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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第八章 『ヴィンセント・ヴォラキア』
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第八章5  『赦し』




「――連中はゾンビになって時間が浅い。ほんの何時間か前まで生きてた奴まで混ざってるくらいだ。この戦いで死んだ奴が片端から蘇ってる……それはまだ断定できないか」


「でも、ゾンビになりたてって話はわかる。みんな、自分の弱点が何なのかわかってない感じだ。ゾンビのことを詳しく知らないのは、俺たちだけじゃなく……」


「奴ら自身も同じ。とはいえ、喋る頭があるなら考える頭もありそうなもんだ。時間を与えれば与えるほど、その未知の部分を埋めて、あるかもしれない弱点は消えるな」


「だからこそ、相手が万全になる前に仕掛けて――ぁ」


「なんだ? 何に気付いた?」


「――――」


「もったいぶるな、話せ」


「もったいぶってるわけじゃない。ただ、ゾンビは自分の体のこともよくわかってないんだよな。だったら、逆に教えてやったら――」



                △▼△▼△▼△



 ルイを背中にしがみつかせ、胸のベアトリスをぎゅっと抱きしめる。

 疾風馬の背中に乗っていたときと同じ基本の姿勢、ただし、置かれた状況はなかなかの極限状態で、少女たちを気遣う余裕もない。


 周囲の光景が一瞬で切り替わり、直後、スバルたちの姿は猛烈な一撃を浴びて粉砕される家の傍、空中に現れ、敵対ゾンビの後ろを取っていた。


 家を投げるタンザと、瓦礫を投げるイドラの波状攻撃――かなり字面のおかしい戦法だったが、おかしいのは字面だけでなく絵面の方もそうだ。

 何故、大人でなく子どもが大きい方を投げているのかなんて話ではない。そもそも、家を投げるなんて戦法自体がおかしいのだから。

 それでも――、


「ヨルナ様の寵愛をいただいている身であれば、このぐらいのことは」


 と、そう頼もしく引き受けられたなら絵面のインパクトはいったん棚上げだ。

 実際、プレアデス戦団全体の謎の強化はイドラにも適用されているが、ヨルナのそれと重ねがけ状態のタンザと比べては分が悪い。適材適所というものだ。


 そうした観点からの、大小の投擲具による波状攻撃――それで相手の意識を引き付けた上で、一度、トッドに注目させてからのスバルたちの奇襲転移だ。


「――――」


 空中で身をひねったゾンビ、その顔の単眼が特徴的な敵は、顔の中央にある大きな瞳の白目部分を真っ黒にして、金色の瞳孔を爛々と輝かせている。

 口元にはひどく残酷な、血の香りのする凶笑が刻まれていて、背筋が震える。

 はたして、彼は元から戦闘の最中に凶笑するタイプの人物だったのか。それともゾンビとなったことで生前と変わってしまったのか、いずれかはわからない。

 ただ――、


「エル――」


 素早く、スバルとベアトリスが同時に手をかざし、正面の敵へ向ける。

 ここで相手がなりふり構わず、スバルたちの攻撃を全力で躱す動きを見せたら、そのときはこちらの立てた作戦は失敗だ。

 おそらく、全力を尽くしても、この敵にはとても及ばない。


 しかし、そうはならないと、そうスバルは――否、スバルたちは詰めていた。


「――ッ」


 案の定、驚くべき身のこなしで振り返ったゾンビは、その大きな単眼にスバルたちを捉えながら、回避行動ではなく、握った戦斧を振るう姿勢を取った。

 スバルたちの攻撃を受けながら、反撃でこちらを仕留める戦法――肉を切らせて骨を断つという伝統的な戦術だが、込められた必死さが違っている。


 ゾンビの体は、負った傷をほとんど時間をかけずに再生する。

 だからこそ、敵はスバルたちの攻撃をノーリスクで喰らい、自分の反撃へ繋げられると考えたのだ。

 それが――、


「ミーニャ――!!」


 ――それが、スバルたちが刻み込んだ敗北への道筋と気付かないまま。


 反撃の戦斧を振りかぶった姿勢で、敵はスバルとベアトリスがかざした手から放たれる紫矢をまともに喰らう。

 鮮やかに煌めく紫紺の結晶矢が三本、単眼族の左半身へと突き刺さった。


「戦術は見事、だが――」


 突き立った紫矢を歯牙にもかけず、敵が歯を剥いて獲物たるスバルたちへ吠える。

 ゾンビの肉体は奇妙なことに、ある程度の強度を保ちながらも、砕かれるときは陶器が割れるのとそっくりな脆いものの壊れ方をする。

 その壊れた肉体がビデオの逆再生のように修復され、何事もなかったかのようにゾンビはそのまま攻撃を――、


「な、に……?」


 ――できなかった。


 ゾンビの肉体に突き刺さった紫紺の矢は、そこからゾンビの肉体を砕くのではなく、矢と同じ紫紺の結晶へと肉体を作り変える。そうして結晶化した部位にひび割れが生じ、次いで今度こそゾンビの体が砕けるが、その部位は再生しない。

