第七章97 『西の彼方より来たる』
――帝都ルプガナを舞台に繰り広げられる攻防戦、それは随所で佳境を迎えていた。
白い雪の降る空へ雲を纏った龍が舞い降り、赤々と燃ゆる炎が乱雲の如く空を焼く。石塊の人形たちと決死の形相の兵士たちがぶつかり合い、崩れた城壁を前に激突するは獣の豪腕と老獪なる悪意、戦況は一進一退に歪んでいく。
しかし、この瞬間、この刹那、この戦場での最大の焦点は帝都の最奥――水晶宮と呼ばれる、世界で最も美しい城から放たれた白い光だ。
城の全体に使われた魔水晶――魔石の中でもより純粋なマナの結晶であるそれが、溜め込まれたマナを増幅しながら対象を薙ぎ払う戦略兵器『魔晶砲』。
正しく、水晶宮の切り札であり、ヴォラキア帝国の有する最大火力の砲撃。この戦場においても、その一発で戦いの勝敗を決めかねない究極の一撃だった。
まずもって、この魔晶砲の存在を知るものが限られている。
知るのは当然ながら、皇帝の座にあったアベルと、作戦の概要を知らされたズィクル・オスマン。事前に情報を知っていて不思議のないプリシラ・バーリエルと、反乱軍側でも極々限られた人員のみ。
おおよそ、帝都側でも似たようなものだろう。反乱を主導する偽皇帝ヴィンセント・ヴォラキアと、それにつく宰相のベルステツ・フォンダルフォン。そして、水晶宮そのものであるモグロ・ハガネ――『九神将』すら知らない、隠し球なのだから。
そして――、
「――魔晶砲の余力は限界で三度、だがこの戦場では一度しか切れぬ」
それがアベルの読みであり、それ故にヴィンセントとも共有している意識。
様々な要因が絡むが、魔晶砲はあらゆる意味で国土防衛の切り札だ。その残弾を空にするような暴挙は、後々のことを考えれば到底使えるものではない。
無論、ヴィンセントが後々のことを一切合切考慮せず、この戦場で全てを使い潰すつもりで動くのであれば話は別だが。
「貴様にそうまで自暴自棄な真似はできまい」
その確信をなんと呼ぶのか、アベルはあえて考えない。
だが、確信は確信と、芽生えたそれを切り捨てることなく、アベルは戦場を敷いた。そして、一度きりしか撃てない魔晶砲の空撃ちを確実に誘発させることを選んだ。
その思惑は、貴重な戦力であるズィクルと、彼の旗下にある士気の高い兵士たち、それ以外にも各部族を束ねた『囮』が引き出してくれた。
「――精鋭は囮に使う。敵は無視できない」
そして形勢不利と見られた第三頂点、モグロの守る戦場へと魔晶砲が向けられる。
味方にも甚大な被害の出かねない魔晶砲の欠点、それがモグロの戦場では考慮する必要がなくなる。戦場にばら撒かれた石塊の人形、いずれの兵力もモグロの分体に他ならず、城壁と一体化した巨大なモグロさえも本体ではないからだ。
故に、両者の思惑は重なり、放たれた魔晶砲は反乱軍の一団を消滅させ、しかし、為す術なく敗退する反乱軍の敗因も打ち消す。――はずだった。
「――――」
刹那、放たれた白い光を呑み込んだ黒い光を、戦場の大勢が目の当たりにした。
それが何にもたらされたものなのか、魔晶砲の絶大な一撃が一切の被害を出さずに掻き消えたのはどこへなのか、それが敵味方のいずれに属するものの行いなのか。
生まれた空白に無数の思考が飛び交い、誰もが呆気に取られて動きを止めた。
想定の外側の出来事、それは反乱軍の指揮所にいたアベルも例外ではない。
彼もまた、慮外の現象に目を奪われ、わずかな時間の空白を思考に作った。――彼が違ったのは、そこからの復帰が誰よりも早かった点のみ。
誰が、どうやって、どこへ、その全てはわからないが――、
「――予定通り、打ち上げよ!」
予想よりも良い状況で臨めるならば、それに越したことはない。
