第七章110 『言祝ぎ』
獣爪で強く地面を噛んで、大地を引き抜くような勢いで体を前に飛ばす。
知恵を巡らせ、武魔を振るい、この戦場の支配を自陣に寄せようと奔走する仲間たち。その一助となるべく、フレデリカ・バウマンは戦場を駆け抜ける。
美しい金毛の女豹は風を通り越し、この戦場を駆け回るものたちの中で『二番目』の速さで伝令の役目を果たし続けた。
圧倒的に質で勝る帝国の正規兵たちに対し、言うなれば烏合の衆である叛徒たちが曲がりなりにも膠着状態に持ち込めたのは、オットー・スーウェンの拾った情報と、その情報を運用するアベル、そして素早く伝達できるフレデリカの貢献が大きい。
その貢献度に対する自覚の有無はともかく、このときもフレデリカは重大な情報を握って土を蹴っており、それがもたらす影響は殊の外大きかった。
それは――、
「――大地に異変の兆しありと、わたくしの主と弟からの伝達ですわ」
息を弾ませ、疲労の募る体を押しながら辿り着いた本陣、そこで獣化を解いたフレデリカは素肌を晒すのも厭わず、そう急いで報告する。
それは戦場を駆け回る最中、激戦を生き抜いたガーフィールが、その戦果を誇りもせずに血相を変えてフレデリカに伝えた言葉だ。
ボロボロの血塗れで、フレデリカの想像を絶する死闘を乗り越えたガーフィール。弟の奮戦を姉として称賛したい気持ちは、その必死な訴えの前に先送りにされた。
幸い、ガーフィールの傍には、飛竜隊の援軍と一緒に到着したロズワールの姿があり、適切に介助してくれるだろう。恋敵にそうされるガーフィールの心情はともかく。
「――。具体性に乏しいな。詳細は?」
「わかりませんわ、弟の加護による直感としか。ただ……」
「ただ?」
「わたくしの弟の直感は、よいことも悪いことも当たりますわ」
野生の勘とでもいうべきか、野生だったことがないにも拘らず、ガーフィールの直感は獣の如く優れている。日常ではうまく働かず、ラムの前で醜態を晒すことの多いガーフィールだが、事が戦いに関わることなら信頼性はピカ一だ。
だからこそフレデリカも、遮二無二構わずにこうして本陣に駆け付けた。
「――――」
そのフレデリカの訴えを聞いて、思案げにするのは美貌の麗人たるセリーナ・ドラクロイ――飛竜隊の援軍を連れ、こちらの味方になった帝国の上級伯だ。
聞けば、ロズワールが協力を求めにいった知己というのが彼女であるらしく、ロズワールの知人なのでおそらく性格には難がある女傑だ。ただし、これもロズワールの知人の共通点だが、性格はさておき、能力的な優秀さは疑いようがない。
それはこうして現在、大軍となった叛徒の動きを律する本陣で、不在の総大将の代理を任されている点からも明らかだ。
「フレデリカ様! 羽織るものであります!」
と、考え込むセリーナの横顔を窺っていたフレデリカの肩に、後ろから赤いマントがかけられた。ヴォラキア帝国の『将』が羽織ることを許されるマントだが、畏れ多くもそれをした人物は、そうした装飾品の意味に通じていない。
なので、純粋な善意が嬉しく、フレデリカは微笑んだ。
「ありがとうございます、シュルト様。お見苦しくて申し訳ありません」
「そんなことないであります! フレデリカ様は頑張って、たくさんの人の間を走り回ってきてくれたであります! とても立派だとボクは思うであります!」
マントをきゅっと引き寄せ、お礼を言ったフレデリカの前でかしこまるのは、小さい体いっぱいに愛嬌を詰め込んだシュルトだった。
本陣に残され、戦況をハラハラと見守るしかないシュルトの気持ちは、伝令の役目を果たせるフレデリカ以上に辛いものがあるだろう。
それでも、戻ったフレデリカにねぎらいの言葉がかけられるのだから立派だ。
「ン、フレーも偉イ。ウーもミーたちと一緒に暴れたかっタ」
そのシュルトの隣では、黒髪の先を桃色に染めたウタカタが腕を組んで頷いている。
彼女の好戦的な発言に「そ、それはどうでしょう」とたじろぎながら、フレデリカは改めてセリーナの方へと意識を向けた。
セリーナは自分の顔の左側、そこに大きく刻まれた白い刀傷を撫でながら、
「ヴォラキアの大地に異変の兆し、か。ロズワールが重用しているものの忠言を無下にするのは、いかにも愚か者の采配だな」
「では……」
「業腹だが、『星詠み』と消えた男が言い残していった言葉とも符合する。私にしか果たせない大役を任せるなどと、いかにも身勝手な言い分だったが。まるで――」
「まるで?」
「自分が皇帝閣下であるかのような傲慢さだった。それを討ちにきた立場の分際で」
腕を組んだセリーナが、怒りとも呆れともつかない複雑な表情で嘆息する。
彼女が話題に挙げたのは、鬼面の男――アベルのことだ。本来、叛徒の全体指揮を担当していた彼は本陣を離れ、その役割をセリーナへと預けた。
その際、どのようなやり取りがあったのか、セリーナから詳細は聞けていないが。
「ここ離れる前、アベル様はセリーナ様になんと言い残されたのですか?」
「――。決着は近い、だ。ただし」
そこでセリーナが言葉を区切り、切れ長の瞳を今度は憤懣が満たした。そのまま、苛烈な姿勢で知られる『灼熱公』は、形のいい顎で戦場を示し、
「決着は帝都と叛徒、いずれの側にも傾かないまま、有耶無耶になると」
「有耶無耶……ですの?」
口にするのも、というセリーナの表情の意味がわかり、フレデリカも困惑する。
これだけ大規模な戦いが起こって、その決着が有耶無耶になるとは如何なる事態が予想できるだろうか。そもそも、戦場の指揮官を委ねる相手にかける言葉として、努力が無駄になるという意味でも捉えられる言いようは不適切だろう。
それを言い残したアベルは致命的に、人心がわかっていないと言わざるを得ない。
ともあれ――、
「決着ということは、戦いが終わるということでありますか? それなら、プリシラ様やアル様、ハインケル様も戻られるということでありますよね?」
「シュルト様……」
くりくり眼に憂いを浮かべ、シュルトが小さい体で背伸びして戦場を見やる。
少年の目が向くのは、極限状態となった戦場の中でも、特に厳しい環境を作り出している一角――赤い空と白い空、その二ヶ所の戦場はフレデリカも巡れなかった。
ただ近付くだけで、体がもたなくなるという確信が獣の本能に与えられたからだ。
「――――」
それだけに、フレデリカは気休めの言葉を気軽に発せない。
あの空間で起こっていることは、フレデリカの想像を超越した現象のはずなのだ。そう忸怩たる思いで、フレデリカが目尻を下げていると、
「シュー、心配するナ。プーもヨーも強イ。ミーとかターといい勝負」
「ウタカタ様……」
「ウーもちゃん付けでいイ」
「ウタカタちゃん様……」
胸を張ったウタカタが、その手でシュルトの桃色の癖毛頭を乱暴に撫でる。
子どもらしく根拠のない主張だったが、迷いがない分、シュルトの胸には響いた。ぶんぶんと首を縦に振るシュルトの様子に、フレデリカは唇を綻ばせる。
それから改めて、セリーナの方に向き直り、
「セリーナ様はどうされるおつもりですの? 弟の直感を捨て置かないのであれば、アベル様の言いようにも対処が必要ですが……」
「迷いどころだ。無論、迷っている暇はない。――見ろ」
再び顎をしゃくったセリーナに、フレデリカは「え?」と戦場に視線を向けられる。そのフレデリカの翠の瞳に、遠目にもわかる戦場の異変――暴れる巨大な人型の城壁、『九神将』の一人が背を向け、帝都の中へと飛び込んでいく。
「あれは……水晶宮へ向かっている?」