 陰魔法のゾンビ特効――それが、ここまでの撤退戦の最中に確認された敵の弱点だ。


 ――数多く、長い時間をかけて、確かめるチャンスが潤沢にあったわけではないが、ゾンビにはいくつかの共通した特性が認められた。


 例えば、ゾンビの致命傷は頭よりも心臓の方が近い。

 もっとも、胸を貫かれたところで死にはしないので、致命傷という表現は正しくないかもしれない。それでも、肉体に負った傷を異常な回復力で再生するゾンビたちが、心臓に近いところの傷ほど回復が遅いのは事実だった。

 腕や足をなくしても血が流れないので、おそらく心臓は体に血を送る役目を果たしていないようだが、人体の急所としての機能だけはなくしていないらしい。


 そうした、倒すには至らないゾンビの特性が明らかになっていく中で、確かにゾンビを倒し切れると効果が認められたのが、ベアトリスの陰魔法だった。

 ベアトリスの説明によれば、陰魔法の『ミーニャ』は対象の時を凍結させるという即死魔法みたいな効果であり、それが再生を前提としたゾンビに特効となったようだ。

 トッドの話では、ゾンビの体が灰になるまで焼き尽くせば、ミーニャを当てたのと同じように敵の再生を食い止められるらしいが、ないものねだりしても仕方ない。


「これが、俺たちの持ってる手札の一番強い使い方だ!」


 敵ゾンビの強さの大小に拘らず、ベアトリスのミーニャを当てれば倒せる。

 ならばと当てるための方策を考えた結果が、生前の実力を発揮し続ける敵に、あえて自分がゾンビになったことのメリットをわからせることだった。


「攻撃されても傷付かない。やられてもすぐ治るとわかってしまったら、誰でもその力を当てにすることを考えるかしら」


「ゾンビになる前のあんたなら、きっとあっさり躱してただろうぜ」

「あう!」


 それはスバルとベアトリス、それからルイの勝利宣言――というよりは、敵に対する称賛と憐憫の両方だった。

 ゾンビとして蘇ったこの戦士は、間違いなく生前は相当な実力者だ。ゾンビになってもその戦闘力に陰りはなかったが、戦いに臨む思想に歪みが生じた。

 攻撃を喰らっても何ともないなんて驕りが、もしも彼になかったなら。


「この一発をまともに喰らうなんて、ありえなかった」


「――――」


 くるくると、浴びた魔法の衝撃で回転しながら、ゾンビの目が見開かれる。

 その瞳を過る驚愕と、自分の敗北を悟った理解の入り交じる複雑な感情の渦に、スバルは下唇を噛み、この戦士を襲った理不尽な運命を呪った。

 左半身を結晶化させ、二度目の死を味わわせる相手にどの面を下げてと、そう罵られたとしても――、


「――シュバルツ様!」


 一瞬、感傷が胸を過った直後だった。

 切羽詰まった声でタンザに名前を呼ばれ、ハッと現実を直視したスバルは気付く。空中で回転し、背を向け、再びこちらを向く敵ゾンビの瞳、その色の変化に。

 その、死人特有の金色の目が変わったわけではない。

 ただ、浮かんでいた驚愕と理解が薄れ、強烈な敵意へとそれが塗り替わっていた。


 一時は、自身の敗北を衝撃と共に受け入れかけた敵。

 それが目の色を変えた。――おそらくは、スバルの最後の一言を呼び水に。


「まだ――」


「――死んでいない!」


 その眼光に息を呑むスバルの前で、体の左側に結晶化が進む敵が宙の何かを蹴った。

 それは、粉砕された家砲丸の破片。破片と言っても、人の頭ほどもあるそれを蹴り飛ばして、衝撃にゾンビの左腕が肩から砕けて吹っ飛んだ。

 その代わりに、蹴飛ばされた破片は真っ直ぐに、スバルの顔面を狙って飛来し――、


「うあう!」


 当たる寸前、スバルは破片に頭蓋を割られる自分を幻視した。

 あるいは死に至る一撃だっただろうそれは、しかしスバルには届かない。スバルに当たる前に割り込んだ影、ルイが身代わりになったからだ。


「ルイ――っ!」


 背中にしがみついたルイが強引にスバルの体を押し下げ、破片の当たる軌道からスバルをどけて、代わりに自分がその射線上に入り込む。

 結果、ルイが破片を無防備に喰らい、スバルの体から引き剥がされて吹っ飛んだ。


「スバル! 目を逸らすんじゃないのよ!」


 ルイが吹き飛ばされ、そちらに意識の飛びかけるスバルをベアトリスが呼んだ。彼女はスバルに体を預けたまま、その手を伸ばして敵に追撃を仕掛ける。

 しかし、相手も二度、致命的な攻撃を浴びるほど易しくはなかった。


「――ッ」


 空中に腕の破片を飛ばしながら、敵はベアトリスが放ったミーニャの追撃を巧みに読み切り、わずかに残った左肩部分を使ってそれを受けた。

 すでに結晶化された部位で被害を引き受け、ひび割れの進みを最小限にしたのだ。

 それはまさしく、卓越した戦士の技――。


「うあっ」


 技量に目を見張った途端、スバルの胸倉が伸びてくる腕に掴まれる。

 それは握っていた戦斧を手放し――否、戦斧を振るう力をなくし、スバルを逃がすまいとする敵の執念の表れで。


「オオオオ!!」


「があ!」


 腕力で引き寄せられ、ベアトリスを抱えるスバルの体が強引に地面に落とされる。背中を固い路面に打ち付ける痛みに息を詰まらせると、覆いかぶさってくる敵の形相を間近に見て、スバルはとっさに手を向けようとした。