多くの場合、戦場において必要なのは正しい判断よりも、速い判断だ。そして、その判断によって起こる出来事を更新し、正しい判断へ変えること。
白い光が薙ぎ払うはずだった戦場から視線を切り離し、アベルがそう命令する。アベルのその声に、硬直していた指揮所の兵が目を見張り、視線を下ろした。
その、動揺を隠せないでいる複数の視線に、アベルは鬼面越しの黒瞳で応える。
「今すぐに打ち上げよ! 指示を出せ! 遅れれば、ズィクル・オスマンの死を招く!」
「――っ」
「疾く、動け!」
「はっ――!!」
周囲、指揮所の兵はいずれもズィクルの肝煎りの部下たちだ。
元より、ズィクルの命も勘定に入れた上での作戦だ。そのズィクルの命を引き合いに出すことの空々しさを、だが、兵たちは呑み込んですぐさま動いた。
ここはアベルの決断力よりも、ズィクルの積み上げた信頼の為せる業だ。
「決死隊の役目は果たせなんだ。だからと言って、手を緩めるな、ズィクル・オスマン。生き延びたのであれば、まだ貴様には果たすべき役目があるということだ」
遠く、帝都を守る城郭の第三頂点で、本来ならば起こらなかったはずの激突が起こる。ズィクルが筆頭に、『シュドラクの民』と各部族を引き連れた戦闘だ。
モグロを抜いて、帝都へ押し込めるか、正しく地力の比べ合いとなった戦場。
その想定外の奮戦を遠く眺めながら、アベルは己の鬼面に触れ、呟く。
「――必然、俺のすべき役目も、近い」
そうこぼしたアベルの背後、命じられた兵が空へと魔石砲を打ち上げる。
それは状況の進展を示し、魔晶砲という切り札を切った帝都側への返礼――反乱軍側も切り札を切った、その証であった。
その光を眼に収めながら、アベルは視線を第三頂点の向こうへやり――、
「――西から盤面を動かそうとしている貴様は、何者だ?」
△▼△▼△▼△
「――よもや」
と、水晶宮の最上層から遠方にある戦場を眺め、ベルステツ・フォンダルフォンは老いた喉をわずかに震わせた。
滅多なことでは感情を覗かせない帝国宰相、その困惑と動揺は少なからず、ベルステツの傍につく衛兵にも驚きをもたらした。
「――――」
その兵たちの視線を横顔に感じて、ベルステツは即座に頬を引き締める。
惰弱な姿を見せれば、帝国では侮られる。たとえ周囲がそう思わずとも、自分自身がそう思ってしまえば立ってはいられない。それがヴォラキア帝国流だ。
ベルステツ自身も、まさしくそう在るべきと奉ずるヴォラキアの在り方だ。
「無論、帝都へ挑む以上、何らかの対策はあるものと考えてはいましたが……」
意識を引き締め直し、ベルステツは起こった出来事を真正面から受け止める。
その唇からこぼれたのは、直前の出来事――水晶宮の切り札である魔晶砲、その一撃が空振りに終わらされた事実への考察だ。
魔晶砲の存在は、帝国でも極々一部の人間しか知らない極秘とされている。
しかし、相手に本物の皇帝であるヴィンセント・ヴォラキアがいる以上、魔晶砲の存在の秘匿性はもはや無意味だ。だが、たとえ存在を知っていても、そもそも防ぎようがないというのが魔晶砲の規格外の威力であり、存在価値だった。
故に、帝都決戦は避けるか、魔晶砲が用いられる状況に自分の軍は展開しない、というのがベルステツの推測するヴィンセントの動きだった。
だが、ヴィンセントはこの戦場へ参戦し、ましてや途中から先走った叛徒たちの指揮権を握り、状況を操り始めた。おそらく、それは犠牲にしても構わない戦力を、わざわざ魔晶砲の射線上へ押し出すための苦肉の策だったはず。
ならばいっそと最大効率を求め、ベルステツは魔晶砲の照準を第三頂点へ向けた。
