第七章106 『頂点乱麻(後編)』
異変に気付いたベルステツ・フォンダルフォンが玉座の間へと戻ったとき、その水晶宮で最も尊ぶべき一室の扉は堅く閉じられていた。
その『閉じる』とは、単なる扉の開け閉めのことを意味しない。
この場合の『閉じる』とは文字通り、扉の完全な外界との隔絶を意味する。決して、余人を立ち入らせまいとする宮殿の主、その意向の表れだと。
ただし――、
「――果たしてこの場合、その主の意向はどちらのものと考えるのが適切なーのか、どっちだと思います、宰相様?」
閉ざされた扉の前に立って、両手を広げた優男の道化めいた態度に、ベルステツは糸のように細い目をさらに極端に細め、足を止めた。
薄笑いを浮かべて佇む男、それは『星詠み』の特性によって水晶宮への出入りを許された一種の例外であり、敵とも味方とも明言しない立ち位置を得た慮外の存在。
「ウビルク殿、玉座の間には……」
「ぼかぁ、意地悪ではないので真実をお伝えしますよ。皇帝閣下がおられます。本物と偽物が揃い踏み、じっくりご対面というわーけで」
「……解せませんな」
想像のつく答えではあったが、実際にそう返答されるとベルステツは顎に手をやる。
解せない、と口にした通り、素直に納得のしづらい状況なのは間違いなかった。そのベルステツの反応に、ウビルクは「解せない?」と首を傾げ、
「何が受け入れ難いんです? 本物の閣下をここへお連れした方法ですか? それなら、ぼかぁ、星の囁きに導かれて……」
「戦場においても、矢弾の降り注がぬ道を選んで歩ける。兵士たちがすぐ脇で斬り合いをしていようと、その剣撃どころか血飛沫の届かぬ場所を踏み分けられる、でしたな」
「ええ、そういうわーけです。それだけではありませんが」
へらっと笑い、隠し立てする素振りも見せずにウビルクが頷く。
馬鹿げた話だが、ウビルクの異常性はベルステツもその目で確かめたことがある。
ウビルクは文字通り、剣林弾雨の降り注ぐ中を悠然と、掠り傷一つ付けずに歩き抜けたこともあった。星の囁きに従ったというのがウビルクの主張だが、それが事実なのか、あるいは超人的な戦闘力を秘めた彼の虚言なのか、ベルステツには区別つかない。
はっきり言えることがあるとすれば、それが星の囁きだろうと、ウビルク自身の実力であろうと、人知を超えた力が彼を取り巻いているという点。
そしてそれが有用であるからこそ、本物のヴィンセント・ヴォラキアも、偽物のヴィンセント・ヴォラキアも、ウビルクを手放そうとはしなかった。
全ては――、
「いずれ来たる『大災』を防ぐ、そのための導き手として」
「あーれれ、ぼくの人間性を評価してではなく?」
「人間性を評価されて水晶宮へ召し上げられたものなど、それこそゴズ一将ぐらいのものでしょうな。それ以外のものは皆、能を認められてのこと。私奴も例外ではなく」
個人への愛着など、国家運営の観点からすれば無視すべき羽虫の羽音に過ぎない。
それがベルステツの考えであるし、どちらのヴィンセント・ヴォラキアにとっても同じであると確信を持って言える。
良し悪しや好悪の問題ではなく、要不要の観点で語るべき議題だ。
その点で言えば、ベルステツも所詮は現時点で必要な歯車に過ぎず、置いておく価値のない不要な立場となれば、取り除かれることに何ら抵抗感はない。
ウビルクも、覚悟はともかく、求められる役割はそこを逸脱しないはずだ。
「それを自認していればこそ、あなたも今玉座に座る閣下と、私奴の謀を見過ごしたのではなかったのですか?」
「もしかして、ぼくの行動を裏切りとお思いですか? そーれは難しい。なにせ裏切るには先に信じてもらわなくちゃいけません。ぼくを信じておいでで?」
「いいえ、全く」
「でしょう? 言ってて傷付くんですが」
