第七章108 『来たる大災』
――偽の皇帝に扮したチシャ・ゴールドの最後の行動は、理解の外側だった。
「――――」
玉座を追われたヴィンセント・ヴォラキアはアベルを名乗り、東の大森林で『シュドラクの民』の協力を得ると、自ら反乱の先頭に立って帝国を乱した。
先々を考えれば望ましいことではなかったが、わざわざ謀反めいた真似までして自分を帝都から追い払ったチシャの目論見だ。容易く掌を返せはしない。
だから、その行動も思惑も、無駄だと割り切らせるための手を打った。
『星詠み』がもたらした避け難い最期、それはアベルにとってははるか昔から、ヴォラキアの皇子としての自覚を持った頃から覚悟していたことだ。
天命と予告されたそのとき、帝国の玉座に就く当代のヴォラキア皇帝が死に、それを切っ掛けに滅びをもたらす『大災』が始まると。
自分が名指しされたわけではなかった。
だが、予告されたそのとき、皇帝の座に就いているのが自分だという確信があった。
自分でなければ、ヴォラキア帝国を救えないという確信があった。
他の兄弟姉妹には、その大役を任せられない。
自分の持てる全能力と可能性を継ぎ込んで、ヴィンセント・アベルクスは皇帝の座を奪取し、ヴィンセント・ヴォラキアとして帝国を残す手立てを打つ。
それが、ヴィンセント・ヴォラキアの、アベルの人生を懸けた計画だった。
強者が尊ばれるヴォラキア帝国において、誰もが信仰の対象とするだろう『九神将』の制度を復活したのも、その頂点に紛う事なき最強を置いたのも。
無分別な乱行の横行する帝国の在り方を捻じ曲げ、秩序ある暴力への抵抗感を失わせるよう誘導したのも。
自分亡きあと、ヴォラキア帝国を維持する可能性をできるだけ残したのも。
全ては、人生を懸けた計画だった。
「――――」
為す術もなく倒れ伏し、心の臓を穿たれた胸から大量の血をこぼし続ける体。
黒い髪に黒い瞳、鏡を見るたびに力不足と知識不足の焦燥に怒りを覚えたその顔が血の気を失い、どこも見ていない表情が血に浸っていく。
死に瀕し、色をなくしたときに得たと標榜していた『能』による現身は、その命が尽きても元の姿に戻ることはなかった。
もう二度と、あの姿を見ることも、減らず口が鼓膜を叩くこともない。
ない。
「何故だ」
問うてはならない問いが、唇からこぼれた。
その問いに答えられたものは、もう二度と口を開くことはない。それでも、無意味とわかっていることを避けてきたはずの唇が、そうこぼした。
『大災』の予言と、その条件を知れば覆そうとするのは想像がついた。
事前にその方法を模索して、打つ手はなかったと伝えて納得させたはずだった。それでも納得していなかったが故の謀反を、それでも無駄だと突き付けた。
こうして玉座の間で対面し、『大災』を避けて通る術はないと証明したはずだ。
自分の死後、帝国を任せるためにチシャを鍛えた。自分と同じように思考し、自分と同じ結論へ至れる存在へと、ヴィンセント・ヴォラキアの代理を果たせるよう。
だから、ヴィンセント・ヴォラキアなら、潔く負けを認めるはずだった。
負けを認めて矛を下ろし、この無益な戦いに終止符を打って、自分の死を受け入れるために戻ったアベルへと玉座を返還し、滅びの『大災』へ抗うはずだった。
そうならなかった。馬鹿げた賭けだった。
アベルの代わりにヴィンセント・ヴォラキアとして死んでも、『大災』がそれを認めなかったら、ただの犬死にで終わる馬鹿げた賭けだった。
それこそ、アベルの唾棄する非効率を極めた死だ。
それをチシャ・ゴールドは知っていたはずなのに。
「何故だ」
尽きぬ疑念と困惑が、流れる血で赤く赤く染まっていく。
問いかけを重ねても、答えのない沈黙が重なるだけ。それも、アベルの嫌う非効率の極みであり、そして――、
「――そりゃぁ、下策ってもんでやしょうよ」
直後、放たれる二射目の白い光が、棒立ちのアベルへと真っ直ぐに吸い込まれた。