「ますます、あの男の言う通りか。――ヴォラキアが敵になるという、お前の弟の発言の真意はわからんが」
『鋼人』モグロ・ハガネの暴挙に心当たりがある顔で、セリーナが顔をしかめた。
そして――、
「全員に伝えよ。――水晶宮に異変があり次第、戦闘行為を中断。この戦いを、流した血を、こぼれた命を無為にする有耶無耶に備えよ、と」
△▼△▼△▼△
――甲高い音を立てて、青龍刀と斧が、蛮刀が、空中で打ち合い、火花を散らす。
容赦なく、相手の命を奪うために振るわれる鋼。
感覚が麻痺しつつあったが、それが自分に向けられたことで改めて、命を脅かされることの恐怖と実感が、骨と皮の内側からぶわっと湧き上がってくる。
自分が精神的に脆いと思ったことはない。むしろ、同年代の子と比べれば、潜ってきた修羅場の経験も合わせ、胆力に恵まれている方だと思ってきた。
しかし、爆破で焙られた肌がピリピリと痛み、緊張に肺が縮んだような息苦しさを味わえば、そうした自分への信頼の土台は揺らぎそうになる。
その、そう思わされる最たる理由は――、
「――っ」
戦いの最中にも、こちらへと向けられる睥睨する眼差し。
こちらのことを忘れていないと、そう刃物を突き付けてくるような男の視線が、ペトラの息苦しさを高める最大の要因だった。
斧を振るう、頭にバンダナを巻いた帝国兵。
名前もわからないその人物こそが、目下、ペトラたちを苦しめる難敵の正体だ。
生きていれば、いつだって死とは隣り合わせだ。
どんな状況でも、瞬きの直後に状況が一変することはありえる。その理不尽の一例が目の前の男であるように思われ、ペトラは強く歯噛みした。
地べたに膝をついて、呼吸を荒くするオットーを支える。緊急避難用に使った魔石の衝撃、その大部分を引き受けたオットーの疲労は重い。
だからこそ、強きも弱きも区別なく命を懸ける戦場で、ペトラは弱音を吐くわけには決していかなかった。
「うりゃあ! アルちん!」
「おうよ、ミディアム嬢ちゃん」
その、血の香りがする戦場に不釣り合いな高い声と、気抜けした声とが連携し、真っ黒な殺意の持ち主と剣戟が交換される。
小さな体を目一杯使うミディアムと連携し、帝国兵と渡り合うアル。その戦闘力は、敵を圧倒できるほどではなく、なかなか熾烈な削り合いが続いていた。
当のアルには悪いが、彼が援軍に現れたとき、ペトラは期待外れだと思ったのだ。
「ガーフさんとか、エミリーなら……」
単純に、信頼できる味方というだけでなく、実力的にも相手を圧倒しただろう。
そうではないアルの実力は、ペトラの見立てではあまり高い方ではない。ペトラやオットーのような非戦闘員と比べればマシでも、シュドラクの誰よりも弱い気がした。
ただし、それほど強さが傑出していないという意味では、相手の帝国兵も同じだ。
きっとあの帝国兵も、エミリアやガーフィール、帝国の『九神将』だとかいう人たちと比べたら全然弱い。それでも、ペトラは彼が恐ろしかった。
花についた虫を払うのに大げさな魔法はいらない。指で摘まんだり、ちょっとの水があれば払い落とせる。この帝国兵の態度には、そんな考えが見え隠れしていた。
この戦場でのペトラたちは、少しだけ働き者の小虫に過ぎないのだと――。
「――厄介だな、お前さん」
ふと、そう身を竦めるペトラの耳に、男の声が滑り込む。
一瞬、肩が跳ねるが、相手が声をかけたのはペトラたちではなく、自分と剣戟を交わしている二人、それもアルの方だった。
「だ! ぬお! おわりゃ!」
男が手にした斧を振るい、アルの太めの首を狙う。が、それが隻腕の彼の青龍刀に受けられると、そのまま身を回して二撃、三撃と重い攻撃が畳みかけられた。
アルはその連撃を、異様に危なっかしい手つきで何とか受け切る。
ちっとも安心して見ていられなくて、ペトラは「きゃっ」「わっ」と小さな悲鳴を上げてしまうくらいだった。
「何とか、アルさんを援護したいですが……」
同じ不安はオットーも抱いたらしく、声には疲労以上の焦燥があった。
鳴り物入りで現れたアルの戦いには緊迫感がありありで、今は運よくしのげているが、一歩違ったら死んでしまいそうな攻防が五回はあった。
それが六回目を数えられるかどうか、分の悪い賭けにペトラには思える。
「やっぱり厄介だ」
ただ、帝国兵の意見は、ペトラたちのそれとは少し違っているらしい。
危なっかしかろうと、攻撃をしのがれ続けた男は大きく後ろに下がり、そこで斧を持たない手を掲げ、アルとミディアムの方へと軽く振る。
直後、空中に火球が生まれ、それが猛然と二人へ目掛けて空を焼きながら走った。
「おいおいおいおい!」
「うきゃーっ!」
理屈はわからないが、真っ当ではない方法で従わされている精霊。
それが繰り出した火球が迫るのを、アルとミディアムが頭を抱えて逃げ惑う。二人を外れた火球は周囲の木々に、地面の草むらに燃え移り、炎が膨れ上がった。
「マズい……っ」
そうオットーが呟くのもわかる。
見れば、火球がもたらした炎はアルたちを焼かなかったが、代わりに周囲を燃やし、帝国兵と向かい合うペトラたちを取り囲んで逃げ道を塞ごうとしている。
メラメラと燃え上がる炎が円陣を作り、そこに閉じ込められた形だ。
外れても、こうして逃げ道を塞ぐのが帝国兵の狙いだったのだろうが、その状態に歯噛みするペトラたちを余所に、相手は首を傾げた。
「気に入らんな」
その静かな、状況にまるでそぐわない一言に「あぁ?」とアルが声を上げる。
彼は手にした青龍刀で、燃え上がる周囲を示しながら、
「これだけやっといて何言ってやがんだ。資源を大切にしろ、資源を。こうやって人間がヘロヘロで深呼吸しても大丈夫なように、植物がどれだけ苦労して酸素を……」
「ここまで、お前さんを六回くらい殺せたはずなんだが、一回も殺せてない。絶対よけられないところに放り込んでも、だ。気持ちが悪い」
「なんて言われようだ。今日は厄日だぜ、まったく」
アルの応答に、眉を顰めて男が不信感を募らせる。
アルの実力の底がわからず、帝国兵はかなり困惑している様子だ。正直、あの人物と同意見なのはとても嫌悪感があるが、ペトラもおんなじ疑問をアルに抱く。
アルは死にそうなのに、それでも死なない。
帝国兵の繰り出す攻撃に対応してはいるのだが、危なっかしい動きで、何とか致命傷だけは避けている。――致命傷だけは、確実に避けている。
でも、実力を隠している風ではなくて、それがとてもちぐはぐなのだ。
だから帝国兵も、損切りの決定打が得られない。
「俺と同類にしちゃ、仕込みなんてしてない場当たり的な感じだ。そういう意味じゃ、後ろの兄さんの方が俺と同じ部類だろうよ」
「……それ、僕のことですか? だったら僕の名誉にかけて異議を申し上げます」
「そうですよっ! 性格の悪さが違います! あなたの方が物騒で陰険ですっ」
「僕の味方ってわりには僕にも刺さってるんだよなぁ」
思いがけず、話題に引っ張り上げられたオットーが苦い顔で苦笑する。
そのオットーの態度に、ペトラは少しもどかしさを覚えたが、それもすぐに消える。
「――――」
ちらと、こちらを見るオットーがペトラにウィンクする。その表情に苦い色以外の、何か企んでいる色があると察し、ペトラは思案した。
言葉を発さないで、ペトラに察してほしい思惑があるのだと。
「長くかけすぎた」
そうペトラが察した直後、冷たい声を発した帝国兵が指を鳴らした。
直後、先ほどよりも小さい火球、それが一挙に十近く生まれたかと思うと、目にも留まらぬ速さで四方に散り、ペトラたちではなく、周囲の木々や地面に着火する。