最も叛徒の兵力が集まり、最も味方の被害が少なく済む戦場――そこへ撃たせることもヴィンセントの策だろうが、それでも相手が苦しくなる事実に変わりはない。
献上されたものを平らげ、『九神将』の力で以て敵の策ごと粉砕する。――そう考え、一応は玉座の、もう一人のヴィンセントにも許しを求めた。
そして――、
『互いの奇策が消えれば、あとは純粋な兵力の差だ。――やれ』
ヴィンセントと意見の一致を見て、ベルステツは魔晶砲へと点火した。
狙い違わず、放たれた膨大な破壊力は真っ直ぐに戦場へ飛び込み、その途上にある多くの勇士たちを蒸発させ、彼方へと送り届けるはずだった。
故に、勝敗を決めるのは魔晶砲が叛徒を薙ぎ払い、戦況が仕切り直されたあとの行動だと考えていたが――、
「魔晶砲の被害を、皆無とされますか」
水晶宮に封印された魔晶砲を蘇らせた実績を思えば、あるいはそれを相殺する何らかの手段をヴィンセントが有していても、とは考えが巡らなかった。
伏せ札をギリギリまで伏せておく手腕、まさしくヴィンセントのやり口だ。まんまと搦め捕られた事実を悔やむと同時に、沸き立つものがベルステツの胸中にある。
何よりも、思う。――惜しいと。
「閣下、私奴は心から惜しむのですよ」
強者が尊ばれるヴォラキア帝国の在り方、その頂点にありながら暴力よりも知略で帝国を支配したヴィンセントの姿勢は、退屈と戦慄の合わせ技だ。
大きな戦乱の起こらない政治的手腕、それを評する自分と疎む自分が同時にいる。それでも、ヴィンセントに仕えることに不満はなかった。
ただ皇帝の務めを果たし、ヴォラキア帝国の栄華を守るつもりさえあれば。
「戻ってなんとされますか、閣下……」
玉座に返り咲き、謀反に与したものを全て処刑して、その後の帝国をどうするのか。以前と変わらぬ帝国の在り方を維持し、再び皇帝の務めを放棄するのか。
それを良しと、そうさせるぐらいならば、優れたる皇帝でも玉座に在るべきではない。
「――次の、魔晶砲の用意を」
魔晶砲の弾数は決まっており、ここで使い切ることは許されない。
それでも、状況を変える必要があるならベルステツは自らの全権限を以て行使する。ただし、相手が魔晶砲を打ち消す切り札を二枚持つなら、同じ轍は踏めない。
そこを見抜かないうちは、仕掛けることができないが。
「――! ベルステツ宰相! あれを!」
不意に、ベルステツの傍に控える兵の一人が声を上げた。
兵の視線を辿れば、戦場のはるか後方――おそらく、叛徒たちの本陣が敷かれているだろう地点の空に、魔石の光が放たれるのが見えた。
何らかの合図だ。
それは、白と赤の二色に染まった戦場の空にあってはひどく頼りないものだったが、その合図の訪れを待っているものからすれば十分な効力があった。
「合図……」
糸のように細い目の奥、ベルステツは相手方の思惑を推し量る。
魔晶砲の射撃後、状況を動かすべきと考えていたのはあちらも同じだ。となれば、あの合図は前線にいる兵たちへの指示か。しかし、前線で戦う兵たちに知らせるつもりなら、いささかあの合図は頼りなさすぎる。
故に、知らせる相手は前線の兵たちではなく――、
「――予備戦力」
だが、と同時にベルステツは思案する。
各地から集まった叛徒の大多数がすでに戦場で暴れ、『九神将』の力に打ち砕かれている現状、如何なる戦力が予備戦力として機能するのか。
予備戦力とは、ただ単に出し惜しんだ駒ではない。
戦況を決定的に変えるために投入される、正しい意味での切り札であるべきだ。当然、相応の決定力があるものたちでなければ意味がない。
いったい、どのような戦力が考えられるか。――そう考え、ベルステツは糸のように細い目を見開いて、西の彼方へ向けた。
「まさか」
