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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第八章 『ヴィンセント・ヴォラキア』
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第八章3  『三つの理由』



 離れの入口から外に飛び出し、薄く微笑んでいる男の前でスバルは立ち尽くす。

 あるいはその硬直は、この男を前にして最も愚かな選択だったと言えるかもしれない。しかし、あらゆる苦境を体験し、『死』すらも何度となく経験したナツキ・スバルにとってすら、その男の言い知れぬ不気味さには思考が白くなる。


 大罪司教にすら抱かない恐怖心、それに心を搦め捕られる感覚。

 トッド・ファングに、スバルはそれを抱かされてしまう。


「――――」


 聞こえた声に反射的に応じながら、立ち止まるスバルの傍らで困惑が生まれる。

 手を繋いだまま、スバルと同じ相手と対面させられたベアトリスだ。彼女以外の、タンザやイドラも立ち尽くすスバルを怪訝に見ている。

 その彼女たちに、とっさに警戒を呼びかけるべきと心は逸るが――、


「――カチュアさん!」


 と、スバルが震える唇を動かすより早く、高い声でレムがそう叫んだ。

 見れば、扉脇で振り返ったレムの薄青の瞳がトッドを――否、彼ではなく、そのすぐ背後へと向けられていた。

 トッドから視線を引き剥がし、そちらに意識を向けるのにスバルは苦労するが、それをやり遂げると、レムの呼びかけの対象がわかる。


 そこにいたのは、トッドの背中に隠れるようにした車椅子の女性だ。

 トッドの服の裾を摘まんでこちらを覗いている女性は、焦げ茶色の癖毛に疑り深く世界を睥睨する眼と、レムが口にした特徴と一致している。

 それ自体は喜ばしい――否、トッドの傍にいるということは。


「彼女から離れてください……!」


「うー!」


 スバルと同じ発想に至ったらしく、レムが声を尖らせ、トッドを睨みつける。そのレムの戦意に触発され、彼女にべったりのルイもトッドを見ながら唸った。

 トレードマークのバンダナを失い、持ち上げていた橙色の髪を下ろした状態のトッドだが、それで彼の残虐性や危険な発想力が失われることはないだろう。

 この状況においても、女性――カチュアを盾に、スバルたちを自分の意のままに操ろうと考えるのは容易に想像がついた。

 もちろん、そうして言いなりになった先に待ち受ける顛末が『死』であることは、スバルのこれまでのトッドとの交戦経験から明らかで。


「……ここからだと」


 仮に死んだ場合、どこまで巻き戻るのかを確かめていない。

 幸いとも厄介とも言えるが、この帝都攻防戦へ介入し、城壁を打ち破って都市の中へ乗り込む一連の中で、スバルは一度も命を落とすことがなかった。

 そのおかげというべきかせいというべきか、『死に戻り』の起点がわからない。


 ルイやベアトリスと会えて、レムやフロップとも合流できた。

 正直、うまくいきすぎなぐらいうまくいっているこの状況、整えるのにどのぐらいのリトライを必要とするか、計算ができない。

 もっとも――、


「――必要ならやる」


 誰を助け、生き残らせ、未来へ進むのかを決めたのであれば、スバルはそれを確実に掴み取ると固く心に決めている。

 だからこそ、『剣奴孤島』では関わった剣奴の全員を救い出し、プレアデス戦団の仲間として今日まで戦い抜いてこられた。――諦めない、絶対に。

 そのために乗り越える障害が、心を凍らせる恐怖の象徴だとしても。


 そう、スバルは乾きかけた唇を舌で湿らせ、断固たる行動を――、


「ま、待ちなさい! 違うから! 私は捕まったわけじゃないわよ、レム!」


「カチュアさん?」