取り囲むための炎の陣の拡大と、それに付随する焔と黒煙――、
「あちゃちゃちゃちゃ! 燃えちゃう燃えちゃう!」
「落ち着け、嬢ちゃん! 三つ編みが燃える前にこっちこい!」
周りを炎に取り囲まれ、熱がるミディアムが長い三つ編みを抱えて飛び跳ねる。炎の陣を跨いだ彼女がアルの傍らに飛び込み、その場で涙目で振り返る。
蛮刀を強く握り直して、これをしでかした相手を睨もうと――、
「あれ!?」
「マジか……」
ミディアムの驚きとアルの嘆息が重なる。
二人の反応の原因、それは炎の光景を作り出した帝国兵の姿が消えたことだ。
「――――」
燃え上がる炎と立ち込める黒煙に紛れ、あの帝国兵の姿が消えた。炎を目くらましに逃げたか、それともじわじわとこちらが焼け死ぬのを待つ算段か。
「ちっ……」
「全然いないよ!? あたしたちも、燃えちゃう前に出ないと!」
兜に覆われた視界を巡らせ、アルが炎の中に消えた男の姿を探す。その間、彼は自分の青龍刀を自らの首筋に当てる、奇妙な構え方で帝国兵へと目を凝らした。
その傍らでミディアムもちょこまかと周りを見渡すが、見つからない敵に焦れながら、強まる火勢を避けようとそう訴える。
確かに、男の行方に固執して逃げ道を失っては本末転倒と、この場は危険な地帯から離れるのを優先すべきという考えも自然だ。
しかし――、
「――――」
ぎゅっと、体を支えているペトラの手に重ねた手に、オットーがわずかに力を込める。その握力から伝わってくる緊張感を、ペトラは無言の指示と受け取った。
気を緩めてはならないと、その警戒心にペトラも強く賛同する。
その上で、ペトラはオットーと重なった手に、もう片方の自分の手も乗せて――、
「――ありがとう、ペトラちゃん」
そう、感謝の言葉を口にした直後、オットーがその場に身をひねり、背中から地べたに倒れ込むように姿勢を崩した。――刹那、すんでのところを斧が横薙ぎに抜ける。
「――――」
敷かれた炎の陣の中から、煙に紛れて近付いた帝国兵の殺意が空振った。
その事実に、確実な瞬間を空かされた男が軽く目を見張る。だが、すぐに気を取り直すように、男は振り切った斧を引き戻そうと――、
「ジワルドっ!!」
「ぐっ」
指を五本立てたペトラ、その指全部から放出された出力の弱いジワルドが、帝国兵の顔面を放射状に捉え、五射の内の一発が相手の右目を焼いた。
威力を犠牲に、面制圧を狙ったペトラの攻撃だ。それは見事に目的を果たし、眼球を焙られた男が苦鳴を上げてのけ反る。
そこへ、空中からくるくると回る人影が飛びかかった。
「いけやぁ!」
炎の向こうで腰を落としたアル、その背中を踏み台に跳んだミディアムだ。
くるくると縦回転するミディアムは、両手で硬く握った蛮刀を一閃、姿勢を崩した帝国兵へと、それが容赦なく叩き込まれた。
「うりゃーぁ!」
硬い音が響いて、燃える炎の中にそれと異なる発色の赤が混じった。
響いた音は蛮刀を受けた頭蓋が割れる音、ではない。手を掲げたペトラは見た。振るわれる蛮刀に、男が自分から額を合わせにいったのを。
あの硬い音はおそらく、バンダナの下に仕込んでいた額当てのものだ。それでミディアムの攻撃を受けた。もちろん、無傷とはいかない。
ぶんぶんと、額に手を当てたまま斧を振り回し、不格好に追撃を躱しながら下がり、下がり、下がり――、
「クソ……」
下がった男の頭から、血に染まったバンダナがはらりと落ちた。額当てで受けつつも、割れた額からの流血は止められない。
派手に血を流しながら、男の目がオットーとペトラを睨んだ。
何故、自分の奇襲が見抜かれたのかと、そう問うてくる眼差しだが――、
「――教えませんよ。僕はあなたの親や兄弟じゃないんですから」
地べたに倒れているくせに、それでも勝ち誇るみたいにオットーが言い放った。
それを受け、帝国兵は舌打ちする。舌打ちし、額の血を掌で拭うと、
「あ! 待て! 逃げるなんてズルいじゃん!」
そこで激昂し、飛びかかってくるなんて無謀な真似は選ばなかった。
熱と血で塞がった右目を閉じたまま、帝国兵は炎の向こうへと姿をくらます。またしても見えなくなった相手に、ペトラは再びの奇襲を警戒するが。
「きませんよ……不利な状態で戦い続けるほど、必死じゃなさそうでした」
「う~、納得いかないですっ。まるでわたしたちだけ必死だったみたいじゃないですか」
「嬢ちゃんの気持ちはわかる。けど、捨て台詞もなしに逃げたのは向こうだ。オレらの勝ち、オレらの勝ち。――オレらの勝ちだぁぁ!!」
「勝ちだーっ!!」
帝国兵が消えた方に向かって、アルとミディアムがそう勝鬨を上げる。
実際、それがあの帝国兵への嫌がらせになるかはわからないが、二人のそれで少しだけペトラの胸も軽くなった。
ともあれ――、
「最後、どうやって奴さんの動きを読んだんだ? 賭けだっただろ?」
「僕の手柄じゃありませんよ、ペトラちゃんのおかげです」
青龍刀を鞘に納めたアルの手を借り、引き起こされるオットーがペトラを示す。とはいえ、ペトラも全部が自分の手柄とは胸を張れない。
「そもそも、標的は僕でしたから、最後の一手は僕狙いだと思いました。仕掛けてくる間と方向がわかったのは、足音です」
「足音?」
「オットーさんの『チャンネル』で、土の下の子たちの声を聞かせてもらった……ですよね?」
「ご名答です」
予想が的中したと、オットーの首肯にペトラが胸の前で手を合わせる。
元々、オットーが『言霊の加護』を用い、戦場全体の情報を掌握したのが敵に狙われた理由だった。あの帝国兵はどういう方法でかはわからないが、動物や虫の声を聞いて全体像を把握できるオットーの加護を躱し、現れた。
そんな相手を捉えるには、それまでと同じ方法ではダメだったのだ。
「だから、土の下の子たち……目がないし、外のことも見えてないから、オットーさんは役に立たないって言ってた子たちでしたけど」
「もうちょっと言葉は選んでたかなぁって! ……とにかく、地中の動物や虫の声を聞いて、足音で相手の位置を把握しました。ぶっつけでしたが、ペトラちゃんが陽魔法で声を拾うための手助けはしてくれたので」
「オットーさん、悪そうな顔で合図してくれましたから」
手を強く握られたとき、オットーがペトラに求めたのが陽魔法の援護だった。
その助力を得たオットーが加護で相手の位置を足音から推察し、最後の奇襲を回避、逆に相手に痛打を与えて撤退させたと、それがカラクリだ。
「――。本音を言えば、戦闘不能にしてしまいたい相手でしたが」
「同感だ。強いってんじゃなく、殺すのが上手いって奴だった。それよりも……」
「熱い熱い熱い! 早くこっから出なくちゃ蒸し焼きになっちゃう!」
危険な敵を退けても、周囲が燃えている状況が打開されるわけではない。
ミディアムの訴えを聞いて、「そうだな」とアルがオットーに肩を貸した。ペトラはミディアムと一緒に、炎の影響が弱いところを探し、二人を先導する。
そうして、炎に巻かれる前に離脱を試みる一行だが――、
「一刻も早く抜けましょう。本陣に戻る理由ができました」
「……なんか、その言い方だと危ない相手から逃げ延びた武勇伝を自慢しにいく、って感じの前置きじゃねぇんだが」
「ええ、悪い話ですよ。事は一刻を争います。……さっきの、足音を聞こうとしたのの副次的に聞こえてきた情報ですが」
一難去って、というところで口にされる嫌な前置き。
炎の熱に追われながら、それでも聞き逃せない発言にペトラが目を向けると、渋い顔をしたオットーが背後――否、戦場全体を眺めながら、