 だが、しかし、相手の決死の形相と視線がぶつかり合い、動きが止まる。


 ――その、すでに死した体とは思えない、覇気と戦意に満ち満ちた姿に。


「――っ」


「スバル!」

「シュバルツ様!!」


 首を締め上げられ、喘ぐスバルの鼓膜を決死の声が打つ。

 その切羽詰まった声と、首の骨が致命的に軋む音を聞きながら、それでもスバルの腕は上がらない。力を奪われたのではなく、心が奮い立たない。


 やらなければやられると、そうわかっていてなお。

 殺らなければ殺られると、そうわかっていてなお。


「ミーニャ!」


 動かれないスバルに代わり、身じろぎするベアトリスが敵へと魔法を撃ち込む。

 スバルに覆いかぶさるということは、その腕の中のベアトリスに覆いかぶさっているのと同じだ。当然、接射というべき距離から魔法が着弾する。

 しかし、敵は耐えた。――否、スバルの首を締め上げる右腕だけは死守し、その胴体を結晶化されようと、せめてこちらを道連れにせんとして。


「妙な情けをかけるからだ」


 そんな、淡々とした言葉が紡がれた直後、スバルを燃え滾る眼光で滅ぼそうとしていた敵の、その頭部が首のところで切断された。

 代わりに、消えた敵の頭部の向こう側に現れたのは、冷めた顔のトッドだ。


「――――」


 手にした斧を振り切って、ゾンビの首を刎ねたトッド。

 そのトッドに刎ねられ、切り離された首は憎悪を彼へと向けようとしたが、


「よくも!」


 と、飛び込んでくるタンザの蹴りが、その頭部を容赦なく吹き飛ばした。そのまま、単眼の頭部はサッカーボールのような勢いで街路を弾んでいく。

 そして、吹っ飛んだ頭部から置き去りにされ、その場に残された胴体が、ゆっくりとその全体を紫紺の結晶へと変え、崩れた。


「ご無事ですか、シュバルツ様!」


「……げほっ、ごほっ、だ、大丈夫だ。悪い、助かった」


 崩れた敵の胴体、その紫紺の破片を振り払いながら体を起こし、スバルは駆け寄ってくるタンザに手を上げ、無事だと伝える。

 そのスバルの返答にタンザは安堵、それからスバルはハッとした顔になり、


「ルイ! ルイは? 俺を庇って……」


「大事ない、はずだ。破片が当たって、脳震盪を起こしているようだが」


 焦るスバルに答えたのは、少し離れたところに屈んでいるイドラだった。

 彼の足下にはルイが倒れており、上体を抱き起こされた彼女は額から血を流し、ふらふらと頭を揺らしている。


「頭はマズい……! ベアトリス、頼む!」


「――。もちろん、わかっているかしら」


「頼む……!」


 ルイの様子を見て取り、慌てて立ち上がるスバルがベアトリスの腕を引く。一瞬、彼女の態度に逡巡があったが、スバルはそれに気付かない。


 この場で治癒魔法が使えるのはベアトリスだけだ。

 もう一人の使い手であるレムは、強敵相手の総力戦を憂いなくするために、非戦闘員たちと一緒に戦域を迂回する形で市街を目指してもらっている。

 強敵を城壁の傍から引き剥がしている分、彼女たちの方は安全に市外へ出られる可能性が高いが、ここで回復役の手が不足しかねない影響が出た。


「ルイ、大丈夫だからな……!」


 ベアトリスと共にルイの傍らにしゃがむと、彼女の額の傷に手をかざし、治癒魔法を発動するベアトリスの横でスバルはルイの手を握る。

 きゅっと、弱々しく握り返され、「ごめん……」とスバルは重ねて謝罪を口にした。

 そう謝ることしかできない。今のは完全に、スバルの失策だった。