か細く呟かれたベルステツの視界に、ゆっくりと映り込むのは西の空より来たる影――それは横に大きく展開し、悠然と迫りくる空の覇者たる飛竜の群れだ。
ヴォラキア帝国に多数生息し、しかし、従えるのに門外不出の技術と繰り手の才能を要する飛竜――その翼を最も多く旗下へ加える、帝国有数の打撃力を持った大貴族。
此度の帝都決戦において、自領の抑えのために参じるのを拒んだ上級伯であり、帝国最強の飛竜隊を擁した存在――、
「――セリーナ・ドラクロイ上級伯ですか」
空の彼方より押し寄せる飛竜隊、その中に炎のように赤い帆を張り、たなびかせる竜船を発見し、ベルステツは反乱軍の用意した予備戦力の脅威を理解する。
飛竜を操るという意味では、こちらの陣営にも『九神将』の一人であるマデリン・エッシャルトがいる。竜人たる彼女の前では、全ての飛竜は意のままだ。――ただし、『飛竜繰り』の術により、繰り手と絆を結んだ飛竜以外は。
「だとしても、制空圏の奪い合いが拮抗するのみ。いえ、彼女が『雲龍』を呼び出したのであれば、その前提も変わってくる」
魔晶砲が打ち消された衝撃はありつつも、ベルステツも戦場の把握を怠っていない。
五つの頂点で繰り広げられる壮絶な戦いの中、天地の色さえ変える常軌を逸した戦場が複数あり、その中の一つに強大な龍が舞い降りるのを捉えていた。
竜人であるマデリンは、自らの血族に当たる『龍』を呼び出すことができる。
これまで決して、地上へ呼ぼうとしなかった『雲龍』メゾレイア――それを彼女が呼んだことは、戦況の大きな変化をもたらすだろう。
無論、マデリンがメゾレイアを呼び出した背景には、それだけ彼女が追い込まれた可能性も隣接するため、予断の許される状況ではないが。
「いずれにせよ、飛竜同士の制空圏の奪い合いならば」
物量と質、どちらにおいてもこちらが優位とベルステツは考える。
したたかに叛徒の方へ与したセリーナ・ドラクロイ上級伯、彼女の判断と決断力にはヴォラキアの男として滾るものがあるが、それを過ちだったとするべく――、
「――?」
そう考え、西の方角を睨んでいたベルステツはふと気付いた。
ゆっくりと空の彼方からやってくる飛竜隊、そちらにばかり目を奪われていたが、西に起こった変化はそれだけではなかった。
――西の丘陵、そこによくよく見れば新たに展開する一団の姿があった。
一瞬、ドラクロイ上級伯の戦力かと思われたが、どうやらそうではないらしいとすぐにベルステツは考えを改めた。
その理由は単純で、その一団が掲げている旗だ。
ドラクロイ上級伯の家紋である、頬傷のある飛竜のものでも、ヴォラキア帝国の剣に貫かれた狼の国紋でもなく、全く異なる旗が掲げられている。
描かれているそれが何なのか、ベルステツはわずかに悩み、言った。
「――あれは、星?」
△▼△▼△▼△
「おい、兄弟、どうすんだ!? 完全に出遅れちまってんぞ!?」
「グダグダ騒ぐな、トカゲ野郎……。シュバルツは取り込み中だ……!」
「取り込み中なのは間違いないが、ヒアインの言にも一理ある。我々はどうする。このまま叛徒の列へ加わるのか?」
「うわぁ、あれ見えます、ボス? 右も左もわやくちゃしてて、まさしく天下分け目の大戦の様相! これはどこへ参じるか、胸の高鳴りが止まりませんよ!」
「ええい、うるせぇ!! 今、ものすごい感動シーンやってるとこだよ!?」
わあわあと飛び込んでくる聞き慣れた声の群れ、それらを一喝し、ナツキ・スバルは最近すっかり、ナツキ・シュバルツの方がしっくりくるのに危機感を覚える。
とはいえ、やはりナツキ・シュバルツはあくまで偽名でしかない。自分の本当の名前は『ナツキ・スバル』であるのだと、名前を呼ばれて強くそう思えた。
もっとも――、