「どうも、龍とか燃える空とか、そういうのとまた別の角度から、戦場全体が危なっかしくなりそうな気配がきてるみたいです。それも、わりとすぐ目の前に」
奇しくも、弟分が『地霊の加護』で察知したのと同時刻、同じ内容を『言霊の加護』で入手して、そうオットー・スーウェンは口にしたのだった。
△▼△▼△▼△
「――ヴォラキア帝国を危うくする、『大災』とやらが迫っているそうだ。私はこの帝国の一将として! 生き恥を晒して生き延びた『将』として! 何としても! 皇帝閣下の御役に立たなくては死んでも死に切れん!!」
と、地下の壁に鎖で繋がれていた大男――ゴズ・ラルフォンと名乗った人物から聞かされ、レムは内乱以外の問題が帝都を揺らしているのだと理解した。
二日に一度の食事しか与えられず、かなり衰弱していたゴズだったが、レムの気休め程度の治癒魔法で驚くほど元気になり、活力を取り戻した。
たぶん、あの効果の大部分は本人の思い込みによるところが大きいと思ったが。
「娘よ、貴公の治療には救われた! 本来であれば我が家に招き、妻や子に恩人と紹介したいところだが、今は閣下の下へ向かわねばならぬ! この礼は必ず!!」
「あ、ええと、はい」
「可能であればここを離れ、正規兵と合流せよ! モグロ・ハガネ一将か、カフマ・イルルクス二将ならば悪いようにはせん! それ以外の一将は避けろ! 話が通じん!」
ものすごいやかましい声で言い放ち、鎖を外されたゴズは凄まじい勢いで地下から飛び出すと、屋敷を警備する兵たちを一喝し、遠目に見える水晶宮への同道を命じた。
それに対して、警備兵たちの態度は二つに割れた。
どうやら、屋敷の兵たちの間にもゴズの存在を知っていたものと、知らなかったものとで分かれていたらしい。情報を伏せられていたものたちは面白くないし、情報を開示されていたものたちは、それだけベルステツからの信頼が厚いことになる。
故に――、
「なるほど。貴公たちは私の前に立ち塞がるか」
羽織るものなく、筋肉の鎧で覆われた上半身を剥き出しにしたゴズが、武器を抜いて道を阻まんとした警備兵たちを見据える。
ゴズは無手で、監禁されていた時間も一日二日ではない。万全な状態とは程遠い。しかし、警備兵たちが立ち向かったのは、そうした勝算のあるなしではなかった。
「いいだろう。私が皇帝閣下に忠誠を捧げるように、貴公らは宰相へと忠義を誓う。その誉れ、私がしかと見届けよう!!」
発される圧倒的な鬼気は、自分に敵対する兵たちを見据えながらも濁りがなかった。
その後の、素手のゴズの一方的な戦いぶりもそうだ。
巨大な拳骨が振るわれ、一発で警備兵が複数吹き飛ばされる。
多少の数の有利なんて誤差にすらならなかった。一瞬の、圧倒的な制圧だ。
「アベルさんから、『九神将』のお一人として名前は聞いていましたが……」
実際に、レムが本物の『九神将』を目の当たりにしたのは、城郭都市グァラルでのアラキアとマデリンの二人だけ。
その両者と比較しても、ゴズの存在感は引けを取らない。
武器と装備、それから消耗の分だけ、今の彼の方が不利かもしれないが。
「よく戦った! それでこそ、帝国の剣狼である!!」
打ちのめした兵たちの真ん中で腕を突き上げ、暑苦しくゴズが称賛を口にする。
確か、本当の皇帝であるアベルを逃がすため、身を挺して犠牲になったと聞いていた人物だが、繋がれて消耗していたのも嘘と思えるぐらいの元気ぶりだ。
どうして、彼が屋敷の地下に繋がれていたのかは不明だが。
「改めて、宰相ベルステツ・フォンダルフォン! 貴公の企み通りにはさせんぞ! チシャ一将、貴公もそうだ! うおおおおお――!!」
そうした細かい話をするより前に、ゴズは自分に賛同する警備兵を連れ、ベルステツの屋敷の正門から堂々と飛び出していってしまった。
『獅子騎士』の雄々しさに圧倒され、レムはその背中を見送るしかない。
もっとも――、
「私は、あのお城には用がありませんから」
思いがけない流れで屋敷の兵がいなくなり、レムを阻む障害もなくなった。
レムはゴズに打ち倒された兵の生死を確かめ、重傷者に最低限の手当てだけして、長剣の一本を杖代わりに屋敷を移動、何度も通った一室の前へ。
そして――、
「カチュアさん、私です、レムです。出てきてください」
「……絶対出たくないんだけど。さ、さっきのでかい声、何よ」
「気持ちはわかります。でも、もうあの大きな声の方は出ていかれました。私たちも、この先どうするか話し合うべきだと思います」
「どうするかって……」
扉越しの声、姿を見せないカチュアの部屋の前で、レムは彼女の決断を促す。
現状、ゴズの勇ましさが良くも悪くも屋敷の兵を一掃してしまったため、急いで屋敷を離れなくてはならない、という緊急性は薄れた。
しかし――、
「『大災』……」
ゴズが大急ぎで、水晶宮にいるという皇帝の下に向かったのはそれが理由だと。
正確には、ゴズが水晶宮に向かった最大の理由は、皇帝を騙っている偽物と対峙するためだろう。とはいえ、その得体の知れない災いの阻止が目的なのは事実。
いずれにせよ、ゴズの助言はこの場に居座ることを良しとしていなかった。
ならば――、
「――わ、私はここを出る理由が、ないから。ひ、人質だし」
「留め置く兵はいなくなりました。もう、人質に甘んじる理由も薄くなっています」
「そ、それでも……っ」
「――。わかりました。せめて、扉を開けてください。無事な顔が見られたら」
戸惑いつつも、自分の主張を曲げないカチュアにレムは折れた。
そのレムの最後のお願いに、しばしの沈黙のあと、車椅子の車輪が動く音がして、扉の鍵が外される。そうして、部屋の扉が開かれると、
「失礼します。いきましょう」
「え!? あ、ちょっ、あんた!?」
「ごめんなさい。無事な顔が見たいだけというのは嘘でした」
部屋に乗り込んだレムは、扉の脇にいたカチュアを見つけると、その後ろに素早く回り込んで車椅子を押し、部屋の外へ。
慌てたカチュアが抵抗しようとするも、車輪を止めようとする彼女は非力で、強引なレムの力に対抗できず、そのまま押し出される。
「待ちなさいよ! 私はここで、待たなきゃいけない相手が……っ」
「それは重々承知しています。でも、ここで待つのは危険です。婚約者の方を待つにしても、せめて安全なところにいきましょう」
「安全って、この帝都でここよりも安全なところが――」
あるわけない、とカチュアは言おうとしたのだろう。
しかし、言葉の途中だったカチュアが、後ろのレムを睨もうと右に左に首をひねっている最中、不意にその目を見開いて、空を見つめた。
そのカチュアの反応につられ、レムもそちらを見上げると、屋敷の渡り廊下を歩いている二人の頭上から、大きな大きな影がかかった。
――ものすごく巨大な、人型の城壁が屋敷を跨いで、帝都の奥へと向かう一歩だ。
「――――」
ゴズが暴れるよりも、帝都に攻め入ろうとする叛徒たちの攻撃のどれよりも、身近なところを通り抜けた巨大な足が都市を踏み荒らし、駆け抜ける方が衝撃が大きい。
地響きと衝撃で車椅子の車輪が浮くのを感じながら、レムとカチュアは恐る恐る互いの顔を見合わせ、
「た、確かにここが安全って話は違うみたいね……」
「はい。急ぎましょう」
さすがに、今の巨大な一歩はこの大騒ぎの中でも例外の一個だと思ったが、わざわざそれを言ってカチュアの不興を買うのも馬鹿げている。
大人しく従う姿勢のカチュア、彼女の車椅子を押してレムが続いて向かったのは、
「あんたの連れ、静養中でしょ? どうするのよ」