「その子も治癒魔法が使えるのか。お前さんの周りには珍しい使い手が多いな」


 そうしてルイの治療を見守るスバル、そこに声をかけたのはトッドだ。

 彼は敵の首を刎ねた斧を肩に担いながら、微かに強張ったスバルの横顔を見据え、


「なのに、お前さんがその調子じゃ宝の持ち腐れだ。自覚はあるだろう?」


「トッド……」


「自分の強さ以外のところに、自分が死なないなんて確信を預けてる奴は脆い」


「――――」


「今殺した単眼族だけじゃなく、お前さんにも当てはまる理屈だ」


 淡々とした彼の物言いに言い返せないのは、紛れもなく図星を突かれたからだ。

 あの、迫る敗北を振り払い、勝利にしがみつく敵を目にした瞬間、スバルの脳裏を弱気が過った。それはトッドの言う通り、生への渇望で押し負けた結果と言える。

 それを仕方ないことだと、そう開き直れるほどスバルも鈍感ではないが――。


「そのような物言い、失礼ではありませんか」


「――――」


「シュバルツ様は、今の戦いの功労者です。それを指してその言い方は……」


「噛みついてくるなよ。功績は認めてるさ。ただ、不十分だってだけだ。それと、一番の功労者はお前さんか、そっちの倒れてる娘の方だろう」


 顎をしゃくり、そう述べるトッドに頬を硬くしたのはタンザだ。

 強敵相手の大役を担った少女は、自分に向けられた称賛を意に介さず、心無い言葉をぶつけられたスバルのことを憂えている。


 表情の変化が乏しい彼女だが、その内に秘めた情はむしろ厚い方だ。

 剣奴孤島以来、少なからず関係を深めてきたスバルを侮辱され、スバルの代わりに怒るという姿勢を見せるのも、わかる話だった。

 この場に、トッドの婚約者であるカチュアがいないのも語気の強さを後押しする。


「あなたは、何でもご自分が正しいとお思いなんですか? だとしたら……」


「だから、噛みつくなよ。俺が言ったのはただの事実だ。飛び抜けた強さで自分が死なないと確信できてる化け物がいるのも、それ以外の理由で自分が死なないと思ってる奴がいることもな。――俺もお前さんも、そのどっちでもない」


「それは……」


「前者が味方だと物事がすんなり進むが、後者は味方にいられたくない。敵なら今みたいにつけ入る隙になる。お前さんの身内の策は的確だったよ」


「――ッ、シュバルツ様をあなたが」


 語らないでください、と噛みつこうとしたのか。

 怒気で微かに顔を赤くしながら、タンザがトッドに噛みつこうとする。が、それをスバルが止めようとするより、イドラが割って入る方が早い。

 彼はルイの体を支えたまま、「タンザ」と彼女の名前を呼び、


「そこまでだ。君らしくもない。いつでも冷静なのが君の持ち味だろう」


「……ただ感情の起伏が下手なだけです。それに、イドラ様もおわかりでしょう」


「わかっているというのは……」


「私やイドラ様は、シュバルツ様と繋がっているのですから。シュバルツ様がどんなお気持ちでいるか、少なからず伝わっているはずです」


「――――」


 背中を向けたままのタンザの訴えに、イドラが眉を顰めて口を噤んだ。そのイドラの表情が真正面から見えて、スバルは思わず息を呑む。

 プレアデス戦団が、スバルの持つ『コル・レオニス』の効果で規格外の強化を受けているのは恩恵だが、関係性の深いメンバー――同じ『合』出身のイドラたちや、他の面々よりも付き合いの深いタンザにはそうした不備も伝わる。