「誤解……そう、誤解なの! トッドは、あんたたちの敵じゃないわ!」


 そう声を大にして、車椅子の車輪を回しながらカチュアが前に出ようとする。が、そのカチュアの細い肩を押さえ、トッドがその前進を阻んだ。

 カチュアは勢いで前のめりになりながら、涙目でトッドを睨み、


「ちょ、何すんのよ! 危ないじゃない!」


「危ないのはお前の方だ。勝手に前に出るんじゃない」


「だ、誰のために私が言ってやってると思ってるのよ……!」


「もちろん、俺のためだ。だからって、惚れた女が危ない真似するのを見過ごせるか」


「う……」


 顔を赤くし、勢いで噛みついたカチュアがその言葉に黙らされる。

 それは羞恥心やバツの悪さが理由ではなく、相手が自分を思いやっているというのが伝わってくる物言いだったことが大きい。

 欺瞞を覚えない真っ正直な発言、それがスバルには信じ難かった。


「カチュアさん、もしかしてその方が……」


 小さく息を呑んで、恐る恐るといった体でレムがカチュアにそう尋ねる。はっきりと問いの内容を明言しなかったが、聞きたいことの焦点は明白だ。

 その戸惑いと不安の表れか、傍らのルイの肩に置かれたレムの手は弱々しい。そんなレムの問いかけに、カチュアは唇を噛んだまま頷いた。


「あんたに、何度も言ったでしょ。……私の、その、あれよ」


「婚約者だ」


「それよ……っ」


 躊躇った断定をされて、カチュアがはっきりとレムの問いにそう答える。

 そう聞かされたレムの瞳が揺らぎ、彼女ははっきりと動揺する。そのレムと同じだけの衝撃を受け、スバルもまた激しく動揺した。


「婚約者……」


 出会いからその後の出来事まで、あまりにもトッドとはいい思い出がないが、彼の狂気的な用心深さと容赦のなさとは別に印象的だったのが、『婚約者』の話だ。

 帝国兵として派兵され、『シュドラクの民』の集落がある森の傍に陣を張っていたトッドは、その婚約者の下へ戻りたいとしきりに口にしていた。

 それも、その後のトッドとの血腥いやり取りを重ねたことで、彼の人間性めいた部分への期待が薄れたことで、頭の片隅に置かれるだけの記憶となっていたが――。


「実在、したのか……」


 と、そうこぼしてしまうぐらい、トッドと愛しい婚約者とは釣り合わない単語だ。

 そのスバルの独白が聞こえたわけではないだろうが、レムが厳しい目に疑念を宿してトッドを見据え、


「本当に、あなたがカチュアさんの婚約者なんですか?」


「ああ、本当だよ。さっきも言ったが奇縁だな。まさか、カチュアとお前さんが宰相の屋敷で仲良く囲われてるとは」


「――――」


「そんな目をしないでくれ。そりゃ、俺だっていい出会いだったともいい関係だったとも言わないが、こんな状況だ。お互い、遺恨は捨て去るべきだろ?」


 押し黙るレムの眼差しに肩をすくめ、いけしゃあしゃあとトッドが言い放つ。それから彼の視線が、レムではなくこちらへ、スバルの方へと向いた。

 息を詰め、スバルはトッドの視線を受け止める。冷たい汗が、背中を流れた。

 しかし――、


「その坊主の言う通り、な?」


「――ぁ」


 片目をつむり、ウィンクするトッドの態度に、敵意はまるで感じられなかった。

 言葉通り、この状況から抜け出すために協力し合おうと、そう提案する側の義務とでも言うかのように、敵意や警戒を手放し、手を差し伸べてきている。


「旦那くん、奥さん、この兵士くんとは?」


 押し黙ったスバルとレムの様子に、フロップが柔和な顔立ちに真剣味を宿した。

 その彼の問いかけに、スバルは自分の今の外見のこともあり、迂闊なことを言えない。その代わりに、レムが「彼とは」と言葉を継いで、


「以前、何度か接点が。そのたびに、命を危うくされましたが」


「え……」


 カチュアの方を見ながら、レムが言葉を選ぶ努力をしながらも事実を伝える。それを聞かされ、カチュアは目を見開いて、すぐ傍らのトッドを見た。