「本当はあまり動かすべきではありません。でも、そうも言っていられませんから……」
カチュアの言葉にそう応じて、レムが彼女と一緒に目的の部屋に辿り着く。
その中にはレムと一緒に屋敷に連れてこられ、重傷の治療がまだ終わっていないフロップ・オコーネルが軟禁されている。
カチュアに答えた通り、できれば安静に寝かせていたい彼だが――、
「フロップさん、私です。お邪魔していいですか?」
「む、奥さんか! 今開けるよ」
扉をノックするとすぐに返事があり、続いてすぐに扉が開いた。扉のすぐ傍にいたとしか思えない反応にレムとカチュアが目を丸くすると、それもそのはず、扉脇に潜んでいたらしいフロップは、その手に手鏡を握りしめていた。
「あの、フロップさん、その鏡は?」
「いやぁ、実は一応武器のつもりだったんだ。さっき、とても大きな声がしたろう? 街が騒がしくなっているし、誰か敵対的な人が押しかけてくるかもってね」
手鏡をくるくると回しながら答えるフロップ。一応、レムたちの名目は捕虜や人質であったため、それぞれの部屋に武器にできそうな道具は置かれていなかった。
とはいえ、対抗手段として鏡というのは。
「……あんた、その鏡で戦えるってこと?」
「生憎と、これくらいしか部屋になかったんだよ。ただ、鏡を使って戦ったことがないから、もしかしたら眠れる才能があるかもしれないね! 奥さんはどう思う?」
「そうですね。無駄話はやめて、必要な話をしたいです」
じと目のカチュアに、いつも通りの調子で答えるフロップ。彼の彼らしいところは素直に安心するが、一方で切羽詰まった状況では一旦置いておきたい。
ともあれ――、
「彼女はカチュアさんです。この屋敷で知り合った方で」
「僕はフロップ・オコーネルだ。君が奥さんから聞いていた、奥さんのお友達だね」
「……べ、別に、この子と友達になった覚えとか、ない、けど」
「だったら、そのつもりになっておくことだ。いい友人を作ることは、いい人生を歩むための手掛かりになる。そうじゃなくても、友人が多くて悪いことはない」
「私、たぶん、あんたのこと苦手だわ……」
レムも予想していた通り、フロップはカチュアの苦手な性格をしている。とはいえ、フロップの側はカチュアから率直に言われても気にしない性質なので、カチュアが苦い顔をしているだけで済むなら、最善の状況と言える。
「フロップさん、今の帝都の状況ですが……」
「おおよそは知っているよ。戦いに出る前、マデリンくんが挨拶にきてくれたからね」
「……マデリンさんが挨拶、ですか?」
意外な接点から、マデリンがフロップのところに通っているとは知っていたが、まさか出陣前の挨拶までしにくる仲とは思ってもみなかった。
ただ、『九神将』から直接話があったなら、外の状況に関してはフロップの方がレムよりも詳しい可能性すらあるだろう。
「それなら話が早いです。すでに、この屋敷の警備兵はいなくなっているので、留まるも抜け出すも自由ですが……私は、屋敷から出るべきだと」
「それは、さっきの大きな声や、ものすごい地響きと関係があるのかな?」
「はい。ただ、それだけじゃありません。もっと、悪いことが起きるかもしれないと」
「あ、あれより悪いこと!? じ、冗談じゃないわよ……っ」
フロップに答えるレムの懸念、それを聞いたカチュアが顔を蒼白にして震える。
こればかりは、カチュアを脅して言うことを聞かせるためではなく、未確認ながら本当に危険な可能性のある話だ。しかし一方で、「何かが起こるかもしれない」という以上の話ではないため、動くための確証とまでは至らない。
「それでも、奥さんはここを離れるべきだと思うんだね」
「――はい」
フロップにそう問われ、レムは躊躇いなく頷いた。
軟禁されてはいたが、この屋敷の生活はそれほど不自由ではなかった。外出は禁じられていたが、互いの部屋の行き来は比較的許されていたし、怪我をしたフロップの治療も任せてもらえた。カチュアとも出会えたし、敵であるはずのベルステツに対しても、大きな怒りや憎しみは抱く余地がなかった。
ベルステツの謀反の理由に関しては、悪いのはアベル=ヴィンセントなのではないか、という疑惑がレムの中にはあるので、なおさらだ。
とはいえ、そうした事情を抜きにすれば、レムがこの屋敷から離れたいと思う決定的な理由は、おそらくレムの感情が一番大きい。
このまま囚われの身でい続ければ、レムによくしてくれた多くの人を不安がらせる。
そういう不義理で、不誠実な状況から早く抜け出すべきだという、そんな理由。
「よし、わかった。僕も異論はないよ。奥さんやカチュア嬢と一緒にいこう」
「いいんですか?」
「居残っても、ベッドで寝てる以外にできることはないしね。これでも行商人だから、多少なり体を動かしておかないと不安で仕方ないんだよ」
レムを気負わせないためか、そんな風に笑いながらフロップが握り拳を作る。それから彼は、「それに」と言葉を挟んで、
「実は言伝を任されていてね。ここでうっかり寝過ごして、もしもそれを伝える機会を逸したら、とてもじゃないが世間や妹に顔向けできないんだ」
「言伝……そんなの、誰から」
「自ら逆賊の汚名を被った、僕からすれば大いなる賭けに挑んだ帝国の剣狼だよ」
片目をつむってウィンクし、そう答えるフロップにレムは鼻白む。
どうやら、レムの心当たりのある相手ではなさそうだが、フロップが一緒にきてくれるというのはありがたい。
「さすがに、カチュアさんの車椅子を無理やり押しながら、フロップさんまで担いでいくのは並大抵のことではありませんから……」
「あんた、どうするか聞くくせに、相手にそうさせる気とか全然ないわよね!?」
「皆さんが危ない目に遭わないなら、放っておいてもいいんですが……」
力ずくで連れ出さないと危ないなら、力ずくで連れ出すしかない。さすがにレムも、自分の力が及ばない範囲まで救おうとは思わないが、届くならやむなしだ。
相手の気持ちを捻じ曲げてでもそうする。――外聞がよくないのは承知の上で。
「――――」
一瞬、それが自分に向けて伸ばされた手と同じことをしている気がして、レムは複雑な感情に胸をもやっとさせた。
その感覚をすぐに振り切り、「では」とカチュアとフロップに頷きかける。
「気を付けて屋敷を離れましょう。誰かと遭遇するときは慎重に。帝都に乗り込んできている人とも、顔見知りではないでしょうし」
「怖いこと言わないでよ。……それと、あんた怪我人なんでしょ? いけるの?」
「はっはっは、心配してくれてありがとう。幸い、奥さんが献身的に治癒魔法をかけてくれたからね。抉られた肉は埋まっているし、血も戻ってきていると思うよ。体力的な部分はあれだから、走るときは一声かけてほしいかな」
「その配慮はします。私も足が万全じゃありませんし、カチュアさんも車椅子ですから」
改めて、集った三人がそれぞれ肉体的に不安のある顔ぶれだと実感する。それでも、誰一人欠けるわけにはいかないので、力を合わせるのが肝要なのだ。
と、そう意気込んだところで、
「時に奥さん、僕たち以外の捕まっている人たちはどうする?」
「……忘れていました」
フロップの指摘に出鼻を挫かれ、レムは額に手を当てる。
この屋敷には離れがあり、そちらの建物にはレムたち以外の捕虜――何でも、ヴォラキア皇帝の隠し子である『黒髪の皇太子』を名乗った複数のものが囚われている。
ほとんどが、皇帝に叛逆するための大義名分作りに利用された存在らしいが、皇帝の跡取り問題で謀反したベルステツには他人事ではなかったらしく、可能な限り、本物かどうか確かめるために件の存在の捕虜が取られていた。