額に手を当てて、傷付くと言いながらも愉快げなウビルク。それが余裕なのか別の何かなのか、ベルステツは彼の表情が崩れる場面を目にしたことがない。
これまではそれを不愉快とまで思わなかったが、この瞬間は初めて目障りに思う。
水晶宮を追放され、皇帝の資格を手放したと見切った本物のヴィンセント・ヴォラキア――彼を扉の向こうへ連れてこられ、決定的な場に引きずり出された今では。
「一つ、宰相様の疑問にお答えしますが……ぼかぁ、立場を変えてませんよ」
「――立場、というと?」
敵か味方か、どちらと嘯くつもりなのかベルステツが問い質す。すると、それを聞いたウビルクは胸の前で手を合わせ、空気を弾く音を立てると、
「もちろん、『大災』を退け、ヴォラキア帝国の安寧を維持を望むモノとして」
「――。そのために、扉の向こうの対峙が必要だと」
「ええ、そうですそうです。ぼかぁ、全部そのためにやってますよ。――この心の臓の鼓動も、肺を膨らませ萎ませての呼吸も、上へ下へ行き交う血の流れも、何もかも」
「――――」
叩いた手を己の胸に当てて、そう続けるウビルクにベルステツは沈黙した。
変わらない笑み、揺るがない態度、しかしてどこか鬼気迫るウビルクの眼差しは、ベルステツの目には正気であり、本気であるように窺えた。
その正気と本気が、凶気の向こう側を覗いたものでないかは定かではないが。
「――閣下、あなたはどうされますか」
ウビルクが守るように立ちはだかる大扉、その向こう側で対峙しているだろう二人の皇帝――その、自らが追放した相手を思い浮かべながら、ベルステツは呟く。
この首を刎ねられ、魂を焼き焦がされ、如何なる残虐な処刑を味わわされたとしても、ベルステツは構わないのだ。
ヴィンセント・ヴォラキアが、帝国史でも有数の賢帝である彼が、真に皇帝たらんとするのであれば、構わないのだ。
だから――、
△▼△▼△▼△
「腰と言葉の軽い男だ。信義を空に預けた『星詠み』など、当てにしたものではないな」
「元より、あれの忠誠心に期待などない。忠義を理由に席次を埋めるなら、今日までのヴォラキアを維持することは叶わぬ。もっとも」
「――――」
「秘めたる野心の功罪を問わなかったが故の転落だとすれば、俺がこうして宮殿の床を踏むのが遠ざかるのも必然と言えようが」
血のように赤い絨毯を踏み、腕を組んだアベルは眼前の相手を見据えて問いかける。
この場にアベルが参じた時点で、それが誰の手を借りたものなのかは議論の余地がない。異物という特性を突き詰め、『観覧者』の意向の実現に心血を注ぐあの男は、盤面の外側を歩くことにおいて他の追随を許さない。
一種の飛び道具だ。ただし、条件が満たされない限りは持ち場から剥がせない道具。
動けば諸刃となり得るその飛び道具、それを持ち場から引き剥がす条件を特定するのが至難の業だった。だが、成し遂げた。
こうして、一度は追われた玉座の間を再び踏んでいるのがその証。
これまでの策謀と雌伏は、この機会を奪取するためにあったと言っても過言ではない。
「――――」
見据えた玉座に座り、問いを受けるその男の顔は幾度も目にしたもの。
自分の顔だ。ただ親密であるなどと、そんな理屈は超越したところにある。
他者にはヴィンセント・ヴォラキアそのものに見えているだろう顔は、しかし、その顔を装う術を身に着けた男を長年知るアベルにとっては、出来の悪い仮面にしか見えない。
だが、出来は悪くとも仮面は仮面だ。
被さった仮面は素顔を覆い隠し、その本音を陰に潜ませる役割を果たす。故に、アベルは視線ではなく、言の葉に問いを乗せる。
それも、誤魔化しようのなく、真っ直ぐに突き刺さる問いかけを。
「――ベルステツと結び、俺を追放して望みは叶ったか?」
アベルの口にした問いかけ、それは聞くものが聞けば激昂しただろう代物だった。