 わなわなと唇を震わせて、彼女は婚約者の横顔に問いかける。


「ほ、本当なの? トッド、あんた、レムのことを……」


「そのお嬢さんの話なら本当だ。言っただろ、遺恨があるって。軍人なんだ。誰かに武器を向けることもある。そういう、望まぬ事態の一個だな」


「望まぬだなんて、勝手なことを……っ」


「城郭都市でのことなら、お前さんの連れを危険視した結果だ。その前のことなら、俺も他の兵士と同じで命令を受けただけ。お前さんに個人的な恨みはないさ」


 言いながら、トッドが腰に差した斧を取る。一瞬、スバルたちの全身に緊張が走ったが、彼は片手を伸ばしたまま、それを気負わず放り投げた。

 放物線を描いた斧が地面を滑り、スバルたちの足下に転がり込んでくる。


「あーう」


 その斧をルイが拾い、スバルとレムの顔を交互に見てくる。

 どうやら、斧の形をした爆弾というわけではなく、純粋な武装解除であるらしい。

 それを認めたスバルたちに、トッドはひらひらと上げた両手を振った。


「この通り、敵意はない。ただ、お互い睨み合いに費やす時間も惜しいのは同じだろ?」


「……奥さん、僕も建設的な話をすべきだと思うが、どうだろう」


「――――」


 ぎゅっと自分の腕を抱いて、レムがスバルの方をちらっと横目にする。

 トッドに対する警戒、その脅威度を共有できているのはスバルとレムの二人だけだ。面識自体はルイもスバルたちと同じタイミングから、フロップも城郭都市でトッドから襲撃を受けた立場だが、その危険さが発揮された周回はどれも二人の中にはない。

 故に――、


「ベティーは、スバルの決定に従うのよ」


 スバルと手を繋ぎながら、ベアトリスが進退に拘らず、選択する勇気だけをくれる。

 彼女だけではない。タンザもイドラも、スバルの選択に未来を委ねている。――この二人と、トッドが同じ場に居合わせているだけでも心臓が凍りそうだ。

 できれば、一秒でも早く、トッドの存在を自分たちから遠ざけたいが――、


「……カチュアさんはレムの友達だろ。できるだけ大勢で、無傷で脱出したいんだ。ここで俺たちがいがみ合ってる暇なんてない、と思う」


「――。わかり、ますが」


 俯いて唇を噛んだスバルに、レムも悔しげに頬を硬くする。

 だが、下手に拒んでトッドがどんな行動に出るかもわからない。それはレムも共通で抱ける不安だ。居合わせた以上は、手元から離せない。

 いつ起爆するかわからない爆弾を放置できないのと同じ理由だ。


「し、心配しなくても大丈夫よ! こいつ、こいつとんでもなくしぶといんだから! きっと、私もあんたたちも、みんな逃げるのに役立つから」


「おいおい、婚約者をゾッダ虫か何かみたいなたとえ方をするもんじゃないぞ」


 そのスバルとレムの不安な様子に、カチュアが拙くもトッドをフォローする。そのカチュアの擁護に苦笑し、それからトッドは手で自分の髪をかき上げながら、


「まぁ、受け入れてもらえたんならその恩は返さないとだ。どうも、俺の扱いが軽いカチュアも見返してやらなきゃならんからな」


 などと、頼もしい好青年めいたことを口にして、抜けない緊張感に喉を鳴らすスバルの気持ちを余所に、こちらへ合流してくるのだった。



                △▼△▼△▼△



 ――この状況において、スバルがトッド・ファングの存在を拒めなかった理由は三つ。


 一つ目は、トッドの婚約者であるカチュアの存在だ。

 この屋敷での生活で、レムと友好的な関係を築いたらしい彼女は、その口の悪さと裏腹に善良な人間で、正しくスバルたちに悪意のない手合いだとわかる。見たところ、彼女はトッドの人間性の根っこの部分を理解しているとは思えないが、ここでスバルたちが何を訴えたところで、婚約者とスバルたちのどちらを信じるか、分の悪い賭けになる。

 ならば、トッドへの嫌悪感を理由に、カチュアとは別行動を選ぶのか?