「正直、私たちの敵とも味方とも言えない人たちなので、無視したいです」
現状、カチュアはともかく、レムやフロップの立場は非常に複雑で難しい。
強い大儀や主張はないが、なし崩しにアベルを代表とした反乱軍に加わってはいた。しかし、その集団から引き離された上、囚われの皇太子集団とは面識もない。
彼らの善悪もわからなければ、レムたちに対する態度も不明なのだ。
「――――」
なので、本音は直前に言った通りのものがそうだ。
ただ、『大災』というわけのわからないものが迫りつつある状況で、そこから逃れるために屋敷を離れようというレムたちが、鍵のかかった離れに彼らを放置していくのは心情的に苦しくはある。
全てを拾い切るのは難しくとも、できるだけ人死には減らしたい。
だからこそ、ゴズに殴り倒された警備兵たちにも、最低限の処置は施したのだ。
「……鍵だけ探してきて、自分たちで取れるところに引っかけておけば?」
「あ……」
「わ、わかんないけど。わかんないけど、危ないかもしれないっていうなら私は関わりたくないわよ。でも、それでうじうじされてても困るの! おかしい!?」
「いえ、いいえ、おかしくありません。そう、ですね」
悩んでいるレムを見かねて、そうカチュアが折衷案を出してくれた。
助けるか助けないか、二つに一つしか浮かばなかったレムは、そのカチュアの一言に救われた気持ちになる。
彼女の言う通り、離れの鍵を見つけて、囚われた彼らがそれを取るのに少し苦労するようにしておけばいい。それで、安全の確保と心の安寧は保たれるはずだ。
「どうやらまとまったみたいだね」
レムとカチュアの話の決着に、フロップが満足げに頷いた。
その間、自分の長い金髪の一部を編み込んでいた彼は、そっと扉に手をかける。そして押し開きながら、
「じゃあ、ひとまず離れの鍵の在処を探るために……ちょっと待とう」
扉の向こうへ進もうとしたフロップが、先の言葉を引っ込めながら扉を閉めた。そのいきなりな行動に、レムとカチュアは目を丸くする。
しかし、フロップは「静かに」と自分の口に指を当てて指示すると、閉じた扉をわずかに開いて外を覗き込む。フロップの傍らから、レムも外を覗いた。
「――ぁ」
「ち、ちょっとなに? その反応、いい予感が全然しないんだけど……っ」
フロップが扉を閉じた理由、それを扉の外に見つけたレムが息を詰まらせると、その気配に怯えたカチュアが声を震わせる。
が、とっさにカチュアの不安を解くための言葉を用意することができなかった。
何故なら、レムにとってもフロップにとっても、それは想像の埒外の光景だった。
ベルステツの屋敷の中庭、そこに兵士たちと違う人影が立っている。
それは――、
「……なんだか、とても顔色の悪い人たちだね? 寝不足だろうか」
と、そんなフロップの冗句が乾いて聞こえてしまうぐらい、殺伐とした空気を纏った人影の様子は異様だった。
生気を感じられない顔色と、見える肌に走ったひび割れ――一目で異様だと感じられる特徴を負った集団が、帝国宰相の屋敷を占拠しつつあったのだ。
△▼△▼△▼△
「……パッと見たところ、彼らはみんな、帝国兵の格好をしていたね」
音を立てずに扉を閉めて、息を殺したレムたちの中でフロップが呟いた。
正直、目にした光景の異質さが強すぎて、そこまで詳細に目を配る余裕がなかったレムには、フロップの言い分を無責任に肯定できなかった。
ただ――、
「ぶ、不気味な奴らが屋敷に入り込んでるって……それ、皇帝閣下を殺そうとしてる、反乱軍の誰かってことじゃないの?」
「そういう話の通じなさとは、また違った雰囲気でした。怒り狂っているとか、興奮しすぎているとか、そういうことではなくて……」
「人の姿をした違う生き物のようだ。僕も、話せばわかると言いづらい雰囲気だと感じたね。傷が嫌な予感でしくしくと痛むよ」
フロップの意見に、レムも否応なく賛同する。
外を確認した二人と違い、問題の相手を見ていないカチュアにはピンときていないが、彼女が外を見たら取り乱すこと請け合いだ。
そうした、理が違って感じられる相手を見たことで、レムはふと思う。
「まさか、あれが『大災』……?」
ゴズから単語だけ聞いたきりで、その内容はとにかく悪いことと想像するしかない『大災』だが、それが迫っているという話を聞いた上で外の存在を目にすると、それらの間には関連性があるように思われてならない。
それに、これは治癒魔法が使えるものとしてのレムの直感になるが。
「生気を感じませんでした。まるで……」
「し、死人だとか言わないでしょうね? そんな、ホロゥがどうとか馬鹿馬鹿しい……」
「と、笑い飛ばすのは性急かもしれない。外の彼らは帝国兵の格好をしていたが、そう言えば顔や首筋だけじゃなく、鎧もボロボロだったかもしれない。もしかしたら、生前の傷がついたままの可能性も……どうだろう?」
「どうだろうって、知らないわよ!」
フロップの真に迫った表情に、カチュアが目を白黒させながら動転する。
だが、強く否定の言葉を放つのは、彼女もレムとフロップの様子から只ならぬ事態が起こっていると感じ取っている証に他ならない。
さらに最悪なのは――、
「――ぎあっ」
「ぐっ」
「――ぁ」
立て続けに聞こえた小さな苦鳴は、外で寝かされていた警備兵――ゴズに打ち倒され、レムが手当てだけしておいたものたちがこぼした断末魔だ。
はっきりと、この目で確かめたわけではないが。
「……どうやら、話してわかり合うのは難しそうだ」
頬を厳しく引き締めたフロップの言葉が、覆せない兵たちの末路を物語った。
あの青白い顔をした謎の勢力は、倒れている兵にトドメを刺した。一切の交渉の余地もなく、だ。――レムたちがその例外になるとは考えにくい。
「私が……」
兵たちを、せめてどこかの部屋に入れていれば話は違っただろうか。
無防備に倒れる彼らを安全圏へ移しておけば、一方的な死を迎えることは避けられた。それなら、彼らの死の責任は手を尽くさなかったレムにある。
「――っ、そんなこと考えてる場合!?」
「か、カチュアさん……」
「今、凹んでても三人とも死ぬだけじゃない。い、嫌よ、私、そんなの……!」
悔しさに俯きかけたレムの顔を、カチュアの両手が挟んで上を向かせた。涙目のカチュアが責めるように噛みついて、レムの弱気を食い千切ろうとする。
その勢いと、真っ正直なカチュアの言葉にレムは息を呑んだ。
それから静かに頷いて、
「フロップさん、状況が変わりました。ここは、離れを開けるしかありません」
「うん、そうだね、奥さん。僕も同じことを考えていた。離れに捕まった皇太子くんたちと仲良くできるかはわからないが、敵の敵は味方という考え方もある」
「はい。共通の敵がいれば、手を取り合える可能性はあると」
方針転換の表明に、フロップはすぐに賛同してくれる。レムとフロップの合意を受け、カチュアも首をぶんぶんと縦に振り、
「そうと決まったら、さっさと、さっさとする! 離れの鍵は、もう、あんたが頑張って壊しなさい。や、やれるんでしょ?」
「……ちょうど、杖代わりに拾った剣があったので、それを使えば」
剣は壊れるだろうが、引き換えに扉の鍵を壊すくらいはできるだろう。
もはや、鍵を探して屋敷の中を歩き回るのも困難だ。
「彼らの注意が離れに向く前に辿り着く必要があるが、問題は……」
「カチュアさんの車椅子……」
じっと視線が車椅子に集まる。