この水晶宮の一室で端を発した追放劇、その余波はすでに帝国全土に広がり、今も帝都を包む城壁では帝国兵と叛徒がぶつかり合い、命を散らし続けている。
帝都で暮らす民も、その勝敗に己の命を預けている形だ。
そんな中で、アベルの問いは何を悠長なと誹りを免れ得ない類のものだった。
だが、アベルはそれを口にした。一切の無駄を好まず、ここに至るまで多くの権謀術数を巡らせた反逆者がそれを口にしたのは、必要だったからだ。
この先の、偽のヴィンセント・ヴォラキアとの対話において、アベル――否、本物のヴィンセント・ヴォラキアが、何を求むるべきか定めるために。
そして、逡巡にしては長く、思案というには短すぎる時間を置いて――、
「――いいや、まだだ。いまだ、余の求むるところの結果は得られておらぬ」
問いかけた声色とまるで同じ声色で、偽なる皇帝の真なる皇帝への答えがあった。
「――――」
その答えに対し、アベルもまた一瞬の時を必要とする。
逡巡とも思案ともつかないそれを間に挟んで、アベルは一呼吸の間を作った。
そして――、
「いまだ、求むるところは得られていない、か」
そうこぼしながら、両目をつむった。――生まれながらの習慣に逆らって。
アベルは決して両目を同時につむらない。常に片目を開けておかなくては、瞬きのあとには命のない帝国を統べる皇帝として、備えに不足すぎる。
訓練と自覚により、眠るときでさえ片目を開け、意識を半分覚醒させておけるアベルにとって、両目を閉じる暗闇の訪れは数年ぶりという話ではない。
それを行うことと、それを行えたこと自体を、アベルは自らの意思表明とした。
すなわち、
「欺瞞だな」
この玉座の間に足を踏み入れてから、アベルの声にも眼差しにも、怒りや失望といった感情は交えられてこなかった。それは自身を裏切り、背中から刺したも同然の相手を前にしても同じこと。鋼の自制心ともいうべきそれがそうさせた。
その、徹底して感情を排したアベルの声に、ここで初めて色が混じる。
自分を装う顔をした相手への、隠すことをやめた軽蔑の色が。
「――――」
そう言われ、玉座を温める偽りの皇帝は無言を守った。
守る、だ。その無言で守るものが、つまらない矜持であればまだ救いようもあったが。
「俺を玉座から追いやり、事態を知ったゴズめを始末し、逃亡後の俺の方策を先回りして潰さんと画策した挙句、魔都の消滅に一役買った。拡大する火種は全土へ燃え広がり、謀反者の叛意の及ばぬ禁域たる帝都についに無粋な土足を許したぞ」
「玉座にいたのが自分であれば、そうはならなかったとでも?」
「元より、俺が玉座からどいていなければ此度の絵図は描かれぬものだ。結果、貴様が招いた大火は帝国を焼いた。ただし」
そこで一度言葉を切り、アベルは自らの顔を覆った鬼面へと手を伸ばした。
そして――、
「――今すぐに火消しする術もある」
言いながら、その顔に張り付く仮面を引き剥がし、外気に、相手の視線に素顔を晒す。
こちらを見下ろす顔貌、寸分変わらぬ瓜二つのそれ同士で、二人の皇帝が向かい合う。本物と偽物、余人にはその違いを見抜くことの叶わない写し鏡を。
「――――」
聡い男だ。アベルの行動と言葉、その意図は明瞭に伝わったことだろう。
事ここに至れば、自らの不利も、その計画の成就の困難さも十分わかっている。抗ったとてどうにもならない条理の波濤が、打ち立てた策謀を押し流すときだ。
共に、見据える障害、抗うべき『大災』が同じであれば、それも道理だった。
故に――、
「俺が――」
あるべき場所へ戻ると、そう決定を告げようとした。
抗い難い勅令を発し、この愚かな動機で始まった戦いに決着を付けようとした。
まさしく、その直前だった。
「――閣下」
その一言が、アベルの言葉の先を止めた。