△▼△▼△▼△
光の表現に偽りなく、死をもたらす一撃は矢よりも速くアベルを狙った。
元々、アベルは武闘派ではない。
そこへ直前の出来事の衝撃が抜けていなければ、視界の端を刹那だけ掠めた白い光に反応することなどおよそ不可能だった。
故に、この瞬間のアベルの命を救ったのは、アベル自身の判断ではなかった。
「――――」
アベルが光に貫かれ、正面から心臓を破壊される寸前だ。
轟音と激震が玉座の間を――否、水晶宮全体を激しく揺るがし、凄まじい衝撃に堅牢な壁が破壊される。その衝撃の原因は壁を壊してもなお止まらず、棒立ちのアベルと、そこへ飛び込む白い光の間に割って入った。
水の弾けるような音がして、白い光がその妨害に砕かれる。そして、間一髪のところでアベルの命を救ったのは――、
「――巨大な腕、モグロ・ハガネか!」
「玉座の男、守れ。閣下、私に命令」
アベルの眼前、突如出現した壁のようなそれは、玉座の間にねじ込んできたモグロ・ハガネの右腕だった。
水晶宮という『ミーティア』そのものであるモグロは、帝都ルプガナの城壁を自分の体として取り込み、戦場で激戦を繰り広げていたはずだ。
だが――、
「チシャか……っ」
先のモグロの発言は、彼が指示を受けてアベルを守ったことの証だ。
そして、遠方のモグロに戻るよう指示を出せたのは、『ミーティア』へと働きかける機能のある玉座に座っていた、チシャ・ゴールド以外にいない。
自分が射抜かれた直後、アベルもまた命を狙われると、そう読んだ。
「――っ、モグロ・ハガネ! 俺を外へ出せ!」
「お前、誰。私、閣下、優先――」
「皇帝は死んだ! 俺が死ねばそれが無駄死にとなろう!」
「――――」
アベルの強い言葉を受け、玉座の間を覗いたモグロが倒れた影に気付く。
どこが眼部に相当するのかわかりづらい状態のモグロだが、城壁に浮かび上がった緑色の宝珠が瞬くと、倒れ伏した皇帝の死を彼も認める。
「遺体――」
「不要だ! 死者に構うな!」
皇帝の亡骸を回収しようとするモグロを怒鳴りつけ、アベルは目の前の巨大な右腕へと飛びつく。手の形状をした指の一本にしがみつくと、モグロが玉座の間から腕を引き抜いて、猛烈な風を浴びる空へとアベルが吸い出された。
「――――」
城壁と一体となり、その構造を自分の動かしやすいように変化させたモグロ。
巨大な人型となったモグロの図体は五十メートル以上あり、持ち上げた腕に乗っているアベルの高さもおおよそ同じぐらいのものだ。
その高さから見える帝都の街並み、モグロが守護していた第三頂点から踏み潰された建物や道が散見され、なりふり構わず真っ直ぐ走ってきたのがわかる。
それ以外にも、各頂点の戦いはなおも続いており、すでに戦う理由を喪失し、次なる戦いへ備えなくてはならないものたちが無為に命を費やしている。
無為に、命を――。
「――っ」
思考に乱れが生じ、アベルは巨大な石塊にしがみつく腕に力を込める。
過ぎたことに囚われ、思考を千々に散らせている場合ではない。すでに事は起こっている。モグロに告げた通りだ。――今死ねば、犬死にだ。
せめて、その死に意味があったのかを見極めなければ。
「俺は死ねぬ」
絞り出すように声を漏らし、アベルは奥歯を噛んで眼下を睨んだ。
たとえここで声を上げようと、戦場で命をぶつけ合うものたちには届くまい。だが、この戦いの意味が潰えたことを何としても伝えねば。
「危険」
そう思考するアベルの鼓膜を、豪風のようなモグロの声が打った。
体格差が大きくなりすぎて、モグロの行動の一つ一つが蟻に対する人間のそれだ。しかし、モグロは無意味に鼓膜を揺らしたわけではない。
その巨体をひねり、水晶宮へと背を向ける形でアベルを包んだ右手を守る。連続する衝撃音が自分を包んだ右手の外側に響き、アベルは頬を歪めた。
立て続けの攻撃は一方向からではなく、四方八方から降り注いでくる。