婚約者から贈られたという車椅子は、非常に出来のいい高級志向のものだが、それでも車輪が回る音も、各部が稼働する際の音も隠し切れたものではない。
見つからないように動かなくては、という場面では不向きもいいところだ。
「わ、私は……」
同じ難題にぶち当たり、カチュアの視線が右に左に、上に下にしどろもどろに泳ぐ。
しかし、足が不自由である以上、カチュアと車椅子は切り離せない。その自覚は彼女自身にもあり、しばらく悩んだ末にカチュアは言った。
「置いて、離れを開けてきなさい。ひ、一人で待ってるから……」
「一人で……でも、そんなの」
「部屋に鍵かけて! 黙ってこもってたらわかんないでしょ。相手が死人みたいな奴らならなおさら、下手なことしないで隠れてる方が安全かも。あ、あんたたちに危ないことしてきてって言ってるわけじゃないけど」
上擦った声で早口になっているのは、それだけ彼女の心中が慌ただしい証拠だ。
ただ、カチュアがなけなしの勇気を振り絞った発言というのは、レムにもフロップにも痛いほどわかった。
その気持ちを、信頼を、無下にすべきではないということも。
「フロップさん、カチュアさんを……」
「いや、カチュア嬢の心意気を酌むべきだよ、奥さん。僕と奥さん、二人がかりで臨んだ方が勝算が高い。最悪、片方が囮になることもできるだろう」
「――――」
本当にそれは最悪の場合だが、考えたくないことから目を背けては、実際にその状況に陥ったときに為す術なく最悪に打ちのめされるしかなくなる。
だから、その最悪に打ちのめされる可能性を考慮しながらも、レムは頷いた。
「必ず、離れを開けて戻ります」
「し、しっかりやんなさい。あんたも戻らなきゃ、ダメだから。絶対!」
「――はい」
カチュアの手を握り、レムは堅く約束の言葉を交わす。
不器用なカチュアの心配を背負い、その重みを忘れまいと胸に留めた。そのまま、レムはフロップと頷き合い、部屋の外へと出る。
「――――」
息を殺し、身を潜めながら廊下へと出た二人は、周囲――不気味な『敵』の様子を探りながら、屋敷の裏手の方にある離れへの道を何とか進もうとする。
道中、風に紛れて漂ってくる血の香りは、殺されてしまった兵たちのモノ。それをした敵は十数名、危うげない足取りで屋敷の中を歩き回っている。
「……何か、探している風に見えるが」
「生きている人間、でしょうか」
「いや、警備の人たちを始末したのは行きがけの駄賃といった感じだ。虱潰しにしては人数が少ないし、もっと明確な狙いがありそうに思える」
身を低くしながら進む途中、レムとフロップは相手の挙動に意見交換。
フロップの鋭い洞察を聞いていると、自分が的外れなことばかり言っているように思えてレムは歯痒くなる。
「僕のこれも、僕がそう思ったというだけだからわからないよ」
と、そうしてフロップに取り繕わせてしまうのも悔しかった。
せめて、離れに囚われたものたちを解放するのに貢献し、挽回したいところだが。
「――よくないですね」
幸いというべきか、異様な風体をした『敵』の感覚機能は人と大差ないらしく、レムたちにもわからない不思議な性能でこちらを補足してきたりはしなかった。
おかげで何とか、相手に見つからずに離れの傍までこられた。が、そこで問題が発生した。
「さすがに、完全に見落としてはくれなかったようだね」
同じものを見たフロップの言葉に、レムも無言で頷いた。
建物の陰に隠れ、様子を窺う離れの周り、そこに問題の『敵』の姿が三体見える。探し物がある以上、あれだけ目立つ建物に彼らが立ち寄らないのも不自然な話。
問題は建物の中、座敷牢にでも『皇太子』たちが入れられているなら、扉を破った時点で『敵』は一方的に彼らをなぶり殺しにするだろう。
時間の猶予はない。すぐにでも行動に移さなくては、彼らの命は奪われる。
「奥さん、僕が気を引く。その隙に三人、やれるかい?」
「――――」
「役目は逆でもいいんだけど、僕のへっぴり腰よりは奥さんの方が可能性が高いと思う。今すぐ決めてほしい」
強引だが、必要な決断の宣言。
それを受けて、レムは一秒だけ目をつむり、すぐに開けた。
そして――、
「やりましょう。後ろに回ります。フロップさん、一瞬だけ」
「ああ、任されたよ。自慢じゃないが得意なんだ、囮になるのはね」
頼もしい答えに頷いて、レムとフロップが二手に分かれる。
ちょうど離れの入口、その大扉を破ろうと画策する『敵』の三人組を間に挟み、左右に別行動する形だ。
「――――」
ぎゅっと、レムは鍵を壊すように持ってきた鋼の剣の感触を確かめる。
剣を振るった経験はなく、誰かを傷付けるのが得意な自覚もない。強いて言うなら、スバルの指を折ったのがレムの交戦経験だが、自信の根拠には程遠いと言える。
だが、自信のあるなしではない。やらなくてはならない。
正念場だ。
「やあやあ、諸君、元気にしているかな? 僕は売り物のない行商人だ。目下、君たちに顔を売るのが目的でね!」
不意に、建物の陰から滑り出したフロップが『敵』たちにそう声をかける。
大した打ち合わせもなく、ぶっつけ本番で相手の注意を引かなくてはならないのに、そのフロップの態度たるや、あまりにも勝負強さが過ぎる。
「……なんだ、お前は」
そのフロップの登場に気を奪われ、振り向いた『敵』がそう声を発した。
冷たく、熱のない声色だが、そこには確かな知性があり、相手が言葉も通じない没交渉の存在だと考えていたレムにはかなりの驚きがあった。
しかし――、
「おや、もしかして話せるのかな? だとしたら、僕の方も改めるべき態度があるかもしれないところだが、どうだろう」
「ああ、それなら間違いだ。帝国の人間は、全員死んでもらう」
「なるほど。――やっぱり、交渉の余地はないのだね!」
殺伐とした『敵』の返答に被せるように、フロップが声高にそう言い切った。それは一瞬、迷いの生じたレムの心を溶かし、動かすための明快な合図だ。
そこまで聞いてしまえば、レムもその後の行動を迷わなかった。
「あ、ああぁぁぁ――!」
仕掛けると、そう決めて動いた瞬間、黙っているべきとわかっていながら声が出た。そうして自分を内側から鼓舞しなくては、その後の行動が続かなかった。
鞘から抜いた剣を振りかぶり、それを力一杯、背中を向けた『敵』に叩き付ける。「なっ!?」と悲鳴が上がったが、無我夢中で二度、三度と剣を振るった。
フロップに注意を向けた『敵』が振り向く隙を与えず、怒涛の連続攻撃。何がどのぐらいで相手を戦闘不能にできるかわからないから、やたら滅多に振った。
硬い感触が手に跳ね返った覚えはあるが、それ以外のことはかなりぼやける。
ただ――、
「奥さん! もう大丈夫だ! 全員、もうやっつけたよ!」
「あ……」
懸命な声をかけられ、我に返ったレムは正面にフロップの姿を見る。
その彼との間にいたはずの『敵』を探すと、レムの足下には打ち倒された『敵』――だったものが、バラバラになって散らばっていた。
その、予想と全く違った彼らの倒れ方に、レムは「え」と目を丸くする。
「僕の目には、彼らが割れたように見えた。実際、こうなった残骸を見てみても、陶器や硝子のような割れ方だ」
「……死んでる、んでしょうか」
「少なくとも、こうして粉々になる前から生きていたかは怪しいと思う」
しゃがみ込み、散らばった『敵』の破片を指で摘まんだフロップが答える。
彼の答えを聞いて、レムは自分がどんな答えを期待していたのか、それを自覚してひどく苦々しい気持ちになった。
生き物の命を奪うことは、レムにとってできるだけ避けたい忌避すべきこと。