 それをスバルの失態や不徳とみなさないタンザたちには救われる気持ちもある。

 一方で、申し訳なさと、まだ足りないと思う気持ちもあるのだ。

 そう、スバルが思ったときだ。


「あー、う」


 ふと、握ったスバルの手を握り返し、ルイが弱々しく声を発した。

 相変わらず、言葉になっていないそれが意味する詳細はわからない。ただ、スバルを心配してくれているのはわかる。自分の方が怪我をした状況なのに。


「喋れるなら心配いらないのよ。手当てが済んだら外に連れ出して、レムに診せればいいかしら」


「そう、か。そうだな。せっかく道が開けたんだ。グズグズしてたら……」


 他のゾンビが集まってきかねないと、その本末転倒に備えたときだった。


 ――ヒュン、と風を切る奇妙な音が聞こえた。


「――――」


 何か、軽いものを括りつけた紐を振るったような類の音だったが、その風切り音が聞こえた直後に起こった出来事は、決して軽くない。


「か」


 と、短い呻き声をこぼし、タンザの体が震える。

 そうして震えた彼女が自分の体を見下ろし、丸い目を見開いた。――その背中と腹部を貫通して、先端の鋭い触手のようなものが突き出していた。


 タンザの小さな体を貫通した触手、それはスバルたちよりずっと離れた場所、戦いの余波で倒壊した街路の方角から伸びている。

 のたくる蛇のように伸びた触手、それの起点となっているのは――、


「……は?」


 蹴り飛ばされた首から異形の胴体を生やし、触手を伸ばした先のゾンビの姿があった。



                △▼△▼△▼△



「――――」


 一瞬の停滞、その想像と理解を踏み躙る姿にスバルの思考が白く染まる。

 だが、その一時が致命的にならぬよう、声が上がった。


「スバル!」


 傍らのベアトリスが血相を変えて叫び、それでスバルの意識が現実に引き戻される。

 脳に血の巡るような音が聞こえて、スバルは改めて眼前の光景――破壊された街路に佇んでいる単眼のゾンビ、その異形化した敵を眼に捉える。


 首から上は、先ほどまでと同じ黒い眼に金色の瞳を浮かべたものだ。

 しかし、首から下にあるのはたくましい戦士の体ではなく、両腕と両足、それぞれ対となる左右の手足の太さも長さも違う、異形としか呼べない怪物だった。

 怪物はその右腕から触手――否、違った。それは触手ではなく、指だ。怪物の向けた指の一本が異様に伸びて、タンザの体を貫いていたのだ。


「――ぅ」


 それを見て取った瞬間、怪物がその長い指を引っ込め、タンザの体が再び震えた。

 胴体を貫かれた彼女の体が血を噴いて、その場にがっくりと力なく膝をつく。


「タンザ――!!」


「――っ! マズい! シュバルツ!」


 そうスバルが叫んだ直後、手を伸ばして走り出しかけたスバルを、真横から突き出されるイドラの掌が力一杯押した。

 その強化されたイドラの突き飛ばしに、スバルの体が軽々と宙を舞う。だが、イドラの突き飛ばしが正解だったと、反転する視界がすぐに捉えた。


 直前までスバルのいた位置へ、怪物のしなる指が襲いかかった。

 途上の街路も建物も、縦に裁断される恐ろしい切れ味が都市を破壊、イドラに突き飛ばされていなかったら、スバルの体も切断されたかもしれない。

 そのまま、勢いよく飛んだスバルの体を――、


「ちっ! まさか、刎ねた首から再生したのか」


 真下から伸び上がる腕で強引に引き寄せ、トッドがスバルをホールドする。

 頭上から降ってくるトッドの声に身を硬くしながら、スバルは彼の言葉の意味――刎ねた首からの再生に、「嘘だろ」と呟いた。


「胴体を結晶化して砕いたのに、まだ動く奴なんてありかよ!?」


「あってほしくなくても、実際あるから認めざるを得ん。あの薄気味悪い見た目は……」


「体の再生する術式がバグってるのよ!」


 スバルを抱えたトッドの疑問、その先に答えを提示したのはベアトリスだ。

 彼女はその可愛らしい顔に焦燥を宿しながら、異形の怪物を睨みつけ、


「本来、死んでるはずのダメージで死を拒んだ結果かしら!」


「――。つまり、他のゾンビよりも生き汚い……いや、もう死んでる奴らなんだから、死に汚いって方が正しいか」


「ぐ……! ベアトリス! イドラ! 早くタンザを……!」


「わかっている! わかっているが……」


 スバルの必死の訴えに、声を大にしながらイドラが歯を食い縛る。

 負傷したタンザを案じているのは彼も同じだ。しかし、迂闊に動けば異形の注意を引いてしまう。すでに、異形の攻撃がプレアデス戦団に通じるのは見ての通り。

 イドラまでやられれば、勝ち目が消える。

 それは――、


「いや、そもそも……」


 ルイが破片を受けて負傷し、タンザも一目で瀕死の重傷を負った。

 倒したと思ったゾンビは倒し切れず、それどころか異形化して立ちはだかる始末。これはもはや、行き止まりの周回に入り込んだのではないか。


「――馬鹿言え」


 一瞬、脳裏に浮かびかけた愚かな考えをスバルは切り捨てる。

 運命の袋小路、その周回では決して打開できない事態へ出くわすことはある。それこそスバルを抱えるトッドに、そうした事態をもたらされたこともあった。

 しかし、スバルはここにいる。――ましてや、スバルは助けられた。


 自分のことは諦めがついても、他のみんなのことは諦められない。


「――気持ち悪い目だ」


「え?」


「自分と他人と、命の扱いを変えてる奴の目だよ」


 心中、音を立ててギアを切り替えたスバル。そのスバルの表情を間近に見ながら、そう呟いたトッドの胸中がスバルにはわからない。

 そこには紛れもなく、嫌悪が滲んでいたはずだったが。


「いくぞ」


 短く言った直後、トッドはスバルを抱えたまま、強く地面を蹴った。

 そしてあろうことか、タンザにも、ベアトリスたちにも背を向けて、その場から一目散に逃走を図ったのだ。