それだけ敵の数が多い。――否、この精度で敵を狙える魔法の使い手を揃えることは、このヴォラキアの土壌では困難だ。
すなわち、これは数を揃えたのではなく、凄腕を一人用意した。
四方八方から、大勢で同時に攻撃したと錯覚させるような実力者――先の、脳の痺れに思考が止まっていたときの記憶が蘇り、アベルは顔を上げた。
その戦い方にも、求めた答えでも声でもなかったそれに覚えがあった。
それは――、
「――――」
モグロが身をよじり、降り注ぐ弾雨からアベルを庇い、下がる。
その包まれた拳の中から仰いだ空を、目にも留まらぬ速さで行き過ぎる残影。それは非常に珍しくとも、ヴォラキア帝国でなら目にする姿。
飛竜による飛翔と、それを操る飛竜乗りの曲芸飛行――否、これだけの速度で中空を滑れる乗り手は今の帝国にはいない。
まさしく、『極限飛行』とでもいうべきその技量は、帝国最強の飛竜乗りの独壇場。
刹那、白い光が散り、衝撃とモグロの巨大が砕かれる音が響き渡り、ある種の壁抜きが頬を掠める。その痛みに表情を歪めず、アベルは見た。
鬼面を被ったその黒瞳の視界を通り過ぎる飛竜乗り――その灰褐色の髪と、色を失った顔貌に走った罅割れ、そして闇夜のように黒い眼に浮かんだ金色の光。
あまりにも、見違えた姿だが、それでも見間違うことはない。
「――バルロイ・テメグリフ! 何故、貴様が生きている!」
「話しやせんよ、鬼面の御方」
瀟洒な印象の美声が紡がれ、答えを拒否しながらも存在は肯定された。
再び視界から消え、飛竜を操って空を切り裂く敵――バルロイ・テメグリフこそが、水晶宮の壁越しに玉座の間を狙い、偽の皇帝の心臓を射抜いた下手人だ。
『魔弾の射手』と呼ばれ、あらゆる飛竜乗りの頂点へと君臨した男。
かつての『九神将』の『玖』であり、過去に帝国で起こった内乱の際に――、
「バルロイ、死んだ。お前、偽物」
アベルと同じ認識に従い、巨体のモグロが反撃へ打って出る。
右手にアベルを包んだまま、モグロが巨体の左腕を振るい、文字通り、空を薙ぎ払って飛竜へと攻撃をぶち込む。
大きいものは動きが鈍いと思われがちだが、それは遠目から見たが故の錯覚だ。
魔法の狙撃からアベルを守ったことに加え、ここまでの敵の攻撃を全て防ぎ切っている。モグロの動きは俊敏で、的確だった。
「速い。細かい」
だが、そのモグロの俊敏さを以てしても、空の全部を自分の領域として飛び回るバルロイを押さえることは困難だった。
速度だけでなく、上下左右に正面背後、全方位に移動可能な飛竜乗りの特性は、地上へ落とす以外に取り上げることの叶わない最大の長所だ。
その上、バルロイはただの飛竜乗りではなく、飛竜乗りの頂点だ。
「風を纏わせているな……!」
魔法により、移動しながらの狙撃を得意とするバルロイの戦法だが、帝国では珍しい魔法の使い手である彼の強みは、攻撃だけに活かされるものではない。
自身の操る飛竜に風を纏わせ、速度の加減と衝撃の軟化、他の飛竜乗りでは実現できない機動を実現し、決して自分を捉えさせない。
ただし、これを実現するには息の合った飛竜の存在が不可欠だ。
「あの飛竜も、死の向こうより舞い戻ったか!」
絶大な戦闘力を誇る飛竜乗りの最大の欠点は、その育成に時間がかかることと、相棒として選んだ相手以外を飛竜がその背に乗せないことだ。
飛竜乗りを殺すには飛竜から。バルロイの死因も、その例外ではなかった。
しかし、バルロイは舞い戻った。文字通り、自らの愛竜と共に空を舞って。
「『大災』――」
はっきりと、それとわかる被害が生じているわけではない。
しかし、ヴィンセント・ヴォラキアとしてチシャが命を散らした以上、その後に起こる人知を超えた出来事には『大災』との関連性を疑わざるを得ない。
だとしても、バルロイ・テメグリフが『大災』を担うのは腑に落ちなかった。
確かに、バルロイは飛竜乗りの頂点であり、帝国最強の実力者たちの一人だった。