その姿で、声色で、発するべきではない単語だ。自分より上へ遜ることなど、あってはならない立場の自覚を喪失した愚かな一声だ。
それが聞かれた瞬間、アベルの言葉が一拍遮られた。
それはあるいは、この水晶宮で二度目の、アベル――否、ヴィンセント・ヴォラキアがその思惑を裏切られた、致命的な瞬間だったのかもしれない。
一度目は、玉座を追われた。そして、この二度目では――、
「――――」
その一拍の隙間に滑り込むように、偽の皇帝が玉座から立ち上がる。
重い腰を上げ、ただでさえ見下ろすようであった高低差がほんのわずかにまた開く。しかし、その印象は瞬く間に掻き消え、どうでもよくなった。
何故なら――、
「――盤面の俯瞰、その一点が落ち度だ」
そう告げる姿が一息に距離を詰め、アベルの眼前へ迫っていた。
△▼△▼△▼△
――帝都ルプガナの水晶宮で、真偽二人の皇帝が吐息の交わる距離へ詰める。
その瞬間、帝都攻防戦の各所で同時多発的に変化が生じる。
それはそれぞれ、異なる想いと信義によって発生したものだったが、一点だけ、いずれの場面においても共通していたことがある。
どの場面の変化も、何一つ望ましいことではなかったという一点だ。
「――エル・フーラ」
手にした杖を振るい、渇いた空気の張り詰めた戦場に風を起こす。
常であれば最小限の労力で、的確に相手の喉笛を切り裂くのに注力する魔法。ただし、この戦場の敵にはそれが有効打足り得ないと、ラムは実感していた。
群れを成し、立ちはだかるのは命があるとは思えない石塊の人形たちだ。
自意識らしいものはなく、近付いてくるものを機械的に迎え撃ってくるそれらは人型でこそあるが、およそ人体の急所というべきものが存在しない。
首を落とそうと、手足を断とうと、残った部位を武器として敵へ襲いかかる。
故に、ラムの得意な戦術は効果を為さない。
しかし、それで太刀打ちできないと匙を投げるほど、可愛い乙女ではいられない。
「放テ――ッ!!」
群れを睨むラムの歩みに呼応し、同じく前線を推し進めるのは褐色の肌の戦乙女の列。戦場を怖じずに突き進む『シュドラクの民』、彼女らが弓を構え、矢をつがえ、そして押し寄せてくる石塊の障害に一撃を放つ。
その矢の一本一本に自らの風を纏わせ、ラムは問題を強引に蹴散らしてみせる。
風を纏った矢は速度と回転を加えられ、石人形へと直撃した瞬間、その鏃が食い込んだところで風を炸裂させ、生まれる貫通力が人形を四散させる。
威力の死なない矢は、そのまま背後の石人形へと連鎖的に突き刺さり、同じ破壊をもたらして被害を拡大する。
放たれた矢一本で、石人形を二体から三体落としていく戦果。
それに加えて――、
「フーラ」
囁くような繊細な詠唱が、壊すための風と異なる波長の風を生み出し、四散した石塊の散らばる大地を撫で上げるように吹き抜ける。
途端、石人形を破壊して地へ落ちた矢が舞い上がり、駆け抜けるシュドラクたちの手へと再び戻り、つがえられ、放たれ、石人形を倒す。その繰り返した。
「フーラ、エル・フーラ、フーラ、エル・フーラ」
交互の詠唱、立て続けの魔法の行使、同じ系統の魔法の繊細な動作。
魔法の発展から置き去りにされたヴォラキア帝国で、ましてや練達した戦技に対して敬服と感嘆しか持たないシュドラクには、その異常な手腕がわからない。
目をつぶり、手を使わずに針の穴に糸を通す。それも、同時に十も二十もある穴へと、同じだけの数の糸を通すという神業なのだと。
ラムの参戦と風の魔法の効力により、シュドラクの突破力が数倍に膨れ上がる。
ズィクル・オスマンの信義と感傷が置き去りにさせた女戦士たちが、結果的に温存された力を用い、第三頂点を封殺するはずの戦力を粉砕していくのだ。
「あア、快いナ! 敵も味方モ、その度肝を抜いてやるというのハ!」
