って、状況? それなら、詳しいことはほとんど聞かされてない。エミリアたちが起き抜けで気遣ってくれて……撤退中ってことは知ってる」
「――――」
「内乱はいったんストップして、帝都からみんなで逃げてる真っ最中……混乱とかヤバかっただろうに、騒ぎになってないみたいだよな」
走り続けている竜車、窓の外に見える夜の景色はゆっくりと動いているが、『風除けの加護』が揺れや風の音から守ってくれているのを加味しても、静かだった。
この竜車の客車自体の静音性が高いのもあるだろうが、一度も竜車が止まらないのは目立ったトラブルが起こっていない証拠でもある。
相当な人数、十万人規模の移動が発生しているだろうにも拘らずだ。
「『九神将』だのなんだのの求心力もあるんだろうけど、それだけじゃこうはいかない。やっぱり、大したもんだったんだな、お前」
「――――」
「正直、右腕と参謀に裏切られて玉座から追い出されたって話を聞いたときは、お前が皇帝に戻って大丈夫かよって本気で思ってたけど、でも、正しかった」
統率力やカリスマ、いわゆる人の上に立つものの資質というところだろう。
単純に能力的に優秀というだけでは成り立たないそれは、泥や汗に塗れて身につくこともあるのだろうが、生まれながらに備わったものも少なからずいる。
それが各国の王族であったり、様々な団体のトップであったりするという話。
そういう意味で、有事の際に自らの足場を確かにしたアベルには、周囲の人間が従い、仰ぎ見るだけのポテンシャルがやはりあったということだ。
「半信半疑よりも、信じる側に寄ってたのが癪だけど、お前が皇帝で正解……」
「――それも、貴様の思惑通りか」
「え?」
静かな、しかし声に確かに込められた感情。それがあまりにも突飛なものに思えて、スバルの脳が理解を拒んだ。
結果、スバルは伸びてくる手を躱せず、額を押されてベッドに倒れ込む。そして、何事かと抗議する前に、喉元に鋭い感触が当たるのがわかった。
それが、先ほどリンガを切り分けた果物ナイフの先端だと、すぐに気付く。
気付いても、意図がわからない。そのナイフを握っているアベルが、そうしてスバルへと敵意――否、声に込められたのと同じ、憎悪を向けた意味が。
「――――」
すぐ間近で、互いの息がかかる距離でスバルとアベルが睨み合う。
ここで、スバルが迂闊に大きな声を出して助けを呼べば、アベルは躊躇わずにナイフでスバルの喉を裂くだろう。
だが、同時に今すぐそれをしないのは、アベルにそうしない理由があるからだ。
「何の、つもりだよ……っ」
「何を考えているかと、そう問われるべきは貴様であろう。いったい、貴様にはこの成り行きのどこまでが見えていた。ここまで全てが、貴様の描いた絵の通りか」
「だから……! 何言ってるかわかんねぇって言ってんだろ。俺が何を企んで……」
「――何故、チシャではなく、余を残した?」
喉元に当てられた刃よりも、ずっと鋭く抉ってくる声音。それがスバルを黙らせ、ナイフを握るアベルの手をわなわなと震わせた。
歯を食い縛り、アベルが至近距離からスバルを睨みつけ、言い放った言葉。
それは、スバルがすぐに理解できるものではなくて。
「アベル……」
「ヴィンセント・ヴォラキアだ」
「――――」
「余は、アベルなどではない。ヴォラキア帝国第七十七代皇帝、ヴィンセント・ヴォラキアに他ならぬ。――それが、貴様の望んだ顛末であろう」
絞り出すように言って、アベル――否、ヴィンセントが忌々しげにそう名乗る。
まるで、自らがそう名乗ることを呪っているような態度、それの意味がわからなくてスバルは眉をしかめた。だってそうだろう。
「お前は、その名前と冠を取り戻すために戦ってたんじゃないのかよ……っ」
「違う。余は、皇帝の責務を果たさんと努めた。『シュドラクの民』との盟約も、城郭都市の陥落も、ヨルナ・ミシグレとの交渉も、内乱の誘発も全てはそのためだ」
「皇帝の、責務……?」
「玉座にて、ヴィンセント・ヴォラキアは斃れる。そこから始まる、帝国を亡ぼさんとする『大災』と抗うための手立てを残す。それが、余の責務だ」
「は……」
初めて、己の企ての詳細を語ったヴィンセントに、スバルは掠れた息をこぼした。
『大災』という耳馴染みのない単語もそうだが、それ以上にスバルを驚かせたのが、ヴィンセントの語り口そのものだった。