 スバルがレムのために製作した車椅子――あれと比べても見劣りしない、高性能な車椅子に体重を預ける姿はいじらしく、放置なんてとてもできない。

 カチュアとトッドがニコイチである以上、トッドを拒めないのは道理だ。


 二つ目は、『死に戻り』を重ねたことにより、トッドの行為がいずれも未遂な点だ。

 冷酷な性格で冷徹な判断力を持ったトッドは、これまでに幾度も、異なる局面でスバルを追い詰め、スバルの命を――否、時にはスバルの大事な仲間の命を奪った。

 今、同行するフロップも、タンザやイドラまでも、トッドに殺されたことがある。

 スバルがトッドに対して嫌悪と恐怖を強く抱くのは、おそらく、彼がスバルがこの世界で出会った相手の中で、一番スバルの目の前で仲間の命を奪ったからだ。

 だが、『死に戻り』でそれらの事態を未遂にした結果、トッドはスバルたちにその凶刃を向けはしても、それ以上の危害を加えていない状態になった。

 シュドラクの森の大火災も、城郭都市での執拗な襲撃も、剣奴孤島での剣奴の大虐殺もいずれも起きていないのだ。――ただ、彼にはそれが実行可能というだけで。


 そして、最後の三つ目だが――、



「――胸から上を狙え! 足下は時間稼ぎにしかならん!」


「ちっ、ベアトリス!」

「わかってるのよ! ミーニャ!」


 鋭い声の指示を受け、スバルとベアトリスが同時に正面へ手をかざす。

 その掌の向けた先、地面に打ち倒された顔色の悪い敵――ゾンビの姿が複数、そこへ目掛けて生み出された紫矢が放たれ、巻き上がる粉塵と共に敵が結晶化する。

 いくらか、急所の命中を免れたものもいたが――、


「生憎と、胴体がその状態になったんなら……」


「頭部が無事でも、砕かれるのみです」


 その、即時の戦闘不能に陥らなかったゾンビに、落ちてくるタンザの踵が命中、結晶化した胴体が砕かれ、四肢の吹き飛んだゾンビには為す術がなくなった。

 転がっていったゾンビの頭部、そこからの再生は始まらず、やがて無事だった頭部も砂のように色を失い、崩れて消える。

 その光景には、胸の痛くなる思いを感じなくもなかったが。


「これで、裏通りの障害は排除できたはずだ。お前さんたちの魔法、連中に効果覿面で助かるよ。余力は?」


「……まだまだいけるのよ。一万でも十万でも余裕かしら」


「そいつは頼もしい。でも、あまり前に出すぎるな。お前さんたちが生命線だからな」


 道を塞ぐ障害になるゾンビ集団、それの排除に成功したところで、鮮やかな手並みだと称賛され、スバルとベアトリスは複雑な心境になる。

 ゾンビたちを一方的に倒していることは、精神的にも正解と言える選択だ。一方で、それを称賛してきた相手がトッドというのが、何とも苦々しい。

 と、そんなスバルたちの心情を余所に、


「屋敷でカチュアと合流するまで、あの顔色の悪い連中とは何度も行き合った。どうも正規軍と叛徒、どっちの味方でもないようで、話の通じない奴らだ」


「そうなのかい? だが、屋敷で旦那くんたちが倒してくれた彼らは、言葉が通じていたようだったけれど」


「言葉が通じると話が通じるは、似てるようで全然違うだろ? 連中は聞く耳を持たない上に、頭を潰しても首を刎ねても死なない。とことん敵に回したくない厄介さだ」


「死なない兵隊……シュバルツ様のお連れの子が話していたように」


 ゾンビの手強い特性を聞かされ、フロップとタンザが思案する。

 ただし、彼女らが検討材料としているのはトッドの意見であり、そしてそれはスバルも無視のできない精度の高い分析なのであった。


「要するに、あいつらは馬鹿正直な手段じゃ倒せない。剣だの鎗だの、武器はあくまで気休めだ。本命は……」


「旦那くんたちの」

「魔法ですね」


「俺も、預かった精霊で炭になるまで焼いた連中は起き上がってこなかった。効果的なのが魔法に限らず、普通の火でもいけるのかは検証不足だがな」


「――――」


「まぁ、一応、首から上を叩いた奴の復活は他の部位を壊された奴より長くかかる。足は意外と早く再生するから、移動力を奪うのは期待しないようにな」


 そうした忠告までするトッドには、彼の本性を知るスバルですら感心させられる。

 一団へ受け入れる話がまとまると、トッドはこうして惜しみなくゾンビの情報を共有し、吐き出して寄越した。

 当然、彼もスバルたちと同じように、多数のゾンビがうろついている帝都を移動し、カチュアとの合流を果たしたのだ。それを成し遂げたトッドならば、ゾンビに対しても有効的な作戦や、抜け出すのに役立つ知識を用意しているかもしれない。