彼がその気になれば、アベルの命を摘むことなど造作もない。
だが――、
「揺れる。我慢」
「構わん、やれ!」
無機質な声が豪風のように放たれ、それに応えるアベルが声を高くする。
次の瞬間、敵を狙って繰り出していたモグロがその腕を自分の足下へと突き下ろした。足下と言っても、今のモグロの巨体で見れば通りの一本に相当する。
その、帝国の街路に突き刺した左腕が軋む音を立てながら、一拍の抵抗のあとで引っこ抜かれた街を、豪快に空へ放り投げた。
「――――」
街の一部が投げ飛ばされる光景は、アベルもしばらく前にカオスフレームで目にした。あのときも馬鹿馬鹿しい光景だったが、あれはあくまで都市の住人たちが一丸となり、解体した建物を投げ飛ばしていたに過ぎない。
だが、モグロのそれは小細工抜きの力技で、間違いようのない暴挙だった。
規格外と、モグロ・ハガネが『九神将』の一人であることを明かす光景。
確かにバルロイもまた規格外の一人であるが、モグロも、他の『九神将』も条件は同じなのだ。それ故に、バルロイが『大災』を担うには能わない。
無論、ただ引き抜いた街を投げるだけでは機敏なバルロイに躱されて終わりだ。
そのため、モグロはその投げた街という一個の砲弾を――、
「粉砕」
左腕を叩き付け、無数の散弾へと変えて空のバルロイの逃げ道を塞ぐ。
四散していく散弾も、その大きさは一つ一つが人間大よりも大きな岩や土の塊だ。モグロの一撃で飛散したそれは、常人なら掠めるだけで致命傷になりかねない。
当然、流法を習得しているバルロイであろうと、当たれば空中で致命的な隙を見せることになる。それを避けるために、
「カリヨン!」
暴風の中に鋭い声が通り、岩塊の散弾の雨を掻い潜るように飛竜が飛んだ。
翼をはためかせて空を切り裂く飛竜が向かうのは、岩の雨が降り注いでいる世界でかろうじて雨足の弱い一角――、
「無論、罠だ」
あえて雨足の弱い一角を用意したモグロ、しかし、バルロイたちもそれが罠だとわかっていても、散弾に当たるわけにいかない以上は飛び込むしかない。
あとは待ち受けるモグロの一撃を、愛竜を駆るバルロイが躱せるかの勝負。
飛竜に風を纏わせたバルロイが加速し、光で邪魔な散弾を砕きながら空を駆ける。
モグロが後ろへ引いた左腕を回転させ、世界を削岩する一撃が帝都の空を薙ぐ。
互いに『九神将』、バルロイの生前は実現のしなかった果たし合いが展開し、両者の渾身が空の上で交錯、雌雄を決しようと――、
――瞬間、本来の激突よりも早く、爆音と衝撃波が帝都の雲を吹き飛ばした。
「――ッ」
その爆撃めいた威力の直接の被害は免れながらも、余波だけでモグロにしがみつくアベルの体が引き千切られそうになる。
だが、どれほど細身に酷な状況になろうと、アベルは決して両目を閉じない。故に、この瞬間の出来事も、しっかりと眼で捉えていた。
「モグロの、腕が――」
回転し、バルロイを噛み砕くはずだったモグロの左腕が、その威力を発揮する直前で横槍を喰らい、人間でいうところの二の腕部分で砕かれた。
凄まじい回転をしながら、城に匹敵する長大さのモグロの腕が空を舞う。その被害の真下を悠々と抜けて、バルロイは散弾の雨から生還――否、壊れずに逃れた。
そして、モグロの腕を破壊し、バルロイを窮地から救ったのは――、
『お、おぉぉぉぉぉ――ッ!!』
大気を鳴動させる低い声を上げながら、猛然と横合いに衝撃がぶつかる。腕を破壊されて体勢を崩したモグロが、飛び込んできたそれに緑の宝珠を瞬かせた。
アベルも、この横入りは想定外。ただ、予想して然るべきことだった。
相手が、死から舞い戻ったバルロイ・テメグリフであるのなら。
『お前! 竜の良人から離れろっちゃぁぁぁ――っ!!』
振るわれる竜爪が易々と城壁でできたモグロの体を切り裂き、咆哮と共に叩き付けられる尾の一撃が一発で部位を破壊、モグロの質量がみるみる削られる。