彼は、ヴィンセント・ヴォラキアが斃れ、『大災』が始まると言った。
そして、その『大災』に抗う手立てを残すと言ったのだ。
探るではなく、残すと。
その言い方では、まるで――。
「自分が死ぬのが、わかってたみたいな言い方じゃねぇか……」
首筋に宛がわれる冷たい死の先端、それをひしひしと感じながら呟くスバル。
あるいは『死』を間近にしているスバルの前で、ヴィンセントの黒瞳が妖しく揺れる。その漆黒の向こう側にある、確たる茫洋の正体を直感した。
それは、抗う意志で装飾された諦念だったのだと。
「そうだ。余は、己の死を企ての一部とした。余が斃れたとて、ヴォラキア帝国が亡ぶことなどあってはならぬと、その策を遺して」
そしてその直感が正しかったと、他ならぬヴィンセント本人に肯定され、次の瞬間にスバルの思考が赤く染まり、感情が激発する。
「てめぇ、ふざけてんじゃねぇぞ!」
歯を剥いて目を怒らせ、スバルは目の前のヴィンセント――否、腰抜け野郎を睨みつけて怒鳴った。首を鋭い痛みが走ったが、それは後回しの後回しだ。
今はただ、このしたり顔をした臆病者を叩きのめす方がずっと先だ。
「あれだけ大勢振り回して、あれだけ危ない橋を渡らせておいて、あれだけ余計な遠回りまで付き合わせて、最後は自分が死ぬつもりだった? ふざけるな!」
「ふざけてなどいるものか。貴様の語った道程の全ては、必要だから通った道筋だ。その帰結が余の死であろうと、帝国の存亡の懸かった一大事と比べるべくもない」
「違ぇよ! 俺が言ってんのは、なんでてめぇがいの一番に自分の命を諦めてんだって話なんだよ。でかい災い? 知らねぇよ! お前が生きて迎え撃てばいいだろ!」
「わからぬ輩が世迷言を囀るな。余が生きている間は『大災』は訪れ得ぬ。その前提故の方策だ。それが覆ることは――」
「覆らねぇなんて誰が決めた! お前は頭いいんだから、『大災』でも何でも騙くらかして誘き出せばそれで……」
「――覆らぬと教えたのは、貴様ら『星詠み』であろうが!」
感情的にまくし立てるスバルに、感情を押し殺してヴィンセントは答えていた。だが、その感情がここへきて、スバルの目の前で爆発する。
それがどれだけヴィンセントにとって想定外の激発であったのか。スバルに突き付けるナイフの刃を、反対の手で自ら掴み取らなければ、その先端がどこへ突き刺さっていたかわからないほどの感情の奔流だった。
ぽたぽたと、刃の先端を掴んだヴィンセントの左手から血が滴り、それが白いシーツを点々と汚していく。
しかし、スバルもヴィンセントも、意識はこぼれた血の滴ではなく、互いの目へと、その向こう側にある存在そのものへと向けられていた。
またしても、ヴィンセントはスバルを『星詠み』と呼んだ。
それこそが、ヴィンセント・ヴォラキアがナツキ・スバルを憎悪し、敵意を抱き、こうしてナイフまで向けた原因なのだ。
それがわかってしまうからこそ、疑問が解けない。
「『星詠み』が、教えたって……」
「――。枠組みの外にある、天上よりの観覧者の声を聞く『星詠み』。彼奴らは先々に起こり得る事象を語り聞かせ、被害を最小限に留める機会を与える。だが、それは被害の大小の話だ。未然に食い止めるという話ではない」
苦々しく、できるだけ感情を押し殺した声でヴィンセントは話し始める。
彼の語った内容、それにはスバルも思い当たる節があった。『星詠み』が本当に未来を予知しているなら、それを容易く変えることができないのは実体験からもわかる。
運命力や、時の自然な流れとでも言うべきか、それはできるだけ決まった通りの形をなぞろうと考え、目前に迫る悲劇の回避は挑むものの膝を折る。
『星詠み』の予知も、そうしたスバルの経験則と近いものなのだ。
例えばスバルだって、天変地異で『死に戻り』したとき、天変地異に備えてみんなに避難するよう促せても、天変地異そのものを止めることはできない。
それが家屋や建物を壊し、あるいは人の命を奪うことの全てを止められるかは、やってみなくてはわからないが、困難であることは疑いようもなかった。
「これまで幾度も、『星詠み』は帝国の危難を先んじて言い当ててきた。可能な限り、その危難に対処したが、救えぬものは出る。故に、方策が必要だ」
「方策……」