「お前のそれ、俺の名前呼んでるって認識でいいんだよな?」
「うあう! うあう、うあう、うあうー!」
「わかった! わかったから鼻水付けるな! ばっちぃ!」
縋り付いてくる金髪の少女――ルイにぐいぐいと顔を押し付けられ、スバルは彼女の涙と鼻水を一身に浴びながらそう応じる。
だが、一思いに振り払えないのは、このルイがやってくれたことの功績が大きすぎることと、溜め込みまくった彼女への負い目が原因だ。
それはもう、ルイに対してスバルはとても償い切れないあれこれをやらかした。
仕方ないことだったと、そう自分に言い訳もできるが。
「それをしたら、お前と向き合う資格がない。だから、ちゃんとするよ」
「うー……」
スバルの背中に取りついて、額を当てながらルイがそう呻く。
それが彼女なりの許しなのか、それとも再会できたことを喜んでくれているのか、ネガティブな感情はなさそうだと受け取り、スバルは吐息する。
ルイには謝るだけじゃなく、言わなきゃならない礼も多い。
その最たるものが――、
「――ベアトリス」
ぎゅっと、抱きしめている少女の名前を呼んで、スバルはそのたっぷりした髪を撫でる。ものすごいボリュームの巻き髪と華やかなドレス、戦場には全く似合わない少女が戦場にいるのは、間違いなく色々な角度からスバルのためだ。
危うく、彼女が消えかねない大変な真似をしでかしたのも、きっと。
だから――、
「――スバル」
と、そうその唇が自分の名前を呼んでくれて、スバルは安堵を噛みしめる。
やはり、自分の名前は『ナツキ・スバル』なのだと、そう改めて――。
「――シュバルツ様、よろしいですか?」
「うわう!」
安堵を噛みしめるスバル、その耳元で不意打ち気味に囁かれ、肩が跳ねる。思わず振り向くと、そこにあったのは見慣れた可愛い顔――タンザだ。
キモノ姿の鹿人の少女は、その感情が見えづらいいつもの無表情で、その場に尻餅をついてベアトリスを抱きしめ、背中にルイをくっつけたスバルを見やり、
「お楽しみの最中、申し訳ございません。ですが、ヒアイン様たちの仰り様も確かかと。あまり悠長にされている時間はないのではないでしょうか」
「悠長って、ちょっと刺々しい言い方……」
「悠長にされている時間はないのではないでしょうか」
「ごめんごめん、悪かったよ! ……タンザの気持ちもわかるよ。たぶん、この戦場のどっかにいるはずだもんな、ヨルナさんも」
冷たく硬い声音で急き立てられ、己の非を認めたスバルがそう理解を示す。すると、タンザはその丸い眉をわずかに下げ、「はい」と小さく呟いた。
成り行きでスバルと同行することになったタンザだが、彼女は元々、魔都カオスフレームの支配者であるヨルナ・ミシグレの従者だった少女だ。
一刻も早く、ヨルナと合流したい欲求を堪えながら、それでもタンザはスバルの旅路に付き合ってくれて、ようやく再会を目前としている。
そんな逸る心境の中、スバルが抜け駆けして再会を堪能していれば、口出ししたくなる気持ちもわかろうというものだ。
しかし――、
「……スバル、何なのかしら、この生意気な鹿娘は」
スバルの腕の中、身をよじったベアトリスがタンザを見上げ、何となく不満げな声でそう言い放った。途端、タンザの視線もベアトリスへと向けられ、
「タンザと申します。成り行き上、シュバルツ様の世話係をしていました」
「ふうん、わかったのよ。もうご苦労だったかしら。ここからはちゃんとスバルはベティーたちで引き取るから、お前はお役御免なのよ」
「引き取る、ですか? そのご様子で? シュバルツ様に抱っこしてもらえなくては、まともに動くこともできないようですが……」
「ベティーを抱っこするのはスバルの生き甲斐だから、これでいいかしら」