いとも呆気なくだが、それも当然だ。――相手は、この世界で最強の生物。
「『雲龍』メゾレイア……今の中身は、マデリン・エッシャルトか!」
『あああァァァァ――!』
吠える龍が全身を暴れさせ、衝撃にモグロの巨体が大きく揺らぐ。その一撃ごとに城壁がひび割れ、砕かれた部位が帝都に落ちる。
世界で最も美しい城と呼ばれた水晶宮の庭園が踏み荒らされ、規律正しく整然と造られた帝都の街並みが一秒ごとに死んでいく。
それに加え、帝都が襲われる災難はそれで終わらなかった。
「――――」
龍の暴威に晒されるモグロ、その体が破壊される轟音に紛れてアベルの耳に届いたのは、はるか離れた場所で発生した世界が割れるような破砕音だ。
見れば、水晶宮の背後――帝都全体の水源となっている貯水池、山岳からの湧水を利用したそれの防壁に、先ほど千切れたモグロの左腕が突き刺さっていた。
一拍を置いて、腕の突き刺さった地点から亀裂が広がり、貯水池の水がひび割れから染み出して流れ始める。それは徐々に勢いを増し、やがては防壁全体を崩して濁流となって帝都へ流れ込むだろう。
今すぐにでも、帝都の住人と、攻防戦へ加わる帝国兵と叛徒の避難誘導を――。
「――失敗」
そのモグロの小さくない呟きが聞こえた直後、アベルの体を浮遊感が襲った。
体の中身が浮かび上がる感覚に振り向けば、アベルが投げ出されたわけではなく、モグロの腕が、アベルを包んだその手首から先が龍に噛み砕かれていた。
狙ったわけではなく、がむしゃらな攻撃の一部に過ぎない。
しかし――、
「――ぉ」
自由落下の勢いに呑まれ、アベルの体が中空で反転する。
モグロの腕にしがみつく手が引き剥がされるが、仮にしがみついたままでいられても、元が城壁だったものでは緩衝材にならず、死因になるだけだろう。
だが、モグロの腕が死因にならなくても、このままでは類似のどれかが同じ命運をアベルへとぶつけるだけだ。
「何かを――」
見つけなくてはと視線を巡らせ、そのアベルの目が一点に吸い寄せられる。
ただし、それは救いの手としてではなかった。
アベルの目に入ったのは、モグロから引き出された水晶宮の大穴だ。
玉座の間と繋がった穴、その中を覗くことはできないが、意識は引き付けられた。
死者に構うなと言ったものが、同じ毒を飲んだも同然だった。
「――――」
その一秒があったところで、打開の策が見出せたかはわからない。
だが、その一秒を費やせなかったことは、アベルにとって尽くせなかった全霊の証であり、その魂に消えない傷を永遠に刻み込むものだった。
もっとも、ここでそのまま転落死していれば、魂の傷など議論に値しないが。
「引けぇ――っ!」
「――っ!?」
講じる手段に迷い、手足を順番につくやり方で衝撃を散らそうとしたアベルを、それよりも早く柔らかい感触が力強く受け止める。
思わず息を詰めたアベルの体が弾み、再びその感触の上に落ちる。何度かそれを短く繰り返して、アベルはそれが広げた布の弾みだと気付いた。
誰かが落ちてくるアベルの下で重ねた布を広げ、受け止めたのだ。
九死に一生を得た事実を咀嚼すると、アベルはすぐにその布の上を転がり、端から地面に足を付けた。片膝をついて、誰がそれをしたのか確かめようと顔を上げ――、
「――さーあ、きましたよ、天命の時が!」
「――――」
「閣下か、それとも閣下か。いずれにせよ、『大災』がやってきます。ぼくと一緒に、『大災』に抗おうじゃあーりませんか!」
それほど予言の成就のときが嬉しいのか。
あまりにも場違いに明るい声と態度で両手を広げ、壊れてゆく街と、それを実現している巨大なモグロと『雲龍』の戦いを背後にしながら男――ウビルクは笑う。
『星詠み』の自らにもたらされた天命の、確かな実現の瞬間を祝福して。
△▼△▼△▼△
壁の砕かれる轟音が響き渡り、水晶宮が激しく揺すられ、決定的な何かが起こったのだと確信されたとき、ベルステツ・フォンダルフォンは玉座の間へ乗り込んだ。