「如何に被害を最小に、失われるものをゼロへ近付けるための方策だ」
――未来に待ち受ける災厄、より大勢がそれを乗り越えるためにできること。より大勢がそれに取り残されることがないようできること。
それを実現するために、ヴィンセント・ヴォラキアが腐心し続けてきたなら。
「余の死を囁いたのは貴様たちだ、『星詠み』。その貴様たちの口から、余の死を覆せなどと何ゆえに言える。余を……俺を、弄んでいるのか……!」
「ま、待て、待ってくれ! さっきから、俺は『星詠み』なんかじゃ……」
「――貴様は未だ起こらぬ先を視る。謀るのはやめろ、ナツキ・スバル」
その一言に、スバルは心の臓を止められた気持ちを味わった。
自身の、胸の内を吐き出す過程で皇帝の仮面が剥がれ、その向こう側から見えたのはヴィンセント・ヴォラキアではなく、アベルと名乗った欠点だらけの男の顔だ。
そして、その男が真っ直ぐ自分を見て告げた言葉に、スバルは理解する。
「――ぁ」
ヴィンセント――否、アベルが、スバルを『星詠み』と呼んだ理由がわかった。
アベルは、スバルの『死に戻り』を見抜いたのだ。
正確には、『死に戻り』を見抜いたのではなく、スバルが命を失うことで時を遡り、未来の情報を持ち帰っている事実――先を知る術があるのだと見抜いた。
そしてそれが、己の知る『星詠み』の予知と同じものと、そう理解したのだ。
「――――」
考えてみれば、それは自然と起こり得る取り違えだった。
だってそうだろう。スバル自身、アベルが説明した『星詠み』の話に、『死に戻り』する自分との共通点を見出し、理解と納得を追い求めていたのだ。
『星詠み』の実例を知り、スバルが備わった能力以上の成果を出せば、そこに関連性――否、同一性を見出しても何の不思議もなかった。
アベルの眼力は確かだ。彼の洞察力は、物事を正しく精査する。
その彼の眼力にかかれば、スバルが帝国で見舞われたあらゆる事態に、未熟な実力と単なる強運で生き残ったわけではないとすぐにわかった。
だから、だからなのだ。
「だからお前は、俺の意見をいつもちゃんと聞こうとしてたのか」
未来を見て、最善手を選んだ結果の提案と、そうスバルの意見を解釈すれば、それがどれだけ馬鹿げて聞こえる提案でも無下にはできない。
シュドラクの集落を焼かせなかったのも、城郭都市攻略のために女装したのも、魔都カオスフレームへの道行きや、ヨルナとの交渉においても、そうだ。
アベルはいつだって、スバルの提案を真剣に吟味し、実現の可能性を探った。
そうやってアベルは、『星詠み』であろうスバルをも、帝国の存亡を争う盤面へと巻き込んで駒にしようとした。――自らが失われたあとの、抗う術の一つとして。
それなのに――、
「……貴様は、チシャではなく、俺を残した」
「――――」
「ナツキ・スバル、貴様は凡庸な人間だ」
それは、直前までとまた違った形で、感情の消えた声音だった。
感情を押し殺そうとしているのではない。押し殺しているのであれば、生きている感情が呻くのが、外へ呼びかけようとしているのが聞こえる。
だが、何も聞こえない。押し殺したのではなく、感情が死んでしまっていた。
その、感情の死んだ声音で、アベルがスバルへと色のない言葉を放つ。
「甘く、青く、若く、苦みを多く残した人間だ。特筆して善良でもなければ、特筆して悪辣にもなれない。何もなければ何も為さず、只人として死んだだろう」
淡々と語られるスバルの人物評は、まったくもって言い返す余地のないものだった。
的を射たアベルの見立て通り、スバルは特別な人間にはなれない。体と心が幼さに浸って、かつて自分を神童と信じられた時代に精神が立ち返ることができても、いずれ来たる未来の自分の姿も知っている、中途半端な人間が自分だ。
でも――、
「凡庸な、只人には過ぎた機会を与えられた。貴様はそれを十全に活かし、今日このときまでを生き抜いてきた。凡庸であることも、只人であることも、善良と悪辣のどちらへ強く傾くこともなく」
「アベル……」
「貴様は、凡庸な人間だ。……ならば、何故だ」
ぐっと強く、アベルが強く歯を食い縛って、スバルを見ていた。
その表情を、気高さも潔さも、余裕も自信も全部かなぐり捨てて、皇帝の仮面を剥いだ向こう側にある素面を見せて、声を震わせていた。