「待て待て待て待て、なんでケンカすんの!? 幼女同士、仲良くしようよ!?」
何故か険悪な雰囲気が勃発した二人に挟まれ、スバルは思わず声を裏返らせる。
いつも冷静で、いい意味で可愛げのないタンザらしくもない態度だ。大人げないなんて幼い少女に言うべきでないのはわかっているが。
「タンザもベアトリスも、ケンカするな。味方だ、味方。な?」
「ベアトリス様の方からちょっかいをかけていらしたので。ヨルナ様からも、不用意にこちらを侮り、貶めるものには相応の報いをと言いつけられています」
「そんなハムラビ法典なこと言われてたの? 知らなかった……じゃあ、お前の方からごめんなさいした方が……ベアトリス?」
仲を取り持とうとしたスバルだが、じっとベアトリスの丸い瞳に睨まれる。その特徴的な紋様の浮かんだ瞳に目を奪われながら、スバルは「どしたの?」と首をひねった。
すると、ベアトリスはわなわなと唇を震わせて、
「今、ベティーよりもその娘の名前を先に呼んだのよ。どういうつもりかしら?」
「え? そうだった?」
「そうなのよ! 激おこぷんぷん丸かしら! 事と次第によっては許さないのよ!」
目を怒らせ、胸倉に掴みかかってくるベアトリスの頭を前後に揺さぶられる。思いがけない自分ルールを聞かされ、スバルも目の回る勢いだ。
と、そんな一歩も進まないやり取りに業を煮やして、
「――シュバルツ、本職の忍耐も無限ではない。君は知っているはずだな」
「みゃっ」「うお」
太く重苦しい声が降ってくると、スバルよりも先にベアトリスが悲鳴を上げた。目を丸くしたベアトリス、その視線を辿ってスバルは彼女の驚きに納得する。
そこに立っていたのは、黒い外套から伸びる四本の腕を組み、厳めしい顔でこちらを見下ろしているグスタフ・モレロだったのだ。
剣奴孤島の総督であり、本来ならスバルたちを捕えておくべき立場だった彼は、現在はこうして堂々と島の外を往くスバルたちの協力者――否、同志だ。
彼に限った話ではない。この場に集い、スバルと共にきてくれた大勢の、剣奴孤島だけではなく、この地へくるまでに合流した仲間たち、全員が同志。
「す、スバル、この男は……」
「グスタフさんだ。見た目は怖いけど、根は真面目でおっかない。グスタフさん、背中のはルイで、この子はベアトリス。この子は俺の……」
「……俺の?」
「えーと……あれだ、ほら、あれ」
縮こまるベアトリスの背中を撫でながら、グスタフに説明するスバルが言葉に詰まる。その様子にグスタフとタンザも、ベアトリスも眉を顰める。
その複数の視線に、スバルは気まずげに頭を掻くと、
「……詳しいことは、おいおい話すってことで」
「おいおい」
「待つかしら! スバル、まさか見た目だけじゃなく、頭の中身も……もがもがっ」
適当すぎるスバルの誤魔化しに、グスタフが生真面目に受け止めてくれる。が、余計な核心をベアトリスが突きそうだったので、スバルは彼女の口を塞いだ。
そして、バタバタともがくベアトリスにそっと耳打ちする。
「俺が縮んでること、みんなに話すとややこしいんだ。いったん、内緒で」
「……ベティーのこと、ちゃんと覚えてるのよ?」
「お前を大好きだってことと、これをしなくちゃってことは」
胡乱げなベアトリスの目に、スバルはそう答えてから、ぎゅっと彼女の手を握る。ベアトリスの小さな手を、スバルの小さな手が指を絡めるように。
そうした途端、スバルは一瞬、目が眩むような虚脱感に襲われた。が、それもずっと続くものではなく、最初の一拍が大きめだっただけで。
「お前がいなきゃ、俺は生きていけない。だろ?」
「……なんだか、うまく誤魔化されてる気がするかしら。それに」