 その期待こそが、スバルがトッドを迎えた三つ目の理由だった。


「とはいえ、ここまでとは……」


 ゾンビが発生したのは、スバルたちが城壁を乗り越えてからすぐのことだ。

 一瞬、スバルは自分たちがゾンビ発生の引き金を引いたのではとも思わされたが、そこは考えても答えの出ない不安だと、踏み潰して進むことを決めた。

 ともかく、ゾンビ発生から現在まで、スバルたちとトッドとで考察に使えた時間は同じはずなのに、生存のために必要な情報の取得の深掘りが進みすぎている。


 ゾンビに限らず、何に対しても、誰に対しても、どこであろうともそうした姿勢を崩さないことが、トッドのあの異常な決断力と実行力を後押ししているのだ。


「カチュアさん、大丈夫ですか?」


「え、ええ、得体の知れない連中に震えてる以外はね。……あんたこそ、平気なの?」


「プリシラ様やマデリンさんのような、勝ち目のない相手の方がよほど怖いですから」


「嫌な肝の据わり方だわ……」


 道を作るため、少し先を進んでいるスバルたち戦闘班に遅れ、レムとカチュアはゆっくり後ろをついてくる。カチュアの車椅子をレムが押し、無防備な彼女たちをルイが落ち着きなく周りを見回しながら護衛している形だ。

 足場の悪い道や、ゾンビの集団を迂回する順路を選んでいるため、疾風馬のイドラが先導する偽皇太子たちの速度も合わせると、移動速度は速いとは言えない。

 それでも着実に、帝都の城壁には近付けている。


「旦那くん、浮かない顔をしているね。やはり、兵士くんが気になるかい?」


「フロップさん……」


 嬉しいことと苦いことと、同時にやってくるそれに複雑なスバルの表情を、相変わらず周りをよく見ているフロップが見抜いてくる。

 目敏い彼のことだから、スバルがトッドを必要以上に――少なくとも、現時点の情報量では必要以上に警戒しているのがフロップにはお見通しだろう。

 もちろん、『死に戻り』に抵触するため、フロップが殺された事実を当人に打ち明けるなんて真似はできないが。


「フロップさん、さっきも言ったけど……」


「兵士くんの動向に十分注意を、だろう? ちゃんとわかっているよ。タンザ嬢が、ああしてできるだけ兵士くんの傍にいるのも、君の頼みを聞いてのことだ」


「――――」


「小さくなって、顔は幼くなったのに考え方が大人びたというか、慎重派になったものだね、旦那くん。君はいつでも全力で悩めるのが美徳でもある。でもね、城郭都市を攻略するために女装を提案する、そんな君も僕は好きだよ」