言いながら戦場を駆けるのは、その手に黒光りする短刀を握ったミゼルダだ。
失った片足を義足としながらも、その躊躇のない足取りは欠損を感じさせない。味方の矢が容赦なく飛び交う戦場の最前線を駆け抜け、両手に握った刃を振るい、ミゼルダが嵐の如く石人形たちを打ち砕き、一団に穴を開けていく。
「姉上は勝手によけル! 手を止めるナ! ラムの風に我らの意気を乗せロ!」
自らも弓を手にし、他のシュドラクが一射放つ間に三射は放つタリッタが、前線で暴れ回る姉の背を見据えながら、同胞たちへと檄を飛ばす。
それに従い、シュドラクたちの矢が石人形の群れへ痛打を与えれば、投げ捨てるはずの命を拾ったズィクルたちが陣形を崩しに突撃する。
「どけどけどけどけ! 石の雑魚人形が、戦場を荒らしてんじゃねえええ!!」
その先頭で野卑な声を飛ばすのは、見た目の品性と裏腹に流麗な剣技を扱う男。眼帯の男が石人形を撫で切りし、戦場が一挙に均される。
圧倒的優勢と、ここまでの描写だけで言えばそう言えるだろう戦況。
しかし――、
「退避――っ!!」
美しい毛並みの疾風馬、その背に跨るズィクルが声を上げ、最前線を走る一団が即座に散会する。直後、その一団の中心へと頭上から『壁』が落ちてくる。
轟音と激震が大地を押し包み、誇張なく砦そのものと戦うような現象――城壁と一体化したモグロ・ハガネの脅威は、石人形をいくら削っても衰えない。
文字通り、モグロの腕の一振りで、押し込んだ戦況は瞬く間に押し返される。
一進一退ではなく、一進二退の攻防が繰り広げられていた。
だが――、
「――なに?」
シュドラクに矢を渡し、シュドラクの矢を穿たせ、戦場の一進に注力していたラムが、その薄紅の瞳を細め、起こった変化を訝しむ。
それは兆しに気付くのがラムが最初だったというだけで、次第に誰もが目に留まる変化として、第三頂点を巡る戦場の変化を象った。
変化、それは――、
「――っざっけんな! 敵に背中向けてんじゃねえ! それでも一将かぁ!?」
規格外の巨体となったモグロ・ハガネ、その背へと野卑な罵声がぶつけられる。
そう、その背へと。――戦場で相見えるラムやシュドラク、大勢の戦士たちに背を向けて、帝都へとその大きな一歩を踏み出したモグロ・ハガネの行動に。
「ダメ! 全然起きてくれない!」
肩を揺すぶり、声を投げかけ、ほっぺたを軽く叩いてみても、腕の中でぐったりとしている竜人の少女――マデリン・エッシャルトは目覚めない。
雪上に倒れ込み、動かなくなっていた彼女を回収したエミリアは、大慌ての戦場を少しでも良くしようと頑張っていたが、なかなか結果に結びついてくれなかった。
「メゾレイアは……」
目を閉じたまま、頑なな眠りに閉じこもるマデリンを抱きかかえ、寒風に銀髪をなびかせるエミリアが振り向けば、そこでは規格外の存在同士の戦いが行われている。
一方はその存在からして、普通の生き物と隔絶してしまった雲を纏う龍。
もう一方は見た目と喋り方は小さな子どもなのに、大人やエミリアも顔負けの戦いぶりで戦場を飛び回っている青髪の少年。
『雲龍』メゾレイアとセシルス・セグムントの戦いは、もはや伝記の一説だった。
「しゅわ!」
何の工夫もないゾーリの足裏を氷の壁に付けて、セシルスの体が地面と平行になる角度で空を走っていく。
何にも掴まれなかったら、人の体は普通は地面に落っこちるのだ。なのに、セシルスはそういう当然を無視して、高い高い氷壁を頭上の龍に迫る足場とする。
最後の一歩を強く踏み切り、セシルスの体が雷の速度でメゾレイアへ追いつく。
翼を羽ばたかせ、距離を取ろうとしたメゾレイアはその機動に翻弄され、振るう爪を避けられた挙句、空いた首元へと氷剣の斬撃を無防備に浴びた。
『――ぎあぅッ』