「それに?」
「――。これ、スバル、おかしいのよ」
正面から手と手を握り合い、スバルの内からベアトリスへと温もりが流れ込む。感覚的にそれが悪いものではないと、むしろ安心に繋がるものだとスバルはわかる。
ちょっと、微妙に、ベアトリスについての記憶があやふやな部分があるが、細部がぼやけているだけなのと、体が元に戻れば大丈夫という楽観があった。
いずれにせよ、そう前向きに捉えるスバルの傍らで、ベアトリスは形のいい眉を顰め、何やら考え込んでいる様子だった。
「考え事する顔も可愛いけど、おかしいって?」
「……ベティーと離れ離れの間、スバルはマナを排出する手段がなかったかしら。だからマナは溜まる一方で、でも、この量は」
「――?」
確かめるように指に込める力を強くして、ベアトリスの長い睫毛が震える。首を傾げるスバルの前で、彼女の唇が音にならない声をこぼした。
それは確かに、こう呟いていた。――多すぎる、と。
しかし、その真意を確かめるより早く――、
「――あ、兄弟、ヤバい! セシルスの奴が先走った!!」
「ああん!?」
ヒアインの悲鳴みたいな声が上がって、慌てて振り向くスバル。視線の先、ヒアインが指差すのは激しいぶつかり合いの続く戦場、そちらへ砂煙が猛然と続く。
丘陵を駆け下りて、我慢のできない聞かん坊が飛び出していった証拠だ。
「どうする、オレが連れ戻すか……?」
「いや、気持ちは嬉しいけど、ヴァイツでも無理だよ。っていうか、セッシー止めるのは誰がいっても無理。……旗を」
「心得ているぞ、シュバルツ」
遠のく砂煙を忌々しく思いつつも、手綱を握り切れないのはここまでの旅路で十分にわかっていることだと、スバルはその暴走を前向きに捉える。
気を取り直したスバルが次の要請をすると、わかっていると動くのはイドラだ。彼はヴァイツと二人で、その場にゆっくりと旗を掲げる。
そしてその動きに、周囲にいる大勢の同志たちも続いた。
次々と旗が掲げられ、この丘陵にいる一団の結束が固いと、周囲にも見えただろう。
「ルイ、背中から降りてくれ」
「あー、う!」
「もういきなり消えないから、そこは大丈夫。飛ばした原因と和解したんだよ」
スバルが目の前から消えたのがトラウマなのか、離れ難くするルイをそう説得。なおも疑わしげなルイだが、それでも素直にスバルの背中から離れる。
それでも、傍らからどこうとしないあたり、信用はあまりないらしい。
「――。ベティーは離れるつもりはないのよ」
「ああ、お前は一緒にいてくれ。――タンザ、準備いいか?」
「はい。――プレアデス戦団、いつでも出られます」
深々とお辞儀するタンザの背後、居並んだ同志たちが旗を掲げ、武器を掲げ、闘志を掲げる姿を目の当たりに、スバルもほくそ笑んだ。
士気は上々、やる気は満々、目的は目前となれば、あとはぶちかますだけ。
「セッシーも、俺の方針はいちいち伝えなくてもわかってるだろうから、そこはいつもの御愛嬌……じゃあ、仕掛けるぜ、みんな!」
「「「おおおお――っ!!」」」
「――っ」
ビリビリと、スバルの呼びかけに凄まじい応答があり、ベアトリスが息を詰める。
初めて聞いたら驚くこと請け合い。しかし、もはやスバルにとっては耳に馴染んだ、そしてとても大事な戦いの前の儀式だ。
「うあう?」
「スバル、何をするつもりかしら」
その詳細のわからない、合流したてのルイとベアトリスがスバルを見上げる。
彼女らの視線にスバルは片目をつむり、体の奥底から湧き上がってくる昂り、それをしっかりと細い両足に込めながら、一歩、前に出た。
そして、断言する。
「決まってるだろ? ――クソ親父の始めたくだらない戦争を、台無しにしてやるんだ」