そして――、
「――チシャ殿、ですか?」
崩落した玉座の間の壁と、新しい粉塵が舞い散っている中、赤い絨毯の上に倒れている黒髪の皇帝の姿を発見し、ベルステツは細い目の目尻を沈鬱に下げた。
歩み寄れば、うつ伏せに倒れたその体の胸に穴が開き、内で鼓動を刻んでいたはずの心の臓が爆ぜて、命脈が途絶えている。
武官ではないが、一目でわかる。即死だ。痛みを感じる暇もなかっただろう。
「それは、私奴たちの行いを思えば、何とも慈悲深い終わりと言えましょう」
皇帝であるヴィンセント・ヴォラキアに反旗を翻し、謀反を起こしたときから、ベルステツは決して楽な死に方はできないと覚悟していた。
チシャも、共謀者として同じような覚悟を決めていたはずだ。
もっとも――、
「『星詠み』の話では、あなたは私奴とは別のものを見ていたようですが」
それは明確な裏切り行為だったが、ベルステツはそれを責めるつもりはなかった。
むしろ、称賛する気持ちが本心だ。
欲しいものを得るためであれば、己の持てる力を尽くして挑むのが帝国流。
ベルステツもチシャも、どちらも帝国流を貫くには武力を持ち合わせていなかったが、その足りない部分を知略を以て埋めるという点では似たもの同士だった。
それもまた、強さの形であると証明し、認めたのがヴィンセント・ヴォラキアが皇帝として作った新たな帝国の形。
ベルステツも認めるその帝国のやり方に倣えば、チシャは見事に証明してみせた。
自らの力を。――それは、ヴォラキア帝国の男として誉れある行いだ。
「ですが、称賛の言葉をかける時間は取り難いようで」
亡骸を見下ろしていたベルステツは、暴風の吹き込んでくる壁の穴を見やり、その向こうで動いている岩の色をした巨体――モグロ・ハガネの存在を確かめる。
状況的に、モグロがチシャを殺したというのはおかしい。
モグロは立場上、皇帝に扮したチシャの味方だったはずだし、チシャの死因は胸を貫いた一撃だが、あのモグロの巨体にそんな繊細な攻撃は不可能のはず。
気掛かりがあるとすれば、ベルステツとすれ違う形で水晶宮の外へ向かった『星詠み』――ウビルクが残した、奇妙な言葉だ。
「『大災』と、それがもたらす滅び……いったい、私奴の知らぬ何が帝国に?」
「――あらぁ、知らされてないのぉ? なら、私が教えてあげましょうか?」
「――――」
不意に、聞こえた声に頬を硬くし、ゆっくりとベルステツは視線を戻した。
大穴に向けていた目を、倒れている皇帝の姿をした亡骸に。そして、さらにそこから視線を持ち上げ、玉座の間の最奥――玉座へと。
城全体を揺るがす衝撃があってなお、盤石の位置を動かずにある玉座。後ろにかかった剣狼の描かれた国旗が風に揺れるそこに、頬杖をついている影がある。
畏れ多くも、皇帝閣下の座るべき玉座に腰を下ろし、ベルステツを見下ろしている人影が。
「――な」
本来ならば、ベルステツは声を厳しくし、その玉座に座った相手の不敬を咎めなくてはならなかった。
しかし、それができなかった。驚きに声が出なかったというのもそうだが、それ以上に咎める資格がベルステツにはなかったのだ。
宰相という地位は、このヴォラキア帝国においては皇帝や皇族の次に権威がある。
『九神将』と謳われる一将たちも同格と言えるが、重要なのは宰相の立場にあるベルステツが、咎める言葉を発せない相手など国内にもほとんどいないという事実だ。
にも拘らず、ベルステツには相手を咎められなかった。
何故なら――、
「まだ生きてたなんてしぶといわぁ、ベルステツ。――ねぇ、『選帝の儀』はどっちが勝ったのぉ? ヴィンセント兄様? それともプリスカかしら?」
血の気の引いた美しい顔をひび割れさせ、そう言ったのはヴォラキアの皇族。
かつて、ベルステツ・フォンダルフォンが仕えた主であり、『選帝の儀』で敗死したはずの皇女、ラミア・ゴドウィンが悠然と玉座で足を組んでいた。