龍の龍らしくない悲痛な苦鳴が上がり、甲高い音が龍の首元で砕ける氷剣の末路を音で周囲に伝える。鉄のように硬くした氷の刃を砕いたのは、果たして『雲龍』の鱗の頑健さだったのか、はたまた振るったセシルスの剣速が原因だったのか。
いずれにせよ、砕かれた氷剣は役目を終え、中空のセシルスは無防備に――、
「より取り見取りの目移り放題! 制限なしの小細工抜きです!」
氷剣の砕ける音と匹敵する高い声は、セシルスの地声と気持ちの盛り上がりの表れだ。
耳心地のいい音調で紡がれるセシルスの言葉、それに続いたのは二つ目の氷の破砕音――違う、二つどころじゃなく、三つ四つと連続する。
「ちゃいちゃいちゃいちゃいちゃい!」
空中で無防備になったかと思いきや、跳び上がったセシルスに抜かりはない。
彼はエミリアの生み出した無数の氷の武器――アイシクルラインの武器を次々と引っこ抜くと、それを自分の服に突っ込んでおいたのだ。
背中に腰に股の間と、空へ逃れるメゾレイアへ追いつく間に拾ったそれらが、空中に上がったセシルスの手で次々と振るわれ、メゾレイアの鱗を剥いでいく。
氷の剣が、斧が、槍が、槌が猛然と荒れ狂い、その激しさに『雲龍』が防戦一方。あるいは防げていないのだから、その表現すらも誤りかもしれない。
「すごい……」
遠くで、巻き込まれない立ち位置にいるから目で追えるが、すぐ目の前でセシルスに動かれたら、きっとエミリアはその残像も追い切れないだろう。
そのビックリ加減を見ていれば、もしかしたらマデリンが目を覚まさなくても、セシルスがメゾレイアをやっつけてしまうかもしれない。
それならそれでと、そう思う心がないではないのだけれど。
「あなたも、大事な人のために戦ってるんでしょ?」
意識のないマデリンの寝顔に、エミリアは紫紺の瞳の目尻を下げる。
ずっと敵対しているし、怒っているし、聞く耳を持ってくれないマデリンだが、それで嫌いになれるほどエミリアは彼女を知らなかった。
わかっているのは、彼女が怒っている理由が大事な人への想いがあるからで、メゾレイアはそんなマデリンの力になるために降りてきたこと。
そのメゾレイアが、自分が眠っている間に死んでしまったら、マデリンの心はどんな状況に追いやられるだろうか。
「マデリン、起きて! 起きてったら!」
戦いの最中だ。ましてやセシルスは、危うかったエミリアの命を助けてくれた。
その彼に手を抜いてほしいだの、メゾレイアを殺さないでほしいだのと、そんなワガママなことを言うことはできない。
だから、マデリンだけなのだ。マデリン自身も、助けにきたメゾレイアも、どちらの命も奪わせずに、この戦いを終わらせられるかもしれないのは。
「あ、なるほど! 翼の付け根が弱めなんですね!」
そんなエミリアの望みと裏腹に、戦いを喝采するセシルスの分析が進行する。
ボルカニカと戦った思い出を振り返ると、エミリアには龍という生き物の弱点なんてちっともわからなかったが、セシルスはそうではないらしい。
空中から落ちず、自分を弾き飛ばそうとする翼や尾の攻撃に身躱しを合わせ、龍の体を足場に空中戦を続けるセシルスの剣撃が、言葉通りに龍の翼の根元を打つ。
瞬間、悲鳴の種類が変わり、白い雪化粧へと青い血が滴った。
頑強な鱗の向こう側、そこに斬撃が通った証だ。
「もしも龍が翼を失ってしまったら地竜と何が違うことになるんでしょうね? 地を這う戦い方は長い生涯で学ぶ機会はありましたか?」
嘲っているわけでも、侮っているわけでもない。
セシルスの声の調子は変わらず、強いて言うなら自分を盛り上げるために言っている。でも、彼の口にしたことが現実になるのは目の前と、そうエミリアにも確信できた。
エミリアに確信できたなら、直接剣を振るわれるメゾレイアはもっと確信したはずだ。
翼を断たれ、地へと落ちる龍。