「な!? 何してんだ! みんなと別れたら……」


「お前さんこそよく見ろ。あれの狙いは、俺とお前さんの二人だ」


 言いながら、身を傾けたトッドが横道へ飛び込む。

 刹那、トッドの残像を掠めるように指が街路を穿つように放たれ、空気の焦げる臭いがスバルの鼻孔をくすぐった。


 一瞬、ちらと見えた。

 あの異形がその単眼を禍々しく光らせ、スバルたちを追ってくるのが。


「一度目に殺した俺と、二度目に殺したお前さんが標的らしい」


「……っ! それで、引き付けてみんなの傍から離したのか」


「他が巻き込まれると、お前さんの頭の動きが鈍る」


 そう言って、トッドがその緑色の瞳でスバルを見下ろした。

 彼に抱えられたまま揺すられるスバルは、その冷え切った瞳に見据えられ、追ってくる異形と同じか、それ以上の怖気を背筋に覚える。

 この状況でなお、トッドがスバルに向ける目は、値踏み以上のものではなくて。


「相方なしで、あれを仕留める方法が思いつくか?」


「なかったら?」


「そのときは嫌いだが、運を天に任せるしかないな」


 それが、決して言葉通りのことを意味しないとスバルは察している。

 自分とスバルが狙われている条件が同じな以上、トッドは不利となればスバルを囮にして逃げ延びるための手を打つだろう。

 今すぐにそれをしないのは、スバルを囮にしても逃げ切れる算段が低いから。

 逆を言えば――、


「――手があれば、手を貸すんだな?」


「――――」


 そのスバルの問いかけに、トッドの表情が再び引き締まる。

 巧みに障害物を利用し、怪物の視界から隠れて攻撃を避け続けるトッド。彼に抱えられたまま、スバルは視界を巡らせ、帝都の中に目的の建物を探した。


 逃げてくる途中、イドラの口から話題に上った建物だった。

 ミーニャを当てる作戦とは別に思いついていたが、その建物まで敵を誘導する術がなかったから、選択肢から消した作戦――。


「やれるのか?」


「――やる」


「――――」


 問いかけに即答したスバル、その答えにトッドは軽く目を見張ると、その口の端を酷薄に歪めて嗤った。

 そして――、


「いいぞ。――お前さんの策に乗ってやる」



                △▼△▼△▼△



 ――逃げる標的を追いながら、『巨眼』イズメイルの思考は千々に乱れていた。


「――――」


 視界が明滅し、思考は散り散りで、動きは洗練と程遠い無様なものだった。

 長さの違う手足を地面に擦り付けて、生まれたての獣のような不安定さで、壁に地べたに激突しながら、遠ざかる背中へと手を、指を、伸ばす。


 逃げる二体の敵に執着する理由が、イズメイルには思い出せない。

 もはや、イズメイルであったことすら忘却しかけている異形の怪物は、転ぶたびにひび割れる傷から新たな手足を生やし、その醜悪さを一段と増していく。


 ――それはまさしく、ベアトリスが指摘した再生能力の暴走だ。


 だが、他者の意思で蘇った上、例外的に死から遠ざかったイズメイルの肉体に起こったその変異は、それこそ術者にすら制御できるものではない。

 はたして、執着する二体の標的を屠ったあとで、怪物はどうなるのか。


「オオォォォォ……」


 おどろおどろしく、虚ろな雄叫びを上げる怪物には、一切合切の興味のないことだ。


「――――」


 二体の標的は、大きい方が小さい方を抱えて逃げていて、その背中が捉えられそうになると引っ込んで、当たらない攻撃を繰り返させられる状況が続く。

 しかし、いつまでも相手は逃げ続けられない。不格好な走りを続けたことで、転んだ体のあちこちに新しい手足が生えて、もうイズメイルは転ばない。


 転ばないから、手足の多い方が速く走るのが道理だ。

 それ故に、イズメイルは逃げ延びようとする標的との距離を、徐々に徐々に、徐々に徐々に徐々に徐々に詰めて、詰めて詰めて詰めて――。


「アオッ」


 短く吠えたイズメイルの指が、逃げる標的の背中を、肩を抉った。

 血が噴いて、敵の悲鳴が聞こえてイズメイルの顔に凶笑が浮かぶ。快かった。愉しくて愉しくて、もっともっと血が、悲鳴が、聞きたい。


 やたら滅多に道を折れて、相手がそれまでと違い、必死になっている気配を感じる。

 イズメイルに追われ、怪物に追いつかれ、ズタズタに引き裂かれるのを嫌がり、必死で標的が逃げる。その手足を、特に上半身を狙い、傷付ける。

 足を狙えば、標的は逃げられなくなる。そうしたら、これが終わってしまう。


 終わったら、寂しい。終わったら、残念だ。

 だから、いつまでもいつまでも、終わらないように――。


「オオオォォォン」


 低く、空気を震わせる雄叫びを上げながら、イズメイルが建物を砕いて、街路を踏み割りながら、水浸しの地面を蹴りつけて標的を追う。

 その距離が一気に詰められ、ついに逃げる敵は体力が底を尽きたのか、血を流し、舌打ちをしながら近くの建物へと飛び込んだ。


 逃げ場のない、袋小路に飛び込む愚かな選択をした。

 この、狩りの時間のおしまいを直感しながら、イズメイル――否、イズメイルではなくなった怪物は、閉じられた扉を叩き壊し、中へ滑り込む。

 手足が増え、肥大化し、元の体とは比べ物にならないほど大きくなった図体では、すんなりと扉を開けて建物の中に入ることができなくて。


 そして、標的が逃げ込んだ薄暗い建物の中に入り、怪物は中を見回す。

 光源に乏しいが、これほど異形化しても、そこだけは変わらなかった特別な眼が、瞬きと共に世界の見え方を切り替え、隠れる獲物の姿を探した。

 探して、怪物は気付く。


「――――」


 ――飛び込んだ建物の中、怪物の全身が白く染まるほど、粉が舞っている。


 視界がおぼつかないのは暗さだけが理由ではなく、建物の中一杯に粉が舞うからだ。見れば、建物の中にはいくつもの棚が並べられていて、いずれの棚にも中身がパンパンに詰まった袋が並べられていた。