 柔和で穏やかな笑みを覗かせるフロップに、スバルは鼻白み、それから苦笑した。

 こんな見た目でなんだが、元の体と比べても年上のフロップの兄力を思い知った気分だ。ミディアムがフロップを尊敬してやまないのも、当然と思える。


「――っ、スバル、足下を見るかしら」


「足下……って、うわ」


 その話が一段落したところで、スバルはベアトリスに手を引かれ、自分の足下――傾斜のついた地面を水が流れ、靴裏を浸しているのを見る。

 水晶宮の向こう、大量の水を溜め込んだ貯水池が破壊され、都市へ流れ込む水嵩が本格的に上がり始めている。敵は帝国兵やゾンビだけでなく、水もそうなのだ。

 撤退にも長く時間をかけすぎれば、いずれは勢いを増した水に呑まれる――。


「そうなる前に出口に辿り着かないと、全員揃っておしまいだ」


 そのスバルが抱いた危機意識を、こちらへやってきたトッドがはっきり言語化する。

 わずかに身を硬くするスバル、その警戒に気付いているのかいないのか、トッドは返却された斧の先を水晶宮の方へと向けて、


「モグロ一将も、『雲龍』相手じゃ分が悪そうだ。負けるのも時間の問題だろう。一対一ならまだしも、二対一ってのが致命的……一将が倒れたあと、敵はどう動く?」


「どうって、わかるのか?」


「『雲龍』の方はともかく、連携してる飛竜乗りは見たとこ死体だ。ここまで、死体共は俺たちを見かけるなり、攻撃を仕掛けてくる。つまり……」


「ゾンビたちは、生きてる人間を殺そうとしてる」


「腹立たしいが、そういうことだ」


 首をひねるトッド、彼の言いたいことがスバルにもわかる。

 ゾンビたちの目的は、出くわした生者を片端から亡き者にすることにある。そのために大勢を殺せる手段があるなら、それを選んだとしても不思議はない。

 あの、城の目前で白い龍と激突している石造りの巨人、あれが負けた場合、ゾンビたちは貯水池の壁を完全に破壊し、水を一気に溢れさせる。

 そうなれば、スバルたちも帝都の人間も、あるいは外で激突している正規軍と反乱軍の人々もまとめて、根こそぎ押し流される。


「腹は立つ。が、そのゾンビって呼び方はいいな。何かしら呼び名は必要だ。この先はゾンビって呼ばせてもらおう」


「そのゾンビについて、お前はどう思っているのよ」


 ふと、沈黙していたベアトリスがトッドに向かってそんな質問を飛ばした。

 ゾンビ、と何度か呟いて口に馴染ませていたトッドは、ベアトリスの問いかけに怪訝そうな顔をして、


「どう思うって?」


「ここまで、出くわしたゾンビの大半はお前と同じ帝国兵かしら。格好を見ればわかるのよ。その、味方を手にかけて思うところは……」


「まず、味方じゃない。服装が同じだけで、死んだら軍人でも何でもない。厄介な障害って以上の認識はいらんだろう」


「――――」


「奴らが誰の手先で何が目的かなんて話、今生き残るのに大事なこととは思わないぞ。そういうのはお偉方が考えて答えを出すことだ」


 平然とそう返され、ベアトリスが無言で会話の打ち切りに同意する。

 その態度にトッドは肩をすくめると、改めてスバルの方を見やり、


「頼もしい相方だが、精神的にしんどそうならよく話した方がいい。存外、腹の中身を吐き出すだけでもマシになるぞ」


「……覚えとく」


 重たいスバルの答えに、トッドは「そうしろ」と言葉を残して前進。

 先々の道の斥候役を務め、ゾンビの配置と撃退法を練り、スバルたちがそれを検討して実行し、逃走路を確保する。現状、うまくいっている策だ。

 ただし――、


「スバル、しんどそうならベティーに何でも話すかしら」


 そうベアトリスが顔を覗き込んでくるように、精神的にしんどいのはスバルの方だ。

 それはトッドに強い警戒心を割き続けているというのもあるし、ベアトリスの魔法に自分の内のマナを使われているというのもある。

 だが、最も大きい心理的な負担は、ゾンビを倒すこと。


 喋り、生前の意思に近いものを有するゾンビを打ち壊すのは、辛い。

 トッドのように、ただ道を阻むカカシだと割り切れればどれほどいいか。


「僕は、それも旦那くんの美徳だと思うけれどね」


「……どうかな。またうじうじしてるって、レムに尻蹴飛ばされそう」


「奥さんは、そんなことしないよ」


「――――」


「しないとも」


 不思議と、フロップの重ねてくれた言葉には説得力があった。

 武力も魔法も持たず、言葉だけでこの残酷な帝国を生き抜いてきたフロップ。彼の有する唯一最大の武器、人徳こそがそう思わせるのだろうか。


「フロップさんのおかげで、ちょっと元気出たよ」


「それはよかった! 僕は何にも役立てない分、旦那くんに凹まれてしまったら助かる手段が見つからないからね! おっと、でも」


「でも?」


「僕のおかげで、というのはちょっとドレスちゃんの機嫌を損ねたかもしれないね」


 そのフロップの指摘に、スバルが「え?」と振り向くと、そこにはスバルと手を繋いだまま、そのまん丸な可愛い瞳をじと目にして睨んでくるベアトリスがいた。

 彼女の反応にスバルが頬を強張らせると、ベアトリスは頬を赤くして、


「気遣ったベティーを放置して、いいご身分なのよ。スバルはまたそうやって、すぐに顔のいい男と仲良くしてベティーを蔑ろにするかしら」


「すげぇ風評被害! いや、決してお前を蔑ろにしてるわけじゃなくてね? そもそも、フロップさんとかセッシーが例外なだけで、イドラとかヴァイツは味わい深いけど美形ってわけじゃ……ヒアインは愛嬌があるけども」