その震わせた声のまま、震える声のまま、叫んだ。
「何故、俺を残した、ナツキ・スバル!」
「――――」
「貴様はこの帝国に何の縁も、義理もない。今日までに知己となった多からぬものたちを守るだけ、それだけで満足できたはずだ。何ゆえに俺を救った! 何ゆえに、貴様と水の合わぬ俺を救おうなどと考えた……!」
「――――」
「何故だ……っ」
激情のあまり、掠れた声がアベルの何故と問う気持ちの大きさを物語る。
強く強く、握りしめたナイフの刃はより深く彼の手に食い込み、ますます多く流れる血が痛々しく、スバルはとっさにナイフを手放させ、血を止めようとした。
しかし――、
「触れるな!」
「づっ」
乱暴に手を振り払われ、瞬間、差し伸べた手に痛みを覚えてスバルが顔をしかめる。
見れば、振るったアベルの手の中のナイフがスバルの手を切りつけ、こちらの手からもぽたぽたと血を滴らせていた。
二人、向かい合う両者の間で、滴るに任される血でますますシーツが汚れていく。
そうして、流れる血も、汚れるシーツや床も無視し、
「……今、手を差し伸べたのもそうだ。それが貴様の最も不可解で、最も俺と相容れぬ在り方だ」
「――――」
「その時々の、その刹那の感情に任せ、それまでの己の信義や考えさえも足蹴にする。定めたことを守らず、こうあるべきと決めたことさえ容易に翻し、貴様は救うべきと救わぬべきを選り分けることもできず、無闇に手を伸ばしている」
「――ぁ」
血を滴らせ、睨みつけてくるアベルの眼光と、その言葉にスバルは息を呑んだ。
出血する傷の痛みさえ遠くなり、スバルの思考を凍らせたのは、今のアベルの言葉が、直近でスバルを苦しめたそれと全く同じことを意味していたからだ。
『――だが、お前さんはカチュアを救うか救わないか、選べる気でいるだろう?』
「――――」
それは意識を取り戻す前の、意識を手放すより前に投げつけられた言葉。
ナツキ・スバルと決して相容れないと、ナツキ・スバルを理解できない怪物だと、そう断じて決別を余儀なくされた、トッド・ファングから向けられた言の葉の刃。
彼もまた、『死に戻り』とも『星詠み』ともスバルを断じなかったが、人狼として生きる上で磨かれた眼力だったのか、スバルの特異性を見抜いて、そう定義した。
『ちぐはぐなんだよ! 自分はいつ死んでも構わない目でいて、他人の命も手前勝手な天秤に載せておいて、いざこうなれば必死で抵抗する。気味が悪い!』
「――ッ」
トッドの冷たい眼差しが、熱のない声音が、目の前のアベルのそれと重なる。
アベルの眼差しには、声には怒りの熱があるが、それでも二つは重なった。きっとその理由は、どちらもスバルへの決別をせんとしたものだからだ。
在り方の相容れないナツキ・スバルを拒絶し、世界から取り除くための前置き。
『自覚がないのが性質が悪い。お前さんは命を取捨選択してる。誰を救って、誰を死なせるか、自由に決めてるんだ。媚を売って腹を見せてくる相手は可愛がるが、そうじゃない相手は気にもかけない。俺は、誰に媚を売るのも腹を見せるのも躊躇わないが……』
『好みでコロコロ他人の生き死にを決めるような奴と、付き合えるわけあるか』
そうトッドを凶行に走らせたのは、スバルの考え方や態度だと彼は言った。
もちろん、それを丸っと鵜呑みにして、自分が悪いなんてスバルも思わない。スバルなりに正しいと思ってやってきたことだ。それをあっさり掌を返したら、今日までスバルを信じてついてきてくれた仲間たちに顔向けできない。
ただ同時に、否定し切れない真実は確かにあった。
――スバルが誰を生かし、誰を死なせるかを選んでいると、そう言われたことだ。
『死に戻り』の権能によって、スバルは大事な人たちの運命を変えてきた。
命を落とすしか、傷付け合うしか、大切なものを奪い合うしか、わかり合える機会を遠ざけるしかなかった人たちの、そうなる運命を捻じ曲げ、生きてきた。
スバルの決断と行動、それによって確実に、スバルの周囲で命を落とし、不幸になる人間の数は減っているはずだ。
しかし、ナツキ・スバルも全ての人間を救えてきたわけではない。
救わないと、救えないと、前向きか後ろ向きかの違いはあっても、そうすると決めて時を遡らず、進んできた事実は動かし難く横たわっている。
『敵』の全部を滅ぼしてきたわけではない。