それがどのぐらい耐えられないことなのか、翼もなければ龍でもないエミリアには想像もつかない。でも、それでメゾレイアの勝ち目がなくなるのはわかる。
空にいても追い切れないセシルスを、地上で追い切れるなんてとても思えないから。
『――竜は!!』
瞬間、目前に迫った屈辱を打ち払わんと、メゾレイアの低い声が爆発する。
メゾレイアの脇腹を蹴り、跳び上がったセシルスの斬撃が翼の根本へ迫った。それが当たる直前に錐揉み回転し、空中で姿勢をうつ伏せから仰向けへ反転。
翼を狙ったセシルスを正面に仰いで、メゾレイアの龍腕が薙ぎ払われた。
爪か鱗か、いずれが引っかけられれば人間の体なんて簡単にバラバラになる。
早く動けるセシルスでもそれは例外ではないと、エミリアは悲鳴を上げかけた。だが、そのエミリアの悲鳴は、セシルスの死ではなく、別の光景に上がる。
「いやぁ、今のは危なかった!」
振るわれる龍の腕、それは確かに空中にあったセシルスを捉えた。
しかし、セシルスは当たった龍腕に対して足裏を合わせると、打ち据えられる猛烈な一撃を放った腕を走り抜けた。
龍の腕の肘あたりから走り始め、その竜爪の先を足場に射出される。
直撃され、体が吹き飛ぶはずの衝撃を走り抜けて飛び出すためのものに変換し、そのとんでもない足の速さで避けられないはずの死からも逃げ切ったのだ。
「美人さん!」
「あ、はい!」
美人と言われ、その呼び方に遠慮の言葉も忘れる。
それが何の呼びかけなのか本能で察知し、エミリアは龍の腕の先から飛び出し、氷壁の上に着地したセシルスの周囲に、また新しく氷の武器を鋳造する。
セシルスは素早くそれを拾い上げると、追撃してくるだろうメゾレイアへと向き直り、再びの跳躍に備えて膝を曲げた。
開いた距離、それを詰めるまでの瞬きの一瞬、それがセシルスの攻撃が絶対に届かない位置にあるメゾレイアの勝機。
当然、メゾレイアもここに全力を注ぎ込んでくる。――はずだった。
「あれ?」
即座に攻撃に備えて、腰を落としたセシルスが首を傾げる。
暗黙の了解、先手を譲る姿勢でいたにも拘らず、くるはずの攻撃がこなかったからだ。
そのセシルスの抱いた疑問は、エミリアにも同じようにあった。ここが勝敗を分ける最後の一線だと、いつの間にか端に追いやられたエミリアもわかったのだ。
なのに、メゾレイアは動かなかった。それどころか――、
『――――』
直前に、セシルスを消し飛ばすための龍腕を振るおうとしたメゾレイア。それが空中で動きを止め、その黒目に当たる部分のわからない白い眼が一点を見つめる。
自分を追い詰め、屈辱を味わわせようとしたセシルス――ではない。
氷壁の上で身構えるセシルスでも、この戦場を白く染め、メゾレイアにとっても無視できない存在であるマデリンを抱きかかえたエミリアでもない。
空中に射止められたように静止するメゾレイアは、その視線をさらに高い空へ。
自分よりもずっとずっと高い空へ向けて、止まっていた。
「……何か、飛んでる?」
つられてメゾレイアの視線を辿り、エミリアは灰色の雪雲の方に目を凝らした。
メゾレイアの巨体が浮かぶ空よりもさらに高い位置、そこにエミリアの視力でも見えるか見えないか、ギリギリのところを何かの影が飛んでいる。
空を飛ぶもの、それは目の前の龍か、戦場をたくさん飛んでいる飛竜か、移動時間に横着したロズワールかのいずれかしか、エミリアの選択肢はない。
そして――、
『――嘘っちゃ』
そう呟いたメゾレイアが、翼をはためかせる。
止まっていた龍の体が動きを再開する。ただしそれは、直前まで行われるはずだった決定的な攻撃を放つための動きではなく、
「えええ!? ちょちょちょ、待った待ったそれはないでしょう!?」
その動きを目の当たりにした途端、セシルスの表情に最大の激震が走った。