だから、打ち倒した『敵』が何なのか、生き物かそうでないかを定義して、自分の心を守りたかったのだと、そう浅ましい期待があったと気付いてしまった。
「奥さん、すぐに彼らの仲間にも気付かれてしまう。急いで離れを開けよう」
そのレムの抱いた感傷を、フロップはこの瞬間は先送りにする判断を下した。レムも、それが正解だとフロップの方針に逆らわない。
せめて、自分の行いに正当性を持たせるべく、離れの扉を開けようとして、気付く。
「え?」
足下の、砕かれた『敵』の破片が、風や地震とは異なる形で不自然に蠢くのを。
「――簡単には死なないんだ。死んでるから」
ゾッと、レムが違和感を覚えた瞬間、そこへ滑り込むように『敵』の声がした。
振り向いて、レムとフロップが打ち倒したはずの『敵』の蘇生を目の当たりにする。バラバラに砕けた陶器が、まるで時間が逆戻りするかのように繋がり合い、縫い目のようにひび割れを見せつけながらも、元の状態へ。
「――――」
そのありえない光景に硬直し、レムとフロップは身動きを封じられた。
とっさにせめて、フロップだけでも守れればと、レムはグァラルで彼に庇われたときと真逆のことをしようと、足に力を入れる。
だが、心の乱れが膝の踏ん張りに影響し、不完全な足がそれをさせなかった。
むしろ、『敵』の前で致命的な姿勢の崩れを生んでしまう。
剣を、振り上げなくては。相手よりも早く、なのに。
間に合わない。
「――っ」
ギラと、鈍色の光が閃いて、『敵』がレムとフロップへと容赦なく、その手にした剣を叩き付けようと――その瞬間だった。
「――エル!」
「ミーニャ!!」
高い二つの声が重なり合い、直後にレムの目の前で起こった異変を主導する。
眼前、剣を振りかぶった三体の『敵』の胸を、背後から命中した紫色の結晶が貫いた。しかも、驚きはそれだけでは終わらない。
「か」
と、貫かれた『敵』が苦鳴を上げたかと思えば、次の瞬間、『敵』の全身がその胸を貫いた紫紺の結晶と同じモノに変わり、またしても砕け散った。
違いがあるとすれば、紫色の破片になった『敵』に、復活の兆しがなかったこと。
そして、すんでのところでレムとフロップを救うそれをやってのけたのは――、
「――待たせたな、レム! 真打登場だ!」
そう勇ましく宣言し、外壁を飛び越えて屋敷の敷地に侵入した大きな馬から小さな影が飛び降りる。
そして、黒髪に目つきの悪い少年は、その腕にドレスの少女を抱き上げながら、レムに向かって片目をつむり、歯を見せて笑いかけた。
その派手な登場と宣言に、レムはしばし言葉を失い、そして、言った。
「――誰ですか?」
颯爽と現れたその少年は、少なくともレムの目には誰だかわからぬ人物だった。
△▼△▼△▼△
――ガンガンと、激しい音を立てて扉を叩かれ、カチュアは身も凍る思いを味わう。
「いや、いやいや、こないでこないでこないで……っ」
車椅子を部屋の奥に押し込み、癖毛の頭を抱え込んで必死で祈る。
レムとフロップを離れに送り出し、一人で待つと宣言してしばらく。できるだけ、呼吸さえも少なくしてカチュアは潜んでいたつもりだった。
なのに、『敵』に存在を気付かれ、こうして死ぬほど怖い目に遭わされている。
「ついてない。私はやっぱり、ずっとずっと、ついてない……っ」
『敵』がこの部屋の前にやってきたのも、生存者を探そうとしてたまたま行き着いた結果に過ぎない。それで早々と引き当てられるのだから、自分の運は最悪だ。
たぶん、レムたちが戻ってくるのは間に合わない。そんな都合のいいことなんて、自分の身には決して起こらないのだ。
「……兄さん」
はっきりと、扉の外にいる相手の姿を目にしたわけではない。
ただ、レムとフロップの言い分によれば、外をうろついている帝国兵でも叛徒でもない第三勢力は、死人のような様相であったという。
死人と言われ、今のカチュアが最初に思い浮かぶのは実の兄であるジャマル・オーレリーだ。殺しても死なないと思われた兄の、まさかの死。
ホロゥでも、せめてもう一目会いたいと、そう思わなくはなかった。
だが、実際に死人が歩き回っているなんてわけのわからない状況になると、思い浮かぶのは兄への執着ではなく、我が身可愛さが全てで見苦しかった。
レムやフロップの無事を祈り、自分の代わりに生き延びてほしいなんて、そんな高尚な慈愛の心も持てない。あるのは自愛、どうしようもない自分への自愛だけ。
誰にも愛される価値のない、不完全でどうしようもない自分だけ。
「私、なんか……」
期待したり希望を抱いたり、救われたいと願うこと自体が間違いだった。そんな図々しいことを考えているせいで、レムたちも巻き添えにしたのではないか。
カチュアの不運と不出来に、レムたちを巻き添えにした結果がこれではないのか。
そんなどこまでも自暴自棄な考えが、いよいよ壊れる兆しを見せ始めた扉の軋む音に遮られ、カチュアの喉が凍り付く。
絶望的な状況を前に、悲鳴を上げることさえ満足にできなそうな自分の体を呪う。
しかし――、
「え?」
扉が破られると、そう思った瞬間だ。
その扉の向こう側、こちらへ押し入ろうとしていた『敵』の動きが止まった。――否、正確には破壊行為を中断せざるを得なくなった。
何故なら、『敵』のその全身が赤い炎に包まれ、燃え上がったからだ。
そして――、
「脅した微精霊も、最後の一匹だったんだがな」
その、焼かれる『敵』とは別の、違う声が扉の向こうからカチュアに届いた。
悪態めいたその声音に、弾かれたようにカチュアは顔を上げる。それからカチュアは車椅子の車輪を回すと、自分から扉に取りついた。
あれほど開けられるのが怖かった扉、その鍵を震える手で外し、開ける。
そうして開け放った扉の向こう、焼かれて黒焦げになる『敵』の亡骸を足蹴に、一人の男が立っていた。
「待たせたな、カチュア。――ここから出るぞ」
見慣れたバンダナを失い、いつもは逆立てた髪を下ろした状態。渇いた血を額や頬に張りつけながら、それでも辿り着いた男にカチュアは目を見開いた。
そして、その男の方に車輪を回しながら、
「遅い……遅い、馬鹿! わ、私が死んだら、殺してやるところだった!」
と、残酷に現れた婚約者へと、涙ながらに飛び込んでいったのだった。
△▼△▼△▼△
――帝都の水晶宮で、星型の城壁で、叛徒たちの本陣で、様々に状況が動く。
事の次第を知るものと、事の次第の一切を知らぬもの。
そうしたものたちが入り乱れる、混沌の坩堝と化した戦場――否、ヴォラキア帝国。
流血を強い、命が散りゆくことを尊び、野心を花開かせるための行動をこそ是とされる大地が脈動し、帝国の歴史に刻まれたものたちが次々と起き上がる。
それを、悪夢と言わざるしてなんと呼ぶべきか。
「――『大災』」
そう、悪夢と呼ばないのであれば、『大災』と呼ぶしかない。
ヴォラキア帝国に蔓延る『星詠み』は、これが世界を滅亡へ追いやる大いなる災いの一つであると、そうした天命が下ったと声高に言い放った。
それ自体は、『大災』と呼ばれる事態を引き起こした中核にはどうでもいい。
重要なことは、この災いが、帝国の地を滅びへ誘い、その果てに願いを達すること。
そのために打てる手も、尽くせる策も、全てを費やす。
死んで死なれ、殺して殺し、それが積み上がってできた屍の大地たるヴォラキア。
そのヴォラキアの流した血の全てが、計画の礎たるならば、あとは。
「あとは、最後まで計画を運ぶだけ。――要・熟考です」
そう、滅びの象徴たる『大災』の担い手は、静かに静かに、自らを言祝いだ。