でも、『敵』の全部を救ったこともない。救うものと救わないものとを、スバルはいったいどうやって選り分けてきたのか。
それが、スバルの個人的な好き嫌いではないかと、トッドは恐れたのだ。
「いいや、そうではない、ナツキ・スバル。貴様のそれは他者への好悪ですらない」
「……え」
埋められなかったトッドとの溝、それを改めて意識するスバルを、首を横に振ったアベルの言葉が引き止めた。
息を詰め、顔を上げたスバルにアベルは告げる。
「貴様が主観的な人間性の好悪で、救うものと救わぬものを決めるならまだ理解できた。だが、貴様は忌み嫌う人間さえ救う。俺がそうであるように」
「そんなことは……」
ない、と言い切ろうとして、スバルの言葉は続かなかった。
スバルが、アベルを土壇場で見捨てるぐらい嫌っているかどうか、それは己に深く問うてみなければわからないことだが、忌み嫌う相手に手を伸ばしたのは事実。
届かなかった。それでもスバルは、トッドにも手を伸ばそうとした。
手放さずに済んだ。葛藤しながらもスバルは、今日までルイと共にあった。
忌み嫌った相手にも手を伸ばしたと、そう言われればその通りのことをしていた。
「――王国の身内を連れ、ヴォラキアを離れよ」
愕然と、自分の行いを振り返っていたスバルを、不意の言葉が打った。
ゆるゆると視線を上げれば、手にしていたナイフを果物籠に戻したアベルが、その表情から憤怒の色を消し、これまで通りの表情で言葉を紡いでいた。
彼は、態度の変化と、かけられた言葉の内容に驚くスバルに続ける。
「これより先、帝国は『大災』との戦いへ突入する。俺の作ろうとした盤面と肝心な部分が違っているが、やり様はある。そこに貴様は不要だ」
「な……」
「くだらぬことを聞いた。貴様の思惑がどうあろうと、すでになったことはなったこととみなさなくてはならん。理由の是非を問うなどと、無為の極みだ」
それはスバルに向けた言葉というよりも、自分に向けた言葉だった。
ここでの、スバルとの感情的なやり取り、感情を排したやり取り、それら全部をひっくるめたやり取りを、アベルは一方的に終わらせにかかる。
らしくない態度どころの話ではなかった。
感情的になったところでも、感情が死んだところでも話題になった『チシャ』という名前は、スバルも心当たりがある。
彼の言いようからすれば、あの帝都攻防戦の最中に命を落としたと思われるチシャ、彼を何故救わなかったのかと、そう問うたのがアベルの本音のはずだ。
その本音に蓋をして、アベルはなかったことにして、いこうとする。
「帰国の用意をしておけ。国境を越えるのに必要な手配は全て済ませる。あとのことは、全て帝国の――余の問題だ」
そう、自らの呼び方を改めたのは、アベルとしての振る舞いを封じ込め、皇帝ヴィンセント・ヴォラキアとして進むことを決めた覚悟の表れ。
そしてそれが彼にとって、どれほどの意味を持つものなのか、どれほどの重いものを託されたが故の決断なのか、スバルには理解できない。
ナツキ・スバルが、ヴィンセント・ヴォラキアを理解できない。
ヴィンセント・ヴォラキアも、ナツキ・スバルを理解できない。
そうして、この不毛なひと時は、互いに血を流すだけで終わって――。
『お前さんは怪物だ。あのゾンビよりよっぽどな』
理解できないと、埋められないと、決別は避けられないと、そう勝手に断じられて、そう勝手に決めつけられて、そう勝手に終わらせられて。
そうやって、終わらされたのを悔いたのではなかったか、大バカ野郎。
「おい、アベル」
背を向けて、話は終わりだと態度で示した皇帝が扉へ進む。その、去りゆく細い背中に呼びかけると、皇帝は静かに息をついて、足を止めた。
そのまま、皇帝は熱のない瞳と表情で振り向いて、
「理解せよ。余はヴィンセント・ヴォラキアであり、アベルなどという男は――」
「――うるせぇ、歯ぁ食い縛れ」
弾む寝台のスプリングを利用して、跳ねたスバルがすまし顔に突っ込む。
その横っ面に、勝手に何もかも終わらせて、とっとと出ていけと勝手なことばかり言いやがる偉そうな横っ面に、その憎たらしい、本音も全部何もかも抱え込んだ横っ面に、とにかくもう、腹立たしくてむかっ腹が立ってしょうがなくて、ずっとずっとそうしてやりたかった横っ面に、スバルの小さな、血塗れの拳がぶち込まれた。