それまで何をされても楽しげだった表情が一点、大慌てに目を白黒させる。それはそうだろう。飛び込んでくるはずの相手が、まさか背中を向けたのだから。
『――――』
そのセシルスの声に耳を貸さず、メゾレイアが翼を翻し、空を切り裂く。
一度、飛ぶと決めて動き始めた龍の速度は尋常ではなく、切り返して空へ上がる龍の勢いは力一杯放たれた矢のように俊敏だった。
「させます、かぁ!!」
その飛び去ろうとする龍を逃がすまいと、膝を曲げたセシルスが迎撃ではなく、飛んでいく龍を追うために脚力を爆発させる。
小さな体からは信じられない踏み込み、それが分厚く巨大な氷壁に靴裏を起点にひび割れを生じさせ、崖崩れのように氷を砕いてセシルスの体が跳んだ。
そのまま一直線に、セシルスの姿は龍の速度を上回って翼へ迫る。迫る。迫って迫って迫って、そして――、
「――あ、ダメだこれ届きませんね?」
いかにセシルスが足が速くて、すごく遠くまで飛び跳ねることができたとしても、元々空の上にいた龍に離れられ、その距離を消し去ることまではできなかった。
哀れ、セシルスの体が遠ざかるメゾレイアに追いつけず、飛び跳ねた限界のところで勢いをなくして逆さにひっくり返る。そのまま、『雲龍』が取って返してセシルスを狙っていたら、もしかしたら彼でも危なかったかもしれない。
だが、メゾレイアは戻らなかった。戻らず、ぐんぐんと上昇し、空を切り裂く。
そうして――、
「――帝都の中に入ってく?」
△▼△▼△▼△
――帝都攻防戦の各所で起こった変化、中でも特に大きな二ヶ所の展開。
それが水晶宮の外で繰り広げられた瞬間、玉座の間では二人の皇帝が顔を突き合わせ、互いの睫毛が触れ合いかねないほど近くで視線が交錯していた。
「――――」
一手、先を行かれた叛徒の首魁たるアベルは、しかし即座に思考を切り替える。
すぐ目の前に迫った自分と同じ顔の相手に対し、最善手――否、最善手の次の手を打とうと身を傾け、
「――っ」
鋭い衝撃が左の鎖骨を打ち、その痛撃に思考が赤く散る。
見れば、首元を打ったのは目の前の相手が手にした鉄扇――見知ったそれは、自分と同じ顔を装う相手が好んで用いる武装だった。
扱う武器としては特殊な部類、それ故にどれほどの威力があるものかと、疑問に抱いたことも多々あったそれだったが。
「――――」
その過去の疑問の回答を得た事実と、脳に突き刺さる痛みを意識的に思考から排除。
今この瞬間に優先すべき事項を頭に思い描き、それらに対処するための方策を直ちに立案する。実現性と効果の兼ね合い、負傷も交えて優先順位が整理される。
だが――、
「盤上遊戯とは違う。あなたが戦士足れない理由が、それでしょうなぁ」
頭に浮かび上がった無数の選択肢、それを選び取るよりも早く、戦士は頭ではなく、肉体に、血脈に沁み込ませた技を開示する。
それが容赦なくアベルの腕をひねり、力の抜ける腕から握ったそれを奪うと、次の瞬間にその視界が一瞬だけ閉ざされた。
「――――」
目を潰されたか、目くらましの類か。
一瞬の思案は、遮られた視界が直後に戻ったことで否定された。ならば、相手の行動の真意はなんであったのか。と、その思案と同時に気付く。
――自分の顔に、再び馴染んだ感触が被せられていることに。
「貴様――」
と、手や足よりも速く動いた唇が、眼前の黒瞳を睨んで音を漏らした。
その、奪われた鬼面を被せられたアベルの言葉に、目の前の偽の皇帝――否、チシャ・ゴールドが、自分のものではない顔で唇を歪める。
それがひどく退廃的な笑みだと、自分の顔で認めてアベルは目を見開いた。
刹那――、
「――――」
――玉座の間の壁を穿って飛び込んだ白光が、帝国の頂点たるヴィンセント・ヴォラキアの胸をその背後から貫いていた。