 その袋が破られて、建物の中に粉が大量に舞い上がって。


「あんたを倒すのは、魔法でも必殺技でもねぇ」


 粉まみれの怪物が建物の中の状態に気付いたのと、その声が後ろから聞こえたのは同時だった。振り向いた怪物の視界に、真っ赤な色をした小さな影がある。

 それが、逃げる標的の一人――否、いつの間にか、逃げる標的は一人になっていた。大きな方から離れ、姿の見えなくなっていた小さな方が、そこに。

 そして――、


「喰らえ、科学の真髄――粉塵爆発だ!!」


 その掛け声の直後、小さな影の周囲も一挙に赤く染め上げられ――、



 ――凄まじい爆発が粉挽き小屋を吹き飛ばし、怪物を真っ赤な紅蓮が呑み込んだ。



                △▼△▼△▼△



「――見ろ、シュバルツ、あの粉挽き小屋を目印にしよう。傍に水車のある建物だ」


 非戦闘員を引き連れ、疾風馬を駆りながら周囲を警戒するイドラは、剣奴孤島へと送られてくる前は粉挽屋の倅だったという話だ。

 スバルも、厳密に粉挽屋がどういった役割を果たす仕事なのか詳しくなかったが、水車の力を利用して、小麦の製粉などを行うものという説明は受けていた。

 つまり――、


「小屋の中の材料を使えば、粉塵爆発が起こせる」


 粉塵爆発とは、空気中に燃えやすい粉状のものが舞い散っている状態で、そこに火種が飛び込むことで連鎖的にそれらに燃え移り、一気に発火、爆発する現象だ。

 粉挽き小屋という密閉空間に加え、大量の小麦が舞っている状態、そしてそこに明確な勢いで火種が舞い込めば――、


「……まさか、ここまでの威力になるとは」


 打ち付けられた壁に背中を預けて、スバルは咳き込みながらそう呟く。

 そのスバルの目の前には、成立した粉塵爆発によって粉々に吹き飛んだ粉挽き小屋と、その巻き添えを喰らって燃え尽きる怪物の残骸がある。


 トッドと二人、怪物を引き付けて倒さなくてはならないとなったとき、スバルの脳裏を過った作戦が、この粉挽き小屋を利用した粉塵爆発だった。

 もちろん、粉塵爆発なんて簡単に成功はしないし、そもそもうまく相手を誘導できる確信もなかった。

 だから、これほどうまくいったのは、スバルだけの力ではなくて。


「……生きてるか、トッド」


 爆発の衝撃で吹き飛ばされ、目のチカチカする頭を振ってスバルは立ち上がる。

 役割分担の末、トッドが粉挽き小屋の準備が整うまでの間、怪物を引き付けて逃げ回る役目を担い、スバルはこっそりと小屋へ侵入、建物の中を粉塵で満たした。

 そして、頃合いを見たトッドが小屋へ飛び込み、怪物を誘導したところへ、火種を放り込んだ形だ。その火種も、用意したのはトッドで。


「トッド、トッド……!」


「……そんな悲愴な声で呼ばなくても、ちゃんと生きてる」


「――っ」


 燃え残りが存在を主張する爆心地、その周囲に声をかけていたスバルは、わずかに掠れた声が聞こえて、そちらに足を向ける。

 見れば、吹き飛んだ小屋の壁がそのまま倒れた街路に、片膝をつくトッドの姿があった。彼は歩み寄ってくるスバルを見ると、口の中の唾を吐き捨てて、


「危うく、俺ごと殺すところだったぞ、お前さん」


「……人聞きの悪い。だから、すごい威力だって説明しといたじゃんか」


「たまに、この手の事故が起こることはあるが、原理を聞いて納得したよ」


 さすがに呼吸を乱しながら、トッドがどっかりと街路に尻餅をつく。そのまま彼は、吹き飛んだ小屋の方を眺めながら、


「相手は?」


「吹き飛んだ。ちゃんと……ほら」


 そう言って、スバルはちょうど自分たちの位置から見える、吹き飛んだ怪物の一部を指差す。すると、残火に炙られる部位が砂のように崩れ、形を喪失した。

 他のゾンビたちの散り様と同じく、完全に再生能力を潰した結果だ。


「その、傷は?」


 今度こそ、あの強敵ゾンビを倒したと確認して、スバルがトッドに尋ねる。

 役割分担する上で、敵に捕まるわけにはいかない以上、しばらく逃げ続けられるトッドが囮役をするのは選択肢がなかった。だが、彼は自らその役を買って出たのだ。

 自分の命を危うくする策を絶対に避けると、そうしたスバルの予想を裏切って。


「生傷を惜しんで、命を取りこぼしたらお話にならんだろう。お互いに、必要な役目をこなしただけだ。とはいえ……」


「う……」


「かなりあちこち抉られた。だいぶ、血が足りない気分だ」


 言いながら、片手を上げたトッドの負傷はかなりのものだ。

 深手と言えるほど抉られた傷こそないものの、その肩や腿にはじっとりと血が滲み、失血の多さで顔も血の気を失っている。