「言い訳は結構なのよ!」


 ふいっと顔を背けられ、スバルは強めに胸を抉られたような痛みに呻く。

 心配してくれていたのはベアトリスも同じ。フロップの方が言葉がうまかったとはいえ、申し訳ないことをしてしまったと心から思う。

 何としても、この場を逃れたあとで誠心誠意のご機嫌取りをしなくては。


「とりあえず、今はひたすら撫でたり、掌を揉んだりしておくしかできねぇが……」


「……こんな状況で何をしてるんですか、あなたは」


「わうっ」


 後ろから、そう声をかけられて驚くスバル。そのスバルに訝しむ目を向けるレムは、きょろきょろと周りを警戒するルイを腰にしがみつかせたまま、


「そんな姿になっても、あなたらしさは変わらないんですね」


「お? 俺らしさがわかるぐらいには、俺のことわかってくれてるってこと?」


「訂正します。小さい姿になった方が、前よりも遠慮がなくなっています」


「そこは子どもの奔放さが出てると思って、笑って見逃してほしいところだな」


 手厳しいレムの意見も、しばらく離れ離れだったスバル的には嬉しい刺激だ。

 知らず、目尻の下がりそうになる表情を意識的に引き締め、レムを不安がらせないように注意しなくてはならない。

 それに加えて、不安がらせたくない相手といえば、


「ねえ、トッドの奴は迷惑かけてない? あいつ、ちゃんと役に立ってる?」


「――――」


 そう、レムの押している車椅子で、おどおどと尋ねてくるカチュアがそうだ。

 監禁状態から解放され、自力でスバルたちの撤退についてくる偽皇太子たちと比べても、自力で移動できないことの無力感はカチュアも相当味わっている。

 婚約者であるトッドに対し、素直ではない好意を抱いているのもわかるので、自分だけでなくトッドのことも、ひどく心配している様子だ。

 その純粋なカチュアの憂慮に、スバルはトッドの向かった路地の先を振り向き、


「ああ、役立ってくれてる。鼻も利くし、目もいい。指示も的確で、助かってるよ」


「そ、そう。それならいいんだけど……」


 目を伏せ、そう安堵に胸を撫で下ろすカチュア。

 癪な話だが、今のはカチュアを安心させるための出任せではなく、ここまでのトッドの働きを正当に評価したものだった。

 実際、一兵士としてのトッドの働きは申し分なく、現状の足手まといを大勢連れて逃げなくてはならない状況において、彼の索敵と順路選びは生存に大きく貢献している。

 ゾンビ相手に有効打を持たないが、有効手段を持ったスバルとベアトリスの二人を当てるための用意が抜群にうまい。――スバルの、必要以上の精神的な損耗以外は、トッドがいることのデメリットはないに等しかった。


「――――」


 ――否、そのカチュアとのやり取りに複雑な様子のレムも、スバルと同じようにトッドの存在に対して精神的な負担を強いられている。


「このまま……」


 本当に何事もなく、自分たちはこの面子のまま、帝都の外へ逃げられるのか。

 自分でもどうあってほしいのか、答えのわからない疑問にスバルが悩んでいると――、


「――カチュア、もっと下がってろって言ったろ。こっちに追いつくな」


 と、そこへ斥候として出ていたトッドが戻り、スバルたちといるカチュアを見つけて、そう婚約者に注意の言葉を飛ばす。

 カチュアはそのトッドの言葉に、彼が無事なことへの安堵を表情に浮かべかけ、すぐにかけられた言葉に反発する表情になり、それからまた表情を変えた。

 わずかに、トッドの様子を憂えるように。


「トッド、何かあった?」


「……やれやれ、こういうときだけ勘が鋭い女だな」


 そう言って、トッドはバンダナのない髪を手でかき上げると、スバルたちの方を見ながら、自分が目にしたもののことを明かした。

 それは――、


「――この先、ちょっと手強そうなゾンビが居座ってた。あの単眼族、たぶん、今日の攻防戦でそこそこ目立ってた奴だったはずだ」と。



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― 新着の感想 ―
[良い点] トッドが頼もしい。怖いけど。 [一言] イズメイルさん、名前出たのに一瞬で退場したけどここで出てくるのか。
[良い点] トッドさんを受け入れたくないのに受け入れざるを得ない状況でくるしんでるスバルくんが素敵です! トッドさんもトッドさんで心の中を描いてくれないのでこいつ!本当に信用できんのか?と警戒てきてい…
[良い点] 更新ありがてぇぇぇぇぇ [一言] まじか、亡くなって間もないやつも復活するのか。本当にゾンビだな
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