 放置しておいたら、間違いなくその命を危うくするだろう。


「すぐに――」


 ベアトリスを呼んでくる、とスバルは動こうとした。

 スバルとトッドがあの場から離脱したことで、きっとベアトリスは慌てふためいていることだろう。だが、彼女ならタンザの手当てを優先してくれるはず。

 ルイとタンザ、二人の安否も気掛かりだし、ベアトリスたちとの合流を急がなくては。

 そうしたら――、


「――さすがに、これだけやればカチュアも文句は言えないだろ」


「え?」


「屋敷で話したじゃないか。あいつは、俺が怠け者だと思ってるみたいだからな。自分たちを逃がして、ちゃんと強敵も倒して、名誉の負傷もした。まさか、お前さんも手柄の一人占めはしてくれるなよ?」


 肩をすくめ、血の気を失った顔でそう言ってのけたトッドに、スバルは一瞬だけ呆気に取られて、それから「は」と力の抜けた息を吐いた。

 これだけボロボロの状態で、それでも気にかけるのはカチュアのこと。あるいは、スバルの緊張をほぐす目論見もあったのか、いずれにせよ。


「本当に、カチュアさんが大事なんだな」


「決まってる。婚約者だ。カチュアは、俺の命そのものだよ」


 一切の恥じらいなく言い切るトッド。

 その答えにスバルは深呼吸し、途中で息を止めて、「よし」と気合いを入れた。


 今でも、トッドのことは怖い。彼がしでかしたことは、心に傷を生んだままだ。

 それでも、ここであの怪物を協力して打ち倒した事実もまた、変わらない。ボロボロになってまで、トッドは全員の、スバルたちの生還のために尽くした。

 だったら、今度はスバルの番だ。


「ここで……いや、ここだと爆発を聞きつけた誰かがくるかもしれない。いったん、途中までは俺と戻ろう。適当な場所が見つかったら、そこで待っててくれ」


「ああ、わかった。頼むから、戻ってこないのはなしにしてくれ」


「やらねぇよ!」


 それをしなくても済みそうだと、そうトッドが思わせてくれたのだ。

 もっとも、仮にトッドと敵対的な立場にあったままでも、スバルが死にかけの彼を放置できたのかどうか、そこは怪しいところだが。


「いや、考えすぎるとドツボに嵌まる。とにかく――」


 トッドに肩を貸すにしても、背丈が違いすぎてうまくいくまい。せめて、杖代わりに使えるものでもあればと、スバルは吹き飛んだ小屋の周囲に目を向けた。

 そして、燃えさしの中に吹き飛んだ棚の支柱を見つけて――、


「――――」


 ――瞬間、固い音が、響き渡った。


「……なんでなんだ」


 その固い音が響き渡った瞬間、スバルは俯いて、ぎゅっと拳を握りしめる。唇を震わせて、わなわなと肩を震わせて、黒い瞳も震わせながら、呟いた。


「なんでなんだ」


「――――」


 問いかけに答えはなく、スバルは息を吐きながら振り返る。

 その振り返ったスバルの眼前、振り下ろされた斧の刃が、あとほんのわずかでスバルの頭蓋を砕かんという位置で、動きを止めていた。


 ――スバル以外には見えない、『見えざる手』の拘束によって。


「ちっ、失敗失敗」


 そう小さく舌打ちして、トッドが斧から手を離すと後ろへ飛んだ。その俊敏な動きからは失血や傷の影響が感じられず、スバルは歯を食い縛った。

 それすらも、演技。傷の苦しみも、スバルに救いを求めたことも、あの、カチュアへの気持ちを語って、スバルの心をほぐしたことも。


「なんでなんだよ……!」


 三度、同じ問いかけを発し、スバルは泣きそうな顔でトッドを睨んだ。

 睨みつけて、悔しさのあまりに湧き上がる涙を感じながら、


「今ならまだ、何もやってない。誰も殺してない。俺は、お前を許せたのに!!」


「ゆっくり静かに、お前さんは俺の信頼を損ねたんだよ」


 スバルの叫びを聞きながら、手放した斧の代わりにナイフを抜いてトッドが構える。

 それが、ナツキ・スバルとトッド・ファングの、埋め難い別離の宣告だった。



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― 新着の感想 ―
だろうな トッド、こいつとだけは絶対に打ち解けるのは無理だ カチュアは俺が貰ってやるから安心して逝ってくれ
分かり合えずとも仲間になるのを期待してたけど無理かー。
まあ生きてる奴を殺したく無いは100歩譲って理解できても、死人にすら情けかけて婚約者もいる一行を全滅させかける敵作っちゃうやべえ奴は排除しときたいわな。 トッド最悪の敵のイメージが強かったけど、スバル…
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